今年は丁度100年前に開発した独自の血管吻合法を応用して数々の臓器移植実験を行いアメリカ初のノーベル医学賞受賞に輝いたアレキシス・カレルの没後60年にもあたる. 血管外科の進歩は,切除外科に限られていた外科学を再建外科とも呼ぶべき新しい外科に転換させたが,中でもカレルは近代血管外科に先駆的な貢献を果たしたといえる.
大統領暗殺と血管外科の幕開け 1894年 6 月,フランス第三共和政第四代大統領カルノー(Marie F. S. Carnot)がリヨン博覧会の開会式場でイタリアのアナキストに刀で襲われ,腹部大動脈損傷で救急病院に運ばれたが外科医たちは大血管の縫合は不可能で救命不能と判断した.しかし,皮膚,腸,筋肉と同じに血管も縫えないはずはなく,大血管を縫合すれば大統領の命を救えたものをと主張したのは,リオンの病院でインターン中の若きアレキシス・カレル(Alexis Carrel, 1873-1944)で,この事件が血管縫合法の開発など近代血管外科の創始という彼の生涯を決定する契機となったのである. これより先の1881年に,ウイーン大学のビルロートが世界で初めて胃切除術に成功したが,この頃は心臓や大動脈など安静の保てない臓器の縫合治癒などは論外と考えられていたようだ.当時,ヨーロッパの外科学会を牛耳っていたビルロート(Theodor Billroth, 1829-94)ですら,「心臓や大動脈外傷を縫合しようとする外科医は仲間の敬意を失うであろう」と発言している. カレルは絹織物業都市であったリヨンの刺繍師から裁縫を習い,レース編みの女工さんから運針を教わって縫合糸や針を工夫し,黒い衣服をまとって埃を避けるなど滅菌には特別な注意を払っていたが,これらの準備が実を結ぶのは母国フランスにおいてではなく遠くカナダを経てアメリカのロックフェラー研究所に移ってからであった. 母国を離れ,外科の臨床医ではなく研究者の道を歩むことになったのには,次のような理由が挙げられる.
ルルドの奇跡とフランス脱出 フランス南西部のピレネー山脈北麓に近い小さな町ルルド Lourdes は,1858年聖母マリアが出現した聖地としてバチカンからも認められ,奇跡的な病気治療の霊泉が湧きだし,「ルルドの水」として世界的にも有名な巡礼地になっていた.この霊泉の上にはゴシック風の大聖堂が建てられ,年々世界各地から200万人もの巡礼者が集まり,今でもおびただしい数の病人が運ばれてきて病気の治癒を求めていくが,少なくとも信仰,愛,忍耐,感謝という精神的な恩恵に浴するといわれている. このようにバチカンのローマ法王庁が聖母マリア(マドンナ,ノートル・ダム)の出現を認めたお墨付きの聖地としては,ほかにもポルトガルのファーティマ(Fátima)とメキシコのグアダルーペ(Guadalupe Hidalgo)がある.著者も1993年ポルトガルでの国際学会の折に,リスボン郊外の奇跡の地ファーティマに出かける機会があったが,1917年に聖母マリアが顕現したという丘に建てられた大聖堂には聖歌がこだまして大勢の信者で立錐の余地もなく,両膝,両肘に頭を地につける五体投地の礼で石畳を進む巡礼の人々を目の当たりにして,その信心深さに敬服したものである. 1903年,カレルは貸し切り列車で聖地ルルドに向かう参拝者の団体に付き添い医師として同乗し,重症の結核性腹膜炎で死に瀕していた少女が聖水を浴びた途端に急速に回復して独歩するのを目撃した.この「ルルドの奇跡」の事例をリオンの医学会で発表したことで,医師の仲間からは超自然を信ずる非科学者と軽蔑され,教会からはマリア奇跡を疑うとはけしからんと叱責される結果になってしまった. 結局,上級外科医への道が閉ざされたものと考え,1904年フランスを離れて新大陸での研究生活に向うことを決意したのである.
カレルの三角法とパッチ法 初めはシカゴ大のスチュワート(George N. Stewart, 1860-1930)のもとで研究者となった.スチュワートといえば,指示薬希釈法による心拍出量の測定原理(Stewart-Hamiltonの法則)や血管壁の一部を遮断したまま本流は流す血管鉗子(後にポッツ鉗子と呼ばれた)を考案し,生理学者と同時に実験外科医としても名高かった.ここで,動脈・静脈・腎臓・甲状腺・卵巣の移植実験を行い,その後に新設されたばかりのロックフェラー研究所に移った前後の10年間で今日の外科が行っている血管外科の手法を動物実験のレベルで全て開発したと言っても過言ではない. 中でも,それぞれの吻合端に等間隔で細い支持糸を 3 か所にかけ,向かい合った糸を仮に結んで二つの血管を密着させ,2 本の支持糸を軽く引っ張って,その間の断端接合部を直線にして連続縫合する“カレルの三角吻合法”を開発したことで,太さがマッチ棒より細かろうと縫合できるようになったと語っている.さらに,動脈を吻合するのに距離が足りない時には静脈片を用いて形成し,細い腎静脈を移植する際には予め腎静脈の下大静脈への流入部を鍔状に切除して吻合を容易にするなどの工夫を重ねた. カレルは動脈同士の吻合,動脈と静脈の吻合,断端と血管側面との吻合などあらゆる組み合わせで血管縫合を実施し,この手技を臓器移植に次々と応用していったのである. 1912年,“血管縫合と臓器移植に対して”カレルはアメリカでは初めてのノーベル医学賞を受賞するが,不思議なことに1940年代に至るまで彼の手法はあまり臨床応用はされなかった.この理由としては,この当時は未だヘパリンがなく,抗生剤もなくて術後感染の予防が不十分だったためとか,あるいは X 線血管造影が発達していなかったなどのために吻合後の開存がなかなか得られなかったためだろうと言われているが,本当のところはカレルの論文があまり読まれていなかったからではないかとの見方もある. 1911年,石油王ロックフェラー一世(John D. Rockefeller, 1839-1937)は全ての事業を二世に譲って慈善事業で余生を送ることとして設立したのがロックフェラー財団で,ロックフェラー研究所のほかシカゴ大学を創立し,各国の教育機関にも寄進し,我々も財団から寄贈された医学部の校舎で学んだ思い出がある. カレルのほか野口英世(1876-1928)もロックフェラー研究所の開設とともに入所した一人で程なくスピロヘーターの純培養などに成功し,多数の業績をあげていた.カレルがノーベル賞を受賞した後に何度か選考委員会に野口の業績を推薦したというが,当時はヨーロッパ人の業績が選考の中心でアメリカですらカレルが初めての受賞という時代であり,野口や破傷風菌の純培養に成功し血清療法を発見した北里柴三郎(1852-1931)など東洋人の業績は選考外だったらしいのは残念なことである.
飛行家リンドバーグとの共同研究 第一次世界大戦でカレルはフランス軍軍医として出征し,イギリスの医化学者デイキン (Henry D. Dakin, 1880-1952)とともに創傷治療に有効な殺菌性の傷洗滌液のカレル=デイキン液(次亜塩素酸ナトリウムの 0.5%液)を開発し,戦場での創傷の洗滌処置にカレル療法として広く用いられた. 1927年,郵便飛行士だったリンドバーグ(Charles A. Lindbergh, 1902-74)は単発機“Spirit of St. Louis号”でニューヨーク・パリ間の大西洋横断無着陸飛行を初めて成功させ,2 万5000ドルもの賞金を獲得して一躍世界の英雄となった.その彼が持参金をもってカレル研究室に加わったのである.機械工学出のリンドバーグは,臓器を灌流して細胞を生かすための血液酸素化装置をカレルと共同で考案し,小型ながら人工心肺,人工心臓の 1 号機を試作したのである.このカレル・リンドバーグポンプルを用いた組織培養により,ガラス器に移された細胞群が固体の寿命を超えて生き続けることを明らかにし,現代の生命観に大きな影響を与えたといえる. リンドバーグの回想録『翼よ,あれがパリの灯だ』は,1954年度のピュリツアー賞を受賞し,映画化され話題となった.カレルもその著書『人間-この未知なるもの』(1935年)の中で,ルルドの奇跡にはじまり,細胞と臓器,生と死といった問題を深く解きほぐして人間を総合的に理解することの重要性を説いた. 1938年にリンドバーグとの共著『臓器培養』を出版し,ロックフェラー研究所を辞して生国のパリでビシー臨時政府の援助のもとに人類問題研究所を設立して所長を務め,連合軍のノルマンディ上陸によってパリが開放された1944年に71歳の生涯を閉じた.
カレル以来,ずっと縫合糸を用いた血管吻合法が続いており,最近になって生体接着剤や自動吻合器が各種試されているが,基本的にはこの100年間変わっていないことになる. やはり100年も前にカレルが開発した,腎静脈を下大静脈から鍔状にくりぬいて端側吻合を容易にする僅かな工夫は,最近の大動脈基部置換術の冠状動脈再建にカレル・パッチ法として盛んに用いられ,現存するベンタール(H. Bentall),キャブロール(C. Cabrol)らの開発した大動脈再建方法に引けを取らずに肩を並べているのは頼もしい限りである.
文 献- S. I. ジョンソン:「心臓外科に歴史」(二宮睦雄訳) 中公新書
- J. K. ユイスマン:「ルルドの群集」(田辺保 訳) 図書刊行社
- J. H. コムロー:「心臓をめぐる発見の物語」(諏訪邦夫訳) 中外医学社
- 古川 明:「切手が語る医学の歩み」 医歯薬出版株式会社
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