□ブライダル白玉楼



「それでね、それでね、この人なんて、とっても素敵だと思うのよ~」

 今、思う存分胸の内を明かしなさいと言われれば、私は遥かに高いあの空目がけて「どうしてこうなった!」と叫ぶことだろう。いや、もう、ほんとうにどうして。日頃の行いが悪かったのだろうか、悪い神さまの怒りでも買ってしまったのか、理由を求めてここしばらくの記憶を振り返ってみても、やはり思い当たる節はなにもない。なればこそ、私には目の前で繰り広げられているこの光景が、どうしても現実のものだとは思えないのだ。整合性がないから。理由がないから。あまりに、唐突過ぎるから。
 ――なんて、ほんとうは考えるだけ無駄なんだってことは半ばわかりきってはいるのだけれどもさ。だって相手は“あの”ご主人さまだ。幽雅にして流麗、二百由旬の桜を統べる亡霊こと、西行寺幽々子さま……私が長年仕えている主でありながら、私はこの人の考えていることについて、かつて一度もその真意を知り得たことはない。いつだって主人の思考は未知で不明で、不可解で、ともすれば理不尽だった。今だってそう、突然呼び出されたかと思えば、目の前で“こんな”会話を繰り広げられて、それで私にいったいどんな反応を期待しているというのだろう。状況に理解が追いつかない。怒涛の鉄砲水のような主人の勢いに、私はただただ流されるばかりだった。
「きゃあ、この人ったら、里の和菓子屋の跡取りですって! あなたも見てごらんなさいな」
「は、はあ……」
 そう言って幽々子さまは私に一枚の台紙を渡してみせる。二つ折にされていたその紙を開くと、中には一枚の顔写真が貼られており、脇にはその人物についての詳細らしきことが併記されていた。里でも評判の老舗和菓子屋の跡取り、容姿端麗、人当たりは良く温厚な性格、ただし若干マザコンの気あり、19歳、性別、男性――
 男性。
 MALE。
 ♂。
「ぇ、あ……えっ?」
 一瞬にして思考が停止する。どうしてこんな写真がここに? いやいや、いくら私だって男の人の顔ぐらい見たことはあるぞ、里にお使いに出ることは度々あったし、もしかするとこの写真の人とどこかですれ違ったことだって……いやそうではなく、問題はそこじゃない、どうして幽々子さまが、こんな装丁の写真をこうも楽しげに眺めていたのかというのが疑問であって……
 そこでふと私は、さらなる事実に気が付いて愕然とする。幽々子さまの周囲に散乱している無数の台紙。無造作に開かれたそれらの中身を見て、私はついに呼吸さえも忘れそうになってしまった。
 写真に写る人影は、どれももれなく、男の人であった。白枠に切り取られた快活な笑顔と目が合う。好青年、と言えばそうなのかもしれない。生憎と顔の良し悪しには疎いが、ぱっと見て人目を引くであろう顔立ちであることは間違いなかった。
 だが、
 どうしてまたこんないけめんの方々の写真が、この白玉楼に……
「あの、幽々子さま……これはいったいどういうことでしょう」
「どうって、なんのことかしら?」
「ですから、この写真のことですよ! 男性の顔写真ばかり、こんなに集めて、なにをするおつもりです?」
「あらそういえば、やだわ私ったら、この写真のことであなたを呼び付けたのに、私のほうが夢中になっちゃってたみたい。私ったらだめねぇふふふふ」
 なにが面白いのだろうか幽々子さまは笑う。見ている私が身の危険を覚えるほどに、笑う。この人の考えていることは読めない、読めないが私とて伊達に長年西行寺家に仕えてきたわけではない、自身に降りかかる厄介を察知する能力はいやになるほど鍛えられたとも、主にこの人絡みで。そんな私の第六感が今、高らかに警鐘を打ち鳴らしていた。CAUTION! CAUTION! と黄色い横断幕が脳裏を過ぎる。思わず後退りする私を見て、幽々子さまはただただ微笑を浮かべるばかりだった。
「私ね、ほんとうに便利な世の中になったなぁって思うのよ。こうして事前に殿方のお顔を確かめることができるんですもの、選び甲斐があるというものよね」
「ですから、なんの……」
「もう、察しが悪いわね妖夢。いくらあなたが世間知らずとはいえ、このぐらいのことは理解できてもらわなくては困るわよ」
 どっちが世間知らずだという反論はぐっと飲み込んで、私はゆっくりと頭の整理をはじめる。とは言っても幽々子さまの言う通り、この状況がどういう事態を指しているか、大方の理解はついていた。いたが、それを事実として受け入れられるかどうかはまた別の問題で。できることなら夢であってほしかったが、試しにつねった頬は痛かった。
 ああ、現実なんだなあ……
 幾人もの男の人が白い歯を輝かせていることも。
 それを幽々子さまが嬉しそうに眺めていることも。
「私ね、お見合いを開こうと思うのよ」
 そして幽々子さまが発した言葉は、やはりというか、私の想像した通りのものだった。
 お見合い。
 男女の出会いの席。
 幽々子さまが、それに。
「……そう、ですか……」
 気の利いた言葉なんて返せるわけがなかった。なにか硬いもので殴られたかのように、頭の中がぐらぐらと揺れている。幽々子さまが、お見合いだって? なにをばかなと心の中で呟いても、しかし鼓膜に刻まれた幽々子さまの声は拭えなかった。それどころか時間が経つごとに、その重みはどんどんと増していく。お見合いをするということは男性と出会うということで、そこからお付き合いをする関係に発展するかもしれなくて。そうやって親睦を深めてゆけば、最後には当然、結婚をして結ばれるということに―ー
 いや……
 いやいや妖夢、それはない、その発想は、ない!
 だってあの幽々子さまが殿方と連れ立って歩くだなんて、まして結納だなんて、そんなの、ありえるはずないじゃないか! 第一幽々子さまは亡霊で、妖怪で、色気よりも食い気で、だから、上手くは言えないけれど、とにかく興味なんてあるはずがないんだ。お見合いなんて、結婚、なんて、ありえない……
 ありえない?
 ほんとうに?
「そうなのよう。だから山の天狗に頼んで、写真とぷろふいるを用意してもらったの。やっぱり、こういうことはちゃんとした人を選ばなくてはいけないものね」
 ふわりとした笑顔は、いつもの幽々子さまのものと変わりない。だけども、そのいつも通りのはずの笑顔が、今日はどうしてかいっそうきらきらとしているように見えるのだ。この表情は、なんて形容したらいいんだろう。夢や期待を胸いっぱいに抱え込んでいるような、とても満ち足りた顔をしている。長い間仕えてきた中で、こんな一面を見るのははじめてのことで……なんて素敵な顔だろうと思う一方で、しかし私は胸の奥底にざわつくものがあることも確かに感じていた。不安、それともあるいは、不快感。それまで当たり前のようにそこにいた人が、ふっと遠くに行ってしまったかのような。
「こういうことははじめてだから、あまり要領を得ないのだけど。でも、とっても楽しいわ。なんだかわくわくするわね、妖夢」
 胸の内はまだ暗澹とした気持ちで満ちている。だけど、目の前で私に笑いかける幽々子さまの笑顔は紛れもないほんものだった。輝いていた。その顔に、沈没寸前だった意気が少しだけ浮き上がる。さすがにいつまでもこんな調子ではいられない。ショックを隠しきれる自信なんてないけれど、ここまで楽しそうな幽々子さまはとても珍しくて、それに水を差すような真似が私にできるはずがなかった。本人がこうも乗り気でいるのであれば、私個人の感情を挟むべきじゃないだろう。不本意では、ある。だがお互いの立場というものを考えた時、あくまでも私は従者で、幽々子さまは主人なのだ。お見合いをすることが幽々子さまの望みだというのであれば、私は黙って、そのお手伝いに努めるほかない。
「幽々子さまのお気持ちは、わかりました。それほどお強い決意なのでしたら、私は幽々子さまのお言葉に従うまでです。……でしたら早速、私は場所や日程の取り決めを、」
「ちょっと妖夢、どこへ行こうっていうの。あなたがここにいなくちゃ、呼び付けた意味がないじゃない」
 私なりに意を決して、席を立とうとした――その腕をぐっと幽々子さまが引いている。私を呼び付けた用事は、お見合いの件を知らせるだけではなかったのだろうか? それに、私がいなくちゃ意味がないって……私はできれば、夏の太陽ばりに眩しい笑顔を向ける写真の山から、一刻も早く遠ざかりたかったのだけれど。
「あの、幽々子さま。まだ私になにか?」
「まだもなにもはじまってすらいないじゃない。ほら、早く妖夢も選んでちょうだい。まだまだ見せていない写真がこんなにあるんだから」
 そう言って幽々子さまは部屋の隅に寄せていた新たな写真の山を、私の前にどんと突き出してみせる。改めて思うに、この部屋にはとんでもない量の見合い写真が寄せられていた。それこそ幻想郷中の男性を集めたのではないかと思うほどだ。選びがいがあるって、まず人外かどうかという点から考えなくてはいけないのでは……
「い、いえですが幽々子さま。幽々子さまのお相手を選ぶのに、私が口を出してしまうのはどうかと。こういうのはほら、幽々子さまがふいりんぐで選んだ人が最適だと思いますし」
 そもそもの話、私に選択を迫られても困るのである。遠回しに……ものすごーく遠回しに言って、私に将来仕えたい主人は誰かと訊いているようなものだ。さすがに私にそこまでの図々しさはない。幽々子さまの将来に、いたずらに私の意志を反映させたくはなかった。
 だが、幽々子さまの返事は違っていた。しかしそれは私の予想に反してという意味ではなく、むしろまったくの見当違いという方向性で……つまり、
「私の相手って、やだ妖夢、あなたなにか勘違いしているんじゃない?」
 つまりそんなふうに、幽々子さまは言ってのけたのだ。
 勘違いって、誰が、なにを、どんなふうに?
 まさか、

「お見合いをするのは私じゃなくって、あなたよ、妖夢。
 あなたのお婿さん、一緒に決めましょう?」

 ……幽々子さまが、なにを考えているのか。
 やっぱり私には読めません。読みたくないです。
 できることなら夢であってほしいと、試しに頬をつねってみたけれど、両方のほっぺたが赤くなるだけだった。


 ▽


「――と、言うわけなんですけど」
「よしお前もう帰れ」
 ぴしゃん、と軽快な音を立て、目の前で障子が閉ざされる。そのあまりにも淡泊な突き放し方に一瞬「仕方ない他をあたろう」という考えが脳裏を過ぎったが、その誘惑に負けず私は閉ざされた障子を再び開き返した。
「お願いですー! 話だけでも聞いてくださいよお!」
「過ぎってないよ?! 思いっきり口に出てるからね?! ていうか考えたならそのまま他あたりなさいよ!」
 半分まで開きかけた障子は、途中のところでがたりとなにか固いものに阻まれた。見れば向こう側から伸びる腕が邪魔をしている。ひらひらと揺れる巫女服の袖が、戸の隙間から覗いていた。
「こんな話ができるのは霊夢だけなんです! 年中暇そうで急に押しかけても迷惑にならない人って、霊夢ぐらいしか……」
「うっさい! あんたの人脈が狭いだけで幻想郷は暇人どもの集団所帯よ!」
 お互いに躍起になって、障子を挟んで押し合いへし合いを繰り広げている。自分でもなにをばかなことをやっているんだろうとは思っていたが、もう後に引けるような雰囲気ではなかった。こうなったら意地でも霊夢に相談に乗ってもらう、というより、霊夢を除いて他にあてがない。悔しいかな、先程霊夢に言われた自分の人脈の狭さというものは否定できそうになかった。少なくとも今回のことでは彼女以外に頼れる人間がいないのだから。
 人間でなくては、だめだった。
 だって妖怪は、お見合いなんてしないのだから……

「霊夢ー、どうせ暇だろうから遊びにきてやったぜ……って感じじゃないみたいだな、お取り込み中か?」

 と、お互いに膠着状態が続いていたところへふと新しい声が飛び込んでくる。これもまた聞き慣れた声――魔法使い、霧雨魔理沙のそれだった。
「妖夢か? 珍しいな、お前が神社に来ているなんて」
「それはそのいろいろとありまして……それより魔理沙、助けてください! 霊夢が意地悪をして中に入れてくれないんです!」
 ふむ、と頷いて魔理沙が障子の向こうを見やる――手を貸したらしばく、と眼で訴える巫女がそこにいた。ちょっと女の子としてというか神職者としてアレな形相だと思う。こわい。こわすぎる。だが魔理沙はそんな霊夢の顔色を知ってか知らずか、私の後ろから腕を伸ばすと、ためらうことなく障子を開く方向へ力を込めた。
「――っ、きゃあっ!」
 さしもの霊夢も、私と魔理沙の二人がかりに抗しきることはできなかったらしい。さっきの表情からは想像もつかない可愛らしい悲鳴を上げると、そのまま前のめりにべしゃりと倒れこんできた。その身体の上を魔理沙がひょいと飛び越えていく。颯爽と家に上がりこんで部屋に居座るその姿は、図々しさを通り越していっそ堂々としていた。
「へっへー、霊夢、破れたりー」
「くっ、あんた憶えてなさいよ……」
「なんのことだかわからないな。それより妖夢、そんなところでぼさっと突っ立ってないで、お前も中に入ればいいだろう。また霊夢に締め出されたいのか」
 またも場の空気に流されるままになっていた(私も学習しないなぁ……)私に魔理沙が声をかけてくる。その言葉に甘えようとして、しかし腰を上げた霊夢と不意に視線が合った。気まずいことこの上ない。押しかけたこと、やはり怒っているんだろうか……そんな私の一瞬の葛藤は、きっとなにもかも表情に出ていたのだろう。霊夢は呆れたとばかりにため息をついて、それから身体をずらして私に入室を促した。
「相談事、あるんでしょう? お茶淹れてきてあげるからあがって待ってなさい」
「あ……ありがとうございます」
「はぁ、これも博麗の巫女の運命なのかしら」
 誰に向けたのかわからない不満を零して、霊夢は台所の方へと去っていった。その背中にもう一度だけ小さく会釈をしてから、私は魔理沙の斜め向かいに座って霊夢の帰りを待った。

 

「んで、妖夢はどうしてまた博麗神社に? お前、普段は冥界から出てくることなんてほとんどないってのに」
 霊夢が3人分のお茶を淹れ終えて戻ってくるなり、魔理沙は私に向けてそう話を振ってきた。それに続けて霊夢が「私もさっきはあんたの話適当に聞き流してたから、改めて聞かせてくれる?」と口にした。案の定とは思っていたけれど、面と向かって言い放たれると、けっこう胸にくるなあ、これ。
「えっと、なにから話せばいいものやら……とにかく私も動転してて、とりあえず誰かに話して落ち着きたいと思って、それで」
「年中暇を持て余しているであろう霊夢を訪ねたってわけか」
「暇、暇って二人して繰り返さないでよ。私は暇じゃないって何度言わせるの」
「違うならいったいなんだってんだよ」
「私はこう見えても日頃から修行の中に身を置いているの。具体的に言えば肉体活動を極限にまで控えて新陳代謝を抑える修行ね」
「カロリーまでは倹約しないでおけよ……おっと、今は霊夢の貧相なカラダのことなんてどうでもいいんだった。それで妖夢、お前が動転するほどの話とやら、聞かせてもらおうじゃないか」
 なんで魔理沙は地雷原を全速力で駆け抜けようとするのだろう。さっきのこともそうだけど霊夢に対して遠慮がなさ過ぎると思うのは気のせいだろうか。まぁ、そこは私が余計な口や手を出すところではあるまい。少なくとも魔理沙を三白眼で睨みつけてどこから包丁を入れれば上手く三枚におろせるかなんて真顔で検討している彼女の前に立ち塞がる度胸はなかった。
「その……話を聞いてほしいってこっちから押しかけておいて、それでこんなこと言い出すのもおかしいですけど……笑いませんか?」
「笑われるような話をしにきたのか? お前マゾなのか?」
「違いますっ! その、今にして思えば結構、恥ずかしいかもって……」
 どうしよう、今さらになって気恥ずかしくなってきた。今までは勢いに乗ったままぐんぐん押してきたけど、いざ腰を据えて話してみようと思うと想像以上に顔が赤くなっている自分がいる。熱でもあるんじゃないかって思うぐらい。
「あなた、顔赤いわよ。もしかして熱でもある? 今日の奇行の数々はひょっとして風邪のせいなのかしら?」
「え、いや、そんなことは、」
「だったら、笑ったりなんてしないから遠慮せず言いなさい。早くしないと、ふふ、相談相手が一人になっちゃっても知らないわよ?」
 なぜ最後に凄む必要があるのかわからないが、霊夢の言葉は踏みとどまっていた私の背中への最後の一押しになった。こうなれば、当たって砕けろだ。意を決して二人に向き直ると、彼女たちは穏やかな表情でもってこれに応えてくれた。
「今朝、幽々子さまに呼び出されてお話をしたんです。その、私の今後について」
 おずおずと切り出した私の話に、二人は少し意表を突かれたような顔をした。
「お前の今後って、もしかしてあれか、未熟が過ぎてついに庭師を首にさせられそうになったとか?」
「そういうことでは! ……いや、ある意味では、そういう話に繋がることでもあるのかもしれません……」
 思い返せば思い返すほど――幽々子さまの言葉を噛み締めるたび、胸が締め付けられるような気持ちになる。切なさ、とは違うと思った。だって、その感情がこれほどまでに痛みを伴うものだなんて考えたくなかったから。悲痛だった。心臓は高鳴るどころか、悲鳴をあげている。あの人の考えていることがわからない、そんな自分を、今日ほど恨めしく思ったことなんてなかった。
「妖夢……」
「あ、ごめんなさい、黙り込んじゃって」
「あなたのペースで話しなさい。ちょっとは、暇だったから、付き合ってあげるわ」
 やっぱり、今日この神社を訪ねたことは正解だったみたいだ。二人ともとても真摯に向き合ってくれている。これでは、妙な抵抗をしている私の方が不親切というものだ。気を取り直すべく私は居住まいを正す。そして今度こそ、私は今日持ちかけた相談事について、二人に向かってきっぱりと言い切ることができた。

「私、幽々子さまに言われたんです。お見合いをしなさい、って。一緒にお婿さんを決めましょう、って」

 それから暫時、三人の間に沈黙が流れた。私の伝えたいことは伝えた。だから後は二人の反応を待つだけ、なのだけれど、どうしたことか二人とも眼を真ん丸く見開いて、嘘だとでも言わんばかりの表情で私を見据えている。
 私、そんなに変なこと、言ったかなあ……
「お見合いって、はは、誰と、誰が?」
「ですから、私です。相手の方はまだ決まっていませんが……たぶん今頃、幽々子さまがあれでもないこれでもないと悩んでいるかと」
 どこか歯切れの悪い口調で魔理沙が言う。見ればその身体がわなわなと震えていた。ああ、笑いを堪えているのかな。やっぱり世間一般的にこんな話は笑いの種でしかないのかもしれない。そりゃ、当事者である私からしたら胃の痛くなる話でしかないのだけれど、傍から見るとそれすらも滑稽に見えるのかな、なんて。
 私がそんなふうに、自嘲気味な笑みを零そうとした時、
 魔理沙が切れた。
 切れやすい十代という言葉をその身で体現するかのごとく、咆哮した。
「うっ……、嘘だああぁぁぁっ!!」
 神社の壁という壁が震えあがる。卓上の湯のみはあわや転倒しかかり、天井からは埃の塊が落ちてきた。空気をつんざいたすさまじい轟音に、私も霊夢も耳を塞がずにはいられない。そんな私たち目掛けて、魔理沙はさらにまくし立てる。その顔はどうしてか半泣きだった。
「うそだうそだぁ!! な、なんだって妖夢がっ、お見合いなんて、わ、わたしよりも先にっ、私、差し置いて「うるっさい黙れ! 発狂しないでよみっともない!」
 あろうことか卓の上に片足を乗せようとまでした魔理沙の額に、霊夢の平手打ちが突き刺さる。ぱちぃん! と爽快な音が響き渡り、それがようやく魔理沙に正気を取り戻させたらしい。おでこに真っ赤な色を付けた魔理沙は、へなへなと萎れるように床に腰をつけた。
「妖夢……それ、本気で言ってるのか?」
「なんで私がこんなうそ言わなくちゃいけないんですか……私だって、冗談だったらどんなに気が楽になっただろうって、そう思いました。でも、幽々子さまの目は、本気だったんです。本気で、私にお見合いをしてもらおうって、考えているようでした」
 悪い夢でも見ているんじゃないかって、それは今この瞬間にだって頭の片隅で考えているとも。だけど、どんなにか夢から醒めようとしても、だめなのだ。あの瞬間の幽々子さまの言葉が消えてくれない。引き離そうとすればするほどに頭の中をがりがりと引っかいて、疼くような傷を私に刻んでいく。
 それがある限り、私は何度でも思い知らされるのだ。
 夢じゃない。
 うそでもない。
 それなら、いったいどうして――
「それにしても急な話ね。あんたの様子を見るに、前々から予兆があったとか、思わせぶりな雰囲気があったとか、そういうこともないみたいだし」
 いまだひとみに仰天の色を浮かべたままの魔理沙とは違い、霊夢はすっかり落ち着いた様子でそんな疑問を私に投げかけた。状況は理解できた、だが、そうなるに至った根拠がわからない。それについては、私は幽々子さまからある言葉をもらっていた。……もっともその言葉こそ、お見合いを受けること以上に、私の胸にまとわりつく心乱される感情の正体なのだけれど。
「仰るとおり、今回の話は私にとって青天の霹靂でした。ですが、それは幽々子さまにもそれなりの考えがあってのことで、」
「当たり前だ! こんなこと、たんなる思いつきなんかで済まされていい問題なもんか!」
 私の言葉を遮って魔理沙が声を張り上げる。さっきからやたらと感情の起伏が激しいように感じるのは思い過ごしだろうか。食いつきが良いというよりは、言葉の一々に過剰に反応してくるというか。
「だから、落ち着きなさいってば魔理沙。で、妖夢、幽々子があんたにお見合いをさせようと思った理由は、本人に確かめてみたんでしょうね?」
 そんな魔理沙を制しつつ、霊夢は整然とした態度で私に問う。私は小さく頷いてその質問に答えた。
「はい、屋敷を出てくる前に、直接」
「聞かせてもらえるかしら」
「わかりました、いえ、ぜひお話させてください。私一人ではもう、息が詰まりそうです……」
 すぅ、と深呼吸をひとつ。ありのままのことを伝えるために、私は今朝幽々子さまと交わしたやり取りをもう一度頭の中で振り返ることにした。あの薄い桜色の唇が紡いだ言葉を想起する。それだけのことでさえ、ほんの小さな棘となって、私の胸にちくりと鋭い刺激を残していった。


 ▽


「お見合いをするのは私じゃなくって、あなたよ、妖夢。
 あなたのお婿さん、一緒に決めましょう?」

 幽々子さまの表情は、細波ひとつない水面のようにとても穏やかなものだった。そんな顔で、さも当然のことであるかのように言われたものだから、私は幽々子さまの言葉に思わず、わかりましたと頷きそうになって――けれども、寸でのところで理性が理解を拒絶した。
 しれっとした顔で、この人はいったいなにを言い出すのだ?!
「ぇ、あ、幽々子さまっ、それはいったいどういうことですかっ!」
「どういうことって言われても。あなたもそろそろ身を固めても良い頃じゃないかって、思ったのだけれど。あなたももう、えっと、何歳だったかしら。とにかく長いこと生きたのだから、もう子どもではないでしょう? なら自分の将来についてしっかりとした計画を――」
「将来って……わ、私は今の生活に満足しておりますっ、これ以上、望むことなんて……」
 このまま流されたのではいけない、幽々子さまの一存で、なにか私の大切なものが失われてしまう気がする! そんな危機意識に駆られて、私は身を迫り出して幽々子さまに抗議の態度を示した。だが、そんな私の姿勢を幽々子さまは、きっぱりとした口調でもって諌めるのであった。
「妖夢、これはなにもあなただけに関係する問題ではないのよ」
「私だけじゃない、って……」
「魂魄家のため、と言えば、聡明なあなたならわかってくれるはずよね?」
 その口ぶりはどこか意地悪で、けれど、とても真剣な空気も一緒に孕んでいて。その言葉に私ははっとなる。幽々子さまが片鱗を覗かせてくれたおかげで、ようやく事の本質が見えてきた。幽々子さまの言い方は、私を嫁に出すのではなく、まるで入り婿を取るというようなものではなかったか。そうなると、いったいなにがどう変わるのだろう――いや、むしろ変わらないのだ。私の性は、魂魄の名は在るがまま。代々受け継がれてきた西行寺家庭師の名は――
 つまり、幽々子さまの言いたいことは、
「幽々子さまは、私に魂魄家の跡継ぎを残せと……そう仰りたいのですか?」
「そう、ね。いずれは、の話だけれど。でも、いずれの話をもう進めはじめたとしても早くはない、そんなところまであなたが成長をした、そういうことなのよ」
 全身に張り巡らせていた緊張が、瞬く間に弛緩してほどけていく。その脱力感に引きずられるように、私は床にへたり込んでしまった。自分の聴覚が信じられなかった。自分には関係ないと思っていた話、けれど、一度でも告げられてしまえば、すぐそこにある現実として意識せざるをえない話。卑怯だ。私は胸の中で、あってはいけないことだと思いつつも、幽々子さまを批難した。卑怯だ。こんなやり方は、ずるいよ!
「どう、して……いくらなんでも、唐突が過ぎます……」
「ごめんなさい、思いついたら行動せずにはいられなくなって。でもね、最近のあなたを見ていると、決して時期尚早な話でもないって思ったの。
 最近のあなた、あなたのお母さまとよく似てきているんだもの」
 ほんとうに、ずるいと思う。
 そんな言葉を出されてしまっては、私にはもう、どんな反論だって、できるはずがないじゃないか……
「あなたのお母さまが、あなたのお父さまと結ばれたのは、ちょうど今のあなたと変わらない年頃のことだったはずよ。よく憶えているわあ、とっても綺麗な花嫁姿でね、きらきらしていて、しあわせそうだった」
 それはきっと、幽々子さまから聞かされるはじめての“母”の記憶だったと思う。私が物心ついた時には、もうすでに私の周囲に両親の姿はなく、親しく接することができたのは先代と幽々子さまだけだった。そういうものだと、ずっと思っていた。はじめから両親のぬくもりを知らなければ、それを喪失しているという現実を寂しいと感じることなどできるはずがなくて。だからこそ私はこれまで、先代にも幽々子さまにも、自分の親の存在について問いただしたことはなかった。親の不在を疑問に思うことさえなかった。意味がなかったからだ。親を知らなくとも、私には家族とも呼べるかけがえのない人たちがいる。それで、十分だったのだ。
 だけれども幽々子さまは今、これまで触れずにいた話題になんの躊躇いもなく触れている。目を細め、昔日の想い出に浸っている。私の知りえない母の記憶に――ともすれば、知りたくもなかった、その事実に。
「きっとね、妖夢にもあの花嫁衣裳はよく似合うと思うの。お母さまそっくりだものね、あなた。うん、間違いないわ。あなたならお母さまとおなじくらい、いいえ、それ以上に素敵で、しあわせな花嫁になれるわ!」
 幽々子さまは屈託のない笑みを浮かべていた。そこに悪意や悪戯心など、微塵にも感じられるはずがない。ならば、今度のことはすべて幽々子さまの心からの善意なのだろう。私のことを想ってのこと。私のしあわせを願っての、お節介。
 だけど、
 私はその気持ちを、ありがとうございますと言って素直に受け取れるはずなんてなくて。
 戸惑ってしまって。
 わからなくて。
 不安で。
 怖くて。
「……妖夢?」
 なにも言葉を返さない私を不思議に思ったのか、私に呼びかけた幽々子さまの声には疑問符が浮かんでいる。私は重い腰をのろのろと持ち上げて、それから幽々子さまの方へと向き直った。きょとんとした表情がそこにあった。ついに私は、その無邪気な顔と目を合わせていられなくなった。
「考えさせて、ください……」
「ちょっと、妖夢、」
「――っ!」
 胸の中でなにかが爆ぜたような感覚があった。全身がびくりと跳ね上がって、気がつけばその反動のまま私は部屋を飛び出していた。背後から私を呼び止める声があったけれど、もう自分自身でさえこの衝動は抑えられそうにない。聞きたくなかった、知りたくなんてなかった! なんで? どうして? 駆けずりながら考えても、それらしい答えは浮かばない。やめよう、今はあの場所から遠ざかることだけを考えるんだ。追いつかれることのない、遠いところまで逃げ出して、そして――

 それから、どうすればいいっていうんだろう……
 私の“これから”は、どうなってしまうんだろう……


 ▽


 ――以上が、私が博麗神社に駆け込むに至った顛末だった。今にして思えば、最後の現実逃避は大失敗だったと思う。あれでは幽々子さまに私の気持ちをなにも伝えられていない。いきなり目の前から逃げ出されて、幽々子さま、きっと驚かれているだろうな……だけどもそれは、幽々子さまにだって大いに責任があるのだ。少なくとももっと段階を踏まえて話を進めてくれていれば、あんなに慌てることだって、
 いや、
 なにを言っても今さら、かな……
「跡継ぎ、ね」
 私が話を終えてから数分。沈黙によって停滞していた空気を破ったのは霊夢のその一声だった。
「まぁ、あいつの提示した理由としては思いの外まっとうね。別に急ぐような問題ではないけれど、いずれは考えなくてはいけないことだっていうのも確かなわけだし」
「お、おい霊夢、あいつの肩を持つのかよ?!」
「あら魔理沙、あなたは反対なの?」
 幽々子さまにも一理ある、そう霊夢が零したところで、その発言に魔理沙が素早く噛み付いた。どういうわけかその目には怒りの色を湛えている。とんでもないことだ、と今にも吼え立てんばかりだった。
「当たり前だ! 子どもに親の理想を――いや、この場合は主従関係だけど、とにかくっ、そんな勝手な期待を押し付けていいわけないだろう?!」
「あー、はいはい、そういえばあんたにとっては耳の痛い話かもね、これ」
「私は真面目に話をっ、」
「今は妖夢の立場で話を捉えることがたいせつよ。魔理沙の私情なんて知ったことですか」
 きっぱりとした声で霊夢が言い放つ。反論する材料もないのか、魔理沙は恨めしげに口を噤んだまま引っ込んだ。どうにもその様子からは他人事では済ませられないといった雰囲気を感じるのだが、そこに踏み込むのは藪を突ついて蛇を出すようなものだと思い、私は好奇心を押さえ込んだ。
 とにかく今は自分のことを優先して考えるべきだ。霊夢は、幽々子さまの考えも理解できる、というような発言をした。やはり客観的に見ると、私もそういったことについて真面目に考えなくてはいけない時期にあるのだろうか。
「跡継ぎって……私たちと違って妖夢は寿命もずっと長いんだぞ? 別に今でなくたって、もっと時間をかけて考えたって、」
「だからこそって、私は思わなくもないんだけどね。妖怪ってなまじ長生きでしょ、だからなんでも一人で完結しちゃうっていうか、後世になにかを残すことがへたくそっていうか。まだ時間はたっぷりある、なんてぐだぐだしているうちに、なんにも残せずに消えて行く輩が多い気がしてね。ま、そこは種族の違いってやつかしら。人間は世代を重ねること前提の生き物で、妖怪は一世代完結型、ってところかしら」
「……あの、それだと私、別に世継ぎを残す必要はないっていうふうに聞こえるんですけど」
「だからあんたんところはそうならないように、定期的に世代交代してたんじゃないの? 少なくとも今の話を聞いた限りであんたで3世代目。そして、そろそろ次世代のことを考えてもいいと幽々子が判断したから、今度の話が持ち上がった、違う?」
 あくまでも理路整然とした霊夢の口ぶりに、横槍を刺せそうな場所は見当たらない。もちろん、魂魄家の先代たちがそういった思惑を持っていたかどうかは霊夢の想像ではあるが、私自身がその実態を知らない以上、否定することもできないでいた。まったく、自分の家のことだというのに、第三者からこうも冷静に分析を下されるなんて。我ながら情けないと気落ちしかけたところで、しかし魔理沙の声が真っ向から霊夢に立ち向かった。
「そうかもしれない、しれないけど霊夢、それじゃあ妖夢の気持ちはどうなるんだよ? いきなり見ず知らずの野郎と結婚を前提にしたお付き合いを、なんて、私には耐えられない!」
「絵に描いたような感情論ね」
「ああそうだ、それのなにが悪い。家がどうだって言ったって、結局重要なのは当事者二人の気持ちだろ。その、なんだ……好きでもないやつの子どもなんて、産めないだろ」
「作るだけなら愛がなくたって勝手にできるじゃない」
「お前……」
「わかってるわよ、あなたの言いたいことくらい。私だって、できるなら円満にことが運ぶに越したことはないと思うわ。けれどね、そうも言ってられない、恋愛感情に目を瞑らなくてはならないことって、世の中には少なくないんじゃない。“妖夢の立場”で考えた時……幽々子が本気で結納を押し進めたとして、そこにどんな男が関わってこようと、妖夢には拒否することなんてできないのよ」
 二人の間で議論が白熱している。そのどちらともに、私は賛成も反論もすることができないでいた。だって、どちらとも理にかなっているから。西行寺家の従者としての私は、幽々子さまの決定に反を唱えることは許されない。しかし私個人としては、やはり知らない男性のことなど到底受け入れられないというのが本心なのだ。
 もちろん、その不安感を取り除くためにお見合いという段階を踏まえるというのは理解できる。
 だけど、やっぱり、そうじゃない、そうじゃないんだ、この気持ちは……
「こ、断れよっ! そんな自分勝手な主人なんて見限っちまえ!」
「あんたねぇ……少なくともこの場合、幽々子は妖夢のためを思って行動しているって考えるのが普通じゃない? 従者のしあわせを願えばこそってやつ。まぁ、価値観の相違は致し方ないけど、でも純粋な好意を向けられていることには違いないのよ。あんたはそれを足蹴にして拒絶するのかしら。それは、相手にとって相当のショックでしょうね」
「う、う゛うぅぅぅ……! とにかく私はこんなの反対だ! 反対反対はんたーい!!」
 理詰めでは霊夢に敵わないと悟るや否や、魔理沙は両手で卓をばんばんと叩いて駄々っ子のように暴れてみせた。そんな姿に私の口からは思わずため息が零れる。見れば、霊夢も呆れた表情を隠さなかった。
「自分で言うのもなんですが、本来は他人事のはずなのに、魔理沙の入れ込みようはすごいですね」
「あぁそれ? なんてことはないわ、ただの嫉妬よ、嫉妬」
 やれやれとばかりに霊夢が首を振る。嫉妬、とはなにに対してのことだろう。気になって問い返そうとしたところで、脇から魔理沙の狼狽した声が届いた。
「い、いい加減なこと言うな、霊夢! 私がなにに嫉妬してるってんだよ!」
「私は聞き逃さなかったわよ。なにが『私を差し置いて』なもんですか。自分のプライベートが順調でないからって、人の恋路を妨げようとするのは関心しないわね」
「それはっ、私は、妖夢のためを思ってだな……」
 みるみるうちに魔理沙の顔が赤くなって、さっきまでの勢いが萎縮していく。よくわからないが、なにか霊夢に痛烈な弱点を攻撃されているらしい。ほんとう、この巫女はこういうところに容赦がないのだ。敵にしたくないのはもちろん、味方に加えた後でも油断ならないなんて。
「あのドレス、いつになったら二回目の袖を通す日が来るのかしらねぇ!」
「~~~っ!!」
 そしてついに、声にならない叫びをあげて魔理沙は撃沈した。三角帽子を胸に抱えて顔を埋めて、そのまま肩を震わせて必死で羞恥に耐えている。よほど触れられたくないものだったんだろうなぁ、ご愁傷さま、としか私には言えないけれど。
 でも、そんな彼女の姿を見て、私の口からは思わず笑みが零れていた。
 くすりと。
 私もあれぐらい素直に感情を表現できたら、どれだけ素敵だろうって。
「ほら魔理沙、妖夢にも笑われてるわよ」
「い、生き恥だぁ! もういっそ殺せ!」
「いえ、ごめんなさい、笑うつもりじゃなくって……ただ、魔理沙の姿を見ていたら、少し気持ちが楽になりました」
「ですって、よかったわね魔理沙、あなたの犠牲が無駄にならなくて」
 追撃に加減がないのは、きっと最初に魔理沙にこけにされたことへの意趣返しなんだろうな、なんて、じゃれあう二人の姿にそんな感想を抱いた。
 どうやら、私がここを訪れたことは、大正解だったみたい。
 白玉楼を飛び出した時のあの鬱屈とした気持ちは、今ではすっかり鳴りを潜めていた。
 ひとしきり二人のやんちゃを見届けたところで、私はすっと席を立った。
「あれ、妖夢、もう帰っちまうのか?」
 今まさに霊夢に掴みかかろうとした魔理沙が、立ち上がった私を見て踏み止まる。恥ずかしさに赤く染まった顔は、年相応の可愛らしさを振りまいていた。
「えぇ、そろそろお暇しようかと思います。二人に話してよかった。だいぶ気が楽になりました」
「そうかしら。私たち、具体的な解決策なんてなにも話し合っていないと思うのだけれど」
「解決策なんていりませんよ。そもそも、策を講じてどうにかなる問題でもないと思いますし。ただ、幽々子さまともう一度向き合って話をするその勇気が持てた、それだけで私が今日ここにきた意味はありました」
 結局のところ、私はもう一度幽々子さまと話をしなくてはならないわけで。お見合いの話を引き受けるにしろ断るにしろ、私の意志を幽々子さまに伝えなければ先へは進めないのだから。ただ、自分の気持ちがどこにあるのか、私にとって不安なのはその一点だった。そこが不明瞭なままでは、私はきっとまた幽々子さまの勢いに流されるままになってしまうだろう。それではなにも意味がない。幽々子さまに押し切られてしまうにせよ、覚悟がつかないまま、なんていうのはいやだった。
「霊夢、あなたの言うとおり、私はあくまでも西行寺家の庭師の身に過ぎません。幽々子さまが一度取り決めたことには逆らえません。今度のことだって、ほんとうは幽々子さまが私に話を切り出した時点でほぼ決定事項だったんです。それなのにこうしてお屋敷を飛び出して、ここで泣き言を言っているのは私のわがまま……付き合わせてしまってごめんなさい。だけども少し、霊夢の言葉で目が覚めたような気分です」
「い、いや、私はそこまで言ったつもりじゃ……ただ、あなたが自分を見失いそうになってたから、少しきつい物言いになっただけで、うぅ……」
 きまりが悪くなったのか、霊夢は俯いてもごもごと口を濁らせる。その頬にはほんのりと赤みがかかっているのは、気のせいかな?
「魔理沙も、」
「はぇっ?」
「魔理沙も、ありがとう。私の味方になってくれて、私の気持ちがたいせつだって言ってくれて、嬉しかったです。魔理沙に触発されなければ、きっと私は幽々子さまに本心を押し隠したままでいたかもしれません。それが従者としては正しい姿勢なのかもしれなくても……私自身、それはいやだなって、思いました。だから幽々子さまにはちゃんと自分の気持ちを伝えることにします。勇気をありがとう、魔理沙」
「いや、改まって礼なんか、言うなよ。でもそうだな――健闘を期待してるぜ、妖夢」
「はいっ!」
 魔理沙は胸のすくような満面の笑みで私を送り出してくれた。それに続けて「ほら、お前も」とまだ俯き加減だった霊夢を私の方に押し出してくる。さっきよりもいっそう赤みを増した彼女は、どこかやりにくそうな、けれどもはっきりとした声色で「まぁ、頑張りなさいよ」と私の背中を押した。


 ▽


 白玉楼に戻った時には、すっかり日は暮れなずみ、夕焼けは今まさに地平に沈もうとしている瞬間だった。季節を終えた庭園の桜は今、その葉を西日に染め、あたりに燃え上がるような朱色を振りまいている。梢が微風に揺らされるたびその輝きは乱反射をして、視界をすぅっと細めさせた。
 その、光の乱舞の向こうに。
 透き通った身体に斜陽を浴びる彼女の姿を、私ははっきりと捉えていた。
「幽々子さま……」
「ようやく戻ったみたいね、妖夢」
 桜並木の中央を、幽々子さま音もなく私の方へと近づいてくる。どんな感情も読み取らせてもらえないその双眸に捉えられて、私は身じろぎ一つ取ることはできなかった。突然に屋敷を出て行ったこと、やっぱり、怒っているのかな。
「私の呼びつけを無視して飛び出して、こんなになるまで帰ってこないなんて、あまり誉められた行いではないわね」
「申し訳ありません」
「まぁいいわ。あなたのいない間に、やるべきことは済んでしまったし」
 やるべきこと、というのはやはりお見合いに関してのことなんだろうな。どうしよう、聞いてみるべきだろうか。この機会を見逃す手はないはずだ。
「それでその、幽々子さま、今朝のお見合いの件……なんですけど」
「うん? その話がどうかしたのかしら?」
「いや、どうかしたかと言われましても……」
 なんだろう、午前中はあんなにはしゃいだ様子だったのに、今はどうしてか反応が薄いような。私の行いのせいで機嫌を悪くされているのかな、だったらすぐにでも話を進めて気分を調子を上げないと、
「今朝、私を呼びつけてお話されたじゃないですか、魂魄家の跡継ぎのことで。それについて、もう一度幽々子さまとお話をしたい、と思っているのですけれど、」
「あぁ、そのことね。うぅん、と……」
 どうしてだろう、幽々子さまとどこか歯車が噛み合わない。まるで時期外れの話をしているような、終わった話を蒸し返されて困っているような――
 終わっているって、どうして。
 始まってすらいないのに?
「その、お見合いのことなんだけどね、妖夢」
「は、はいっ」
「できなくなっちゃった」
 だけどもこういう時ばかり、直感というものは抜群の的中率を誇るわけで。
 まるで私に誘導されたかのように、幽々子さまはその言葉を口にした。いつもの、ぽわんとしたあの口調で。それがあまりにも日常的過ぎたものだから、私はまた思わずそうですかと頷きそうに……ならなかった。それどころか、身体中の熱がさあっと引いていく、妙な悪寒が全身を駆け抜けた。いやだ、こんな感覚。凍えそうになる。指先の震えを抑え込もうと固く閉じた手は、決して誰かを傷つけるための握り拳を作ったのだとは思いたくない。
 この人は、
 なにを考えているんだろう。
 誰のことを、想っていてくれたんだろう……
「できなく、なったって……」
「あなたがいない間にね、私、ちょっと閻魔さまのところへ行ってきたのよ。お見合いをするにあたって、どうしても解決しなくちゃいけない問題があって」
「どういうことです?」
「ほら、冥界って、基本的に生きている人はお断りでしょう? 私たちは入り婿を取りたいわけだから、当然、相手には一度死んでもらわなくちゃいけないわけで。だから私閻魔さまにお願いしたのよ、妖夢の婿が決まったら、私がざっくり殺して霊魂はそのまま冥界に連れて帰ってもいいわよねって。そしたら、思いっきり怒られちゃった。そんなばかげた話を許してたまるものですか、って。妖夢のためなのに、いじわるな閻魔よね。でも、いくら説得をしてもあの閻魔の考えは変わらなかった。どうしようもなくなっちゃったから、仕方なく、この話はご破談よ。だって相手を連れて来れないんだもの、どうしようもないじゃない」
 幽々子さまの唇から紡がれる、その一言一言が、私を刺し穿つ矢のようだった。幽々子さまが言葉を発するたび、私の胸にはどうしようもない痛みが広がって、そのあまりの苛烈さに涙さえ溢れてきそうで。どこも傷つけられてなんていないはずなのに、血の一滴も流れていないのに、なにがここまで私に痛みを与えるんだろう……どうしてこんな理不尽な責め苦を受けなければならないのか、私は疼痛に揺らぐ頭で必死に考えた。どこかに理由を求めたかった。でなければ、私は従者として、きっと最低のことを仕出かしてしまうに違いないから。胸の奥底で、今にもはちきれそうなどす黒いものを、抑えずにいられなくなりそうだから。
 だから、私、頑張っていたのに……
 たくさんたくさん、我慢しようって思っていたのに!

「あーあ、なんだかつまらなかったわね」

 思っていたのに、この人は、私に協力なんてしてくれなくて。
 考えてもくれていなくて。
 きっと眼中にだって、なくて。

 とすん、と間の抜けた音がした。それは私の胸の真ん中から聞こえてきた。なんだろう、見てみると、なにか刃のようなものが私の身体を貫いていた。それは透明な、けれどどこまでも残酷な鋭利さを携えていた。私の身体に傷はなく、流れる血の一滴もなく、しかしそれは確実に、私の中のたいせつなものを、引き裂いた。
 その、あまりの、哀しさに。
 私はついに、嗚咽を堪えることができなくなってしまった。

「……に、……さい……」
「――、妖夢?」

「ばかにするのもいい加減にしてください!!」

 止め処ない、まるで濁流のように、押し殺していたものが喉をせり上がってくる。最後の抵抗さえままならず、私の口をついて出た雑言は幽々子さまへと浴びせられた。主人への、はじめての反発。なにがあっても西行寺の娘を守りなさいと、先代との約束を反故にしてしまった自分が悔しくて――それとおなじくらい、私をそんな気持ちにさせた目の前の彼女のことが、恨めしかった。
「どうして私の気持ちを考えてはくれないのですか……どうしようもないって、つまらなかったって、幽々子さまにとって私はその程度のことだったんですか……。魂魄の家のこと、真剣に考えてくれたのではなかったんですか。私のしあわせを願ってくれたわけじゃないんですか。なにもかも気まぐれですか。誰かに諌められたら、飽きが回ったら、簡単に放り出してしまえるくらいのこと、だったんですか……」
 くしゃくしゃに濡れた視界は、もう彼女の表情はおろか、輪郭さえまともに映すことはできなくて。泣き腫らした顔を晒すのがいやで私は俯く、そうすると目じりから大粒の涙がひとつ零れ落ちて、後はもう決壊した涙腺をどうにかする術なんてなかった。涙の粒が砂利をうつ、その微かな音にさえ、呻くような私の訴えは今にも掻き消されてしまいそうだった。
「私が、今日、どんな気持ちで過ごしていたかわかりますか……不安だったんです。恐怖さえ、感じたんです。だって私、そういうこと、全然わからないし。男の人と話したことだって、ほんとうに数えるくらいしかないのに、いきなりお見合いだって、誰かを選んでみろって言われて……そんなこと、私にどうにかできるわけ、ないじゃないですか。戸惑うに決まってるじゃないですか。そんな簡単に受け入れられるわけないじゃないですか!
 なのに、幽々子さま、お一人でもどんどん話を進めてしまって……私、どうしていいかわからなくなって、逃げ出さずにはいられなくなりました。なにも言わずにお屋敷を飛び出したことは、謝ります。だけど、飛び出してよかったって、今ではそう思ってるんです。私、あの後ある人たちに今回のことをお話したんです。その人たちは、とても親身になって相談に乗ってくれました。他人事なのに、まるで自分たちの一大事みたいに真剣に。ちゃんと自分の考えを持っていて、互いにそれを主張しあって、そんな二人を見て私、こんな自分じゃだめだって思いました。私もちゃんと向き合って、自分の意志を持たなくちゃって。もう一度幽々子さまと話をしてみよう、私の抱えている不安や躊躇いを、ちゃんと隠さずに話しておこうって、決めていたのに……
 なのに、いきなりおしまいってなんですか。それじゃあ、私が今日、ずうっと悩んで考えて、胸を痛めて、それでも幽々子さまのため魂魄家のため私の未来のためって、思いつめていたのはなんだったんですか……無駄、じゃないですか。全部ぜんぶ、意味なんてなかったじゃないですか……ばかみたい、私。ほんとうに、私、なにがしたかったんだろうっ……」
 悔しさに、虚しさに、申し訳なさまで加わって。霊夢と魔理沙にあれだけ励ましてもらったのに、こんな結果なんて、ないよ……。あの二人に顔向けができない。もう一度向き合うなんて言っておきながら、そもそも話が終わってしまっていただなんて、こんなにくだらない話があるだろうか。きっと呆れられてしまうだろう。次に二人に会うことがあった時、私はどんな顔をしていればいいっていうの?
 不甲斐なさが身体じゅうを押し潰して、息の詰まりそうな錯覚に襲われる。そのまま窒息してしまえばいいのにと、私は心の底から懇願した。私なんて、惨めな想いごと消えてなくなってしまえばいいのに。私なんていなくても困らない、どうでもいい存在だって、幽々子さまはその言葉でもって証明してくれたのだから。
 なら、もう、頑張らなくたっていいじゃないか。
 潰れてしまえば、よかったのに。
「……妖夢」
 鼓膜を震わせる、その滑らかな声さえも、今となっては心掻き乱す雑音の一つに過ぎない。私の名前を呼ばないで。どうでもいいなら、もう気にかけることなんてしないで。そう胸中で願っても、言葉にしない想いは伝わるはずもなく。幽々子さまは、相変わらず感情の読めない声で私の名前を呼んだ。
「妖夢、顔を上げてちょうだい」
「……ゃ、です……」
「うぅん、困ったわねぇ」
 こんなみっともない顔を、どうして幽々子さまに向けられるっていうんだろう。どうしてこんな些細なことでさえ、私の気持ちを汲んではくれないんだろう。よもや私の胸中を支配するものは、主人に対するどうしようもない失意ばかりだった。相思相愛の関係を望んでいたわけじゃない、ただ、ほんの少しでも私に対する配慮があってくれればと思ったまでのこと。それは高望みなの? 従者には、自分の意見を唱えることさえ許されないの?
 そんな薄暗い感情に思考のほとんどが呑まれかけた時、ふと、衣擦れの音が耳に届いた。平手でも振りかざされるのかな、いいさ、きっとその方が私の目だって醒めてくれるに違いない。悪い夢は、その根源となった人のおかげで終わるのだ。ぷっつりと。裁断するように。
 そのはず、だったのに。
「あなたが、顔を上げてくれないと」
「……っ」
「私が、頭を下げることができないじゃない」
 ――ありえない言葉が聞こえた気がして、全身の震えが一瞬にして止んだ。今、この人はなんと口にした。頭を下げるって、まさか、だって相手は幽々子さまだぞ? 西行寺家のお嬢さまが、誰にどうして頭を下げるって。あぁ、またからかわれているんだ。だって考えられないもの。考えてもくれていないはずだもの。私のことなんて、意にも介していないなら……
 だけども、彼女の声色の真摯なことといったら、そこに普段の宙を相手にしているような印象はどこにもなくて。しっかりとした口調で、ともすればなにか責任感のようなものさえ感じられて。おずおずと、私は伏せていた顔を持ち上げる。ふっ、と風が吹いて、涙に濡れた視界が少しだけ乾くと、そこには深々と頭を垂れる主の姿が映り込んだ。
 あの華奢な腰がこんなに折れ曲がったところなんて、見たことがない。
 透くような桜色の髪を見下ろすことがあるなんて、考えたこともない。
「……やだ、やめて、ください」
「………」
「あなたは西行寺の娘ではありませんか! そんな人が、一介の庭師に頭を下げるなんてことっ……」
 違うのだ。謝罪を求めたわけじゃないんだ。この場で謝意を受け取ったって、私はきっとそれを真っ直ぐに捉えることなんてできそうにない。私はただ、理解をしてもらいたかっただけ。今日私が感じたこと、考えたこと、それを幽々子さまにもわかってほしかった。
 だから、幽々子さまが私の縁談をあっさりと打ち切った時、つまらない、と吐き捨てた時。
 私はせっかく見つめなおした自分というものを、どこに置けばいいのか、まったくわからなくなってしまったんだ。
「いいえ、謝らなくちゃだめなの。どうやら私は、家や跡継ぎなんてことより、ずうっとたいせつなことを失念していたみたいなんだもの」
「それ、は……」
 下げられていた頭がゆっくりと持ち上がる。淀みのないひとみに、泣き濡れた自分の顔が大写しになって、そのあまりのみっともなさにますます目の奥が熱くなった。もういやだ、こんな仕打ち。自分の子どもっぽさばかり際立って、これじゃどっちが責められていたかもわかりやしない。
 そんな羞恥に身悶えるあまり、今にも彼女の前から逃げ出したくなって。けれども、その衝動が達せられることはなかった。気がつけば、私の身体はなにか冷たい感触に包まれていたのだ。冷たくて、けれど羽毛のように柔らかい不思議な感覚。
 それが幽々子さまの腕の中だと気付くのと同時に、私の耳には、いっとうやさしい声が届けられた。

「あなたも、女の子、だものね」

 どうして、
 どうしてこの人は、こんなにも意地が悪いのか。
 私のことをなんにもわかっていないふうで、けれど、最後には私の望んでいた言葉をくれて。
 とても、ずるいと思う……
「庭師である前に、魂魄妖夢である前に、あなたは一人の女の子で。怖いに決まってるわよね、わたしだって、怖いもの。見ず知らずの異性に会うのは、まして結婚だなんて、おそろしいことよね」
「幽々子、さま……」
「軽薄が過ぎたことは、謝るわ。ごめんなさい。だけど、魂魄の家のことを考えていたのはほんとうよ。いずれはちゃんと考えなくてはいけない、そのことだけは、あなたにもしっかりと憶えていてもらいたいわ」
「……はい」
 冷たい腕に引き絞られて、その胸の中にぎゅっと埋められてしまう。泣き腫らして火照った顔に、その体温はとても心地の良いものだった。ざわめいていた心がようやく落ち着きを取り戻していく。そうすると、今度はまた別の気恥ずかしさが、胸の片隅でちりちりと燻るのを感じていた。
「ねぇ、妖夢、私を許してくれるかしら?」
「許すだなんて、そんな……畏れ多いです、私、幽々子さまに反駁してしまったのに……」
「いいのよ、あなたの言葉のおかげで私も目が覚めたわ。それに考えてみれば、あなたを誰かの手に渡してしまうなんて、とんでもないことよね」
 私を胸に抱いたままで、幽々子さまはそんなことを笑いながら言う。あなたは私のもの、なんて、そんな台詞が脳裡を過ぎった。私は幽々子さまのもの、なのかな。庭師であり、妖夢であり、女の子である私は、幽々子さまにとって、どんな存在なんだろう。
 ふと、胸に抱いたその疑問に。
 幽々子さまはやはり幽々子さまらしく、私の想像を絶する言葉を返すのだった。

「だって、妖夢は私の嫁だもの」

 せっかく冷めたはずの熱がもう一度ぶり返して、今度はほんとうに身体が灼けてしまうかと思った。しれっとした声で、この人はなんてことを口にするんだ! また、たちの悪い冗談をっ――
「な、あ、幽々子さまっ、なにを言い出すんです!? また冗談を言って、私をからかうのですか!」
「違うわよ、紫に教えてもらったの。外の世界では、いとおしく想う相手のことを“私の嫁”というふうに表現するんですって」
「そんなの、からかわれているに決まってるじゃないですかっ」
「ふふ、そうかもしれないわね。でも、私、気に入っちゃったわ。あなたは私の嫁。うん、とっても素敵ね」
 最後の最後までまったく読めない人だ。もしかすると、私が抗弁をするところまで、なにもかも計算済みだったの? そこまで底意地の悪い人だとは思いたくなかったけれど、でも私の心はすっかり彼女に呑み込まれてしまっていて。抜け出そうにも、私を抱きしめるこの腕からは逃れられそうにない。逃れられるはずがない。こんなにか熱を帯びた顔なんて、見せられるわけがなくて。

 ううん、
 変な意地を張るのは、もうやめよう。
 ここにいたかったのだ。
 とても、満たされた気持ちだったんだ。

 私が彼女のお嫁さんだと言うのなら、
 私の居場所は、この腕の中で間違っていないよね?

 

 

 

 後日談

「ねぇ、ほんとうに行くの……?」
「様子が気になるから見に行きましょうって、言い出したのはお前だぜ霊夢。今さらやめたなんて言うなよな」
「それはそうだけど……うぅ、不安だわ」
 白玉楼の広大な庭園を、二人の少女が肩を並べて歩んでいる。片や紅白、片や黒白の衣装に身を包んだ二人は、時折庭園を見渡して、ある人物の姿を探していた。
「見当たらないわね、妖夢の姿……いつも庭仕事してるって言ってたのに」
「まぁこれだけ広いんだから、探しはじめてすぐ会えるってほうが稀有なもんだぜ」
「そうだと良いんだけど――ん、あの後姿って……もしかして、幽々子じゃないかしら?」
「おお? ボスをお先に発見か?」
 巫女服の少女が指を指した先には、葉桜をぼんやりと眺める女性の姿があった。その身体の輪郭は儚く、どこか希薄な存在感を湛えている。その人はこの庭園の持ち主であり、また彼女たちが探していた庭師の主人でもあった。
「あら、これはまた珍しいお客さまね」
「久しいな、邪魔してるぜ」
「こんにちは。ところであなたのところの庭師を探しているんだけど、どこにいるか知らないかしら」
 庭園を管理しているはずの庭師の少女の行方を二人は訊ねる。ほんとうはもっと突っ込んで聞きたい話もあったが、いきなり踏み込んでゆくのは気が引けた。まずは自分たちが相談に乗った少女の様子を知りたい。そう思い、二人は声をかけたのだが、
「庭師……庭師ってなあに?」
 相手は不思議そうな顔をして、そんな言葉を返してみせたのだった。
「お、おいおい、冗談きついな……お前の家で雇ってた庭師だよ! まさか忘れたとは言わせないぜ!」
「たしかにお庭番の人がいたことはあるけれど、今はそんな人、いないわ」
「……うそ、でしょう」
 想定外――否、想定することすら躊躇われた台詞を返されて二人は絶句する。よもや自分たちがけしかけてしまったせいで、あの庭師は首を切られてしまったのでは……一抹の不安が過ぎり、二人は慌てて庭師の行方を訊ねた。
「よ、妖夢は今どこにいる! 行方も知らないなんて、言うなよ?!」
「答えようによってはあんたを制裁しなくっちゃね……さぁ、教えなさい!」
 いきり立って声を荒げる二人。しかし対する少女はあくまでも涼しげな様子で、二人の質問に淡々と答えた。
「妖夢なら、うちにいるけれど」
「……えっと、追い出したわけじゃ、ないの?」
「なんで私が妖夢を追い出すなんて、そんなかわいそうなことしなくちゃならないの」
「だってあんた、今庭師はいないって、」
「庭師はいないけど、妖夢はいるわ。でも、妖夢は庭のお手入れをよくしてくれているわね。そういう意味じゃ、あの子は庭師なのかしら?」
 噛み合わない会話に二人は眉をひそめる。千年を生きたこの亡霊少女もついに痴呆がはじまってしまったのか、二人が小声を交わしていると、そこへ彼女の穏やかな声が届く。その発言は、思考回路に致命的なダメージを与えるほどに、春めいていた。
「でもまぁ、うちの妖夢を庭師呼ばわりされるのは、あまり気分がよくないわね。あの子は私の嫁なのだから、そんな主従関係みたいに言われるのは、」
「いや、いやいやいや、そうだから! 主従だから! って、嫁?!」
 明後日の方向の回答が返ってきたというレベルではなく。まるで異次元の住人を相手にしているかのような錯覚に、少女たちの頭脳は一瞬にして混乱に支配された。あの後、いったいなにがあったのだ?! 真相を知りたい好奇心とは裏腹に、深く突っ込んではいけないという予感が思いを留まらせる。
「あー、その、なんだ。とにかく妖夢はこの屋敷にいるんだな?」
「ええ、いるわ」
「庭師ではない」
「違うわね」
「でも庭仕事はしている」
「とてもよくお手入れをしてくれるのよ」
「……それでその、嫁、なのか?」
「妖夢は私のお嫁さんよ。知らなかったの?」
「………」
「………」
「……いや、もういい。邪魔して悪かった」
 お見合いはどうなったのか妖夢とは話し合ったのか跡継ぎはどうなったのか、聞きたいことは山とあれど、二人はその言葉をぐっと飲み込んで消化した。やめよう。幻想郷は広い。どうやら自分たちの知らない世界というものがこの世の中にはまだまだあるらしい。すごいな、幻想郷。守備範囲広すぎだ。
 ぽやんとした表情の彼女を一人残し、黙って踵を返して二人は庭園を後にした。長い長い白玉楼階段を降りていく二人の心は、しかし今日、大人の階段を一段踏みしめたのであった。





 


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