□ReSTARt 第三話
タイムトラベルなんていらない。
私は後悔なんてしない。
彼女と過ごした時間は尊くて、だからこそ私は、絶対にそれを傷つけるような真似はしない!
……なにがあろうともって、そんなふうに、考えていたはずなのに。
私は思い知った。永遠なんてものはどこにもない。そんな当たり前の現実に撃ち抜かれて、胸にぽっかりと風穴が開いた。乾いた大気が空虚な胸を埋める。生傷にじくじくと沁みて、そのあまりの苦痛に泣き出しそうになる。やめて、私の想い出を穢さないで。隠していた気持ちを引き出さないで。お願いだから、押し殺させて!
……だけども溢れてくるんだ。膿みきった想念が、情感が、止め処なく体の内から押し寄せては、足元に黒ずんだ水溜りを広げていく。重油のように粘りつきまとわりつくそれは、やがて彼女の無邪気な一言を着火剤にして、瞬く間に深紅色の激情を燃え広がらせた。
こんなのはいやだ。
まだやり残したことが、たくさんあるのに。
蓮子に会いたい。
会い続けたい。
▽
主要な科目の講義で使う教室や実験室を寄せ集めた棟をキャンパスの中心とするなら、6号館はそこからすこし離れたところに、まるで息を潜めるようにひっそりと佇んでいる寂れた区画だった。私たちの大学に二つあるサークル棟の一つなのだが、とりわけ人数の少ない同好会や活動実績の芳しくない部ばかりが押し込められているのが特徴で、学生の間ではもっぱら“ねぐら”なんて呼び方をされている。おそらくは根暗という言葉とかけているのだろうが、その呼称は思った以上にあの場所の空気にしっくりと当てはまっていた。気の合う仲間たちとだけで過ごす、他の誰にも侵害されないテリトリー。部室が狭くたって、時たま冷暖房がきかなくなったって、それでも住人にとってそこは安心で満たされた空間なのだ。
そんな素敵な居場所を持っている彼らのことを、すこしだけ羨ましいとも思う。
同好会の基準も満たすことができないたった二人きりのサークルには、部費はおろか部室だって与えられてはいないのだから。
今日もどこかの部屋からは、なにをしているのかわからない珍妙な音楽が廊下に漏れ出している。ねぐらの住人と遭遇する機会はあまりない。みんな自分たちの部室に閉じこもって、互いに干渉し合うことを極力避けているようだった。そんな様子だから、部外者であるはずの私が堂々と廊下を歩いていたって、誰にも気に留められることなんてない。自分の世界に夢中になっている彼らを横目に、私は廊下を通って階段の方へ。二階、三階と昇って行き、最後に五階の勾配のきつい階段をおっかなびっくり進み終えると、屋上へと続く扉の前に辿り着く。鍵は階段の手すりの裏側にガムテープで貼り付けて隠してあるのを知っていた。階下に居城を構える天文同好会はここの屋上の鍵のスペアを持たされているけれど、彼らの施錠管理がずさんなことはとうの昔にリサーチ済みだ。
扉を開く。吹き入る秋の風が心地良い。屋上は四方を背の高いフェンスに囲まれて今ひとつ開放感には欠けていたけれど、それでも眼下を見下ろすには申し分なかった。外周に沿ってぐるりと歩きながら、視線を地上へと向けてみる。茜色に焼けた秋空の下、グラウンドでは運動系のサークルが精よく活動に勤しんでいた。その先に見えてくるのは研究棟。年中二十四時間灯りの絶えることのない不夜城で、以前は蓮子もそこの住人のうちの一人だった。やがて屋上の南側に出ると、正門まで続く幅広の舗装路が見えてくる。学生が数人、仲良さげに肩を並べて帰路へと着いていた。
ここからは、いろんなものが見える。たくさんの人々の営みが伝わってくる。距離は遠く離れているから、もちろん表情や顔色なんてわかるはずもない。だけれど、だからこそ、それを想像してみるのはちょっとした暇つぶしにもなって。あぁ、あの背中はレポートに厳しい採点を付けられてへこんでいそう。あっちで駄弁っている二人組みは恋人同士なのかな、なんて。そんなことをぼんやりと考えていると、ふと視界の隅に見慣れた影を見たような気がした。活発そうな帽子の女の子と、その子に手を引かれて連れられていく髪の長い女の子。私たちのようだ、とそう思った。とても楽しげな様子に見える、きっと二人とも満面の笑みを浮かべているに違いない。これからどこに行くんだろう。連れ立って遊びに行くのかな。そんな時間があるなんて羨ましい、それと同時に、懐かしい、とも感じた。私たちにもあんなころがあったんだ。どんなことをしていたって、二人でなら無条件に楽しいと思えた日々が。
まるで、昔の私たちを見ているみたいだな、なんて。
考えてから、思わず噴き出してしまう。
まさに今、私たちは過去の自分に会いに行く計画を進めているところなのに。
――タイムマシンを、用意すればいい。
蓮子の言うことはいつだってストレートだ。思いついたアイデアをさして研鑽することもなく口にしては、名案だ妙案だと言ってなかなか取り下げてくれようとしない。強く否定しない私にも落ち度はあるのかもしれないけれど、それにしたってあの台詞は、いつ思い出しても眩暈を引き起こしそうになる。
「――こういうことって、やっぱりイメージが大事だと思うのよ。とりあえず見てくれだけでも立派なマシンを持ってきて、それを起点に境界を開くようにすれば上手く行くんじゃないかしら。モチーフがあるならメリーもやりやすいよね? 一から作るわけじゃないし、ちょっと借してもらうだけだから、お金も時間もリーズナブル。うん、抜かりないわね、この方法でいきましょうよ!――」
ポケットから携帯電話を取り出して表示を確かめる。着信も、メールの受信も共に0件だった。あのタイムマシン宣言の後、一週間ほど時間が欲しいと言い残したきり、蓮子はどこかへと飛び出して行ってしまった。今ごろはあちこち駆けずり回って、そのタイムマシンとやらの借り出しに奔放しているんだろう。どんな当てがあるのやらまるで見当も付かない。連絡のひとつでも入れてくれればいいのにと思うけど、夢中になっているだろう彼女には、きっと私がどんな気持ちで帰りを待っているかだなんて、想像する余裕もないんだろうな、
「……っ、と」
なんて、そんな愚痴を零しかけたところで握っていた携帯が震えだす。噂をすればなんとやら、見ればディスプレイに表示されていたのは他でもない“宇佐見蓮子”の名前だった。通話ボタンを押して耳を傾ける。聴こえてきた第一声は、『はろう』なんていう気の抜けるような挨拶だった。
「ごきげんよう蓮子。五日ぶりかしら。連絡も寄越さないでいったいなにをしていたの?」
『いやぁ、ごめんね。ちょっと交渉に手間取っちゃってさ。でももう大丈夫、ちゃんとブツは確保できたから!』
声の調子はご機嫌そのものだ。電話の向こうでどんな顔をしているか容易に想像がつく。だけども、彼女がそんな様子だということは、どうやらほんとうにタイムマシンとやらを手に入れてしまったらしい。なんだか素直に喜べないのはどうしてだろう、というかさっきから不安が募りはじめている。タイムマシンって、いったいどんな代物なんだろうか……
『二、三日もあればそっちに運べると思うから。もうしばらく、首を長ーくして待っててね』
「ちょ、ちょっと蓮子。運ぶってどういうこと。あなた今、どこにいるのよ?」
『実家だけど?』
「東京!? また里帰りしてるだなんて、私そんな話聞いてないわ!」
『だから今回はタイムマシンを探しに来たんだって。実家に当てがあったのを思い出してさ、取りに帰ったってわけ。お父さん、びっくりしてたなぁ。“アレ”を貸してって言ったら、俺の宝物をどうするつもりだ、なんて言い出して』
私の驚愕ぶりなんて、彼女はちっとも伝わっていないようで。父親との舌戦の始終を得意げに語っては、私ってやっぱり凄い、なんて言葉で締め括る。相手が親でも私でもそのマイペースぶりはおなじことのようだ。同情の涙が一筋、頬を伝い落ちていく。
『そんなわけでメリー、そっちについたらまた連絡するね。じゃあ、またね』
「あ、蓮子! ――もう、切っちゃってるし」
連絡してくるのが突然なら、それを断ち切られるのも突然で。しばらくの間茫然と携帯を見つめた後、はぁ、と大きなため息が体の内側から押し出された。
どんどん外堀を埋められてしまっているような気がしてならない。次こそは本丸に攻め込まれて、逃げ場を失ってしまいそう。ここまで来たら覚悟を決めろと、そんな決断を迫られる。だけどもそんなこと言われたって、簡単に「はい」と頷いたりできるものか。臆病と言われたっていい、優柔不断とばかにされてもいい。悩んで、悩みに悩み抜いて、それでも決意なんてできそうにないほどに、今度の旅行は“大それて”いるのだから。
ねぇ、蓮子、あなたほんとうにわかっているの。
もしかしたら私たち……神さまに、なろうとしているのかもしれないんだよ?
時間を超える。過去に戻れる。それはもしかしなくとも、すべての人間がいちばんに望んできた、けれども決して叶えることのできなかった願いを、叶ってはいけない奇跡を――実現してしまうかもしれなくて。
やり直したい。
繰り返したい。
あの素晴らしい日々をもう一度、取り戻すことができるなら。
「……なにばかなこと考えているのよ、私……」
ぎり、と奥歯を噛み締める。固く握り締めた拳にはしっかりと痛覚が通っていた。よかった、まだ、人間だ。この体の内側にはちゃんと人間の、マエリベリー・ハーンの血が流れている。その熱さが確かなかぎり、私は私のままでいることができる。道を踏み外したりなんてしない。自分を見失ったりなんて……
だけども、一度でも心に芽吹いたその感情は、どうやっても摘み取ることができなくて。
根を張り、双葉を開かせて、ゆっくりとその存在感を大きなものにしていく。いずれは蕾を付け、花を開かせる時だって来てしまう。
そんなのはだめだ。
あってはならないことなんだ。
だから、ねぇ蓮子、できることなら急いで帰ってきてほしい。そうして、また私の手を握ってはくれないかしら。私がどこかへ行ってしまわないように、誰かの魅せる華やかな幻に攫われてしまわないように。私ってね、ばかなのよ。知らない人には付いていっちゃいけないって、そんな当たり前のことさえ守れなくなりそうなの。だって魅力的なんだもの。夢、みたいなんだもの。“過去”の幸福さも甘美さも、そうやって与えられる恍惚とした感情だって、私はなにもかもすべてを憶えているのだから。平穏な日常というものは、ともすれば強力な麻薬のようなものなのかもしれない。失われるかもしれないとわかれば守りたくなるし、再び手に入れられると知れば躍起になって手を伸ばすだろう。変わっていくものを変えたくない。変わってしまったものを元に戻したい。当たり前の願望。だけれどすべてそれは――許されざる禁忌。
私の“敵”は……
▽
呼び出しはそれから三日後の深夜だった。日付の変わるころ、大学の東側ゲートに来てほしい。そう電話口で伝えた彼女は妙に切羽詰った様子で、待ち合わせの連絡も二言三言で済ませると、あっさりと電話を切ってしまった。いったいなにがあったんだろうか。彼女の身になにか危険が迫っているというわけではなさそうだったけれど、運んでいるものがものだけに一抹の不安も胸に抱いてしまう。あれほど余裕をなくしてしまうなんて、よっぽど緊張することでもあったのだろうか。
とかく考えても仕方がない、状況を知りたくても携帯は不通ときたものだ。諦めた私は大人しく指定された場所へ向かい、星を眺めながら彼女の到着を待つことにした。秋の夜空はとても美しかった。フォーマルハウトやアルタイルの煌きは眩しく、ペガサスやカシオペヤ、うお座だってその輪郭をはっきりとさせている。こんなにか星が透けて見えるのは、日ごとに大気が冷たく研ぎ澄まされてきたためだろうか。頬を撫でる秋の夜風に、思わず体を身震わせる。
――蓮子と再会してから、またいくらか時間が経った。刻一刻と卒業の日は近づいている。私たちの、別れの日。今度こそ彼女は東京に帰って、京都に戻ってくることはない。会いに来てくれるかな、なんて淡い希望を抱くことは諦めていた。好きだった物理学の勉強を中断してまで、彼女は東京で暮らすことを選んだのだ。その決意を、私がいたずらに捻じ曲げていいはずがない。
お願いをすれば、きっと彼女は来てくれる。
会いたいと頼めば、無理にでも時間を作ってくれる。
だけどもそれはもう、秘封倶楽部ではないんだ。旧友として、かつておなじ大学で過ごした仲間として、懐かしみを持って接してくれるだけだ。そんなのは日常でもなんでもない。放課後、いつも私と一緒に過ごしていたあの時間は、彼女の日々のスケジュールの中からはもうすっぽりと抜け落ちてしまっている。彼女はすでに新しい環境の中にいた。私のいない未来図を、しっかりとその先に広げていた。
悔しかった。
罵倒してやりたかった。
裏切りもの、って、その背中にぶつけてやりたくて。
けれど彼女はなにひとつ間違ったことはしてない。むしろそれは誉められてしかるべき姿勢でもあるんだから。現実に向きあって、そこに折りあいと妥協点を見つけること。大人になるためのステップ、よりよいしあわせを築くための契約。そんな立派な彼女に向かって暴言を吐く資格が、どうして私に与えられようか。
だからこそ彼女が羨ましい。その眩さのあまりに、目が潰れてしまいそうなほどに。彼女はいつだって私の憧れだった。そう成りたいと願う目標であり、また私の進むべき道を標してくれていた。今度のことだってそう、彼女は身をもって私に教えてくれたんじゃないか。夢の時間が終わりを迎えようとしている――終わらせなければならないことを。そのためにどんな覚悟が必要か、なにを捨てていかなければならないのか。彼女自身の人生の選択をもってして、その方法を私に知らしめてくれたんだ。
道案内は、ここまで。
あとは私が、私の意志で決めて、私の脚で歩んでいかなくちゃ。
それなのに、あぁ……未来が、眩しい。
目を背けて、引き返したくて、たまらないよ!
「――ッ!?」
苦々しさに歯噛みする、そんな時ふと、現実の視覚が強烈な閃光によって灼き尽くされた。天上の星月夜のそれではない、人工の無機質な感触のする白光が、横殴りに私を照らしつけている。なにごとが起こったのか、光源の方をおそるおそる振り向いて――そのあまりの異様さに思わず呼吸を失いかけた。
鈍く輝くアルミボディの塊が、ぎらりと光る双眸で私を睨みつけていた。私に当てられた無遠慮な光の正体はどうやらその眼光らしい。今どき道路の街灯だって風情や情緒を考慮して控えめな明度に抑えられているというのに、“それ”の放つ光量ときたら、まるで昼夜を逆転させんばかりの迫力があった。
私がそんな怪物に脚を竦めていると、がたん、とそれが腕を広げて、その中から一人の人間が姿を現した。逆光で網膜が染まってよく見えない。……怖い、変質者だったらどうしよう。今すぐ大声をあげて逃げ出すべきだろうか。そんな逡巡が一瞬頭の中で繰り広げられ――しかしそこに飛び込んできた相手のものと思しき声は、私の予想に反してひどく疲れ果てた様子だった。
「た、ただいまぁ……」
「……蓮子っ! ちょっとあなた、いったいどうしたのよ、これ!?」
「タイムマシン、持ってきたよ……はぁ、こんなことなら自分で運転しないで代走頼むんだった。このバンパーの傷、帰ったら絶対怒られる……」
「運転って……これ、まさか、」
鉄塊から吐き出された影は待ちあわせていた彼女その人だった。だが、そこにいつもの快活さは見られない。すっかり体力を使い切って、疲労困憊とした様子である。いったいどうすればこんなにぼろぼろになるんだろう。その答えはどうやら、彼女が運んできたというタイムマシンそのものにあるようで。
一昔前には街中のどこでも見かけたその特徴的なシルエット、しかし時代の流れと共に、今では一部の好事家が趣味で扱うだけの娯楽になってしまった道具――自動車。彼女が運んできた、いや、乗ってきたものは、何十年前に生産されたかわからない旧式のハイブリッド車だった。それも、今では必須とも言うべきのオートドライブ機能さえ搭載されていないという折り紙つきのアンティークだ。
「まさかとは思うけど、これを一人で運転してきたって言うんじゃないでしょうね」
「いやぁ、これだけのものを見るとどうしてもね、自分で走らせてみたくなったというかなんというか」
「……あなた、ほんとうにばかね。東京から京都まで、いったいどれだけ距離があると思ってるの。新幹線で53分とはわけが違うのよ?」
「そこはほら、友人を置き去りにしてきたメロスの気分で」
少しずつ調子を取り戻してきたのか、へらへらと笑う顔に余裕の色が浮かんでくる。どうにも私の心配が伝わっている気がしない。多少時間を置いたくらいじゃ収まりをみせない無茶苦茶ぶりに、胃の辺りがきりきりと捩れそうになる。
「こんなアンティーク乗り回して危ないじゃないの。そこのバンパーの傷だって、どこかにぶつけて付けたんでしょう。……あなたまさか、無免許だったりしないわよね?」
にわかに不安を抱く。いくら彼女とはいえ、最低でも道路交通法くらいは遵守してくれていることを願う。
「それは大丈夫だって。今後必要になりそうだったから、今年のはじめにぱぱっと取っておいたの。でも、これだけ公道を走ったのははじめてかなぁ。カーブのところでいきなり対向車が見えてきたのにびびっちゃってさ、ちょっと大げさに進路を取ろうとしたらハンドルがぶれて、そのままガードレールをガリガリっと」
あわや大惨事なんて出来事を、まるで大したこともなさげに語ってみせて。そんなものだから私は、ついに面と向かって彼女を怒鳴りつけることができなかった。怒ることならいくらだってできる。なんて危険なことをしたんだ、私はあなたをそんな目にあわせたかったわけじゃないのに、って。
けれどそれは今でなくてもできることだ。すべてが終わった後に反省会でも開いて、その場で彼女を思いっきり糾弾してやればいい。もう二度とこんなことはしないでほしいって、なんでも一人で勝手に進めてしまうのはやめてほしいって。
だから、今はいい。せっかく彼女が笑ってくれているんだ、これ以上場を白けさせることもないだろう。
だって、これから私たちは、そんなこと以上に危ない橋を渡ろうとしているんだから。
「それにしても、どうして自動車がタイムマシンになるのよ。どう考えたって用途外の代物じゃない」
「過去の文献にそう書いてあったんだよ。大昔には、自動車を改造してタイムマシンの役割を持たせるなんて当たり前の時代があったんだって」
「オーバーテクノロジーもいいところね。仮にそうだったとしても、この車にはそんな魔改造が施された様子は見当たらないけれど」
「謂われさえあれば充分だよ。足りない部分はメリーの想像力で補えばいい」
「さりげなく、私にとても恥ずかしいことを強要しているわね、蓮子」
「そう? じゃあメリーは私が持ってくる予定のタイムマシンはどんな形をしてるって思ってたの?」
――言えなかった。よもや机を経由するタイプのアレでしたなんて、口が裂けても言えない。
「と、とにかくこんな大きなもの、いつまでもここに置いておくわけにはいかないんじゃないかしら」
「そうだね。とりあえず駐車場に停めてこようか」
東ゲートから駐車場までは目と鼻の先だ。昔はよく職員の車が停められていたらしいけれど、公共交通機関の充実した今ではその影もほとんど見当たらず、ただ広いだけのアスファルトのコートと化していた。
踵を返して彼女が運転席に乗り込もうとする、その前にふと私の方を振り返り、じっと視線を重ねてきた。私になにか言い忘れたことでもあるのだろうか、言葉を待っていると、彼女はきょとんとした様子で小首を傾げてみせた。
「乗らないの?」
「――え、っ」
「自動車。私だけ車に乗ってメリーは歩きなんて、ちょっと変じゃない?」
「駐車場まで50メートルもないじゃないの。そのぐらいどうってことないわ」
「やだ。せっかくだからメリーも乗って」
「もう、仕方ないわね」
乗りたくないと言っても無理やり押し込まれそうな雰囲気だったので、素直に頷いて助手席側のドアを開く。正直なところを言えば、すこしだけ興味があったりもした。京都の街中に自動車はあまり見かけない。乗り物といえば大勢を効率よく運送できる大型バスなどが中心で、こういった個人の自家用車というものは金持ちの道楽も同然だったからだ。
「やった、メリーと相乗りだ」
「なんでそんなに嬉しそうのよ」
「最初に助手席に乗せるのはメリーだって、決めていたんだもん」
よくわからないけれど、そういう決まりになっていたらしい。彼女なりのポリシーかなにかだろうか。なんにせよ私を選んでくれたことに、悪い気はしないけれどもね。
ドアを閉めると、車内は一気に閉塞感で満たされる。視界はフロントガラスに区切られているし、姿勢を正そうとするだけでも手足がどこかに引っ掛かって思うようにいかなかった。評価に値するのは、シートの座り心地が思いのほか快適だったことぐらいだろうか。
「よくこんな狭いところに閉じこもったままで三日も運転してこれたわね。私、すでにノイローゼになりそう」
「そう? 慣れてくると悪くないものだよ」
「ふぅん。でもこの閉鎖感、確かにタイムマシンっぽいと言われればそんな気もしてくるかしら」
これほど容易く密室を作り出してしまうものがあったなんて、ちょっと意外な発見だ。おまけに動力つき。まるで移動する結界のようで、もしかすると案外私たちにはお似合いの移動手段なのかもしれない。
二人でドライブ、そんなのもきっと、悪くないと思う。
次があったら……考えておいても、いいかな。
「それじゃ、ささっと動かしちゃいますかっと」
慣れた手付きでハンドルを取り、アクセルを踏む。三日間の武者修行を終えて運転技術もそれなりに身についたのだろう。するりと滑り出した車体は、それからほんの一分も経たないうちに屋外駐車場の一角へと居場所を移した。
「……いや、わかってはいたけれど」
「どうしたのメリー。ため息なんかついちゃって」
「なんでもない、ちょっと息苦しかっただけ」
そりゃあこの短い距離だもの、大した時間もかからないに決まってる。だけれどこう、雰囲気というものがあるじゃないか。ムードというか。はじめて二人で乗り合わせたのだから、もう少しこうぎこちなさというか、余韻だとか。
――やめよう、考えるだけ虚しくなる。
彼女の手でエンジンが切られる。ヘッドライトも消灯すると、瞬く間に車内は薄ぼんやりとした闇色に包まれた。星月の光も、薄い天板に遮られて見上げることはままならない。さっきまでの唸るような駆動音や、表の雑踏さえ届かなくなった車内は耳が痛くなるほどに静かで、聴こえるものは互いの規則的な呼吸の音ばかりになった。
にわかに沈黙が横たわる。座席間の一メートルにも満たない距離なんて会話ひとつで縮まってしまうはずなのに、どうしてかその空間が埋められない。
ほんとうに、息苦しいったらありゃしない。
もどかしさに煩悶とする。声をかけようか、手を伸ばそうか、そのどちらとも彼女は望まないし、そうされることを私もまた望んでいなかった。次に行動を起こした時、私たちはほんとうの意味でのアクセルを踏み出す。お互いにそれをわかっているからこそ、すっかり身動きが取れなくなってしまった。
けれどもそれは、今の私たちには必要な時間であるような気もして。
じっとしていると、浮き足立っていた心がようやく地に足をつけてくれる。彼女の声で、笑顔で、存在感で、薄れていた現実の影が今一度色濃く浮かびあがる。不安だった。心配ごともたくさんある。緊張で胸は張り裂けそうで、臆病がこの身を逃走に駆り立てんとして。だけどももう、無意味なのだ。結界は閉ざされた。この車中はすでに境界の狭間に位置している。ここからどこにも行けないし、どこにでも行ける。舞台は整っていた。後はすこしばかりの無謀が、背中を押してくれるのを待つばかり。
「――最後に、確認をしよう」
凍りついたかのように静止した空気を、先に震わせたのは彼女の方だった。小さく頷いて、応える。
「私たちは過去へ跳ぶ。私たちが最初に出会った、すべてのはじまりの時間に」
言い聞かせるような口調。私に、あるいは自分自身に対して誓うように。それは決意の表明であると同時に、忠告と宣誓をも兼ね備えた言葉だった。
これは宣戦布告だ。
私たちはこれから世界を脅かす。
世界中の、ありとあらゆる存在に対する、敵になるのだ。
「約束は三つ。“私たちは、私たちに直接会ってはいけない”“過去の私たちの行動に矛盾を生むようなことをしてはいけない”“あれこれと人やものに干渉して、蝶の羽ばたく回数を無闇に増やしてはいけない”――これを守れなければ重大なパラドックスが発生して、私たちの存在が、未来が消し飛んでしまう可能性がある。世界線の変動はできるかぎり最小限に。変えてしまうかもしれない因果の種は私たちのすぐ身近にあるんだもの……その結果は、私たちの“今”にダイレクトに影響を与えるわ」
大勢の人と出会えば、過去には存在しなかったはずの情報が蓄積されていけば、それはやがて折り重なって大きな波となり、私たちがこの瞬間存在している未来を消し飛ばしてしまうかもしれない。……かもしれない運転、か。車と一緒。交通ルールを守らなければ、決められた道を走らなければ、飛び出してくる歩行者に注意しなければ……なにもかも、おしまいだ。
「まぁ、早い話がね。有給も取らずにずる休みして、人目を忍んで出かける日帰りの温泉旅行みたいなものよ。会社の上司に出くわしたり、家で寝込んでたっていううそがばれたりすれば、そこで人生ジ・エンドってこと」
「もっと他に言い方はなかったの? なんか、急に庶民くさくなったのだけど」
「私たちは世界を滅ぼしに行くわけじゃないんだからさ、せいぜい小物らしくこそこそやりましょうよ。楽しもう、メリー。楽しかったって証明しよう。昔の私たちに直接見せつけてやれないのは残念だけど……代わりに、後ろから指をさして囃し立ててやろうよ。このしあわせもの! ってね」
すっ、と左手が差し出される。薄闇の中に浮かぶ、その肌の白さは見惚れるほどに綺麗だった。息を呑む。さぁ、決断の時だ。その手を取ればすべてがはじまり、すべてが終わる。秘封倶楽部の終焉、その最後に待ち受けるものは、果たしてどんな色形をしているのだろう。
願わくはそれが、かつてないほどに輝かしいものであることを、信じて。
「――眼を、閉じて」
ぎゅっと握り締めた温度は熱かった。触れる肌を通して、彼女の脈動が伝わってくるかのよう。溶けあい、混じりあい、一体となる。固く眼を瞑るとその感覚はいっそう強くなり、どちらからともなく指先を絡めて、結ばれた。
「私たちが、最初に出会ったのは?」
「春、桜が咲いてた……そう、入学式の日、正門で。じっと立ちつくしているメリーを、私が見かけて、それで……」
「じゃあ、イメージして。私たちのはじまりの瞬間を、時間を、世界を――」
体の奥底から得体の知れない熱量が溢れ出して全身を満たす。ちっぽけな体に収まりきらなくなると、それは外界へと漏れ出して周囲の大気と混濁しはじめた。足元から生ぬるいものが纏わりつき、肌を侵してゆく譫妄。だけれども叫び出さずにいられたのは、それ以上の灼熱を帯びた手のひらの感覚が際立っていたから。やがて微熱が車中を満たし、界面が首元にまでせり上がると、ついに呼吸さえ苦しくなって水槽の魚のように口を喘がせた。だけれど、その行為がまずかった。澱みきった空気が一瞬にして肺腑へと流れ込む、そのあまりの息苦しさに私は思わず噎せ返って咳き込んでしまう。込み上げてきた涙を空いた手で拭おうと、薄く瞼を開けたその瞬間――
“眼”が、あった。
眼。眼。一面の眼。私たちを覗く眼。窺う眼。睨む眼。察する眼。監視する眼。射抜く眼。射殺そうとする――眼!
私たちは、世界の敵になる。
視られている。
なにもかもを。
だから……なんだっていうんだろう。
お前たちはそこで黙って見ていればいいんだ。
どんな手出しだって、この私が許さない。
邪魔なんてさせない。
酸欠に遠のいてゆく意識の中で、誓う。
たとえ世界に刃向かったって、
私は、私の望む過去を、やり直してみせる。