□ブライダル幻想郷



 それは多くの時と場合において、年頃の少女たちの夢と憧れだった。

 


 事の発端は、彼女。霧雨魔理沙の乙女心に火がついたことである。

 透き通るような純白のヴェールが、銀細工の限りを尽くしたティアラを白雪を被せたように覆っている。それを支えるワンピースドレスは絹作りのハンドメイドで、随所に添えられたレースの縁取は素人目にもその意匠の凝り尽くされていることがそうとわかった。線の細やかさを強調したデザインは未成熟の少女のために拵えられたかのようである。その一方で、背面をV字に深く切り取る大胆なカッティングは、未だあか抜けない少女をほんの少しだけ大人に向けて背伸びさせようとしているようにも見えた。少女性と艶やかさの双方がそこに混在している。その上で、どちらにも確と境界線が引かれているようでもある。折衷ではない、あくまでも二つの要素が一つ所に在るというアンバランスさは、正に、子供でも大人でもない不安定な少女のために在るようだった。
 昼でも薄暗い店内の中、初夏の陽光が小さな窓から差し込んできて、窓際に置かれているドレスをぼんやりと照らし出しており、絹糸に交じる銀糸がすぅと光の筋を浮かばせていた。開け放たれたままのドアから吹き込む微風がヴェールの裾を靡かせると、閃く星屑がぱっと舞い上がったかのような錯覚を視界いっぱいに届けた。
 その光景に、魔理沙は思わず息を呑んだ。どう言い表したらいいのかわからない気持ちが、胸の中にじわりと滲んでくるのを感じていた。胸も顔も熱くて熱くて仕方がなくて、きっと顔まで真っ赤になっているに違いない、と思った。
「名の有る富豪が16になる娘のために製作したものらしい。けれど、結婚を待たずして娘が急逝。それを嘆いた富豪が、娘の遺体と共に埋葬してしまったんだそうだ。誰にも一度も袖を通されたことのない、正真正銘無疵の一品だよ。外ではいろいろと曰くがついてしまっていて、だからこそこうして幻想郷に流れ着いたんだろうけど、そんな逸話なんか気にならないほど素晴らしい逸品さ」
 店の奥から背の高い男がやって来て、店先でドレスに魅入っている彼女にそう声をかけた。この店の主、森近霖之助である。魔理沙とは、旧知の仲の男であった。
「つい先日、見つけたばかりでね。今日は天気もいいし、一度飾ってみようかって思ったんだ」
 満足げな笑みを浮かべながら、霖之助もまたそのドレスを見据えていた。雑貨屋を営む身として、久々の大きな仕入れに喜びを隠さずにはいられなかったのだろう。彼がここまではっきりと喜色を浮かべるということはずいぶんと珍しいことであった。
 しかし、それ以上に、魔理沙がこうも惚けきるというのもそうそうあることではなかった。普段の、快活で溌剌としていた男勝りはすっかり鳴りを潜めてしまい、代わりにそこにあったのは年相応の多感な少女の表情であった。しゅんとしていて、妙にしおらしい。それに加えてその瞳のきらきらと輝いていることは、まるで憧れの人を目の前にしているかのようだった。
 様子が変だ、と言ってしまえばそれまでだろう。けれども、魔理沙がそうなってしまうのも無理はなかった。何気なく、ほんとうに何気なく、いつもと同じようにふらりと立ち寄った香霖堂の店先に、まさか――ウェディングドレスが飾ってあろうとは誰が想像できよう。香霖堂の雑然とした雰囲気は、豪奢や華麗といった言葉からはどうしたってかけ離れている。霖之助自身、そこのところをよくわかっているはずである。だがそれにも関わらず敢えて堂々と展示しているということは、よほどその一品に自信を持っているということなのだろう。
 事実、彼の鑑定眼は正しかった。訪れた人が誰もが抱くであろう「場違いだ」という感想を捻じ伏せるだけの実力がその衣装にはあった。圧倒的な美麗さと存在感は辺りに転がる古道具なにもかもを“その他のなにか”に変えてしまっている。むしろここまで対比的だからこそ映えているのかもしれない。店内に漂う雑然として落ち着かない雰囲気は、その一着が鎮座しているだけでものの見事に払拭されていた。いつもの香霖堂よりも、空気が澱んでいないような感じがする。清浄化、とはこういうことを言うのかもしれない。
「感想も、言えないかい?」
 霖之助の問いかけに、魔理沙は首だけを縦に振って答えた。何か言おうとはしているものの、上手く言葉に出来ないようだった。
「そう、じゃあ、出しておいてやっぱり正解だったかな。こういうモノは、お蔵入りにしておくのもなんだか勿体無い気がしてね」
 霖之助は得意そうに言って、穏やかに笑ってみせた。道具というものに対して、――道具だからこそ、彼はそれらに対して真摯に接する。売り物を売り物以上の物として扱うのである。故に、気に入ったものは個人的な蒐集品にしてしまうことも珍しくない。価値の在る物ほど、完成された一品であるほど、彼は“売らない”のだ。
 だが、
「こいつも、誰かに買われて、誰かに着られて、そうやって大切にされた方がずっといいだろうさ」
 もし、道具自身が売られることを望むのであれば。彼はいつまでもその物に執着したりなどしない。もちろん彼は道具の意志や感情を読み取る力を持ち合わせているわけではないので、結局は彼個人が、なんとなく、で決めてしまうことなのだが。
 ただ、若い娘を誰にも負けない美しい女性に変えてやろう、という目的で作られたこのドレスを、若い娘でもなんでもない自分が持っているのはやはりおかしい、と彼は思ったのだった。とくに幻想郷にはどうしてか女性が多い。それこそ美しくなりたい、などというのは世の女性達の大半の望みなのだから、こういった衣装を求める声も少なくないだろう。外の世界ではドレスとして結局なんの意味も成せなかったが、幻想郷ならばその役目を果たしきることができるかもしれない。そういった意味では、幻想郷というのは、使われなくなった道具達にとっては第二の人生の舞台とも言うべき場所なのだろう。常々、彼はそんなことを考え、だからこそ香霖堂には、外で使われなくなった道具達が集まっているのだとも言える。道具屋としての、彼なりのポリシーのようなものだった。
「……あの、さ。こーりん……」
「ん?」
 それまでずっと黙して魅入っていた魔理沙が口を開いたのは、来店から十分ほど後のことだった。おずおずと、おっかなびっくり尋ねてくる口調は、やはりいつもの魔理沙のものではない。
「この、ドレスさ、その……」
 どもりながらも、一生懸命なにかを言おうとしている。まるで口下手の少女のようで、普段の彼女を見慣れている者からしてみれば、それは滑稽とも言える様子だった。白いエプロンを握り締める両手は真っ赤で、俯いて伏せた顔も、おんなじように耳まで真っ赤だった。霖之助も初めのうち彼女が何を言おうとしているのかわかりかねていたが、――やはりそこは長い付き合いで重ねてきた経験が物を言う。魔理沙が精一杯の言葉を吐き出すよりも前に、遮るようにして機先を制した。
 嫌みなほどに、制してしまった。
「言っておくけど、貸さないよ。勝手に持っていったら、その時は僕も本気で怒る」
「――――な、っ……べつにそんなこと言ってないだろ!」
「言ってないね。言ってないけど、言いそうだったろう?」
 霖之助が言うなり、魔理沙はキっと面を上げて抗議するように睨みつけたが、彼はどうとも受け止めていないようだった。それどころか、呆れ混じりの目で見返すばかりである。内心、やっぱりか、と彼は独りごちた。
 なんでもかんでも気に入ったものは勝手に持ち出していく、というのは幼いころからの魔理沙の悪癖だった。本に宝石、日用品から家財に至るまでなにもかも。割りと親しい間柄の霖之助とて、店の品を持ち出されてそれっきりということは一度や二度ではない。不精な魔理沙のことである、蒐集品の全ては整理されることもなく彼女の家のどこかに転がっているのだろうが、おそらくその行方はもう魔理沙本人でさえ覚えていないに違いない。
 一等の衣裳を持ち出された挙句、ガラクタの山に埋められてしまってはたまらない、と霖之助は思い、だからこそ今日ばかりはと強い態度で臨んでみた。持って行くなと何度言っても聞かなかったのだから、ならば語勢を強めるしかあるまいと考えたのである。当たり前と言えば当たり前、おかしなところなど何もない。……はずだったのだが、しかし当の魔理沙の態度はと言えば、霖之助の予想していた反応とはかなり少しだいぶちょっと様子が違った。
 なんというか、本気、だったのだ。
「なんだよ、私がそんなに勝手なヤツに見えるのか……?」
「いや、それは、」
 言うまでもない。――という言葉を彼は呑み込んだ。
「私だって、こんな、こんな……するわけないだろ! ばかにするな!」
「いやそういうわけじゃないんだけれど、魔理沙、なにをそんなにいきり立「自慢したいのか? 私に見せつけて悦に浸りたいのか!? なんだよ、フクシュウのつもりかよ。陰気なことしやがって。そうやって私が悔しがるところ見て楽しでるんだろ笑ってるんだろ!」
 よく見なくても泣いている。もはや顔どころか瞳まで赤く泣き腫らして、目の端からはぽろぽろぽろぽろ滴が零れている。懐かしいな魔理沙が泣くなんて何年ぶりだろう、などと霖之助は思った。いろいろと思考の優先順位を違えているような気もするが、それを認識できるほどの理性の余裕はもう彼の内に残されてなどいない。さっきまで夢見心地だった少女がいきなり泣き出したら、誰だって混乱しないわけがないのだ。
 つくづく今日の魔理沙はおかしくて、けれどそんな彼女にどう応対すればいいのかわからなくて。そんな風に動揺を隠しきれずしどろもどろになっている彼を見て、魔理沙の中でついに何かに火が点いた。勘違いの炎である。多くの時と場合において、それは年頃の少女達を暴走へと導く灼熱の炎だった。かも、しれない。
「ばか……」
「ま、魔理沙?」


「こーりんのばかー!!」


 そうして呆気なく臨界点を越えて爆発した。短い短い堪忍袋の緒は切れるどころか火が点いて、瞬きをする間に燃え尽きた。強烈な爆風、……もとい諸手突き飛ばしが霖之助の腹に直撃する。どすん、と鈍い音と共に、大の男の体と意識が確かに宙に飛んだ。
 ふわりと片足が浮いて、そのまま後ろに蹈鞴を踏みに踏んだのち、霖之助は品棚の一つに派手に盛大に豪快に突っ込んだ。得体の知れない骨董品の意味不明な角で後頭部をしこたま打った。舞い上がる埃と黴の臭いが否応なしに鼻を突く。耐え難い。せめて体制だけでもどうにかしたかったが、腹に抱えた鈍痛は体重を二倍にも三倍にも重くしている。とてもじゃないが、今すぐ動けそうにもない。酸っぱいものが込み上げてこないだけマシだろう……とそこまで理解したところで現行犯を探そうとすると、その姿はすでに店の中にはなかった。外にはもうもうと砂埃の立ちのぼった跡がある。自分を突き飛ばして、すぐさま箒で飛び去ったのだろう。悶絶にぼやける頭で、彼はどうにかこの状況を把握した。
「……僕がなにをしたって言うんだ」
 なにかしたんだろう、とは思う。思うが、わからない。魔理沙は確かにおしとやかとは言えない性格だが、理不尽なことで腹を立てるような子じゃなかったはずだ。思い当たる節というものを霖之助は想像してみたが、今一つぴんと来るものはなかった。わかるはずもないような気がした。魔理沙に限らず、知り合いの中で真っ当で常識的な考えを有している女性は、残念ながら少ない。そんな彼女たちの女心に理解が及ぶわけがない。決して自分が鈍感なわけではないのだ。たぶん。
「やっぱり、呪われてたんじゃないのか……?」
 店先に悠然と居座る、居座らせたドレスが少しだけ恨めしい。諸悪の根源とまで言うつもりはないが、切欠は間違いなくアレなのだから。
 ツいてない。厄日だ。厄過ぎる。ウェディングドレス――持主をしあわせにする程度の能力――ウソを吐く道具もあったもんだ。と霖之助は零した。


 ▽


「あんたねぇ、泣いてちゃなんにもわかんないじゃない」

 さて今日はちゃんと掃除をするんだとやる気を出した日に限って邪魔が入る。もう運命的とさえ言えるほどに。あのちっこい吸血鬼と出会って以来そういう事が度々続いているのだが、もしかしたらいつの間にかあいつに運命を弄られてしまっていたのだろうか。だとしたら最悪だ。今一度紅魔館に殴り込んで是が非でも改善させなければなるまい。と、思い至ってさぁ出発の準備だなんて思ってはみるものの、その邪魔とやらが現在進行形で邪魔なのでどうすることも出来なかった。いや、別に無視して行ってやってもいいのだが、さすがにそれには良心が痛む。目の前でぐずぐず泣いている知人をほったらかしにしておけるほど薄情ではない。なにがあったかも純粋に気になるし、なにより泣いているのがあの魔理沙だったというのが大きい。珍事を通り越してもはや異変である。総括すると、博麗霊夢の好奇心は魔理沙の方に傾いていた。
「なにか言いなさいよもう、日が暮れるわよ」
 魔理沙が突然神社に押しかけてきてからすでに三十分ばかりが経つ。最初は、いつになく血相変えて飛んでいるなぁ、という程度だったのだが、黒い影が迫るに連れて、その表情がいつになくみっともないものであることに霊夢はすぐに気が付いた。ぐしゃぐしゃの、ぼろぼろ。弾幕ごっこで誰かにこてんぱんに負かされたのだろうか。にしては、小綺麗な格好をしているけれど。そもそもそんなことでぐずるほど魔理沙は弱くなんかなかったはずだ。たとえそうだったとしても、少なくとも自分に泣き顔を晒すような真似だけはしなかったはずである。思い当たる節というものが霊夢には何も見つからず、結局わけもわからないまま、状況に流されるばかりだった。
 その魔理沙本人はと言えば、さっきからちゃぶ台に突っ伏したままちっとも動かない。時折鼻をすする音が聞こえるので不貞寝しているわけではないようだが、ずっとそうされていたのではいくら霊夢とて気が滅入ってくる。端的に言えば迷惑である。常時でも非常時でも、そればかりは相変わらずだった。
 畳の上に投げ出された黒い三角帽子を眺めつつ、冷めた茶を啜りながら、霊夢は深い溜息をついた。
「……こーりんが」
「んあ?」
「こーりんが、わるい」
 そんな感じに時間が経ち過ぎて、垂直に降り注いでいた日の光がほんの少し傾いた頃。ようやく平静を取り戻した魔理沙が、実に恨めしそうな声で呟いた。少し意外な名前だったので、霊夢は思わず聞き返した。
「霖之助さんが? あんたに?」
「そう、……そうだぜ! あのやろう、私のことをいったい何だと思ってるんだ!」
「厄介なお得意様、じゃないの?」
「そーいう問題じゃないんだよ!」
 伏せていた顔をいきなり持ち上げたかと思えば、ちゃぶ台の上に身を乗り出して魔理沙は霊夢に押し迫った。ぎらぎらと脂ぎったように光る眼の色が、いかに彼女の感情が負に傾いているかということをこれでもかと知らしめている。乱れたハニーブロンドの髪も、どこか気焔を上げているかのようだった。
「踏み躙られたんだぜ? 私のナイーブなハートが土足で踏み躙られたんだ!」
「憤るのはいいから、なにがあったのか聞かせなさいってば」
「ドレスだよ! 香霖堂に! 入荷してたんだぜ!」
 だん、と台の上に片足乗せての一声だった。両腕を振り回す大袈裟なボディランゲージがそれに続く。とんでもない声量に松の木に群れていた雀達が慌てて飛び去っていったが、魔理沙に対面する霊夢の反応は、涼しいというか冷やかなものだった。
「降りなさい」
「……わかりました」
「ドレスって、やっぱり、ドレス?」
「ドレスはドレスだぜ。しかも真っ白だった。……あの店にウェディングドレスだぜ? 信じられないだろ?」
 魔理沙の言うことには、霊夢も眼を丸くして驚いた。彼女もまた香霖堂の常連の一人である。店の雰囲気や店主の営業方針を知らないわけではない。あの店に純白のドレスが似合うかどうかなど、考えるまでもなく想像がつく。
 ただ、魔理沙がここまで声を荒げているのだから、それはきっと嘘でもなんでもなく事実なのだろうと霊夢は思った。魔理沙は自分のためにならない嘘は吐かない。こんな、ある意味どうでもいい事に嘘泣きまで持ち出すとは思えない。……とするとさっきのはやはり本気で泣いていたのか。魔理沙もずいぶん女々しくなったものだ。
「まぁ、想像し難いシチュエーションよね。あそこ、ごちゃついてるし」
「だろ? だから私、ほんとにびっくりして。その、とにかくびっくりしたんだよ。すごい綺麗だったんだぜ。頭ん中真っ白になるくらいだった」
 この感動を伝えんとばかりに、いつにも増して語勢は強いのだが、いかんせん衝撃的過ぎたのか巧い言葉が見つからないようだった。「すごい」と「やばい」だけで迫ってくる魔理沙を霊夢はうんざりだという顔であしらっている。勢いのついた魔理沙をそう簡単には止められないことを霊夢はよく知っていた。その上、いつもの暴走ならまだしも、今回はそこに彼女の乙女心をくすぐるような要素が絡んでいるものだから尚更である。普段でさえ恋風だの恋心だの振り回しているんだ、ウェディングドレスなんか見た日には、いったいどれだけ興奮することか。
 ばかな霖之助さん――そう呆れざるをえない霊夢だった。
「それで、その綺麗なドレスと、あんたが私に泣きつくことにどんな関係があるっていうのよ」
「……考えてみたら、あんまりないなぁ」
「そう言うと思った」
 うちは駆け込み寺じゃないのに、なんて言ったってもう遅い。来てしまった以上は相手をしてやらねばなるまい。来る者拒まず去る者追わずがスタンスの博麗神社である。訪れた者には人間であれ妖怪であれ最低限の応対をしてやる、というのは長年中立で在続けるうちに自然と身についた彼女なりの処世術だった。
 ただ、腐れ縁とでも言うべき魔理沙が相手、情が働かないわけでもない。呆れともいう。あるいは好奇心。魔理沙は確かに厄介事ばかりを運んでくるが、彼女といると退屈しないということも霊夢はよくわかっていた。怠惰な日常には山椒程度の刺激があってもいいかもしれない。魔理沙の場合、それがありすぎるのが問題なのだけれど。
「でも、こーりんの言ったことは許せないんだぜ」
「私あなたの愚痴を聞くために生きてるわけじゃないんだけれど」
「でも暇だろ? 退屈な人間と退屈じゃない人間がこうして出会ったんだ、なんだか運命的だと思わないか? 需要と供給が一致してる、こいつは素晴らしいぜ」
 やっぱり吸血鬼の仕業だろうか。だろう。頭痛をふっと反芻してしまい、思わず頭を抱えた。
「……もうそういうことでいいわ」
「そうしてくれると助かるんだぜ」
「で本題を聞くけれど、霖之助さん、あんたに何を言ったわけ?」
 そう霊夢が言うなり、魔理沙は再び眼の中に火を灯し、「そうだ!」と声を張り上げ立ち上がった。さっきからくるくると色合いを変える瞳はまるで万華鏡のよう。泣いたり笑ったり、怒ったり落ち込んだりと忙しない。大方霖之助さんも魔理沙のテンションについていけなくなったのだろう。あるいは致命的に読み違えたか、あるいは読み過ぎてしまったか。霊夢にはなんとなく、魔理沙の勢いに呑まれて応戦さえできずに轟沈した霖之助の姿が幻視できてしまっていた。
 霧雨魔理沙は多感な少女である。というのは霊夢の見解だった。とかくよく笑う、よく怒る、そして、きっとおなじくらい泣いてもいるんだろう。見栄っ張りな彼女のこと、普段から虚勢を二枚も三枚も張って生きているに違いない。ところがこともあろうに霖之助は、彼女が精一杯張っていた虚勢をいとも簡単に引っ剥がしてしまったのである。その裏側に隠れていたもう一人の霧雨魔理沙を、ずいと表側に引きずり出してしまったのだ。そこに在ったのは、年相応の人間の少女だった。ウェディングドレスに本気で魅入ってしまうほど純情な、恋多き乙女だった。
 それに気付かないまま、霖之助は果たしてどんな言葉を口にしたというのか。きっとつまらないことなんだろうな、と霊夢は思い、
「……貸さない、って言ったんだ」
 そうしてそれは実に、実に、案の定だった。
「――……それだけ?」
「それだけだって? そんなわけあるか! こーりんのやつ初めっから私に見せつけるつもりだったんだそうさそうに決まってる! なんか自慢げに笑ってたし。私にひけらかして悦に浸ってたんだぜ? 最低なやろーだ!」
 ばかださいあくだと思いつく限りの罵詈雑言をまくし立て、魔理沙はまだ足りないとばかりに店主の非道を訴えた。その瞳がまた潤みだしている。よほど悔しかったのだろう、腹立たしかったのだろう。しかしそんな彼女に対して霊夢は同情を抱くのかと言えば、彼女にそんな感情など欠片もあるはずがなく、それどころか評価点はマイナスへ向けて一直線に低下するばかりだった。予想はしていた。が、あまりにその通り過ぎて何も言う所がない。だがなにか一言発しなければ魔理沙の饒舌が止まらないのも自明の理である。仕方なく霊夢は、魔理沙相手には何度口にしてきたかわからないほど使い古した言葉を引っ張ってくるしかなかった。
「自業自得じゃない……」
「あ?」
「私が霖之助さんでもあんたにだけは貸し出さないわよ。惨状が目に浮かぶもの」
「なんだよぉ霊夢まで、私が物を大切にする人間だって知ってるだろ?」
「そこが根本的に……、あーもう、貸さないったら貸さない!」
 いやよ私だって貸した服がわけのわからない何かに埋もれるなんて耐えられない、と霊夢は胸の内でそう続けた。日々成長を遂げているらしい未知のアイテムに混じって貸した服まで変貌するのではないか、そう考えると恐ろしくて、魔理沙に好んで物を貸す人物など幻想郷には一人としていなかった。もしかすると数十年後に返ってきた時に希代のマジックアイテムに変化している、と考えられなくもないが、いくら幻想郷とてそんな希望は幻想もいいところである。霧雨邸は、朱に交われば青くなるような異空間なのだ。
 唯一の頼りだったのだろう霊夢にも軽く否定され、魔理沙はあっさりと意気消沈した。ぜったいたいせつにするのに、とまだぼやいていたが、そもそも大切という言葉の捉え方からして違うのだからどうしようもない。これで元道具屋の娘だと言うのだから、霊夢はもう呆れるしかなかった。
「……そう簡単に諦められるかよ。霊夢は実物見てないからそんなこと言えるんだ。是が非でも欲しいものってやっぱりあるだろ?」
「そりゃ否定はしないけれど、さすがにあんたみたいに強奪までとはいかないわよ。……第一、着ないじゃないウェディングドレスなんて。あんたが来月にでも結婚するって言うなら話は別だけど」
 ふと、口にした言葉がどれほど魔理沙の心に食い込んだか。霊夢が気付いた時にはすでに遅く、魔理沙は大きく目を見開いたまま、頬まで染めて完全にスイッチが入っていた。おそらくその頭の中はある単語一つで溢れ返っているに違いない。そのうちの一つがぽろりと口から零れるまで、そう時間はかからなかった。
「けっこん……」
「なによ。だってそうでしょ? ドレスだけ持ってても虚しいだけじゃない」
「あ、まぁ、その、……あー、うー……結婚、けっこん……」
 何度も、何度も、譫言のように呟いていた。見開かれた瞳に霊夢の姿は映っていない。なにを幻視しているのか、頭の血まで茹上がっていよいよ中身が溶け出してしまったんだろうか。魔理沙の惚けきって抜けた顔めがけて、霊夢はさらに言葉を続ける。
「するの? しないの?」
「ぇ……ぁ、する、したい――……しない! しないしない! するわけない!」
 じゃあいらないじゃない、ドレス――と締め括りたい気持ちを霊夢はぐっと押さえ込んだ。目頭に涙と感情とを一杯湛えた魔理沙をこれ以上刺激するのは非常によろしくない。八卦炉に火をつけるが如し、である。感極まった魔理沙が何をしでかすか。自棄になって香霖堂を焼き打ちにするとも限らないのだ。閻魔に言わせれば犯罪教唆になるのだろう。まったく頭が痛くなる。いまさら後悔しても遅いということを霊夢は後悔した。
「ほらえーとなんていうかあれだ。私は、その、奥手だし」
「奥手ねぇ……要するに相手がいないってことでしょ? 可愛いドレスを着せてくれるような優しいヒトと、あんたは縁もゆかりも無いわけね」
「余計な世話だぜ……お前だって私のこと言えないだろうに」
「どうかしら。最近は運命的な出会いってやつが続いてるみたいだし」
 溜息混じりにそう呟いて、霊夢は魔理沙に視線を振った。その、霊夢の眼に映った金の瞳はどこか輝きを帯びていた。皮肉もわからないのかと思うと、ますます心が鬱に染まって沈んでいった。
 運命的というか不運命的。今月の運気はもう尽き果ててしまったのかと思うと心底気落ちする。神様、仏様、お助けください。などと祈ったところでどうにもなるまい。幻想郷にいらっしゃる神仏がいかにあてにならないかなんてことは、他の誰でもない、霊夢が一番良く知っているのだ。
「いいなぁ……」
「え、……本気?」
「私はいつだって大真面目だぜ。これでも年頃の、女の子、なんだぞ……いいじゃないか別にそーいうのに憧れたっていーだろちくしょう。笑いたきゃ笑えよ!」
 なかば逆切れである。ほっぺたを膨らませて、魔理沙はつんとそっぽを向いてしまった。
 まさか魔理沙に結婚願望があるなどと霊夢は思ってもいなかった。日頃の奔放ぶりを顧みるに、そもそも女としての自覚があったのかどうかさえ疑わしい。我儘で理不尽、家事をサボっているから家の中は荒れ放題。そんなことで結婚したいだなどとは世迷言もいいところだろう。そう思っても何も言わないのは、霊夢なりの情けである。
「別に何も言わないわよ。好きにすればいいじゃない」
「だから好きにさせてもらうぜ。もらうけどさ、先立つものがないじゃないか……どうして幻想郷にはいー男が少ないんだ。もっとさ、こう、理解力とか包容力とか、満ち満ちてるような奴はいないのか?」
 いたとしても、果たして魔理沙ほどの大物を許容しきれるかどうかは甚だ疑問である。怪しげなキノコ魔法に理解があり、一切の家事をしない彼女を受け入れられるだけの寛容さがあり、日々の我儘をうんうんと受け流すことができるほどの強靭な精神力を持った男性。
 霊夢の脳裏を過ったのは、もちろん渦中の彼ただ一人だけであった。
「いるじゃない」
「どこにだよ……」
「霖之助さんならちょうどいいじゃない。あんたの趣味もわかってるし、なんだかんだいって我儘にも付き合ってくれてるじゃない。それに、ドレスは霖之助さんのものなんでしょ? だったら買うまでもないわよ」
 ――と、言うなり魔理沙が火を吹いた。数瞬の溜めがあってから、「ありえるか!」と怒号が空気を震わせた。
「私が? あいつと? 冗談じゃないこっちから願い下げだぜそんなこと! いいか、私はこう見えてもプライドが高いんだ。いくら花嫁になりたいからって、それまで投げ出したりできるかよ。霊夢、あいつは女の敵だ! サディストだ! 根暗眼鏡のあんぽんたんだぜ! なんで私がっ、あいつと、あいつに……う゛ー……」
 パーツごとに比較すれば結構良い線をいくだろうに――そんな霊夢の考えを魔理沙も理解していないわけではない、むしろ霊夢以上にわかっていた。だがそれを簡単には認めたくないというのは、やはり彼女の言うプライドがそれを許さないからであった。確かに霖之助は魔法というものに理解がある。八卦炉を作ってくれたのはそれの何よりの証拠だった。店の物を持ち出しても、本気で憤ったことなんて一度もない。最後には「しょうがないな」と言いながら、見過ごしてくれたことがほとんどだった。悪い奴じゃない、そんなことは魔理沙自身が一番よく知っている。……けれどそう思う度に、彼女の頭の中にはまた別の言葉がふっと思い出される。たった一言が、油染みのように記憶にこびりついてちっとも拭えなかった。
 ――貸さない。本気で怒る。そんなつもりなんてなかった。ほんとうに私は、ただ、あのドレスを……。いやなやつ。ほんとうに嫌なヤツ!
「相手がいない、ねぇ。それじゃ結局、ドレスの意味なんてないじゃない」
「………」
「着飾って、可愛くなりたいだけならウェディングドレスじゃなくたっていいのよ。里に出れば和服だって洋服だって、あんたに合いそうなのがいくらでもあるでしょうに。それに、ウェディングドレスって婚礼装束でしょ。そもそも結婚しないヒトの着る物じゃないのよ」
 諭すような霊夢の声に、ついに魔理沙は閉口した。もっともな意見で、どうのこうのと言い返すのも情けなくなった。何も言えないでいると、途端に自分が小さくなってしまったような気がして、すっかり気落ちしてしまった魔理沙はすとんと腰を落として項垂れた。
 そうして会話が途切れてしまい、言葉に代わって二人の間を埋めたのは、重いとも軽いとも言えない奇妙な沈黙だった。魔理沙は俯いて、じっとちゃぶ台へ視線を落としている。霊夢はといえば、いつしか空になっていた湯飲みを片手に、縁側の向こうの景色をぼんやりと眺めていた。梅雨も明けかけた六月の晴れ空がずっと遠くまで続いていた。大安晴天、さぞや結婚式日和だろう。雨が降ったら降ったでその時は狐の嫁入りである。あそこの式神がやたらと人間の主婦臭いのは物ぐさな主人に嫁いでしまったからなのだろうか。わけもなく、そんなことを考えた。
 ――“結婚”という言葉が頭の中で一人歩きしている。縁遠いようで、近いようで。自分ももう子供じゃないんだから、いずれは真剣に考えなければいけないことなんだろうけれど、実感なんてこれっぽっちも沸いてこない。そう思うと魔理沙の方がずっと現実的なのかもしれない。いい人を見つけていいお嫁さんになってしあわせに暮らす。ありふれた夢だと言ってしまえばそれでおしまいだけれど、それを叶えるのは意外と難しい。難しいから夢なのだ。難しいからこそ、それを叶えた誰かに憧れるのだ。誰だってしあわせになりたい。自分も、魔理沙も、それは変わらない。ただ決定的に違うのは、一生懸命かそうでないかということ。魔理沙には呆れる。呆れるくらいにがむしゃらで一生懸命だから。夢見る少女はいつだって全力で、恋する乙女はいつだって輝いていた。それは自分にはないものだった。自分にはわからないものだった。どうして恋愛や結婚なんかに憧れるんだろう。あんなに楽しそうに他人と関われるのだろう。自分に、関わろうとするんだろう……。それが不思議で奇妙でたまらなくって、だからこそ自分は魔理沙とだけは親身に接しているのかもしれない。知りたい、と思った他人は彼女が初めてだった。あぁ、魔理沙に言わせれば、こういうことを運命的というのだろうか。自分もずいぶんと彼女に感化されてしまった。結婚という言葉を、生まれてはじめて身近に感じた。
「……私は、さ」
 消え失せそうな微かな声は、場の静寂のおかげか、すぅと霊夢の耳に染みていった。今までの魔理沙のどの言葉とも違って、とても落ち着いた声音だった。
「本当に、ぞんざいに扱おうなんて思ってなかったんだ。ただ、着てみたいなって、そう思っただけなんだ。……けどこーりんのやつ、貸さないって……私の言葉なんて少しも聞かないで、貸さないって言って。それがさ、すごいショックでさ。お前には似合わない、お前は結婚なんかできないって言われてるみたいでさ……。悔しかったなぁ、うん、すっごく悔しかったんだ」
 おもむろに顔を上げ、振り返り、魔理沙は霊夢に顔を見せた。まいったなぁ、といいたげな笑顔がそこに貼り付いている。照れているようにも見えるし、泣いているようにも見える。きっと今の言葉こそ一番の本音なのだ、霊夢はそう思った。
「そりゃ、似合わないんだろうなって、自分でもわかるさ。わかるけど、……やっぱり、」
「着てみればいいじゃない」
 はっきりと遮るように霊夢が言う。
 魔理沙はぽかんと口を開けたままで、止まった。
「着たいなら、着ればいいのよ。簡単なことだわ」
「ぅ、ぁ、でも……こーりんが、」
「持って行かれて、あんたの家に放り込まれるのがイヤなのよ。店内で試着させてもらうだけなら、霖之助さんだってそこまでは言わないんじゃないかしら」
「――……ッ、でもそれじゃあ、」
「なにをいまさら恥ずかしがってるのよ。もっと恥ずかしい格好なら今まで散々見られてきたんでしょ? それにね、似合うかどうかなんて、他人に見てもらわなきゃわからないんだから。私も付き合ってあげるから、霖之助さんのこと見返してあげなさいよ。それとも、ドレスの似合わない霧雨魔理沙っていうレッテル、貼られたままでもいいわけ?」
 その台詞を聞いた魔理沙ははじめきょとんとした表情を浮かべていたが、次第に蒼くなり、かと思えば赤く染まって、最後に柔らかい笑みに変わって落ち着いた。「霊夢」と呟いた声は、いつになく穏やかな響きだった。
 らしくないことを言ったなぁ、とは霊夢自身思っていた。今まで魔理沙に迫られても軽くあしらうばかりだったのが、今日に限ってはどうしてか、付き合ってやるのも悪くないと、そんな気がしていた。理由はよくわからない。わからないけれど、たまには自分の方から他人事に首を突っ込んでみるのも悪くないなと思ったのだ。なんの得にも利益にもならないけれど、時間の無駄かもしれないけれど……そう、純粋に、純粋に、面白そうだな、って。
「――そうだ、そうだよ! こーりんのやろー、ぐぅの音も言えないくらい見惚れさせてやる!」
「いいじゃない、その意気よ!」

 そうして、もし自分の“友人”が結婚することになったなら、
 その時自分はどんな風に変わるんだろう。どんな気持ちを抱くんだろう。
 今までとは違う自分を想像すると、ほんの少しだけ、どきどきしたんだ。


 ▽


 日はすっかり傾いて、茜色の日差しが世界を紅く染めていた。それとは別に、魔理沙の頬もまた少しだけ赤かった。照れだったり、恥ずかしさだったり、あるいは闘志だったり。いろんな感情が胸の中でごちゃまぜになって、弾けてしまいそうな心臓をぎゅっと押さえ付けながら、魔理沙は今香霖堂の前で仁王立ちしている。
 準備は整えてきた。お風呂に入って、服も着替えて、一番お気に入りだった香水も使った。霊夢と一緒に編み上げた髪は今までで最高の仕上がりだった。「髪、跳ねてるぞ」なんて台詞は絶対に言わせない。一世一代の大勝負、妥協も失敗も少女には許されないのである。全力を尽くし、霖之助にフクシュウする。恋心は臨界点でスパークしていた。
「行くぞ、霊夢」
「えぇ」
 雰囲気は午前とさして変わっていない――人のいる気配も。仇敵は確かにそこにいる。ぐっと歯を食い縛り、魔理沙ははじめの一歩を踏み出した。足取りはびっくりするほど軽かった。ふわりと髪が揺れて、それに合わせてジャスミンが香るたび、体の芯がじんと火照ってゆくのを感じていた。どんどんと勢いづいて、そうしてそのまま立ち止まることなく香霖堂の戸を開け放った。
「こーりん!」
 威勢のいい声が店内の空気を震わせる。途端に流入してきた外の空気に古道具達は一様に埃を巻き上げ、それはさながら、魔理沙に対する威嚇のようにも見て取れた。
 だが彼女の視線は揺らがない。漂う塵芥の向こう、カウンターに頬杖をついている男――霖之助をじっと見据えていた。その隣には、あのドレスが。舞い交う芥の中でもその気品を少しも損なわず、物でありながら超然とした様子でそこに在った。
「……もう一度来るだろうな、とは思っていたけれど、」
 霖之助はゆっくりと立ち上がり、魔理沙の方へ歩んでくる。
 しかしその視線は、彼女の後背に向いていた。
「まさか、二人で来るとは思わなかった」
「こんにちは」
 後から遅れて店に入ってきた霊夢が挨拶をする。やぁ、と素っ気無い返事を彼は返した。
「して、どういう用件なんだい魔理沙」
「………」
「今朝のは本当に痛かったぞ。久しぶりにこぶまで作ってしまったじゃないか」
「悪かったよ。それは謝る」
 言って、魔理沙は素直に頭を下げた。それが意外だったのか、霖之助はばつが悪そうな顔をしてみせた。戸口の方ではそれを見た霊夢が小さく笑っている。何がおかしいのか、霖之助にはついにわからなかった。
「けどな、こーりん。私ゃまだ諦めたわけじゃないんだぜ」
「……君はほんとうに、僕を困らせるのが好きだね」
「今日だけ……今だけでいいんだ。あのドレス、貸してくれよ。着るだけでもしてみたいんだよ、いいだろう……?」
 ちらりとドレスの方に目配せしながら、魔理沙は上目遣いに懇願した。二人の身長差は大きい。見上げる魔理沙と覗き込む霖之助との間で、不思議な視線の応酬が繰り広げられていた。あんまりに真っ直ぐな魔理沙のひとみを、霖之助はとても直視できそうになかった。気を抜くと、その深い色合いにあっという間に呑まれてしまいそうになる。
 十一秒の、長いとも短いともつかない膠着があって、そうして先に息を吐いたのは霖之助の方だった。彼もまたカウンター脇に鎮座している衣装を一瞥して、それから「やれやれ」と溜息を一つ洩らした。
「君たちは、商品価値って言葉を知っているかい?」
 眉根を八の字にしながら、霖之助が笑う。
 魔理沙はわからないと顔に書いて、その一方で霊夢は苦笑していた。
「言ったと思うけどね、このドレスはまだ誰にも袖を通されていないんだ。無疵なんだよ、その意味がわかるかい? いや、わからなくてもいいけれど、知っておいてほしい。誰にも着られたことがない、というのがこの衣装の付加価値なんだ。そうして、それはドレス本来の価値よりもずっと高級なものなんだよ。だってそうだろう? このドレスは出来が素晴らしかったから幻想郷に来たわけじゃない。無疵で処女である、という曰くがこれを幻想にまで仕立てあげたんだから」
 普段の、蘊蓄を垂れる時の説明ぶった口調とは少し違う。諭すような、言い聞かせるような静かな声だった。
 震える声で、魔理沙が訊く。
「じゃ、じゃあ……誰かが着たら価値が下がるって、そう言いたいわけかよ?」
「正確に言えば、売り物じゃなくなってしまうということだよ。最初に袖を通した誰かの物になる。所有権とは別に、さ。その人にしか着こなせなくなると言ってもいいだろうね」
 言い終えて、霖之助が魔理沙に向き直った時、……そこにあったはずの強気は、今にも崩れ落ちそうなほどに揺れていた。霖之助の言うことは、やはりドレスなんて自分には不釣り合いな代物なんだということを再認識させるかのようで、そう考えると、張り切って粧してきたのもなんだか急に虚しい時間を過ごしただけのように思えてしまって。
 今までと打って変わって、身体の熱が一気に冷めていくのを魔理沙は感じていた。胸の中が悲しみでいっぱいになってしまいそうで、それでも収まりきらない分が目頭にまでじわりと込み上げてくる。やだ。やだ。こんなやつの前でなんか泣きたくなかった。それはきっと、似合わないと、可愛くないと言われるよりも、ずっとずっと悔しいことに違いない……だのに涙が零れそうになる。我慢ができそうにもなくなる。いやだなぁ、そこに霊夢だって、いるのに……
「――――魔理沙」
「……なん、だよっ……」
「僕はね、このドレスを売らないことにした」
 ふと、霖之助が呟いた言葉は、すぅと染み入るようにして彼女の頭の中に届いた。
 ――なんだって?
「ぇ、……だってっ、売り物にするって、」
「僕が気に入ったんだよ。それだけのことさ……ただね、誰も着ないまま倉庫に置いておいたんじゃあ外の世界の二の舞だ。だから、知り合いに女の子がいたら――その子がとんでもなく可愛い子だったら、一度着させてみるのも悪くないかもしれないな」
 どことなく皮肉交じりな口調だったけれど、表情や、眼鏡の奥の双眸が確かに笑っていたのを魔理沙は見逃さなかった。今まで見たこともないような、霖之助の笑顔だった。こうも緩急つけられると、その笑顔さえなんだか二枚目に見えてきてしまって……魔理沙は、さっきとはまたちょっとだけ違う悔しさを感じていた。もうしばらくの間は、きっと霖之助には勝てないだろうなと思った。
「ほんとに? ほんとだよな? 私が着てもいいんだな……?」
「そのためにわざわざ粧して来たんだろう? 今回は君の熱意に負けた、そういうことにしておくよ」
「――っ、奥借りるぜ!!」
 ぱぁっと、笑顔に花が咲く。喜色満面と呼ぶに相応しい一等の表情。霖之助の脇を早足に抜けて、マネキンごとドレスをぎゅうっと抱き締めると、振り返りもう一度笑顔を向けてから魔理沙は店の奥へと消えていった。慌ただしいことこの上ない。まるで、黒い風が吹き抜けていったかのよう。
 大きく息を吐いて霖之助は肩を落とす。少しだけ、荷が降りたような気分だった。そんな彼の隣にはいつしか霊夢が佇んでいて、穏やかな表情で魔理沙の消えていった方を見据えている。その視線にはどこか、自分にはないものを羨むような色があった。
「お疲れさま」
「霊夢……魔理沙が迷惑をかけたみたいだね」
「そんなことないわよ、結構面白かったし。それに、あんなに綺麗な服だもの、魔理沙がはしゃぐのも無理ないわ」
 霊夢もまた、いつもとは少し雰囲気が違う。彼女もどこか満ち足りたような顔をしているな、と霖之助は思ったが、想像してみたところで彼になにかわかるはずもない。結局、それも乙女心というやつなんだろう。魔理沙も霊夢も、どうしてかこんなにも癖が強い。
「それに霖之助さんの方こそ、魔理沙に着てもらいたかったんじゃないの?」
「まさか。僕はそんなに器用じゃないよ」
「どうかしら。やる時は思い切ってやりそうに見えるんだけれど」
 悪戯っぽく笑う表情も、含みのない無垢な笑顔も、霖之助は今まで見たことなんてなかった。今日はまったくもって“見たことないもの”ばっかりだ。知らない間に、ちょっと見ない間にずいぶんと成長しているものだから、たまについていけなくなる時だってある。それは自分が男で彼女たちが女だからなのか、それとも自分が半妖で彼女たちが人間だからなのだろうか。ほんとうのところはなにもわからない。ただ、二人はまだ子供のままだなぁと思った。少なくとも、ウェディングドレスに憧れているうちは――
「魔理沙も大人になったわねぇ」
「……ぇ?」
「大人……うぅん、女になったのね、きっと。霖之助さん、ちょっと覚悟しておいたほうがいいかも」
 なにを覚悟しろというのだろう。霖之助がその意味を訊こうとした時、重なるようにして店の奥から溌剌とした声が飛んできた。
「こーりん! こー……じゃなかった霊夢! ちょっと手伝ってくれよ!」
「お呼びみたい。期待して待っててね」
「あ、あぁ」
 しかりしこうして、霊夢も早々に奥へと引っ込んでしまった。薄暗い店内の中、霖之助だけがぽつんと取り残される。店主なのに、なんだかここにいるのが場違いのような気がしていた。
 手持ち無沙汰になってしまって、彼はなんとなく窓の外へ目を向けた。世界は茜色の斜陽でもってすべて同じ色に塗りたくられている。釣瓶落としとまではいかないまでも、その風景は刻一刻とより強い紅を目指して染め抜かれていく。変わり続けていくその景色は、彼になんともいえない物寂しさを抱かせた。同じ風景が続くことなど一分一秒とてありはせず、彼にはそれがなんとなく、奥の方で楽しそうな声を弾ませる彼女たちと重なって見えてしまっていた。
 いずれは夜が来て月が昇るだろう。かと思えば、日の出はすぐに訪れる。くるくる、ぐるぐると忙しない。乙女心と秋の空、変わり易すぎるというのもどうなのだろう。彼女たちなら、それこそ女の子の魅力なんだと胸を張って言いそうだけれど。
「女の子、ねぇ」
 はっきりと、そんなふうに意識したことなんてなかった。魔理沙は魔理沙で、霊夢は霊夢として扱ってきた。男も女も関係なかったはず、だけれど……今日ばかりはどうしてか、魔理沙がいつもの魔理沙じゃなくて、“女の子の”霧雨魔理沙なものだったから、ひどくびっくりしたんだ。
 最後にもう一度だけ、深く息を吐いて、
「それもいいかな」と誰にも聞こえない声で、笑った。

 

 

 

 

「お待たせ」
「ずいぶん長かったじゃないか」
「魔理沙が急に恥ずかしがって出てこないんだもの。半分くらいは説得の時間よ」
「そんなことだと思ったよ」
「でもね、ちゃんと綺麗になったわよ。お姫様みたい」
「そう。うちの我儘姫が、ねぇ」
「魔理沙、ほら、顔見せなさいよ!」

 そっと、白い手袋が引戸のすきまからひょっこり現れて、そこからさらに金色の瞳が覗いていた。

「ほんとに、見せなきゃだめか……?」
「当たり前でしょう、そのドレスだって借り物なんだから。ちゃんと持ち主に見せないと」
「笑うなよ……笑ったらぶっ飛ばすぞ!」
「笑わないよ、僕は。それよりも、そこでぐずぐずしている君の方がおかしいね」
「うぅー……!」

 意を決したのだろう。小さな深呼吸があって、それからほっぺたを叩く音も聞こえてきた。
 ややあって。思いを切った勢いで戸が開かれると、そこには、

「……じろじろ見るなよ」
「どう、霖之助さん? 見違えた?」
「――……あぁ、これは中々。馬子にも……いや、やめておこう。似合ってるじゃないか魔理沙。ほんとう、良く似合ってる」
「っ、ほんとうに? ほんとにほんとうに?!」
「ほんとにほんとうだ。僕はお世辞を言うのが苦手だしね」
「ぁ……やた、やったっ……ふふ、うふふ!」

 今の彼女はしあわせそうに見えますか? と人に聞けば、百人が百人ともその通りだと答えるだろう。喜びの色に満ち満ちた、一等の笑顔。夢見る乙女が夢を叶えたその瞬間である。目には見えない恋の魔法がそこかしこに飛び散っていた。見る人を恋に落とす魅惑の魔法だった。花嫁姿を見て、というのはてんで順序がおかしいけれど、そんなつまらないことを気にする者は、三人の中にはいない。

「ねぇ、霖之助さん。私あの魔理沙に見覚えがある気がするんだけど……」
「奇遇だね霊夢。僕もそう思ってた」
「白い服を着て、」
「うふうふ笑ってる、」

 うふふ、うふふと少女は笑う。しあわせすぎて自分を見失ってしまったのか、それとも純真だった昔の自分に戻っただけなのか――真相は魔理沙にしかわからない。魔理沙でさえわからない……いや魔理沙だからこそ、わからないほうがいいのかもしれない。


 ――――ウェディングドレス


 それは多くの時と場合において、年頃の少女たちの夢と憧れだった。



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