□サブタレイニアン・シスターズ
私と妹のことだ!
お前には、関係ない!
「なにを、今さら……」
お姉さまが、自分がいちばん信頼を置いているはずのメイドに向けて声を張り上げるだなんて、にわかには信じられなかった。
そして、彼女に向けたその言葉の内容も……信じられない。
あるいは、信じていない。
だってそうじゃないか。今まで姉らしいことなんてなに一つしてこなかったくせに、どうして今になって私たちは姉妹であるだなんて声高らかに叫んだのだろう。それも、大したことのない口喧嘩なんかを発端にして。唐突にこの目に飛び込んできたお姉さまの激昂の、その理由が、意図が、私にはちっとも見当がつかなかった。だから考えた。お姉さまと折り合いが悪くなってからのこの三日間、何百年と過ごしてきた自分の部屋で、そのことばかりを何度も何度も思い返していた。こんなふうに思い悩んだことなんて、もしかするとこれがはじめてのことかもしれない。あらためて考えてみれば、姉妹、というものがいったいどういうものなのか、私にはてんで想像がつかなかったのだ。仲が良ければ姉妹なのか。片時も離れたことがなければ姉妹なのか。それとも、お互いに慕いあっていれば、愛しあっていれば、姉妹なのか。
それならばきっと、私たちの関係は姉妹とは言えない。
だって、……だってお姉さまは、私のことを――
「……お姉さま……」
お姉さまの考えていることが理解できた日なんて、この五百年の間に一度だってなかったけれど。でも、今度ばかりはその気持ちを知りたいと、心の底からそう強く思っている自分がいた。お姉さまのことを知りたい。確かめたい。あの人はいったいなにを考えてあんなことを言ったんだろう。私のことを、どんなふうに思っているんだろう。お姉さまにとっての私は、いったいどんな存在なんだろう。……けれども答えはすべて霞がかった視界の向こう側にあって、私がどんなにか目を凝らそうとも、その輪郭さえも浮かんでくることはなかった。読めないのだ。見えないのだ。私にはお姉さまの心が、なに一つとしてわからない。
あの人のことが知りたくて、理解したくて、こんなにかたまらなくなったのは、はじめてで。
こういう時、人の心が読める力があったらなぁ……なんて。
胸の奥深いところから、そんな気持ちがすぅっと浮かび上がってきた、その時だった。
「やめときなよ、そんなの」
――ふと、どこからともなく投げかけられた声があった。澱んだ空気の微かに震えた感じが、確かに鼓膜に伝わってきたのだけれど……でも奇妙なことに、肝心の声の主の気配はどこにも感じられなかった。まるで壁や天井に話しかけられたかのような、不思議な感覚。でも、まさかそんなはずはないだろう、ちゃんとした声の正体がどこかに在るはずだと思って、私は薄暗い部屋の中をぐるりと見渡した。地下深くに設けられた冷たい部屋。通る風も無く、肺腑に落ちる空気はすっかり濁りきっている。明りと言えば壁に掛けられた数個の燭台に灯された炎ぐらいだけれど、しかしそれもひどく弱々しくて、室内の隅々までを照らし出すには至っていない。部屋の四隅には漆黒と呼ぶに相応しい暗闇が横たわっていて、そこには手を伸ばせばどこまでも沈んでいきそうな深さも感じられて……
だからこそ、そこに見つけた“彼女”の姿は、ちょうどその暗闇からとぷんと浮かび上がってきたかのように見えた。ちょうど、そう、水底から死体の浮かんできた、あの感じ。それならなるほど、音や気配や、なんの前触れが無くたって納得がいく。
それじゃあいったい彼女は、どこからやってきた死体なんだろう。どうやってこの部屋まで流れ着いて来たんだろう……?
「他人の心が読めたって、哀しくなるだけよ」
「……そうかな」
「そうよ。経験者が言うんだもの、間違いないわ」
そんな私の疑問をよそに、彼女はにっこりと笑ってそう言った。それは死体らしくないとても明るい笑顔で、それだけでこの部屋がほんのすこし眩くなったような気さえした。その柔和な顔が、一歩、二歩と私のほうへと近付いてくる。薄闇から抜け出して、燭台の灯火の当たるところまでやって来ると、うすぼやけていた彼女の輪郭が途端にはっきりしたものになって、その気配や雰囲気もあっと言う間に現実味を帯びていった。
ほんのりと青みがかった白髪に、それとおんなじように白い肌。それらが揺らめく炎の光にほんのりと染め上げられているのが、可愛らしく、けれどどこか艶やかにも見えた。リボンの映えるお洒落な帽子を胸に抱いて「こんにちは」と挨拶をした彼女に、私もまたおずおずと挨拶を返した。いつの間にやら、すっかり彼女のペースに取り込まれてしまいつつある。このままじゃあいけないなとそう思って、私はとりあえず彼女にこんな質問を投げかけた。
「あなた、誰なの? ……いったいどうやってここまで?」
「私? 私は小石よ。どうやってここに来たのかは……うーん、普通に玄関から入って、歩いてきただけなんだけどなぁ」
正門には確か、門番をしている妖怪がいたはずだけれど、それを素通りしてきたということは、この名も無き石ころさんはお姉さまか図書館の魔女の知り合いなのだろうか。でもそれにしたって、“ここ”まで来る人がいるなんて珍しい。もちろん私はこの人と面識はないし、向こうだって私を見知っているかどうかは怪しいところだ。私のことを少しでも知っているのなら、そもそもこの地下室に近付こうとはしないはずなのだから。
それならばいったい、彼女がここに来た理由はなんだというのだろう。“どうやって?”の次は、“どうして?”だ。――そんな私の疑問は顔に出てしまっていたのか、彼女はその淡い色合いのひとみで私の目を覗き込むと、それからくすりと微笑してこんなふうに言った。
「うちと似たお屋敷があったから、思わず入っちゃったの」
「似てる?」
「うん。暗くて陰気で冷たくて、それからちょっと血生臭いところなんか、特にそっくり。それで、こっちにも似たようなところがあるんだなぁって、あちこち探検してたんだけれど、……ね」
「……もしかしてあなた、迷っちゃったの?」
「そうなるのかなぁ。このお屋敷、外から見た以上に中が広いんだもの。出口を探し回ってたら、いつの間にかここまで来てしまったの」
確かにこの館は、あちこち空間を弄られているせいで外見以上の異様な広さを持っている。館に詳しくない人が一度迷い込んだら、そう簡単に抜け出すことはできないだろう。彼女もまた、その中の一人と言うわけだ。
それにしても、自分の家とここが似ている、だなんて。確かにこの館は暗くて陰気で冷たくて、ちょっぴり血生臭いところだけれど、そんな場所他にこの幻想郷にあっただろうか。ほとんど家から出ない私には外のことはよくわからないけれど、ここと同じくらいに血の匂いを振り撒いている場所というのを、私は聞いたことがない。
……あぁ、でも。
最近なんか、そんなことを誰かと話したような気もするなぁ。
あれは、確か――
「ねぇ、あなた」
思い出そうとしたところで、投げかけられた彼女の明るい声に思考が途切れた。見つめ直した視線の先で、彼女は心底愉快そうな表情を浮かべていた。
「あなたにも、お姉ちゃんがいるの?」
「……えっ?」
「ほら、さっき言っていたじゃない。「お姉さま」って、とっても恋しそうに」
……この人、いつからこの部屋にいたんだろう。それこそ石ころになったみたいに気配を隠せるみたいだから、もしかするとずっと前からここに居座っていたのかも。だとしたら、嫌だなぁ。独り言とか、どれくらい聞かれていたんだろう。壁に耳あり、障子に目あり。おまけに小石は一人でに動き出して、私に向かってこんな事を言う。
恋しそうに、だなんて。
そんなこと決して、……決してあるもんか。
「恋しそうに、って……なんなのそれ。そんなことあるわけないじゃない。それに、あんなの私の姉なんかじゃないわ!」
「え、違ったの?」
「そうだけど違うの! お姉さまだけど、違うの!」
自分でもわけのわからないことを言っているなあとは、思うけど。でも、上手くは言えないけれど、なにか言葉にするならそうとしか言えなかった。姉だけど、姉じゃない。それとおんなじように、きっとあいつにとっての私も、妹だけれど、妹じゃないのだ。
「ふうん……じゃあ、さっきのは私の勘違い?」
「そうに決まってるでしょう。思い込みで勝手なこと言わないで」
「もう、謝るからそんなに怒らないでちょうだい、ね? ……でもその様子だとあなた、お姉さんのことずいぶんと嫌っているのね」
少しだけ考えてから、そうだ、と答えた。お姉さまのことは……そう、嫌いなのだ。偉そうな物言いは鼻につくし、なにもかも見透かしているんだと言わんばかりの態度も好きになれない。あいつはさも自分が一人前のレディであるかのように振舞っているけれど、その中身には我侭と頑固と欲張りを練って固めたものがぎゅうぎゅうに詰まっていて、そのせいでいつもメイドが困ってばかりいるということを私はよく知っている。「あなたは少し落ち着きが無いから館で留守番していなさい」だなんて、あいつにだけは言われたくない台詞の一つだった。
「お姉さま、いつも自分のことを棚にあげて物を言うんだもの。自分だってぜんぜん立派じゃないくせして、私よりちょっと早く生まれてきたからって、偉そうな態度ばっかり」
「ああ、その気持ち、ちょっとわかるかもー」
そう答えた彼女の言葉が少し意外だったので、私は思わず「えっ」と息をもらしてしまった。私の気持ちが、わかるだなんて……そういえば彼女、こう言ってたなぁ。あなたにもお姉ちゃんがいるの? って。
「私のお姉ちゃんも偉そうなことばかり言うのよ。私はなにもかも悟っているから、とかなんとか言っちゃって。ほんとうは私よりずっと弱いくせして、下手に格好つけて大物ぶってるのよ」
「……あなたにも、お姉さんがいるのね」
「そうよ。陰気で根暗で後ろ向きで、嫌われ者で鼻つまみ者で臆病者で、無責任で、監督不行届で、いつもみんなに迷惑ばかりかけている、そんな姉が一人いるわ」
あまりに彼女がぼろくそに言うものだから、そこで思わずくすりとふき出してしまった。実の妹にそこまで言われるのだ、きっと私のお姉さまなんかよりもずっと情けがないやつに違いない。なぁんだ、彼女も姉には苦労しているのか。そう思うと、彼女にちょっとした親近感のようなものを覚えてきて、少しだけ気が楽になったような気がした。
……だけど。
「でもね、」
小さく笑いながら彼女が言った。けれど、そのひとみの色は笑顔のそれじゃあない。なにもかもを見透かすような透明な双眸が、私の顔をじいと捉えていた。その視線に気がついた途端に、なんだか頭の中を覗き見られているようないやな感じがしてしまって、私は思わずたじろいでしまって……。そんな私のどこが面白かったのだろうか、彼女はいっそう目を細めると、少し意地悪そうな笑みを浮かべながら、こんなことを言ってのけた。
「私はお姉ちゃんのこと、好きよ」
……なにを、言い出すんだろう。
お姉ちゃんが好きよ、だなんて、うそに決まってる。
だってこの人が自分から言い出したんだ。自分はお姉ちゃんのことなんか、嫌いだって――
「私、お姉ちゃんが嫌いだなんて、一言も言ってないよ?」
「……っ」
「確かにお姉ちゃんは情けのないやつよ。性格は暗いし、力も私よりずっと劣ってる。……でもね、それでも私はお姉ちゃんのことが好き。とっても愛しくて、恋しいの」
彼女がなにを言っているのか、すぐには理解できなかった。自分よりずっと劣っているはずの姉を、どうしてそこまではっきりと“好きだ”と言い切れるんだろう。……いや、それを言うだけなら私にだって出来る。お姉さまが好きですと、喉を震わせて声にするぐらいなら、いくらでも。けれども、彼女のそれは違ったのだ。嫌味や軽蔑や、憎しみを込めて言っているのではなかった。心の底から、いっぺんの迷いもなく言い切っているのだ。そこには胸いっぱいの思慕が、ぎゅうっと込められているに違いなかった。
「私は、お姉ちゃんのことが好き」と、自分に、あるいは私に言い聞かせるようにして彼女がもう一度言った。それからしばらく沈黙があった。私はなにも言えずに俯いているばかりだったけれど、彼女はどうやら、私の言葉を待っているようだった。それこそ、妹を見守る姉のような、そんな雰囲気をたずさえて。
「どうして……」
「………」
「どうしてそこまで言い切れるの……あなたのお姉さん、立派な人じゃないんでしょう? 尊敬、できないんでしょう? それなのにどうしてっ――」
「逃げなかったからよ」
それは今まで以上に、強く、はっきりとした声だった。澱んでいた部屋の空気さえ、その一言で静かに張り詰めていったのがよくわかった。
彼女が少しだけ息を呑んだ。それから、そのひとみに宿っていた光の色が、ほんの少しだけ違うものになった。さっきまでのそれよりも、もっとずっと優しくて、あたたかそうな色。経験のない私にも、たぶん、理解できた。それは大好きな人のことを想う時の、いっとうしあわせな表情であるに違いなかった。
「お姉ちゃんはほんとうに“弱い”わ……きっとこの世界の誰よりも弱いに違いない。でもね、だからと言ってお姉ちゃん、弱い自分を理由にして目の前の辛いことから真っ先に逃げ出すようなことはしなかったわ。それどころか、いつも最後まで立ち向かい続けていた。がむしゃらに強がって、耐え抜いて……そう、私が無事に逃げ切れるまでの間、たった一つの楯になってくれたのよ」
……彼女と、彼女のお姉さんを取り巻いていた環境がどんなものだったのかなんて、私には想像もつかないけれど。でもきっと、比べてみれば今の私のほうが何倍も恵まれているに違いない。私の楯は、この館そのものだ。閉じ込められているということは、つまり護られているということでもある。私がここに居る限り、どんな脅威だって私を傷つけることはできない。
私は、護られている。
……お姉さま、に?
「けど、ほんとうに嬉しかったのは、それじゃないの」
「どういうこと?」
「お姉ちゃんはね……“私”から、逃げ出さなかった。私がどんなにか他の人から忌み嫌われようとも、お姉ちゃんだけはずっと私の側にいてくれた。私の目をまっすぐに見て、笑っていてくれたわ。姉妹なんだから当たり前だろうって、そう思うかもしれない。けど、だからこそ、なの。姉妹だから、嬉しかったの」
ああ……きっとこの人にとっての姉妹というのは、なにものにも代えがたい大切な関係なのだろう。とこしえに切れることない、絶対の絆なのだろう。それは私とお姉さまの関係ような、曖昧で輪郭のぼやけているものではなくて……見えないけれど、触れられないけれど、それでも確かな形を持っていて。
私はそれを、羨ましいな、と思った。
妹から逃げ出さないお姉さんだなんて、なんて素敵なんだろう。
私も一度でいいから……お姉さまと、まっすぐに視線を合わせてみたい。
そこに映り込んだお姉さまの中の私というものを、覗いてみたくなったのだ。
「ねぇ、あなたにもう一度訊いてもいいかしら?」
穏やかな声で彼女が言った。今の私には彼女のなにもかもが眩しく見えてならなくて、私は思わず顔を伏せてしまって。それでも彼女はそんなことはお構いなしに、私の返事を待たずにこんなふうに言葉を続けたのだった。
「お姉さんのことは、好き?」
その言葉が、胸の中にとぷんと落ちてきて、小さな波紋を広げていった。お姉さまのこと、私は結局どんなふうに思っているのだろう。波紋は幾度も跳ね返り、幾重にも折り重なって、私の心を揺り動かす。その揺らめく水面の奥底に、きらりとなにか、光り輝くものを見つけたような気がした。たぶん、それが私にとっての“答え”なんだろうなぁと思って、ぐっと手を伸ばしてみたけれど、幽かな光は一度閃いたきりもうどこにも見えなくなってしまって、結局この手はなに一つとして掴むこともできなかった。やっぱり、今の私にはまだ、その質問に答えることはできそうにない……
「わからない……ほんとうに、自分でもよくわかっていないの……」
「そう」
「でも、きっとお姉さまは私のこと……嫌っているわ」
「あら、どうしてそんなふうに思うの?」
「お姉さまが自分の口でそう言ったのよ……はっきりと、じゃないけれど。でも、私のことなんて嫌いだって言ったのと、おんなじことだわ……」
明確な言葉を、面と向かってぶつけられたわけではないけれど。でも、あの時のお姉さまの態度を見ていれば一目瞭然だった。私に、図星を突かれた。だからお姉さまはあんなに機嫌を悪くして、私を怒鳴りつけたに違いない。
「よかったらそのお話を聞かせてくれない?」と彼女が言った。それから、あなたの力になれるかもしれないから、とさらに言葉が続いた。どうやら相談相手になってくれると、そういうことらしい。その申し出は素直に嬉しいと思えた。この三日間ずっと一人で考え込んでいたけれど、思うような解答が出てこずに、すこし鬱々としていたところだったのだ。
少しだけ呼吸を整えてから、あらためて彼女に向き直る。
穏やかな様子で私の言葉を待つ彼女の前に、私は思い出したことをひとつひとつ丁寧に並べていった。
「お姉さまとね、お話をしていたの。確か……そう、地底の妖怪のことについてだったわ。最近地底に封印されていた妖怪たちが頻繁に地上に出てくるようになって迷惑しているとかなんとかね。でもお姉さまが、図書館の魔女から聞いただけの話をさも自分の知識であるかのように話すのが、ちょっぴり気に入らなくって……それで私、ちょっと意地悪をしてやろうって思ったの。私、話の途中でお姉さまにこう言ったわ。どうしてその妖怪たちは地底に封印されることになったの? って。そうしたらお姉さまはこんなふうに答えたわ。「あいつらは忌まわしい能力を持っていて、そのせいで疎ましがられている。ただそこに居るだけで皆が迷惑する。あいつらは生まれついての、どうしようもない嫌われ者なんだ」って。そこまで聞いて、私、途端におかしくなったの。おかしくておかしくてたまらなくなって、笑い声まで零れてきて。そうしたら案の定、お姉さまがすぐに食いついてきたわ。なにがおかしいんだって、不思議そうに訊いてきた。お姉さま、自分がなにを言っているのかほんとうに理解していないみたいだった。その顔を見てすぐ、思い知らせてやろうって思ったわ。“ほんとうのこと”を突きつけてやったら、お姉さま、どんなにか悔しそうな顔をするんだろうって……だから、私、お姉さまに人差し指を突きつけて、こう言ったの。笑い飛ばして、言ってやったの」
忌み嫌われて、疎まれて、それで地底に閉じ込められちゃうなんて、
まるで私とお姉さまのことみたいね!
その時はただ、お姉さまの悔し顔はいったいどんなものなのだろうと、想像することで頭の中がいっぱいだった。だから、私はすぐに気が付くことができなかった。目の前にあったお姉さまの顔の、その表情がとても――とても、哀しそうな色をしていたことに。
はっとなって、そのことに気付いた時にはもう遅かった。微かな悲哀はみるみるうちに激情へと色を変え、お姉さまの目には怒気を孕んだ炎がごうごうと燃え盛りはじめた。その威圧に一瞬たじろいだ、その瞬間だった。ぱちんと乾いた音がして、視界が大きく揺れ動いた。叩かれたのだ。お姉さまに。いったいどうして? 私、今、なんて、
「×××!!」
お姉さまが何事かを叫んだ。叩かれた拍子に耳鳴りがして、そのせいでうまく聞き取れなかったけれど、たぶん、とても汚い言葉で私を罵ったのだと思う。お姉さまのお抱えのメイドが、すぐにそれを諫めようとした。けれどもお姉さまは収まるどころかますます機嫌を悪くしてしまって、メイドの手を払いのけると、それからドアを突き破るような勢いでどこかへと走って行ってしまった。お姉さまとはそれきり口を聞いていない。食事の時には顔を合わせるけど、普段お喋りなはずのお姉さまはしかし終始無言に徹していて、私の姿は眼中にまったく映っていないようだった。
「ほんとうのことを言ったから、お姉さま、怒ったのかな……私のことが嫌いだから叩いたのかな……今まで、ずっと、お屋敷に閉じ込めてきたのかな……」
「………」
きっと叩かれたショックで、頭のネジがどこかに飛んでいってしまったのだと思った。それまで正常に回っていた世界が、どこかでがくんとずれてしまった。世界がずれると、それまでその陰に隠されていたいろんな“ひずみ”が見えるようになって……考えないようにしていたことや、目を背けていたことが、いつの間にかすぐそこにまで迫ってきていた。
生まれてはじめて、お姉さまのことが怖くなった。
生まれてはじめて、胸の奥が痛くなった。
彼女の言葉を私はじっと待ち続けた。彼女の与えてくれるであろう、いっとうの答えを。だって彼女は、この世界でもっとも美しい姉妹のその妹なのだから、私みたいな愚妹の悩みなんてたったの一言で解決してくれるに違いないのだ。私は縋るような気持ちでいっぱいだった。彼女ならきっと、私のこの気持ちに整理をつけてくれる。失くしてしまったネジの代わりになるなにかを、見つけてくれる……
けれども、返ってきた彼女の言葉は、
私の予想を遥かに上回るほど、ひどくあっけらかんとしたものだった。
「――なぁんだ、そんなこと」
「そんなこと、って……!」
「そんなこと、よ。あなた、“ほんとうのこと”がいったいどんなことなのか……勘違いしているんじゃない?」
「………」
「あなたのお姉さんはね、あなたに図星を突かれたから怒ったんじゃない。むしろその逆よ。あなたがまるで「自分はお姉さんに嫌われているんだ!」なんて、そんなことを言ったから、あなたはお姉さんに叱られたんだと思うわ」
彼女の言ったことの意味を理解するのには、ほんの少し時間がかかった。お姉さまは、私のことを嫌って声を荒げたわけじゃない……じゃあ、どうしてあの時お姉さまは私を叩いたんだろう。私のことを忌み嫌ってなどいないというのなら、なぜ……?
「でも、お姉さまにぶたれたことは確かよ……そういうことは普通、嫌いな人に向けてするものでしょう? だから、お姉さまは、私のことなんか――」
「だから、そこを間違っているのよ。お姉さんは、あなたのことが好きだから……きっと大好きだったから、叩かずにはいられなくなったのよ」
……よく、わからない。好きだから怒るだなんて、あんなに怒りを露わにするだなんて、そんなことほんとうにあるのだろうか。けれども彼女がうそを言っているようにはとても見えない。彼女の思い違いということも、ありえるけれど……しかし彼女は自信を持って言いきった。勘違いをしているのは私のほうで、お姉さまは、私を嫌ってなんか、いないんだって。
「私のいうこと、やっぱり信じられない?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ、あなたにとっておきの呪文を教えてあげるわ。あなたのお姉さんが、あなたのことをどう思っているのかを知ることのできる、魔法の言葉よ」
彼女の手がするりと伸びてきて、私の頬に触れた。そのまま、私の眼をよく見て、と声が続いた。言われるがままに視線を合わせると、その顔がぐっと近付いてきて、彼女の眼の中に私の紅いひとみが大写しになって輝いた。自分で自分の目を覗き込むなんて、なんだか不思議な感じ。自分でも窺い知ることのできなかった胸の底が、まるで純水になったように透き通っていくかのよう。
「あなた最初にこう思っていたわね。人の心が読める力があったらいいなぁ、って」
「それは、思ったけれど……どうしてわかるの? もしかして、あなた――」
「……心を読むことは、ずいぶん前にやめてしまったわ。でもね、その代わりに私は、心なんかよりももっと確かなものを感じ取ることができるの。言葉のうそと、心のうそ。その二つに隔てられた向こう側にある絶対の無意識を、私は垣間見ることができる。真相は深層にこそ隠されているの。だから、上辺だけを見て決めつけたりしちゃだめ。言葉や態度を見たぐらいで、人の心を読んだ気になんかなっちゃだめ。あなたはまだお姉さんとちゃんと眼を合わせていないの。お姉さんのほんとうの姿を見つめていないの。それは、とてもとても哀しいことよ。相手の目を見てお話しましょうねって、よく言うじゃない。あれが全てなのよ。ひとみには人の心のなにもかもが映し出される。言葉の表面、心の表層、そして無意識の深層も、なにもかも」
人の目の中には、水晶が入っているのだという。その水晶は今ぞっとするほどに透明で、いつもなら途中で途絶えてしまうはずの光が、しかし今ばかりはどこまでもどこまでも深く私の内側を照らし続けていた。自分の中にこれほど深くて広い世界が広がっているだなんて、知らなかった。普段は“心”が蓋をしているから、今まで気がつかなかったのだ。
そうして私はその世界で、宝石のように、綺羅星のように、眩く閃くものを見つけた。見覚えのあるいっとうの輝き。それはさっき見失ってしまった、あの“答”であるに違いなかった。
きっとあれこそが、私の無意識なのだろう。
お姉さまに対する私の、ほんとうの気持ちなのだろう……
「探しものは、見つかった?」
「……うん」
「じゃあ、あとはそれをお姉さんに投げかけてみなさい。あなたが無意識に抱いていたその想いこそ、きっとお姉さんの心を開く鍵になってくれるわ。……そこに、あなたをしあわせにしてくれる風景が広がっているとは限らないけれど……それでも覚悟があると言うのなら、さぁ、勇気を出してみるのよ」
そう言って彼女は笑った。花の咲いたような笑顔だった。それから、さっきからずっと胸に抱いたままだった帽子を被り直して、「私もお姉ちゃんに会いたくなったなぁ」と微笑んだ。その声と同時、帽子の下から現われた青色の“それ”を見て私ははっとなった。今は閉ざされている、第三の目。お姉さまの言っていた地底の嫌われ者、人の心を読む妖怪というのは、つまり……いや、たとえそうだとしても、私の気持ちは変わるまい。心を読まれていようがいまいが、彼女が私にたくさんの光を投げかけてくれたことには、なんの変わりもないのだから。私は彼女から逃げ出さない。そうすることが、私から彼女に返すことのできるいちばんのお礼になると思ったのだ。
「私、そろそろ帰るわね。なんだかんだで、このお屋敷には長居しちゃった。いい加減に帰らないとお姉ちゃんが心配するわ」
「そう……せっかく仲良くなれたと思ったのに……」
「また来るわ。必ず来るわ。私もあなたのことを――地上のことを、もっともっとたくさん知りたいもの。それとも今度は、あなたがうちに来ればいいのよ! それがいいわ!」
「いいの……? 私なんかが、お邪魔しても? でも、お姉さまがなんて言うかしら。……私が外に出ようとすると、反対ばかりするから……」
「それをこれから、あなたとお姉さまで話し合うんじゃない。怖がることはない、まっすぐにぶつかっていけばいいのよ。姉なんかに負けちゃだめ。妹は常に姉より強くあるべきなんだから!」
その言葉に私もなんだかおかしくなってしまって、彼女と一緒に声をあげて笑ってしまった。そうか、そうだよね、この世に妹より強い姉なんていないはずなのだ。もうお姉さまの言われたとおりにしてばかりいるのは、ごめんだ。もっとお姉さまに自分をぶつけてみよう。そして切り開いてしまおう。お姉さまの意地っ張りな心を、夏のバルコニーのように思い切り開け放してやるんだ!
目も眩むような光に晒された胸の中がこんなにかあたたかいのは、きっと炎が灯ったからなのだと思った。恋の迷路を抜け出して今、恋の埋火が燻り出した。どこまでも熱く燃え盛るだろう。そうしていつまでも消えることはあるまい。お姉さまと私が姉妹で在り続ける限り、永遠に。
恋しくて、たまらなくて、声を聞きたいひとがいる。
私は、スカーレットに恋をしていた。
▽
お姉さまの自室の前まで来ると、それと同時に扉が開いて、中からお姉さまのお付きのメイドが姿を現した。なにごとかと思って彼女の顔を窺うと、彼女は「どうぞお入り下さい」と言って私に入室を促した。なるほど、お姉さまのことだ、私の来室なんてとっくに予見していたということか。
「お姉さま」
「なんの用かしら、手短にお願い。私、こう見えてけっこう忙しいんだけれど」
「そんなこと言わないで、ちゃんと聞いてよ。私お姉さまに大切なお話があるのよ」
お姉さまはごてごてと装飾の施された椅子に座ったまま身動き一つとらず、不機嫌そうな表情を浮かべてじぃっと私の姿を見据えていた。なんともいえない威圧感がそこにあった。いつもなら、そこで少し怖気づいてしまうところだけれど……でも、今の私にはどうということはない。まっすぐにぶつかってやるんだって、決めたんだ。この程度のことは向かい風にだってなりはしない。お姉さまから目を逸らすことなくその場所まで近付いてくと、お姉さまはそこで少し意外そうに目を見開いた。
「な、なによ……」
「私ね、お姉さまに謝らないといけないことがあるわ」
「――えぇっ?」
「三日前のことよ。お姉さま、私を叩いて怒ったでしょう? 私が変なことを言ったから、お姉さま機嫌を悪くしたのよね……ごめんなさい」
忌み嫌われて、疎まれて、それで地底に閉じ込められちゃうなんて、
まるで私とお姉さまのことみたい……
あぁ、今ならわかる。私の言ったことがどれだけお姉さまを傷つけたのか、今なら。私はその一言でお姉さまを裏切ってしまったのだ。お姉さまの気持ちを、まったくないがしろにしてしまった……悪いことをしたら、謝らないといけない。そんな当たり前のことを当たり前のようにやっただけなのに、どうしてかお姉さまは――お姉さまのメイドさえ、口をぽかんと開けて間の抜けた顔を浮かべていた。
「お姉さま、どうかした?」
「ぁ、いや、なんでもないわ……そうね、そう。あなたが少し乱暴な言葉遣いをしたから、その、」
「いいの、私、全部わかったから。お姉さまは私のためを思って、仕方なく叩いてくれたんだって。私ね、あれからたくさん考えたの。どうして私があの言葉を言った時、お姉さまはいつも以上に怒ったんだろうって。……考えて、悩み抜いて、そうして私なりにやっと答えを見つけた……今日は、それをお姉さまに聞いてもらいたくてここに来たの」
一歩踏み出して、私はお姉さまの顔を覗きこんだ。お姉さまが目を逸らして逃げることのないよう、しっかりと視線で釘付けにして。なにが起こっているのかわからないとばかりに、お姉さまは目の色をころころと変えている。きっと心の中じゃ、後ろのメイドに向けて助けてくれと連呼していることだろう。けれどメイドは動じなかった。お姉さまの心情と共に、場の空気も読んだのだ。さすがは完全で瀟洒なだけのことはある。
「そ、そう。それはよかった……じゃ、じゃあ、この話はもういいわね」
「よくないわ、まだなんにも話していないじゃない。人の話は最後まで聞きなさいって、いつも言っているのはお姉さまのほうよ」
「う……」
「別におかしなことなんて言うつもりないわ。ほんとうに……そう、ほんとうに、単純なことなの」
飾ったところや、誤魔化したところなんて、ないんだ。とてもシンプルで、ストレートで、でも、だからこそどんな言葉よりもまっすぐに相手の心に届くはず。ひとつ大きく息を吸い込んでから、あの人の言っていたように、お姉さまの双眸をじっと見つめた。大きな紅色のひとみ。お姉さまの眼の中には水晶じゃなくて、ルビーやガーネットが入っているのかも。それは吸い込まれそうなほどにとてもとても綺麗な色で……けれども、私の見たいものとは少し違う。私が見てみたいもの、それは、ひとみのさらに向こう側にある、お姉さまの一番の奥底で輝いているものだ。
「お姉さまは、つまり、」
「……っ」
「私のことが好きだから、あんなに怒ったのよね?」
その言葉は自分でもびっくりするくらいに、部屋の中いっぱいに響き渡ったような気がした。鈴の音のように、りんと。お姉さまの鼓膜にも、確かに震い伝わっただろう。紅色のひとみの中にも、確かに染み透っていっただろう。
「ば……、」
「ん?」
お姉さまはなにかを言いあぐねているように、さっきから口を開いたり閉じたりしている。まさか私の言葉を喉に詰まらせて呼吸困難に陥ってしまったのだろうか、なんて。もちろんそんなことあるわけないけれど、でも、ほんの少しだけ不安に思った。いつもなら迷いもせず、きびきびと物を言うはずなのに……
と、そう思った折、お姉さまの目の色がぐるりと変わった。紅は紅でも、さっきまでとは少しだけ違う色。それは紅茶のゴールデンドロップにも似て、鮮やか過ぎるほどに紅いのに、どこまでも深く澄んでいて。
ほんの少しだけ、やさしい。
「馬鹿なことを言わないでちょうだい! だ、誰が、あなたのことなんかっ、」
「……お姉さま、やっぱり私のこと嫌いなの?」
「そうじゃなくって! その、好きだとか、嫌いだとか、違って……そ、そう、認めていないだけよ! あなたがスカーレットの名に恥じないレディに成長したとは認めていないだけ! あぁもう、勘違いもはなはだしいわ!」
そう言うなりお姉さまは弾かれたような勢いで椅子から立ち上がり、蛙のようにひとっ跳びすると傍にいたメイドの後ろに身を隠してしまった。「お願い、あいつをなんとかして!」という情けのない声まで聞こえてくる。ひどいわお姉さまったら、私がなにをしたと言うのかしら。
でも、あんなふうにしどろもどろしているお姉さまというのも、なんだか新鮮で、楽しくて。
だから私は、今まで隠しておいたとっておきの呪文を、お姉さまにぶつけてやることにした。
「ふぅん……よく、わからないけれど。でも、私はお姉さまのこと、好きよ」
「――っ!」
「うそなんかじゃない。心の底から、そう思ってる。お姉さまと姉妹でいられて、ほんとうにしあわせよ」
わがままな人だけど。
頑固で、意地っ張りで、融通のきかない人だけれど。
けれどお姉さまは私を独りにすることは、決してしなかった。
私から、逃げなかった。
私の言葉を聞いたきり、お姉さまはすっかり口を閉ざしてしまって、メイドのエプロンの裾を握り締めたまま立ち尽くしてしまった。私もメイドもどうしたらよいのかすっかりわからなくなってしまって、しばらくの間お姉さまが再び動き出すのをじっと待ち続けた。よく見れば、その握った手の僅かに震えているのがわかる。どんな感情に揺り動かされているのだろう。お姉さまは私の告白になにを感じ、なにを受け止めてくれたのだろう。
――二分か、三分、沈黙を挟んでから。
お姉さまはなにか小さく呟いてみせたかと思うと、急に腕を振り払い、弾かれた銀玉のような勢いで部屋を飛び出してそのままどこかへと走って去ってしまった。
「……はぁ、こういう時素直にならないで、いつ本音を零すおつもりかしら」
嘆息は、メイドのものだった。ちょっと見た目の年には似合わない、おばあちゃんみたいな声音だった。でも、この三日間ずっとご機嫌斜めのお姉さまのお世話をしていたのだから、そんなふうにくたびれてしまうのも無理はない気がする。
「妹様も……うそも方便とは申しますが、いくらなんでも今のは……」
「あら、うそなんかじゃないわ。あれは私の本心、これだけは譲れないわよ」
やっぱりそうですか、と言ってメイドが苦笑した。それから、お姉さまの飛び出して行ったドアの方を見やると、私に向けて申し訳なさそうな声で、
「お嬢様のこと、あまりお気になさらないでくださいね。素直になれないお年頃なんです、あの方は」
「うぅん、もういいの」
「ですが……」
「違うの。全部わかったから、確かめられたから、これで十分なのよ」
メイドはまだ解せないといった様子だったけれど、私はもう十二分に理解していたし、満足もしていた。あの時、お姉さまの飛び出していこうとした一瞬、私には確かに見えたのだ。あれは錯覚でも見間違いでもなかった。真実で、真相だった。それさえ知ることができたのなら、あとはゆっくりと積み立てていけばいい。五百余年の歳月を埋めなおすのには、ちょっと時間がかかってしまうかもしれないけれど……そうやって姉としてのお姉さまや、妹としての私が板についていくのを見るのは、それはそれでとても楽しそうだなぁとも思えたのだ。
見る者すべてを恋に落としてしまいそうな、あのいっとうの笑顔は。
きっと私がはじめてお姉さまに与えてあげられた、ほんとうの笑顔であるに違いなかった。