□朱鷺めく日



 店内はひどく静まり返っていた。――というのも客がいないからではあるのだが、そんな静寂が好きな僕は商売人としていろいろ間違っているのだろうか。いやいや、そんなわけない。僕はこの店の雰囲気を大切にしているだけである。少しばかり閑散としている方が、僕の店にはよく似合っている。そう思う。目を逸らしてなんかいないぞ。強いて言うなら、手元の本には目線を落としているけれど。
 外は日も沈みきり、深い宵色が刻一刻とその濃度を強めていく最中だった。最近は日の入りもすっかり早くなり、年末に向けて日毎勢を増す寒さは過去に覚えのないほどの厳冬だった。この調子では、年明け前にもう一寒波やってきそうだ。幻想郷の冬色は、いよいよもって深化していく。
「お前にも、よく働いてもらうよ」
 店の中でどんと一角を占めているストーブにそう声をかける。当然返事を期待しているわけじゃない。生憎と僕の能力は道具と会話できる程度のものではないし、できたという怪話にも縁がなかった。けれども、こいつにもそろそろ付喪神が宿るんじゃあないかと、最近ではそんな気がしてならない。こいつが現役に復帰したのは今から五、六年前のことだけれど、こいつ自体はそれよりずっと前からこの店に在った。そう考えてみれば、魔理沙にも劣らないほどの長い付き合いだ。
 もちろん、こいつよりずっと長く店に置いてある道具もあるけれど、どれもこれも道具として使われていない以上、その意味を成してなどいない。無意味。無意義。僕は道具を生きながらに殺している。もっとも蒐集なんてそんなものだろう。標本や剥製にする対象が有機物か無機物かの違いである。違いがあるとすれば、僕にはそれらを売って生計を立てなければならないという義務があることだけれど、それに先んじて心情が働いてしまうこの性分はいったいどうしたらよいものか。やっぱり商売人としては失格なんだろうけど、……今は、アマチュアの立場に甘んじておくとしよう。
 時間はしんしんと積もる雪のように、ストーブの火の揺れるかすかな音だけを残して淡々と過ぎていく。火を見るのをやめ、久しく書架から引っ張り出してきた本へと僕は視線を戻した。全十五巻の、十四巻目。店の大掃除のついでに埃を被っていたのを見つけた折、なんとなく興味を取り戻したのでこうして店先にまで持ってきた。もう何年前になるだろう。霊夢相手に取引が成立した、数少ないモノのひとつだ。そう考えるととても感慨深くて、当時を思い出さずにはいられなかった。
 ――あの日も、こんなふうに雪の幽かに舞う日だったっけ。もっともそんな光景もすぐに雪の派手に舞う日に変わってしまったけれど。そんな日常は今も相変わらず、この瞬間にだって僕の恋する清閑が打ち砕かれないともわからない。気まぐれで気分屋な彼女達の考えは、僕のような凡人には及びもつかないのだ。
 ああ無常。僕の店は極端に静かであるか極端に騒々しいかのどちらかでしかない。その中間――普通にお客で賑わっている――なんていうのはおそらく夢のまた夢だろう。理想は遠い。いっそ人里に店を移してみようかと考えたことがないわけでもないが、そのことを魔理沙に相談してみたらひどい剣幕で「やめてくれ」と迫られた。今にして思えば、あれは確かに僕が軽薄だったのか。
 ともかく、両極端の一言につきるのだ。博麗の神社ほどではないにせよ、ここだって十分に静寂と喧騒の境界がぶれている。その上不安定で、いつ上下攻守が入れ替わるともわからない。予測も予想もできっこない。天変地異と言ってもいい。だから僕は風に吹かれる柳の枝のように、黙って流される立場に身を置くことにしている。立ち向かって圧し負けるのであればあとはもう受け流すしかあるまい。人それをして優柔不断と言うが、我の強い連中ばかり相手しているとそうならざるを得ないわけであって。
 ……などと思考を巡らせていると、どん、と地面が唐突に唸りをあげた。次いで屋根の雪の落ちるどさりという音が続き、窓に目を向けた矢先、とどめだと言わんばかりの閃光が目を射してくる。けばけばしいまでに輝く魔法の光は、よく見慣れた――それ見たことか。天才的な天災のお出ましだ。
 どぉ、ぉんと。地鳴りの衝撃は容赦なく押し迫り、硝子の窓を震わせる。さっきまでの物静かな空気はどこ吹く風で、表では発破発砲の喧しい音が、それまでの世界をぶち壊さんとばかりに鳴り響いていた。近所迷惑など考えてもいないのだろう。いつ、香霖堂に流れ弾が飛来するともわからない。うちは米粒弾どころか投擲された新聞でさえ穴が開くほど脆いのだ。いやまったく恐ろしくてたまらないね。悪いものを招かぬよう戸締りはしっかりしておこうか。そう思い至って椅子から腰をあげたのと、その、閉めようと思っていた店の戸ががんらがらんとぶち破られたのはまったく同時のことだった。長年誰かの来店を知らせてきた、馴染みのベルの音じゃなかった。今の一撃で割れたかもしれない。なんてこった。

「っ、た……」

 まぁ、ベルのひとつやふたつは一々気にもしていられない。この馬鹿寒い中ドアを粉砕されなかっただけマシだろう。それでも、叱り付ける口を閉ざすつもりはまったくない。何度言ってもわからない奴だから何度でも言う。実力行使には出ない。命は惜しい。それ以上に店が惜しい。
「おい魔理沙、もっとゆっくり入ってこいってあれほど、……」
 ふと、僕の眼に飛び込んできたのはいつもの白黒の少女ではなかった。藍色の服と朱色の飾り羽の印象的な――妖怪の――女の子だった。ひどく息を切らしているようで、胸を押さえてぜいぜいと肩を上下させている。その格好はボロ同然で、その上から雪まで被っているものだから正直言って物乞いにしか見えない。いやいや、さすがに物乞いする妖怪なんていうのは聞いたことがないけれど。おそらくはというか、考えるまでもなく表で暴れている魔理沙の仕業だろう。
「たっ、た……」
 切羽詰ったような声で少女が言う。竜田? うちはなまものは取り扱っていないんだけれど。
「誰だい、君は」
「あの、……だからっ……たすけ「こーりん!!」
 少女がなにか言おうとした瞬間、今度こそ聞き慣れた声が表から届いた。魔理沙だ。いつになくハイテンションだ。こりゃあもう相当よろしくないったらありゃしない。
 ……と思ったのはなにも僕だけではなく少女も同じようで、それどころか僕以上に過剰な反応を示してみせた。「いやぁ!」と甲高い悲鳴を上げたかと思えば、半ば突っ込むようにして居間の方へと飛び込んでいく。それから、ちゃぶ台がひっくり返ったのであろう派手な音が後に続いた。僕はもう頭を抱えるしかなかった。
「強盗のつもりかい?」
「いいからー! 黒いのが来たら追っ払って! お願い!」
 お願いされてしまった。どうしたものか。興奮状態の魔理沙を手懐けるのも骨が折れるんだけれど。
 と考えもまとまらないうちに、再度店が揺れた。――ばきん。と今度はみょんな音のおまけつきで。振り返った先には、もげたノブを片手に茫然と突っ立っている魔理沙が、
「あー、こーりん、いたのか」
「いるよ。僕の店だからね」
「そうか、邪魔したな。帰るぜ」
「そのノブを持っていってどうするつもりだい? 君の鉄くずコレクションに加えるのか?」
 魔理沙は笑っていた。年頃の女の子らしい、明るくて素直そうな笑顔だった。それがとてもひどくどうしようもなく恨めしい。どうやら店の品だけでは足りなくなったので、次は店ごと奪っていってやろうという魂胆らしい。冗談じゃあない。うちの扉はビスケット製のメルヘンドアーなどでは断じてない。
「ダメだぜこーりん。ドアの修理はちゃんとしておかないと」
「君が、たった今、そういう状態に、したんだろう?」
「最初から壊れてたぜ」
 そうですね。そうですよね。おっしゃる通りですね。
 そんなわけないだろう。
「それはそうとこーりん、こっちに朱鷺が逃げて来なかったか?」
「朱鷺ぃ?」
「朱鷺。香霖堂の方に逃げたからさ、追っかけてきたんだけど。あんまりすばしっこいから見失った」
 先に手を出したのは……口ぶりから察するにやはり魔理沙の方からだろう。あの少女の怯えぶりを見るに相当付け回してきたようである。なにか目を引くところでもあったのだろうか。僕には、どこにでもいる妖怪にしか見えなかったんだけれど。
「なんで朱鷺なんか追い回してたんだ」
「なんで、って……そりゃこーりん、今日は“薬売ります”だぜ」
 ……爆音続きで聴覚が麻痺したんだろうか。魔理沙の売る薬? お目にすらかかりたくない代物ベスト3に入るね。
「なんだいそれは。薬師がバーゲンでもするのか?」
「かすってもいないな。だからこーりんは稼げないんだぜ。……あれだ、外の世界の記念日だってさ。師走の二十五日には鳥を食べて活力をつけるんだってさ」
「土用の丑の日みたいなものか」
「そんなところだろ。夏は鰻。冬は鳥。あと、巫女が物を配って回るらしい」
「……それはガセだろう」
「外ではそうなんだって、紫が言うんだからたぶん合ってる、のか? まぁ霊夢にそんな気はちっともないみたいだけどな。うちはうち、そとはそととか言ってさー、幻想郷で薬売りますは中止にするだってさ」
 そりゃあ霊夢がそんな慈善活動に励む姿なんて想像もつかないが。そもそも情報源があの隙間妖怪という時点で眉唾だ。ただ魔理沙達をからかいたかっただけなんじゃないだろうか。
 それにしても、冬は鳥、ねぇ。種族鳥なら形がどうであれ食べるというのだろうかこの黒白は。先の少女はどう見たって人型である。それを指して鳥です食べますとおっしゃられるのも相当レベルの高い思い込みが必要とされると思うのだがどうだろう。兎は鳥という屁理屈が理屈に思えてしまうから困る。あぁ、そもそも彼女達に一般常識を求めることの方が間違っているのか。混乱してきた。話を戻そう。
「で、その薬売りますとやらで食べる鳥を探してたら、朱鷺を見つけたわけだ」
「本当は七面鳥って言うのがいいらしいんだけどな、顔が七つある鳥なんて妖怪だろ? そこはさすがに違うと思ってさ、だから鳥ならなんでもいいことにしたんだよ。まぁそういうわけで、こーりん朱鷺を出せこーりん」
 なんだ、顔か? 判断基準は顔なのか? なにか大切なことを見落としてるんじゃないかい魔理沙。主に形とか。
 なんてことはおそらく彼女にとってどうでもいいのだろう。魔理沙が鳥と言えば鳥、妖怪と言えば妖怪、こーりんと言えばこーりんなのだ。我道ここに極まるもいいところである。俄かにあの少女に同情を覚えてきた。あの子もまた不幸の星の下に生まれた可哀想な妖怪なのだ。とても他人事には思えない。少しくらいは、お願いをきいてやってもいいだろう。
「生憎朱鷺は取り扱ってないよ。うちは生き物は扱わないって知ってるだろう」
「おっとこーりん、私を騙そうったってそうはいかないぜ。お前が隠してるのはお見通しなんだ」
「……いつになく鋭いな」
「単純だぜ。店中朱鷺の羽だらけだ」
 魔理沙に言われて見渡してみれば、成程、あちこち朱色の羽根で飾られていた。さっき少女が駆け込んできたときに抜け落ちたものだろう。気付かない僕の方が馬鹿だった、と……だがその程度、どうとだって言い訳できるんだよ魔理沙。
「魔理沙にだけは、隠しておきたかったんだけど、」
「そうそう、最初から素直になればいいんだよ。待ってな、私がうまーく料理して、」
「朱鷺なら昨日食べたんだ」
 ぴたりと音さえ立てたかのようにして、その笑顔が完全に凍りつく。ちょっとこれは想像以上の反応だったけれど、――まぁいい。大人しく帰ってくれればそれでいいのだ。
「うそ……」
「君ががっかりするだろうと思って黙っていたんだけどね」
「どうして私に知らせてくれなかったんだよ……! 薬売りますだぜ? 前夜だぜ? 鍋パーティしたいとか思わなかったのか!?」
 思わないよ。何だよパーティって。そこは日本的には鍋奉行を推すべきところだろう。
「仕方ないだろう、君を誘うなんてちっとも思いつかなかったんだから」
「っ、……それで、ひとりでぜんぶ済ませたって?」
「丸々太ってて美味しかったからね。箸が止まらなかったんだ」
 鼻で笑える、いや、鼻をつまみたくなるほどくさい芝居だ。
 それでもどうしてか、魔理沙には非常に重い一撃だったようで。えらく悲壮な色まで浮かべて、憎しみたっぷりに僕を睨みつけていた。よく見れば涙まで浮かべている。どこかで見た風景が脳裏を過ぎる。前もあったような気がする。というかありすぎて困る。魔理沙が押し黙ったその時、往々にして僕の身には災禍の火粉が降りかかるのだ。
 Why?
 わーい?
「……帰る」
「ああ、……そうかい」
「あとさ、これ返すぜ」
 ――その時世界はそこにメイドでも居合わせたかの如く、ひどく緩慢に時を進めた。ゆっくりと、ゆっくりと。一秒のさらに百分の一までをも鮮明に映し出した僕の眼は、迫り来る死の不可避なことを脳みそにいやというほど焼き付けてくれた。魔理沙が振りかぶる。フォームはトルネイド。球種なんてストレート一択に決まってる。捻じ切れんばかりに軋みをあげる魔理沙の背中に、僕は燦然と輝く十一番を幻視したような気がした。嗚呼、それが次回作のマスパなのかい?
 遠慮も容赦も躊躇いもない。
 短いようで永い五秒が経ち過ぎた一瞬の後、僕の眉間に迫っていたのはドアノブの、


「こーりんのばかー!!」


 ▽


「うーわ、痛ったそー。生きてる? ねぇねぇ、生きてる?」
 生きてる。生きてるよ。生きてるからそんなに大きい声を出さないでくれるかなぁ震えて響いて揺さぶられてなんというかその一見優しさの塊に思えるような台詞が原因で死ねる。死ぬ。向こうで死神が手を振っている。持ち合わせはいくらだって? 僕の店が流行ってないことを知ってての嫌味かいそれは。冗談じゃない。そんな意地の悪い船頭はこっちから願い下げさ。あ、痛い。やめて銭投げないで痛いいたい。
「う……」
「あー起きたー」
 沈みかけていた僕の意識を浅瀬にまで引き戻したのは、どこか垢抜けない少女の声だった。まだひどく頭が重い。おでこのあたりなんて灸でも据えてるんじゃないかってくらい熱い。それでも、いつまでも目を回しているわけにもいかないので、深く息を吐いてからどうにか腰を持ち上げた。
「自機狙いでしょ? あれくらい避けようよ」
「ああいうのは苦手なんだよ、僕は……」
 言うと、運動音痴だねと馬鹿にされた。否定する気にもなれなかったので聞き流すに留めた。
「でも、悪いのはあんただからねぇ。自業自得よね」
「君も聴いていただろう? 僕がなにをしたって言うんだ……」
「……それ本気で言ってるの?」
「本気もなにも理解できない。魔理沙のやつ、合うたびエスカレートしていってるんだ」
 ほんとうどうにかならないものか。肉体言語ならまだ堪えられるものの、魔法や道具を伴う一撃は堪えるとかそういう次元を軽く飛び越している。悪意や敵意以上に、たまに殺意さえ感じることがある。魔理沙も大人になってきて感情の幅が広がってきたのか、けれどあんまりそういう方向には向かってほしくない。怖い。身近な狂気が怖い。
「だめだこいつ、早くなんとかしないと……」
「なんで僕が責められなきゃならないんだよ」
「ほんとうにわかんないの? あんた女心ってのがなんにもわかってないよ。よくそれで今まで黒いのに殺されなかったね。私だってさー、さっきあんたが言ったことにはカチンときたもん」
「僕が? 君に? なにを?」
「丸いって。太ってるって。ぶちまけてやろうかとも思ったんだけど、必死に我慢したんだからね。言いたいことはわかるけどさ、もっと言葉選んでよ」
 助けてもらっておいてなんだその言い草は、と言いたくもなったが、彼女もそこのところは理解しているようで、それ以上物を言うことはなかった。生粋の妖怪にしては珍しく理解がある辺り、それなりの智慧があるのだろう。
 改めて、僕は彼女の姿に眼を向けた。そこにいるのが当たり前であるかのように居間に鎮座している、というかすでに慣れ親しんでいるようでもある。僕に対する言葉遣いもどこか馴れ馴れしい辺り、以前関り合いがあった妖怪なのかもしれない。店に来た客か、それとも出先での縁か。……まぁ、大したことじゃないだろう。軽い口調でも、別に悪い気はしなかった。
「……とにかく助かったわ。危うく鍋にされるところだった」
「魔理沙は本当に君を食べようとしてたのか?」
「さぁね。最初は朱鷺の格好だったんだけど、逃げる途中で人間に化けて……でもその後も追ってきたから、きっと姿形なんて関係なかったんじゃない?」
 ……何がそこまで魔理沙を突き動かしたのか。“薬売ります”、って。まさか阿片じゃあないだろうな……
 なにはともあれ脅威は去った。僕と僕の店のダメージは大きいが、店内でカニバリズムもどきを決行されなかっただけ良しとしよう。もっとも、現状の安全圏は店の中を出てはいないが。外ではまだ怒り収まらないままの魔理沙がどこかの空を切り裂いているに違いない。情けのない話だが、向こう三日間は隠居生活を送るしか道はないのである。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
 そうしてそれは彼女も同じことだろう。次に出会ったら、その次がなくなる。このまま彼女を送り出してしまっては霧雨家の食卓を飾る運命しか待っていないと、僕の第六感が警鐘を打ち鳴らしていた。同じ星の下に生まれた彼女を見殺しにするのもなんだか後味が悪いような気がして、「やめた方がいいんじゃないか?」と、僕は気がつけば口を開いていた。
「ん? どうして?」
 やおら立ち上がろうとした姿勢のまま、彼女はきょとんと言った。
「まだ魔理沙が外をうろついてる。今出て行ったら見つかるんじゃないのかい?」
「あー……」
「無理にとは言わないけれどね、よかったら少し残っていくといい。」
 彼女はばつの悪そうな顔をしてみせて、しばらく考えを廻らせてから、やがて、
「……お邪魔します」
 と答えた。たった一言に、わけもなく感動した。
「いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか?」
 思わず業務口調にもなるというものである。彼女は、今度は面食らった表情を浮かべてみせた。百面相……百面鳥? 魔理沙の言い分もてんで的外れではないようだ。
 暫時、返事に困っていたようだけれど、自分が今雑貨屋にいること、そして僕が店主だということを思い出すと、彼女もまた少しおどけた口調でこう返してきた。それはどこか久しい感覚だった。実に数ヶ月ぶりに肌に染みる、商売人としての実感だった。久しくていいのか? 虚しくなるので深く考えるのはやめよう。

「珍しい本って、あります?」


 ▽


 ダンボール箱には夢が詰まっている。具体的にどんな夢かと言えば、もっぱら夢物語を描いた本が詰まっているだけなのだが。正確に言えば今僕の手元にあるダンボール箱には夢は欠片も詰まっていない。この薄茶色の箱を大量に拾ってきたとき、それらは全て畳まれた状態で落ちていた。中身はどこへ行ってしまったのだろう。全て等しく幻想に昇華してしまったのだろうか。
 ダンボール箱――道具、衣類、或いは夢を詰め込むためのもの――“夢”がなんであるかは僕にはさっぱり理解できないが、少なくとも今僕の手元にあるダンボール箱には夢がぎっしり詰まっている。僕にとってではない――――彼女にとって、きっとこのボロの箱は宝石箱以上に価値があるのだろう。
「わぁ……」
「ジャンルに統一性はないけれど、とりあえず外の本が多いね。痛んでるものも多いから、取り出す時は慎重に」
「これ全部、あんたが集めたの?」
「拾い物もあるし、譲ってもらった本も。集まる時は大体まとまって集まるんだ」
 幻想郷に本が流れ着く可能性は意外と高い。外の世界では焚書や発禁がよく行われているのだろうか、それとも絶対数の少なさから希少価値が高いせいなのか。理由はどうであれ、無縁塚には二カ月に数回ほどのペースで外の本が流れ着く。あまりに損傷の激しいものを除いても、その量は大したものだった。香霖堂もそのうち道具屋から古書店に改装できそうだ。それもまた、面白い試みだとは思うけれどね。
「すっごいねーあんた。物拾いのプロなだけはあるね」
「回収業、ぐらいには装飾してくれよ」
「これとか重そうで面白そう」
 聞いちゃいない。まぁいい、無視されるのには慣れているさ。
 彼女は箱の中から一際分厚く頑丈そうな装丁の本を取り出してちゃぶ台の上に広げてみせた。細かな字が両頁に渡ってずらりと並んでいる。頁を送る手は速く、文字を追う眼球の動きもまた忙しない。本を読むのには慣れているのか。年端もいかない子供みたいな見た目からはまったく想像できないんだけれど。
「つ、て、と、とー……」
「なんの呪文だよ」
「おー、私ってば天然記念物だ」
 天然呆……やめておこう。口は慎むものである。
「それ、マダレムジエンじゃないか。そんなもの読んだって面白くもなんともないだろ」
「私はね、読めればそれでいいの。読むことが楽しいの。読書は質より量なのよ」
 それもなんだか違う気がする。質のどうこう以前に内容を理解していないんじゃあ意味がないじゃないか。けれど彼女はそれを気にするふうでもなく、ただ言葉の群に飛びかかっては一途に字面をなぞっていった。その様子は新しい玩具を手に入れた子供となんにも変わらない。“読む”ことが楽しい、“理解する”ことなんて二の次だという彼女の言葉は、きっと見栄でもなんでもないのだろう。
 夢中、という言葉が今の彼女にはぴたりと当てはまった。外の世界の本は、きっと彼女が見たこともない言葉で溢れかえっているのだろう。頁を送る手は次第に遅くなり、その代わりに字面を見つめる時間が増していく。この調子じゃあ長くなりそうだ。居座られるのもそれはそれで、困る。
「長時間の立ち読みは、控えてもらいたいんだがね」
「なによー、泊まっていけ言ったのはあんたの方でしょ」
 いや言ってないよ。
「いいじゃない元は拾い物なんだから。誰にどれだけ読まれようが同じよ」
「せめて買ってからにしてくれと言ってるんだ」
「……けちんぼ。言っておくけど私無一文なんだからね。思い知ったか!」
 自慢されても困る。別に彼女になにか期待していたわけじゃない。彼女がうちに這々の体で駆け込んできたのは、なにも買い物をしにきたわけではないのだから。
 ただ、会話を交わすその切欠が欲しかった。客をほったらかすのはなんとも思わないが、僕の方が客に放置されるというのはどうしてかむず痒い。落ち着かないのだ。訊きたいことも聞かせたいこともあるのに、右から左へ流されたのではそれこそお話にならない。
 単純に、――彼女に興味が湧いたのだ。あわよくば常連客にしてやろうという、下心を含めてではあるけれど。
「じゃあこうしよう。その本は一週間貸してやる。その代わり、来週になったらきちんと利子をつけて返すこと」
「なにそれ、ひとの足元見過ぎじゃない?」
「別に、後日改めて買いにきてもいいんだぞ? ただしその時は定価で買ってもらうことになるけどね」
 腐っても商売人、傾いても香霖堂。足元なんて穴が開くほど見ているともさ。
「……ふんっ、あんた私に物を借りっぱなしだったってこと忘れたの?」
「なんのことだい?」
「なんッ――……ふざけるなー!!」
 と甲高い声で叫んだかと思えば、彼女は爆ぜたように立ち上がり僕に向かって詰め寄ってきた。小柄な身体が一回りも二回りも大きく見えるほどの気迫をバックに背負っている。その剣幕にはもうたじたじとするほかなくて、後ずさりで逃げはしたものの、居間を出た途端その退路は無情にもカウンターによって塞がれてしまった。噛まれたら痛っそうな牙まで剥いて威嚇している。相当頭にきているらしく、加えてその右手にはさっきのマダレムジエンが――待て、待て! それを振り下ろされたら今度こそ砕け散ってしまう!
「私の本持っていったでしょう!? 三冊も! 忘れたとは言わせないわ!」
 僕が? 三冊も? そんな覚えなんてこれっぽっちも、
 ――と、ぎらぎら光るおっかない眼光から目を逸らした先、僕の眼に飛び込んできたのは霊夢を騙くらかして手に入れた――
「あ、」
「ふーんだ、ようやく思い出したみたいね」
 朱鷺色の飾り羽根をぴんと立てて、少女は満足げに笑ってみせた。今度は私の勝ちよ、とでも言いたげに。
「あの時の、あの朱鷺か」
「くだらないこと言うなっ、ないぞうぶちまけるぞ!」
「何年前の話だと思ってるんだ! 君のことなんてとっくに忘れてるに決まってるじゃないか!」
「私は憶えてたもん!」
 このままじゃあ憶えているいない合戦だ埒があかない。こういう朱鷺じゃなかった時、例えば魔理沙相手なら僕が妥協すれば丸く収まるのだが――どういうわけかこの子相手にはどうしても負けたくなかった。否、負けるわけにはいかないのである。僕の愛書の命運がかかっている。数年前のいざこざなんて、もう無効さ!
「大体なっ、本を返して欲しいなら欲しいって最初からそう言えばよかったじゃないか。あの時の妖怪ですって、名乗りをあげればよかっただろう!」
 反駁する。そうだ取引ってのは何事も順序が大切だ。名を交わす。世辞を並べる。そうしてようやく本題に入れるのだ。僕からしてみればついさっきまでこの子は見知らぬ妖怪Aだったんだ、本を返せと言われたって、思いに至るわけがない。
 ……ところが。僕の予想に反して彼女は、たった一度の返し言葉にその口を噤んでしまった。ぎゅうっと真一文字に引き締めて、なにか溢れ出しそうなのを堪えるようにして。
 どうやら僕には、……無意識の内に他人の神経を逆撫でするという天賦の才能が備わっているらしい。
 アウ、ジーザス。
「ないもん……」
「なん、だって?」
「私、なまえ、……無いもの」
 無い、というのは、つまり文字通り名無しであるというふうに解釈していいのだろうか。名も無き妖怪。体を表すための名が、彼女にはなにもない、と?
「名乗れるわけないじゃない……“私よ私”って、私それしか言えないのよ? ……あんたが私のこと忘れてるんだなぁって、憶えてないんだなぁって、そんなこと初めからわかってたわよ。だから何も言わなかったんだけど、それって悪いことなの?」
 僕は……何も言えなかった。「だったら自分で考えろ」とそんな言葉も思い浮かんだけれど、吐き出してしまいたいのをぐっと飲み込んだ。自分で自分を名付けることは……自分を着飾ることと同じだ。もちろんそれにだって意味はあるだろう。着飾り続けることを良とするひともいるだろう。
 けれど彼女はそうじゃなかった。欲しいものは服じゃない。装飾品でもない。体を飾るためではない、表すための名が必要なのだろう。
「……悪かったよ」
「別に気にしてないよ、慣れっこだし。ついでに言うとね、取られた本のこともずっと昔に諦めてるわ。無理に奪い返してあんたに怪我でもさせたら、きっとあの黒いのがすっ飛んでくるもの」
 魔理沙が、ねぇ。
「……帰るわ。さすがにあの黒いのももうどっか行っただろうし。それとこの本ね、読み終わったら店の前に置いておくから」
 溜息交じりの声で言いながら、名無しの少女はそっと身を引いた。怒りとも悲しみとも、呆れともつかない声音だった。
 ただ……髪飾りにも似た朱鷺色の羽根だけが、どこかくすみがかって見えていた。それは死んだ朱鷺の羽の色に良く似ていて、どうしてか、僕になにかを訴えかけているかのようにも見えて。

 ――――僕の力は、いったいなんだったろう。

「待てよ」
 壊れたドアを潜ろうとしたその小さな背中を、僕は店中に響き渡るような声で呼び止めた。その足並みがぴたりと止まる。微かに震えて見えるのは、きっと外が寒くてたまらないからだ。
「君の話を聞く限り……どうやら非は僕にある、らしい」
「当たり前じゃない、そんなの」
「僕としてはね、誰かに貸しを作っておきたくないんだ。もちろん君に対してもだ。……だから、今のうちに清算しておこうと思うんだ」
 同意の言葉も、否定の怒声もなかった。彼女は物言わぬままそこにじっと立っている。僕の言いたいことなんて、もうとっくに見通されているに違いない。
「――君に名前をあげようと思う。それでおあいこだ」
「あんたが、……私に?」
「ああ」
 僕は物の名前を知ることができる。体を表すたった一つの名を、僕は今まで何度だって目にしてきた。もちろんそれは物に限った話だ。生き物の名前を視ることは……今まで何度試しても成せなかったし、まして“名を与える”なんて、……それは驕りだって、わかっているはずなのに。
 けれど。だけれど。それを心から必要とする何かが、誰かが、僕の目の前に在るとしたら。名を得てまで“個”になりたいと、願うひとがいるのなら。
 僕は、ほんの少しでいい――……神に、近付いてみたい。
「……可愛いのにしなさいよ」
「任せておけ。君らしいヤツを考えてやる」
「ばーか。調子にのるなっ」
 くるりと踵を返した彼女の顔は、もうすっかり先までの明るさを取り戻していた。その顔は少しだけ赤く染まっている。外はすでに氷点下。早いとこ修理しておかないと、今度は僕が赤くなる番だ。
 今夜は薬売ります、らしい。僕が売るのは“名薬”だけれど。朱鷺色の少女が駆けてきて、まるでプレゼントでもせがんでいるかのように早く、早くと服の袖を引いた。赤く色づいた頬に鮮やかな羽根と、星を散りばめたふたつの瞳ばかりが、僕の視界を埋めつくして、
 その色があんまりに綺麗なものだったから、僕に思いつく言葉なんてもう、一つきりしかなかった。


「君の名前は――――」


 店を照らすのはストーブの赤。
 店を飾るのはたくさんの朱鷺色。

 赤と白とに彩られた世界の中で、少女はようやく“神から人へ”と生まれ変わった。



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