□朱鷺めくパーティナイト
「森近霖之助さんと、森近朱鷺子さん!」
――いやぁ噂には聴いていたけれどやっぱり奇天烈なところだなぁ紅魔館はそりゃあだって時を止められる人間が二人もいるんだからおっかしいに決まってるおかしい至極おかしいどこでどういう伝言ゲームが行われればそのような素敵誤変換が成されるのだろうか気になるねひどく気になるね元凶を突き止め次第アルゼンチンBBを喰らわせたい気持ちで胸が張り裂けそうだよこんちくあんちくしょう。
さすがは姓名判断に定評のある紅魔館、と言ったところか。反逆するよ、僕は。そのネーミングセンスに反逆する。
「いや、違うから」
「え……?」
「僕は僕、こいつはこいつ」
腰にしがみ付く朱鷺子の頭をぐりぐりと。小動物みたいな鳴き声をあげても気にしない。月とすっぽんぐらいの優劣はありそうな僕と朱鷺子をそう同列に扱われちゃあたまったもんじゃない。なんと言ったって僕は“優”しくて“優”れているんだ。自賛だがまぁいい、大体が真実だ。
「あのごめんなさいちょっと意味がわからないです……」
「森近霖之助は森近霖之助、朱鷺子は朱鷺子。僕の高尚な森近姓なんてこいつに似合うわけないじゃないか。なぁ、そうだろう朱鷺ぃッ?!」
――痛ッだい! 蹴った! 蹴ったよこいつ尻を蹴飛ばしやがった!
「なっ、何するんだよ!」
「ばーかしねっ! しにさらせ!」
「あ゛ぁ? なんだって?!」
怒りに燃える双眸がぎらぎらと輝いていたがそれはこっちだって同じことだ。僕が何をしたって言うんだ。気に入らないことがあるとすぐ暴力に訴えてからに、“しとやか”とか“たおやか”とか言う前に少しはその凶暴な性格を直したらどうなんだ! ……と言えば尚のこと牙を剥き爪を立てるのだろう。哀しいかな僕の腕っ節では朱鷺子に敵わないのである。魔理沙とはまた違ったベクトルでてこずらせてくれることこの上ない。成り行きから店に泊めてしまった分、それ以上と言えるかもしれないが。
「あんたって、ほんとうっ……」
「僕がどうしたっていうんだよ」
「ふんっ、自覚のないヤツに言っても意味ないもん」
そんな台詞を吐き捨てて、朱鷺子はぷいとそっぽを向いてしまった。おいおい、尻を蹴った理由ぐらい教えてくれてもいいだろう。この理不尽な痛みへの鬱憤を僕はいったいどこにぶつければいいんだよ。
「あのー……」
と、おそるおそると言った感じで割り込んでくる声があった。さっきの門番の少女のものだ。なにか失態をしでかしましたでしょうかオーラがびんびん伝わってくる。その通り、と吐き出したい思いはぐっと飲み込んでおいた。
「中に、入りませんか? 咲夜さんもお待ちしてるでしょうし……」
さっきまでの凛とした雰囲気はどこへやら、僕達が客人だとわかった途端にすっかり弱腰である。おそらくは僕達が“咲夜さん”の招待した客だからこんな態度なのだろう。冬なのに冷や汗を浮かべているその顔色を見れば、彼女の立場がいかほどのものなのかなんとなく察しがついてしまった。
「……行くぞ朱鷺子。中で暴れるなよ」
「なによさっきから子供扱いして。あんたこそ、酔った勢いで屋敷のメイドに手ぇ出したりなんかしないでよね。みっともないから」
「ご忠告どうも。胆に命じておくよ」
生憎と妖精には一切興味がないんだけれどね。唯一人間でメイドをやっているらしい咲夜には、近付く機会さえないだろう。妖精のメイドなんて使い物にならないんだろうということは簡単に想像がつく。今晩は屋敷中を駆け回ることになるのだろう彼女に軽々しく声をかけられるほど、僕は軽薄な性格をしていない。
となると、僕は屋敷の中の誰かと連れ合うわけでもなく、ずっとこいつのお守りをしていることになるわけか。ちらりと窺った横顔はまだ少し膨れていたけれど、それも館の正門が近付くにつれて少しずつ喜色で満たされていった。ころころと変わる表情には、まだ少しついていけないところもある。今朱鷺子は何を考えているのだろう。眼前に差し迫った大きな扉の向こうに、どんな期待を抱いているのやら。彼女のことが気にならないと言えば嘘になる。むしろ他の誰よりも気になっていた。思えば、道具以外のなにかにここまで興味を抱いたことなんて初めてのことかもしれない。なにか特別なことがあるわけでもない。彼女が魅力的というわけでもない。強いて言えば、彼女には名前をあげた。
――名前、ねぇ。……いくらなんでも森近朱鷺子は、少しばかし語呂が悪いじゃないか。苗字のことなんてなんにも考えてなかった。しくじったなぁと、今になってそう思う。わかっていたなら考えたさ。わかっていたなら――もっと、もっと、
「ようこそ、紅魔館へ」
ぼんやりと考えていたところへ改まった声が届く。慌てて視線を戻した先で、僕達を焼きつくさんとばかりに溢れ出してきた眩い紅炎の光に包まれても、朱鷺子の色だけは僕の眼にはっきりと映っていた。
▽
エントランスホールから続く長い廊下を経て、大広間に通されるまでに歩んだ道程は想像以上に長かった。体感時間で十数分ほど。表から見た紅魔館は確かに大きかったが、それにしたって一階部分しか歩いていないのに、これほどまでに時間がかかるとは思わなかった。外では全体像が見えなかっただけで、実際はずっと奥行きのある館なのだろうか――と思い至ったところでここのメイド長の能力のことを思い出した。時間を操る程度の能力、か。少しばかし小さい方が掃除もしやすいだろうに、どうしてまたここまで広大にしたりするのかね。僕も自分の店を大きくしたいとは思うが、掃除が七面倒臭くなるのはまったくもってごめんだ。
「ずいぶん、距離があるんだな」
「えぇ、咲夜さんの趣味、らしくて」
「そりゃぁまた、手間隙かかってるね。掃除も楽じゃないだろうに」
「掃除の時は縮めてるらしいですよ、空間」
門番改め案内人の美鈴に何気なく訊いてみると、帰ってきた答えは実にあっさりとしたものだった。なんだ、十六夜咲夜が掃除中毒の掃除ジャンキーというわけではないのか。少しばかり拍子抜けしまったところへ、朱鷺子が声をかけてきた。
「ここの主人ってさ、吸血鬼なんでしょ?」
「あぁ、レミリア・スカーレットのことかい? 五百年ばかし生きてる……僕よりも、もちろんお前よりもずっと年上だ」
「ふぅん。……あの咲夜さんが仕えてるぐらいなんだから、きっとすごいレディなんでしょうね」
そう言って期待に満ちた表情を浮かべてみせる朱鷺子をよそに、僕と美鈴はなんとも言えない顔をお互い示し合わせた。現実は時として非情である。レディはレディでも、おそらく朱鷺子が想像しているであろうすらりと背の高い艶やかなドラキュリナは残念ながらここにはいない。大人げの無さと子供っぽいところを比べれば、彼女はおそらく朱鷺子といい勝負なのだから。
とにかく朱鷺子は道中笑顔を絶やさなかった。時たますれ違う妖精メイドにも機嫌よく手を振ってみせ、よくわからないがとりあえず笑い返しておけ、といった感じの笑みを受け取っては実に満足そうにしていた。妖精と同レベルじゃあないかとも思ったが、まぁ本人は嬉しそうにしているんだから問題ないんだろう。指摘したらしたでまた蹴飛ばされそうではあるけれど。
長い長い廊下にもそろそろ終わりが見えてきた。三つ目の角を右に曲がったところで道幅は一回りにも二回りにも拡がり、その先には幅いっぱいはあろうかというほどの大きな扉がずっしりと構えている。よく見れば僅かに開いており、その隙間からメイド達が世話しなく出入りしているのが目に付いた。それぞれがお盆や燭台を抱えては一生懸命に走り回っている。あの中には僕の売った蝋燭も含まれているんだろうが、いくら明るい方がいいと言ったって、ありゃあちょっと多すぎやしないだろうか。ざっと見てメイド一人辺りに三本。どう考えてもまず燭台からして足りないと思うのだが――まぁ、余った分は頭にでも巻くんだろう。
「あの扉の向こうが大広間……なんですけど。今はまだ込み入ってるみたいですねぇ」
美鈴が笑ってみせるが、乾いていた。僕達は七時半頃に来るよう招待状には書かれていたのだが、この見るからに準備中という光景は……あれか、一種の余興というやつか。それにしては騒然とした様子が実にリアルである。扉の向こうから形振りかまわない怒声やら罵声やらが今にも響いてきそうだ。
「あ、転んだ」
朱鷺子がそう呟いた先で、一匹の妖精が抱えていたナプキンを派手に空中にばら撒いた。その枚数たるや十数枚ではなく数十枚。ひらりひらりと舞う白い布は客観視すれば綺麗な光景だったが、当人からしてみればそりゃあもう天使のお迎えぐらいのものには映っているのかもしれない。実際飛んでくるのは金のラッパじゃなくて銀のナイフなんだろうけど。
――しかし次の瞬間僕達の眼に飛び込んできたのは貼り付けにされたメイドの姿ではなかった。そもそもあれだけ宙を舞っていたナプキンの群からして忽然と消え失せて、そこにはただ茫然と尻餅をつくメイドが取り残されているばかりで。……何が起こったのかなど考えるまでもない。音も無く背後に立った誰かの気配が、その疑念を確信へと変えた。
振り返るとそこには、ナプキンの山を抱えた瀟洒な従者――十六夜咲夜が静かに佇んでいた。
「こんばんは霖之助さん。それに朱鷺子ちゃんも」
いつものメイド服をいつも通りぴしゃりと着こなしている。たった今来ましたの、と無言で言ってのけるスマイルは彼女お気に入りの仮面の一つだ。もっとも、今日は仮面舞踏会というわけじゃあないけれど。
朱鷺子が、なにがなんだかと言った感じで口をぽかんと開けている。そういえばこいつは咲夜の能力を知らないんだっけか、そりゃいいね、教えない方が楽しそうだ。
「やぁ咲夜。ずいぶんと手間取ってるみたいじゃないか」
「あら。ちょうど今、済んだところですよ」
そうにこやかに言って、彼女は何も持たない両手をぱたぱたと振ってみせた。速い、いや早い。さっきまで分厚く重なっていたはずのナプキンの山と……そしてなによりこのメイドは、この数秒間でいったいどれだけの空間を駆け巡ったのやら。汗一つ浮かべていない表情が、僕には逆にそら恐ろしく見えた。この様子じゃあ、間違っても朱鷺子の忠告を破らない方が良さそうだ。
「どうしたの朱鷺子ちゃん。そんなに私の顔を見て」
「ぇ……あれ? あれぇ?」
それでも、朱鷺子に向ける表情は相変わらず柔らかい。面倒見の良いお姉さんという言葉がしっくりとくる。けれどもその青いひとみには、自分の手品に目を丸くして驚いている朱鷺子が心底おかしいと、そんな色も確かに混じっていた。仕えている相手が相手なものだから、従者も自然と小悪魔っぽくなるのだろうかね。
「あの二人、どんな関係なんです?」
ふと美鈴が小声で訊ねてきた。頭の上には、疑問符が二つも三つも浮かんでいる。
「ちょっと前に、うちの店で出会って……接点なんてそれだけなんだけれどね。どういうわけか朱鷺子が咲夜に懐いて、どういうわけが咲夜が朱鷺子を気に入ったみたいなんだよ」
名前がどうのこうのと言っていたか。僕にはてんで理解ができないが、二人の間にはなにか通じ合うものがあったのだろう。まるで他人に興味がない(ように見える)咲夜がここまで入れ込むのはきっと珍しいことなんだろうなと思っていたら、案の定僕の言葉を聞いた美鈴は、信じられないとばかりに目を丸くして驚いていた。
「咲夜さんがお嬢様以外のひとに興味を持つなんて……」
「やっぱり、不思議なのかい?」
「不思議っていうか、なんていうか……咲夜さんの考えてること、よくわかりません。わかった試しなんてないですけど」
まぁ、咲夜さんも一応人間ですしねぇ。と最後にそう付け加えて彼女は自己完結してしまった。悪魔の犬も、誰にでも睨みを利かせるわけではないと。それと言うよりかは、同じ匂いがしたといった感じなのだろうが。
「いつまでも立ち話も疲れるでしょう、そろそろ広間に案内するわね。後でお嬢様をお連れしてくるから、そうしたら乾杯をあげましょう」
「あ、それじゃあわたしも門の方に戻りますね」
「頼むわね。後で届けるけれど、差し入れはスピリタスでいいかしら?」
「あはは……咲夜さんにお任せします」
こんなおめでたい日であっても、門番が門番であることに変わりはない、と。見上げた従業態度じゃないか。どこぞやの巫女に見せつけてやりたい光景だね。
それじゃあと片手を振って、美鈴は踵を返して行ってしまった。その背中が廊下の先を曲がって行ったのを見届けてから僕達もまた足を進める。扉の前であれほど慌ただしくしていた妖精達は、いつしかその姿を消していた。
「さ、入りましょう。前菜が冷めちゃうもの」
まだ困惑した表情を浮かべたままの朱鷺子の手を取って、咲夜は穏やかに微笑んでみせた後、広間の方へと連れだって歩きだした。僕も少し遅れて着いて行く。朱鷺子のおっかなびっくりといった感じの足取りもはじめこそ不安の方が強かったのだろうけど、それも次第に期待に取って代わったのか、門前に着く頃には両の翼をぴんと立てて、すっかり意気揚々とした様子を浮かべていた。後ろ姿からでもそのあどけない笑顔が簡単に思い浮かぶ。そうしてそれは、咲夜に対しても同じことだった。
「貴女のためにね、一生懸命お料理したのよ」
「――ほんとう?!」
「えぇ、ほんとう。でもお嬢様には内緒にしてね。きっと拗ねると思うから」
小さな手のひらが、大きな扉にそっと触れる。たったそれだけのことでも蝶番は軋みをあげて、薄暗い廊下は俄に光の洪水で満たされた。
▽
大広間の喧噪の程はと言えば、鳴り物ばかり詰まったおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさで、ひっきりなしに耳をつんざく甲高い笑い声が四方八方から聴こえてくるものだから、僕はもう入って早々両耳を塞がずにはいられなかった。広間中を飛び交う音の弾幕をどう避けきれと言うのだろう。ボムがあったら使いたい、チキン野郎と後ろ指を指されてもいい、カスリさえしたくないんだよ僕は。
だのにどうしてか、朱鷺子も咲夜もこの空間の騒然なことをまったく意に介していないようだった。騒がしいわね、なんて話題にさえあがらない。賓客席に案内され、咲夜が去っていった後で僕は朱鷺子の表情を窺ったが、彼女はただただ喜色満面の笑顔を浮かべるばかりで、「すごいわね、こーりん!」なんて一緒になって声を張り上げていたものだから僕はもう同意を得ることを諦めた。咲夜は単に耳が慣れているだけだろうが、朱鷺子の場合は……女が群れば“姦しい”とはよく言うが、もうすっかりこいつらの仲間に加わったようである。つくづく順応性の高いヤツだ。手綱を握っておかなければ今すぐにでも飛び出して行きかねない。
「ひろい! あかるい! あったかい! うちの店とは大違いねこーりん」
「いつから君の店になったんだよ……」
「あんな狭いとこで新年越すなんて貧相でたまらないもの。誘ってもらえたのも私のおかげよね、少しは朱鷺子さんに感謝しなさいよ」
言いたい放題言ってくれやがる。アルコールも入ってないのにテンションだけがうなぎ登りだ。後先が思いやられて、僕もまた酔ってもいないのに頭が痛くなってきた。
まぁ……思いがけず紅魔館に誘われたというのも僥倖と言えば僥倖だ。その点に関してはありがたく思ってやらないこともない。僕だって広くて明るくて暖かい新年を迎えたいのである。これでもう少しだけ静かになってくれたなら、もう言うことないんだけれど。
「ねぇ、見てよあれ。おっきいけーね!」
「いやなんか微妙に違うぞそれ」
あちこち忙しなく見渡していた視線が、やがて一つの白い山(にしか見えないえーき)を指して止まった。広間の中央、一際大きな円卓の上に築かれた炭水化物塊は、実に僕の背丈の倍はあろうかというほどの巨体を誇っている。立食形式のパーティでさらに見上げなければいけないってどれだけだ。表面に突き立てられている蝋燭の数も半端ないっていうかあれ僕の売ったヤツじゃないか。よくもまぁずいぶんと立派になりやがったものである。
「ここの住人はいったい何考えてるんだ……」
「すごい、すごい! ジャムサンドにハニートーストに、ベリーのタルトだって向こうに山積みよ! シナモンワッフルもあるし、ショコラもシフォンも、パウンドも――まるで夢の世界ね!」
そんなに目をきらきらさせられても、困る。お菓子の山を指して夢の世界ときたか。おおかた店にあった本に悪い影響でも受けたんだろう。なんかそんなタイトルの本があった気がする。“絶品! 真冬のスイーツ大特集!”とかなんとか。
それにしても、改めて知らされると凄まじい甘味の量だ。砂糖だけでも優に百キロは越えているんじゃないだろうか。僕からしてみれば見ているだけでも胸が焼けてくる凄絶なラインナップである。前菜が冷めるから、なんて咲夜は言っていたけれど、どう見てもオードブルがケーキのお飾りでしかない。いや、もう文字通りお飾りになっていた。メイド妖精達がつまみ食いの虫食い跡にレタスやらチキンやら埋め込んでおり、土台部分なんてもうこの上なくアバンギャルドでカオティックな様相を醸し出している。何も、見なかったことにしよう。そうしよう。時には現実から目を背けることも大切だ。
――そう思ってふと目線を逸らした先、僕達が入ってきたのとはまた別の扉が、蝶番の軋む重厚な音と共にゆっくりと開かれてゆくのが目に付いた。空気が一変する。あれだけ騒々しくしていた妖精達も、流れ込んでくる気配の圧倒的なことには閉口するばかりのようだった。僕も、半妖の身なだけあってある程度妖気には鋭敏だけれど……なるほど、これだけ自己主張の激しい妖気も珍しい。これが吸血鬼、これが――レミリア・スカーレットの誇るカリスマか。
「……すごい妖気ね。さすが吸血鬼って感じ」
朱鷺子の素直な言葉だった。自分を遥かに凌駕する力に対する、感嘆。ここまで堂々と力の差を見せ付けられてなお嫌味だと感じないのは、……感じさせないのはある種の才能だろう。もっとも理由はそれだけではないんだけれど、そこのところは朱鷺子もわかっているようで、しかしこれを口にするとおそらくメイド長がひどくお怒りになられるので誰も決して声にはしないのである。暗黙の了解である。紅魔館におけるローカルルールと言い換えてもいい。
私は強いぞー、おっかないんだぞー、と紅い霧は自らそう主張している。黙して語る、にしては語り過ぎている。能ある鷹が爪をまったく隠さない、そんな光景はどうしてか――背伸びをする子供みたいで微笑ましいなと、そんなふうに思えてしまって仕方がなかった。
「――さて、集まってる? 集まってるか? いないヤツがいたら挙手をしろ。……よしいない、全員出席だな」
あどけない声がした。文字通り霧散していたのだろう、辺りに立ち込めていた紅霧は館主席の前で集束し、次第に小柄な人型を形作っていった。すぐ傍で朱鷺子が「えっ」と息を零したのが聴こえた。あぁ、夢が壊れる音がする。ぱりぃんと、硝子窓の破れるそんな音だった。
「さて今日で一年が終わるわけだ。ありがたい日だ。おめでたい日だ。楽しいか? 私は楽しい。愉しいか? 私は――愉しい! ほんとうは外に繰り出してやりたい気分でいっぱいだけれまぁ寒いからなやめておこうか。その代わり! 館内無礼講さ! 日頃の恨みでも鬱憤でもなんでも晴らしていいぞ。シャンパンファイトでもスペルカードでも存分にぶちまけていい! 片付けるのは私じゃないからな!」
輪郭だけを浮かべていた紅霧が一瞬閃いたかと思うと、次の瞬間そこには大きな蝙蝠羽を広げた幼い少女と、彼女に付き従う銀のメイドが佇んでいた。心底愉快そうな悪魔の笑みと、疲れを押し隠している(ように見える。二回目)ポーカーフェイスとがやけに対比的だ。神経性胃炎とかに罹らないのだろうか……時の止まった世界で人知れず胃薬を流し込むメイド長の姿が、なんとなく幻視できてしまった。
五百年の吸血鬼は笑う。にやりと歪む口元は実に悪魔らしいが、それに先立ってどうしても顔付きの幼いことの方が目についてしまって、悲しいかなその威圧も四割引だ。彼女もわかっているのだろう、だからこそ尊大そうに振舞ってみせるが、それもなんだかいっぱいいっぱいに見えてしまうのだからまったくもって逆効果だ。気付かないのか? 気付かないんだろう。だって五百年生きてようが彼女は子供のままなのだ。わがままで意地っ張り、月に行きたいとさえ言い出す好奇心。朱鷺子には申し訳ないが、……これが紅魔館の真実である。類が友を呼んだのかね、子供と子供、保護者と保護者といった具合にさ。
目を真ん丸くしてレミリアを見つめる朱鷺子を横目に窺った。並び立つ主従を交互に見比べては、納得したようなしてないような微妙な顔を浮かべている。悲しいけどこれって現実なんだよね。夢を見るのは本の中だけにしておけということである。
「なによーその目は……ちょっと、ちょっと予想が外れただけ!」
「外れたのは期待じゃないのか? なに、見た目がお前より小さくたって、彼女は一等の妖怪だよ」
「わかってるわよそれぐらい。拍子が抜けただけよ」
どうだかね。どこまで都合の良い妄想を膨らませていたのやら。
すっかり拗ねてしまった朱鷺子をよそに、僕はレミリア達の方へと向き直る。気の利いた挨拶の一つでも言いたかったのだろうが、ついに良い言葉が浮かばなかったらしい、面倒臭いやと顔に描いたまま投げやりに言葉を吐いた。
「今晩は実にー、あー……挨拶もほどほどにしないとな、うん、ほどほどに」
ほどほどのなにもロクなことを言ってないが――あぁ、言えなかったのか。きまりの悪さを誤魔化さんとばかりに、レミリアはグラスを掲げて勢よく声を張り上げた。メイド達が遅れて続く。僕と朱鷺子もそれに倣うと、それまで空だったグラスにはいつしか真紅のワインが注がれていて。
……おそらくというかやっぱりというか、一晩中こんな感じでフル稼働なのだろう。穴が空いたらいつでも僕に相談してくれよ、いい薬屋を紹介してやるから。
「旧年への労いと、新年への期待を込めてー。ちょっとばかし早いけど、言わせてもらうぞ!」
揚々とした掛声に、それまでしんとしていた広間が俄に活気を吹き返し、それはともすれば主人の威勢にさえ勝るような、そんな勢いに満ち満ちていた。悪魔のパーティは贄を捧げるわけでもなく呪詛を唱えるわけでもなく、ただその場のノリと勢いだけで突き進んで行くものらしい。大人のように着飾らない。やりたいようにやればいい。後始末はぜんぶ一流のメイドが片付けてくれる。これほど愛すべき馬鹿騒ぎなんて、そう簡単には味わえないのかもしれない。
「ねぇこーりん、言うこと間違えたらさ、きっと恥ずかしいよね?」
「だろうね」
「こーりんは和風でお願い!」
「お前、わかってて言ってるだろ……」
朱鷺子が笑う。何遍だって目にしたのに、どうしてか飽きることはなかった。僕に見せてくれるその色が、きっと見る度に違うからなんだと思った。不思議なもので、こうやって笑いかけてくれることが嫌とは感じなかった。これが霊夢や魔理沙、あるいは他の誰かだったらどうだろう。四六時中傍にいて、ありのままの感情をぶつけられ続けたとしたら、僕は……鬱陶しいと、消えてほしいと、はっきりと口にするだろう。迷いもなく躊躇いもなく、言う。嫌だからだ。必要以上に他人に干渉することもされることも、嫌いなはずで。
だからこそ僕は僕自身がよくわからなくなってきていた。朱鷺子を傍に置くことを良とした理由も、それを否と感じない自分の本心も、振り返ってみるとさっぱりわからない。それと同じくして、どうして朱鷺子は僕に笑いかけてくれるのか……実は、わかっているのかもしれない。けれどそれはどうしてか認めたくない事実だった。こいつに限ってそんなことあるわけないと、心のどこかで否定していた。朱鷺子が好きなモノは本であって僕じゃない。自惚れてはいけない。だって僕は朱鷺子の――
……ときこの、なんなのだろう。
「こーりんぼぉっとしてないで、ほら、乾杯するの!」
朱鷺色の羽、朱鷺色の頬に、朱鷺色の眼。こうして僕の視界いっぱいに映り込むのも、冬の間だけのこと。ノイマンが読み終わるまでという約束だ、その物語が終わると同時、僕達の茶番も終わってしまう。全て朱鷺子次第だ。いつ僕の前から飛び去ってしまうともわからない。ノイマンだけが手元に残る。十五冊の魅力なんて、朱鷺色の鮮やかなことと比べれば、高が知れてるっていうのに。
「あんまり声を上げるのは、苦手なんだけれどね」
「なぁにそれ、ねくらー」
「苦手だけれど、……そうだな、今日ぐらいは張り切ってみようじゃないか」
「ね! そうこなくっちゃ!」
こんなに綺麗な色なのだ。こんなにか素敵な笑顔なのだ。もう少しばかり僕に見せてくれたっていいだろう。朱鷺子への貸しなんてまだまだ山ほどあるんだ、それぐらいしてくれなきゃ、割に合わないじゃあないか。
朱鷺子には笑っていてほしい。
きっと来年も、賑やかな付き合いになるんだから。
「「ハッピー・ニューイヤー!!」」