□さよならスカーレットヘヴン 第二話


 亡霊


 純粋な人間の精神
 死んだことに気づいていないか、認めていないか
 それとも、この世に強い未練を残して死んだ人間の霊
 亡霊と長く一緒に暮らしていると
 いつしか、死に誘われる


 ――咲夜、は……

 

「紅茶、お持ちしましたよ」

 嗅ぎ慣れたアールグレイティーの香りと、聞き飽きた彼女の声が届いたのは同時だった。本に落としていた視線を持ち上げ振り返ると、盆に二人分のティーセットを載せた小悪魔が、たおやかな微笑みを浮かべながら立っていた。
「あら、気が利くのね」
「差し入れです。久しぶりにパチュリーさまが机に向かっているんですもの、なんだか、応援したくなっちゃって」
「そう、そんなに大した用事でもなかったんだけどね」
「そうなんですか。いったいなにを?」
「調べ物。でも、もう済んだわ」
 私は開いていた本を閉じ、渡された紅茶と交換するようにして彼女にそれを手渡した。「幻想郷縁起?」と彼女が呟く。もっともオリジナルではなく、私的に書き写させてもらった写本だが。
「ふふ、お嬢さまのことでも調べていたんですか? でも、百聞は一見に如かず、毎日のように顔を突き合わせてきたパチュリーさまのほうが、よっぽどお詳しいと思いますけど」
「そんなわけないじゃない」
「わかってますよう。あ、でもちょうどよかったです。パチュリーさまの用事が済んだみたいで」
「どういうこと?」
「パチュリーさまにお客さまが見えてるんです。珍しい方ですよー、今、お呼びしてきますね」
 ほんとうに珍しいひとが来たのだろう、彼女は目をきらきらと輝かせたかと思うと、それからすぐに踵を返して本棚の林へと消えていった。なるほど、二人分の紅茶を用意したのは、私と来客のためということか。
 客人を呼びに彼女が去っていったところで、私はひとつ大きなため息を吐いた。まったく、あれを相手にすると疲れる。私がレミィのことを調べるわけないとわかった上でああいうことを言うのだ、めんどうくさいやつめ。けれど、わざと的外れなことを言うけれども、一方で本質を突こうとしてこないのはありがたい。なにを、どうして、なんのためにと問われれば、私はひょっとすると、彼女に助けを求めてしまったかもわからなかった。
 私一人では、どうにもできないことだった。
 私一人で背負うには、あまりにも苦しくて、潰れてしまいそうで。

 ――亡霊。
 純粋な人間の精神。

「ばかばかしい……」
 なにが純粋なものか、ひどく汚れて、醜いものじゃないか。未練ばかりで、成仏もできなくて、そのくせ平然とした顔をしてレミィの傍に立っている。そんな想いは純粋とは言わない。そんな気持ちで、レミィの傍に居てほしくない。それなのに、レミィがそんな咲夜を認めてしまっているから、わけがわからなくなるのだ。私には耐え難い光景だった。しあわせそうな二人の姿を思い出すたび、頭蓋をぎりぎりと締め付けられるような目眩に襲われた。
 私はなにをどうするべきなのかまったく目標を見失っていた。レミィをしあわせにしたい、笑わせてあげたい、けれどもレミィは、この瞬間にもしあわせそうに笑っている。それはうそだと言っても、レミィはほんものだと言い張って聞く耳を持たない。じゃあ、咲夜はどうだろう。レミィの前からいなくなれ、とでも言えばいいのだろうか。それこそ望みの薄い話だろう。だって咲夜はそのために還ってきたのだ。その存在意義を否定することは、岩盤を素手で打ち砕こうとするようなものだ。
 もう一度咲夜の墓を掘り返して供養を施せば、無理矢理成仏させることも可能なのかもしれない。けれどもそれは先の話よりよほど不可能なことだった。今一度、目の前で突然、わけもなく咲夜を失えば、次こそ間違いなくレミィは取り返しのつかないほどに壊れてしまうだろう。最悪、自我を失ってしまうかもわからない。身も心も依存の海に沈んでいる。ゆっくりと溺れてゆくのを待つか、それとも水を失いそのまま奈落に落ちるか、二つに一つだ。二つとも、破滅だ。
 ……最良の方法なら、わかっているとも。溺れさせるだけ、溺れさせてしまえばいい。ほかでもない本人がそれを喜んでいるのだから。私はそうやって堕落した友人を認めてやりさえすればいいのだ。咲夜の還ってきた奇跡を、受け入れてしまえばいい。そうすればレミィはいつまでも笑っていられる。紅魔館の日々も、元通りになる。私だけが鬱屈とした気持ちをしまいこんで我慢すれば、みんなしあわせになれる。きっとそれがいちばんの方法だ。大それた問題のように見えて、実は私一人の内心のことに過ぎない、ちっぽけで些細な問題。
 だからこそこんなにも悩んでいる。泥沼に胸まで浸かったかのように、思考のループから抜け出せない。パチュリー・ノーレッジ。お前はいったいなにがしたいの? 誰のしあわせを考えているの? お前のその手でいったいどれだけのものが掴める、掬いとれる、創りだせる。
 本に書いてあることしか、知らない。けれども、しあわせのつくりかた、なんてことを書いた本は、今まで一冊も読んだことはない。ともだちのたすけかた、なんてことを書いた文章は、今まで一行だって読んだことはない。きっと、外にいるみんなは知っているのだろうなあ、知識は、本に書いてあることばかりじゃないもの、誰かから教えてもらうことだって、たくさんあるのだ。もっとたくさん友人を作っておけばよかったのかもしれないと、今さら、そんなくだらないことを後悔してみたりもした。
 みんなならどうするだろう。
 こんな時、なにを選び、なにを捨ててゆくのだろう……

 

「こんな時、私なら」

 

 その時ふと耳に飛び込んできた声があったので、私は思わずはっとなって振り返った。小悪魔が戻ってきたのだろうか、しかし、視線を向けた先には誰の姿も見当たらない。椅子に腰を掛けたまま、上半身だけを捻った間抜けな格好のままで茫然としていると、今度は私の正面の方から、こんな言葉が飛び込んできた。

「迷わず、お姉さまを捨ててゆくけれど」

 幼さを残すあどけない声音、けれどもどこか冷たい、ともすれば残酷ささえも感じて取れるのは、お姉さまを捨てるというその言葉が、胸を鋭く抉っていったから。
「妹様……いつからそこに」
「さっきからずっといたわよ。あの小っちゃい悪魔に言われなかった? お客さまが来るよって。けれどもパチュリーったら、私が来たのに難しい顔をして考えこんでいるんだもの、おかしくてたまらなかったわ」
 友人の妹――フランドール・スカーレットはいつの間にかそこにいた。まだ口をつけずにいた私のティーカップを片手に、おどけたふうな笑みを浮かべて対面に座っている。その笑顔を見て、私は背筋に薄ら寒いものが走り抜けるのを抑えられなかった。どうして、笑ってなんていられるのだろう。そんなことを口にしながら。レミィを捨てるだなんて、言いながら。
「捨てるって、いったいなんのことかしら……」
「パチェが自分で言っていたんじゃない、一人でぼそぼそ、独り言なんか喋っちゃってさあ、あんまり気持ちが悪いから、相手をしてあげようと思って。もしかして自分で気がついてなかったの?」
 気がついていなかった、といえばまた小ばかにされそうで、私はその言葉を飲み込んだ。しまったな、口に出ていたのか、それよりよりにもよってこのひとに聞かれてしまうなんて。このひとに、こんなことを言わせてしまったなんて。
「冗談よね……」
「なにが?」
「今、言ったことよ」
「どうして? 私、別におかしなことを言ったつもりはないわ」
 彼女はきょとんとした顔をしている。私の言葉を、まったく理解できないというふうに。それは私の台詞だ、どうしてそんな悲しいことを言えるんだ、実の妹のはずなのに、レミィを、
「それじゃあ逆に、私が訊くけれどね」
 冷めてぬるくなった紅茶を一口あおってから、彼女が言った。深い紅色のひとみがすぅと細まって、私の双眸をとらえる。釘付けにされたようになって、私は息をするのも封じられかけた。一睨みで射殺せそうなその眼は、かつてのレミィが持っていたひとみの色によく似ていた。
 だから私はその姿に、その言葉に、ひどい錯覚を見てしまった。
 まるで……まるでレミィが私に話しかけているかのように思えたのだ。
 この言葉を、レミィが――
「パチュリーは、あんなお姉さまで……あんなレミリアで、いいの?」
 その声が耳に届いてから、私はしばらく口を開くことができなかった。吐き出したい声や想いはたくさんあったのに、そのひとつひとつが我先にと押し合い、絡み合い、ごちゃごちゃとした塊になって、胸のあたりに痞えてそれ以上押し出せそうになかった。息の詰まるような気分がした。このまま彼女に見つめられたまま、窒息してしまうのではないかと本気でそう思った。
 そうやって私が答えあぐねていると、彼女は深く息を吐いてみせ、こんなふうに続けた。
「まぁ、別に、あんたに期待なんてしてないけれど。あなた、どんくさいものね」
 呆れた、といわんばかりの口調だった。実際呆れているのだろう。彼女は眉根をひそめながら紅茶を啜ると、ぬるいわね、と一言だけ感想を述べた。それはまるで私に向けられた言葉のように感じられた。
「私はイヤよ、あんなお姉さまは。壊れてしまったものはもう二度とは元に戻らないって、私だってわかっているのに、お姉さまはどうしてこんな当たり前のことに気がつかないのかしら。気づこうとしないのかしら」
「………」
「昨日ね、満月だったの。お姉さまがぼろぼろになってから、ちょうど一ヶ月目の満月よ。その夜は私、お姉さまのことが気になって気になって仕方がなくなった。ああ、別に、心配していたとか、そういうわけじゃないのよ。ただあのばかが、少しはまともな様子に戻ってくれたかなって。お姉さまほどの吸血鬼なら、一ヶ月もあればどんな傷だって癒せるはずだもの。心だって、体だって、もう元通り。だから元気になっているはずのお姉さまを見舞って、思いっきりばかにしてやろうって思ったの。だって楽しそうじゃない。あのお姉さまが、さんざん私のことを邪険にしてきたお姉さまが、私の言うことにぐうの音も返せないのよ。それが楽しみで楽しみで仕方がなくて、私は浮き足立ってお姉さまの部屋へ行ったわ。久しぶりに歩いた館の廊下は、とても狭くて短かった。私、びっくりしたわ。あいつのいなくなった後の紅魔館は、こんなにちっぽけなものなのかって。掃除も行き届いてない、換気もなってない、息苦しくていやになる、不快な気持ちでたまらなくなる。あぁ、お姉さまの気持ち、ちょっとだけわかるわ。こんな最低な気分、少しだって味わっていたくないものね。取り戻せるなら取り戻したいわよね、うん、私もそう思う。あいつが帰ってきたら、それはきっと世界中でいっとうしあわせなことよ。でもね、それは叶わないの。ありえないことなの。当然よね。だってあいつはもうばらばらに壊れて腐って今は土の下。帰ってくるはずがない。もう二度と、広いお部屋も、美味しい紅茶も、手に入らない。それはとても自然なこと。それが当たり前のこと。私にだって、ううん、私だからこそわかる。壊れたものは元に戻らない、過去に向かって刻んでいく時計なんてない。それなのに愚かなお姉さまは、亡くしたものを取り返したつもりでいた。私は途端に悲しくなった。今まであえて壊さないようにしてきたものが、自分から勝手に壊れていってしまったのよ、こんなに虚しいことは、ないわ。
 お姉さまの部屋の前まで行った。とても楽しそうな声が、ドア越しに聞こえてきた。誰かとお話をしているようだった。私はそっと耳をそばだてた。お姉さまの口が、懐かしい名前が言っているのが聞こえてきたわ。もう忘れたものだとばかり思っていた名前。忘れなければいけないはずの名前。けれども、だけど、お姉さまはそれをいっとういとおしそうに口にしていた。まるであいつがそこにいて、二人で仲良くお喋りでもしているんじゃないかって、そう思っちゃうくらい、明るくて、楽しげで、しあわせそうで――それとおなじくらい滑稽で不気味で不安定で胃のひっくりかえりそうなくらいに気持ちの悪い最低の光景だったわ。私は悲しくなった。今まで、このひとだけは壊れないだろうと信じていたものが、自分から勝手に壊れていってしまったのよ。こんなに悲しいことって……ないよね」
 語る声には、一言では言い表せない様々な響きがあって、彼女の心の無秩序に揺れ動くさまの浮かび上がっているふうでもあった。フランドールは気の狂れている少女である。あるけれども、それは決して彼女が他人の気持ちに鈍感であるとか、ないがしろにするところがあるとか、そういうことを言っているのではないと思う。むしろ鋭敏なのかもしれない、こと物事の壊れること、それこそ精神の気丈に関して、彼女は知りたくもないことまで知れてしまうのだ。
 彼女にはきっと、視えてしまったのだろう。
 わかってしまったのだろう。
 姉の心にある“目”の、もうどうしようもないほどひび割れてしまっていることに。
「お姉さまは、もう、だめなのかしら……昔のようには、戻ってくれないのかしら。私、わからないの。なにもわからない。お姉さまはいったいどうしてしまったの? 大事なものが壊れてしまったはずなのに、それなのに平気で笑っていられるものなの? みんなならわかるのかしら、わからない私は気が狂れているのかしら。ねえ、パチュリー、あなたにはわかる? お姉さまの友だちなんでしょう。私なんかより、ずっと長くお姉さまのそばにいたんでしょう。お姉さまのことを教えてよ……大丈夫だって、壊れてなんかいないって、そう、言ってよ」
 その言葉を聞いて、しかし私はなにも答えることができなかった。本来なら知っていなければいけないはずの答を、私自身がいまだ打ち出せないでいたからだ。私の意志はとても薄弱で、彼女の求めることを口にするには、まだ勇気や覚悟といったものの類が用意できないでいたのである。
 レミィは今、しあわせである。はたから見てそれがどんなにか滑稽な光景に見えようとも、本人にとって、あの二人にとって、この瞬間はまさに幸福と愛に満ちている。それがどんなにかイミテーションに等しいものであろうとも彼女たちはかまいやしないだろう。なにかを頑なに信じる気持ちはとても強い力を持つ。嘘をまことに変える。奇跡を生み、願いを叶える。ともすれば今度のことは、レミィが失ったものの復活を強く望んだその結果なのかもしれない。
 だからこそ、私にはどうすることもできない、なにをしても無駄だという諦観が胸の内のどこかでくすぶっている間は、あの二人に向き合ったところで、いったいなにができよう。
 ああ、まったく私は考えるばかりで、考えることしかできなくて、考えたところでなにかを変えられるわけでもなくて。
 だから……もしかすると、望んでいたのかもしれない。
 彼女のその言葉を、心のどこかで。
「……答えてはくれないのね。答えられるわけなんて、ないか」
「………」
「あなたが悩んでいたいのなら、いつまでも悩んでいるといいわ。考える時間はいくらでもあるからね。でもね、パチェ、誰もあなたを待つとは言っていないのよ。お姉さまも、あのメイドも、門番だって、ここの悪魔だって……私だって。みんながみんな、いろんなことを考えて、悩んで、決断しようとしている。自分のしあわせのために、いっとうのやり方を探しているわ。お前もなにかやりたいことがあるのなら早くしたほうがいいわよ、私がお姉さまを殺してしまう前に、ね」
 そう言って彼女は笑った。実に晴れ晴れとした笑顔だった。自信とやる気に満ちている。これが私の答えだと、私に当てつけるかのようでもあった。その行動にしかし私はさして驚くことはなく、ああ、やっぱりかと息をつくばかりだった。だって彼女はいちばんはじめに口にしているのだ。姉なんか捨てていくと、あれはもう、姉ではないと。
 その意志の強いことといったら、私には眩しくて、思わず目を背けずにはいられなかった。それでもなお射貫かれるような視線を感じずにはいられない。釘付けにされるというのは、こういうことをいうのだろう。たまったものではなかった。もういい、わかった、わかったから、その目をやめて……
「そんなことを、わざわざ話しにきたっていうの? ばかね……私なんかに話して、どうするのよ」
「さあね、特に意味はないんじゃない? でも、そうね、せっかくだから誉めてよ。実の姉を殺害するなんて、身を切るような決断をした私の勇気を、さ」
「……そう。おめでとう、流石ね」
「つまらない返事ねえ。それとも、お姉さまがまだご存命だからつれないのかしら。それもそうね、有言しちゃったんだもの、はやく実行に移さないとね。いつがいい? いつ、殺してほしい?」
 それはまるで遊びに行く日付を決める子どものようで、無邪気で楽しげな様子に見えて仕方がなかった。曜日や、時間や、殺し方や、あるいは密室トリックの作り方。三流ミステリのような殺害計画を嬉々として並べ立てていく彼女を見ていると、敵わないな、と思わずにはいられない。やはりあの姉にしてこの妹なのだ。自分勝手で、独走しがちで、けれどもその芯の真っすぐしていることといったら、私の百倍も万倍も力強い。彼女には彼女なりの信念がある、それのおもむくままに、彼女は姉を殺すのだろう。
 だから……こんなふうに考えずにはいられない。
 考えてしまった。
 それならそれで、いいじゃないかって。
 もう、私がうだうだと悩まなくたっていい。
 全部彼女が、なにもかも綺麗に終わらせてくれるのだ……
「――……早くなさいよ」
 ぽつりと呟く。すると途端に、それまで饒舌だった彼女のおしゃべりがぴたりと止んだ。空気の張り詰めたのがよくわかる。私は不意に心臓を掴まれたような胸の苦しさに襲われた。実際この瞬間、彼女に握られているのかもしれない。
 それでも、一度滑り出した口はもう止まらなかった。情けのないだとか、優柔不断であるとか、そういった感情は頭に思い浮かびはしたけれども、浮かんだそばからあっと言う間に弾けて消えた。心の安寧と安定を求めようとする気持ちばかり、もう抑えようのないほどに膨らんでいた。
「もう、いいじゃない。私のことなんか放っておいて、あなたはあなたのやりたいことをすればいいでしょう。殺したいなら、殺しなさい。別に、引き留めようなんて思わないから。……あなたがこの茶番を終わらせてくれるっていうのなら、その方がずっとずっと楽だもの。私、疲れたの。ちょうど少し、一休みしようと思っていたのよ。ちょっとうたた寝をして、目が覚めた時には悩みの種がなにもかもすべて消し飛んでいたとしたら……ねえ、それはとても、とても素敵なことだと思わない……?」
 ああ、我ながら、最低だ。一度は引き受けるといった事の一切を、こうも簡単に投げ出せるのか。けれどもだって、その方がずっと楽で、確実なんだもの。これほど固い決意を持ったひとがいるのなら、そのひとに任せた方がずっと上手くいく。私のような、弱いものが頑張る必要はないのだ。誰かを守るのにも、救うのにも、最後に必要なものは決意じゃない、困難に立ち向かってなお打ち勝つことができるだけの、力だ。
 私には、それがない。
 彼女には、それがある。
 投げ出す理由には……十分じゃないか。
「それは、本気で言っているの?」
「……冗談に聞こえた?」
「いいや。……そう、それがおまえの答えなの。やっと本音を言ってくれたね、うれしいよ、私は。そうかあ、私は、私のやりたいように、私の思うままに、お姉さまを殺してもいいのね。お姉さまを、救ってもいいのね。パチェがそう言ってくれるなら、きっと間違いじゃないよね。お墨つきまでいただいちゃった。よかったあ、たくさん悩んで、考えて、そうやって生み出したやり方が否定されなくって……私は、うれしいよ」
 私を見据える、そのひとみはどうしてか落ち着いた色をしている。浮かれた口調とは裏腹に、ひとみの奥底にゆっくりと消沈していくなにかの存在を私はふと感じ取った。
「妹様……?」
「ううん、なんでもないの。それじゃあ私、もう行くわ。近いうちに、良い知らせを届けるからね」
 けれどもそれがなんなのかを確かめるよりも前に、彼女は目を細めて笑顔を作ってみせると、踵を返して私に背を向けて行ってしまった。それに合わせて宝石の羽が軌跡を描く。燭台の火を受けて、万華鏡のようにその色を揺らめかせた。
 揺れ動くたびに、きらきらと、いろんな光を放ってみせる。
 怒りや、喜びや、あるいは悲しみの色を。
「でもね、パチェ」
 その後ろ姿の本棚の森に消えてしまう前に、ふと立ち止まって彼女は口を開いた。距離はだいぶ離れている、耳を澄まさなければ声なんて聞き取れそうにない。しかし辺りの空気はいやにしんとして、彼女の言葉を遠くまで響き渡らせていた。
 響き、跳ね返り、波紋となって私に届く。押し寄せるような、不思議な威圧を伴って。
「私はきっと、なにもできないよ」
「………」
「昨日は、狂おしいくらいに満月だったから。今日も日が暮れたら、気の狂れた月が昇るのかしら。狂れすぎてほんの少し壊れて欠けた、まっしろな月が」
 そんなことを言い残して、今度こそその姿が闇に融けた。宝石の羽の閃きも、もう見えない。
 存在感をまったく感じなくなってから、私ははあ、と息を吐いた。全身に纏わりついていた重圧から解放される。安堵とも疲労とも言えない心地が、胸の中に満ちていく。どうしてそんな圧力に苛まれていたのか、今となっては理由もわからない。彼女は、フランドールはどうして、私を訪ねてきたのだろう。ただ話を聞いてもらいたかった、というわけでもなさそうだ。これから自分の成すであろうことの申告か、あるいは――もっと別のなにかを、忠告したかったのだろうか。
 なにを考えていたのだろう、伝えたかったのだろう。姉を殺してみせると宣言しておきながら、去り際にはなにもできないとも言ってのける。矛盾している。決行の前から結果を知っているなんておかしな話だ。それじゃあまるで自分の行く末を、運命を見通しているみたいじゃないか。
 それこそ、自分の姉のように。
 彼女にはもう、なにもかも視えてしまっているのか。
 彼女にはわかっているらしい、この茶番劇の結末を、私も脳裏に描こうとはしてみたけれども、しかし上手い想像は結ばれない。フランドールという大役者が舞台に立つことができないとなれば、思考は結局振り出しに戻るばかりだ。すなわち、私の諦観で幕を閉じる。どうしようもなく消極的な、後ろ向きの幕引である。喜劇でもなければ、悲劇でもない。感動も刺激もない。勾配のゆるい坂をのたのたと下って、落ち着くところに落ち着くだけ。それは、私の意志が失意の沼に沈んでいく過程のグラフにもよく似ている。
 私にはできない、と彼女は言った。あなたがやれないというのなら、いったい誰が終わらせてくれるというのだろう。ほんの少し、裏切られたような気持ちだった。というよりは、期待はずれといったところかもしれない。けれどもそれは彼女とて同じことだろう、向こうもまた、私になにかを期待してきたのだと思うから。ひょっとすると、反発してほしかったのかもしれない。私に任せろと、胸を張ってほしかったのかもしれない。本の森に消えていったあの後ろ姿をふと思い出して、今さらそんな感想を抱いた。
 わかってるともさ、あの子がどんな言葉を欲しがっていたかだなんて。
 でも言えなかった、言わないことにした。
 だってそのほうがずっと心が楽なのだ。
 私は、卑怯なやつだ。
「そんな卑怯者に、いったいなにができるのかしらね……」
 立ち向かいたくないというわけではない、レミィを妄念から解放してやりたいと想う気持ちはほんものだ。だけど、それを実行するのは必ずしも私でなくてもいいのかもしれない。なにもせずにじっとしていれば、そのうち誰かが最善で最良のやり方で解決してくれると、そんな後ろ向きな道だって選択肢のひとつには変わりない。知らず知らずのうちに、岐路に立たされていた。進むべき道を、選ぶ時だ。進むのも、退くのも、立ち止まることも私の意のまま。私の決意。私の、想い。
 私は、レミィを――

「お願いよ……あと一晩だけ、今日だけ、時間をちょうだい……」

 ひび割れた心の隙間から、あの日の絶望は今でも滲み出して、私の胸を不安と恐怖に染め上げている。救いたい。けれど自信がない。おなじ過ちは、繰り返したくなんて、ない。
 ゆっくりと目を瞑ると、瞼の暗幕に、静かに映し出される光景があった。珠のような月と、満天の星空。酔いしれてしまいそうな夜の――未だ醒めない、悪夢。


 今日もまた、いやな夢をみる。

 

 

 

 

 

 ▽


 間に合わなかった。
 追いつけなかった。

 眩い光が闇夜を塗りかえる。閉じた瞼を突き抜けてさえ目を焼く閃光は、真夏の太陽のそれとなんら変わりない。――いや、むしろ太陽そのものだ。あらゆる闇と不浄を照らし尽くす天照御神の天光が小さな小さな紅を呑みこんでいくさまを、私はこの手の届かない遠いところから、まざまざと見せつけられていた。

「ぁ、……」

 光の迸ったのは一瞬だった。なにもかも、一瞬で終わった。一秒にも満たない刹那で、私の最愛のひとは焼き尽くされた。レミィの体がゆっくりと傾ぎ、やがて重力に引かれ地に落ちていく。その赤い軌跡の動き出したと同時に私はしゃにむに飛び出した。なにが起こったのか、どうしてこうなったのかの理解は追いついていなかったけれども、今この瞬間にも友人の失われようとしている、そのどうしようもない絶望感だけは、いやになるほどはっきりとしていた。

「――っ、レミィ!!」

 夏の夜の大気は肌にねっとりとまとわりついて、駆け出そうとする私の行く手を阻もうとしているかのようだった。飛行は思うように風を切れず、熱帯夜のぬるい空気は息をするたびに容赦なく肺腑に滲みて、息苦しさで胸を押し潰そうとする。それでも、この体を止めることだけはしたくない。こんな苦痛、彼女に比べればなんてことはないに違いないのだから。
 焼けた皮フ、裂けた翼。生気のすべてを失って、落ちる、墜ちる、堕ちる。
 ――許すものか、そんなこと。
 身も心もひび割れて、ガラス細工よりも脆いものに成り果てて、そんな彼女に今一度衝撃を加えようものなら、ぱりん、とかん高い音と共に砕けちってしまいそうで。それが私にはたまらなくこわい。終わりのはじまりのように思えてならない。連鎖的に連続的に、狂った歯車は周りのものなにもかもを巻き込んで、ねじ曲げ、崩壊させてしまう。
 どこかで、止めなくちゃ。
 私がやらなくちゃ。
 これ以上、私の愛した日常の、引き裂かれ千切れていくところを見ているだけなんて、堪えられなくて。
 私の愛したひとの、引き裂かれ千切れていくところを見ているだけなんて……悲しくて。
 だから手を伸ばしたのに。
 なにもかもを投げ出す思いで、救いを差し伸べたのに――!!


 ばちん、と。
 間抜けな音がして、救いの手はなくなった。
 なくなったのだ。


「え、」


 手が、ない。無い。亡い。レミィを掴み抱き寄せるはずだった私の右手が、どこにも見当たらない。おかしいな、そんなはずは――ああ、まさか、どうして……
 茫然自失とする脳内に、蒼炎を思わせる青白い光が飛び込んでくる。その冷淡な輝きには見覚えがあった。守るのではなく、封ずるためのもの。退魔の炎。侵入を拒む壁。私の介入を良しとしない誰かのもたらした、不可侵の境界。
 この手は、融かされたのだ――結界に。
 それもとびっきりの、四重、八重に重ねられた、私とレミィとを引き合わせんとする、強烈な悪意の込められた。これでは、掬えないし救えない。伸ばしたこの手の、彼女に届くことはついになくて、
 だから、落ちた。
 ぐちゃりと。
 結界の向こうに血塊が――、たいせつなひとが、決壊して、


「“決闘中”よ。第三者が手を出すのは、無粋なことだと思わない?」


 瞬きをすると、次の瞬間、結界を隔てたレミィのそばに、また別の紅色が立っていた。それと同時、混濁する思考の中にふと飛び込んでくる声があった。聞き覚えのあるような、それでいてまったくの別人のような――けれども一つだけはっきりとしていることがあった。この結界を張ったのは、私を檻に封じ込めたのは、……レミィを、傷つけたのは、この……!
「決闘……ですって? これが、こんなのがっ、……決闘?!」
 焼け落ちた手の痛みや熱は、それを上回るほどの激情に圧されてその感覚を麻痺させていた。奪われた、躙られた、殺された! 私のいっとうのひとを嬲られておきながら、それでどうして正気でいられよう?!
 美しさの欠片もない。たった今目の前で繰り広げられていたものは、ただただ強者が弱者を蹂躙し駆逐する、純然たる戦闘行為だった。破壊と殺戮を目的にしていた。目的のために手段を選ばなかった。それはこの幻想郷にはもっとも似つかわしくない方法だ。目的がなんであれ、まず手段の美しさを――スペルカードの華を競うのが、この郷の“決闘”ではなかったの? ねえ、どうしてよ。あなたが決めたことじゃないの。美しく戦いましょうって。華麗な弾幕を魅せましょうって、あなたが、そう言い出したんじゃない……
 博麗の、巫女。
 他の誰でもない……お前がそれを、ないがしろにするのか!!
「……決闘よ。お互い、誇りを賭けて戦ったわ」
「なにを、ばかなこと言って、」
「私は巫女としての誇りを賭けた。幻想郷の秩序として、するべきことをしたまでよ。私、妖怪退治屋だもの。人間に迷惑をかける妖怪を退治して、なにか、おかしいことでも?」
 彼女の口振りは揺るぎない。義は自分にある、そう頑なに貫き通している。
 私も、なにか言い返そうと思って、けれどもっともらしい反論はなにも思い浮かばなかった。しどろもどろになって言葉が詰まる。瞬間的に沸き上がった熱量は、しかしあっと言う間に冷めていった。冷めざるをえなかった。
 見えてしまったのだ、私には。
 気づいてしまったのだ、私は。
 どうしてこんなに、死の匂いがする。
 レミィのものじゃない。
 レミィの、ものでは、
「おかしいに、決まって……レミィが、なにをしたって言うのよ……傷ついて、哀しくて、たまらなくて、だからレミィは、」
「殺したのね」
 違う。
 違う、そうじゃない、だから、
「約束したわよね。あなたたちを受け入れる時――契約、したわよね」
「っ……」
「それなりに、信用を置いて……信じていたつもりだったのだけれど。でも、裏切られてしまった。それも最悪のやり方で」
「ちがっ、「いい加減に直視なさい。幻想郷の中で起きた夢みたいな出来事は――なにもかも余すところなく、現実よ」
 気づいてる。気づいてた。気づかないふりをしていた。
 だって気づいてしまったら、これを現と認めてしまったら、
 私の最愛のひとは、殺されてしまうじゃないか。
 レミィには、その責任があって。
 巫女には、その義務があるのだから。
 ひどくなまぐさい臭いがして、その悪臭の漂ってくる方に視線を向けると、茂みの影になにか赤黒いものが横たわっているのが見えた。それの撒き散らしている汚臭には、ああ、もちろん覚えがあるとも、忘れられようはずがない。だってそれは友人にとって欠かせない糧の臭いなのだから、彼女と長い時間を共に過ごしてきた私の記憶に、染みついていないわけがないのだ。
 血の臭いだった。
 濃密な。
 舌先にあの鉄の味がふと蘇ってきて、思わずむせ返って吐き出しそうになった。
「……違う」
「なにが?」
「違うわ、レミィがこんなことするわけないじゃない。……だって、だってっ、」
「だって、約束していたものね。契約をしていたはずだものね。もうこの郷里に息づくものに無用な危害は加えないって、そういう悪魔の契約を交わしたものだとばかり思っていたのだけれど、ああ、私の勘違いでなくてよかったわ。私と、いえ、私たちと、幻想郷と――そこの吸血鬼は、とてもたいせつな約束を、していたはずなのに」
 私たちを見下ろす巫女の目は、なんとも言いがたい色を湛えて月の光をゆらゆらと反射させていた。悲嘆や憤怒、あるいは失望の入り混じった、とても冷たいひとみ。普段の彼女を知っているひとならば、誰しもが目を丸くして驚くだろう。あの能天気な巫女に、こんな表情が浮かべられたのかと。そしてその能面のような形相を浮かべさせたのは、いったいどこの誰なのだろうと。
 それは、
 それは私の……
「こんな気持ちははじめてだわ。こんな気持ちで、妖怪退治だなんて、今までしたことなかった」
 抑揚のない声が投げかけられる。それに返す言葉を、私は口にすることができなかった。感覚は瘴気にも似た血臭に鈍麻して、どんな思考も形にならない。そうやっていつまでもぐずぐずしている私のことを、巫女はまったく意に介していないようで、その視線が捉えているものはかつて彼女が親しくしていたはずの妖怪の変わり果てた姿であった。ともすれば今までの言葉はすべて、そこにいる小さな妖怪に向けられたものなのかもしれなかった。
「あなたはわかってくれているものだとばかり思っていた。人間の生き方や在り方、その尊厳について、とても理解のある妖怪のひとりだと信じていた。だって“あいつ”が傍にいたんだもの、ずっと、上手くやれていたんだもの。そんなもの見せられたら誰だって信じてしまうわ、あなたのこと。
 ……でも、そうじゃなかったのね。結局あなたには、人間と妖怪の違いだなんて、身体の強靭さや、魔法の才能や、そんなことぐらいしか気づけなかったのね。あれだけ一緒にいて、たったそれだけのことしか……」
 そこまでを言い切ると、不意に彼女の顔が伏せられて、その表情が暗がりに隠れて見えなくなってしまった。すると途端に、彼女の戦慄く肩の小ささが目につくになって、彼女のいかにも人間らしい矮小さが一際目立つようになった。彼女の、人間としての、いや老いてゆくものとしての、どうしようもない終末感。それとよく似た雰囲気を背負った背中を、私もレミィも、とてもよく見知っている。
 だからきっとレミィは、今晩巫女と出会って、とても驚いただろうな。
 ああ、このことばかりは覆せないんだな、って。
 人間が人間のまま、死を克服することなんてできないって、その運命に抗うことは、どうやったってかなわないんだって。
 レミィの力を持ってしても、打ち勝てないものはこの世にたしかに存在する。
 人間には、――勝てない。
「ねえ、あまり人間を馬鹿にしないでちょうだい。なにもかも失っただなんて、気安く思い込んだりしないで。それはね、なにかを残していってくれたはずのあいつに対する、……ひどい侮辱だわ」
 巫女の腕がすっ、と伸びて、御幣の先端がレミィの痩躯に向けられた。ひやりとしたものが背筋を走り抜けた。研ぎ澄まされた霊力の奔流を感じる。言い換えるならそれは、決して揺らぐことはないであろう、絶対の殺意だった。
「……っ、やめて!」
 その感覚はもはや突き刺すような痛みにさえ感じられて、たまらずに私は声を張り上げた。もう見ていられなかった。レミィも、巫女だって、これ以上体や心を磨り減らす理由なんて、なにもないはずだ!
「もういいでしょう、罰なら受けたわよ! 今度のことは確かにレミィの非でしかないけれど、でも、彼女の気持ちも汲んであげて……なにもかもを理不尽に感じずにはいられなかった痛みをわかってあげて! 仕方のないことだったのよ! ……ねぇっ、なにか応えてよ!」
 けれども私の言葉は届かない。喘息のこともすっかり忘れて、体中の空気を吐きつくさんばかりに喉を鳴らしても、零れるものは嗄れはてた、声にならない声ばかり。それさえもなにか見えない壁に撥ねつけられて、誰の鼓膜も、大気さえ震わせていないようだった。どうして私にはこんなにも力がないのだろう。大声で叫ぶことさえ満足にいってはくれないのか。そんなのってないでしょう。くやしい。なんにもできないことが、くるしいよ! ねぇ、聞こえているんでしょう! 私のことを無視しないで! お前を背中から撃ち殺してやることだってできるんだぞ! それ以上友人にひどいことをしようっていうんなら、私は、刺し違えたってお前を――

 


「――――もう、いいんだ」

 


 その時ふと、応える声があって。
 私の望んだ反応が、返ってきたはずで。
 けれどもなんだろう、この声音は。ありえるものか。ありえていいものか。だって、だってあなた、そんなに傷だらけじゃないの。痛くて苦しくて、たまらないはずでしょう? それなのにどうして、こんな、ああ……

 どうしてこんなにか、安らかな声をしているの?
 ねぇ、レミィ。
 いったいどうして、そんなに安堵しているの……

「レミィ……」
「………」
「ねぇ、レミィ答えてよ。意味がわからないわ。なにが、いい、なのよ。もういい、なのよ。なにもいいことなんてないわ。悪いことばかりじゃない。うそみたいな、悪夢のような、滑稽な理不尽な意味不明な絶望的なっ……! このままここに居続けたら、あなた、ほんとうに、めちゃくちゃにされてしまうわ。私そんなのいやよ。もう堪えられない。どうしてあなたばかりそんなに傷つかなくてはならないの。私が少しでも代わってあげられるのなら、今すぐにだってそうするわ。いちばんの友人のことだもの、魂を賭すことぐらい、どうってことない。巫女の足止めなら私がしてあげる。あなたが遠くへ逃げ延びる時間ぐらい、作ってあげられる、だからっ! ……ねぇ今からでも遅くはないわ紅魔館に帰りましょう。帰って、今日はもう寝てしまいましょう。今晩のことは、全部悪い夢なのよ。ありもしない、あってはいけない世界だわ。だからもう目覚めてしまいましょう。夢から醒めましょうよ、レミィ。帰るのよ、紅魔館に、私たちの現実に――」

 ……咲夜のいない現実に、帰らなくてはだめなのよ。
 お願いよ、レミィ。
 帰ろうよ……

 友人はついになにも言わなかった。ただ、その顔にうっすらを浮かぶ穏やかな微笑みばかりが、私におぞましい感情を抱かせる。どうして理解してもらえないのだろう……そして、こんなにか理解しがたいのだろう。彼女はこんなに愚かだったろうか、物分かりの悪いひとだったろうか。私の敬愛していた吸血鬼はいったいどこにいってしまったのだ。誰に連れて行かれてしまったのだ。
 誰が彼女を狂わせた。
 ちくしょう……、
 ちくしょうっ!!
「話は済んだ?」
「………」
「じゃあ、そういうことだから」
 御幣が振りかざされる。それと共に巫女がひとつ、ふたつ、祝詞を呟くと、彼女を中心に黄金色の陣がわっと拡がって、一面の暗闇が瞬く間に焼き払われた。妖魔を伏させる神性の結界は、その内に濃密な霊力を溢れんばかりに湛え、その炸裂の瞬間を今か今かと待っている。これほどの光に焼かれれば、レミィはおろか、私だってひとたまりもないだろう。けれどもどういうことだろう、私を封じていた警醒の陣はこの瞬間、私を閃光からかばう防壁へとその役目を変えていた。隔離という名の庇護だった。無疵と引き換えの、絶対的な無力。
 おまえはそこで見ていろと、見ていることしか、許さないと。
 この期に及んで、そんな――!
「手加減してしまったら、ごめんなさい。私、今、すごくいやな気持ちで胸がいっぱいなの。もしかしたらよくない感情が邪魔をして、全力を出し切れないかもしれない。昔のようには行かないわね、やっぱり。なにもかも、昔のままではいられないのね……でも、それが当然なのよ。変わらないことのほうが異常だわ。あなたたちには、それをわかっていてもらいたかった。人間は変わるって、代わっていく生き物なんだって」
「……代わりなんていないわよ。いないからレミィは、こんなにっ、」
「あるわよ。あいつの代わりならちゃんとあるわ。でもね、それってそんなに悲しむこと? だって人間ってそういうものでしょう。世代をいくつもいくつも重ねながら、未来に向かって行く生き物でしょう。次の代に次の次の代に、いろんなものを遺していくために、人は生きるの。あいつだってそうだったはずよ。必ず、あなたたちに遺したものがあったはず……それってつまり、ほんものじゃない。あいつの代わりで、だからこそあいつそのものなんじゃない。なのにそれをいらないといって投げ出してしまうなんて、妖怪ってほんとうに愚かでばかね。脳みそが入っていないらしいんですもの、仕方がないのかしら。ああ、もう、ほんとうに……


 ばかよ、あなた。
 大ばかよっ……!」


 瞬間、とてつもない霊力の奔流が結界の内に吹き荒び、溢れ出した閃光は天上へと突き抜けて天高い光の柱を形作った。漆黒の天蓋が割れていく。妖怪の夜が、怪奇の闇が、圧倒的な力の前にねじ伏せられていく。魂さえ焦がされるような光熱の狂騒の中で、しかし私は双眸を大きく見開いて、渦中に取り残された二つの紅を凝視していた。血と、太陽と。どちらともいっとう鮮やかな、輝かしい生命の色だった。
 その太陽の腕がそっと友人の頬に触れる。慈しむように、あやすように。あんな顔で微笑まれてしまっては、もう私に叫ぶことのできる言葉なんてひとつもなくなってしまった。私の胸中を支配する感情はすでに憤怒のそれではなくなっていた。おかしいな、さっきまであんなに敵意を漲らせていたのに、いったいどうしてしまったんだろう。あんまりに熱くなりすぎたせいで、情動の中枢や、精神の最奥なんてところがぷっつりと焼き切れてしまったのだろうか。きっとその通りだと思った。全身無気力で、もう指先の一本さえ動かせそうにない。ひどい空虚感が体中に染みている。やっぱり、私じゃだめなのかな。私じゃ救ってあげられないのかな。どうしてレミィはあんなに安寧とした顔をしているんだろうな。目の前の人間に、これから殺されるっていうのに。――ああ、そうか、人間だからか。大好きな、人間だからか。人間なら仕方がない。勝てなくたって、敵わなくたって、どうしようもない。


 レミィは、
 私は、
 人間には勝てない。


 勝てない。


 勝ちたい。


 勝ちたい、克ちたい、ちくしょう、どうして……どうしてどうしてどうしてッ――! 私の方がずっと優れているのに! 私の方がもっと愛しているのに、どうして! 人間のくせに! 弱くてちいさな人間のくせにっ、いなくなってからもレミィを束縛したりなんかしないでよ!!

 流星みたいに、
 あっと言う間に、
 死んでいく人間のくせに!!

 

「さよなら、私のはじめてのひと。
 ……あなたの堕ちたかった地獄に、きっとあいつは、いないわ」

 

 すべては、刹那の間の出来事で。白昼夢のような一瞬が終わると同時に、私の網膜は焼け尽きた。世界を塗り替えるような怒涛の白に、私自身の思考もまた呑みこまれ溶けこんでいった。その消失のさなかに、様々な記憶や光景がちらついてはかき消えていった。それは人間の形をしていた。流れ星のように死んでいった、ひとりの人間の笑顔だった。


 もしかすると、私は、
 あんなにか人間のように胸を痛めることのできる友人が、
 せつないほどに、うらやましかったのかもしれない。

 

 

 ▽


 眩しさに目を覚ました。見開いたはずの視界はなにもかも真っ白で、世界の輪郭が浮かんでこない。網膜に焼けついた白、記憶に灼けついた、白。夢を見た後はいつだってこうだ。あの日の光景は灼熱色の刻印として、私の脳髄の奥深いところに刻まれている。何度でも何度でも繰り返す。あの時の気持ちを忘れないように、無力だった自分を戒めるように。
 しかしその夢の終わりの白幕も、時間とともに勢を弱めて、数分もすると視界は見慣れた図書館の薄暗い風景に馴化していった。整然と立ち並ぶ本棚の林と、停滞して淀んだ空気に、饐えた紙と糊の匂い。百年と住まってきた場所の様子を確認して、私はようやく現実に帰ってきた実感を――得られなかった。

「……なに?」

 違和感、というよりはむしろ、虫の知らせに近いだろうか。なんとはなく、胸のざわつくような……いや、ざわついているのは私の内心だけじゃない。図書館が、いや館全体が戦慄いているような、そんな妙なノイズをひしひしと感じるのだ。いやな予感がする。私は慌てて周囲を見渡した。テーブルの上には読みかけの本に、片付けられないままのティーセット。光の潰えかけた室内灯は、うすのろに針を回し続ける時計をぼんやりと照らしている――私は机上からそれを引ったくって文字盤を凝視した。時刻は零時を回っていた。それを見た途端、ぞっとするような怖気が背筋を這い上り、たまらず張り詰めた脊柱は私の視線をそのまま天井へと押しやった。地下二階から地上一階までを吹き抜ける大図書館、その天上に小さな穴を開ける天窓の向こうから、まばらな星の光と、わずかばかり、月のほのかな光が降り注いでいた。


 ――誰もあなたを待つとは言っていないのよ。


 誰かの言葉が、蘇る。わたしは、救いようのないほどに、ばかだった。


 ――昨日は、狂おしいくらいに満月だったから。
   今日も日が暮れたら、気の狂れた月が昇るのかしら。


 ああ、今日も月は昇るだろう。
 必ず昇るだろう。
 それは彼女が主からもらった、大切なものの名前なのだから。


 ――狂れすぎてほんの少し壊れて欠けた、まっしろな月が。

 

 


 あの月は……十六夜だ。

 

 

 


「――ッ、パチェ!!」


 どおん、と低くて鈍い音が図書館中に響き渡った。蹴倒すような勢いで大扉を押し開け、誰かが一目散にこちらへ駆けてくる気配を私は感じていた。その気が誰のものであるかなんてことは考えるまでもない。百年来の友人の声を、どうして聞き間違えるができようか。
 息を切らせる音がする。血をたぎらせる音がする。やがて本棚の合間の薄暗がりから姿をみせた友人の表情は、幽鬼のような歪んだ形相をして、今すぐ昏倒してもおかしくないほどに青ざめていた。ひどい絶望の色が浮かんでいた。ともすれば世界が終わってしまったかのような、
 いや、
 終わりはじめているのか。
 またしても……!

「レミィ……いったいどうし「さくやが……っ!」

 やめてよ、そんな泣きそうな声をあげないで。あなた吸血鬼でしょう。妖怪のカリスマでしょう。もっとしゃんとしていなさいよ。そんな迷子の子どもみたいな、みっともない顔をしないでよ。格好わるいわよ、レミィ。あなたらしくもない。レミィじゃないみたい。こんなの、私の好きだったひとじゃない! にせものめ! レミィを騙るな! 私のレミィはもっと強くて、賢くて、格好よくて、明るくて、無邪気で……私の友人で、いつまでも仲良くしてくれて、誰よりも信頼してくれて、それから、それからっ……


 ずっと、私のことだけを見つめてくれるひとだったなら、
 それはどんなにしあわせなことだったろう。


「さくやが、いないの……どこにもいないの……
 私をおいて、いなくなっちゃったんだよお!!」



 



Yahoo!繧ク繧ェ繧キ繝�ぅ繝シ繧コ
Yahoo!繧ク繧ェ繧キ繝�ぅ繝シ繧コ