□さよならスカーレットヘヴン 最終話


 館の様子は一変していた。果ての遠大な廊下に、段数を倍以上に増やした階段。空間は複雑怪奇に拡張と歪みを重ね、かつての迷宮の様相をありありと蘇らせている。まるであいつが生きていた頃にまで遡ったかのよう。時間が逆行しているとでもいうのか……まさか、咲夜の能力はそこまでの領域をカバーしてはいなかったはずだ。だからこれは今一度最初から能力を使って組み直されたもの。あくまでも再現であり複製。失われた日々のレプリカ。なればこそそれは決して、昔とおなじ形にはなりはしない。
 だけれどもそれは同時に私たちがまったく未知の迷路に放りこまれたのも同然だということを意味している。昨日までは考えずとも行けたはずのエントランスや大ホールに、どうやっても辿りつくことができないのだ。どれだけ出口を目指しても、巡るのは似たような場所ばかり。咲夜の足取りはまったく掴めず、焦燥と疲労感ばかりがいたずらに積もって、足取りはみるみるうちに鈍くなっていった。
 その徒労の堆積が、友人にとっては重い枷になる。私の図書館に来るまでにもさんざん館中をさ迷っただろうに、これ以上の強行軍は病み上がりの虚弱な体には堪えること間違いない。ぜいぜいと肩で息をして、小さな胸からは胸膜を突き破らんばかりの拍動さえ伝わってきそうで。その痛ましさに私はもう辛抱ならなくなって、先導していた足を止めてレミィを振り返り、その眼前に大きく立ち塞がった。はっとなって、レミィもまた慌てて足並みを止めようとしたけれども、しかし体幹はそのままぐったりと傾ぎ、糸の切れた人形のようにがくりと崩れ落ちて地に膝をついた。慣性だけで突き動かされてきたのだろう、その両脚はとうの昔に限界を超えていたのだ。
「――はぁ、はっ……」
「レミィ…」
「立ち、止まっちゃ……、だいじょうぶ、まだ、歩ける……追いつけ、「ばかなことを言わないでよ。脚、震えてるじゃないの。もういいからレミィはここで休んでて。咲夜なら私がちゃんと探しておいてあげるから」
 けれども私の言葉に彼女はかぶりを振って、私も行くのだとわがままを言ってきかない。そうは言っても、どうしようもないじゃないか。困憊した脚で体を支えられる? ぼろぼろの翼で空を切れる? 今のレミィの体力なんて、見た目相応の子どもとおなじくらいしかないんだぞ。誰かを、なにかを背負うにはあまりにも弱すぎる。ほんのわずかの重圧にだって、潰れてしまう。
 なのにレミィの意志の硬いことといったら、もはや強情としか言いようがない。ああ、それもひたむきな想いあってのことだっていうのか。ほんとうにいい主人に恵まれたのね、咲夜。こんなに従者思いの主なんて、世界中のどこを探したって見つからないわ。だってね、だって、レミィったらあなたのためにこんなことまで言い出すのよ。こんな悲しいことをさもしあわせそうに、使命感たっぷりに、口にしてみせる。
「それじゃ、意味がないんだよ……」
「なによそれ、私にはあなたの言ってることの意味がわからないわ」
「私は咲夜に会わなくちゃだめなんだ……。咲夜のそばに、いないとだめなんだよ。だってそうしていないと咲夜の望みが叶えられない。咲夜の帰ってきた意味がなくなってしまう。そんなの、許されないんだよ。私はあいつの主として、最後まであいつの願いを聞き入れてやらなきゃいけないんだよ」
 望み? 願い? レミィ、あなたいったいなにを考えているの? 咲夜の帰ってきた理由なんて、今さら思い返すまでもない、人間の器を捨ててまで図々しく生にしがみついた、それだけのことでしょう? だったらあいつの望みなんてひとつに決まっているじゃないか。ずっとレミィに仕えていたいのだ。全霊を賭して、憑き回したいんだ。地の果て、世の末に至るまで、永遠に。
 ようするにつまり――咲夜は主人のことを、狂おしいほどに思いつめていて。その感情の果てに見える答えは、考えれば考えるほどに明快で、一途で、愚直。
 だからこそ私の胸はまた、血潮より熱く赤く灼けるのだ。
 深く紅く、妬けるのだ。
「咲夜は、私を殺しにきたんだ」
 レミィの声に曲がったところはひとつもなかった。まっすぐで、芯の通った力強さがある。従者を失ってすぐの、あの精神薄弱な彼女からは想像もつかないほどの声音に、私は閉口するほかなかった。
 ……一カ月。
 私がレミィをあの死地から連れ帰ってから、一カ月。その間に私が注いできた献身や努力は、レミィに良くなってほしいという願いは、なるほどこれからまったくの無駄に終わらせられるわけだ。咲夜が帰ってきて、居場所が奪われるぐらいならまだ感情を押し殺すことができたかもしれない。けれども、こんなことってないだろう。どんな形でも生き延びてほしいと願ったひとが、こんなにも満ち足りた顔で死を受け入れようとしているだなんて、理解ができないよ。……どうしてなのよ、レミィ……どうしてそこまで尽くせるの? 人間だからいいの? 従者だからいいの? 友人のために生きる、そんな選択肢は、あなたの中には一寸だって存在してはいなかったの?
 ああ、また……
 たいせつに想っていたはずのひとの眼に、私の姿が、映っていない……
「私はあいつの主として、その願いを受け入れてやりたい。それが咲夜のやり残したことだっていうんなら、最期までやり遂げさせてあげたい。だから私は咲夜の傍にいないとだめなんだよ。じゃないと、咲夜の腕が私に届かないだろう? あの白い手が私の首をやさしく締めてくれる、それはきっと、とても、とてもしあわせなことだと思うんだ」
「……エゴよ。自分勝手の極みだわ。そんなことをして、いったい誰が喜ぶっていうの」
「これで、咲夜が浮かばれる」
「ッ――! あいつがあなたに面と向かってそう言ったとでも?! お嬢さまあなたを道連れにきました、って、はっきり口にでもしたのかしら!」
「そんなこといちいち言葉にする必要もないよ。眼を見れば、いやそこにいてくれるだけで、咲夜の言いたいことはなんでもわかるんだ」
 それはすでに純真を通り越して盲目だ。恋に、盲目なのだ。一緒にいるだけでなにもかも理解できるだなんて、たとえさとりの眼を持っていたって、そんな境地に至れるはずがない。主人と従者のつながりがなんだっていうんだ。運命の糸は、お互いの心さえもがんじがらめに結んでひとつにしてしまうのか。だったらそんなもの、断ち切ってしまいなさいよ。縛られるだなんてばかみたい、ましてそれを幸福なことのように感じるだなんて、愚かしい。あなたの心でしょう、あなたが支配できなくて、どうするのよ……
「だから、なぁ、パチェ。私を咲夜のところに連れて行ってほしい。お願いだ。それでなにもかもが終わると思うんだ。私の見続けてきた悪夢にも、答えがきっと見つかってくれる」
「……ゆめ?」
「そうだよ、私、夢をみるんだ。ずうっと、見続けているんだ。夏の日の、白昼夢だ。私はシャベルを持って裏庭を一生懸命掘って、そこにあるなにかを掘り返そうと躍起になっていた。なにが埋まっているのかは知らない。掘れば必ず見つかるっていう保証もない。けれど私は一心不乱に地面に剣先を突き立てて、そこにある真実に至ろうとしていた。私が今まで、ずうっと視線を背けつづけてきた、現実にだ。
 けれどもどれだけ掘り返しても、剣先のなにかに弾かれる感触はちっとも伝わってこないんだ。なんども、なんども、突き立てたってわからない。そのうち私は作業をする手を止めた。そしてこう考えた。もしかすると、まだここにはどんな真実も埋まっていないんじゃないか、って。私は埋めた気になっているんじゃないだろうか、弔ったつもりでいるんじゃないだろうか。咲夜を、葬った。たしかに葬ったはず。けれど本人はどうだろう。あんな弔い方で、満足してくれたのだろうか……うぅん、きっと不十分だったに違いない。咲夜は我慢強いからな、きっと最期の瞬間になっても、自分の気持ちをぜんぶ吐き出してはいなかったんだ。それを汲み取ってやれなかっただなんて、私は最低な主人だな。けど、名誉を挽回するのは、今からでも遅くはないだろう? ちょっと遅くなってしまったけれど、こんな、ぼろぼろだけれど、……こんな私でも咲夜のための餞別になれるのなら、それはいっとうの弔いになると思う。ほんとうに、素敵なことだと思うんだ」
 話せば話すほどに、理解と説得を試みるほどに、溝の深さばかりが露わになって、その深さに絶望する。レミィの執心はついに私の想像を絶した。まごうことなき、狂気だ。それが愛ゆえに成した決意だというのなら――滅んでしまえ、そんなもの!! 献身? 自己犠牲? どうしてあなたがそんなことに身をやつさなければならないの?! あなたは奪う側の存在でしょう! 悪魔でしょう! もっと強欲になって! 乱暴に振舞って! 傲慢な態度でいて! それこそが吸血鬼なのに! その姿こそ、レミリア・スカーレットなのに!!
 なのに、今のあなた、
 人間みたいよ……

 人間って、そんなに素敵かしら。
 卑怯じゃない。
 臆病じゃない。
 弱いじゃない。
 すぐ、死んだじゃない。

 だけれども、恋をしてしまったのだ。仕方がないじゃないか。恋ってそういうものだから。理屈じゃないんだ。姿形や性別や、思想の違いや生まれの貴賎も、恋の炎はなにもかもを焼き尽くす。スカーレットは恋をしたのだ。姿形や性別や、思想の違いや生まれの貴賎、そういったもののなにもかもを焼き尽くすほどの、恋をした。ひとの眼には、それが気狂いのようにしか映らなくとも、彼女にとってそれはたしかに全世界の中心たる炎で、太陽だった。

 太陽だから、
 焼かれれば、その身は灰になるけれども、
 恋だから、
 それはとても、しあわせな痛みなのだろう。

「たのむよ……私を咲夜のところに、連れて行ってよお……」
 まるでイカロスだと思った。自ら太陽に近づいたばかりに、その翼を焼かれてしまう、哀れな話。そんなに堕ちたいの? そんなに太陽が恋しいの? 私にはわからないよ、レミィ。あなたの気持ちがわからない。ああ、私も盲目だわ。あなたの姿が見えない。声ばかりが、遠いところから幾重にも反響して伝わってくる。会いたいだの、触れたいだの、抱きしめられたいだの、そんな甘ったるい言葉が鼓膜をゆする。まったく、視覚の次は聴覚までおかしくなってしまったのかしら。その言葉、私にはこんなふうに聞こえるわ。死にたいだの、殺されたいだの、もう嫌だだの、ってね。
 だから、
 そんなにか、この現実が認められないのなら――!


「じゃあ、いっそここで私に殺されていけば?」


 声は、とても冷たく、抑揚もなく。
 心底つまらないと、そんな想いを孕んでいるようで。
 私はそっとレミィの顔色を見やった。つい先ほどまで懇願の色を貼りつけていた表情は、瞬く間に崩れ落ちて険しいものへと変わっていった。視線は私の方をまっすぐに捉えていた。私の、背後を。暗がりにぼんやりと浮かび上がる、場違いなほどに鮮やかな虹の色に、視覚のすべてを奪われていた。
 フランドール・スカーレット。
 太陽を知らずに育ってきた、もう一人の、吸血鬼。
「グッドナイト、丑三つ時に殺人鬼がお姉さまを殺しに来たわ」
「フラン……いったいどうしてここに、「それは私の台詞だよ。病人は病人らしく部屋に引きこもって寝ていればいいのに、どうしてお姉さまはこんなところにいるのかしら。こんな夜に、どこへ行こうっていうのかしら」
 フランドールはゆっくりと歩み出しながらそんな言葉を姉に投げかける。対するレミィはすっかり萎縮して、声にならない声を口の端から零すばかりだった。そんな態度がフランドールにはよほど気に入らないらしい。私とレミィとの間で立ち止まると、突き刺すような視線でレミィを見下してみせた。
「無様ね」
「……っ」
「寛解したものだとばかり思っていたのだけれど、むしろ逆ね、ここまで脳神経を冒されているだなんて思いもよらなかった。ああ、お姉さま、脳がないのだったかしら。能もないみたいだし、じゃあその頭の中にはなにが詰まっているの? 膿? それとも悩? いっぺんその頭蓋骨開けて見てみましょうか。悩ましいことがあるのなら、頭痛の種を取り除いてあげましょう。こういうのって、ロボトミー、っていうのよね」
 楽しそうな口ぶり、とは到底思えない。一言一言にこめられた想いは、間違いなく哀憫のそれにほかならなかった。彼女の目に、姉の姿はどう映っているのだろう。破壊の目は、その姿にどれほどの脆さを見出したのだろう。きっと瓦礫も同然なほどにひび割れた歪な形が浮かび上がって、堪らないにちがいない。ほんの少しでも触れれば壊れてしまう。彼女にはそんなことわかりきっているから、だからこそその右手は掴んだ“目”をどうしても握り潰せなくて、痙攣を起こしたように戦慄いていた。
「……ずうっと、この日が来るのを待っていたのかもしれない。お姉さまをこの手で握り潰すその日を、待ち望んでいた。私の大好きなお姉さまを、この右手で。ぎゅうっと握り締めて、もう離してなんかやらない。そんなことを毎日のように夢に見ていた」
「そう……だったら、」
「でも、今のお姉さまをそうしたいとは思わない。思えない。だってこの手が汚れてしまうじゃない。泥沼の底で溺れているお姉さまに手を差し伸べるほど、私はお人好しではないの。それも自ら飛び込んで行ったっていうんならなおさらよ。私ならそんな間抜けのことは容赦なく切り捨てるわ。私は、やさしくなんて、ないの」
 七色の羽のしな垂れる、その仕草は私になにか言葉を投げかけたかのようにも見えた。泥沼に手を突っ込むお人好し、か。いったい誰のことなんだろうなあ。手を差し伸べたつもりが、自分まで落っこちて、もがき苦しんで。光が見えない、前後左右も天も地も見失った。ああ、このまま私も一緒に溺れてしまうのだろう……そんなふうに諦めかけた時、ふとこの目に飛び込んでくる色があった。まるで極光のような虹色の閃き。歪み、揺らめき、その全様はまるで掴めはしないけれども、その中心の一直線に通ったところといったら、どんな嵐が吹き荒れようが、決して曲がることはないだろう。
 つまるところ、彼女もまた、
 狂おしいほどに、恋しいのだ。
「私、お姉さまが好きよ。たったひとりの家族だもの、愛せないわけがないじゃない。だからお姉さまを失うことはとてもこわい。想像しただけでも、胸が張り裂けそうになるわ。けれどね、やっぱり姉妹だからかしら、好きな人が、想いを遂げられないまま終わってしまうのは、どうしても黙って見てはいられないの」
 その右手がにわかに閃き、彼女の両翼はそのシグナルをすべて血液で満たしたかのような紅色に塗りかえた。魔力の凝集と圧縮。存在概念を強引に手繰り寄せ、力任せに、破砕する。彼女はやさしくなんてない。手加減もしない。
 そして、
「そこまで覚悟があるのなら、藁をも掴みたいっていうんなら、いいわ、その願い私が叶えてあげる。お姉さまのその運命、ここでばらっばらにしてあげる!!」
 そしてなによりも、私のように、迷わない。
 救ってもいいかどうかだなんて、そんな面倒くさいことに脚を捕らわれたりなんてしなくて。
 救いたければ救えばいい。
 殺したければ殺せばいい。
 ただそれだけのことだった。

「お姉さま、月はお好き?」
「……ああ、大好きだ」
「そう、それならよかった。
 私もちょうど、そんな気分だった」

 そのとても慈愛に満ちた一言と共に、破壊を司る右手は高く翳されて、
 “その先”にあるものを、真っ直ぐに撃ち貫いた。

 

 

 ごお、ぉン――――!!

 

 

 爆音はもはや鼓膜で処理しきれる域を超え、衝撃波となって我が身を強く打ちつけた。ずん、と体の沈みこむ激しい重圧がのしかかる。頭上から押し寄せる圧力に、体幹の軋むいやな音がした。
 ――……真上?
 たまらず地べたに這いつくばって、耳鳴りの治まるのを待った。状況がなにも飲み込めない。そっと見開いた目蓋の先は塵灰が一面を覆い尽くしていて、視界はほとんどないに等しい。だが、その情報がすでにおかしかった。どうして肉片ではなく瓦礫が散っているのか。血飛沫ではなく砂埃が振りかかるのか。レミィ……そう、レミィはいったいどうなったのだろう。存在の目を潰されて、もうなにもかも、消し飛んで――


「ぁ……」


 けれどもその想像は呆気なく否定された。耳鳴りの止んだ鼓膜を唐突に震わせた間の抜けた声が、とても聞き覚えのあるものだったからだ。それと同時に一陣の風が吹き抜けて、砂煙の暗幕が吹き払われていった。屋内なのにどうして風が通るのだろう。その答えは至極単純なものだった。なんてことはない、隙間風だったのだ。天井に口を開けた大きな大きな穴から、夜風と月の光が注いで、宝石の羽をひらひらと煌めかせていた。
 月光のスポットライトの中心には、彼女がいた。その翳した右手の上には真円。紅魔館の屋根を、歪められた空間をなにもかも消し飛ばし、十六夜の月に向けて、一条の道が延びていた。
「フラン……」
「ばかね、お姉さま。這いつくばって地面を探したって、月が見つかるわけがないじゃない。上を向いて歩こうよ。今晩の月は、あんなに綺麗だわ」
 それはまるで井戸の底から見上げたかのような光景。切り取られた空に浮かぶ月は欠けているのに、どうしてかひとつの完成されたもののように見えて、美しい。
 完全に瀟洒な、十六夜の月。
 偽りではない、ほんものの月。
「――行きましょう、レミィ」
 ここまでお膳立てされてしまったのなら、もう、連れて行かないわけにはいかないじゃないか。お人好しだよ、わたしは。自分でもつくづくそう思うさ。でも、そうすることでしか私はきっと納得ができないんだ。もう、私の知らないどこかで、私の見ていないところで傷つかれるのはごめんだ。
 私は、無力だけれど。
 もう目を背けることだけは、したくないんだ。
「パチェ……でも、私はっ、」
「咲夜に会いたいんじゃなかったの? 会って、言いたいことがあるんじゃなかったの?」
 私の言葉に、レミィはしばらくの間顔を伏せて沈黙した。現実をひとつひとつ噛み締めては、呑みこんでいく。彼女自身、まだこの状況の全てを理解しているわけではないのだろう。きっと咲夜と向き合って、どんな言葉を伝えるかもしっかりとは考えていなかったはずだ。衝動を想いに、想いを言葉に。ひとつでも伝え損ねることのないように。ひとつでも多く、伝えられるように。
 やがてレミィが顔を上げたとき、そこにある表情はもうはっきりとしたものになっていた。
 決死のそれだった。
 そんな顔を見ても、もう私の心に動揺の色は現れない。
 あなたがそんなにか決意を確かにしたのなら、自分のことしか考えないのなら、
 私もまた、自分に素直になりましょう。
 私の恋に、必死になりましょう。

 

 

 

 

 

 私たちは月を目指す

 殺されるために
 殺すために

 愛されるために
 愛するために

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ああ、
 またひとりぼっちだな。
 あいつらは、空の上。
 私は、地の底。

 私はなんてやさしいんだろうなあ。
 なんてお人好しなんだろうなあ。

 

 ――これでよかったのだろうか。
 あの時は、薄暗い地下から、ただ呆然と見上げているだけだった。
 一生懸命に生きるあの人たちを、格好わるいものだとさえ思っていた。
 なにもしなかった。
 なにもできなかった。

 ――今度こそは、できたのだろうか。
 壊すことしか能のない私のこの手は、誰かの救いにはなっただろうか。
 なにかをしたかった。
 もう見ているだけはいやだった。
 私も、恋をしてみたかった。

 

 私はなんてずるいんだろうなあ。
 なんて卑怯者なんだろうなあ。

 でも、さ。
 今日の月は、いっとう綺麗で。
 お姉さま、喜んでくれたかな。
 誉めてくれるかな。
 帰ってきたら、頭を撫でてもらおう。
 えへへ。

 気分がいいから、歌を唄おう。
 こんな夜に、
 こんな私に、
 お似合いの歌を。

 

 

 上を向いて歩こう
 涙が こぼれないように
 ららららら らららら

 ひとりぼっちの 夜♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▽


 空は広く、天は高い。それは誰の手が加わったわけでもないあるがままの天空で、アンドロメダもカシオペヤも、それに連なる幾千もの星々が無窮の光を振りまいて、天蓋を眩く飾っていた。それに付け足すこと、あの十六夜月の大きいことといったら、まるで自分が太陽の代わりだとでも主張しているかのようで、ひどく傲慢なもののようにさえ思えてくる。この空は私のものだ、なんて。よく言うよ。お前は所詮、満月の威を借りた狐だっていうのにさ。
 だからこそ、だろうか。
 その名を冠する彼女の小ささが、否応にも目立ってしまうのは。
 比べれば比べるほどに矮小で。完全にも瀟洒にも程遠くて。主を捨てて逃げ出したその風体のどこにも、かつての面影は見られない。
 それは十六夜咲夜の成れの果て。
 黄泉路を引き返してまで主人の下に舞い戻ったはずの従者の、末路。
 私は、
 私はこんなやつに、負けたのだろうか。
 秋の夜風はさつさつと。煤だらけの肌を撫でては、そこにひんやりとしたものを残して、またどこかへと去っていく。その冷気が自身の血潮の熱さをいっそう際立たせるかのようで、レミィに肩を貸してさえいなければ、私は灼熱に耐えかねて銀玉のように飛び出していたに違いない。時計塔の文字盤の下で、膝を抱えてうずくまるあの小さな体に、張り手のひとつでも食らわせてやらなければ、この煮えたぎった体液の温度は収まるところを知らなかった。
 少しずつ距離を詰めていく。咲夜は気づいているのだろうか。あれほどの轟音が上がったのだ、気づいていないとは言わせない。一歩、二歩。いくらか歩み寄ったところで、ふとレミィが私の肩から腕を放して、自分ひとりの脚で歩きはじめた。立っていることさえ限界の脚を引きずって、今にも転びそうな格好で、それでも、しっかりと前を向いて。そんな彼女の背中を追いかけることはもはや無粋としか言えないだろう。私は足並みを止め、先ほどまで直に触れていた友人の温度と自分の体温とを比べた。おなじ恋の炎でも、こんなにか違うものなのか。
 片や静かに蒼く、
 片や激しく紅く。
 やがて咲夜との距離を5メートルと置いたところでレミィの歩みが止まる。
 夜風がにわかにざわついた。
 世界が息を呑んだ。


「咲夜」


 甘えるふうでもなく、咎めるふうでもなく。ただその存在を確かめるように。あるいは自分に言い聞かせるように。
 さくや。
 ここにいるひとの名前は、十六夜咲夜。
 あの夏の日、喪われたひと。
 スカーレットが恋したひと。
 

「お嬢さまなら、」


 その口から呟かれた声はやはり、あの頃のものと変わりない。上質の鈴を鳴らしたような、凛と透き通った音がする。
 あの二人が会話に華を咲かせると、もうそれだけでひとつの音楽が鳴り響いているようにさえ、思えた。
「お嬢さまなら絶対に私のことを見つけるだろうって、思いました。だからこそ絶対に絶対に見つからないように、少なくとも今晩の間は、出会うことのないように頑張ったつもりだったんですけど……もう、いったいあの穴どうするおつもりですか。誰が後片付けをすると思っているんです」
「もちろん、お前だろう。咲夜はなんでもできるからな、屋敷の修繕ぐらい、朝飯前だ。違うか?」
「それは買いかぶりすぎですよ。私にだってできないことはたくさんあります。自分の不器用さに、嫌気がさします」
「そんなこと、」
「だって、そんな表情をするお嬢さまを前にして、気の利いた台詞のひとつも言えません。なんて言葉をかけたらいいかわからない。そんな顔をするお嬢さまは、はじめて見たものですから」
 そう言いながら繕ってみせた表情はほんとうに困ったような笑顔で。事態にどう対応していいか、レミィにどう接すればいいのか、わかりかねているふうで。そんな優柔不断な態度に、私が嫌悪感を強めるのはすぐさまだった。レミィがどれほどの想いでお前の下に来たのか、理解しているの、咲夜……!
「そんなに、変な顔してるかな……」
「っ、そんなつもりじゃ! その……私は、」
「うん、わかってる。ぜんぶ私のためを思ってのことなんだろう。気にかけたりなんてしない。私はお前を信じているから。……ただ、今日みたいなことは、もう止めにしてほしい。急にいなくなるだなんて、心臓に悪いじゃないか。はは、館中を迷路みたいにしちゃってさ、その、なんていうか、……避けられたみたいで、怖いじゃないか……」
 咲夜は、
 なにも言わない。
 抱えた膝に顔をうずめて、なにかに怯えるように肩を戦慄かせている。
 困惑と混乱がレミィの胸中を支配してゆくのが、この眼にもはっきりと見えるようで。
 咲夜、あなた……いったいなにを考えて、
「なぁ、咲夜、なにか応えてよ」
「………」
「やだよ、不安にさせないでよ……ふざけるのはやめてくれ! 避けてなんかいないだろう? 私に会うために帰ってきてくれたんだろう?! 咲夜! なんとか言って、「どうして」
 レミィが途中まで吐き出しかけた言葉は、しかし飲み込まざるを得なかった。それまで蹲っていた咲夜の身体がにわかに起き上がり、時計塔の文字盤を背に立ち尽くすと、かすれた声でただ一言が呟かれた。それだけのことが、レミィを凍りつかせるには十分過ぎた。
 予想はしていた。
 だが、想像はつかなかった。
 あの咲夜が、彼女を拒絶するなどと。
「どうして、追ってきたんですか……どうしてっ!」
「ぅ、あ……」
「どうして私の気持ちを察してはくれないのですか。なにもかもあなたの思い通りにならなければ気が済みませんか。私はお嬢さまの傀儡ですか。主人と従者というのは、そういう関係のことを指すのですか」
「違うっ! わかろうとしたとも! 理解したくて、たまらなくて、ずっとずうっと悩んで考えてっ……だからお前は、私を、」
「私が、お嬢さまを?」
「……ぅ、うぅ……」
 責めるふうではない、詰っているわけでもない。ただ整然と問いただす。その想いは正しいのかと、少なくとも彼女にとって、揺らぎない信念と言えるのかと。だけれども、それはずいぶん卑怯じゃない、咲夜? 少なくともそんな説教を口にする資格が彼女にあるとは思えない。私は、いやレミィもいまだ、知らないのだから。咲夜がここにいる理由も、またいなくなろうとした理由も、なにも知らない。
 だったら、なにを想像しようと勝手じゃないか。お前が教えてくれないのだもの、仕方がないじゃないか……それを違っているというのはさ、やっぱり卑怯なことなんだよ。狡賢くて、最悪なやり方だ。
 それでもお前が、自分の正当性を主張すると言うのなら。
 咲夜。
 お前は、どうしてレミィから逃げるのだ。


「だったら――あなたは理解しようとしたの?」


 この胸の内のどす黒いものが溢れ出さないよう、努めて冷静を装った声音で私はそう言った。けれども咲夜から返ってくる反応はない。聞こえていないのか? それならそれでもかまいやしないさ、お前のその鈍い耳が破けるまで、なんどでもなんどでも繰り返してやる。
「あなたがレミィに理解を求める以上、あなたもまたレミィのことをわかっているのよね? レミィの気持ちのなにもかもを知った、その上でそんな戯言を吐いているって、そういうふうに認識しても良いのよね?」
「……それ、は……」
 自分の両脚に言うことを聞かせるのがこんなにも難しいだなんて思わなかった。意識して地面を踏み締めていなければ、今すぐにだってしゃにむに飛び出していくかもわからない。まだ訊きたいことがたくさん残っているのに、こんなに早くに消し炭にしてしまっては元も子もない。もう少しだけ我慢をしなくちゃ、私。感情を押し殺すのは得意だったはずでしょう? 自分の気持ちを誤魔化すことには手馴れているでしょう? あの時と一緒よ。無感情に無感動に無表情に無意識に、自分を殺すのだ。
 だけれども、ああ……
 やっぱり悔しいよ。
 どうして、あんなやつに奪われなければならなかったんだろう。
 レミィのそばをすれ違う折、ふと眼に飛びこんだ横顔に浮かんだものを見て、私は、とうとう思いの丈を閉じこめてなどいられなくなった。
「知ったふうな口を利くなよ人間……妖怪を、ばかにしないでよ……お前ごときに、レミィのなにがわかる!?」
「っ、パチェ……?」
 傍らのレミィの不安げな声も、もうどんな抑制にもなりはしない。そろそろ、胸に溜めこんできたものを吐き出しちゃってもいいのかな……我慢しなくてもいいのかな。いいよね。私は存分に頑張ったんだ。自分に素直になるって決めたんだ。誰のためでもない、私自身の恋路のために。阻むものは押しのけよう。否定するものは打ち倒そう。叶わないだの報われないだの、そんな外野の言葉に惑わされることはもうない。誰に遠慮する必要も、まして想い人に引け目を感じることなんてなかったんだ。自分勝手でわがままな彼女には、やっぱり回りくどいやり方なんてわかるはずもなくて。もっと自分に自信を持てばよかったのかな。「私がいるじゃない」って、声に出せばよかったかな。気づいてくれるのを待つだけなんて、やっぱり私は根暗が過ぎたんだ。黙っていてもなにも伝わるものか。親友だろうが、主従だろうが、わかり合えるはずがない。私たちには少しばかり言葉が足りなかった。そのせいで、ずいぶんと回り道をしてしまった気がする。
 だけれども、もう、辿りたかった道はすぐそこに。

 私は私。
 パチュリー・ノーレッジ。
 スカーレットに恋をした。


 お前なんかに、負けたくないのよ――!!


「ねぇ、咲夜。あなたを失ってしまった後のレミィが、いったいどれだけ辛くて、痛くて、悲しい想いをしたのか、あなた知ってる?」
「………」
「レミィはあなたを……心から、愛していた。だからあなたを亡くしてしまったという事実が、どうしても受け入れられなかった。……いつかはそうなる運命だって、心の中ではわかっていたのでしょうけれど、でも、だめだった。死ぬには早すぎたのよ、あなた。レミィが失う覚悟を決める前に、勝手に逝ってしまうなんて。……それからのレミィはひどい有り様だった。目に映るものも映らないものも、周りの世界のすべてなにもかもを憎んだ。自分の思い通りにならなかった運命を、理不尽なものだと言って呪い尽くした。そして彼女は最悪の行動に出てしまった。行き場をなくした感情を、あらゆるものにぶつけはじめたの。はじめは部屋の調度品に、その次に廊下の壁に。そうやって開いた大穴から今度は外に飛び出して、森を焼いて、湖の形を変えて、山を崩して、月を穿って。それでも、それでも、どうしても胸の痛みはおさまらなかった。きっと、自分を見失ってしまっていたのでしょうね。自分がなにをしているのか、したかったのか、なにもかもわからなくなってしまったんだと思う。だからレミィは、“やってはいけないこと”をやめることが、できなかった」
 もうやめて、と、そう呟いたのはレミィだった。唇の端ぎゅうっと噛みしめ、表情を歪ませて私の顔をじっと見つめている。けれども、そんな顔を向けられたって、一度回り出した口はもう止められそうにない。言葉が後から後から湧いてきて、濁流となって溢れていくのを抑えることはできなかった。
「……我を忘れて暴力の限りを尽くしたその夜、レミィはとうとう、人間をひとり、殺してしまった。なんの罪もない人だった。何気なく夜道を散策していたら、偶然、レミィと目を合わせてしまっただけだった。……これがもし普通の妖怪だったなら、こんなことは別に大した事件にはならなかったでしょうね。夜に無用心に出歩いていた人間の方が悪い、そんなふうに結論付けられて、終わっていた事件だったかもしれない。でも、レミィは、レミィだけは許されなかった。約束があったから。どんなことがあっても破ってはならない、契約があったから。けれどもレミィはそれを守らなかった。守れなかった。……彼の体を引き裂いた途端、すぐに博麗が飛んできて、そうしてそのまま、レミィは、」
「――もういいだろう、パチェ!」
 とうとう我慢がならなくなったのか、レミィは怒声をあげながら私に迫ってきた。両の肩を掴んだ手に、ぎりぎりと力が込められる。それでもまだ握り潰してこないのは、レミィにとって私が“友人”でいるからなのだろう。ああ、そうだとも、私とレミィは友人だ。私は、そのかけがえのない友人のために、こうして声を張り上げているのだ!
「傷ついたのよ、レミィは……心も、体も、ぼろぼろにされた! 私、レミィまで死んでしまうんじゃないかって思って、怖くて、たまらなくなって……ねぇ、レミィ、あなた覚えてる? 瀕死のあなたを館まで連れて帰ってきたのは、咲夜じゃない、私よ。あなたを失いたくなかったから……たった一人の友人を失いたくなかったから、だから必死になってあなたを看病した。あなたのことを、誰よりも考えていたつもりだった、今までも、そしてこれからも。……なのに、咲夜、あなたはどうして、今さら……一番レミィを傷つけたあなたが、どうして今さら私たちの前に現われたりするのよ!?」
 その時不意に体が傾いで、バランスを崩してそのまま地べたの上にしりもちを付いてしまった。はっとなって見上げた先には、翼を戦慄かせながら息を荒げるレミィの姿があった。
 レミィに突き飛ばされたのだ、思いきり。
 私に対する、明確な拒絶の表われだった。
 どうして……わかってくれないの、レミィ……
「パチェ、それ以上咲夜のことを悪く言うのは、許さない」
「許さない……? それはこっちの台詞だわ。私こそ咲夜を許さない。咲夜の死がレミィを傷つけたことは確かに不可抗力よ、どうしようもないことだもの、それをとやかく言うつもりはないわ。けれどね、どういうわけか咲夜がまたこうして私たちの前にいること、紅魔館に戻ってきたこと、それだけは絶対に許さない。ねぇ、咲夜は、なんのために死んだの? いったいなにがしたくてここにいるの? どうして、レミィが傷つく前に戻ってこなかったの? ……ねぇ、咲夜、あなた、今晩姿をくらませようとしたわね。それはどうして? レミィに……あなたを失う悲しみを、二度も思い知らせたかったとでもいうの!」
「咲夜はそんなんじゃない!」
 咲夜はなにも答えなかった。その代わりに、レミィが彼女を庇うかのようにして目の前に立ちはだかり、私に向けて牙を剥いていた。けれどもその姿は、以前のレミィのものと比べても、恐怖や威圧感をどこにも感じない、子どもの強がりのようにしか私の目には映らなかった。足は震え、握った拳に力はなく、翼も項垂れている。巫女に……咲夜に負わされた傷が、まだ治りきっていないのだ。吸血鬼としての能力もほとんど封じられてしまった今では、ともすれば彼女は、人間にも劣るほどの力しか持っていないだろう。断言する。レミィは私を止められない。
 それだのにレミィは、満身創痍の体に鞭を打って立ちあがり、私の邪魔を――咲夜を、守ろうとしている。私はレミィが途端に滑稽でばかばかしいもののように見えてきてならなかった。そうして、最愛のはずの友人の愚行に、苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「レミィ、お願いだからそこを退いてちょうだい」
 ゆっくりと体を起こしながら、そう語りかける。それと同時に、私はポケットから一枚のカードを取り出して、レミィと咲夜目掛けて突きつけた。
「……私が退けたら、お前はそいつを使って、いったいなにをするつもりなんだ」
「咲夜を殺すわ。確実に殺すわ。もう二度と、私たちの前に現われないように」
「じゃあ、退けられない。私にはまだ、うぅん、これからずっと、咲夜が必要なんだ」
「ねぇレミィ……咲夜はもう、死んでしまっているのよ? ほんとうはどこにもいないはずなのよ。……そこにいるのは咲夜じゃないわ。咲夜の形をした別のなにかよ。お願い、レミィ、目を覚まして。これ以上あいつに縛られるのはやめて。あなたにとって、咲夜だけが世界のすべてだったの? ほかのものはどうでもいいの? あなたの家族や、咲夜以外の部下や……友だちのことは、なにも考えてはくれないの? レミィ、私ではだめなの? あなたのそばにいるのは、一緒に生きていくのは、私じゃ、だめなの……?」
「……パチェ……」
 カードを握った手に、ぐっと力がこもる。必死になって感情を抑えていなければ、今すぐにだって眩く激しい陽の光が溢れ出して、レミィと咲夜と、もしかすると私さえも焼き尽くしてしまうだろう。胸の奥から押し上がってくる声の吐き出される時、そんな心の堰まで壊してしまわないように、私はひとつ、ひとつ、ゆっくりと言葉を紡いでいった。レミィに、あるいは自分に、言い聞かせるように。
「悔しかったのよ、私……とても、くやしかった。レミィと過ごしてきた時間なら、私の方がずっと長い。レミィのことなら、私の方がたくさんのことを知っている。レミィの友人でいることに、私は誇りと、自信を持っていた。いつだって、レミィのことを一番に考えていたつもりだった。……それがいっぺんに打ち砕かれたのは、咲夜、あなたが死んだその時よ。あなたを失って絶望に打ちひしがれたレミィを、私はどうしても救ってあげることができなかった。自分の無力さが身に染みた。それと同時に、ああ、私はレミィに、全然想われていなかったんだなあ、って。レミィの目にははじめから咲夜しか映っていなくて、私や、私以外のなにもかもはすべて、咲夜と過ごした日々の背景のひとつにしか過ぎなかったんだなあって。けど、私、諦めたくなかった。咲夜の代わりになろうだなんて、そんなふうには思わなかったけれども、もっと別の形や関係で、レミィの支えになることはできるんじゃないかって、そう思ったの。私はレミィが好き。誰よりも、いちばんたいせつに想っている。レミィが笑ってくれるのなら、どんな痛みや運命だって、受け入れられるつもりでいた。……いたのに、それなのに咲夜は還ってきてしまった。これから近付いていこうと思っていたレミィの隣を、あっと言う間に取り戻してしまった。レミィはまた私を振り向いてはくれなくなった。うぅん、これからはきっと今まで以上に、私のことを気にかけてはくれないんでしょうね。レミィの中に、もう私の居場所はどこにもありはしないのね。私にはそれが、悲しくて、寂しくて、たまらない。今だって、そう……私の目の前にレミィはいるのに、私がどんなにか手を伸ばしたって、この手の握り返されることはないのね。それならそれで、もう、いいわ。私はレミィのいちばんではなかった。それだけのこと。ああ、うらやましいわ、咲夜、あなたがほんとうにうらやましい。私、きっとあなたに嫉妬していたんだわ。レミィに寄り添えるあなたが、レミィと触れあえるあなたが、うらやましくて、嫉ましかった。――だからこそ私は、あなただけは許すことができない。あなただけはレミィを傷つけてはいけなかった。あなただけは、還ってきてはいけなかった。あなたの存在はレミィを弱くする。あなたの存在はレミィを子どもにしてしまう。そんなのはもう、私の好きだったレミィじゃない! 咲夜、返してもらうわ。東方一のヴァンパイアを、スカーレットデビルを、私の愛したひとを、返してもらう。あなたに連れていかせはしない……! 私のたいせつなものを、これ以上奪われてなんてたまるものか!!」
 体の最も奥深いところに、ごうごうと炎の燃え盛るのを感じていた。胸を焼き、芯を熱し、やがてそれは暴力的なまでの灼熱と爆炎を伴って私の内から迸り、生きているものも、生きていないものも、等しく灰に還すだろう。私が一言呟けば、終わってしまう。とても簡単に。
 殺意の炎を握りしめたまま、私は咲夜と、咲夜の前でいまだ微動だにしないレミィとを見つめた。レミィの真っ赤なひとみが、静かに揺らめきながら私を見つめ返していた。退く気はない。無言の、しかしとても強い意志を感じた。あるいは、幼い子どものわがままのそれかもしれない。
「レミィ……やっぱり、そこを避けてはくれないのね」
「あぁ、できないね。でも、お前を止めようとも思わない。やるなら私ごとやれ。手加減なんて、してくれるなよ。また死に損なうだなんて、ごめんだ」
「……そうね、それがあなたの望みだったんだものね。自分の罪を償う、だったかしら。ばかばかしい。自分の手を汚さず人に任せるだなんて、ひどい話だわ」
「お前だから任せられるんだよ、パチェ。お前なら、絶対に失敗しない」
「そんなこと言って、私をばかにしているの?」
「私は、本気だ。……パチェ、咲夜のことで頭がいっぱいで、お前の気持ちに気付けないで、それをないがしろにしてしまったことは謝るよ。ごめん、私がわるかった。……でも、だけども、お前の存在まで見失ってしまうだなんて、そんなことは決してなかった。いつだってたいせつに考えていた。お前は私のいちばんの友人だ。信頼のおける、たった一人の、」
「だけど、それ以上でも、それ以下でもなかったのね」
「……そうだ」
「ありがとう。もういいわ。あなたの気持ちはよくわかった。レミィ、こんな陰気な魔女の友人でいてくれて、今までありがとう。そしてさようなら。最期に、あなたにしてあげられる友人らしいことはなんだろうって、ずっと考えていたんだけれども……私にできることはもう、こんなことしか残っていないのね……」
 私のしてきたことはすべて、無駄な努力でしかなかったのだなあと、今になって思う。少し、疲れてしまった。彼女を想うことに、彼女を追い求めることに、どうしようもない虚しさを覚えた。
 私は静かにカードを掲げた。胸の中は穏やかで、波一つない静寂を湛えていたけれども、覗き込めば奥底の方には、いろんな感情が沈んでいるのが見てとれる。悔しさに、寂しさ。悲しみや憎しみもあったかもしれない。それらは間違っても友人に向けていいような感情ではなかった。けれども、わかっていても、込み上げてくる気持ちは収まらない。ごめんね、と私は心の中で呟いた。レミィ、ごめんなさい、私は、あなたの友人で終わりたくなんてなかったの。もっとあなたに近い場所で、もっとあなたのことを見ていたかったの。けれども、どんなにか手を伸ばしても、あなたの影は捕まらなくて、あなたとの距離は変わらなくて、そうしてふと気が付いた時には、私は元いたところよりずっと遠く離れた場所にいて、今にも消えてしまいそうなあなたの後姿を茫然と眺めていた。友だちでさえ、なくなってしまった。どこで間違えたのだろう。道を見失ったのだろう。わからない。考えても、仕方がない。


 私のレミィは死んだのだ。
 咲夜とおなじように。
 あるいは、これから殺すのだ。
 咲夜と一緒に。


 深く息を吸い込んだ。喘息の調子は、こういう時ばかりとても優れていた。囁くように唱えると、かざした手の中に貴き太陽が現われる。ほんものには届かないけれど、この辺りの夜を塗り替えるには十分過ぎるほどに眩い。迸る光の奔流に目が眩んだ。大きな魔法を使うのは久しぶりで、加減がよくわからない。失敗してしまったらどうしよう。いやだなあ、そんなのみっともないもの。せめて別れの時ぐらい、格好の良いところを残したい。光に紛れる二人の姿を見失ってしまわないよう、私は目を凝らしてその姿を目に焼きつけることにした。レミィは眩さに目を細めながらも、私に向き合おうと必死の形相で立ち尽くしている。その背後で咲夜はナイフを構えていた。大振りの刀身を持つ、銀のナイフだった。投げるためではない、突き刺すための、刺し殺すための、冷たいナイフ。


 ――なんだって?


「咲夜……なにをしているの?」
「覚悟が足りないのは、私の方でした」
「質問に答えて。ねぇ、さく、」
「はじめからこうしていればよかった。そうすれば、こんなに傷口が広がることも、膿むこともなかった。お二人が心を痛めることもなかった。私は、またしても傷つけてしまったのですね。ごめんなさい、お嬢さま、パチュリーさま」


 その瞬間、世界の時間がとても緩慢なものになった。咲夜が能力を使ったのか、それとも私の感覚が鈍くなってしまっただけなのか。けれどもそんな思考は、目に飛び込んできた白銀の光によってあっと言う間にかき消されてしまった。
 ナイフの光だった。
 刃先が音もなく持ち上がると、それは私の太陽の光を受けて、月のような真っ白な輝きを放ってみせた。


「――レミィっ! 咲夜を、止めてぇっ!!」
「えっ、……」


 レミィが振り返る。そのほんの短い間にも白刃は咲夜の手の内で翻り、そうしてその切先は彼女自身の胸を捉えた。レミィが声にならない声で叫ぶのがわかった。私もまた咄嗟に太陽を握り潰し、彼女の元へ駆け出そうと地を蹴った。しかし、時の流れはゆっくりとしていたけれど、どんなに速度が遅まろうとも決して止まることだけはなく、咲夜に迫る咲夜自身の握った凶刃に、レミィの伸ばした腕が届くことはついになかった。


「はじめから、こうしていれば」

 

 

 そして、迷いのない軌跡が、迷いある奇跡を、貫いた。

 

 

「……さくや……?」

 その一連の流れはどうしてか、とても幻想的な光景のように見えて、私もレミィも、見開いた目を閉じることができなかった。というのは、咲夜を貫いたナイフにどうしてか、刀身の鞘に収まっていくような、とても自然な動きを感じたからだ。あるべきものが、あるべき場所に戻るような。歪んだ造形が、元の形を取り戻すような。ひとが、還るべき場所に、還っていくような……
 なんてことはない、当たり前で、自然なことなのだ。
 違和を感じるはずがない。
 私だってこうなることを望んでいたじゃないか。咲夜は、失われなければならないと。ここにあるべき存在ではないと、あんなに願っていたじゃないか。
 それなのに……
 こんなにか胸の痛いのは、どうして……?

「さくや……咲夜っ、さくやぁ!!」

 咲夜が穿たれると同時に、停滞していた時間は本来の軸を取り戻し、その流れを急速に速めていった。それに後押しされたかのように、レミィは弾かれたように飛び出して咲夜の体に縋りついた。それから、ナイフを握る咲夜の手を解こうと両手の指を必死に絡ませたけれども、よほど渾身の力が込められているのか、固く閉じた手の開く様子はまったくない。やがてそれが無駄な努力であるとわかると、がくりと膝を付き、今度はエプロンに顔をうずめてわんわんと泣き出した。
「さくや! さくやっ……! どうして、なんで、こんなっ……」
「お嬢さま……」
「いやだっ! こんなのイヤだっ……、また、失うなんてっ……さくやがまたいなくなっちゃうなんて、イヤだぁっっ!!」
「お嬢さま、よく、見てください」
 抱きつくレミィの頭を左手で撫でながら、咲夜は母のような、それとも恋人のようなやさしい声でそう言った。痛みなど、まったく感じていないというふうに。いや――感じていないのだろう。だって、咲夜は、
「……っ」
 レミィの体をそっと引き離すと、咲夜は右手で握ったままだったナイフを、ゆっくりと胸から引き抜きはじめた。するりと、とても滑らかな動作だった。血肉のこびりついている様子はない、それどころか、銀の刃のどこを見ても一点の曇りだって見つけられない。やがて刀身がすべて抜き取られ、露になった胸を見て、私たちはようやくその理由を理解した。そこに、傷なんてなかった。あれほど深々と突き刺さっていたはずなのに、その痕跡がどこにも見当たらないのだ。傷の一つ、血の一滴。いのちを示すものが、なにもない。咲夜の生きている、生きていた、証がない。
「さくや、血が……流れな……、どう、して……」
「咲夜は、もうこの世にはいません。血も、肉も、骨も、もはや咲夜というよりは土くれと呼んだほうがいいでしょう。お嬢さま、その手で私を葬ってくれたのなら、よくわかっていらっしゃるはずです」
「知ってる……わかってるよそんなこと……。でも、さくやはここにいるよ。蘇ってきてくれた! 私のために! なのにっ、」
「ここにいる咲夜は、空っぽです。ほんとうはなにもないんです。幽霊や亡霊のようなものです。いや、もしかすると、彼らよりももっと希薄で、曖昧な存在なのかもしれません」
 声は落ち着き払っていた。声を荒げたり、感情的に話すことはなく、ただ幼い子どもに言い聞かせるように、レミィの言葉にひとつひとつ答えていった。
「でも、だって、息をしているよ……」
「風の音でしょう」
「腕の中、温かかった」
「昔の感覚を、思い出しているだけです」
「触れられた、声が聞こえた、私に、やさしくしてくれた……ぜんぶさくやのしてくれたことだ、さくやのくれたしあわせだ! なのにっ……なにもかも違ったっていうのか……にせもの、だったって……。じゃあ、お前はいったい誰なんだ……誰なんだよぉっ?! どうしてさくやとおなじ顔をしてるんだ! どうしてさくやとおなじ声をしてるんだ! どうして、さくやみたいにやさしくしてくれたの?! いやだよ、私……たいせつなものを、二度も失いたくなんてない……あんなに悲しいのは、辛いのは、もうイヤだ……なのにどうして、お前はどうしてっ、私の前に戻って来たんだ! さくやぁっ!!」
 怒号なのか、悲鳴なのか、もうよくわからない。レミィの声には、絶望のすべてをぎゅうっと詰め込んだような歪んだ響きがあった。聞いているこちらの方が、あまりの痛々しさに耳を塞ぎたくなるほどだった。しかしそんな声を聞かされてなお、咲夜は顔色ひとつ変えずに、黙ってレミィの言葉を受け止めている。ともすれば、感情を押し殺しているような、そんな雰囲気も感じてとれた。ああ、きっとその通りだ。どんなにか存在が空白だと咲夜自身が言ったって、その心だけはほんものだ。胸の張り裂けてしまいそうなのは、レミィや私だけじゃない、咲夜にだって、たいせつな想いがあったはずなのだ。
 その気持ちを、咲夜はようやく言葉にして紡ぎはじめた。レミィの問いに答える形で、あるいは自分自身の心を今一度確かめるように。
「……命を落としたはずの私が、どうして、どうやってこの世に戻ってきたのか、私自身はっきりとした理由はわかりません。戻ってきた、という表現さえ正しいのかわからない。ここにいる私は、残してきた思念が今になって形を得たものなのか、それとも誰かの手によって、彷徨っていた魂が喚び寄せられたものなのか。……けれどもそれは、考えても仕方がないこと。意味のないこと。だから、私が実際に憶えていることだけをお嬢さまにお話します」
「……っ」
「息を引き取ってからの私の意識は、どこか暗い闇の淵にぼんやりと浮かんでいました。三途の川でないことは確かです。中有の道でもありませんでした。闇の中で感じられるものはなにもなく、時間の概念さえ無いように思われました。私はおぼろげな思考の中で、ああ、自分は輪廻の輪から外れてしまったのだと、いつの日か、生まれ変わったその体でお嬢さまに会うこともできなくなってしまったのだと、そんなことばかりぼんやりと考えていました。そのことに悔しさや絶望は感じなかった。それだけじゃない、感情らしい感情は冷たく凍りついて、私にどんな衝動ももたらさなかった。けど、ただ、ひとつだけ……ひとつだけ、はっきり思い起こされたものがありました。それはお嬢さま、ほかならぬあなたのことでした。お嬢さまは今頃どうしているだろう、私を失って、もう二度と会えないと知って、お嬢さまはいったいどのようなお気持ちでいるんだろう。悲しんでいるのか、落ち込んでいるのか、もしかすると喜んでいるのかもしれないし、笑っているのかもしれない。考え出すと途端にお嬢さまのことで頭がいっぱいになりました。この意識がいつまで保たれるかはわからない、けれどもいつか、深淵の水底に沈んでしまうことだけは漠然と理解できていた。だから、そうなってしまう前に、最後にお嬢さまのことを知りたかった。会いたい、触れたいだなんて高望みはしない、ほんの少しでも様子がわかればそれでいい! ――そう、強く願ったその時でした。声が聞こえたんです、お嬢さまの。お嬢さまは、私の名前を呼んでいました。それを聞いて私はもう嬉しくて、嬉しくて、あぁ、私は死してなおお嬢さまに想われているんだ、私の名前を、忘れないでいてくれたんだ。これでもうほんとうに、思い残すことはなにもない。……そんなふうに思った、しかしその瞬間でした。私は、見過ごすことのできない事実に気がついてしまった。私の名を呼ぶお嬢さまの声の、とても、とても悲しい響きをしているということに。そしてお嬢さまが……私の後を、追いたがっているということに」
 咲夜は淡々と語る。今まで誰にだって開くことのなかった、胸の内を明かしていく。私もレミィも、一言だって聞き逃さないようぐっと耳を傾けていた。にわかに風の音が強くなった。咲夜の声が、少しだけトーンを落とした。
「はじめは、わけがわかりませんでした。どうしてお嬢さまが、そんなふうに考えているんだろう、って。……私の死は、たしかにお嬢さまを傷つけたことでしょう。悲しみを負わせたでしょう。けれどもそれがお嬢さまを死に追いやるほどのものだったとは、正直なところ、考えてもいませんでした。お嬢さまがこれほどまでに弱い存在だとは、思いもしなかった。その考えに至った時、私は自らの死をひどく後悔しました。思えば私は、お嬢さまの気持ちをまったくないがしろにして、自分の心ばかり晴れやかな気分で満たしながら逝ってしまったのかもしれない。人生の終焉をお嬢さまのその手で葬っていただいたことが嬉しくて、しあわせで、けれどもそれをお嬢さまがどんな気持ちで行っているのかなんてことは、一度として考えたことがなかった。……今さら、謝るのもばかげた話かもしれません。けれども、言わせてください。お嬢さま、申し訳ありませんでした。お嬢さまは……私の死を、認めてはいなかったのですね……。認めないまま、それでも葬列を共にし、亡骸を葬ってくれた。それがどれほどの痛みを伴ったものなのかは、きっと私の想像を絶しているのでしょう。けれども、私を失って以来お嬢さまが、一日とて心安らぐ夜を迎えられていないだろうことぐらいは容易にわかります。今もなお、胸の張り裂けそうな、心の潰れてしまいそうな想いに堪えている。私はそんなお嬢さまをもう見ているだけでは我慢ならなくなりました。お嬢さまの泣き濡れる姿なんて知りたくなかった。以前のあの花の咲いたような笑顔を、取り戻してほしかった。お嬢さまを、救いたい。この命に代えても! ――そう強く願ったその瞬間、頭の中が一際眩い光で覆われました。なにもかも真っ白に塗り替えられて、けれどそのすぐ後には焼けつくような紅色に変わって……そして気を取り戻した時には、私はその紅が見慣れた館のものであることを思い出しました。見間違えようはずもない。私が長い間暮らしてきた場所の色を、忘れようはずがない。……私は還ってきていた。紅魔館に。お嬢さま、……あなたの下に」
 咲夜の言葉は、まるで雪のようだった。音もなく静かに、けれども少しずつ確かに私たちの胸の奥に積もっていった。けれども、雪と違うところもある。ひとつめは、決して溶けることはないということ。ふたつめは、幽かに、あたたかいということ。
 その温度の染み入っていくのを待つかのように、咲夜はいくらかの間を置いて、青い眼差しでレミィを見つめた。レミィは押し黙って体を震わせていた。ほんとうは涙を流したり、わあっと叫んでしまいたいに違いない。けれどもそれをしないのは、咲夜が目の前にいるからだ。咲夜の言葉を、黙って受け止めなければいけないからだ。
 たとえそれが、どんなにか望まないものであったとしても、レミィはそれに真正面から向き合わなければならない。
 今度こそ。
 だって咲夜はそのために還ってきたのだから。
 たった、それだけのために。
「お嬢さまは、勘違いをしていらっしゃいます」
「してない……」
「私が今こうしてここにいるのは、お嬢さまとの日々をもう一度過ごすためじゃない……逆です、お嬢さま。私は終わらせるためにここにきたのです。私の死を、お嬢さまに認めてもらうため、受け入れてもらうため。……私はお嬢さまに、さよならを言いに来たのですよ」
「してないっ、勘違いなんかしてないっ! うそだ! そんなのうそに決まってる! 咲夜はっ、……私の、ために、」
「そう、すべてはお嬢さまのため。お嬢さまに、十六夜咲夜の死を受け入れてもらうため」
「だからっ、そんなことわかってる! でも、それがどうしたって言うんだ……! お前は私の目の前にいて、減らず口で、うんざりするような説教ばかり聞かせて……、でも、私はそれでいいんだよ。お前が生きているとか、死んでいるとか、そんなことはどうでもいい。人間だの、妖怪だの、亡霊だの、ばかばかしい。お前はお前、それでいいじゃないか……。触れられなくなったっていいよ、姿が見えなくなったって、我慢する……だから、さくや、そばにいてよ。私を、ひとりにしないで……。それとも、この世にいられないだけなの? ここにいたいけど、もう時間がない、それだけのこと? だったら簡単なことだよ、さくや。私も連れていってよ。さくやがこれから逝こうとしているところに、私も一緒に連れていって! そのナイフで、さっきみたいに私を刺し殺して! できるでしょう? だってさくやはそうすることを望んでいるはずなんだもの! 私がさくやを殺した。お前からたくさんの時間を奪った。無理なことも無謀なことも強いてきた。そのすべてをお前は完全にこなしてくれたけれども、その代償は決して短いものではなかった、そうでしょう? ねぇ、さくや。さくやにはきっと私を殺す権利があるんだ。さんざんお前を傷つけた私を、おなじようにしていいんだよ。あぁ、お前の言う通り、受け入れるよ、さくや。お前の死も、受けた痛みも、なにもかもおなじものを負うよ。お前を一人で逝かせはしない。お前とおなじ道を、私も歩くから、だから……ねえ、どうしてなにも言ってくれないの……なにもしてくれないの! さくや、そのナイフを私に突き立てなさい……早く! 主人の言うことが聞けないの!? パチェっ、さっきの魔法はどうしたのよ。はやくなさいよ。さくやも、私も、一緒に焼き殺してくれるんじゃなかったの! ……やめてよ、パチェ、あなたまで、そんな目で私を見ないで……っ、どうして誰も私の言うことをきいてくれないの!? 間違ったこと、言ってない……悪いことをしたら、罰を受けなきゃいけない! これって当たり前のことじゃない! さくやが死んだこととおんなじよ! 私は罰を受けなきゃいけない! 殺されなきゃだめなんだ! 死ななきゃ、……もう、死にたいんだよぉっ!! 生きてるだけでこんなに辛いなんて、悲しいなんて、私、わたしは……なんのために、生きて、っ……


 やだよ、こんなの。
 もう、イヤだ。
 誰か……
 誰か、だれかっ――
 だれでもいいからッ、私を殺してよおぉぉっ!!」


 咲夜は自分を殺しに来たのだと、レミィは私にそう言った。その言葉の真に意味するところは、今さら考えるまでもない。胸に秘め続けた想いはついに堰を切って、濁流となってレミィの内側から溢れ出していった。妖怪のくせに情けがないだの、吸血鬼なのに格好悪いだの、そんな体裁のすべてをかなぐり捨て、心ある存在のひとつとして、彼女は叫びを上げている。着飾っていたものをすべて捨て去ったレミィは、私や咲夜の知っている彼女とはなにもかも違って、どこまでも弱くて小さなものに見えてならなかった。
 そうやって地面にへたりこみわあわあと泣きじゃくるレミィに、咲夜はやおら近づいて行き、そして手を差し伸べた。「お立ち下さい」と声がかけられる。レミィは泣き腫らした目で咲夜を見上げ、それから差し出された手に視線を向けた。透き通るような、透き通りかけている白い手を握ろうか握るまいか、躊躇いがちな様子で目を泳がせていると、痺れを切らしたのか咲夜の方からレミィの手を取り無理矢理立ち上がらせ、そして、

 

「――――っ!!」

 

 乾いた音が辺りに弾けた。大気のざわめきや、胸を締めつけるような嗚咽さえ、その一音にすべて吹き飛ばされて聞こえない。ふと気を取り戻した時には、頬を押さえ茫然とした表情で咲夜を見据えるレミィの姿が目に飛び込んできた。それに対峙する咲夜はといえば、唇を千切れそうなほどに噛み締めた、痛切な表情を浮かべている。はたかれたレミィよりも、彼女の方がよほど強い痛みに堪えているかのようで、
 いや、……その通りなのだろう。
 あの青いひとみの、雫を湛えて揺れているところなんて、私は、きっとレミィだって、見たことはなかったのだから。
「夢枕に立って、ただ一言。さようなら。その言葉だけを伝えられたのなら、それでなにもかも終わるかと思いました。けれどできなかった……あなたの今にも泣き出しそうなあの顔を見たら、思い出すまいと決意していたはずの感情が、溢れかえってどうしようもなくなった! それが過ちの引金だった。たった一日とはいえ、あなたの前に姿を見せてしまったこと、そのことであなたにあらぬ期待を抱かせたことは、どんな地獄でも清算しきれない罪になるのでしょうね。後悔をしてもしきれない……どれだけ謝罪の言葉を重ねても、あなたには許してもらえないに違いない。
 でも、だからこそ、傲慢を承知で言わせてください。私は今晩お嬢さまに内心期待していたんです。今宵、あなたが私を追ってこないことを望んでいた。私にはもう、さよならなんて口にする資格がないように思えたから……ううん、さよならを告げた時のあなたの顔を見ることが、たまらなく怖かったから。怒りも悲しみも嘆きも憎しみも、私に向けられるであろうすべての負の感情が、おそろしかったから。それはどんな煉獄よりも堪えがたい炎となって私を灼くに違いなかったから。そればかりが、怖かった、こわくて、私は逃げ出した。弱虫なんですよ、私は。ちっぽけな人間らしい、弱虫だったんです」
 はらはらと伝い落ちる涙のひとつひとつが、文字通り彼女の存在であるような気がして。彼女の輪郭がまたひとつ綻びを造るたび、時計塔の文字盤は長針を歩ませ時を刻んだ。残りいくつ、進めるだろうか。静かにただ静かに、その時が近づく。月は沈み、日は昇り、すべては在るがままに帰す。
「だけれどもお嬢さま……いえ、レミリア。今のあなたでは、きっと私を灼くことはできない。私は……そんな情けない顔をするあなたを、好きになった覚えはない」
「どう、いうこと……?」
「私の知っているレミリアは、もっと気高くて、誇り高い吸血鬼。ほんとうは誰にも頼らなくたって、一人で生きてゆける強い力を持っているひと。だからそんなふうに、弱い人間に泣いて縋りつくのが、ほんとうのあなたの姿とは思えない。どうして私に追い縋ったのですか? 別れの挨拶のため? それとも裏切り者の私を呪うため? そのどれもが違うと言うのなら、あなたはつまり、私と……。お願いです、レミリア、そんな無様なことはやめてください。あなたには、ほんとうは私なんて必要ないはず。だって私と出会う前のあなたは、そういうふうに生きてきたはずなのですから」
「ちがう、それは違うよさくや……ダメに、なっちゃったんだよ。今さら、お前のいない日々に戻るだなんて、考えられない。お前は私だ、私の一部だ、私の世界になくてはならないものなんだ。欠けるだなんて、失ってしまうだなんて、イヤだ……さくや、お前さえいてくれればいいんだ。お前だけはいてくれないとだめなんだ! お前のためなら、ほかのどんなものを失ったって、」
「レミリア、あなたにはかけがえのない家族がいる。心の通いあった友人がいる。あなたを愛しているのは、スカーレットに恋しているのは、私だけじゃない。今だってあなたのすぐそばには、あなたのことをいちばんに考えてくれる、やさしいひとがいるではありませんか。そんなふうに、あなたのために手を差し伸べてくれるたくさんの人たちを、どうか私のためにないがしろにするのはやめてください。私と一緒にいきたいだなんて、そんな悲しいことを言わないでください」
 咲夜の声は、すぐそこに咲夜の姿が見えているにも関わらず、遠く離れたところから響いてくるようだった。少しずつ、遠ざかっていっている。咲夜はそこにいる、いるけれどももうその存在は、私たちの手の届かないまったく別のところにあった。
 私たちが見ているのは咲夜の幻影だった。
 はじめから、ずっとそうだった。
 咲夜は、蘇ってなんていなかったのだ。
 どこからか秋の夜の冷たい風が吹いてきた。微風だったけれども、この世界から咲夜を攫っていくのには十分だった。彼女の体が端の方から光の粒になって空に舞い上がっていく。咲夜が、還っていく。ここではないどこかへ。
「……私はあなたを置いて先に逝きます。逝かなければなりません。けれどもそれはとてもとても自然なこと。私が人間として生まれてきた以上、いつかは受け入れなければならなかった運命。悲しくないと言えばうそになります。別れたくなんてない。もう少しだけ、長く生きていたかった。あなたのそばにいたかった。いつまでも。いつまでも」
「いて、いいんだよ……いつまでもここにいていいんだ。触れられる体がなくたっていいんだ。お前のぬくもりがわからなくたって、いいのに……」
「私のことを忘れてとは言いません。うぅん、忘れないで。ずっと、憶えていて……。けれども、あなたにはそれに縛られないでほしい。あなたの世界にいるのは、私だけじゃない。たくさんの人を好きになって、愛して……しあわせになって。私はあなた、あなたは私。あなたのしあわせが、私のしあわせ。ねぇ、笑って、レミリア。あなたの無邪気な笑顔が、だいすきなの」
 咲夜の手が、レミィの頬に触れていた。肩から先は、もう、見えなかったけれども、たしかに触れていた。
 笑っているのか、泣いているのか、どちらともわからないくらいくしゃくしゃになったレミィの顔の上を、雫がいくつも伝い落ちていく。
 レミィはそれを拭おうともせず、搾り出したような声で、こう言った。
「……ねぇ、さくや」
「はい」
「お前は、しあわせだった? 私と一緒にいて、楽しかった? 私はきっとお前を殺した。誰がなんと言おうと、お前を殺したのはこの私だ。もし、私なんかと一緒にいなければ、お前はもっと別の人生を送っていた。今よりもずっと長く生きていた。悪魔の狗だなんて、蔑まれることもなかった。お前には、もっと人間らしいしあわせがあったはずなんだ。けれども私がお前の運命を変えてしまった。お前から、人間のしあわせと、たくさんの時間をいっぺんに奪っていった。私は今でも不安でたまらないんだ。お前は、ほんとうは、私を恨んでいるんじゃないかって。殺したいほど、憎んでいるんじゃないかって……。今まで、こわくて、言えなかった。……今さらこんなこと言って、ごめん。でもね、さくや、もう一度だけ教えてほしい、お前の気持ちを。こんな時までわがままな私で、ごめんな。だけど知りたい。お前のすべて、なにもかも、忘れたくないから、だから……

 

 

 さくや、しあわせだった?」

「はい、お嬢さま」

 

 

 咲夜の姿は、もうどこにも見えず、蛍火のような小さな光だけが彼女のいた場所に、ひとつ、ふたつ、ふわふわと揺れている。どこからか聞こえる幽かな声は、鼓膜を介さずに頭の中にしんと染み入ってくるようだったけれども、意識を傾けていなければ聞き取ることはかなわないだろう。いよいよ彼女の消えてなくなる瞬間が来てしまったのだ。短い奇跡の、終わりが来たのだ。けれども不思議と、心の中は穏やかな気持ちで満ちていた。それは聞こえてきた咲夜の声が、とてもやさしい音をしていたからだと思う。私はそっとレミィの横顔を伺った。そこにはもう悲哀の色はなく、ただただいとしい人を想う、いっとうの笑顔が浮かんでいた。
 その笑顔に微笑み返すかのような、光の淡く輝く、一拍の間があってから、
 最期の言葉は、ささやかれた。

 

 

 

 

 

 

 


「さよなら、私のいとしいひと。
 さよなら、私の 紅魔郷 スカーレットヘヴン

 

 

 

 

 

 

 

 

 光がゆっくりと螺旋を成しながら、遥かの空へと昇っていく。見上げた先には、端のわずかに欠けた、十六夜の月が浮かんでいた。もしかするとこの光はもともと、満月から零れ落ちてきたものだったのかもしれない。それならば、空に還っていくのは至極当然なことだ。私がどうにかするだなんて、端からおこがましい話だったのだ。いつまでもレミィの傍にはいられないなんてことは、他の誰でもない、彼女自身が一番よくわかっていたのだから。
「なぁ、パチェ」
 ふとレミィが声をかけてきた。レミィもまた高い空の果ての方を見据えていて、咲夜の旅路を見送っていた。
「あいつはやっぱり、意地悪なやつだったんだなあって、そう思う。だって、ありがとうも言わせてくれなかった。ねぇ、どうしよう、パチェ、言えなかったよ、私。……ありがとうって、あいしてるって、言えなかった」
「……口にしなければ、なにもかも伝わらないって、そう思っているの?」
「思わないよ。思わないけれど、だって、悔しいじゃないか。出し抜かれたみたいでさ。あんなふうに主人をからかうやつなんて、ほかにはいないよ。幻想郷、いや、世界中のどこを探したって、いないんだよ……。


 ああ。
 これでほんとうに、いなくなっちゃったんだなあ。
 二度と、逢えないんだ。
 やっとわかったよ。
 さくやは、もう、いないんだ」


 レミィの伸ばした手は、しかし空を切った。咲夜の残滓も痕跡も、どこにもない。マジックショーでもイリュージョンでもない。こうあるべき、人の死だ。どうにもならない、喪失だ。レミィは、……いや、私たちは、その事実をようやく実感することができていた。なにもかもわかって、受け入れたつもりでいて――けれどもやはり心のどこかで、私たちは彼女の死を軽々しく受け止めてしまっていたのだろうか。咲夜を“人間”として考えていなかったのだろうか。……それが咲夜に対する最低の侮辱だったということに、私たちはようやく気がついた。なにもかも、遅すぎたけれど……それでも、気がつけた。
 咲夜は、私たちを許してくれたのだろうか。
 ひどいことを言った。
 とてもつらい目にあわせた。
 こんな私たちといて、それでも咲夜は最期までしあわせだったのだろうか。
 その答えはすでに、咲夜自身から受け取っているけれど、
 だけど……


「レミィ、あのね、私もね、」
「………」
「私も、なにも、っ……言えなかったわ……」


 そうして二人同時に崩れ落ちた。私はレミィに、レミィは私に縋りついて、強く抱き締めあいながら胸の破れてしまいそうなほど声を張り上げて泣いた。ほんとうにたいせつなものをなくした時、それがもう二度と取り戻せないものだとわかった時、その時にはもう、人間であるとか、妖怪であるとか、そんなことは関係なくて、ただただ、泣くしかないのだ。軋み、悲鳴を上げる心の安らぐまで、泣くしかないのだ。

 


 ありがとうと、ごめんなさいと、さよならと。

 私たちの涙は、朝焼けが咲夜の月を覆い隠すまで、止むことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Epilogue


 世界には時計が満ちている。昇る太陽も時計。廻る星も時計。満ちては欠ける月も時計。春も夏も秋も冬も、一年の移ろいを知らせるたいせつな時計。
 あるいは、生命もまた時計。
 生まれては老いて、いずれは止まる。螺子は巻けない。修理もできない。刻み出したらそれっきり。だからそれは今現在の時間を計ることには適していないかもしれないけれど、ある一点においては、ほかのどんな時計にも勝る性能を誇っている。

 この世にどんな異変が起きようとも、故障だけは、決してしないのだ。

 

 

 

 

「お姉さま? お姉さまったら! もう、いったいどこに行ったのよ!」

 廊下の方から姦しい声が届いてくる。ずいぶんと距離があるはずなのに、よくここまで通るものだ。その声の主は真っ直ぐにこちらへ近づいてくるようで、私は衝撃に備えて読みかけの本に栞を挟んだ。それと同時、どおん、と大扉がへし折れたような――実際そうでなければいいのだが――音が図書館中を震わせた。開閉は静かに、というのは淑女でなくとも万人が知っている当たり前のマナーだと思うのだが、そこのところどうもここの吸血鬼たちには常識が欠けているらしい。たち、というのは、彼女の姉もまた図書館の扉をサンドバッグかなにかと勘違いしている節があるということだ。
「妹様、図書館ではお静かに」
「わかってるわよ! でも今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃないの。緊急事態。可及的速やかな対応が求められているわ」
「あら、尋常ならざるご様子ね」
「お昼の用意ができていないの。今日の当番はお姉さまのはずなのに」
「……小悪魔」
 指を軽く弾くと、どこからともなく「はぁい」の間の抜けた返事が返ってくる。やがて本棚の影から見慣れた顔が姿を見せ――フランドールの顔を見て、露骨に嫌そうな表情をみせた。
「なにか妹様に小食でも用意してあげて。私これから出かけてくるから」
「えぇー、私司書ですよう、キッチンは専門外~」
「ごちゃごちゃうるさい。小悪魔の小は小間使いの小よ」
 整理の途中だったのに、と彼女は文句を垂れたけれども、隣で眼を輝かせるフランドールの顔を見て、そそくさと準備に取り掛かったようだった。二人分の背中が遠ざかっていく、その姿を確認してから私もようやく腰を上げた。それまで凝り固まっていた筋肉が軋みを上げる。なんど繰り返しても慣れない痛みだ。少しは鍛えればいいのだろうが、うちでその手のことが得意そうなやつに相談をした暁には、全身麻痺の末路が待っているような気がしてならないのだが。
 そんなわけで私の身体能力は現状維持の一途を辿るべくして辿っている。勝てる見込みのない冒険はしない、これは長年培ってきた知識から導いた必勝の術だ。私はなんて賢いんだろう。もっとも時として天才の閃きは凡人には理解されず、虚しくなることしばしなのだが。
「まぁ……あいつに比べれば、マシよ」
 それでも、生まれ持った体を在りのままにしておこうというのは決して悪いことではないと思う。ともすればそれをわざわざ劣らしめようという考えは、常人には到底理解できることではない。ないのだが、身近にそういうやつがひとりいるものだから、私は頭を抱えずにはいられないのだ。あの頑固な友人はいったいなにを考えて生きているのか――あの夜以来、彼女の心に芽生えた感情がなんという名前でなんという色をしているのか、もう長くはない時間をかけたけれども、いまだ掴むことができたのは、その僅かな片鱗ばかりだ。それさえも確かなものなのかどうか自信はない。おそらくは一生をかけても、真の理解というものには至れないのだろう。
 ……でも、仕方がないのかな。
 私は私で、
 彼女は彼女で。
 違う存在で。
 でも、そうやって違うからこそ惹かれたのだ。
 理解できないところがあるから、理解しようと必死になれる。
 はじめからなにもかも答えがわかっているなんて、つまらないじゃないか。
 彼女のことが頭の中に浮かんできた途端に、その顔が見たくてたまらなくなって、私は背中を押されたように図書館を飛び出した。狭い廊下を抜け、階段を駆け上がり、エントランスホールにでて正面玄関を開け放つ。それと同時に世界は無限大に広がって、初夏の日差しが容赦なく肌を突き刺した。鼻孔に触れる空気には青い草木の匂いが一段と強くなる。悪くはない。図書館の黴臭い空気よりは百倍は健康的だ。その緑の香りをしばらく楽しみながら、私は庭園をぐるりと回りこんで紅魔館の裏手を目指すことにした。花壇はすっかり夏の装いを見せていた。可愛らしいバーベナは華やかに、真っ赤なサルビアの絨毯は情熱的に。植え込みの緑と、透けるような空の青とも相まって、三原色に彩られた世界はそれだけでひとつの完成形を見ているような気さえした。余分も欠損もどこにもない。世界はこれだけで回っている。調和と均衡の取れた、美しいほどの黄金比を携えて。
 けれども、もし。
 その文字盤から外れる場所があるとすれば。
 それはまさしくプライベート・スクウェアで。
 彼女だけの世界だ。

 

「――……レミィ」

 

 最後の棟の角を曲がれば、やがてその場所に辿りつく。そこだけは時間の止まったままの場所。夏なのに彼岸花が色を付ける、季節の時計さえもずれた空間。
 その中心で、友人は黙して祈りを捧げていた。厳かで、静謐な雰囲気を湛えて。見る人が見れば、稀代の聖女だと言って祭り上げてしまうかもしれないな、なんて、最近は割と本気でそんなふうに思う。だけれどもその中身が純然たる悪魔だと知ったらどういう反応をするだろう。信じてもらえないかもしれない――悪魔である、という方を。なにせ今の彼女には、およそ悪魔らしい素養がどこにも見当たらなかったのだから。
 悪魔の羽はすっかり萎縮して、服の下にもしまいこめるほどで。
 吸血鬼の牙も、八重歯のかわいい子と思われるほどに、小さくなって。
 レミィの吸血鬼としての能力は、ついに戻ってくることはなかった。いや、まだまだ長い時間をかければ、少しずつ取り返すことはできるのかもしれないけれども、少なくとも今のままの彼女では、何百年経とうと昔の姿には戻れないだろう。レミィは、血を飲まなくなった。吸血鬼としての最大のアイデンティティを、自ら放棄した。それと引き換えなのだろうか、強い日光を浴びても体が焼けることがなくなったのは、まったく皮肉なこととしか思えない。光に焦がされ、力のほとんどを失ってしまったのに、あろうことか今度はその光に馴化してしまったのだ。その事実を友人はあっさりと受け入れた。むしろ喜んでいるかのようだった。その頃から友人の好きな天気は、どんよりと曇った空よりも、青く澄み切った晴れの日になっていた。
 人間とおなじ時間に起き、
 人間とおなじ時間に活動し、
 人間とおなじものを食べ、
 人間とおなじ時間に眠りについた。
 レミィは、人間になろうとしているのかもしれなかった。
 彼女が恋し、焦がれた人間に――


「それは違うよ、パチェ。それだけは違う」


 そんなことをふと心に思い描いた瞬間、それまで黙祷を捧げていた彼女が不意に口を開いたので私は思わず息を喉に詰まらせかけた。まいったな、徳を積むと読心の力でも宿るのだろうか。私がきまりが悪そうに息を吐くと、レミィは慌ててこんなことを言って取り繕った。
「ああ、いやその、独り言、なんだけど――」
「その割には私を名指ししたわよね。ま、なんでもいいけれどね」
 別に恥ずかしいことを言ったわけでもないのになにをそんなに動揺しているだろう。おかしなレミィ。まさかほんとうに覚りの能力に目覚めて――そんなわけないか。だってレミィが祈りを捧げている相手はきっととんでもなく薄情な性格をしているに違いないんだから。そんなやつが覚りの神徳を与えてくれるだなんて、まったく笑い話じゃないか。
「パチェ」
「なによ」
「やっぱり私のこと、ばかにしただろう?」
「してないわよ……それより、いつまで合掌しているつもり? フランドールがご機嫌斜めだったわよ、ご飯がまだできていないって」
「――あー、うん……ごめん、忘れていた」
「私に謝られても困るわ。まあうちのこま、いや小悪魔に食事の用意はさせておいたから、もう心配することはないわよ」
 小間使い、と言いかけた言葉は一応訂正を入れておく。前に一度、素で「小間使い」と呼んだところ本気で拗ねられたから、いくら私の中ではすでに小悪魔=小間使いと図式が出来上がりつつあるといっても、口癖にだけはならないよう気をつけている。
「世話をかけるなあ」
「悪いと思うならはじめから忘れないでちょうだい。まったく、一日くらい休めないの、それ?」
 別段、私に迷惑がかかっているわけでもないが。けれどもあいつの負担軽減にも多少の協力は図ってやろうなどという親切心がふっと芽生えたものだから、私は墓碑を指差してレミィにそんなことを訊いた。彼女の日課。雨が降ろうが風が吹こうが雪が積もろうが、一日足りとて欠かすことのなかった、墓参り。
「あぁ……まぁ、別に拘ってるわけでもないし。確かにたまには休んでもいいのかもしれないけれど。でもなんか、落ち着かないんだよ、一日一度はここに来ないと」
「それは十分に拘ってるっていうのよ」
「そうかな。祈りなんてポーズだけだし、気の利いたことも言えないし、」
「だけど、この場所に来ると気が落ち着く。どんな暖かいベッドに包まっている時よりも、安心できる」
「……ああ」
「なら、それでいいじゃない」
「そうだね」
 安息の地があるのは、結構なことじゃないか。私にとって図書館の安楽椅子がそうであるように、レミィにとってはこの質素な石造りの碑石がそうなのだ。まったくお前は大したやつだよ。こればっかりは認めてやらざるを得ないかな。お前のナイフが最後に刻んだものは、決して消えない刻印になったよ。なんと言ったって魂に掘りこまれてしまっては、もうどうしようもないじゃないか。誰にだって届きはしない。お前は最後の最後に、いっとうの場所にお前自身を遺していったんだ。


 私の、完敗だ。
 だけれども――諦めてなんて、いない。


「ところでパチェ、お前はいったいどうしてここに?」
「別に、用事なんてなかったわ。気晴らしに外を歩いてたら、たまたま、ね」
「そう。じゃあこれから少し私と出かけないか? やることがなくってさ、暇つぶしに」
「そのやるべきことは今私の知り合いが涙目になってこなしているのでしょうけどね。まあいいわ、どこに行く?」
「そうだなあ、それじゃあ、神社に、人里に――」
 ざまあみろ、お前はもうリタイアだ。人間にしてはよくやったとは誉めてやるけれども、それもここまで。あとはその高みから、スカーレットヘヴンから、せいぜい私たちの行く末を見守っていることだ。目を逸らすなよ。忘れようと思ったって無駄なことだ。レミィはこれからずうっとお前の下を訪ね続けるんだ。私や、フランドールや、門番に、小悪魔に、いやこの幻想郷中の想い出を引き連れて、お前に逢いに来るんだ。お前はそれを見ていることしかできない。聞いていることしかできない。手を伸ばしても触れられない。どうだ、くやしいだろう。うらやましいだろう。
 まったく、お前のうれしそうな顔が、目に浮かぶようで。
 私は……

 


「さ、パチェ行くよ、なにをぐずぐずしてるんだ!」
「あぁ、ちょっと待ってよ、まだ――」

 

 

 


 まだ、言い残したことがあるんだ
 言えなかったことがあるんだ

 あの日
 あの時
 私や、レミィや、咲夜だって
 みんながみんな
 言いそびれたことがあっただろう

 今度こそは
 ちゃんと、言わなくちゃ

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 忘れないうちに、また来るよ

 それじゃあね

 さようなら




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