□さよならスカーレトヘヴン 第一話
「今さら、どうして戻ってきたのよ……咲夜」
ほんとう、どうして。
これからだったのに。
どうして……
咲夜がかえってきた。紅魔館のタイムキーパーが、完全で瀟洒な彼女が、かえってきた。一度は失われたはずの歯車を取り戻して今、紅の時計は止まっていた時間を再び刻み出そうとしている。奇跡、なのだろう。取り戻せなかったはずのものが取り戻された、起こり得なかったことが、起こったのだ。これはなににも代えがたい、いっとうの奇跡に違いない。
……だけれども、私はそれを、どうしてもしあわせなことだとは思えなくて。
亡くしたものが還ってきたはずなのに、こんなにか胸の痛いのは、どうしてなんだろう。
<1>
秋が静かに深まりつつある、九月。狂ったように日差しをふりまいていた太陽も月が変わった途端に威勢を弱め、先月までの猛暑がうそのような、秋風の肌に涼しい過ごしやすい日々が続いていた。そんな心地良い天気に誘われたのか、私はここ最近、こもりきりだった図書館を抜け出して、庭を一望できる三階のテラスで一日を過ごすことが多くなっていた。以前の私からは想像もつかないような行動だとは自分でも思う。けれども、自分の心持ちのどこが変わってしまったのかは、自分自身のことなのによくわからない。わからない気持ちをはっきりさせるために、こうして慣れないことをしているのかも。でも、そんなことはどうだっていい。今はただ、外の空気を存分に吸ってみるのも悪くないと思っただけ、手入れの行き届いた綺麗な庭園を望んでみたいと思っただけのことだ。
テラスのテーブルに持ち出した古本を数冊積んで、四つ足のガーデンチェアに深く腰を掛ける。日の光と、風の音を傍らに文字を追うのは、とても新鮮で清々しい心地がした。ここ数日沈みがちだった気分も、これで少しは晴れやかなものになってくれるだろうか。そう簡単にはいかないかな。でも、気分が良いのはほんとうだ。地面にへばりついてばかりの私が、この時ばかりはまるで風になったかのような気持ちになれた。
「パチュリーさま、紅茶が入りましたよー」
そんな軽やかな心の隙間に、ふいに飛び込んできた声があった。私の気持ちとは、また違った意味で軽い調子の声だ。聞き覚えのあるものだった。私の図書館にいつからか住み着いている、小さな悪魔のそれだった。
「あら、頼んでいたかしら」
「頼まれていませんよ。いないけれど、私が飲みたかったから、そのついでです」
「そう、ありがとう。気が利くのね」
いつも利いていますよ、なんて言葉を返しながら、彼女はテーブルの隅にカップを差し出してきた。注がれているのはアールグレイ。いつも図書館で口にしていた慣れ親しんだ香りもやはり、屋外ではよりいっそう爽やかなものに感じられる。一口飲んでほっと息をついている間に、彼女は私の向かいのチェアに腰を降ろした。
「それで、私になにか用かしら」
「別にこれといって用事はないんですけれど……そうですね、たまにはパチュリーさまとこうして外に出てみるのも、悪くないかなって。パチュリーさま、自分からはほとんど外に出なかったのに、最近は妙に活動的なんですもの」
「それで物珍しさに追いかけて来たっていうの? あなたも暇な悪魔よね」
「妖怪なんてみんな暇を潰すために生きてるようなものじゃないですか。それともパチュリーさまは、なにか高尚な理由があってここで虫干しされているんですか?」
ぺらぺらと口の減らないやつだ。私の友人も一度話し出すとなかなか話し止まないところがあったけれど、悪魔というのはみなこんな性格をしているのだろうか。彼女は私をからかっているかのような笑みを浮かべながら、私の顔をじっと見つめていた。紅玉色のひとみが、私の言葉を心待ちにしてきらきらと輝いている。困ったな、大した理由なんて、なにもないのに。
「……いいえ、私の方が暇な妖怪だったわ。時間だけは有り余っているのに、なにをしていればいいのかわからない。それでたまには外の空気でも吸ってみようかって思ったのだけれど……気持ちは楽になったけど、暇なのは変わりないわね」
「本は、読まれないんですか? 魔法の研究は?」
「最近は、あんまり。やる気が出ないの。どうしてかしら」
かつてはあれほど情熱を注いでいた知識への探求心が、なぜだろう、最近はすっかり冷えきって、再燃する様子もみせない。ともすれば、本を読んでいることを苦痛と感じた時さえある。なにも頭に容れたくない、空っぽにしてしまいたい。ひどい時には、これまで蓄えてきた知識のすべてを、消し去ってしまいたいとさえ思ったほどだ。
……たぶん、自信をなくしてしまったのだと思う。
どんなにか知識ばかり溜めこんだって、それを活かすだけの力がなければ、結局なんの役にも立たないのだ。
私には、その力がなかった。
それを痛いほどに思い知らされたから、その衝撃でぽっかりと開いた胸の穴が、いまだに埋まらないのだろう。どんな情熱や感慨だって、開いた穴から零れ落ちていってしまう。
パチュリー・ノーレッジがいったいどんな存在だったのか、自分自身、よくわからなくなってしまっていた。
「……ね、パチュリーさま」
ふと彼女が口を開いた。穏やかな、けれどほんの少し躊躇いがちな様子を感じる声音だった。気になって彼女の方へと振り返ると、二人の視線がふいに重なった。彼女は微笑みを浮かべていたけれども、私の顔を映し出すひとみは、なんとも言えない色を湛えて揺れている。
「こんなふうに二人で過ごしていると、思い出すことがありませんか?」
「……なにを、かしら」
「日の光を浴びられないくせに、わざわざ日の当たるこのテラスで紅茶を飲んでいた悪魔と、それに付き合うメイドのこと。昔は当たり前だったのに、いつからか見られなくなってしまった、懐かしい光景……もう二度と見ることのできない、主従のこと」
そう言って彼女はくすくすと笑った。ひとを小ばかにするような笑い方は、実に悪魔らしくさまになっていた。けれども、そんな笑みを向けられてなお、私の胸の内に腹立たしさが込み上げてくるようなことはなかった。彼女との付き合いは決して短くない。なにが本心でなにが冗談かだなんて、聞いて確かめるまでもなく、わかってしまう。
だから私も、彼女に対しては躊躇なくうそを言う。まともに相手なんかしてやらない。彼女とのそういう距離感が、今の私にとってはとても居心地が良かった。
「さぁ、誰のことかしら。私、外の事情はあまり詳しくなかったから」
「だから、今、知ろうとしているんですよね。あの二人がどんな気持ちで日々を過ごしていたのか、パチュリーさまは知りたくてたまらない、と」
「………」
「でも、こんなことパチュリーさまには似合わないから、やめた方がいいと思います。どうせわかりっこないんですから、あの方々のことなんて。……今となっては、絶対に」
遠慮しない物言いだった。口ぶりは相変わらずおどけた調子だけれども、どうしたって説教のようにしか聞こえてこない。そんなことは、今さら言われないまでもわかりきっているとも。もう、確かめようがない。その主従はすでに失われている。気持ちを知るには思いを馳せる他はなく、間違っても会って直接問いただすなんてことは、叶わないはずなのだ。
そういう、はずだったのに……
「馬鹿ね。私がいつまでも死んだ奴のことに気を捕らわれているとでも思ったの? そんなわけ、ないじゃない。私は……レミィとは違うの」
「パチュリーさま……」
そう、私には関係ない。あいつはレミィの従者であって、私にとって特別な存在というわけではなかった。レミィの気持ちをないがしろにするようで申し訳ないが、咲夜の死が、私になにか堪えがたい悲しみを与えたかと聞かれれば、答えはノーだった。
それだのに、今、私の気持ちは深く沈んでいる。それは咲夜の死に起因するものではなく、むしろその逆で、亡くなったはずの彼女がなに食わぬ顔でレミィの傍にいたことに、私はどうしようもない違和感を覚えたのだ。十六夜咲夜の還ってきた事実が、どうしても、受け入れられない……
もっともそのことを知っているのは、レミィを除けば館でただ一人、私だけになるだろう。というのは一カ月前から、彼女の体調も機嫌も優れないという理由で、自室のある最上階には誰も近づかないよう私が令を発していたからだ。今にして思えば、ある程度人の出入りを作っておけばよかったのかもしれない。そうすれば、咲夜がひょっこり還ってくる隙を作らずに済んだのかも――
……なにを考えているんだ、私は。
これは、奇跡、なんだぞ。
失われたはずのものが還ってきたのだ、ほんとうはもっと、歓迎されてしかるべきものなんじゃないか……
咲夜が、還ってきた。
レミィの顔に、笑顔が戻った。
良いことのはず、だけど……
「っ、……レミィね、まだ容態が良くないの。昨日も様子を見に行ったけれど、追い返されちゃったわ。だからメイドたちに伝えておいてちょうだい。今までとおなじで、最上階の掃除はしなくていいし、レミィの分の食事もいらない、って」
「はあい、わかりました、館主さま」
「その言い方はやめてって言ったじゃない。紅魔館の主は、レミリア・スカーレットよ。私はただの、」
ただの……なんだって、言うんだろう。
私は、レミィの、
「……そんなことよりも、アレ、どこにあったかしら」
「アレ、って、なんです?」
「作ったじゃない、みんなで。たしか庭の方だったと思うんだけど、このテラスからじゃどこにあるかわからなくて」
「ああ、アレですか。それならテラスからは見えませんね。ここからはちょうど棟の陰で見えませんけど、向こうの方に裏庭があるんです。そこに建ってるはずですよ」
彼女はやおら立ち上がり、テラスの柵の方まで歩いて行くと、そこから身を乗り出して西館の端の方を指さした。見てみると確かに、庭を横切る小路の館の陰に消えていっているのがわかる。思い出した。たしかにあの路の先だった。光の角度の関係で、あの一角だけは昼間でも薄暗くじめっとしている。騒がしい館の日常とは少し掛け離れた場所。今では近づく者もない、忘れ去られた……うぅん、忘れ去られようとしている場所。
「そう、わかったわ。……少し用事を思い出したから、行ってくるわね」
私は席を立ちながら彼女にそう告げた。ひとつ、確かめたいことができたのだ。それもできるだけ早いうちに。
「そうですか、お気をつけて。それじゃあ私は、さっきのことを皆に伝えてきますね」
「ありがとう……あぁ、それと紅茶、ごちそうさま。あなたきっとメイドの素質があるわ。これを気に転職してみたらいいんじゃないかしら?」
「お褒めにあずかり光栄……って、言いたいところですけど、私は私、しがない小悪魔に、従者だなんてとてもとても。それともパチュリーさまが私を雇ってくださいますか? レミリアお嬢さまのしたように、私に名前をくださるって言うんなら、今すぐにだって、していいんですよ?」
冗談を言ってからかったつもりが、逆に二重も三重も装飾をされて返されたので、私は踵を返しかけた足を思わず止めてしまった。彼女はにこやかな顔をして私を見据えていた。細まった目の輝きは、よく、わからない。ポーカーフェイスとはまた異なる表情の隠し方で、こういった得体の知れなさは、直情的なレミィとはまた少し違った悪魔らしさを私に抱かせた。
「……やめておくわ。だって、私たちらしくないもの」
「ですよね、似合いませんよ、私たちには」
「変なことを訊いてごめんなさい。もう行くわ、また後で」
それだけを言い残して、今度こそ振り返って彼女に背を向けて歩きだした。私と彼女の関係を表すのに相応しい言葉は、これというものがなかなか思い浮かばないのだけれども、少なくとも主従という言葉は似つかわしくないだろうとそう思った。私は彼女をしもべだと思ったことはないし、彼女もまた私を主人と思ったことはないだろう。ただ、いつの間にかおなじところで暮らしていて、なんとなく気が置けない距離感が出来上がっていただけのこと。
私と彼女は、従者ではない。
私と彼女では、あの二人の気持ちを理解するには、至れない。
彼女もそれをわかっているから、引き際はひどくあっさりとしている。悪魔特有の気まぐれかもしれないけれど、それでも私にとってはちょうど良い距離だった。彼女は私の相談に乗るようなことはしない。悩みを打ち明けても、すべて聞き流してしまうだろう。それでいいのだ。そうしてくれるのが、いい。
彼女の視線に背中を押されるのを感じながら、私はテラスを後にした。行き先は、彼女に教えてもらったあの裏庭だ。そこに在るものを確かめにいく。――いや、そこにまだ在るのか、確かめなければならない。
テラスを訪れた時の鬱屈とした気持ちは消えていた。けれどもそれに代わって今の私を支配しているのは、拭えない違和感に対する胸騒ぎと、尽きない疑問を明かしたいと願う焦燥ばかりだった。
▽
地上の空気は、空に近いテラスで嗅いだ匂いとはまた異なって、土と草木の香りをたっぷりと孕んだ、どこかくすぐったいものだった。エントランスホールを抜け、正面玄関から表の庭に出ると、広々とした敷地に緑と紅の散りばめられた光景と、視界の終端に霧がかった湖の様子が目に飛びこんできた。変わり映えしない、いつもの紅魔館の風景だ。湖畔の方から吹いてくる風は、湿気を帯びて少しだけ肌寒い。気管にも良いとは言いがたいだろう。開放的な風景をもう少し眺めていたいとは思いつつ、私は足早に館の裏へと回り込む小路を行った。その小路にももれなく花が植えられてあったから、目の保養をするのであれば、行きながらでも構わないと思った。
時期を終えた夏の花に代わって、花壇には秋を彩る花々が次第にその大輪を咲かせはじめていた。コスモスにカランコエ、チェリーセージ、中には早咲きのバラさえあって、館の外観を紅く鮮やかに彩っている。薄紅色に挟まれた小路を行く途中、ちらほらと妖精メイドたちの姿を見かけた。花壇の手入れを任されているのだろう。雑草を引き抜いたり、花の植え替えなんかをやっている。みな一様に楽しげな表情を浮かべているのは、やはり直接自然に触れているからなのだろうか。それとも、ただの土いじりが単純に面白いだけなのかも。
と、そんなことを考えながら歩いていると、視界の先に特徴的な服装を見かけたので、思わず足が止まってしまった。濃紺の給仕服とはまったく違う、花園の淡い緑を映したような大陸風の衣装だった。この紅魔館であのような出で立ちをするのは、私の知るかぎり、ただ一人だけだ。
「美鈴、そんなところでなにをしているの?」
「あれ……パチュリーさま」
紅魔館の門番こと紅美鈴は、しかしこの瞬間門前にはおらず、裏庭に続くこの路の路傍で園芸に勤しんでいた。声をかけられ、作業を中断して立ち上がると、体中あちこり泥まみれになった格好が目に飛びこんできた。私を見やる表情はきょとんとしている。どうしてここにいるのですか、とでも言いたげに。
「わたし、お庭の手入れも任されていますから、今はそっちの仕事を。パチュリーさまはどうしてここへ? 珍しいですよね、お一人で外を出歩かれるなんて」
「私にだって外に用事のひとつやふたつ、できることもあるわ」
「用事って、この先には裏庭しか、」
途中まで言いかけて、しかし美鈴はそこで口を噤んだ。そこになにがあるのか、彼女もまた知っているから。とはいえ、こうも露骨に動揺されるのも、なんだか面白くない。
そう思ったところで、ふとあるものの存在に気がついた。彼女の脇に置かれた、園芸用品を積んだ荷車から顔を覗かせている大柄のシャベルだ。それを見た瞬間、ふいに思いついた考えがあった。せっかくだ、利用しない手はない。どうせなら、徹底的にやってしまった方がいいだろう。
「ご、ごめんなさいっ、わたし、無神経なことを……」
「別に、謝ることではないでしょう。それよりも美鈴、少し私を手伝ってほしいのだけど」
「お手伝い、ですか? まあ、少しでしたら、いいですけれど」
「そう。じゃあそれ持って私についてきて。余計な事は訊かずにね」
荷車のシャベルを一瞥し、それを手に取るよう彼女に指示をする。困惑した表情を浮かべながらも、美鈴は素直に従った。鈍色の切先の彼女の手に収まったことを確認してから、私は再び小路を歩きはじめた。
路傍の鮮やかな色彩も、奥に進むにつれて次第にその色を暗いものにしていった。やがて館の角をひとつ曲がると、辺りにはびこる草木は背の高いものがほとんどになり、頭上には木々の梢が幾重にも重なって、路に零れ落ちる光はみるみるうちにその本数を減らしていった。空気は湿気を帯び、吸い込むたびに肺腑にまとわりつくような感触を与える。それがまた噎せかえるように強い緑の匂いをしているものだから、喘息を抱えた私には息苦しいことこの上なかった。
「いやね、この空気」
「大丈夫ですか? 淀んでいますからね、体に障りますよ」
「うちの図書館よりはましよ。この匂いに、体が慣れていないだけだわ。そんなことよりもほら、見えてきたわよ」
鬱蒼とした葉群のその先に、ぽっかりと不自然に開けた場所があるのを視界の先にとらえた。今はぶ厚い緑の天蓋も、あの一角では少しばかり薄らいで、微かな日の光を地面に注いでいる。その光の下には、いくらかの彼岸花が咲いていた。真紅の花は、一つの碑を囲うようにまばらに散在している。碑を中心に、一面に血をぶちまけたような光景だった。
「やっぱり、あるんだ……」
「夏のことでしょう、半年と経っていないわ。なくなるわけ、ないじゃない」
自分自身の口をついて出てきたその言葉に、ふと思い出される記憶があった。ほかでもない、夏の日のこと。給仕服から喪服に着替えたメイドたちが路傍に整然と並ぶその中央を、白塗りの柩が音もなくゆっくりと進んで行く、葬列の風景だった。柩を飾る静謐な白い百合の匂いは強く、参列者の胸に挿された別の花の匂いと融けあい、薄霧のようにあたりに立ちこめていた。私は葬列のちょうど中央に居て、柩に伴って歩くレミィの後ろ姿をぼんやりと見つめていた。レミィの足取りはしっかりとしていた。一歩一歩、踏みしめるように歩き、体幹はぶれることなく、まっすぐに先を目指していた。ともすれば、ただ足並みを揃えて歩くことだけを追究した、意思のない機械のようにも見えた。葬列はやがて私が今やってきた小路へと入り、この裏庭へと辿りついた。今とは違い、夏の盛りであったため、辺りの樹々はもっと蒼く、影さえも緑がかっているほどだった。墓穴と墓標はすでに用意されていた。柩が納められ、土が被せられる。終始会話は無く、沈黙だけが守られ続けた。
その葬儀の渦中たる故人は――十六夜咲夜は、天寿をまっとうして死んだ。人間らしく、老いによって逝ったのだ。しかしながらその年月はあまりにも短く、彼女は普通の人間の半分も生きることはできなかった。それだのに、死に際の彼女の顔はしわくちゃで、囁く声も嗄れていた。時間を早送りにしたかのような老衰だった。言葉の綾ではなく、そのままの意味で。その早過ぎる死を確と受け入れることのできていたのは、はたしてその場に何人居ただろう。参列者の顔に浮かぶ表情のほとんどが、悲しみではなく困惑のそれであったことを見るに、誰ひとりとして、この葬儀がどんな意味を持って行われているものなのか、正しく理解していなかったように思う。
それでも葬儀は粛々と進行し、終えられた。誰も涙を流すことなく、誰も嗚咽をあげることなく。白昼夢のようなぼんやりとした感触を拭い切れないまま、すべては過去になった。
「なくなったって、思ってるわけじゃないです。どちらかと言うと、ですね……今ではこれが、ずいぶん昔からあったように思えちゃうんです。あの人のことが、どんどん過去になっていく。なにもかも、遠い日の追憶に褪せていくのを、止められない……」
「それが自然なことでしょう。いつまでも思い詰めてたって、仕方がないじゃない。……でも、たしかにすこし馴染み過ぎかもしれないわね。レミィのセンスにしては、いささか地味過ぎるのがいけないのかしら」
碑は、石造りの細い十字架を地面に突き立てただけの質素なものだった。趣味の悪い彫刻や装飾は一切見当たらない。強いて言えば、辺りに点在する彼岸花だけが、この碑が血塗れたものであるということを物語っている。それがなければ、もしかするとこの場所に碑が建っていることにさえ気がつかないかもしれない。あるいは、誰も気がつきたくないのかもしれない。建てなければならなかったけれども、建てたくなかった、だから建てたことを容易に忘れてしまえるよう、地味で、無機質で、存在感のないものにした。
けれども、実際はそうでない、むしろ自己主張をするかのように、血色の化粧をしてここに鎮座している。まるで、私はここにいるとでも言いたげに。私を忘れないでと、言わんばかりに。
ああ、それならそれで、いいのよ。
あなたはそこで眠っている。
もう二度と、起き上がってくることはない。
なのに……なのにどうして、彼女はあそこにいるのだろう。
ここに、納められたはずなのに。
私たちの、この手で。
「――美鈴、あなたにお願いがあるの」
「あ、はい、頼みごとがあるんでしたっけ」
私の方を振り向き直って美鈴が言う。私と彼女とではずいぶんと身長差があるせいで、ちょうど彼女を見上げる形で対峙した。ひとみは真っすぐな光を放っていた。心にも体にも曲がったところのないのは、彼女のいちばんの長所だろう。それを、これからねじ曲げようというのだ、私は。胸は痛まないのかと聞かれれば、うそになる。けれども確かめなければならなかった。そうしなければ気が済まない。ほかでもない、レミィのためにもだ。
「碑銘を、確かめてほしいの」
「……すみません、意味がよく、」
「その十字架に誰の名前が刻まれているのか確かめてちょうだい。簡単なことでしょう」
言葉を聞いた途端に、美鈴は信じられないとばかりに目を丸くしてみせた。「冗談でしょう」と再度尋ねられる。「冗談なわけないでしょう」そう言葉を返すと彼女は絶句して、表情に青筋を走らせた。
「そんなこと、確かめるまでもないじゃないですかっ……だって、これは、」
「あなたの意見は聞いてない。やってくれないのなら別に、私が自分で確かめるわ」
「……いいです、わたしがやります」
そう口にした表情に、しかし疑問の色は尽きない。私にやらせるぐらいなら、と言ったところだろうか。いいさ、今さらいくら怪しまれたって構いやしないとも。魔女とは、元々そういう生き物だ。
持っていたシャベルを私に預けると、美鈴は石碑の後ろに回りこんでしゃがみ、十字架の乗せられた台座の根元に手を触れた。繁茂した雑草を掻きわけ、そこに彫られている文字を確かめると、眉根を八の字にして深いため息を吐いた。
「パチュリーさま、なにもおかしな所なんてありません。なにもかも、あの時のままです」
「なんて、彫ってあるの?」
「……さくや。十六夜咲夜……」
「そう、ありがとう。じゃあ次、これ」
うんざりとした顔で腰を上げた美鈴に、私は渡されたシャベルを突き返した。彼女の眉根がさらにひそまる。信じられないを通り越して、私の正気を疑う眼差しだった。
「パチュリーさま」
「掘って」
「いい加減にしてください。こんな馬鹿なこと、今すぐやめてください」
「掘ってよ、早く。やらないなら私がやる」
「やらせないと言ったら?」
「邪魔をするなら帰って。私だってこんな馬鹿げたことをいつまでも続けるつもりはないし、続けさせるつもりもないの。美鈴、私は意味のないことはしないわ、それをわかってちょうだい」
「でも、だからってこんなのっ、……死者への冒涜です!」
腕を広げて行く手を阻む美鈴の、その必死な言葉に思わず吹き出しそうになってしまった。死者への冒涜、だって? そうだろう、そうだとも、安らかなはずの眠りを妨げるのだ、許されることではない。けれどもそれは、言い換えれば死者には黙って眠りについていなければならない義務があるということだ。それをないがしろにしてのこのこと現世に還ってくるようなやつは、生者を冒涜していると言えるのではないの?
もちろんそんなこと、面と向かって彼女に言うつもりはないけれども。疑惑の念を無駄に広げるつもりはない。今はまだ、私の胸の内だけに留めておきたい。どうせそのうちイヤでもわかるのだ。じきにレミィの体調が良くなれば、無理矢理にでも見せつけられる。
無邪気に、そして、残酷にだ。
「勘違いしないで、なにか手を加えようだなんて、そんなつもりはない。様子だけ確かめたら、なにもしないで元に戻すわ」
「そういう問題じゃありませんよ! それに、墓を暴いただなんてお嬢さまに知れでもしたら、」
「今のレミィなら別に気に咎めないと思うわ。もしかしたら、笑って済ませてしまうかもね」
「そんなっ……」
「美鈴……今はまだあなたに理由を話すことはできない。けど、これがとてもたいせつな意味のあることだというのは理解して。私が、私の私欲のためにするんじゃない……。レミィを助けたい、その気持ちだけよ……」
伝えた言葉は、うそではない。ただ、すべてを言わないだけだ。彼女はやさしい。献身的で、思いやりの心に満ちている。だから教えない。ともすれば彼女は、あの違和感を受け入れてしまうかもしれないから。そんなことはあってはならない。あの歪みは、私以外の誰にも知られるべきではない。
美鈴はそれからしばらくの間俯いてしまってなにも言わなかった。足元で揺れている彼岸花の紅を、あるいはその根の下にあるはずの深紅を、思い起こしているかのようでもあった。
――今年の初夏、陽炎と逃げ水に惑ったある日、十六夜咲夜はここに埋葬された。血も肉も骨も遺品も、彼女に関する一切のものがまとめてここに葬られている。咲夜の私物は異様に少なく、わずかばかりの洋服と数本のナイフ、そして彼女が肌身から手放さなかった懐中時計を処分しただけで、紅魔館から彼女の存在を思わせる代物はすべてなにもかも消え失せた。そんな人間ははじめからいなかったのだと、知らしめるかのように。
なにも残すな、とそう言ったのは咲夜だった。遺言は実行された。望みのとおり咲夜は、彼女自身がいつもそうしていたように忽然と、紅魔館から姿を消した。その咲夜の失われていく過程のさなか、レミィはなにも言わずにいた。押し黙って自室にひきこもり、葬列のはじまる直前まで部屋から出てこなかった。レミィは咲夜の死に顔も死化粧も知らない。レミィが最期に見た咲夜は白い柩に納められていて、その中には咲夜の遺品もすべて入れてあったから、レミィの手元にはついに咲夜の残滓はなにも残らなかった。咲夜は消えた、あまりにも唐突に。レミィに、死の実感を与える間もなく。
……ようするにつまり、レミィは認めてなんかいないのだ。咲夜が死んで、もうこの世にいないということを。現実を捨て、妄想に逃げ出した。そこにかつてのカリスマはどこにも見られない。咲夜の死んでからの日々を、親友は夢と幻想の世界で暮らしていた。誰の言葉も――私の声さえ、もうレミィには届かない。
あの人はもう、壊れてしまっているのだ。
誰もがそう言い、私自身もまたレミィと接することに疲れを抱きはじめた、昨日の夕暮れ――奇跡は起こった。レミィの夢想は現実となった。咲夜が還ってきた。当然のように。
でも、
だけれど。
蘇ってきたのなら、それじゃあいったい……なんだったっていうのよ。
私たちはいったい、誰を葬ったの……?
「……それ、貸してください」
静寂はふいに破られた。見れば、美鈴は顔を上げ、なにかを決心したような面持ちで私を見据えていた。
「美鈴……」
「お嬢さまのことは、私にはどうしようもないことです。お嬢さまと、ほんとうに近しかった人にしか……。正直、認めたくないです、こんなの。でもパチュリーさまが、お嬢さまの親友であるあなたが、こうすることがお嬢さまの救済につながると言うのなら、私はその言葉を信じます。パチュリーさま、どうか……お嬢さまを救ってあげてください」
そして深々と頭が下げられた。腰は直角に折れ、頭頂は私の頭よりも低い位置にある。握りしめられた拳の戦慄いているのを見て、私は胸を絞られるような気持ちでたまらなくなった。なにがレミィにとっての救いかだなんて、私にはまったく見当がつかなかったからだ。墓を暴いたからといって、あの咲夜が消えてなくなるとも思えない。もし仮にそうなったとしても、今レミィの前からもう一度咲夜の失われるようなことがあれば、今度こそレミィは……
こんなことをして、いったいなんになる。――わかってるわよ、意味のない行為だってことぐらい。けれども、それでもやらなければならないと強く思うのは、私にとってこの行為は、なにかけじめのようなものになるかも知れないと思ったからだ。咲夜の死を、今一度胸に刻まなければならないと思った。そうでなければ、あの二人に面と向き合って、自分が自分でいられる自信がない。おかしいのは誰だろう、狂っているのはなんだろう。私か、レミィか、咲夜か、それともすべてなにもかもなのか。
「頭を上げてちょうだい……私にできることなんて、ほんとうにたかが知れてるのよ。これだって、はっきりとした成果をもたらすかわからない。……それでもあなたが力を貸してくれるって言うんなら、私は遠慮なく借りていくけどね」
「ええ、お貸しします。パチュリーさまがそれほど固執するのなら、少なからず意味はあるんでしょうからね。ほら、シャベルを渡してください。早いとこ終わらせてしまいましょう」
差し出された手は、私のものより二回りは大きい。力強くて、頼りがいのある手をしている。その手にシャベルを渡すと、美鈴は「よし」と意気込んで、十字架の根元にシャベルを突き立てはじめた。湿った地面の掘り返されるたび、土の匂いがわっと辺りに立ち込める。噎せ返る思いを堪えながら、私はその行程をじっと見守った。
柩は、それほど深い所には納められていない。美鈴もそれに気を使い、掘り起こすというよりは掬い取る感じで土を払っていった。そうして二分ほど経った頃だろうか。ごつん、と、シャベルの剣先のなにか硬いものに触れた、鈍い音が響きわたった。美鈴の手が止まる。しゃがみこみ、刃先の土を手で除けると、白木の一端の埋もれているのが見えた。
「……っ」
「続けてちょうだい。あと少しよ」
「えぇ……わかってます」
それからの作業はすこぶる早かった。白い柩の――今はくすんでぼろぼろの――端が姿を覗かせると、あとはその脇の土を除けていくだけで全容がみるみるうちに露になっていく。柩はかつての純白をまったく失っていたけれども、そこから感じられるナイフのような無機的な冷たさはなにも変わっていなかった。間違いなく、これだ。瞬間、背筋にひやりとしたものが走り抜けていった。
「全部引き出しますか? それならもう少し周りを崩さないといけませんけど」
「いえ、これで十分よ。蓋さえ開けば問題ないわ」
私もまた彼女の隣に腰を降ろし、黙して横たわる柩の木目を目で追った。板一枚隔てた向こうは、もう死者の世界だ。私は今からそれを垣間見る。にわかに湧きあがりかけた背徳心は、しかし好奇と使命感の入り混じった感情にせき止められ、脳裏を過ぎる程度に留まった。余計な気持ちの湧いてくる前に、終わらせてしまった方が――そう思い、美鈴に目配せをすると、彼女もおなじことを考えていたのか、素直にうんと頷いて、柩の蓋に手をかけた。
「……咲夜さん、ごめんなさい。少しだけ、開けさせてもらいますね」
ゆっくりと蓋が開いてゆく。角の方にわずかの隙間ができると、そこからわっと吹き出してきた臭いに思わず顔が歪んだ。死体の朽ち果てるのは当然のことだと予想はしていたが、死臭なんて嗅がされて気分の優れるようなものではまったくない。私も美鈴も顔をしかめながら、それでも柩を開ける手を止めることはなかった。隙間が広がり、やがて木漏れ日の一つが柩の中に差し込むと、薄黒くなったそれが不意に輪郭を露にした。肉は削げ落ちて、人の形はもうほとんど留めていなかったけれども、頭蓋に僅かばかり残された銀髪の輝きは、たしかに見覚えのあるものだった。昨日、目にしたばかりなのだ、見間違えようはずがない。
十六夜咲夜は、ここにいた。
あの日と変わりなく。
「――これ、死んでるのよね」
「生きてるように見えるなら、目を取り替えた方がいいと思います」
死ねば腐り、いずれは土に還る。不老不死でもない限り、この絶対不変な自然の摂理を曲げることはかなわない。咲夜なら、なんて望みは通らない。生は万人に等しく与えられ、また等しい数だけ奪われる。余分なんてどこにもないのだ。この世に十六夜咲夜の魂は、ただ一つきり、一度だけ。
なら……あの咲夜は、いったいなに? 咲夜とおなじ顔、声、毛髪の一本に至るまで、咲夜そのもの。けれども咲夜はここにいる。――ここにいた。彼女の葬られたあの日から、ずっと。
「……そういうこと」
「パチュリーさま……?」
その答えは深く考えるまでもなく、咲夜の遺骸を見た瞬間に、ぱっと脳裏に浮かびあがってきた。なんてことはない、簡単なこと。要するに咲夜は――死んでなんて、いなくて。体は朽ち果て土くれになろうとも、その心は、魂は、まだこの世に存在の欠片を残したままでいたのだろう。
きっと、ひとはその残滓を未練と呼び、
あの咲夜を見て、亡霊と称するのだ。
私は途端にばかばかしいと思う気持ちで胸が溢れそうになった。咲夜は死んでなんて、失われてなんていなかった。ああ、それなら納得がいくとも。まだこの世にいるのなら、レミィのそばに咲夜がついているのは至極当然のことだ。生きている限りそばにいると、咲夜はそう言った。その約束は今もなお果たされ続けている、それだけのこと。
ああ、でも、だけれど。
それならどうして、レミィはあんなに傷つかなければならなかったのだろう。
咲夜のいない現実に、心を痛めなければならなかったんだろう。
そこにいたのに。
うぅん、いたのならどうして、ねぇどうして咲夜、あなたはレミィの前にすぐに現れてはくれなかったの? “あの日”もここにいたんでしょう。レミィが傷つくのを、なにもせず、黙って見ていたんでしょう! どうしてその時に姿を現してはくれなかったのよ……どうして、あなたがいればレミィは、あんなことには――
ねぇ、どうして。
どうしてっ!!
十六夜咲夜が還ってきた。曖昧な輪郭と、映らぬ影に姿を変えて。レミィはそれを見て無邪気にはしゃいでいる。失ったはずのものを取り戻したと、しあわせそうに笑っている。その光景の思い起こされた瞬間、私の奥底で湧き出した感情はどこまでもどす黒い色をしていて、タールのような粘性でこびりついて拭えない。そんなものに火が灯されてしまったとすれば、私はいったい、どうなってしまうのだろう。ああ、こんなに心苦しいのははじめてだ。哀れみや悲しみ、憤り、憎しみ。あらゆる情感が渦を巻き、私の胸を揺さぶって、今にも零れ落ちてしまいそうで。
レミィ、あなた騙されてるのよ。
見捨てられたのよ。
それなのにどうして、ねぇどうしてあなたは、
咲夜を受け入れられるの……?