――あいつはずるい。
訪れていた彼が部屋を去るのと、窓の向こうの雲行きが怪しくなりはじめたのはほとんど同時だった。さっきまではあんなにぎらぎらと光を射していた斜陽も、にわかに立ち込めはじめた薄暗い雲に覆われて、夕焼けを前にその姿を隠してしまった。崩れそうな空模様だ、降り出す前に、彼は店まで戻れるだろうか。……いいや、あんなずるいやつ、ちょっとぐらいひどい目にあってしまえばいいんだ。さっきまでのことを思い出して、私はぽつりとそう呟いた。でも、彼のことだから、ちょっとの雨ぐらい風情のひとつだとか言い出しそうだ。そんなふうに考えて、私はさらに小さくため息をつく。
――あいつはいちいち、やさしすぎるんだ。
帰る前に交わした口づけの、その余熱が残る唇でもう一度呟くと、ふわりと全身から力が抜けて、そのままベッドの上に体が放り出された。ぼんやりとした心地のまま、熱を帯びた指先で唇をなぞり、枕に顔をうずめる。少し息苦しいのが、かえって気持ちを落ち着かせた。
――気なんて、つかわなくて、いいのに。
次第に薄闇に包まれていく部屋の中で、明かりもつけずにベッドに横たわったまま、すでに去っていってしまったあいつのことばかり、延々と思考を巡らせる。彼がどうしてずるいのか、なにがやさしすぎるのか。そのせいで自分の中でどんな感情がうごめき、揺らぎ、軋んでいるのか。そのすべての答えはすでにわかりきっていることだったけれども、それでも、そう口にせずにはいられない。
彼はやさしいひとだった。それは私が物心ついた時からずっと変わらない。私がまだ自分の生まれた家で暮らしていたころから……家を出てからは、よりいっそう。無事に成長して、ちゃんとひとりで生活が出来るようになった今でも、彼は私のことをとても大切にしてくれている。不器用なやさしさを与えてくれる。無愛想だけれども、私がほんとうに困っている時には、ちゃんと手を差し伸べてくれる。
それと同時に、私に、とても、とても、遠慮をしている。
そんな態度に不満があるわけではない。こんなにも自分を大切にしてくれて、自分も大切に思える存在がどれだけかけがえのないものなのか。そんなことは、他の誰よりも私がいちばんよくわかっているはずなのだ。私と彼とが過ごす穏やかな日常の中に、互いに触れ合うことの多くなってからは、今まで以上に、はっきりと。
……だけど、それでも。それ以上を求めるのはわがままだとわかってはいるけれども、私が抱く感情の中には時として、不安や、もどかしさや、あるいはわずかな悔しさの混じることもあった。どれもほんとうに些細なことだけれど、決して無視することはできない、小さくて鋭い痛み。裁縫針で指を突いてしまったように、ちくりと、なにかよくないものが胸を刺す。
最近、彼が胸の内になにを隠しているのか、どうしてそれを隠すのかが、わかるようになってしまったから。
ほんのすこしだけ、胸が痛い。
いつからこういう関係になったのか、これという明確な日付を出すことはできなかった。ただ、いずれこうなるだろうという予感があったことだけは確かだ。まるでひとつの植物のように、私と彼との関係はそれまでの自然体を保ったまま進展し、根を深め、葉を広げ、花を咲かせた。恋人同士になったからといって、なにか特別な変化があったわけではない。それまでのぬるい日々の中に、それらしい振る舞いがいくつか加わっただけのことだ。わけもなく抱きついたてみたり、なんでもないことを理由に口づけを交わしてみたり。そのたびに彼の腕は、やわらかなぬくもりを伴って、そっと私を抱き寄せてくれた。
けれども、いつからだろう、その腕や、抱かれながらに寄せられる唇に、微かなこわばりを感じるようになったのは。私を前にした彼から、なにかを押し留めるような雰囲気を感じるようになったのは。もう一歩踏み込めるはずのところに、踏み込んでもいいところに、しかし彼は足を延ばしてはくれない。彼を待ち続けると私と、私の目前で立ち尽くす彼との間にはいつしか、伸ばした腕の届きそうで届かない、わずかな隙間が開いていた。大きすぎず、小さすぎず、深くもなく、浅くもなく。そんな曖昧な距離はしかし、彼がいったいなにを思いながら私に接してくれているのか、あらためて見直すのには丁度よい距離だった。
嫌われたり、飽きられてしまったわけでは、ないと思う。この微妙な距離を不仲のそれであるとは、私は、きっと彼も、そんなふうには考えてはいない。そんなことは自分たちにとってはあり得ないことであるとわかりきっている。だとすれば、彼が見せるためらいの理由なんてものは、私にはひとつしか思い浮かばなかった。
――どうして、私に遠慮しているんだろう……
彼のことになると、自分がどれだけわがままで欲張りで、その上嫉妬深い人間になってしまうかだなんて、他の誰かに言われるまでもなく、私自身が一番よくわかっている。誰にだって渡したくなんかない、独り占めしてしまいたい。けれども彼はそうじゃない。誰にでも対等に接しようとする。その割には受動態で押しには弱いから、勢いに容易く流されてしまうこともある。私以外の誰かに熱心に迫られたとして、彼はその気持ちを断ったりするのだろうか。もしかすると、私と彼とのこういう関係も、単に私が一方的に押し付ける好意を、彼が黙って受け入れてくれているからこそ成り立っているのではないか。考えると、胸の奥が軋みを上げた。私は彼に多くを求めるけれど、彼の方から私を求めてきたことは、まったくと言っていいほどなかったからだ。
私は、好きな人をより多く求めようとするのは、ごく自然なことだと思っている。それはきっと、人間らしい感情のまっとうな表れだと思うから。好きなものは、ひとつでも多く手に入れて、手放したくない。だけど彼は違うのだろう。常に周りから一歩引いたところで生きようとする彼は、あまり積極的に人と関わろうとはしないし、まして他人を求めたいと思う情動は、一切を封じてしまうべきものだとでも思っているのかもしれない。だからこそ、先ほどの別れ際に交わしたキスにも、どこかためらいがちな、あと一歩を踏み入れてこない消極的な印象を感じたのだと、私にはそう思えてならなかった。
けれども、彼がまったくの無感情で冷たい人であるとは思わない。求めて、返してくれるその温度はいつだってあたたかい。彼にそんなぬくもりを与えてもらえるということを、私は素直に嬉しいと思った。好きな人がやさしく応えてくれるのは、たまらなくいとしい。けれど、彼の方から私を求めようとしてくれない――あるいは私や、私の過去に遠慮をして踏み込んできてくれないというその点については、私はとてももどかしくて、複雑な気持ちを覚えずにはいられない。
自分をそんな気持ちにさせる彼のことを、私はそれもまた彼なりの思いやりのひとつなのだとわかっていながらも、ずるいな、と思った。そうやって彼に原因を押し付けることでしか、自分の中にはびこる澱んだ気持ちに堪えられそうになかったから。わるいのは私じゃない、私がこんなにか胸の潰れてしまいそうな気持ちでいるのは、すべてなにもかも、彼がやさしいからいけないのだ。
そう、彼はやさしい。
私をたいせつにしてくれる。
霧雨の家の、まりさを。
「誰……」
いつまでたっても――きっと、これからも。
私はその名前を背負って生きていく。私が捨てたつもりでも、周りがそうとは受け止めてくれない。……彼が、認めてくれない。彼の中で私は、いつまでも、いつまでも、霧雨のままなのだ。私を擁く腕や触れる手、寄せられるぬくもりに感じる微かの遠慮は、私の気持ちや体に対して向けられたものではなく、いまだ拭うことのできないでいるその二文字に対するものだ。
霧雨があったから、彼と知り合えた。霧雨があったから、こんなにも近くにまでこれた。けれども、私はそれを認めたくなんてなかった。私は私だけの力で彼の心を射止めたのだ、誰の力も借りていない、まして私を勘当してくれた家のおかげだなんて、信じたくもない……
だけれども、わかってしまうのだ。
硝子越しの彼のひとみに映る私は、
まだ、幼い日のままであるということを。
「いやだ……こんなの、いやだよう……」
どうして、ねえどうしてあなたは、私を好きになってくれたの? 私に心を開いてくれたの? それは、私が、私だから? それとも、私が霧雨だから? それは違うよ、私の霧雨は、もうずっと昔に晴れたよ。今さらためらうことなんてないんだ。誰にも気を使わなくたっていい、もっと触れてくれて、いいんだ……
たまらなくなって、胸が詰まりそうになった。わっと叫んで吐き出すことができてしまえたのなら、どんなにか楽なことだろう。思いの丈や、感情のつぶてを、弾幕のようにぶつけられたら。そんなふうに考えたことはもちろん、一度や二度のことではない。けれどもやはり、だめなのだ。彼を前にすると、どうしても言葉になってはくれない。だって、彼の与えてくれるやさしさは、決してうそではないのだから。寄せられた確かなぬくもりを拒絶してまで、この胸の内を明かしてしまうべきかどうか、私にはまだ、決心がつかないでいる。
彼のことを、ずるいな、とそう言った。けれども、ほんとうに卑怯なのは私の方なのかもしれない。なにも言わない彼のやさしさに甘えて、気持ちを押し隠し続けること。それは、私自身もいまだ霧雨の名を拭いきれないでいること、あるいは、その名に縋って生きていることの表れなのかもしれないとそう思った。私はまだ、縛られているのだろうか。ひとりで、どこまでも飛んで行けるような気になっていたけれども、見上げた空にはまだほの暗いベールのかけられたままで、流れ星の代わりに降ってくるものは、身を切るような冷たい雨粒で……
考えれば考えるほど、思考は渦を巻き、絡み合って雑然としたまとまりのないものになっていく。ぐらぐらと頭が揺れているようで気持ちが悪い。少し気分転換をしよう、外の空気を吸おう、そう思って体を起こし、窓辺に立ったところで気がついたことがあった。窓硝子にいくつかの雫が線を垂らしていること。耳を澄ますと、雨だれの屋根を打つ音がぽつぽつと聞こえ始めたこと。
ああ、とうとう降ってきちゃったな。
霧雨だ。
いちばん、きらいな雨だ……
暗雲が空を覆い尽くし、世界中に薄闇を広げている。今晩は、とても長い夜になりそうだ。月も星も、あの重苦しい鈍色の向こう側で、もしかすると、このまま明けることなんて、もう二度とないのかもしれない。目が覚めても、雨。どれだけ悩んで、胸を痛めたって、いつまでたってもやむことのない雨。私ではこの雨雲を払えそうになんてない、できることと言えばただじっと息を殺して、前線の過ぎ去っていくのを待つばかり。でも、それはいったい、いつまで? 私はいつまで、こんな想いを抱えていなくちゃいけないんだろう。ああ、苦しいよ。体中が痛くて、切ないよ。こんなのはいやだ、私は、私だ。私は、霧雨、魔理沙なのに……
この雨の晴れることがあれば、その時は私、彼に気持ちを伝えられるのかな。
ほんの少しでもいい、勇気を、出せるのかな……
憂鬱な霧雨はまだ、やまない。