□朱鷺めくバッドフォーチュン
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一晩明けてなにかが変わったわけでもなく、幻想郷は今日もまたいつも通りの冬を送り続けている。凍りついた窓の向こう、格子をかけたように垂れ下がる氷柱は、冬の晴れ空の陽を受けて銀色に輝いていた。それに対抗するかのようにして、僕はストーブの赤い炎を一回り大きくした。誰かさんに壊されて閉め切らなくなったドアから、さっきから隙間風がひゅうひゅう吹き込んできてたまらないからだ。
午前十一時。正午前の香霖堂に訪れる人の気配はまるでない。外がこの寒さじゃあ、出歩く人間も妖怪も少ないのだろう。年末年始に客の入りがあるだなんて僕は初めから期待なんかしていない。店を開けているのはもはや惰性のようなもので、閉める理由も特にないからである。強いて言えば、魔理沙や霊夢が訪れた時に店が閉まっていると後日僕は彼女達に責められる。「どうして開けてないのよ!」って、香霖堂はいつから彼女達の所有物になったのだろう。
ともあれ今日は――今日も? 少なくとも昨日と比べれば何事もなく一日は過ぎていくだろう。外に道具を探しに行くわけでもなし、依頼されている仕事があるわけでもなし、日がな一日お茶と読書に身を費やす、そんな素敵なスローライフが僕を出迎えてくれる、……はずだった。
「そこは僕の専用席なんだが」
「んー、あっそう」
「退いてくれよ。退いてください。というか退け」
「や」
ストーブの前に置いたロッキングチェアが、上に乗せたちっこい身体の揺れるリズムに合わせてきぃきぃ鳴いている。その脇にある三脚テーブルの上には急須一式と、いつの間にやら戸棚からくすねられていたお茶菓子の盆が。もうこの上なく万全の体制である。桃源郷は、僕の理想とする未来はすぐそこに在るのに、あろうことか先人によって余すところなく占められていると言うのですか。なんたる不運。世の中は非情である。ならば僕も僕の未来のために非情にならねばなるまい。
「朱鷺子、今朝の話をもう忘れたのかい? あー鳥妖怪だもんな、鳥頭に決まってるよな」
「なによ憶えてるわよそのくらい。いっしゅくいっぱんのオンギでしょ?」
「わかっててやってるなら尚更たちが悪いじゃないか!」
「仕方ないじゃないお客さんなんて来そうにもないんだし。持て余した暇をどう使おうが私の勝手でしょ」
さも当然とばかりの口調だ。反省の色は見られないどころか、悪いことをしているという自覚さえないときたものか。これだから最近の若い妖怪は常識がなくて困る。いや年食ってたって酷い奴は酷いけれど。
「そういう問題か? 第一そのお茶とお菓子、僕のモノを勝手に食べてるじゃないか」
「私ってこの店の従業員よ今日限りだけど。要するに店のものを好きにしていいってことでしょ?」
「いいわけあるか! お茶菓子なんて僕の私物なんだぞ!」
「ごちそうさまでした」
ぺこりとお辞儀なんかしてみせて、朱鷺子はそれからすぐに本の世界にお戻りになられた。聞いちゃいない……聞いちゃいないよこいつ。
だが、現代の若者の常識力如きに打ちのめされる森近霖之助ではないのである。茶菓子への被害はすでに霊夢で何遍も予習済み、いまさら煎餅の一枚茶の一杯でへこたれたりなどしない。赤福餅と白い恋人を「紅白だから」の一言で攫われていった時でさえ僕は堪えたのだ。堪え抜いたのだ。ずいぶんと塩辛くなった一杯の緑茶で、残念無念とちょっぴりの怨念全てを飲み込んだのだ。
しかし。だがしかし。そんな僕でも約束を反故にされてはたまらない。商売人としての僕がそれを許さなかった。働くと肯づいた以上はそうしてもらう、そうでなければそれは借金を踏み倒されることと何も変わらないわけであって、僕、いや香霖堂としては敗北を喫することと同義でしかない。冗談じゃあない笑えない。僕は慈善事業を興しているわけではないのだ。
「朱鷺子……接客だけが従業内容だと思ったら大間違いだ」
「なに、掃除でもしろって? 大掃除は済んでるみたいだけれど」
「うっさいとりあえず表出ろ」
チェアの後ろから手を突っ込み襟首を掴んで持ち上げると、その身体は思いの外簡単に持ち上がった。朝のあの重量感からは想像もつかない軽さだ、やはり寝込みを襲われるとどうしようもないなぁってそんなことは今となってはどうでもいい。けたたましく喚きたてる朱鷺子から本を取り上げ、彼女があっと声上げたのと同時、僕はその身体を店の外へと放り出した。まだ誰にも踏み荒らされていない新雪に、くっきり顔の形が残るように。
「きゃんっ! いやー! つめたいー!」
「忘れ物だ」
全身雪まみれでもがく朱鷺子の方へ、僕は軒先に立てかけてあったスコップを突き出した。なにがなんだかわからないと、朱鷺子は怯えた目つきで僕を見上げている。実にいい顔だ。嗜虐趣味なわけじゃないが、虐めたくなる顔つきだねこれは。
「な、なによぉ……」
「見てわからないか? 雪かきだ」
「なんで私がそんなことしなきゃならないのよ! 寒いじゃない! 冷たいじゃない! か弱い女の子に肉体ろーどーさせようってわけ?! このきちく!」
好きなだけ喚くがいいさ。僕にはもう小鳥が囀っているようにしか聴こえないね。
「いやよ……雪もスコップも、重そうだし……」
「良い所に目をつけたね。これは凄腕の剣士さえくしゃくしゃの泣き顔にしたという曰く付きのスコップでね、君みたいにモノだけ貰おうっていう悪い子を矯正するのにはもってこいなんだ」
「いらない!」
「なら君を永久追放するまでさ」
そう言って、僕は朱鷺子の目の前にさっきまで彼女が持っていた本を突き出した。非ノイマン型計算機の未来、第一巻。かつて彼女が持っていた三冊の以前巻だ。読書が趣味だという彼女にとって、思い入れの深い本を半ばで取り上げられるというのはさぞや心苦しいことだろう。そんな僕の思惑は的中し、朱鷺子は心底憎らしげな目を僕に向けるのだった。
「ひどい……」
「足元、見てるからね」
「わかったわよぉ……やればいいんでしょ!」
物分りがよくてよろしい。悪態吐きながら僕の手からスコップを取り、ほっぺたを膨らませながら朱鷺子が言った。
「その代わり、仕事終わったらちゃんと続き読ませてよ。ストーブの前も取っちゃだめ!」
「善処するよ」
まぁ、雪かきで冷えた身体を温めさせてやるぐらいはさせてやるさ。僕もそこまで大人げないヒトじゃないんでね。
これも運命と諦めがついたのか、朱鷺子はそれ以上文句を言うこともなく、黙々とスコップを雪に突きたてはじめた。それがあるべき姿、あるべき光景。いいことをした後は実に気分が良い。悠々と店の中に戻って行く僕の背中に、射殺さん言わんとばかりの視線が突き刺さっていたのを僕は華麗に無視した。閉め切らないドアをぱたんと閉めれば、これでもう僕の邪魔をする奴はいない。
敵は去った。束の間の平和と安堵がじんと胸を熱くする。店先の雪かきが終わり次第朱鷺子は店に飛び込んでるだろうが、そうなれば次は屋根の雪下ろしをさせるまでのこと。自由は我が手の内にあり、思い知ったか鳥妖怪。とりあえず朱鷺子の沸かしてくれたお茶でも啜りながら、怠惰な時間を満喫、
「――こーりん! お客さんが来たわ!」
できなかった。朱鷺子を追い出してから百二十五秒……百二十五秒間の安息。時も止められないこの僕に、一体なにができようか。
我が身の不幸を今は呪った。いや客が来るのは構わないむしろありがたい。ありがたいのだがちょっとタイミングが悪すぎやしないだろうか。まるで僕の手の内と心の中を完璧に読んでいるかのよう。嗚呼、神に近づこうなどと馬鹿をやったから天罰が当たったのか。今冬に入ってからバイオリズムだかうんのよさだかよくわからないパラメータが右肩下がりのような気がする。そんなのって、ない。
「……いらっしゃいませ」
振り返り様に作った営業スマイルはこの上ないほど素晴らしい出来だったろう。作り笑いとして最高、自然な笑みとして最低。笑顔のひとつでも偽造しなきゃやってられない。もういっそ発想を逆転させようか――これはチャンスだ霖之助。ここで稼がずどこで稼ぐ。無能な従業員に代わって、いまこそ僕が本気を出す時なんじゃあないのか?
……ところが、
「こんにちは。可愛い店員さんを雇ったのね」
朱鷺子の後ろ、背の高い影とその顔を見て僕は瞬間に悟った。こりゃあれだ。僕がこうも不運続きなのにもなんだか納得がいった。出会う度運気が弄られるという吸血鬼――その従者。きっと彼女が不幸の種を僕の店にまで運んで来ているんだそうさそうに違いない。
それでも出て行けなんて言えない。何故なら彼女は香霖堂きってのお得意様だからである。青いメイド服を瀟洒に着こなすその姿と、雪よりも輝く銀の髪は見間違えようはずもない。十六夜咲夜――紅い月の従者は、今日は大きな買い物かごを持ってのご来店だった。
「暫くぶりですね、お元気にしてまして?」
「えぇまぁ、それなりに」
会釈して、音もなく店内に入って来る。所作の一々に無駄がなく、顔に浮かべた笑みにも一点の曇りもなかった。それと比べると朱鷺子のなんと騒がしいことか。雪も払わずに店に飛び込んで来たかと思えば、ざまぁみろとでも言いたげ表情を僕に突き付けてみせ、それから咲夜に向けた顔は、命の恩人を前にしているかのように輝いていた。思いがけず雪かきから解放されたのがそんなに嬉しかったのだろうか。ちくしょう、あいつばっかり役得じゃないか。
「なにをお探しですか?」
調子づいた声で朱鷺子が言う。もうすっかりうちの店員気取りだ。
「おい朱鷺子、あまり彼女に迷惑をかけるな」
「邪魔なんかしてないよ。仕事してるだけ」
「お前なぁ……」
「あら、私は迷惑なんかしていませんよ」
そう言って朱鷺子に向けた笑みはただただ柔らかかった。子供の扱いには慣れていると、そんな様子が窺える。屋敷で妖精メイド達の相手をしているだけのことはある。余裕というか貫禄さえ感じさせるその雰囲気に、朱鷺子はあっと言う間に懐柔されてしまったようだった。
「ニューイヤー・パーティーで立てる蝋燭を切らしたのよ。里の道具屋は年末閉店中だし、香霖堂さんなら置いてるかもと思ったんですけれど」
「だってさこーりん、早く用意しなさいよ」
「頼むから君は少し黙っててくれないか。……それで、何本ほど要るんです?」
「あるだけ全部。多い方が明るいですから」
そりゃまた豪快な注文だ。蝋燭、か。倉庫の方に行けば二箱分はあっただろうか。
踵を返して店の奥へと戻って行く。朱鷺子を残して行くのはそれなりに不安だったが、まぁ咲夜がいるなら大丈夫だろうとも思った。倉庫に続く扉を開け、ひんやりとした空気が耳たぶを舐めたところで、その耳にこんな会話が届いてきた。
「貴女のお名前は?」
「――っ、ときこ! 私朱鷺子って言うのよ!」
「そう。素敵なお名前ね」
「でしょう? 私にぴったりよね!」
だからあんまりその名前を振り回すなと言うに。君は構わないのかもしれないけど僕からしてみりゃ気が気でないんだから。
えぇと蝋燭。ロウソク。確かこの棚の奥の方に、……あった。一箱分だったが結構重い。取り落とさないよう慎重にしないとな。落として砕けたりなんかしたら間抜けもいいとこ
「こーりんに付けてもらったの!」
「――ろ゛ぉだあッ!!」
落とした。派手に盛大に大胆に、推定三キロが万有引力に従い落下して、あろうことか僕の足の甲へと実に奇麗な角度で入った。みしり、となかったことにしたい音と感触とが全身を電撃のように走り抜ける。今ので絶対、どこかの神経焼き切れたに違いない。
「ちょっと、なんなのよー?!」
うるせぇ黙ってろダラズ! なんて思ってもお兄さん言いませんし言えません。火花を散らす脳みそは灼けて溶け尽きる一歩手前、鮮烈な痛覚に泣き言を上げないよう我慢するだけでも精一杯だ。この世で男が泣いていいのは、生まれた時と愛する人が死んだ時と箪笥の角に足の指をぶつけた時……あれだったら今僕は泣いてもいいのだろうか。泣きたい。泣きてぇ。しかし女の子二人、特に朱鷺子の手前、痴態を晒すわけになんかいかないのである。
頑張れ、僕。
「お待たせ、いたし、ました」
直撃したのが僕の足だったことが幸いしたのか、商品の方は大事には至らなかった。それくらいの運はあってもらわなくちゃ困るけれど。覚束無い足取りでカウンターに戻り、少し歪になってしまった箱を咲夜に差し出した。
「――うん。ちょっと足りないけれど、まぁ許容範囲ね」
「お買い上げ、ありがとうございます……」
「代金はこれくらいでいいかしら? ……それにしても霖之助さんが、ねぇ」
小袋一杯の銀貨を差し出しつつ、彼女は感嘆するような声をあげた。珍しいこともあるのねと言葉が続く。僕はなんだかこっ恥ずかしくなってしまって、誤魔化すようにこう言った。
「別に、なんとなくですよ、なんとなく」
「なによぉその言い方っ。名前を付けさせてくれって言ってきたのはあんたの方じゃない」
「さぁて、どうだったかね」
これ以上あることないことあること喋られてはたまらない。ほら見ろそこのメイド長の微笑ましそうな顔を、完全に誤解されてる顔だぞどうしてくれる。
けれどそんな僕の心持ちを知ってか知らずか、朱鷺子のお喋りは止む気配を見せてはくれない。こいつ僕を褒めたたえたいのか貶したいのかどっちなんだ。僕の付けた名前は気に入ってるくせに、僕自身のことはひどくこき下ろすんだから。
そんな折、ふと咲夜が呟いた。どうしてかとても愛しそうな声音だったものだから、僕も朱鷺子も、振り返って彼女の顔を凝視してしまった。
「貴女も、私とおんなじね」
「え……?」
「私の名前……“十六夜咲夜”もね、大切なひとから貰ったものなのよ。とても、とても嬉しかったわ。生まれ変わったような気がしてね、……うぅん、その時私は確かに生まれ変わったんだわ。名前が変わっただけなのに、けれどたったそれだけのことで、これから自分はもっとしあわせになれるんだって、そんな気がしたの。だから貴女の気持ちはよくわかるし、貴女を見ていると、私もなんだか懐かしくなってきちゃってね。昔の自分を見てるみたいで、ちょっと恥ずかしいわ」
らしくないんだけれどね、と語尾に付け加えて、咲夜は一等の笑顔を浮かべてみせた。にしては珍しく感情を露にした――それはほんとうに、彼女らしくない本物の微笑みで。
けれどそんなつまらないことが気にかかるのはどうやら僕だけらしい。咲夜の言葉は朱鷺子の琴線をピンポイントで撃ち抜いたようで、ともすれば今にも嬉し涙を零しそうな朱鷺子を見て、咲夜はその右手で朱鷺子の頭をそっと撫でた。傍から見ている分には仲の良い姉妹にも見てとれる。朱鷺子の方が倍は生きているはずなのに、その精神年齢にはずいぶんと差が開いているようだ。照れ臭そうに顔を染め上げた朱鷺子が、僕にはなんだかとても小さいもののように思えた。
「……そうだ。よかったら貴女、うちのパーティに出席してみない?」
「えっ、と。……私が? いいの?」
「もちろん。お客様は多い方が、明るいもの」
朱鷺子にとって、きっとそれが初めてのお誘いだったのだろう。期待と不安の半分ずつ入り交じった、幼い悩みを宿したひとみが、どこか落ち着きを得られる場所を求めてくるくると忙しなく動いて、そうしてそれは僕の思っていた通り――僕の目を見て、止まった。差し出された手を掴みたいのに、掴んでしまいたいのに、それをしていいのかどうかわからないと、一対の朱鷺色の目と翼が僕に訴えかけていた。まったく子供だ。わがままな子供だ。そうして結局はその目の色に圧し負けてしまう僕も、自分で言うほど“できたひと”なんかじゃなかった。
その背中を押してやるのも、いいかもしれない。
僕もつくづくお人好しだ。
「行ったらいいじゃないか。きっと楽しいだろうさ」
「こーりん……」
「それに、紅魔館には確か――図書館もあったはずだしね」
「っ、ほんとう?!」
途端、朱鷺子の目の色が変わった。獲物を見つけた鷹の眼のように強く、鋭く。あれ、朱鷺って猛禽類だったっけ。
「あら、貴女本が好きなの?」
「うん! 私本読み妖怪だから!」
本読み妖怪って、……聞いたことないぞそんな妖怪。
その勢いはもはや水を得た魚、本を得た朱鷺。実に分かりやすい変容に咲夜も驚きを隠さなかったが、その対応もまた早く、
「それなら尚のこといらっしゃい。パチュリー様――図書館の主人にも、話を通しておいてあげるわ」
その言葉に、朱鷺子はよりいっそう頬を紅くして力強く頷いた。やはり図書館の一声は大きい。昨日彼女に見せたボロ箱が宝石箱なら、図書館なんてのはさながら黄金の城ぐらいには映っているのかもしれない。
「そうそう、彼女が来るなら霖之助さんも来ないとだめよねぇ」
「え、……僕もかい?」
「当たり前でしょう。レディを一人で送り出すゼントルマンなんて、聞いたことありませんわ」
飛び上がって喜ぶ朱鷺子には聞こえないほどの声で、彼女は実に愉しそうな声で囁いた。悪魔の声が聞こえる。なんてこった、僕はニューイヤーじゃなくて正月を過ごしたかったのに。……咲夜は、最初から僕と朱鷺子をワンセットで考えていたに違いないといまさらながら思った。絶対になにか勘違いしている。いや、あるいはわかった上での行動だ。どこからどこまでがポーカーフェイスだったのだろう。ちくしょう、他人事だと思ってからに。
どうやら僕の運命は――正月は、いやいやニューイヤーは過去に例を見ないほど忙しくなりそうだ。どこで狂ったのかと言えば最初から狂っていたんだと思う。その元凶はと言えば、まだ見ぬ図書館への想像が止まらないのだろう、夢見る少女に変身を遂げてどこまでもしあわせそうな表情を浮かべていた。その顔にはもう呆れるしかない。怒る気も憎む気も、とうの昔に消え失せていたし、……第一、あれだけの夢見心地を壊してしまうというのも、どうしようもなく無粋な話だと思ったんだ。
「それでは、ごきげんよう」
瀟洒な従者が踵を返す。後ろ姿に靡かせたマフラーは、紅色にも朱鷺色にも似て鮮やかだった。
▽
小さく爆ぜるストーブの音と比べると、チェアの軋む音はひどくゆっくりとしていた。眠気を誘うレントテンポだけが、ねじの切れた時計に変わって、穏やかな時の流れを感じさせてくれる。
当たり前のように――そうすることが、ずっと前から続いてきたかのように、朱鷺子は静かに文字を追っていた。小さな身体のその吐息に合わせて椅子は揺れる。不定期に捲れる頁の音も克明だ。僕には、それらが合わさって一つの音楽を奏しているようにも思えていた。ややもすれば今にも転んでしまいそうな危なっかしいリズムは、おっかなびっくり足を進める子供の足音のようにも聴こえてくる。きっと彼女は今、本の世界を冒険しているのだ。英雄フォン・ノイマンの足跡を、そして彼すら超えてゆかんとする人間とその式達の冒険譚を、一生懸命になぞっているのだ。それはもう、雪かきなんて忘れてしまうぐらいに夢中になって。
「やれやれ、だ」
朱鷺子には届かないほどの小声で、僕は小さく溜息を吐いた。今日はもう諦めよう。なにをやっても裏目に出るんなら、もう何もしない方がいいに決まってる。だからこそ僕も、漠然とした未来の夢に意識を傾けることにしよう。今日限りしか聴こえない、おかしな音楽を愉しみながら。
「ねぇ、こーりん」
そのあどけない音楽に歌が入る。僕は何も答えない。答えなくても歌は勝手に続いていくからだ。
「私さ、今日も、明日も、……しばらくの間さ、ここに泊まってもいい? ノイマンが読み終わりそうにないの。私お金も持ってないから、買うのも借りるのもできないし……」
どうしてかその歌詞は、さっきから予想がついていたものだった。どうしたものかね、自分の悪い勘の的中率を恨みたくなってくる。
けれども、そうやって予想がつくのなら、対策を練るのも簡単だ。前触れもなく訪れた不運ばかりはどうしようもないけれど、わかっていたのならしっかりと向き合える。向き合った上で決めたことには後悔しない。どんな結果を招こうとも、真正面から受け止めてやろうじゃないか。
そんなこと、彼女に名前をあげた時から決心ついているのだから。
「今日も、明日も、……しばらくの間雪かきだからな」
その時、女優がふっと舞台を飛び降りて、心地の良かった音楽や歌がぷつりと途絶えて。
その代わりに僕の眼に飛び込んできたのは、遠く離れていては決して見ることのできない、少女の一等の笑顔だった。
「朱鷺子さんに、まっかせなさい!」