□ReSTARt 第四話
その気持ちに気づいた日から、私はちょっとだけ前向きになることができたと思う。
私はこんな眼、気持ち悪くて仕方がないけれど。
だけどもいつかこの眼を――こんな私を好きになってくれる人ができたなら、それはどんなにか素敵なことだろう。
ねぇ、これから会うかもしれない、誰か。
どうか私を、好きになってくれませんか。
▽
頭が重い。脳みその代わりに、土嚢かなにかをぎゅうぎゅうに押し詰められているみたい。目が覚めたという自覚はあるのに、思考は遅々として回らず、閉じた目蓋を押し上げるだけの命令さえ中枢からは発せられなかった。ここはどこだろう。私はたしか、蓮子と一緒に車に乗り込んで、タイムトラベルの留意点について確認をして、それから……
「――ら、……ねぇ、メリーったら!」
唐突に体が揺れる。重心のバランスを崩した頭部がそのまま崩れ落ちそうになり――けれどなにか柔らかな感触がそれを寸でのところで抱きとめた。やわらかな匂いが鼻腔をくすぐる。その微かな刺激に、鈍重だった体の感覚がふっと軽くなっていくのを感じた。
「……蓮子。私、いったい……」
「大丈夫、私もあなたも眠っていただけみたい。……へへ、車中泊、しちゃった。なんだか貧乏旅行みたいで楽しいね」
「なにを言っているの。ここはどこなのよ」
「変わってないよ。駐車場の、車の中。だけど空を見て、もう明けはじめてる――」
慣れ親しんだ声を聞いて、ようやく私を抱きかかえる腕の持ち主を理解した。混然としていた記憶が一本の糸として繋がっていく。私たちはあれから境界を開こうとして――そのまま、意識を失ってしまったのか。彼女に言われて窓の外を見ていると、宵闇を広げていたはずの空はすっかり白みはじめており、目に鮮やかだった星々は今まさに暁光に塗り潰されんとする瞬間だった。
……失敗、してしまったのだろうか。
車内の様子に変わったところは見られない。私や彼女の体にもなにか目立つような変化はなかったし、強いていえばあのねっとりとした重苦しい空気が一掃されていることぐらい。上手く、いかなかった? にわかに不安が募りはじめ、隣にいた彼女の顔色を確かめようとして――けれども彼女はきょとんとした表情で、車外をぼんやりと眺めるばかりだった。
「どうかしたの、蓮子。なにかおかしなことでも、」
「――桜だ」
ぽかんとした口調で呟いて、彼女はフロントガラスの向こうを指さした。すらりと伸びる指を目で追っていくと、彼女の言葉の意味にすぐに気がつく。ガラスの上に点々と残された薄桃色の口づけの跡は、私たちの脳裏にある季節を想起させるには充分な刺激だった。
野外を飾る、春色の花弁。桜だ。この学校の外周にもいくらか植えられている、日本の代表的な春の花。
春――入学式の日の、朝。
「まさか、こんなことって……」
「……真実だよ、メリー。間違いないこれは夢なんかじゃない! 桜だ! 春になってる!」
抱きあっていた体を離し、二人で慌てて車外へと飛び出していく。途端、空気の違いをまず嗅覚で知った。肌寒い朝の風の中にも、仄かな草緑の香りを感じることができる。
理由は簡単だ。
冬の訪れを報せる木枯らしを吹かせていたはずの大学のキャンパスは今、咲き誇る桜並木の絶景に囲まれていた。
「秋、だったわよね。私たちが元居た時間は」
「ほんとうに操れた……望んだ時間に跳ぶことができたんだ! すごいよメリー! 私たち、タイムトラベルしちゃってる!」
歓喜の声が辺りに響く。それに応じるように、桜の梢がざわりと枝をしならせたのは、果たしてこの偉業に対する喝采のつもりだったのだろうか、それとも、あるいは。
「嬉しい気持ちはわかるけれど、いつまでもここで花見をしているわけにもいかないんじゃないかしら」
「っと、そうだね。まだずいぶんと早朝みたいだけど……今日は入学式なんだから、これから人の出入りはどんどん増えるのか」
「あまり人目に付くべきではない、だったかしら。日が昇りきる前に、どこか人気のないところに場所を移したほうが良さそうね」
学生と職員の多くが利用する南側ゲートと比べると、東駐車場付近を通行する人の影はずいぶんと少ない。それでも念には念を入れて、早いうちに身を隠してしまうに越したことはないだろう。できることなら、そこから“私たち”の観測ができることがベストだ。
「急ごうか。……と、車はここに置いていくしかないかなぁ。目立つことこの上ないけど」
自動車の方を振り返り、彼女は小さく嘆息をついた。広々とした駐車場の端に、一台だけぽつんと置き去りにされたアンティーク。周囲の風景との違和感はありまくりで、否応なしに注目せずにはいられない。念のためということで彼女が鍵を取り出してロックを掛け直したものの、レッカー移動されてしまえばそれまでという不安は残る。
「来場者の一部が自家用車で乗り付けて、その中に上手く紛れてくれれば……というのは、希望的観測が過ぎるかしらね」
「最悪、車は置いていこう。あくまでもメリーの気が紛れればそれでいいやって感じで用意したものだし。こうやって一度成功したんだから、もうモチーフがなくたって境界、創れるよね?」
父親から借りた車ではなかったのだろうか。そんな事実はすっかり頭から消し飛んで、彼女の中であれはもう九割方自分の所有物という位置付けになっているようである。ものを貸したきり返ってこないパターンの典型だ。
思考はすっかりご機嫌モードに切り替わってしまったらしい。期待と好奇に満ちた目が、じっと私の顔を覗きこんでいる。心配していることなどひとつもないというふうに、私を信用しきった眼差しだった。
私の、能力を。
彼女は疑いもしない。
「身も蓋もないこと言ったわね。……まぁ、感覚は掴めたと思うけれど」
「じゃ、心配することなんてないね。行きましょ行きましょ」
創る。描き出す。行き先を強く脳裏にイメージすることで、まるで世界の方が想像にあわせて改変をはじめるようで。理屈や仕組みを完全に理解できたわけではないけれど、もう一度おなじ過程をなぞることは、きっと造作もない行為だろう。そんな直感が頭の中にある。
思い願うだけで、世界を書き換えるこの異能。
私は、妖怪になったのか。
それともまだ、人間の座に留まっているのか。
そんな思考が回りはじめるよりも先に、彼女は私の手を引いて駆け出してしまっていた。考えたって仕方がない、考えることに意味なんてない。私の先を行く彼女の背中は、そんな答えを私に投げかけてくれているかのようにも見えて。
あぁ、またすぐにそうやって、ネガティブなことばかり考え出して。
ありがとう、蓮子。
やっぱり私、あなたがいないと、だめみたい。
▽
校舎の周りをうろうろしていると、早朝から出勤してきた職員の姿を運良く見かけることができた。彼が鍵を開けたのを見計らって、職員用の通用口から忍び込む。二人で足を忍ばせてのスニーキングごっこは、まるでスパイ映画の主人公にでもなった気分だった。敵に見つかったらゲームオーバーで、銃で撃たれたりはしないけれども、タイムパラドックスによって私たちは存在を末梢されてしまう。なんて想像は、やはり蓮子には大受けしたらしい。さっきから目に浮かべた光には真剣さと好奇心が入り混じり、廊下の角を曲がる時などは、わざわざ壁に背中を張り付けてから、顔だけ覗かせて慎重に安全確認を行う始末だった。
「――クリア!」
「なにやってるのよ」
「いや、なんだかこれをやらずにはいられなくって」
「そんな大声出したら余計に見つかりやすくなるでしょう、廊下、音響くんだから。堂々としていればいいのよ。入学式まではまだ時間があるんだし、少なくとも“私たち”に遭遇する危険はゼロよ」
早朝の校舎を舞台に、私たちはおかしなサークル活動を繰り広げる。徐々に目に付きはじめた職員の影を逃れつつ、当日の自分たちの行動をおぼろげな記憶の中から引き出しながら、理想のポイントを模索していく。傍から見れば浮かれた学生がばか騒ぎをしているようにしか見えないのに、それが実はタイムパラドックスに命を狙われながらの大冒険だなんて、いったいどこの誰が信じることができるだろう。
そんなふざけた活動が、どうしようもなく楽しい。
幻想を追い求めるのではない、むしろ自分たちこそがここに在ってはならない幻想の存在となって、なにも知らない私たちを観察することになるなんて。“この時”は、まさか自分がこんな未来を歩むことになるだなんて、想像も予想もつけられるはずがなかった。秘封倶楽部を創るという発想さえ、抱いてはいなかった。ねぇ、昔の私。信じられるかしら。これからあなたは未来の自分に、蓮子に、指をさされて笑い飛ばされることになるんだって。若いわね、なんて言われて。お酒の味も知らないお子さまだってばかにされて。
そしていずれ自分たちが、今の私たちとおなじ立場に立つことになるなんて。
ほんとう、笑えちゃうよ。
「んー、やっぱりあそこしかないかなぁ」
ひとしきり校舎を歩き回っては見たものの、なかなか条件に適した場所は見つからない。時間の経過と共に構内は教職員以外に学生の姿もちらほらと見受けられるようになり、人目を避けて移動することも難しくなってきた。もう悪ふざけをしている余裕はないだろう。
「なにか思い当たる節でもあるの」
「一つね。付いてきてくれる?」
「もちろん」
くるりと振り返って、廊下を行く彼女の後を追う。学生ホールを迂回し、新入生控え室のある二号館を避け、キャンバスの外れを目指して歩く。彼女がどこへ向かおうとしているのか、察しはすぐについた。
「ねぐらに向かうのね?」
「うん。今日は入学式の手伝いに借り出された学生以外在校生は少ないはずだし、それにあそこはもともと人があんまり寄り付かないからね。それに私、天文部の子に聞いたことがあるんだ。屋上の鍵を隠しておくのは昔からの伝統なんだって。だから――」
六号館の階段を一段飛ばしで駆け上がり、向かった先はねぐらの屋上だった。敷地内を一望できるあの場所からは、南側に位置する正門の様子もはっきりと確認することができる。しばらくすれば登校してくるだろう私たちの姿も見つけやすいだろう。そんなふうに意気込んだ私たちは階段を上ってゆく足取りをよりいっそう軽くする。最後の階段の急勾配もなんのその、校舎中を歩き回った疲労はすっかりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「……あった。こんな昔から鍵を隠し続けていたんだ」
蓮子が手すりの裏を確かめると、そこには“未来”と変わらず屋上の扉の鍵が貼り付けてあった。かの部の悪習にはどうやら相当長い歴史があるらしい。連綿と風習を受け継いできた歴代部員たちには心の中で賛辞の言葉を送っておくことにしよう。
「天文同好会もずいぶんいい加減な活動をしているわね。こんな有様じゃ、ねぐらに押し込まれたって仕方がないわ」
「でも助かった。これで問題なく観察ができるよ」
鍵を拝借した彼女が扉を開く。屋上に吹き渡る風の感触は、過去でも未来でも変わりないように思えた。風を孕んでふわりと髪が舞い上がる。吹き飛ばされかけた帽子を片手で抑えて、彼女はきゃあきゃあとはしゃいだ声をあげていた。
「見てよメリー。絶景だわ!」
弾むような足取りで、彼女は転落防止用のフェンスの傍に駆け寄っていく。金網の向こうにはキャンバスの全景が一望できた。外周は淡い桜色に彩られ、時折吹き抜けていく春風が桜の花弁を掬い上げて宙に舞い上がらせている。東の空から差し込む陽光が地吹雪に照り返って、鮮やかさにいっそう拍車をかけていた。
そんな春めいた景色の中を歩んでくる人の姿は時間と共に増えはじめ、十数分もすると正門の周辺は多くの人手で賑わい出した。みな一様に卸したてのスーツを羽織っている。新入生と、その家族であろうことは一目見てわかった。入学式の開式を待つまでの合間に、朝焼けに映える桜並木を目に焼きつけているらしい。
今日という日は、きっと誰にとっても特別な一日だ。
新しい生活のはじまりを告げる日。
未来を、選んだ瞬間。
「なんだか変な感じ。あそこにいる人たち、みんな私たちの同級生なんだよ」
「遠くて顔がよくわからないのが残念ね。見比べて、四年間で人がどれだけ老けるかを確かめてみたかったのに」
「ひどいことをする」
「あ、見なさいよ蓮子。あの白衣を着た後姿、あなたのところの教授じゃないかしら」
「どれ? ……ほんとうだ。うわ、今も昔も全然変わってないよ。あの丈のあってない白衣、間違いないね」
しばらくの間そうやって見覚えのある影を探しては、未来とのギャップに笑ったり驚いたりしていた。彼らの中の、未来の白地図はまだなにも書き込まれていないまま。だけども私たちは、これからそこに描かれていくことになる出来事や想い出をなにもかも知っている。門の端と端とで別々のグループの中心となっている二人はそれから一年後に恋人同士になるし、ひとりぽつんと外れて桜の樹を眺めている女の子が三年連続で学年主席を取るほどの秀才だったなんて、この時はまだ誰も予想だにしていないだろう。志半ばで学校を辞めていった人の顔もある。どんな事情があったかわからないけれど、この時の彼はまだ喜びに満ち溢れている様子が、ここまで伝わってくるかのようだった。
彼らは、なにも知らない。
私たちだけが知っている。この先に待ち受ける楽しみや悲しみ、幸運な偶然や、不幸な事故の存在さえ。だけれどもそんなのは当たり前のことだ。無知であることこそ普通なのだから。未来のことなんてわからない。わかってはいけない。誰かがレールを敷いていいものじゃない。あなたは将来しあわせになりますよ、なんて、言っちゃいけない。
だけど、そんな彼らをこの屋上からこうやって見下ろしていると。
ぽつりと、呟いてみたくなる。
あなたたちの運命を知っている――なんて陳腐な言葉を、お腹の底から力を込めて、思いきり。
「どうしたの、メリー」
「……え、」
「なんだか難しい顔してるように見えるけど……調子でもわるい?」
胸の内の重苦しいものが表に出てしまっていたのか、彼女は私の顔を見てそんな言葉をかけてくれた。こんな調子じゃいけないな、下はあんなにも和気藹々とした雰囲気なんだもの、その活気のおこぼれに与るぐらいの気持ちでいないと、楽しむものも楽しめない。
「そんなこと、ないわ。すこし動き回ったから、疲れてしまったのかもね」
「そっか。――そろそろ“来る”時間だと思うからさ、メリーもこっち来て、一緒に見てようよ」
微笑して、彼女は私を手招きしてさらに屋上の端の方へと身を寄せる。門前にたむろしていた一団は次第に捌け、校舎の中へと場所を移しはじめていた。開式の時間が迫ってきたので、みな待機場所の教室に移動して行ったのだろう。数分と経たずして人気のなくなった並木道には、風に攫われてきた桜の花弁だけが取り残された。
途端に、世界中から人がいなくなる。通りを走る車の流れもぷっつりと途絶えて、あたかも自分たちだけが周囲の空間から隔絶されてしまったような感覚が湧きあがって。
世界には、私と彼女の二人きり。
それは“今”も、そしてかつての“過去”も、変わりなくて。
「――メリー」
ぽつりと、彼女が私の名前を呟いた。けれどもそれは私を指す言葉でありながら、私に向けられたものではなくて。彼女の視線は眼下に向けられていた。さっきまでの喧騒をどこかへ片付けてしまった後の、空虚感の漂う桜並木の下――女の子が一人、門の前でじっと立ち尽くしていた。いつからそこにいたのだろう。先ほどの群集の中に紛れていたのか、それとも目を離した隙に通りの向こうから歩いてやってきたのか。……いや、たいせつなのはきっとそんなことではなくて。
どうして彼女は門を通らないのだろう。
どうして、通れなかったんだっけ。
ねぇ……私?
「ほんとうに、会えた、ここに来た……あれがメリーなんだよね。最初の、いちばんはじめの、これから待ち受ける運命や未来をなんにも知らない……あなた」
この瞬間、春風に靡く金の髪の感触はまるであそこにいる自分とリンクしているようで。数十メートルの距離を置いて、私は私を見つめていた。なにもかもを知っている私が、なにも知らない私を、視ている。形容し難い感情だった。相応しい表現なんて浮かんでこない。もしかすると、どんな感慨だって抱いていないのかも。
真っ白な私は、まるで赤ん坊のようにも見えて。今ならどんな言葉だって刷りこんでしまえそう。試しになにか呟いてみようか。選択講義の第二外国語はやめておけ。心理学概論の講義は一度でも休むと地獄をみるぞ。大学生活は不安? 怖いことばかり? 楽しいことなんてひとつもない。大勢の人に押し流される惰性のまま、四年間を過ごすことになる。そんな未来を、思い描いていたりする?
――そんな妄言を、けれど私は信じてしまうんだろうな。
夢のお告げだから仕方がない、なんて大真面目に受け止めて。深いため息をつきながら、門を通り過ぎようとして。
けれど、そんな私の前に、
彼女が現れる。
予定調和のように。
「蓮子」
ぽつりと、私は彼女の名前を呟いた。けれどもそれは彼女を指す言葉でありながら、彼女に向けられたものではなくて。私の視線は並木道の向こう側を追っていた。キャンバスの外周沿いの歩道を、大急ぎで駆けてくる女の子の姿を。あの慌てぶりをみるに、どうやらよほど時間に追われているらしい。初日から遅刻ぎりぎりだなんて、ほんとうにだらしのない人なんだから。けれどそれは、ああやって門前でうじうじと足踏みをしている私が言えたことじゃないのかな。
「変わっていないのね、あなたは。最初から、なーんにも変わってない」
「ま、まだ遅刻だって決まったわけじゃないし!」
「なんでこんなたいせつな行事の日まで寝過ごしてしまうのよ」
「知らないわよ、もう」
走る。走る。集合の時間はもうすぐだ。もはや一刻の猶予もないだろう。寄り道をしている暇もなければ、誰かと挨拶を交わす時間だって惜しいはず。だから彼女は脇目も振らずに足を突き動かす。これからはじまる未来の門出に、つまらないところでケチなんて付けたくなくて。
だけど、
その足並みはふいにぴたりと止んで。
騒がしかった靴音が消える、その気配に気がついて、私はゆっくりと振り返る。視界に彼女が映りこむ。世界が色を変える。栗色のひとみと視線が交じりあった。その眼が普通でないことには一瞬で気がついた。だって、おなじ色をしていたんだもの。鏡で覗き込むたびに憂鬱な気分になった、あの気持ち悪い水晶体の輝きが、彼女にも。
その瞬間、
私たちが、はじまった。
「……良かった」
すっ、と“こちら側”の蓮子が金網から身を引いた。踵を返して体の向きを変えると、もうそれきり眼下へ振り返ることはなかった。“過去”に背を向けて、彼女はじっと立ち尽くしたまま呼吸を整える。もう見るべきものなどないというふうに。これ以上は視てはいけないと、背中でそんな言葉を呟いてさえみせて。
私は、そんな“過去と未来”を交互に見比べていた。門前の私たちはまだ向きあったまま、お互いにかけるべき言葉を探しているようで。対する屋上の私たちもまた、間に置かれた一定の距離を埋められずにいた。違うのは、視ている方向か異なるということ。過去の彼女は真っ直ぐに私を見据えているけれど、未来の彼女は、私の方を――過去を、振り返ってはくれなくて。
未来を視て。
「不安、だったんだ」
背を向けたまま彼女は口にする。独り言のような口ぶりだった。
「いつもさ、決断した後に悩み出すんだ。あぁ、あんなこと言っちゃったけど、あれで良かったのかなって。もっと他に良い選択肢があったんじゃないかって、やり直しができなくなってから後悔する。おかしいよね。その時は、それがいちばん優れた方法だって信じていたのに、どうして時間が経つと気持ちが揺らいじゃうんだろう。自分は間違っていたかもしれない、選ぶべきじゃなかったって、そんなふうに考えてしまうのかな」
まるで普段の彼女とはかけ離れた沈んだ口調に、私は相槌のひとつも返す余地を見い出せない。いや、そもそも返事なんて求めてはいないのか。聞いてほしいというよりは、見てほしい、と言えばいいのかな。ほんのすこしだけ表に出した自分の心の内側を、彼女は私に曝してくれている。今までずっと一緒にいて、それでも一度たりとて垣間見せてくれることのなかった、彼女の弱さ。
蓮子は、怖いのか。
今まで自分の築いてきたものの強さを信じられない。選び取ってきたものがいちばんだったかどうか、自信が持てない。だから、確かめたい。確かめるために過去に来た。いつか蓮子はこう言っていた。見比べてみようと。秘封倶楽部を創ってほんとうに良かったかどうか、この眼で確かめてみようと。あれは沈んでいた私を励ますためのものであったと同時に、彼女自身にも向けられた言葉だったのだろう。タイムトラベルなんて荒唐無稽を言い出したのは、彼女にもまた、過去の自分の行いに対する強いコンプレックスがあったからなのかもしれない。
そんなところでも、私たちはとてもよく似ている。
眼も、力も、憧れたものも、なにもかも。
「だからね、確かめたかった。自分を肯定したかった。宇佐見蓮子はなにも間違っていなかったんだよって、ちゃんと素敵な未来を選ぶことができた、無駄にしてきた時間なんてひとつもないって、自分で自分を認めたかった! ……怖いのよ。足元が覚束ないの。自分の立っている足場が突然ぼろぼろ崩れていきやしないかって、そう考えるともう一歩も踏み出せなくなる。なにを選んでも間違っている気がする。どこへ進んでも不幸にしかならない気がする! だって、これまで間違い続けてきたんだもん、これからだって間違うに決まってる! ……そんなことあるわけないって、理性ではわかってはいても、ほんとうの自信には繋がらなくて。わがままだよね、私。今だって充分にしあわせなはずなのに、他にもっと素晴らしい未来があったかもしれないなんて、そんな自分勝手なパラレルを、望んでる……」
「あなたは……秘封倶楽部を創ったことが間違いだったって、そう言いたいの?」
「……最低なこと、言うとね。もし秘封倶楽部を創らなかったらって、最近、そんなことばかり考えることが多かった。あなたと出会わなかった私は今ごろ私はどんな道を歩んでいたんだろう。どこか他のサークルに入っていたのかな。全然違う人間関係を築いていたのかな。実家に帰って来いって親に言われて、私はその求めに応じたのかどうか。イヤだって言って断って、大学に残って物理学を続けていたのかも……考えたら、それも悪くないなぁ、なんて、考えちゃって……ばかだよね、比べようなんてないのに。しあわせに絶対も相対もないのに、秤に掛けることなんてできやしないのに、どうしてっ……!」
彼女の言葉を、批難することはできなかった。出会わなければ、創らなければ。そんなふうに考えたことは、私にだって経験のあることだったから。
だけども、その本質において私たちは対立する。
私は、充実していた日常を失うかもしれない喪失感から。
彼女は、他にもっと素晴らしい日常があったかもしれないという、欲望から。
やり直したいという言葉には、ふたつの意味がある。
“もう一度なぞる”か、それとも“書き換えたい”のか。
私たちはよく似ている。類が友を呼んだ。同類を相憐れんだ。同穴の狢だった。固い絆で結ばれた親友であり、誰よりも先に手を取りあった盟友であり、また未知の幻想に立ち向かった戦友であった。
だけど、他人だ。
彼女は私でなく、私は彼女でなく、私は私でなく、彼女は彼女ではなく。
この瞬間、世界には四人の人間が居た。それぞれが同一で同類で同属で、それなのにどうしようもなく、他人同士だった。お互いに羨んだり、妬んだり、憧れたり、呪ったりしていた。誰が悪いというわけでもなく、誰もが自分だけの願いのために、未来を選ぶ。
そうか、蓮子はつまり、
踏み台にしたいのだ。
他でもない彼女自身の未来のために、過去を足場にして、しっかりと前を向くために。
秘封倶楽部を、卒業する。
「……でもね、こうやって昔の自分を見ていたら、そんなふうに今まで悩んでうじうじしていたのが、うそみたいになくなっちゃった。これが私の歩むべき未来なんだって、今では自信を持ってそう言える。メリーと出会ったこと、秘封倶楽部を創ったこと、大学を去っていくこと、あなたと離れてしまうこと……全部、間違いなんかじゃない。誰に敷かれたレールでもない。私が自分の手で選んで掴み取ってきたものを、私はちゃんと受け止めようと思う。考えてみたら、当たり前のことでさ。メリーと出会わなかった私は、きっとメリーと出会ったこの私を羨むんだろうなぁって。そんな当然のことに気づくまでに、ずいぶん時間がかかっちゃったけど……私は今、空だって飛べそうなくらいに、心が軽いよ。ここに来てよかった。メリーの魅せてくれる世界は、やっぱり綺麗だったね」
くるりと踵で回転して、蓮子は私の方へと向きを変えた。向けられた表情は、今までになく華やかな笑顔だった。彼女の言っていたような、迷い戸惑う色はどこにもない。言葉どおり、目を離せば風に乗ってどこまででも飛んでいってしまいそうだった。私と過ごした時間をバネにして彼女は飛び立つ。その背中に追いすがることは、もう、私にはかなわない。
「これでやっと、私は胸を張って卒業できる。
さぁ、帰ろうよメリー。私たちの未来へ」
なんて清々しいハッピーエンドだろう。
想い出を胸に抱いて、新しい未来へ向けて走り出そう、なんて。
卒業旅行には相応しい、お似合いのエンディングだ。
あんまりに真っ白で、穢れのひとつもなくて。
胸が空っぽになってしまいそう。
空虚で。
空疎で。
妥協的で。
現実的で。
連れて行ってあげるよとばかりに、彼女は私の手を取って握り締めた。快活な笑みが視界を埋め尽くす。太陽のように眩しい。焼けそうだ。妬けそうでもある。蓮子の手はほんとうに軽い。こんなにか身軽なら、どこへだって行けるというのもうそではないのだろう。困難も苦難も一段飛ばしに飛び越えて、彼女は新しい日常の中で新しい幸福を探すのだ。高い。高い。高くなる。遥かなところへ昇りつめていく。迷いを振りきり、過去の経験を踏み台にした彼女の前に立ち塞がるものはもうなにもない。それもそうだ、彼女は彼女の日常の大半を埋め尽くしていたものを捨て置いてきたのだから。体が羽のようになったって不思議じゃない。なんだ、彼女は片翼でもなんでもなかったんじゃないか。はじめから飛び立てたんだ。ともすれば秘封倶楽部というのは、一時の止まり木のようなものだったのかもしれない。帰るべき巣ではなかった。目指すべき場所は、ここじゃなかったんだ。夢見心地がよくて、ついつい長居をしてしまっただけ。時が来れば発たなければならない場所。夢さえも所詮、現実の途中。
さぁ、マエリベリー・ハーン。最後の活動だ。
ちゃんと家に帰るまでが旅行だもの。帰りの車が駐車場で待っているわ。運転手を待たせてはだめよ。乗り遅れるだなんて、論外だ。
帰ろう。
未来へ。
「いやよ」
帰る、
未来へ、
どうして?
「――メリー?」
「いや。どうして帰る必要なんてあるの。せっかく過去に来たんだもの、もうすこし楽しんでいきましょうよ」
みるみるうちに血の気が引いて、彼女の顔が青白く染まっていく。驚きに目を見開いて、彼女は私の顔を凝視していた。理解ができない、そんな心の声が容易に察してとれる。そんなことを言ったって蓮子、理解できないのはお互いさまだと思わないかしら。なぜここまで来て引き返す必要があるの。私たちはいったい、なんのためにここまで来たの。
ここからなら、やり直せる。
あの素晴らしい日々を、もう一度、
「メリー……境界を越える前に私が言ったこと、もう忘れちゃったの?」
だけども彼女の声は冷たい。鋭利に研ぎ澄まされた刃物のように、私の言葉を受け止めるまでもなく切り捨てた。
「過去に長く留まっちゃいけないって、そう言ったよね。タイムパラドックスのリスクを高めちゃいけない。私たちは蝶を羽ばたかせないように、慎重に行動しなくちゃいけない。私、ここから眺めていただけでもすごく怯えてたんだよ? もし誰かが屋上にいる私たちに気づいたらどうなるだろうって、その瞬間に世界線が変動して、私たちが吹き飛ばされてしまったら、って、」
「でも、所詮は仮説に過ぎないんでしょう? おなじ人間がおなじ時間軸に存在していようが、過去の自分たちと鉢合わせようが、未来にはなんの影響もないかもしれないじゃない。いいえ、そもそも帰るつもりなんてないんですもの。元の時間がどうなったって、知るものですか」
「っ、メリーは世界を滅ぼしたいの!? いいえ、私たちの未来を否定するつもり!? タイムパラドックスに巻き込まれて、死ぬどころか歴史や存在ごと消し飛んでしまうかもしれないのに!」
「否定なんかしないわよ……するものですか。えぇ、もちろん、ここから連綿と続いてく未来はとても素晴らしいでしょうね。他でもない私たちが生きた証人なんですもの、誰にだって、それを否とは言わせない。……だから、やり直したいんじゃない。繰り返したいじゃないの。それがかけがえのないものだってわかっているから。得られるのならばもう一度。噛み締められるのなら何度だって。私はね、蓮子、あなたとずぅっと秘封倶楽部でいたいの。いられるの。そういう力を手に入れたのよ、私たち」
どうしてもっと早くに気がつかなかったんだろう。最初にタイムトラベルのことを話しあった時に、ちゃんと自分を見つめ直しておくべきだった。自分の能力について、呪うばかりじゃなくて、有用な使い方を考えるべきだった。そうすればもっと素敵な活動ができたのに違いないのに。彼女の望む景色や、憧れの場所へ連れて行ってあげることなんて造作もなかったのに。私は彼女をもっとしあわせにしてあげることができたはずなんだ。彼女が余計な悩みを抱える暇なんてないくらい、満ち足りた日々を創ることができた!
今ここにいる私の可能性は、もうほとんど閉ざされてしまっていて。未来へ帰ったところで、私の望むものはなにひとつ取り戻せそうになくて。
悔しい。
そして、なにより、
「私、羨ましいって思った。あなたに手を引かれて門をくぐった“私”が――これからあなたといろんなところへ行って、いろんな経験をしていくだろう私が、すごく羨ましい。だって私たち、あの後とってもしあわせになるのよ? 秘密を共有して、認めあって、助けあって、楽しいことも辛いことも分かちあいながら、手を取りあって……そんな日々をもう一度やり直せるならって、私、何度だって考えたわ。どうやったら終わらせずにいられるだろう、永遠に続けることができるんだろうって……そんなふうに願っていたらね、叶ったの、叶っちゃったの。ねぇどうしよう蓮子。私たち過去に来たわ。やり直しの機会を得たのよ! これってとても素敵なことよ。やり方だってもう覚えたもの。これからは何度でも、いくらだって、永久に、秘封倶楽部をやり直し続けられ、っ……」
言葉は最後まで続かなかった。彼女が私の手を握る力がにわかにぎゅっと強まって、鈍い痛みが逸りかけた思考にブレーキをかけた。
「痛いわよ、蓮子」
「痛くしてるもの」
「どうしてこんな意地悪するの? ……ちょっと、ほんとうに痛い、痛いったら!」
もはやその手つきは粗暴になって、彼女は力任せに私の手を引くとそのまま屋上の出口の方へと突き進んでいく。扉を蹴り開け、階段の踊り場まで来たところでいよいよ私も必死になって彼女に抵抗した。
「っ、離して、離しなさいよ!」
「するもんか! こんな中途半端なところで終われない。一緒に未来に帰ってさよならを言うまでが倶楽部活動よ! 最後までしっかりやらなきゃ、卒業旅行にっ、ならないじゃない!」
「知らないわよそんなの! そんなに帰りたいならっ、卒業したいなら一人で勝手にしてなさいよ! 境界なら開いてあげるから、だから、私のことは放っておいて! 私はここに居たいの、ここからやり直したいの!」
「ここにはもう“私たち”がいる! どこにも、居場所なんてないんだよ!?」
「だったら奪ってしまえばいいじゃない!」
火花を散らす感情に任せるまま吐き捨てると、階段を降りかけた彼女の脚がぴたりと止まった。――いや、凍りついた。繋いだままの手が一際肌寒く感じられたのは、そこから氷のように冷めきった彼女の感情が伝わってきたからだろうか。
「……それ、本気で言ってるの?」
「過去とか、未来とか、一緒くたにしちゃうから、わからなくなるのよ……他人、でしょ。だって私は私よ? 私としてここにいるわ。ここにいる私と、門のところにいる私は、おなじ私なのにまったく別のことを考えている。それって違う心を持ってるってことでしょ? 他人、ってことじゃない。なんなのそれ。なんで私が元居た場所に、知らない誰かが居座っているの。許せないわ、そんなの。見逃すことなんてできない」
「メリーがなにを言っているのかわからないよ!」
「あなたの言うことこそ理解できないわ! ほんとうにこんな終わり方でいいの? 納得できるの!? サークルだって物理学だって、全部続けられる可能性だってあったかもしれないじゃない! あなただって言ってたじゃないの、違う選択肢を選んでいたら今よりもっとしあわせだったかもしれないって! その望みが叶えられるのよ……私なら叶えてあげられるの。ねぇ、蓮子、私あなたの力になれるわ。あなたが想ういっとうの未来を築けるまで、何度でもやり直してあげる。だから、蓮子、私を、置いていかないでよぉ……」
わかりあえない。他人だから。どんなに近しくたって、親密な間柄でいたって、最後の最後で私たちの間には、越えられない一線が確かに存在している。時間を歪めた私にさえどうすることもできない境界。私と、蓮子。かぎりなく一本の線に見えて、けれども決して交わることのない、平行線の二人。
どれだけ言葉を交わしても、固く手を繋いでも、ひとつにはなれない。私はあなたになれないし、あなただって私にはなれない。
出会ってからはじめて、こんなふうに思った。
宇佐見蓮子がなにもかもわからない、と。
曇りガラスに輪郭を歪められ、変声機で声の変えられた、そんなどうしようもなく得体の知れない存在に感じられて。
怖くて。
「……私はもうやり直したいなんて思わない。私は、私が選び取った未来を疑わない」
「蓮子……」
「置いてなんて、行くわけないでしょ。ちゃんとそばにいるからさ、だから、帰ろうよ……私たちは間違ってないんだよ。これで良かったんだよ。秘封倶楽部は終わってしまったかもしれないけれど、メリーの夢は、これからもちゃんと続いていく。その夢を好きになってくれる人は、きっと私だけじゃないはずだよ。たくさんの人がメリーを認めて、受け入れてくれる。そんな未来が、ちゃんとメリーを待ってるよ。不安なことなんてない、どうしてもこわくて足が竦んでしまう時は、私がこうやって手を引いたり、背中を押したりしてあげるから……」
もう一度だけ、彼女がきゅっと私の手を引いた。攫われる、と思った。未来へ、連れて行かれてしまう。得るべきもののない場所へ、空白の時間へ連れ戻される。それはまるで処刑台の前に立たされた死刑囚のような気分だった。さぁ、来い、次はお前の番だぞって。あぁそうか、彼女は私に死ねと言っているのか。未来に潰されて死ね。未来に呑まれて死ね。未来に喰われて死ね。弱いお前は、ここで死ね。……ねぇ、そんなのってないよ、蓮子。そばにいてくれるんじゃなかったの? 私を助けてくれるんじゃないの? いや、やめて、それ以上手を引いたら、私、落ちちゃう。いやだよ。こわいよ。未来が怖い。向きあいたくない、目もあわせたくない、なにも見たくない!
ずっと、ここにいたいよ!!
「だから、未来に――」
だから、未来なんて。
なくなってしまえばいいのに。
なくしてしまおう。
こんな未来は間違っているから、だから、
やり直さなくちゃ。
「――っ、離してよおおぉぉぉっっ!!」
瞬間、彼女が空を飛んだ。
ふわりと。
比喩でも言葉の綾でもなく、物理的な現象として、宙に浮いた。
身軽になった彼女はどこまででも飛んでいけそうだって、そう口にしたのは私で。
だから彼女は飛んでいくのだ。私を置いて。なるほど、そういうことなら納得できる。
なるべくしてこうなった。
彼女がこうして、私の手を離れていってしまったのは――
ぐしゃり
鈍い音が鼓膜を打つ。昂ぶっていた情感がふっと熱を失い、入れ替わるようにして底冷えするような悪寒が体の内を満たしていった。右手は茫然と宙に放り出され、指先は虚空が虚空を掻く。そこに先ほどまで触れていた温度はなく、絡みあっていたはずの指の間にはぬるりとした汗の感触だけが残っていた。
心臓が早鐘を打つ。全身には血管を破らんばかりの血が廻っているはずなのに、こうも背筋がぞっとするのはなぜだろう。ついさっきまでのことが記憶にない。私は今なにをして、どうなった。おかしいな。どうしてこの手はこんなにも軽いんだろう。あれだけ力強い未来に引かれていたはずなのに、なんで私はまだこの場所に留まっているのかな。
あぁ、その答えもちょっと考えれば、すぐにわかることかな。
私のことを置き去りにしたんだ。
私を置いて、先に飛び立っていってしまった。
私が、飛び立たせた。
私が、
突き落とした。
「――蓮子?」
突然目の前から消えてしまった彼女を探すと、その姿は階段を降りてすぐのところに見つけられた。服やネクタイは雑に乱れ、トレードマークの帽子も傍らに投げ出し、床の上に四肢を無造作に放り出して横たわっている。その姿はマネキンかなにかのようにどこまでも物質的で、およそ生気というものを感じさせなかった。呼吸や心臓の拍動さえ伝わってこないのは気のせいだろうか。そんなばかげた話があるものか、確かめれば済むことじゃないかと言い聞かせて、私もまたのろのろと階段を降って彼女の隣に腰を下ろす。
その膝に、ぺたり、と触れるものがある。
つぅ、と彼女の頭から流れ出す。
赤かった。
「ひっ……ぁ、あぁ……」
唐突に、眼球の奥がぐっと引き絞られたように疼き出す。鮮烈な刺激に揺さぶられて、脳裏にはいつかの言葉が蘇ってきた。抑揚のない声で、ともすれば呪詛のような響きさえ孕んで。
――タイムパラドックス。
同一の時間に、同一の人間が存在する決定的矛盾。
世界の改変と改竄の可能性。世界の、敵。
ならば世界は、その保身のために――
「ちが、わ、私っ……」
そんなつもりじゃない。そう言いかけた声は、しかし新たに耳に届いた音によって遮られる。かつん、と誰かが廊下を踏み鳴らす足音が聞こえた。さっきの物音に気がついた誰かが様子を見に来たのだろうか。早足なリズムは、どんどんとこちらに近付いてくるようで。
まずい。
こんなところを見られたら、致命的だ。隠さなきゃ、でも、どこへ!? 焦燥と冷静のないまぜになった思考が高速で廻る。考えろ。これ以上世界に翻弄されるな。お前は誰だ。マエリベリー・ハーン。今やらなければいけないことを考えるんだ。感情に流されるな。冷淡に冷徹に冷酷であれ。
まだだ。
まだ、やり直せる!
「ッ――!!」
想い描く。境目が開かれるそのビジョン。瞬間、脳髄の奥が熱を帯びて、中身がどろりと溶け落ちそうな不快感が湧いてくる。思わず失神しかけた意識を、私はぎゅっと下唇を噛み締めて繋ぎとめた。終われないんだ。こんなところで。ここから紡ぎなおしていく私の未来、出だしから躓いてなんて、いられないから、だから……
「赦して……っ、蓮子……」
その謝罪に対する返事がある前に。
黙して横たわっていた彼女の体は、床面にぽっかりと開いた奈落に、とぷんと沈みこんでいった。
一切の痕跡も、存在感の残滓さえ残すことなく。
そして世界から、矛盾が一つ、なくなった。
「――どうした! なにがあった!?」
それと紙一重のところで入れ替わるようにして、現場には先ほどの足音の主が猛然と駆けつける。声の調子を聞くに、どうやら女の人らしい。興味はなかった。私の意識は、すでにここで起きた出来事のことに注意を向けてなどいなかったのだ。
「……階段から、足を滑らせてしまって」
「屋上に行こうとしたのか? 申し訳ないが六号館の屋上はあたしたち天文同好会が管理している。用事があるのなら、一声かけてもらいたいね」
「そうなんですか。ごめんなさい、知らなかったもので」
「見ない顔だが、君は新入生か?」
あぁ、うっとうしいなぁ……
ここでまた迂闊なことを答えれば、世界が牙を剥くのだろうか。
いや……そんなこと、あるわけないよね。
だって私は神さまだもの。
もう、人間じゃ、ないもの。
「ごめんなさい。私、行かなきゃいけないところがあるので」
「お、おい――」
彼女の声を無視して立ち上がると、私は一目散に階段を駆け降りねぐらを離れる。弾かれるように、爆ぜ飛ばされるように。体の中でばちばちと火花を散らす名もなき感情は、私に無限の活力を与えてくれていた。今ならなんでもできる、なんでもやらなくちゃいけない。力には代償が伴う。リターンにはリスクが。コンティニューには、コインを支払わなくちゃ。なるほど、つまり自分の居場所は自分で掴み取れということか。自分自身の存在意義を賭けた椅子取りゲーム。私一人分の質量が余計だと言うのなら、その分の“誰か”を盤上から取り除かなくちゃいけない。確実な行為を持って、確固たる意志を表明しなくてはいけない。
私はここにいる。
いるべきでないのは、あなた。
「蓮子は、優しすぎたのね。それとも臆病だったのかしら。私みたいに宣言しないからいけないのよ。自分はここにいるって、報せなかったのがいけないの。可哀想な蓮子。でも安心して。ここにはもう一人あなたがいるわ。あなたとは思想も思考も違うけど、あなたに繋がるあなたが、ここにいる……ふふ、楽しみね。今度はどんな“蓮子”になるのかしら。どんな秘封倶楽部になるのかしら! あぁ、残ったのがこっちのあなたで良かったのかも知れないわ。可能性があるって、とっても素敵なことよね! たくさん、たくさんやり直しましょうよ! 私たちの望む未来が紡げるまで、何度だって!!」
どんなに汚れたって、かまわない。
私はもう人間じゃない。
人間じゃないなら、人間にできなかったことが、できる。
「だから、最後に――」
やらなくちゃいけないことが、ある。
日は沈み、空には夜の色が塗りたくられ、街はしんと静まり返って息をしていない。住宅地の合間を走る小路は明かりに乏しく、表通りの溢れ出しそうなネオンと比べるとまるで別世界のように様相が異なった。目を開くものと閉じたもの。目には見えない境界がそこにあった。だけども私にはその境目が認知できる。私にだけ視認できる、私だけを引き寄せる、揺らめき立つ非日常という名の誘蛾灯。
私が今日、人通りの絶えた暗い路を帰宅路に選んだのは、元はといえばそんな好奇心からだったのだろう。いつもとは空気の違う住宅地の景色が気になった。ただ、それだけのこと。それだけのことが、今の私にとっては大きな意味を持つ。当時の自分はなんてばかなのだろうと、内心高笑いが止まらなくって。
ねぇ、私、暗い夜道には気をつけなさいって、小学校の時に教えられなかったかしら。
それとも、その頃にはもう夢遊病の気が強かったから、夜道のひとつやふたつは、怖くなんてなかったのかしらね。
そうね、きっとそう。今だって私は、きっと夢の中を散歩しているような心地でいることだろう。お友だちのできた楽しい入学式の帰りに、ちょっとした不思議空間を見つけて、浮き足立った気持ちでそこに足を踏み入れる。わかる、わかるとも。だってかつての私がそうだったから。今日という日の私の行動のすべてを記憶しているから。間違えようはずもない。22時31分45秒、私はこの路地を通りがかる。申しわけ程度の外灯を人魂かなにかと勘違いしながら、家々から漏れ聴こえてくるノイズを幽霊の囁きと思い込みながら。そんな馬鹿げた夢で脳内にお花畑を咲かせながら。
そんな救いようのないほどの能天気を、私は曲がり角の塀に身を寄せて待ち構えていた。息を潜め、気配を殺す。感づかれて道を引き返されたら意味がない。あらゆる可能性を考慮した結果、この時間帯、この場所ほど行為に及ぶに適した場所は他にないのだから。
「まさかこんなことになるなんて思いもよらなかった。私ってほんとうばかよね。愚図で、自分勝手で、先行きの見通しもなにも立てられないで……そんな私は修正されなくちゃいけない。私では、蓮子としあわせになることはできない。だから代わってあげるわ。私がそこに居てあげる。代わりなさいよ。ねぇ、その居場所を、ちょうだいよ……」
ドッペルゲンガーって知ってるかしら。世界には自分にそっくりの、いいえ、自分そのものと言える存在がもうひとつ在って、それに出会うと殺されてしまうっていう、あの有名な都市伝説。……それがどういう仕組みだったのか、すこしだけ理解できたような気がするわ。ドッペルゲンガーはつまり、未来の自分自身だったのよ。未来の自分が、過去をやり直すためにやってきたの。無知で愚かな過去を始末して、今度はちゃんと修正した未来を築き上げるためにね。そう考えると、ねぇ、ドッペルゲンガーが自分に殺意を持って向かってくる理由というのも、納得できると思わないかしら。
羨ましいのよ。
嫉ましいのよ。
かつて輝いていた自分が、これから幸福になろうとする自分が、たまらなく恨めしい。人は自分より優れてたり輝いていたりするものを見ると、強烈な劣等感を抱く生きものなんだって。それは他人のみならず、きっとかつての自分にだって当てはまることなんだ。うぅん、自分のことだからこそ、その蜜の味を覚えているからこそ堪えられない。
私は、私が憎い。
これからしあわせになる私。秘封倶楽部を結成して、彼女と二人で素晴らしい日々を創り上げていくことを保証されている私――どうして、私じゃないんだろう。どうして私がそこにいるんだろう。あなたいったい誰なのよ。やめて。私の居場所を奪わないで。そこは私がいた場所だ、私がいるべき場所なんだ! 彼女の隣は、この世界でたった一つの私の居場所だったのに!!
「……いらないのよ……」
ビニール袋からパッケージを取り出して包装を剥がす。逸るように上がっていく心拍数とは対称的に、意識は冴え渡り指先の神経の一束に至るまでが集中する。まるで特別な儀式でも執り行っているみたい。準備はちゃんとやらなくちゃ。激情に火をつけるのは、その後だって遅くはないもの。
余計な音を立てないよう、そっと外箱を取り外すと、街灯のおぼろげな光に当てられて中身がぎらりと閃いてみせた。近所のスーパーで購入した安物のナイフ。果物を切るためのもの。肉を裂くためのもの。未熟なベリーを、間引くための。
「私なんていらない。
私だけがいればいい」
この世界に、おなじ存在が二つ在ってはいけない。
賛同しようじゃないか、その摂理に。
いらない。必要ない。許さない。私の居場所に居座るのは、私ひとりだけでいいんだ。タイムパラドックスがなんだ、バタフライエフェクトがどうした。私は私。この自身も自我も自覚も自律も、すべてなにもかも私だけのもの。どんなものにだって崩されない。揺らがない。歪まない。
再会と修正を目指してここに来た。もうすこしなんだ。あとほんのわずかで手が届く。ほら、耳を澄ませてみなよ。足音が聞こえる。もうすぐそこの角を私が曲がってくる。やっぱり遠回りだったかしら、なんて今さらな文句を言いながらね。ほんとうその通りだと思うわ。私はこの日、街を散策なんかしないですぐに家に帰るべきだったのよ。そうすれば電車のダイヤの乱れに巻き込まれて、夜遅くまで足止めをくらうこともなかった。いつもの時間通りに帰宅していれば、静まり返った住宅街に興味を取られることもなくて、足を踏み入れてみようだなんて好奇心も抱かなかった。すべての選択が私をここへと導いた。誤るための過去、正すための現在、そして過ちのない未来……大丈夫、上手くいく。掴み取れる。もう、迷わない。
なにも心配なんかいらないよ。
だって他人なんだもの。
昔の自分を したって、
私は私のまま、やり直せるよ?
ほら、私が、すぐそこに。
過去を断ち切る刃の冷たさを確かめたのなら、三つ数えて飛び出そう。
さん
にい
いち
Restart