藤原妹紅が私の家を訪ねて来たのは、ほんの少し端の欠けた月のとても明るい夜のことだった。話したいことがあるとそう言って、夜分遅くにやって来た彼女を私は家に迎え入れたのだが、いざ囲炉裏を挟んで会話の姿勢を整えた途端に、彼女はその口を閉ざしてじっと黙りこんでしまった。少しばかり躊躇いがちに伏せられた目が、炉の燻る火種をぼぅっと見据えている。なにか、訊き辛い質問でも持ってきたのだろうか。普段ならはきはきとした口調で物を言うはずの彼女のそんな様子に、私もまた若干の戸惑いを隠さずにはいられなかった。
「なにか、話があるのではなかったか?」
「……話ってほどでもないさ。ただ、一言伝えたいことがあって」
「なら、話すといい。無下に聞き流したりはしないさ」
少しでも彼女の気が楽になればと、私は努めて穏やかな口調でそう言った。自ら抱えた悩みや疑問を、なんでも一人で解決しようとする節のある彼女が、このように誰かを頼ってくるというのは珍しい。私の憶えている限りでも、このようなことは数年ほど前に妖怪の山について相談を受けた時以来だった。あの時は、山の頂上に住むという不死を司る神、石長姫のことについて彼女に話をした。永遠の命を持つ彼女とは、深い縁のある神様だ。今回もその石長姫の話だろうか。しかし、目前で口を真一文字に結んでいる彼女からは、あの日あの時の彼女と比べると、もっと真剣で、もっと痛切そうな印象を受けた。
「私は、――」
それから数分ほどして、彼女はようやく口を開いてくれたけれども、やはり肝心の部分は出てこない。息苦しそうな表情をして唇を噛んだ彼女を、私はただじっと押し黙ったまま静かに見守っていた。踏ん切りがつかないというのは、誰にでもあることだ。彼女だって、人間なのだから、そういうことがあったっていい。
そう。
藤原妹紅は、人間だ。
だから彼女が次に発した言葉も、人間なら胸に抱いたって当たり前の、ごく自然な疑問であるように私には思えた。
「私はあと、どれくらい生きられるんだろう」
数秒、間を置いてから。
私は張り詰めた空気を割らないように、静かに、こう言った。
「さぁ、どれくらいだろう。私には想像もつかないよ。けれど、私よりは長く生きられる。それだけは確かだ」
「そうだね」
「長い長い時間が経って、私が死んで、私以外にお前を知っている者たちも死んで、遠い未来に、幻想郷が滅んでしまうことがあったとしても、お前は生きているよ」
「……そうだね」
人間はいつか死ぬから人間だ――とは、私は思わない。今まで生きてきた中で、いろんな人間と出逢ってきて、少しずつ考えが変わっていった。空を飛ぶ人間がいた。魔法を扱う人間がいた。時間を止めてしまう人間に、奇跡を起こす人間さえ。彼女たちは皆普通の人間ではなかったけれども、それでもやっぱり、本質的なところは“人間”のまま変わらなかったように思う。
だから、死なない人間がいたって、それはなんらおかしなことではないのだ。人間を人間であらしめているのは、能力でも、寿命でもない。当人の心の持ちよう一つで、人はなんにでもなれる。それこそ人間のいちばん強くて、けれど脆く弱いところなのだと私は思う。
なんにでも、なれる。
世界を救う英雄にだって。
なんにでも、なってしまう。
混沌を招く悪鬼にだって。
「それで、どうして急にそんなことを言い出すんだ」
では彼女は何者なのだろうと考えた時、やはり私は、彼女は“人間”であると思いたかった。英雄でもない、化物でもない、一人の人間の少女に過ぎないのだと、そう信じたかったから、信じた。
だからこそきっと、私にこんな話をしてきたのだと思うから。
どれくらい生きられるだろう、だなんて。
人間じみた言葉を、投げかけてきたのだ。
「……それはね、慧音。怖くなったんだよ」
「怖い? なにが?」
「死ぬのが、怖くなった。たまらなく怖くなったんだ」
「……そうか」
言葉の後には、少しだけ空白の時間があった。妹紅の視線は、また私の眼から逸れてしまった。私もわずかに心が揺れ動いた。この瞬間、これまであんなに親しく接してきたはずの彼女が、どうしてかとても遠いところへ行ってしまったかのように感じられたのだ。
あるいは、これから遠いところに、行こうとしているふうにも。
「死ぬのが怖くない人間なんて、いないさ。お前はこれまで生きてきた中で、一度でも死を恐れなかったことがあるのか? 同時に訪れるだろう痛みや衝撃に、まったく恐怖しなかったのか ? 違うだろう?」
「ああ、……怖かったね。たまらなく、こわかったよ」
「じゃあいまさら、怖くなった、なんて言うことはないんだ。だってお前ははじめから死を恐れていたんだから、怖いに怖いを重ねても、何の意味もないだろう」
「そうかもしれないね。……でもね、慧音、今だけは違うんだ。お前の言っていることはわかるし、実際その通りなんだと思う。怖いに怖いを重ねただけ。でも、それがどうしてか今となっては、胸の潰れそうなくらいに、頭のひび割れてしまいそうなくらいに、苦しいんだよ。慧音、怖いんだよ、私は。死ぬことが怖い。まだ、生きていたい。お前に受けた恩を返していない。輝夜に受けた仇を返していない。やりたいこと、やらなきゃいけないこと、まだまだたくさんあるはずなんだ。これまで生きてきた長い永い時間の中で、今ほど充実していた日々はないよ。こんな時間が永遠に続いていけば良いなって、本気でそう思う。……けれども私は見つけてしまった。気づいてしまったんだ。私がまず真っ先にやらなければならなかったこと、何事も投げ出してさえやり遂げなければならなかったことを、思い出してしまった。だからこそ怖くてこわくてたまらなくなった。こんなにか臆病で、卑怯で、自分の被った罪から眼を逸らし続けてきた私のことを、“あいつ”は、許してくれるのだろうか……」
それからしばらく会話が途絶えた。私に返す言葉はなかった。彼女が紡いできた彼女だけの歴史に、私の介入出来る余地などどこにもない。今、私は傍観者であった。藤原妹紅という女の人生劇を眺めているだけの、つまらない存在であった。
……もちろん、手を差し伸べたくないわけではない。許されるのなら、私はとうにこう叫んでいるだろう。「それは時効だ! 今を生きるお前には何の関係もないことだ!」と。けれども、叶わないのである。出来ないのである。彼女が真剣になって己の歴史と向き合っている傍から、それに横から手を出し、あらぬ修正を加えてしまうことなど、私には。
彼女の歴史である。
私の大好きな人間の、歴史。
それをどうして、私の都合の良いように変えられようか。
「慧音」
それまでの長い沈黙が、やがて彼女の一声によって破られた。俯いていた顔を慌てて持ち上げた時、そこにあった彼女の表情は、それまでの陰鬱としていたものとは違って、赤く焼けた炭のような色を帯びていた。それに代わって彼女のひとみに映り込んだ私の顔は、眉根を八の字に曲げたとても情けのないものをしていた。ほんとうに情けのない、柄にもなく、今にも泣き出してしまいそうな――
「ずいぶん前に……お前に、石長姫のことを教えてもらったな。彼女は不死の神ということで間違いないんだな?」
けれども彼女が次に言った言葉を聞いた瞬間、そんな不安や心配なんてものは、あっと言う間に頭の中から吹き飛ばされて消えてしまった。彼女の台詞の中にあった、その単語は、私の中にある旧い記憶を呼び覚ますのには、あまりにも十分過ぎたのである。
――石長姫。
「……そうだ。不死と、そして不尽を司る神様だ。……しかしどうして今さらそのようなことを訊く。山のことは、あの時にあらかた話し尽くしてしまったぞ」
「いや、ちょっと確認をしたかっただけだよ」
何故……どうして今さら改まって確認を取る必要などあるのだろう。漠然とした不安が胸に湧きだし、私はそのことについて妹紅に訊ねずにはいられなくなった。すると彼女は伏せていた顔を上げて、
「明日、山に登ろうと思う。石長姫に会いに行く」
私の目を真っ直ぐに見て、透き通るような静かな声でそう答えた。
「……会って、どうするというのだ。過去のことを、彼女に詫びるのか?」
「それは……ほんとうのことを言うと、今でもわからない。けど、遅かれ早かれ私は彼女に会わなくちゃいけないんだ。会って、とにかくなにか話をしなくちゃいけない。ずっと、迷っていたけど、ようやく決心がついた」
だから、最後に確認をしておきたかったと、妹紅は付け加えてそういった。けれど私は、それは違うとすぐにわかった。彼女は確認などしたかったわけではない、ただ自分が山に行くということを、誰かに伝えておきたかっただけなのだろう、と。そうして、彼女はその相手に私を選んでくれたのだと。……もちろん、私の自惚れかもしれない。だが私には、自分が彼女の良き理解者であるという自覚と、そして自信があった。永遠の生という彼女の苦しみの全てを解ってやれるわけではない、しかしその苦しみを幾許か和らげてやることぐらいは出来るのではないだろうか。事実彼女は私を通じて里の人間と関わりを持つようになってくれた。それだけのことでも彼女にとっては、――長年、不死人として嫌忌されてきた彼女にとって、それは大きな救いになったのではないか。
彼女の本心はわからない。ただ、彼女がこうして私に話をしにきたという事実は変わらない。その点において私は彼女からある程度の信頼を置かれていると思ってもいいだろう。そうでもなければ、……彼女の人生に深く関わることだ、誰にも何も言わずに、一人で山に向かっていたに違いないのだ。
「そうか。だが山には河童と天狗が検問を設けている、そう簡単にはいかないぞ」
「ああ、だから陸路を行こうと思う。空からだとどうしても目立ってしまうしね」
「あの山を、……八ヶ岳を自力で登るというのか?!」
妖怪の山は、その本来の名前を八ヶ岳といい、さらに幻想郷にある八ヶ岳はとある出来事により咲耶姫に破壊される前の、正真正銘日本一の高さを誇っていた頃のものであると考えられる。単純に標高だけを考えるなら、もしかすると4000mを越えているのかもしれない。そんな山を、死なないというだけで身体能力は見た目相応の少女のものしか持たない彼女が自らの足で登るというのは、はっきり言って自殺行為にも等しい。……彼女は、死なないが。
「またお前は無茶なことをしようとする……天狗たちに話を付ければ、それで済むことではないか」
「そんな回りくどいのは私の性に合わないよ。それに、大きい山なら一度経験済みさ」
そう言って妹紅は自らを皮肉るように笑ってみせた。それから、「あとさ、」と続けて、こんな言葉を付け加えた。
「私が、そうしたいんだよ。始まった時とおんなじやり方で、終わらせたいんだ」
「………」
私を見据える妹紅の目は、いっぺんの揺るぎも無い真っ直ぐな光を宿していて、私には眩しすぎてとても直視してなんかいられなかった。覚悟と、そして決意を固めた人のそれだった。その眼に、迷いや未練の色は僅かながらに残ってはいたけれども、それを包み隠して余りある、決心の火。そんな彼女の目を見た途端に、私は途端に自分自身のことが情けなくて恥ずかしいもののように思えてきてしまった。
あぁ、私は一体何を勘違いしていたんだろう……
彼女は、死ぬのが怖いと、そう言ったのだ。
「そう。ならお前のやりたいようにやればいい。信じるままに行けばいい。きっと後悔はしないだろうさ」
「あぁ、ありがとう、慧音。ほんとうに、ありがとう……」
「どうしてお前が謝るんだ。別に、礼を言われるようなことをした覚えは、ないんだがなぁ」
「そんなわけあるか。私はね、心の底からお前に感謝しているんだよ。何年かけたって、伝わりきらないくらいにさ。お前や、お前を通して知った世界は、ほんとうになにもかも新鮮で、あたたかくて。私のこと、当たり前のように受け入れてくれて……そんな場所で過ごしてきた毎日は、いっとうしあわせだったよ。
今までありがとう、慧音」
――こちらこそ、と言いたいところだけれど。
その台詞は、間違っているよ、妹紅。
そんなふうに、言わないでくれよ。
なあ、妹紅……
「あぁ、これからもよろしく」
翌朝早く妹紅は里を出て行った。一度家に戻り、支度をしてから山に向かうのだという。荷造りを手伝おうか、見送りはいいのかと訊ねたが、しかし彼女は首を横に振って、頑なに遠慮するばかりだった。こうなった彼女はとても頑固で、私が何を言っても意見を曲げようとはしない。しかしこのままでは私の気も収まらない。出発の前、寺子屋の前で二人で押し問答をして、結局里の外れまで見送るということで互いに妥協した。
「輝夜に……会うことはないだろうから、薬屋にでも言伝を頼んでおいてくれ。しばらくおまえとは遊べない、ってな」
「あぁ、わかったよ」
「それから、竹林には里の奴が近付かないようにしてくれよ。火の始末も徹底すること。あとは――」
「なにも心配なんかいらないよ、私がいるんだから、安心して行ってこい」
「……それも、そうだね」
照れたような微笑みを見せて、それから彼女は踵を返して歩きはじめた。別れの味気ないのは、いつものことだ。そんなふうに風のように去っていってしまったかと思えば、またふとした折にひょっこりと顔を出しに来るのが普段の彼女だった。だから、私は背中でさよならを言って去っていく彼女の後姿を見て、ほんの少し安堵した。なにも変わりなかったから、また、今までと同じように、ふらりと戻ってきてくれるのだとそう思った。
やがて彼女の姿が、遠く竹林の合間に隠れて見えなくなった頃、ようやく私は彼女に向けていた視線を逸らし、それをそのまま山の方へと向けていった。堂々と聳え立ち、幻想郷を見下ろす神の山。妹紅が挑もうとしている山。不尽の神の住むといわれる山……
石長姫は、不死を司る神だ。
彼女の神徳を持ってすれば、永遠の呪いに蝕まれた妹紅の体も、あるいは――
「――まさか、な」
考えすぎだ。私は頭の中でそう吐き捨てた。あの妹紅に限ってそんなことをするわけがない。もちろん根拠はなかった。ないけれど、そうに違いない。妹紅はきっと帰ってくる。1300年背負い続けてきたという罪を清算し、その身を潔白にして、私の、私たちのところへ帰ってくる。そしてこれからもまた里の人々と共に、穏やかな時間を共にしていくのだ。そうだ、今度は彼女に教鞭をとらせてみよう。文字通りの生き字引だ、私の知らないたくさんのことを、彼女ならきっと皆に教えてくれる。皆に愛される。彼女なら、しあわせになれる、しあわせにしてくれる。
こんなにも平穏と幸福に満ちた100万と1回目の生を、終わらせる理由がどこにあろう。
これからも続いていくのだ。
いつまでも。
ずっと。
永遠に。
山は今も、不尽の煙を吐き出し続けている。