□朱鷺めくブックフォレスト
歓声と同時に、ごう、と空気がざわめいて、僕の脇腹を一列のクナイ弾が掠めていった。衣の避ける音が聴こえ、剥き出しになった地肌をぬるい風が舐めていく。グレイズにしては些かのめり込み過ぎ……いやもう掠るというかあと少しで抉るの域に達していたぞ今のは。
数時間ばかり早い新年の幕開けは、色鮮やかな弾幕を祝砲代わりにした実に派手派手しいものだった。米粒弾の火花が弾け、2WAYレーザーが円卓を貫く。少女戦争中、そんな言葉が脳裏を過ぎる。もはや壁といってもいい弾列をかい潜れる猛者がそう大勢いるはずもなく、運に恵まれなかった妖精達が屍の山を累々と築き上げていった。抱え落ちもいいところである。気前の良いお年玉というか、落し命というか。
「三機、墜とした!」
意気揚々と言いながら朱鷺子が指さした先で、メイド三人が連なって星を浮かべていた。縮めてなんちゃら星。ジェットでもストリームでもない暴風の過ぎ去った後にはただ勝利者同士による穏やかな食事会の光景が広がるばかりで、朱鷺子も早々に輪の中に飛び込んで行っては戦禍を逃れたスイーツに手を伸ばしていた。というかあれだけの弾幕の中で食料にほとんど被害がなかったのは凄いね、食い意地ってやつはつくづく恐ろしい。今の乱闘だって、それこそ“口数を減らす”というのが真の目的だったに違いあるまい。
おそるべし紅魔館。そしておめでとう僕。こんなところで運気を使い果たしてしまっていいものか。あれ、まだ今年中だったっけ。
「よく生き残れましたね」
「まぁね。妙なところで運を使ったけれど」
突然の声にも、もうすっかり慣れてしまった。咲夜だ。振り返ろうとしたところで、しかしまた別の声が僕を制した。
「おいおい、私の目の前で運が良いだなんて言うなよ。これも運命だよ、うんめー」
子供っぽさの抜けないソプラノは、先の戦いの引金と同じ声色だった。レミリア・スカーレットはいつしか僕の隣に居て、その真っ赤なひとみで広間の喧噪を眺めていた。半数がリタイアして尚騒がしい。卓上のワインは早々に尽き果てて、すっかり出来上がった妖精達の間では一発芸をやらかす輩も出始めた頃である。ペースが早いったらありゃしない。おそらく夜明けまでこの調子なのだろう、眠らない夜という言葉がまさに相応しい。
「運命、ね。最近不運が続いてるんだけれど、それも運命だから諦めろってことでいいのかい?」
「不運だと思うかどうかはお前次第だろう? 視点と見方さえ変えればどうとでもなるんだよそんなもの」
「とても、運命を操る妖怪の発言には思えないね」
「あー、聴きたくないない。お前の運命末代まで半端者にしてやろうか?」
「そりゃあまた、とびっきりの不幸だ」
僕の言葉に、レミリアは不適な笑みで返してみせた。悪戯の巧くいった悪がきのような、にやまりと歪んだふてぶてしい笑顔だ。僕よりずっと小さいくせに態度ばかり尊大で、けれどもそんな彼女に対してどうしてか不快感は抱かなかった。なにをしても、なにを言っても、「彼女らしいな」の一言で妙に納得できてしまったんだ。
――レミリアは成長と引き換えに絶大な妖力を得たという。ならば、もし成長を止めていなかったとしたらどうだろう。本来の彼女がどれほどのペースで老いていくのかは知らないが、五百年も生きていればある程度成熟した体にはなっているに違いない。乳臭さも垢も抜けて、瀟洒で艶美な一人の“女”に成長しているのだろう。僕は改めてレミリアの全身を眺めた。僕の胸にも届かない小柄な体、肉付きの悪い華奢な手足に、病的なまでに白い肌。ぱっと見は人間よりも脆そうに見えるその肉体が、しかしそれを遥かに凌駕する強靭さを秘めているというのだから俄には信じ難い。まぁ、彼女にしてみればそんな矛盾は大した問題ではないのだろう。カタチがなんであれ強いんだから仕方ない。ごもっともである。
「なぁにひとの顔じろじろ見てるんだよ気持ち悪い」
「いや別に。少しばかり観察を」
「あんだってー。見るならお前の連れの面倒でも見てるんだな」
そして自分は咲夜に面倒見られるわけである、なんて思っても口にしないのはぜんとるまんの嗜みだ。……そういうことにしておかないと背後に佇むメイドがおっかなくてたまらない。
レミリアが顎で指した先で、朱鷺子は妖精メイド達の輪に実にすんなりと溶け込んでおり、お喋りに華を咲かせて上機嫌に笑っていた。ほんのりと色づいた頬をみるにアルコールも相当回っているようである。黄色い声が鼓膜を打つ。普段でも小うるさいのに今日は一段拍車がかかって、正直もう僕の手には負えそうにもない。
「咲夜が珍しく客を呼んだからどんなものかと思ったら、貧乏店主とお子様妖怪じゃあないか。正直言ってがっかりだぞ」
「あら、あの子は素直でいい子ですよ。どこかの誰かさんと違って手がかからなくて助かりますわ」
「あーあー、聞ーこーえーなーい」
……こりゃだめだな。五百年生きてようが中身があれだ、熟してない。
「とにかく! 今日は大体のことは多めに見てやるけどな、くれぐれも厄介事だけは起こすなよ」
そう言い残すと、レミリアは踵を返して早々にどこかへと行ってしまった。背負った蝙蝠羽が大げさに揺れている。こっちに来いと手招きをしているようで、それとも、あっちに行けと追い払っているようにも見える。そんな一見意味のわからない仕草にもどうやら咲夜にしか通じないメッセージが込められていたらしい。しょうがないわねと、どこか嬉しそうな声音で咲夜が呟いた。
「あれでも結構、我慢してるのよ。一緒になってはしゃぎたいくせに、意地を張ってるんだわ」
「それは、……君に対してかい?」
「まさか。お嬢様が私に気を使うなんてありえませんわ。でも、そうねぇ、……お姉ちゃんぶりたい年頃なのよ」
お姉ちゃん……ね。そういえばこの館には吸血鬼が二人いたんだっけか――悪魔の妹、フランドール。どういう姉妹仲かは存じないが、あのレミリアが欲求を抑え付けてまで良い格好見せつけたい相手なのだ、相当姉を慕っているか、もしくは全く慕っていないか。なんとなく後者だとは思う。仲が良いんだか悪いんだかわからない、きっとそんな関係なのだろう。
「なんとも、小難しいね」
「それはもう。一人で居る時のお嬢様なんて我侭の権化ですわ」
なんでも私に押し付けるのよ、と。疲れた口調で言う割にはその顔の綻んでいたところを僕は見逃さなかった。なんだかんだ言って世話焼きが楽しくて仕方がないに違いない。朱鷺子にやたらと親身に接しているのもそういうことだろう。一度相手に気を許してしまえば、あとはもう可愛くて可愛くてしょうがないんだ。これと相手を決めてとことん惚れ込むタイプ……か? いやいや彼女のことだ、猫の二匹や三匹は身の内に飼っているに違いない……
――やめよう。その幸せそうな笑顔さえミスディレクションに見えてきてしまったところで、僕は無粋な思考を断ち切った。他人の腹の内なんか探ったって面白くもなんともない。咲夜が幸福だと語るのならそれは幸福なのだ。笑顔の仮面は被っているかもしれないが、その下の素顔もまた笑っているかもしれないじゃあないか。
「君も、今日はずいぶんと御機嫌だね」
「そうかしら? 私はいつも通りですよ」
「全然違うさ、全然。普段の君よりずいぶん生き生きして見える」
「あら、私ったら口説かれてるのかしら」
「僕はそんなに軟派じゃないよ。それに――」
ちらりと、わき目に朱鷺子の姿を窺った。眼を細めて大口を開けて笑っていて、その様子は“女”ではなく、まだ“女の子”と言った方がしっくりくる。淑女には程遠い。それでいいと思う。元気が過ぎるくらい活発な方が、ずっといい。
「君に手を出したら、朱鷺子が黙っちゃいないだろうしね」
「そうねぇ、……ふふ、きっと角を生やして怒るわね」
真っ赤になって怒るだろう。さんざん叩かれるだろう殴られるだろう。朱鷺子の性格を考えるに手加減なんてないだろうし、僕だって痛いのはごめんだ。それに、あの浮かれた気分をぶち壊してやる気にもなれない。相手が咲夜であろうとなかろうと、朱鷺子の御機嫌を損ねるような馬鹿はしないつもりだ。
「そうだ、朱鷺子ちゃんのことで思い出したんだけれど」
ふと咲夜が口にする。彼女もまた朱鷺子を瞥見してから、こう続けた。
「図書館をね、開放してもらいましたから。エントランスまで戻って、西の廊下を道なりに行った突き当たりですわ。一息ついたら朱鷺子ちゃんを連れて行ってあげてくださいね」
「あぁ……すまないね、わざわざ」
「大したことではありませんもの。このくらいでお客様に喜んでいただけるなら、冥加に余りますわ」
先日約束していたな、確か。朱鷺子にとっての夢の城、あんなハイテンションのまま連れて行って、心臓麻痺でも引き起こさないか心配だ。まぁそれで死ねたら朱鷺子も本望と言えば本望なのかもしれないが。
僕も実際伺ったことがあるわけではないが、魔理沙の言うことには阿呆みたいにだだっ広いらしく、その空間は僕の店をよりいっそう黴臭くしたような匂いで隙間なく満たされているらしい。あんなに汚いところで暮らす魔女の気が知れないぜ、というのは魔理沙の感想だが、僕に言わせれば物理的に汚い家に住む魔法使いの方がよほどおかしいと思う。
とかく、せっかく開放してもらえたんだ、行かないなんて選択肢があるはずもない。それに僕も図書館には興味がある。蔵書量で言えば僕の店など足元にも及ばないのだ、僕がまだ見たことのない本も、ごまんとあるに決まってる。好奇心が疼く。今にして思えば、紅魔館を訪れるきっかけを作ってくれた朱鷺子には、きちんと感謝しておくべきなのかもしれない。
「……さて、そろそろお嬢様のところに行かないと。遅れた文だけ注文が増えていくんですもの」
伝えるべきことも伝え終わると、咲夜はやおら会釈して、それからもう一度だけ広間の方へと視線を送った。惨状とも言うべきその光景に彼女は小さなため息を漏らしたが、そんな疲れた表情を浮かべてみせたのはほんの数瞬だった。さっきレミリアに呼ばれていたっけ。主人の前では、嫌な顔ひとつ見せるわけにもいかないんだろう。
「そう。引き止めたみたいで悪かったね」
「そんなことありませんわ。愚痴を聞いてもらえただけで、十分」
僕には、彼女の言う愚痴もなんだが自慢話のように聞こえたのだけれど。そのことで冗談の一つでも言ってやろうかとも思ったが、肝心の咲夜は「よい時間を」とだけ言葉を残して、レミリアの去って行った方へ小走りに駆けて行ってしまった。間抜けに口にを開いたままの僕だけがぽつんと取り残される。僕もずいぶん、鈍いなぁ―― 「くらえーっ!」 と、自分自身に呆れるのも束の間。ひどく阿呆らしい声が聞こえたと思った瞬間、口の中に文字通り何かを喰らわされた。あ、やばいって、喉まで詰まってる喉まで。って言うか甘ッ! これただの砂糖の塊だろう?!
「――ん゛ぇっ!」
「おー、飲み込んだ飲み込んだ」
そりゃ飲み込むよ飲み込まないと死ぬからね。咲夜が用意してくれた料理を吐き出すわけにもいくまい。というか――
「食べ物で遊ぶな! 僕で遊ぶな!」
謝れ! メイド長に謝れ! とまで言うと朱鷺子に与える精神ダメージも相当のものなので言わない。どちらにせよ、僕を甘味責めにしたその行為は許し難いわけだが。
「なによっ、こーりんがちっとも食事しないから、こうやって持ってきてあげたんじゃない」
男の僕に、あのスイーツフル空間で戯れてこいと? 冗談じゃない。第一僕がまともに口に出来そうなものまでなにもかもクリーム塗れになってるじゃないか。ちくしょう、少しは僕のことも気遣ってくれ。
「咲夜達と話し込んでいたんだ、途中で切り上げるわけにもいかなかったんだよ」
「咲夜さんと?」
「そう。お前のためにわざわざ図書館を開けてくれたそうだ。後でありがとうって言っておけよ」
言うなり朱鷺子の眼が輝きを帯びて、ただでさえ紅潮していた頬がその朱鷺色をいっそう強めた。予想通りの浮かれぶり。咲夜に見せれば、さぞや喜んでもらえるだろう。
「ほんと? ほんとう?! やったぁ! 早く行こうよこーりん!」
「いちいち極端だなお前は……頼むからのぼせて倒れたりしないでくれよ」
「そーんなもったいないことしないわよ!」
しそうだから言うのである。と言っても朱鷺子の耳に届くはずもない。小躍りしながら飛んで行こうとする朱鷺子を抑えつつ、僕たちは未だ妖精の狂宴が続く広間を後にした。大扉を開き、廊下に出るとあっと言う間に空気が変わる。僕達ふたりの音以外、感じるものはなにもない。
――だから余計に意識してしまう。広間の喧噪から遠ざかるほどに、朱鷺子の声や吐息や、感触が確かになっていく。無邪気に腕にしがみついてくる、その顔は相変わらず赤いままで、けれどもそれが酔ってふざけているだけなのか、それとも甘えたいだけなのかよくわからなかった。何を考えているんだろう。何も考えていないのかもしれない。心底しあわせそうな表情から読み取れることはなにもなかった。
「あんまり引っ付くなよ、歩きにくいな」
「いーじゃない別にー。行けいけー」
ほんとう振り回されてばっかりだ。咲夜の気持ちも身に染みてわかるというものである。元気ばっかり持て余して、我儘で、人の話なんかちっとも聞かないで……
けれどどうしてか憎めない。放っておけないし、なにより僕自身が放っておきたくなかった。理由なんてわからないし、今の僕に理解できる感情ではないとも思うけれど、ただなんとなく、……悪い気はしないなぁと、そう、思ったんだ。
▽
石造りの廊下を叩く音が、延々と続く廊下の遥か先まで響き渡っていく。次第に深みを強める闇色に圧されて、点々と位置する燭台もすでに頼りない。先刻までの眩しいばかりの華やかさもすっかり消え失せて、暗闇と陰湿さばかりが目立つこの空間が、本当に同じ館の中に在るのかまるで実感が沸いてこなかった。
取り残されそうだと、そう感じた。廊下に満ちる冷たい空気は幽かに揺らめく灯火さえも凍りつかせてしまいそうである。いつ光源が失せるかもわからない。それと同じように、ふとしたことで自分の輪郭がなくなってしまいそうだと、そんな不安を抱いた。もちろんそんなことあるはずないとわかってはいるものの、怯え竦んだ心はそう簡単に持ち直せるものでもない。一度薄気味悪さを覚えてしまっては、それを払拭するのは容易いことではなかったのだ。
そうしてそれは朱鷺子にとっても同じことらしい。さっきまで小うるさく騒いでいたはずなのに、この長廊下に差しかかった途端にだんまりだ。さっきまで暑苦しいぐらいに絡み付いてきた腕も今は離れてしまっていたけれど、それでも手を放すことは躊躇われるのか、僕の服の袖はぎゅっと握られたままだった。
「……寒いのか?」
何とは無しに口にしてみる。沈黙に押し潰されそうでたまらなくて、せめてなんでもいいから会話が欲しいと思ったのだ。
しかし朱鷺子の言葉が返ってくることはなかった。その代わりに小さな頭を横に振って、違う、とだけ答えた。嘘の下手なやつ。袖を握り締める手を震わせながらでは、ちっとも説得力なんかない。
少しだけ――ほんとうに少しだけ、朱鷺子に近寄った。微々たる距離が変わっただけで、感じられる雰囲気はずいぶんと変わる。僅かにだけれど、彼女の心の内がわかるようになった気がして、僕は気付かれないようそっとその横顔を窺った。どこか懐かしい表情がそこにある。期待と不安に声なんて忘れてしまったけれど、その代わりとばかりに一等輝くひとみに、僕は確かに見覚えがあった。
それは……僕が朱鷺子という名前を考えている間、彼女がずっと僕に向けていた光の色となにもかも同じだった。拍子抜けした。泣いているのかと思ったのに。
「着いたみたいだよ、こーりん」
茫然としていた思考に突然朱鷺子の声が飛び込んできて、僕は慌てて目の前に振り返った。すぐさま視界に飛び込んできたのは、膨大な年月を感じさせる一枚の木の質感。目前に立ちはだかる扉は大広間のものよりも一回り小さく、古ぼけていて、随所に刻み込まれた術式と思しき文様も長年の風化を経てとても読めたものではない。
……けれど、だけれど、これだけ傷んでいようが、圧倒されることには何も変わりない。なるほど、伊達に大図書館の玄関を努めてきたわけでもないということか。きっとこの扉は、そう、結界なのだ――とても意味深い――そもそも混沌の象徴とでも言うべき紅魔館の中に図書館のような秩序の聖域が存在するためにはこのような明確な定義を持った結界が必要でありそういった観点から考えた時扉というものは古来より空間を仕切るために用いられてきたものなのだからこの図書館のような一部屋単位の小規模空間を外界と隔てるためには利便性耐久性密閉性秘匿性を兼ね備えかつ伝統と実績を誇る“単なる扉”こそこの場には相応しいのである。要するに扉である。
「朱鷺子、これは素晴らしいものだ」
「意味わかんない」
「いいことを教えてやろう。うちの玄関、まだ壊れたままなんだ」
「知ってる。なんでもいいから早く開けてよ。開かずの扉ごっこはもういいでしょ」
無粋なやつめ。魔理沙の襲撃回数の割には綺麗な状態を保っているこの扉への感動がわからぬか。
まぁ僕だって半分は冗談だ。まず規模からして違うしなぁ、うちの店にこのサイズの門扉はさすがに合うまい。ただ、その頑丈さをちょっとでいいから分けてくれとは思う。ドアノブがもげない程度でいい。というか普通ドアノブはもげない。
「開けるも何も、まずはノックから、だ」
「え、するの?」
「……君らみたいなのばっかりだから、うちの店は……」
「ぶつぶつ言ってないで、するならさっさとしなさいよ」
だいたいなぁノブが回りきる前に力任せで押し開けるもんだから建て付けが悪くなるし金具が痛むし蝶番にヒビが入るしうんたらかんたら。おかげさまで一通りの大工仕事をマスターしてしまったじゃないかどうしてくれる。――どうもしないか。とにかくこの話は止めだ止め。思い返せば返すほど、味わってきた苦難の日々を思い出すばかりで悲しくなってくる。
おほんと咳払いを一つ吐いてから、僕はもっともらしい仕草で二回、打った。たったそれだけのことだというのに辺りに響き渡る重低音は凄まじく、錆びた銅鑼を打ち鳴らしたような鈍い音が腹の底をじりじりと震わせていった。身の毛のざわめくのを感じる。まるで地獄の門でも叩いてしまったかのよう。さて悪魔の館の図書館は、いったいどんな怪物が治めているのやら――
「はぁい、ただいま行きますよ」
……かいぶつ、だってぇ?
「女の子の声ね、こーりん」
「……そうだな」
「あんまり乗り気じゃなさそーだね」
男には夢がある。そりゃあ可愛い女の子に囲まれてきゃっきゃうふふしたいのも夢といえば夢だが、……しかし、しかしだ! これだけいかにも“出ます”的雰囲気を漂わせておきながらはぁい(はぁと)はないだろう? もっとこうゴーレムだのガーゴイルだのベリアルだの重量級を期待していたのに……。前々から思っていたが幻想郷に足りないモノはきっと浪漫だ。断じてロマンティックではないぞ――漢の浪漫だ! 外の世界は素晴らしい。怪獣は力強い。怪人は格好良い。戦隊ヒーローなんてこの年になってもまだ憧憬さえ覚える。最近山のように流れてくる人形(そふびと言うらしい)蒐集のため、店の一部を改造してギャラリーにしたのはまだ誰にも知られていない僕だけの秘密だ。
「にやにやしないでよ、気持ち悪い」
ふん、お前みたいなお子様に僕の高尚な趣味が理解できてたまるものか。ナンバーワンよりオンリーでロンリーなグローリーを僕は目指すね。幻想郷でたった一人のコレクター、それもなんだか浪漫溢れる響きじゃあないか。
あぁ、この図書館、怪獣図鑑とか置いてないかなぁ。そんな希望も胸に秘めたところで、ぎぃ、と大扉が唸りをあげた。隙間から咽返るような匂いが吹き込んでくる。どこかくすぐったい、本と、本と、本と、本の匂い。それに続くようにして、また小柄な少女が間から身体を覗かせていた。
「あら、あなた達は……」
「僕は森近霖之助、こっちは連れの朱鷺子。今日の会の招待客なんだけれど、咲夜からなにか聞いていないかい?」
小首を傾げて暫し考えた様子をみせた後、彼女が思い出したように言った。
「――あぁ! 二人組のお客様って、あなた達でしたか。図書館の見学がしたいということでいいんですよね?」
「そういうこと。君は、この図書館の主なのかい?」
「いいえ、私はマスターの使い魔です。この図書館の司書を任されているんですよ」
そう言って、両開きの扉が全開にされると、視界には朱鷺子よりも少し小さい背格好の少女と、その背後に広がる書棚の群が飛び込んできた。血色の髪に、蝙蝠のそれに似た二対の翼。レミリアと同じ――彼女もまた、悪魔だ。
どうぞ、と微笑んで彼女は僕達を差し招いた。誘導されるまま後に着いていく。一歩図書館に足を踏み入れた瞬間、肌に纏わりつく大気はその質感を一変させた。どこか粘性を帯びた、湿気た空気。普通に息をしていてもなにかが喉に引っかかるような感触があって、慣れるまでは呼吸も満足に行きそうになかった。朱鷺子の表情も険しい。予想はしていたが……なるほど、これは確かに澱んでいるな。
「窓がないんですよ、ここ。それ以前にマスターが換気を嫌うものですから……」
申し訳なさそうな声で彼女が言う。しまった、不快感が顔に出てしまったか。
「机は図書館の中央にありますから、使ってください。それと、居場所がわからなくなったら慌てず騒がず飛んでくださいね」
「……飛べない場合は?」
「大きな声でも出してください。助けに行きますから」
それもこっ恥ずかしいなぁ。なんて思ってると案の定朱鷺子が不敵な笑みを浮かべてみせていた。忌々しい顔だ。これでなにがなんでも迷子になるわけにはいかなくなった。
「マスター、明日までお嬢様の所に居るそうですから。書斎以外どこを見ても構いませんよ」
「そうかい。じゃあ行くぞ、朱鷺子」
「はーい。ありがとね! えっと、」
「……“こぁ”です。親しいひとはそう呼んでくれます」
「そっか。こぁちゃん、また後でね!」
一礼して僕達はその場を後にした。こぁ、……と僕なんかが軽々しく呼んでいいのかはわかりかねるが、彼女はたおやかに手を振って見送ってくれていた。悪魔と言えどもレミリアのような性格のヤツばかりではないらしい。いやいや、本を扱う者はやはり常識人に限るね、うん。
「すごい……森みたい」
左右に広がる紅茶色の書棚はただただ巨大で、僕の背丈を遥かに越えるものばかりが規則正しく林立していた。森のよう、と朱鷺子は言う。中々的を得ているなと思った。どの本棚もそれぞれ一本の古木を思わせて、それぞれが息づいているようにも感じられる。あぁ、この図書館はきっと生きているのだ、今も尚ゆるやかに成長を続けているんだ。そう考えると、鼻を刺すこの匂いもなんだか穏やかなものに感じられてきて、それと同時にあれほど不快に思っていた感情も溶けるようにして消え失せていった。身体が慣れたわけではないと思う。ただ、そう、澱んでいようが黴ていようが、それさえも居心地の良さに変えてしまうなにかがこの図書館には満ちているんだ。それこそ緑深い森のように、ただじっとして居るだけで感情が静まっていく。これを退屈と形容するひともいるだろう。それもまた真実だが、ひとつの側面でしかない。僕はそんなつまらない所に目を向けたりなどしない。何のためにここを訪れたのだ。楽しまなくちゃあ、意味がないじゃないか。
「目移りしちゃうね、こーりん」
「そうだな……とりあえず面白そうなやつでも探してこいよ」
「うん!」
しばらく歩くと、司書の言っていた閲覧用の円卓が、本棚の森の中にぽつんと姿を現した。さながら森の広場とでも言ったところか。「ここ、私の席ね!」と一等座り心地の良さそうな長椅子をキープしてから、朱鷺子は朱鷺色の翼をはためかせて言葉通り飛んで行ってしまった。まったく、忙しないんだから。
「図書館、か……」
適当な椅子に腰を掛け、僕は反り返って天井を仰いだ。呆然としてしまうほどに遠くて、どう考えても外からみた紅魔館の高さと合致していない、が、ここにも咲夜の手が余すところなく及んでいるのだろう。
中空には灯り代わりの魔法火が点在しているが、その光も弱々しく、今にも周囲の薄闇に呑まれて潰えてしまいそうだった。星空と形容するには程遠い。あの司書のマスターはどれほど光を嫌っているのだろう。天窓はおろか採光窓さえ見当たらず、星月の光さえ取り込まないという徹底ぶりもここまでくると大したものである。
……時計はどこだろう、そんなことをふと思った。ここは時の流れを感じさせる要素があまりにも寡少すぎる。空間を弄ってある時点で時の流れにある程度の狂いは生じているだろうが、それにしたってここまで不変性を見せ付けられると少しばかり頭がおかしくなりそうだった。不安から、首だけを動かして辺りを見渡すと、本棚の壁の一つに古時計が一つ掛けられているのが目に付いた。振り子はきちんと揺れているので止まっているわけではないと思う。けれどその揺れ幅もなんだか、僕の知っている時計のそれよりもずいぶんと緩慢なものに見えて、ともすれば今にもすぅと止まってしまいそうな、そんな予感を胸の内に抱かせた。
しばらく、その動きを目で追っていた。せっかく図書館まで足を運んだけれど、なにか本を読もうという気はいつの間にか消え失せていて、今はただ、朱鷺子がなにか面白いものを見つけて帰ってくるのを待っている。そうしたら、あとは彼女の観察でもしてようかと思う。変わらない図書館を眺め続けることよりも、変わり続ける彼女を見ている方がよほど楽しいだろうと、今の僕にはそんなふうに思えたんだ。
「――こーりん!」
十数分ほどして、森の奥から快活な声が届いてきた。朱鷺子だ。びゅうんと風切る音と共に、僕の隣に降り立った。
「お早いお帰りじゃないか」
「うん……たくさんありすぎて、逆にわけわからなくなっちゃって」
それはそうだろう。僕だって、これだけ在る中から好きなものを読んでいいと言われたって悩むものな。まして僕より読書に傾倒している朱鷺子のことだ、軽く混乱したって仕方あるまい。
「だからね、これにしたの」
「……ノイマン? この図書館にもあったのかい?」
「うぅん、お店から持ってきたやつ」
いつの間に……というかどこに。店の物を勝手に持ち出すなと叱りつけてやりたいところだったが、僕が口を開くよりも前に朱鷺子はさっさと動いて、さっきの“ときこいす”を引っ張ってきては僕の隣に置いてどんと腰を下ろしてしまった。そのあまりのふてぶてしさに声も忘れて脱力した。自分勝手なところばかり悪魔に似やがって。
「こーりんはさ、この本全部読んだんでしょう?」
「一応、ね。書いてあることを全て理解したわけじゃないさ。外の魔術書は専門用語からして難解なんだ」
「それでもいいの。せっかくだから読んで聞かせてよ」
「……はぁ、そう来るとは思わなかった」
ずいと朱鷺子が差し出してきたノイマンを受け取る。背表紙には“3”の字が書かれている。僕の家に泊まりこんでからもう一週間以上も経つのにまだこんなものか。まぁ、日中はなんだかんだで朱鷺子には仕事を押し付けてるから、読む暇を与えてないのは僕の方なのかもしれないけれど。
「辞書でも引いて、ゆっくり読み進めればいいだろう。うちにはマダレムジエンもあるんだし」
「そりゃあ、香霖堂に戻ったらそうするわよ。でも今は違う。そうでしょ?」
それは確かにそうなんだけれど、学術書を読んで聞かせるなんてのは聞いたことがない。絵本や物語ならよくあることなのだろうが……あぁ、そういえば。こいつは本の内容なんてどうでもよかったんだっけ。書いてあることがさっぱりでも、自分にとって楽しいと思えればそれでいいと言うようなやつなのだ。
そこまで言うのなら、僕としても別に頑固として断るつもりはない。他人の語って聞かせるのはどちらかと言えば好きだし、自分が一度読破済みの本ならさして詰まることもないだろう。朱鷺子が聞いて面白そうなところだけ引っ張ってきて、面白おかしく脚色すればそれで十分なのだ。朱鷺子が僕に求めているのは、きっとそういうことなんだと思った。
「――どこまで、読んだんだ?」
「四十頁ぐらい。ノイマン型の、えどさっくがどうのこうのって」
「ああ……、それはね、」
机の上に本を広げる。一面に広がった外の言葉を少しでも視界に押し込もうと、朱鷺子は僕の方へぎゅうと身体を寄せてきた。狭苦しいとは思いつつも、そのくすぐったい心地が悪くなかったのでなにも言わないでおいた。
少しずつ、少しずつ。転ばないように、躓かないように。語り部は僕で、聞き手は彼女。僕はどれだけ伝えられるだろう。この本の魅力をどこまで朱鷺子に教えられるだろう。初めてこの十五冊を揃えた時にはずいぶんと感激したものだ。なにせこの本は、拾ってきたはいいもののまるで使い物にならなかったコンピュータについて書かれていた本だったから。努力の甲斐も虚しくコンピュータは今でもうんともすんとも言わないけれど、それでも僕が感じた情感は紛い物なんかじゃ決してなかった。
あらためて、……今頃になって、思う。僕も少々身勝手が過ぎていたのかもしれないと。朱鷺子には今一度、頭を下げておかなきゃいけないんじゃないかって。けれど今更だとも思う。そんなことをしたって、朱鷺子を困らせるだけだともわかっている。だから僕は謝罪の言葉は言わないことにした。それに代わる態度だけを示そうと、それだけを想った。
朱鷺子にはたぶん伝わらないだろう。――伝わらなくていい。だって恥ずかしいじゃないか。馬鹿にされるに決まってるじゃないか。可愛いところもあるんじゃない、こーりんって。そんなふうに笑われるに決まってる。
冗談じゃない。僕はまだ、“こーりん”のままでいたいのだ。
「……要するにノイマン型計算機というものは、計算機本体にあらかじめ組み込まれているプログラムと呼ばれる式に従って演算を行う計算機のことを指すらしい。これは幻想郷における式の仕組みと同じなんだ。幻想郷の式も、主人に与えられた命令に忠実に従うことで凄まじい能力を発揮することが出来る。逆に命令に従わず好き勝手に行動すると、その力は目も当てられないところにまで落ちぶれてしまうそうだ。ノイマン型はこの仕組みをさらに強化したもので、プログラムの無い時はただの箱にしか過ぎないんだけれど、条件を得てプログラムが起動した瞬間、超絶的な演算能力を発揮できるらしい。その力は絶大で、外の人間はもうノイマン無しには生きていけないそうだ」
刻一刻と進歩を遂げ続けているらしい外の世界では、移り変わりの激しい日常に乗り遅れないよう、常にノイマンによる高速情報処理を必要としているという。数年前の異変が一面見出し記事としてごく当たり前のように新聞に掲載される幻想郷とは、まったく真逆の世界と言える。
「忙しいのね、外の人間は」
「そう、忙しいんだよ。仕事のほとんどをノイマンに押し付けて、それでもなお手元に仕事が余るほど忙しいらしい」
「なんだか外の人間って、こーりんみたいね」
くすりと笑いながら朱鷺子が言う。僕が、外の人間のよう? ちょっと聞き捨てならなくて、僕は思わず聞き返してしまった。
「どういう意味だい、それは?」
「だってそうじゃない。いっつも忙しい忙しいって。私に仕事たくさん押し付けて、それでもまだ忙しいって。私が雪かきしてる間、ずっと道具弄りしてるんでしょ?」
言い得て妙と言えばそうかもしれない。なるほど、確かに僕も朱鷺子がいなければ、道具の修繕をする時間が作れなかったわけだし。
なんだかおかしくなってしまって、僕は笑いを抑え切れなかった。それにつられて朱鷺子も声を上げる。俄かに談笑が辺りに振りまかれる。それから朱鷺子が一言、ぽつりと呟いて、
僕は凍りついた。
「じゃあ私、こーりんの式なのね」
……なん、だって?
「違う」
「……え、」
「それは違うよ朱鷺子。…………絶対に違う」
自分でもどうして、こんなにか冷たい声が出ているのかわからなかった。朱鷺子を突き放しているわけじゃないただっ――……ただ、認めたくない、と。
「お前は僕の式なんかじゃないよ、朱鷺子」
「ぁ……ごめん、なさい……」
「いや、謝ることじゃないんだ……今のは僕が悪かったよ」
朱鷺子が、式? よりにもよって、僕の?
ありえない。断じて。僕はそんなことを望んでなんかいないし、そうしてくれと頼んだ覚えもない。違うんだ、ちがう……じゃあ一体何が違う? 朱鷺子はお前にとってなんなのだ森近霖之助。同じことをさっきも考えたばかりだろう? 僕にとって彼女は、彼女にとって僕は、……なんだと言うんだ?
「………」
「お前は僕の、その……式になりたいわけじゃないんだろう? 式になるというのは僕の道具になるということだ。お前はそんなこと望んでいないだろう、朱鷺子?」
朱鷺子にしてみれば、深い意味があっての発言じゃあなかったはずだ。そこに噛み付いて事をややこしくしたのは僕だ、責められるべきは彼女じゃない。……だけれど、噛み付きたくなるほど胸を騒がせたからこそ、はっきりさせておきたかった。本心でなくたっていい。胸の内の、ほんの浅いところでもいい。朱鷺子を知りたい。心にこんなに霞がかかっているのは、気持ちが悪い……
……朱鷺子は何も言わず、首を小さく縦に振って、答えた。
「そう。それでいいんだ」
「……そんなこと急に言われたって、わかんないよ……」
「深く考えなくていいのさ、お前はお前だよ、朱鷺子。自分で考えて、自分の好きなようにやっている。その時点でお前はもう僕の式じゃないんだ」
我ながら馬鹿馬鹿しいこじ付けだ。命令を聞かない式も居るって、さっき言ったばかりなのに。けれど今の朱鷺子を騙くらかすにはそれで十分だったようで、納得したのか、僕の様子が落ち着いたことに安堵したのか、朱鷺子はほっと胸を撫で下ろしていた。そんなに険しい顔をしていたのだろうか。激情みたいな手に負えないものは、あまり表に出したくなかったんだけれど。
「ごめんねこーりん……ばかなこと聞いたね」
いつも通りの笑顔が戻ってくる。それでいい。ずっとそうしていればいい。
突如として招き寄せてしまった澱んだ雰囲気を早く払拭したくて、僕は視線を朱鷺子のひとみからノイマンへと戻した。相変わらずの世界がそこに在る。僕らの一時の波紋など、それこそ何事もなかったろうとでも言いたげに。
どこから切り出そう……どこまで読んだっけ。頁を送る右腕に、朱鷺子の身体がとん、と傾いできた。なにか声をかけようかと思って、やめた。結局僕は二巻目の初めから読み直すことに決めた。けれど今度は、さっきよりもずっと近くて。また違った形の世界が紡げそうだと、そんな気がして。
「非ノイマン型計算機の未来は――」
今度こそこの空気を壊すまいと、僕は静かに口を開いた。
ごぉ、ぉーん……
ぉん、おぉーん…………
掛け時計が告げる時刻は、零時。今年が死んで去年となって、来年が生まれて今年になった。明けましておめでとうの挨拶は言わない。ここは紅魔館。ハッピーニューイヤーはもう言ってしまったのだ。
僕はただ静かにページをめくり続けていた。口を開くことはない。話を聞いてくれるはずの誰かさんは、人に身体を預けて勝手に寝てしまった。快活な声も今は小さな寝息に取って代わり、優しい顔も、穏やかな顔も、拗ねた顔も笑った顔もなにもかも、寝顔の下で一緒くたになって眠っている。朱鷺子に寄りかかられている以上席を立つことも出来なくて、結果僕はこうして、一度読み通したはずのノイマンをもう一度さらっていくことしかできなかった。
「霖之助様、朱鷺子様」
そんな折、ふと背後から声がした。振り返って見ると先刻の司書が、お盆にティーセットを載せてふわふわ飛んでくるところだった。
「紅茶をお持ちしました。よかったらどうぞ」
「ありがとう。ちょうど喉が渇いてた」
「その様子じゃ、簡単に席も立てませんものね」
肩に頭を寄せる朱鷺子を見て司書が小さく笑う。朱鷺子のやつめ、僕の苦労も知らないで。
「仲、よろしいんですね。恋人? 親友? 主従? それとも親子かしら?」
「はは……そういう関係じゃないんだけれどね。どういうわけか、僕に懐いてるみたいで」
そうでもなければ、こうも無防備に男に身体を預けたりなどするまい。僕は朱鷺子にある程度まで信用されているのだ。僕としても、その気持ちが嬉しくないわけじゃない。寝ている間の子守ぐらいはしてやってもいい。少なくとも、朱鷺子が“対象”になっていない今ぐらいは。
「あら、霖之助様が好かれるのは、当たり前のことじゃないですか」
「……どうして?」
おかしい、と包み隠さず司書は笑う。その小悪魔的な笑みはとても板についていて、って彼女は悪魔だったんだっけ。一人分のアッサムティーを淹れながら、彼女は囁くようにこう言った。
「霖之助様は、その子の“名付け親”なんでしょう? 子が親に懐くのは、当然のことですよ」
「――どこでそのことを、」
「さぁ、どうしてでしょう。……同類、だからでしょうかねぇ」
カップが差し出される。血の色にも似た、深い紅。そこに映りこんでいた彼女の顔を、僕は凝視することができなかった。
「すまない、ちょっと言っていることがわからないな」
「独り言ですよ、はじめから意味なんてありません」
……悪魔の言うことだ、どこからどこまでが嘘で、出鱈目なのだろう。僕は彼女の言うことを真に受けないことに決めた。カップに映り込む微笑みを掻き消したくなって、まだ熱いままの紅茶に口をつける。品のいい茶葉の香りと鉄錆びた味わいが口腔に広がる。茶器のどれかが錆びていたんだ。そう思い込むことにした。
「紅茶はあまり淹れないんですけれど、……どうです?」
「あぁ、美味しいよ。目が覚める味だった」
「それはよかった。もののついでに、もう一つ聞いてもいいですか?」
お喋りな悪魔だ。初めのうちは好感が持てていたその笑顔にも、今はただ薄気味悪さしか感じない。彼女は一体何者なのだ……その心の読めないことは、レミリアより、咲夜より、勝っている。
どうせろくでもないことだろう。断るべきだ、そう思って口を開こうとしたその時、しかし彼女はすでに機先を制していた。
「どうしてその子に真名を与えたんですか?」
「……質問で返すようで申し訳ないが、どうして、そんなことを訊くんだい?」
「好奇心です。霖之助様の胸の内に興味があります」
笑顔を絶やさぬまま、平然と言う。赤い双眸が僕を捉える。吸血鬼には見られなかった妖しさが、そこには宿っていた。
「式にするためですか? 支配するためですか? 束縛するため? それとも陥れるため? その子の真名はその子のものではありません。霖之助様、その子はすでにあなたのモノなんですよ。名を知るだけでは意味がありません、握らなくては意味がありません。霖之助様はその権利を偶然に手に入れたんです。もっと利用したいとは思わない? 彼女を好きにしたいとは、思わない? 私でよければ霖之助様に協力いたしますよ。ごく簡単な支配契約を教えて差し上げます。尤も、名を与えるという行為自体、束縛性の強い契約ではありますけれど。……ねぇ、あなたの本心を聞かせてくださいな。ほんとうはどうしたいの? その子に、なにを期待しているの?」
「黙れ」
眼を見、言い切る。たかだか魔眼如きにそう容易く堕とされるほど脆弱な精神は持ち合わせていない。僕の眼の色を見て、彼女も無理だと早々に割り切ったらしい、すっぱりと口を閉じるとまた穏やかな表情に戻ってみせて、何事もなかったかのように話を切り替えてきた。
「では、私はこれで。それと咲夜様からの伝言です。五時になったら朱鷺子様と一緒に、時計塔を昇って屋上まで出てきてほしいそうです。初日の出が綺麗だそうですよ」
深く、たおやかな一礼を残すと、彼女はヒールの音を立てることもなく静かに立ち去っていった。血色のアッサムティーはまだ半分が残っている。片付けてしまおう、そう思って手を付けたのと同時、後ろに眼でも付いていたかのようなタイミングで、彼女がこんな言葉を残していった。
「また来てくださいね。今度はもっと美味しい紅茶を淹れますから」
そんな台詞を捨て置いて、今度こそ気配が空に融けて消えた。しばらく――古時計の秒針が一周したのを確かめてから、僕は残りの紅茶を思い切り呷る。もう、血の味しかしなかった。
ああ、どうしてだろう。とても、とても、――――苛立つ。この感覚は久しいな。いつ以来だろう、魔理沙が実家を飛び出してきた時が最後だろうか。どうしてどいつもこいつも僕と朱鷺子をそんな目で見るんだろう。僕にそんな気は無かったって言ってるじゃないか。気まぐれに過ぎないと。朱鷺子が僕の傍にいることは、単なる偶然の積み重ねに過ぎないと。そうだ、……気まぐれだ。けれどそれは、……切欠でしかなくて。少なくとも僕達の今の関係には多少なりとも僕の感情が入っている。朱鷺子と縁を切ろうと思えばいつだって出来た。今だって、出来る。でもそれをしないのは、僕がそれを望んでいないからだ。そして、望んでいるのだ。心のどこかで。まだ一緒にいてもいいんじゃないかって、これからもっと楽しくなるんじゃないかって、期待しているんだ……僕が、朱鷺子に。あるいは、朱鷺子が僕に……
血の紅茶が胸を焼く。爆ぜそうなほどに心臓が疼いて、全身体液が煮え滾っているかのように熱い。今なら自分の意志で理性を吹き飛ばせそうだなと思った。手始めに、左手に持っていたカップを握って、締めた。ぱりんと軽い音がして砕け散る。呆気ないなという感想は、遅れてやってきた鋭い痛みに上書きされてやっぱり呆気なく消えた。ばかなことをした。頭の中がいっそう白熱して、そろそろ脳みそも溶け出した頃かもしれない。いやだなぁ、死にたくない。激情を通り過ぎ、感情の臨界も越えるとあとはもうなにも考えられなくなる。その中で、僕に寄り添う体温が一つだけあったので触れてみた。朱鷺子だった。抱けばきっとやわらかいだろうな、そんなふうに思う。ばかになってしまった脳みそがそうしろと言うので、言われるがままに右腕を回してみた。肩も、頭も、僕の想像していた以上に小さかった。ちっぽけだった。そこで目が覚めた。破片の突き刺さったままの左手で、僕は固く握り拳を作った。
「悪魔め」
朱鷺子には申し訳ないが、僕がこの図書館を訪れることは今後一切ないだろう。何があっても、僕と朱鷺子がいずれ別れた後でさえ、絶対にないだろう。
右腕の中には朱鷺子の小さな肩が残ったままだった。いまさら手放すのも気が引ける。なんとはなしにそっと頭を撫でてみた。くすぐったそうな、猫のような声で朱鷺子がうずく。ほんの少しだけ、いとしいと思った。
図書館は相変わらず遅れた時を刻み続けていた。振り子の動きもずいぶんゆっくりになってしまったように見える。疲れてしまった。五時までに起きれなかったら、また朱鷺子にどやされるんだろうなぁと考えながら。ノイマンを閉じ、眼鏡を外して、僕は起きるとも眠るともつかないまどろみの中に身を投じた。
▽
「もう、ばか! ばーか! 早く歩けぇ!」
「うるさいな! 飛べるお前に飛べない僕の気持ちがわかってたまるか!」
完全無欠のメイド長を一つだけ非難するとしたら、どうして時計塔の空間まで拡張しているんですかと言ってやりたいものである。寝起きの鈍い身体で百段以上を駆け上がれと言うのが非情な話なのだ。ちくしょう! やっぱり朱鷺子ばっかり役得か!
「あと少し! あーもうっ、間に合わないわよ!」
「――っ、とぉ……ッ、着いたぞ!」
あぁ、世界が遅い。これがランナーズハイってやつか。いやこの近くにいる誰かさんのせいかもしれないが。
僕の到着と同時に朱鷺子は屋上への扉を盛大に開け放ち、次いで「あけましておめでとー!」と勢よく声を張り上げた。悲鳴を上げる足を引き摺り僕も続く。視界に映り込んだのは、もうほとんど白んだ空と、青いメイド、紅い悪魔、そしていつもの朱鷺色だった。
「朝からうるさいなー、これだからお子様妖怪は」
「なっ、なによ……あんた私よりちっちゃいくせに!」
「ここの出来栄えが違うんだよ、ここの」
そう言いながらレミリアは人差し指でこめかみをつんつんしている。いやそこの出来で比べてもいい勝負だと思うのだが……
「あけましておめでとう、霖之助さん、朱鷺子ちゃん」
「おめでとうございます。……しかしまぁ、吸血鬼が初日の出に立ち会うなんて」
「ちょっと見て、すぐ帰るさ。雰囲気だけ味わえりゃいいんだよ」
「あらお嬢様、さっきは最後まで見るって言い張ってませんでしたっけ」
「お前の話は聞かないって言ってるだろ!」
朱鷺子が目配せしてくる。きっとあいつ怖くなったのよ、とその眼は勝ち誇ったように輝いていた。なんて程度の低い戦いだ。せめて弾幕戦ぐらいは展開してくれよ。
「さ、あと二分と三秒で日が昇りますよ」
咲夜の言葉に、皆湖の方へ振り返った。昨日の内にまた少し積もったのだろう、一段と白さを増した世界には、もう陸と空の境界線さえ存在していないかのように思えた。
その曖昧な世界にふと差し込む光があった。微かに浮かび立つ稜線のその後ろから、真っ白な光が幻想郷の空へと射していく。雲一つない空は瞬く間に色づいて、やがてほんのりと青を帯びた頃、一際眩い閃光が双眸を貫いた。
「じゃあ、私はこれで」
最後まで偉そうな台詞を残して、レミリアが立ち去る。「じゃあね」と咲夜もそれに続いた。二人が去ったところで、それと待ってましたとばかりに太陽は際限なく強く輝く。眼が眩み、意識さえ白く塗り潰されそうだと思ったところで、しかしそんな僕を引き戻したのは、やはり朱鷺色の――
「その手、だいじょうぶ?」
「あ、あぁ。カップの破片で切っただけだ」
「でもそれじゃあ、雪かき出来ないよね」
「……そうだな」
「また、朱鷺子さんの出番だね」
「ああ」
おどけた声で朱鷺子が言う。
僕の望む言葉が、そこにある。
「あけましておめでとう、こーりん!」
一等明るい声で、太陽にだって負けないぐらいの眩しい笑顔で、朱鷺子が思いっきり飛びついてくる。それがあんまりにとびきりで、どうしてか嬉しかったものだから、僕は朱鷺子を受け止めきれなくて、二人して雪の上に転んでしまって。そのせいで日の出の昇りきった瞬間を見られなかったものだから、僕達は顔をつき合わせて、ばかみたいに笑いあった。