□ReSTARt 第二話
東京に帰る。
秘封倶楽部はもう、おしまいだ。
だから最後に、卒業旅行をしよう。
「――っ、」
ぞくり、とした。胸の中に、希望と絶望がおなじだけ押し寄せる。秘封倶楽部をやり直せる。私たちの終わりに、もう一度だけ……。あぁ、待ち望んでいたとも。またこんな日が来ることを、彼女と肩を並べて未知を探しに行ける日を、どれだけ切望していたことか! ほんとう、長らくご無沙汰だったんだから。蓮子ったら忙しいの一点張りで、私と会う時間なんてものはなにからなにまで二の次で。でも、やっと落ち着きを取り戻すことができた。平穏な日常が帰ってきた。私たち、秘封倶楽部の日常だ。愉快で、無邪気で、ちょっとだけスリリングな毎日を、また……
だけど、
それは以前とは比べようもないほど、永遠からは程遠くて。
帰ってきたものは、片手で掴んでも少なすぎるくらいの、ほんのわずかの猶予だけ。今まで積み重ねてきた時間の密度に比べれば、あまりにも短すぎる。たった一度だけ、なんて、生殺しもいいところだ。まだまだ彼女と行きたい場所がたくさんある。彼女と過ごしたい時間は、一生を費やしたって足りないくらいなのに!
……天秤、なのかな。
これが釣り合いの取れる妥協案で、もし私がこれ以上欲を張るようなことがあれば、そのバランスはあっという間に崩れてしまって。楽しいこと、嬉しいこと、夢中になれること。手放したくなんてないけれど、だけどもそればかりじゃ世界は回っていかない。どこかに必ず代償と代価が求められ、支払われなければ、無理やりにでも奪われる。
交渉の余地なんてない。取引相手は言葉の通じる誰かじゃない。世界、運命、陳腐な言葉でしか表現できないような奴らだけれど、だからこそ実態なんてありはしなくて、ただでさえ無力なこの手には、抗う術なんてひとつもない。
取るべきか、取らざるべきか。私にはただ、二つのうちどちらかを選ぶ権利が与えられただけ。
掴み取り、幸福を経て、失意に至るか。
跳ね除けて、渇いた心のまま離れ離れになるか。
「私、私は……」
そして私は――選んだ。差し伸べられたあの手を取った。救いのように見えたんだ。私を泥沼から引きずりあげてくれる、蜘蛛の糸のように。溺れるものは藁にも縋る。そう、私は溺れていた。変わりすぎてしまった日常の波に乗り切れず、押し流されてしまう寸前だった。どこへ流されて行くのだろうという不安。未来は河口だ。卒業の果てに待ち受ける世界はきっと大海。なんでもできるし、なんにもできない。航海と漂流はまるで違う。泳ぎ方も知らないままでは、あっという間に沈溺して、藻屑となって消えていく。
そんなのは、やだな。
誰だって、死にたくなんてないよ。
生きて、しあわせになりたい。
――でも、今まで充分、しあわせだったじゃないか。
あぁ、私、私ったらほんとうに欲張り! 今までがしあわせで、それを失いたくなんてなくって! だから一時でもいい、あの頃の幸福が取り戻せればって、そうなる選択肢を選んで――なのに今度は、そうやって手にしたしあわせの小ささに、短さに文句をつけている。これじゃ足りないって、もっともっと欲しいって……。まったく、最低の考えじゃないか。普通、こんなことってないんだよ。彼女が、蓮子がどれだけ私のために身を削ってくれているか、ほんとうに理解しているの? すこしは彼女に報いるべきだろう。私のために、いや、私と最後に想い出を残したいと言ってくれた彼女の願いを叶えてあげるべきだ。これはもう、私一人が勝手に選んで決めてしまっていいものじゃないんだ……
だって、私たちは秘封倶楽部だ。二人でひとつの、比翼連理の間柄だ。
どちらかが羽を休めたら、あっという間に墜落してしまうよ。
「……蓮子、それがあなたの望みなの、ね」
縮こまらせていた体を伸ばし、被っていた毛布を捲りあげる。部屋の中は薄暗く、現在の時刻ははっきりとしない。夕方だろうか、それとももう夜になってしまったかな。虚ろな視線で部屋の中を見渡していくと、ふと机の上にある四角い輪郭が目に留まった。なんとなく気にかかって、手に取ってみたくなる。もぞもぞとベッドを這い出して机の前まで移動すると、影絵の正体はすぐにわかった。どこにでもありそうなポートレイト。薄闇の中でも、アクリルの表面がいやに輝いて見えるのはどうしてだろう。きっとそれは、そこに映り込む人物の表情が、一点の曇りもない明るい笑顔を浮かべているからなのだと、そんなふうに感じた。
私と、彼女。
マエリベリー・ハーンと、宇佐見蓮子。
「懐かしい」
思わず声が零れ出す。いつの写真だろう。こんな写真を飾っていたことさえ、今の今まで記憶から抜け落ちていた。それぐらい、私にとってこれは当たり前の風景だった。写真を飾るまでもなく、二人で会うたびに、ここにあるものとまったくおなじ光景が繰り広げられるのだから。笑いあい、分かちあい、共に手を繋いで幻想を視る。どんな記憶だって華やかで忘れがたい。それこそ、毎夜夢にまで見るほどに。
蓮台野に行ったよね。墓荒らしの真似事をした挙句、後になってから怖くなって、二人でびくびくしながら専門の人にお祓いをしてもらった。卯酉新幹線にのって、蓮子の里帰りに着いて行ったりもした。樹海の下を通った辺りで新しい境界の綻びを見つけた時は焦ったものだ、そのまま新幹線から飛び降りようなんて言い出すんじゃないかと思って。ケーキが美味しいと評判のカフェテリアにも行った。蓮子の物理学の話に長々と付き合わされたせいで、翌日には体重が五百グラムも増えてしまっていた。
どんな出来事だって全部、思い出すことができる。
色褪せることなく、当時の匂いを、温度を、空気を、ありありと蘇らせることができる。
長い時間をかけて築いてきたもの。私の記憶、想い出、あるいはここにいる私そのものの礎となったもの。もし、秘封倶楽部がなかったなら、この瞬間自分はどんな生活をしていたんだろうって。いたって平凡な学生として卒業を迎えようとしていたかもしれないし、もしかすると、大学を辞めてしまっていたかもわからない。少なくともこんなふうに思い悩むことはなかったろう。昔を振り返ることなんて。思い返せば私は存外しあわせだった。胸を張って言える。非日常の側に身を投じてきた私は、ごく普通の安穏とした日常を送った人より、何倍も、何十倍も、幸福だった。
そんな奇跡的な出会いの終焉に。
私たちはこれまでに負けないくらい、いっとう眩しい想い出を創りあげることができるだろうか。
私たちの卒業旅行の記録を、私たちの活動日誌の最後に、ちゃんと記すことができるだろうか。
とてもしあわせな日々でした、おしまい。
そんな一文でもって、締めくくることができるのかな。
過去のことははっきりとしている、でも、未来のことなんてなにひとつわからない。なにが待ち受けているのか、安寧か試練か、天国か地獄か。どうしてだろう、今までのサークル活動は、きっと素晴らしいものになるはずだってなんの疑いもなく信じることができていたのに。今度のことだって秘封倶楽部としての活動には違いないのに、なぜこんなにも心細いんだろう。圧し潰れてしまいそうになるんだろう。
「お願いよ……手、離さないでいてね。ずっと握っていてよね、蓮子……」
不安な時はいつでも彼女が隣にいて、手を握っていてくれた。今度だって、彼女は私の手を引いてくれたもの、大丈夫だ、心配することなんてなにひとつない。彼女が導いてくれる未来に間違いはないんだ。私はただ信じてついていけばいい。おっかないなら目を瞑っていたっていいんだぞ。この手に触れあうものがあるかぎり、私は、どんな暗闇にだって呑み込まれやしない。
写真の中の私たちを真似して、くしゃりと笑顔を作ってみる。
途端に、わけもなく涙が溢れ出してきて、私はうずくまってしばらくの間嗚咽を噛み殺していた。
▽
再会の日から一週間後、私の姿は大学のカフェテリアの中にあった。午後の講義がもうはじまっているせいか、辺りにいる人の影は疎らで、広いスペースを占領しても誰にも文句を言われることはない。そうやって確保したテーブルの上には、旅行雑誌や観光マップが乱雑に散らかっている。卒業旅行の行き先を決めるにあたってかき集めてきた資料で、表紙には“心霊特集”や“オカルトファン必見”といったいかにも怪しげな見出し文が踊っていた。
秘封倶楽部と言えば、オカルト。
オカルトと言えば心霊。
安直な論理で資料を集めてはみたものの、そのあまりのB級ぶりに私の口からは思わずため息が零れ出す。実際のところ今まで私たちが境界を暴いてきたのはそういった曰く付きの場所でのことが多いのだけれど、それにしたってこの胡乱さはないだろう。大仙古墳に秘められたピラミッドパワーだの、伏見稲荷の嫁入り行列見学ツアーだの、もう清々しくなるくらいにうさんくさいじゃあないか。
違うんだ、どれもこれも、なにかがずれている気がしてならない。
そうじゃないだろう、秘封倶楽部って。
こんなんじゃ、せっかくの旅行が台無しだ……
「はろう、今日も精が出るね、メリー」
もどかしさに押し潰されそうになって、机の上にぐったりと突っ伏す。そんな私の頭上からかけられた声に、私はますますお腹の辺りが重苦しくなる気分だった。
「こっちの方が、よっぽどオカルトよね……」
「うん?」
「ごきげんよう蓮子。今日も早いわね」
「病みつきになっちゃうねぇ、五分前行動」
姿を現したのは蓮子だった。彼女とはここ一週間の間に何回か、こうやって顔を合わせて卒業旅行の計画を練る時間を設けている。驚くべきところは、彼女がこの会合にまだ一度も遅れてきていないという点。どうやら長らく多忙に追われている間に、すっかり遅刻魔を卒業してしまったというのは真実らしい。人間変われば変わるものだと思う。あまりに真人間になりすぎたものだから、私にはなんだか空恐ろしい感情さえ抱くのだけれども。
「失礼なこと考えてるでしょ」
「滅相もございません」
「それ、見せてよ。また新しいの取り寄せたんだ?」
「Bマイナス級だったわ。期待しないでね」
「してないよ」
ぷう、とその頬っぺたが膨れている。小ばかにされたと思って、ちょっと拗ねているのかもしれない。
差し出した資料を受け取ると、彼女は小慣れた手つきでページを流し読みしていった。ほんとうに目に入っているのかと疑いたくなるような速さだけれど、彼女に言わせれば波長の合う記事を見つけた時はしっかりと手が止まるから問題ないらしい。なんて素晴らしい能力だろう、それなら私がいちいちああでもないこうでもないと頭を悩ませることなんてなかったじゃないか。不安要素があるとすれば、かつてその能力が発揮された機会が一度もないということだけれど。
「ふむ」
一冊目。反応なし。二冊目。応答なし。三冊目。興味なし。なにかの仕分け作業を思わせる機械的動作で、私の寄せ集めたペーパーがちり紙へと転職を遂げていく。四冊目。価値なし。五冊目。意味なし。その鮮やかな手腕は思わず見蕩れてしまうほどで、気がつくと私の目尻にはなにか熱いものが込み上げてきていた。
「――っと、おっしまーい」
「それで、結果は?」
「小隊、全滅でありますよメリー軍曹。これは責任問題だね。あなたには軍法会議の上、厳重な処罰が下されることでしょう」
「殴っていいかしら」
他ならぬ彼女が切って捨てた雑誌をひとつ丸めて、即席の刀剣を作り出す。振りかぶって切りかかる真似をすると、きゃあきゃあと悲鳴を上げて逃げ回った。あぁ、人の少ない時間とはいえ、点在する周囲の視線はやっぱり痛い!
「ちょっと、やめなさいよ蓮子、恥ずかしい!」
「交渉は武装解除後に応じるわ」
「ああもうっ」
ああ言えばこう言う。いい年をしてまるで子どものように振舞う姿には嘆息せずにはいられない。ばかみたい、私も一緒になってなにをやっているんだか。
「いいから座って、もう追いかけ回したりしないから」
「ん、わかった」
そう言って大人しく向かいの席に腰をかけてみせるけど、その目にはまだ無邪気な灯が爛々と輝いている。楽しくて仕方がないって、そんな気持ちが伝わってくるかのよう。だから彼女は卑怯だって言うんだ。そんな視線を向けられて、強く言い返すことなんてできるわけがないじゃないか。甘いなあ、私。だけれどそんな私の甘さを知っていて悪ふざけをする彼女は、ほんとうに小賢しい人だと思う。
「あなたの選定眼は厳しいわね。これだけ集めたのだから、なにかひとつくらいはお眼鏡に適うんじゃないかって思ったのだけれど」
「どうにも、ぱっとするものがなくて。いや、きっとこの中にだって、突き詰めれば結界のひとつやふたつは見つかるかもしれないよ? けどさ……」
今までサークル活動の企画を立てるのはもっぱら彼女の役割だった。裏の裏だか、アンダーグラウンドだかよくわからないコネを使って、彼女はしばしば怪異や幻想にまつわる話を仕入れてくる。そうやって彼女が入手してきた情報は、往々にしてはずれを引かないものだから大したものだと思う。
そんなものだからきっと今度の卒業旅行の計画も、彼女が一から十までをセッティングしてくれるものだとばかり思っていた。私はいつものように彼女の後をついて行って、旅先で境界の綻びを見つけるだけ。役割分担と言うには、少々彼女の荷が重いような気もするけれど、生来の企画屋精神があるらしい彼女にしてみれば、それは苦痛でもなんでもないのだという。
だけど、今回は違った。
珍しいことに彼女は、私も一緒に行き先を考えてはくれないかと、そんなお願いをしてきたのだ。
「けど、なによ」
「……上手く、言葉にならないや。だけどね、そう、今までとは違うなにかがしたいかなぁ、なんて思ってさ。だってこれが最後になるんだもの、派手にぱぁっと締め括りたいって思わない?」
「私は……あなたとならどこだって、きっとなにをしたって満足できるわ」
「うん。それは私もおなじ気持ち。だからこそだよ、メリー。どこへ行っても楽しめるなら、その中でもいっとう素敵な場所へ行こう。後悔をしないように、じゃなくて、想い出をより素晴らしいものにするために」
その口調は未来を信じて疑わない。この先にあるものが私たちを裏切るかもしれないなんて、そんなことはちっとも考えてやいないんだろう。
未来のことなんて不透明だ。足を踏み入れてみるまでは、輪郭だって掴めやしない。
そんなやつを相手に私たちができることといったら、せいぜい心構えをしておくことぐらいで。
期待で胸を膨らませるか、不安に体を戦慄かせるか。
そういうところは私たち、全然似ていないよね、蓮子。
こうして仲良くお喋りしているのが、不思議なくらいだ。
「無難な道は選びたくない、ね。あなたの冒険家気質には恐れ入るわ。怖いものって、あるの?」
「無謀のあまり実験でやらかしちゃった時のレポートは最恐の敵かな」
「去年の春先だったかしら、第二実験棟のボヤ騒ぎ」
「……ノーコメントで」
視線を逸らされた。どうやらトラウマに触れたらしい。
「いいわ、あなたが納得のいく内容がないというのなら、そこにある資料は全部なかったことにしましょう。だけど困ったわね、これじゃ振り出しに逆戻りだわ」
彼女が仕分けた雑誌をまとめて、トートバッグの中にしまい込んだ。後でコピー室のシュレッダーを借りて処分してしまおう。さようなら私の努力。こういうのってどんな些細なことでも、実を結んでくれないと胸がもやもやとするものらしい。
「私も、イヤって言っておいてあれなんだけど、これといって良い案があるわけじゃないんだよね。……ごめん、時間がなくて」
「言わない約束」
「うぅ」
しゅんとなる。なんだか叱られた大型犬みたい。帽子を取ったら、その下から犬の耳がひょっこり飛び出してくるんじゃないだろうか。
好奇心から彼女の顔を覗いていると、ふと視線と視線がぶつかった。私の意見をぞんざいに扱った手前、彼女はきまりの悪そうな顔を浮かべている。別に責めたつもりはないんだけれど。相変わらず妙なところで律儀になるんだから。お互いこのままでは居心地の悪くなってしまう空気が読み取れたので、私は先手を打って話題を振ることにした。
「こうやって思い返してみると、秘封倶楽部ってずいぶんといろんなことをやってきたのね」
「そう、だね。そっか、なんかしっくりこないって思ったら、だいたいのことは経験済みだったんだよね」
蓮子の言うところのぱっとするものがないと言うのは、要するに私の提示したプランがどれも“昔似たようなことをした憶えがある”ものばかりだったということだろう。霊場めぐりや境界探索、似非科学の真相に迫ってみたり、あるいは未曾有の怪奇に迫られてみたり。普通なら想像もつかないようなとびっきりの非日常を、私たちはこれまでに何度も積み重ねてきた。ともすれば、そういった経験値が溜まっているせいで、すこしばかり常人とは感覚がずれてしまっているのかもしれない。俗な言い方をすれば、舌がすっかり肥えてしまっているのだ。
「贅沢なこと考えてるんだろうなぁ、私たち」
「だって、セレブですもの」
非常識も非現実も、慣れてしまえば日常の歯車のひとつとして組み込まれてしまう。はじめからそこに存在していたかのように、それが当たり前であったみたいに。そんな日々どれだけ貴重なものだったかなんて、こうやって思い返す機会がなければ自覚することもできなかった。
特別な私たち。星を視る異能。境を視る異能。ふたつの眼は引かれ合うようにして出会い、そしてその視線はともに幻想の果てを映し出してきた。
夢物語のような、だけれどもこの脳が記憶している、確かな現実。
「私たちは、特別」
「選ばれた人類なんて、漫画の主人公みたいで恥ずかしいわ」
「でも、私たちは世界を救わないし救えない。むしろちょっかいをかける側だしね。“あっち”からしてみたら、そうね、侵略者に見えていたりするのかも」
「エイリアン呼ばわりはされたくないわね、せめて貴重な外貨資源と捉えてくれていたらありがたいのだけれど」
「メリーの本職は筍泥棒でしょ?」
「また叩かれたいのかしら」
じろりと一瞥。あたふたと慌てる彼女の百面相が面白くて、思わず声に出して笑ってしまう。
「非暴力! もう、メリーがこんなに短気だったなんて。出会って最初の頃は、おっとりしてる羊みたいな子だと思ってたんだけどなあ」
「あら心外ね。私ってこう見えても感情家なのよ? それに私からしてみればあなただって、はじめのうちは冗談なんて通じもしなさそうな堅物に見えていたのよ」
「それは理数系への偏見が多分に混じっていると思うよ、メリー」
「文系の僻みだって言いたいのかしら」
「ほらほら恐い顔しない、笑って笑って~」
そんな不適な笑みと一緒に伸びてきた手のひらが私の頬っぺたを包み込んで、そのままうにうにと捏ねくりまわされる。抗議をしてやろうかと声をあげると、「ひゃめなさい」なんて間の抜けた音が口から漏れた。噴き出された。
「蓮子」
「ごめん、ごめんってば。でもこのふかふかの手触り、メリーも変わったねぇ」
「このっ」
「変わったよ、メリー」
振りかざした右手は、けれど途中で変な角度を付けたまま静止して、やがてくず折れた。彼女の物言いに気圧される。失礼なことを言われているのに、一発返してやらなきゃ腹の虫が収まらないはずなのに、どうしてこんなにも力が抜けてしまうのかな。
それはきっと彼女の眼が、いつの間にか星の色を取り戻していたから。
彼女が、うそや冗談で飾らない本音を伝えようとする時に見せるサインだから。
「私たちは変わった、変わり過ぎて元の姿がわからなくなるくらい、変わっちゃった」
「……そりゃ、ね。人は成長するものだから」
「メリーはどう思う? 変わっていく自分は怖い? 変化していく日常はつらい? いろんな経験を積んできたその結果として、今の自分が存在していて。メリーはそんな自分のことを、誇らしいものだって思うことができる?」
「それは、」
閉口する。一瞬、答えられるわけがないでしょうと、声を荒げそうになって。どうしてあなたはそんなにか真っ直ぐに私に突きつけようとするのか。目を背けようと必死になっていること、胸に抱える漠然とした不安の根源に迫ろうとするのか。やめてよ、ねえ。私、一度にたくさんは考えられないわ。わかるわけがないじゃないの、自分が誇らしいものかどうかなんて……誰が、それを認めてくれるっていうの。
「……自分のことなんてわからない」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから。比較対象がないから。ほんとうに変わったところがあるのかどうかなんて、誰も絶対的な保障なんてできっこない。だって指標がないもの。たとえ精神や感情が脳神経の作る電気パルスの産物だとしても、それは到底数値化して統計することができるようなものじゃないでしょう」
「それは、証明のやりようがないっていう話?」
「変わったのかもしれないし、変わっていないかもしれない。どちらとも断定できないのなら、誇ることも、驕ることも、喜ぶことも悔やむこともままならないわ」
自分のことなのに、自分が見えない。“主観”は今現在の自分の気持ちを確かめることはできるけれど、過ぎ去った自身の過去を客観視することには適していない。自分がこれまで歩んできた道程が昇りだったか降りだったか、はっきりと自覚することのできる人はどれだけいるだろう。どこがスタート地点だったのか、そこからどれだけ進むことができたのか。原点Oに対する現在座標との位置関係を求めよ、なんて。他でもない自分の居場所がわからないんじゃ、どうしようもないことなんだ。
「ねぇ蓮子、こんなふうには考えない? 今の自分の姿を昔の自分に見せたら、いったいどんな反応をするんだろうって」
「メリー……」
「私たちはたくさんの非日常があることを知った、この世のものではない景色を視てきた、忘れがたい想い出を創ってきた。そしてこの瞬間の私は、そんな記憶のすべてを尊いものだと感じている。素晴らしかったって、得がたい幸福だったって信じてる! ……だけど、ね、こんなふうにも考えるの。もし、なにも知らない私たちが、自分たちにはそんな未来が待ち受けているのだと知ったら……怪しげな霊能サークルを立ち上げて、空想か夢物語としか思えない活動に精を出しているんだと知ったら。私たちは、特別でもなんでもなかった頃の私とあなたは、“そんな私たち”を、祝福してくれるのかな……」
変わった自分を誇れるか、と彼女は訊いた。そんな台詞は、やっぱり彼女だからこそ自然と口にされた言葉だったのだろう。自分の行いに対して自信を見失わない、そんな彼女だから。
やっぱり蓮子はすごいや、いつでもそんなに前向きに考えていられるなんて。
私なんかとは、全然違うよ。
私は、変わっていくことそのものが……どうしようもなく、怖い。
どうして変わってしまったんだろうって、そんな後悔ばかりを先に考えそうになって。
どうして変えてしまったのだと、自分を責めたくなる。
「メリーがまだ、メリーだった?」
「蓮子がまだ、蓮子だった」
「私たちがまだ、」
「私たちだった時」
なにも知らなかった私たち。積み重ねる前の私たち。まだ幻想の世界を知らずにいた、まっさらな二人。彼女たちは受け入れてくれるだろうか。こんな未来を。たくさんの非日常の果てに胸の切なくなるような別れがあることを、否定しないでくれるだろうか。
また、ばかなことを言って。昔のお前が選んだからこそ、今の自分がいるんだろうって。
わかっていても、どうしてか胸はすっきりとしてくれない。
「……そっか。メリーは、自信がないんだね。今まで私たちが築き上げてきたものが素晴らしかったかどうか、正しいことをしてきたのか、ほんとうにそんな道を歩んできてよかったのか、わからなくなっちゃったんだ」
「ほんのすこし、気になるだけよ。想像してみただけ。私たちが私たちでなかったら、秘封倶楽部ではない、別の関係性を結んでいたのなら。その時は、いったいあなたとはどんな話をしていたんだろうって」
「サークルを創ったこと、後悔しているの?」
「……まさか。私、とてもしあわせよ」
口ごもってしまうのは、心に後ろめたいことがあるからだった。別れがこんなにつらいなら、はじめからやめておけばよかったなんていうばかげた後悔。はじまりがなければ終わりもない。積み上げなければ崩れ落ちることもない。高みから望む景色はとても見栄えが良いけれど、そこから一歩踏み外した瞬間、奈落に落ちてしまう恐ろしさもそこにはあって。
あぁ……ともすればつまり、私は盲目になってしまったのかもしれない。得体の知れない恐怖に竦むあまり、自分がこれまで美しいと感じていた絶景が、途方もない深淵への入り口に思えてしまってならないんだ。
飛び立ちたい――堕ちたくない。
背中を押して――押さないで。
そんな二律背反が胸の内でせめぎあう。なにか背筋を引き裂くようなおぞましい感覚が体の底から湧いてきて、全身が凍えたように震えあがった。寒い、寒くて痛い。辛抱ならなくなって、両手が二の腕を抱きかかえようとして、
けれどその手を、彼女が掴む。
慣れ親しんだ温度に、散り散りになりかけていた心臓が絆された。
「じゃあさ、確かめに行こうよ」
「えっ……」
「見比べてみようよ、私たちを。変わってしまって良かったのかどうか。秘封倶楽部を創ったことは、正しかったのかどうか。――その眼で視ることができたなら、きっとあなたも誇れるようになるよ、メリー。私たちは昔と比べてこんなにもしあわせな人間になれたんだって、他のどんな未来でもない、秘封倶楽部だったからこそ、こんなにも満たされた日々を送れたんだって!」
彼女は胸を張る。私の否定しかけたものを疑うことなく肯定して、私自身をもそれにすっかり巻き込んでしまう。その力強いことといったら、私の矮小な抵抗が通用なんてするはずもなくて。今もまた私の手を引いて、どこか先行きのわからないところへ導こうとする。待ち受けているものの是非なんて、彼女には無意味な判断材料だ。
宇佐見蓮子は結果を見ない。たいせつなものはその過程。未来に至るための現在が楽しくて素晴らしいものであることこそ、彼女にとってはなによりの信念で。
そんなふうにまっすぐな彼女には、やり直したい過去なんて、ひとつもないんだろうな。
あの時は、楽しかった。
だから、予測もつかない未来なんかのために、そのしあわせだった過去を否とすることなんて、許されないんだ。
「決めた。卒業旅行の行き先、ひとつだけ思いついたよ」
決意を秘めた表情が私のひとみに映り込む。見惚れてしまいそうな眩さから、私は視線を逸らすことができなかった。この感情はなんだろう。羨ましい? それとも嫉ましいのかな。私にもあなたのような眼が備わっていたらって、そんなふうにも考えて。
だけどもそんな羨望は、長くは続かなかった。
彼女の言葉は私の予想を遥かに超えて――理解さえ追いつかないほどに、突飛なものだったのだ。
「私たちに会いに行こう」
満面の笑みで彼女は口にする。どんな疑問も抱いている様子はない。この上ない名案を思いついたとばかりに、表情は自信に満ち溢れていた。
「……ごめんなさい、言っていることがよく聞こえなくて」
「だから、私たちに会いに行こうよ。私たちがまだ、私たちでなかったころ。秘封倶楽部の結成なんて考えてもいなかった私たちを見てみよう。そしたらきっと、メリーにも実感が掴めるんじゃないかな。昔と今とを見比べて、自分たちがどれだけしあわせになれたのか。その眼で直接確かめたのなら、メリーだってもう、自分を疑うことはできないよね?」
頭の中がまっ白になっていくイメージ。人間、あまりに突拍子もない意見を聞かされると、ほんとうに思考が止まってしまうんだ。ええと、つまりどういう意味だろう。私たちに会いに行くって、この眼で見て確かめるって……それは要するにもう一人の私と出会うということであって、だから、
「蓮子、あなたまさか――」
彼女の眼がいたずらっぽく輝いた。好奇心に満ちた目、幻想の尻尾を掴んだハンターの眼差し。だけれど、その獲物はこれまでのどんなものともわけが違う。それこそまさに、私たちがいまだ経験したことのないもの――だからこそきっと卒業旅行には相応しい、荒唐無稽で支離滅裂な、最上級の夢物語。
だけども、それは、
きっと人間が踏み込んではならない類の、禁域だった。
「一緒に行こうよ、タイムトラベル!」
▽
カフェテリアに蓮子を待たせたまま、私はお手洗いまで逃げてきた。先ほどから混乱しっぱなしの思考を整理するのに、どうしても一人で考える時間が必要だったのだ。まったく蓮子の言うことはいつだって油断ならない。たちの悪い冗談にも限度があるでしょうに、どうして真顔であんなことが言えてしまうんだろう。
――タイムトラベル、なんて。
過去と現在を見比べるために時間を越える。とてもわかりやすいし、いっそ安直な方法だとさえ思えてしまう。だけど冷静に考えてみれば、時間を逆行するという行為そのものが論外じゃあないか。誰もが一度は夢見るほどにありふれた幻想、しかし同時に、誰一人としてその根源に迫ることのできた人間はいない。突き詰めれば突き詰めるほど、時間という概念の無欠さが明らかになって、超えられない壁の高さに跪くよりほかはない。
どうしてか。
到ってはいけないと、誰かが決めたから。
誰かって、誰。
神さま? それともあるいは――世界そのもの?
「ああもうっ、わけわかんないわよ!」
くしゃくしゃと頭を掻き回す。手洗い場の鏡面に映る私は、いつもより三割ほどやつれて見えた。どれもこれも蓮子のせいだ。彼女があんまり適当なことを言うんだもの、振り回される私の身にもなってほしい。こんな突拍子もないこと、本気で……
本気で、考えているんだろうなぁ。
それも、私に自信を取り戻させたいからなんていう、そんな理由で。
……かつての自分に会えたら、いや、そこまでは望まない、一目でも窺い知ることができたのなら。
それで私は納得できるのだろうか。こんな私で良かったって。これまで歩んできた道は、“私”がこれから歩むであろう日々は、紛れもなくいっとう素晴らしいものになるって。
「……いやね、あのテンションに毒されちゃったのかしら」
鏡に映る無表情な自分。彼女と一緒にいない時の私は、こんなにか色に乏しい人間なのだろうか。いや、きっとこれでもいくらか化粧をしている方なんだろう。彼女と出会わなければ、彼女と過ごした時間がなければ、私は人間でいることさえできなかったのかもしれない。
ねぇ、いつかの私。
あなたはいったい、どんな顔をしているの?
「おかえり、メリー」
「ごめんなさいね。ちょっと、落ち着くのに時間がかかっちゃって」
「いいよいいよ。あの慌てようったら、滅多に見られないものだから面白かったし」
「悪趣味ね……」
十分ほど経ってからカフェに戻ると、蓮子はいつの間にか注文していたらしい珈琲を啜って待っていた。私の席には、まだ湯気を立ち上らせる紅茶が用意してある。彼女なりに気を利かせてくれたのだろう。ありがとうとお礼を言って口にすると、動揺はいくらか穏やかなものになってくれた。
「私なりに、いろいろ考えてみたのだけれどね」
「うん、聞かせてよ」
落ち着きを取り戻すと、ようやく面と向かって話をする余裕ができる。数回深呼吸をしてから、改めて彼女に向き直った。
「まずはじめに疑問に思ったのだけれど……あなたの専攻って、物理学でしょう? タイムトラベルなんて軽々しく口にするのはタブーではないのかしら」
タイムトラベルという単語から受けた衝撃にはいくつか種類があるけれど、その中でも特に比重が大きかったものは、どうしてよりによって彼女の口からそんな言葉が、というものだった。往々にして物理学とタイムトラベルは切っても切れない関係にある。これまでの科学史の中で、実際にタイムトラベル理論について研究をした学者がいないわけでもない。だけど、その研究は未だかつて報われたことは一度もない。どんな理論や仮説にも、どこかで無理や矛盾が生じてしまう。あまつさえ宇宙規模の実験装置が必要ともなれば、それはもはや机上の空論でしか存在しえないものだった。
そんな経緯から、タイムトラベルは実現不可能だという考えが多くの物理学者にとって常識となっている。もちろん彼女だって、そんな現実は重々承知しているはずだ。タイムトラベルなんてありえない。考えることさえ許されない。時間を超えるということはつまり操るということ。時間の操作は社会や歴史、ともすれば人類の存在そのものさえ支配してしまうかもしれないのだから。
「そうだね。うちの教授にこんな話をしたら、きっと顔を真っ赤にした挙句に脳の血管でもぷつんっていくと思う」
「あなた自身は、どう思っているの?」
「今の科学じゃ無理でしょうね。太陽系だって満足に制覇できていない人類が、それ以上の実験規模が必要になるかもしれない時間操作を行うなんて、兎が獅子とタイマンで喧嘩して生き残れって言ってるようなものよ」
あっけらかんと彼女は言う。予想していた答えではあったものの、私の疑問はますます謎を深めるばかりだった。ならばどうして彼女は無理だとわかりきっている時間旅行なんて提案してきたんだろう。私の慌てふためく様子を見て、からかってやろうという魂胆だったりするのだろうか。
「メリーはね、なにか勘違いをしているよ」
「勘違いって?」
「私は物理学を専攻する学生である以前に、宇佐見蓮子なのよ。他でもない秘封倶楽部の、ね」
得意げな笑みを浮かべて、彼女はまた一口カップを傾けた。なにやら考えがあるらしい。その雰囲気は揚々としているけれど、どうにもいやな予感がするのはどうしてだろう。
そんな私の気がかりを知ってか知らずか、彼女は勢いそのままに言葉を続ける。すらすらとその喉から滑り出してくる声に、私はいよいよ頭を抱えたくなった。
「私たちにはさ、境界があるじゃない」
「境界って……あなた、またそんな調子の良いこと言って、」
「調子が良くていいじゃない、その方がいろいろと捗るよ。そんなわけでさ、二人で探してみたらいいと思うんだ。“過去と現在を結ぶ境界”を見つけて、飛び込もうよ」
絶句する。それがさも当然とばかりの口ぶりに、ノックアウトされてぐうの音も出なかった。そんなもの、ほんとうに存在するかどうか根拠もないのに、どうしてこんなにかはっきりと言い切ることができるんだ。楽天家というよりは考えなしに近い。呆れさえ通り越して、口からは唖然とした吐息が零れ出す。
「……どこを探すっていうのよ。タイムトラベルができるスポットがあるなんて、そんなの聞いたことないわ。それに今までだって、私はその類の境界を一度だって見かけたことはないわよ」
「そうかなぁ、私はむしろ、私たちは境界を通るたびにタイムスリップを経験しているんじゃないかって、そんなふうにも考えているんだけど」
「どういう意味よ……?」
「それはメリーに訊きたいぐらい。だって最初に、自分はタイムスリップしているかもしれないって、私にそんな相談をしてきたのはメリーの方なんだよ。昔話しあったこと、憶えてない?」
そう言われて記憶を遡ると、確かにいつだったか、蓮子とそのような会話をしたことがあったのを思い出す。私が向こう側で見た景色――緑深い森や川のせせらぎが、どうにも大昔の日本のものとしか思えなくて、もしかすると自分が見ている夢の正体は、そんな旧い時代の光景なのではないかって。
その時は確か、夢の内容はかつて日本に存在していた風景をなぞったものには違いないだろうけど、それが今私たちが生きる時間軸と同一の軸上にあるかどうかまではわからないというふうに結論付けた。世界線の異なる、もうひとつの日本を視ているのではないかという解釈だ。
だけどももし、そうではなかったのだとしたら。私たちが今まで眼にしてきたあの古びれた幻想の世界が、かつては確かにおなじ世界に存在していた過去の映像なのだとしたら。
境界を越えるということはつまり、現在から過去へ、あるいは過去から未来へ、時間を渡り歩いていたということ……?
「そんなことって、ほんとうにありえるのかしら……」
「ありえない、なんて私たちに使う資格のない言葉のベストワンじゃないかな。普通の人からしてみれば驚愕なんて生ぬるいレベルの異常を、私たちはもう何度も味わってきたんだもの。今さら取り立てて驚くようなことなんて、なんにもないと思うんだけど」
「あなたが冷静過ぎるのよ。むしろどうしてそんなに落ち着いていられるの」
「メリーが私の分まで驚いてくれているから、かな。予想に対してあなたは素直な疑問を抱き、私に投げかける。それを咀嚼して吟味することで、私はより洗練された予想をあなたに投げ返す。どう、素敵な役割分担だとは思わない?」
蓮子は繰り返す。これは予想だ、確証なんてなにひとつありはしない。だけれどどうしてだろう、彼女の口をついて出てきた言葉である、その事実こそがすべてに勝る真実の証明になるような気がして。私にだって、もしかしたら、というささやかな疑念がなかったわけでもない。だけどもそこに彼女の後押しが加わるだけで、こんなにも視界が広くなるものなのか。
夢の世界は、過去だった。
過去はかつて、現実だった。
ならば、夢と現実の境界はいったいどこにあるんだろう。過去と現在。過ぎ去ったほんの数秒前の出来事でさえ、すべては夢の中。わからなくなる。今ここに在る私は、夢と現実の、どちら側に身を置いているの?
「……仮に、その憶測が正しかったとしましょう。だからといって、それが今回の計画に利用できるかどうかは別問題じゃない? 私が見てきた夢の世界は、きっと何十年も、何百年も昔の風景だったわ。自分たちがどれだけの時間を跳び越えたかだなんてわかりはしない、もしかしたら、とんでもない未来に跳んでいた可能性だってあるのよ。それなのに都合よく、私たちが出会ったころの時間にまで遡ることのできる境界なんて、そう簡単に見つかるはずがないわ」
なんにせよ、今のままではどうにもならないことには変わりない。これまでの仮説が正しかったとしても、さらなる問題が浮き彫りになるだけだ。すなわち“いつ”“どこへ”という問題。百年前には私たちはまだ生まれていないし、もし私たちが存在する時間へ跳んでいたとしても、行き先がどこともしれない山の奥深くだったりしてはなんの意味もない。境界を越えるという行為はいつだって不安定だ。私たちには予測もつかないことばかりが起きる。今までは運良く生き延びることができてきたけど、境界の繋がっている先が絶壁の崖でした、なんて事故は充分ありえたことかもしれないのだから。
そう、私たちは運が良い。境界越え――彼女に言わせるところのタイムトラベルを何度となく行使して、その都度無事に生還を果たすことができた。楽しさのあまり恐怖心や警戒心は薄れていたけど、思い返せばとんでもない綱渡りをしてばかりいたのだろう。
じゃあ、今度も成功する? 適当な境界を見つけて飛び込んで、またまた大当たりを引くことができて、それで目的は達成されてしまう?
まさか。
なまじこんな憶測を立ててしまったから……もう、怖ろしくて踏み出せやしない。次も上手くいくだなんて、そんな保証はどこにもない!
……怯えたりしないのだろうか、彼女は。
自分たちの行ってきたことの危険さを、ちっとも顧みてはいないの?
おそるおそる、彼女の表情を窺う。私のように、不安に押し潰されそうにはなっていないだろうか。いくら彼女だって時間跳躍なんていうとんでもない理屈を前にしたんじゃ、好奇心もなりを潜めるに決まってる。殺されるかもしれないのは猫じゃない、私たちだ。それでもなお先へ進みたいというのなら、それはもはや蛮勇としか思えない。彼女との旅行が楽しみでないわけではない、だけども、そこには常に生命の危険が付きまとっているのだと自覚した今、手放しで彼女に賛同するわけには……
だけども、私がそんなふうに心配していたのに、蓮子はやっぱり蓮子のままで。
にへら、と口元を曲げては、私の背中を押す力を緩めてなんてくれないのだ。
「だったら、作ればいいよ」
「――はぁ?」
「境界を見つけるのが難しいなら、存在しているかどうかもわからないなら……じゃあいっそのこと私たちの手で作ってしまえばいい。メリーの力があれば、簡単なことでしょう?」
これで今日、何度彼女に度肝を抜かされたことだろう。一日のうちに開いた口が塞がらなかった時間をカウントすると、過去最長記録を更新してしまうんじゃないだろうか。開きっぱなしの口の中はからからに渇いて、潤そうと手に取った紅茶のカップはとうの昔に空になっていた。おかしなメリー、と目の前でからかわれる。そんな彼女に反撃をしてやる余裕さえ、今の私にはまるで足りていない。
「ねぇ、お願いだからもうからかうのはやめて。私の思考はもうさっきからキャパシティの限界なの、これ以上はパンクしちゃうわよ!」
「そう? でもね、さっきの境界越えの仕組みより、メリーの能力についての話の方が、確かな根拠と自信があるんだけどな」
「私の能力、って……」
「“境界を視る程度の能力”――でもね、それだけじゃないはずだよ。メリーの眼は境界を視るどころか、自由に作り変えたり、新しく生み出すことだってできるはず。メリー自身にはまだ自覚はなくても、無意識下では何度もその能力の恩恵に与ってきたんじゃないかって、私はそう考えているの」
整然とした口調のまま突きつけられる論理に、理解はもたついてまるで追いつく様子を見せない。ちょっと待って、待ってったら! あなたはさっきからなにを言っているの? 私の眼が、いったいどうしたって……!
「今、私たちがこうしてちゃんと息をしていることって、実はものすごく奇跡的なことなんじゃないかって思う。境界探索、ましてや“越境”なんて、どんな理不尽に遭遇していたかわかったものじゃない。怪我で済めばまだしも、未知の怪奇に襲われて、呪い殺されていた可能性だってある」
「それは……」
私もおなじことを考えていた。だからこそもう、安易な好奇心に身を任せるのは自重しよう――だというのに私を見つめる彼女の視線は熱かった。まるで私の内側にあるものを見透かすかのような光。全幅の信頼を寄せんばかりの輝きは、私にはどうにも火傷してしまいそうで、直視することができそうにしない。
「だけど、私たちは生きている。それどころか、これまで怪我らしい怪我のひとつだって負ったことはない。たまたま運が良かっただけ? ううん、きっと違う、これは偶然の産物なんかじゃない。そこには意思があったはずなのよ。私たちの身が脅威に晒されるようなことがあってはならないという意思。危険が伴うかもしれない境界を選別して、必要とあらば別のものに書き換えてしまう――出現先の位置座標や悪環境、もしかするとタイムパラドックスに繋がる恐れのある事象の回避さえ。……メリー、あなたはこれまで、そんな能力を無意識のうちに発揮していたんじゃないかな。私たちが気楽に、気の向くままに夢の世界を堪能できるよう、あなたは境界を操って、「いい加減にして!」
思わずかっとなって張り上げた声が彼女の饒舌を遮った。体の芯が熱い。こんなにか衝動に駆られたことなんてはじめてで、自分の体が言うことを聞いてくれない。
――自分の、能力。境界を視る程度の能力。だけどもそれは、私のまったく知らないところでは、とんでもない現象を引き起こしていて……
うそだ。
なにもかも、蓮子の作り話に決まっているじゃないか!
「なんなのよ、さっきから……私、そんなの知らない。私には視えるだけ、操るだなんてそんな……あるわけない、あっていいはずないじゃない!」
ねぇ、自分がなにを言っているのかわかっているの、蓮子。
これまで境界を越えようとするたび、私がそれを操作してきたかもしれない、なんて。
それってつまり、私の、自作自演じゃないの……
あなたと見てきたたくさんの景色、色深い山や、青く透き通った空や、閃く星の夜も、
全部、なにもかも私の手が加わった空想だったって!!
「……メリーはさ、自分でも知らないうちに別の世界に迷い込んでいたことがあるって、私にそう言ったよね」
「………」
「でも、それっておかしくない? だってあなたの眼は境界を視ることができるんだもの、視えてさえいれば、回避することなんて造作もないはず。それなのに頻繁に迷い込んでしまうのはどうして。あなたは境界を見つけるたびに、その全てに足を踏み入れているの? 違うでしょう? ということはつまり、あなたには視えない境界があるということ。あなたが一歩を踏み出した瞬間、そこに新しい境界が生まれているということ。そう考えなければ説明が付かないのよ。あなたの言葉を信じるなら、それはあなたこそが境界を操り、創り出しているということになってしまうのだから」
頭が痛い。割れそうだ。眼球の奥がじくりと疼いて、内側から目玉を引っ張られているような感覚が走る。違う、私じゃない……そんなこと知らない! 私は人間だ! 人間のマエリベリー・ハーンだ! ちょっとおかしなものが視えるだけ……操っているだなんてうそだよ。書き換えるだとか、創り出すとか、そんなことできるわけがないでしょう!
だってもし、そんなことが自在にできる存在がいたとしたら……
そんなのはもう、人間とは言わないよ。
――妖怪だ。
「ほんとに、知らないのよ、私……」
「メリー……」
「そんな言い方はやめて。私を勝手に作り変えないで。私は、私よ。視えるだけのメリーで充分じゃない。他に必要なものなんて、なんにもない」
「本質は変わらないよ。メリーはメリーだ。今までも、これからだって」
「あなたは私のこと、恐ろしいとは思わないの? あなたのいう力は、もう超能力なんて言葉で片付けられるようなものじゃない。……化物、じゃないの。この世ならざるなにかを生み出してしまう眼なんて、ほんとう、気持ち悪いだけよ……」
どうしてこんな眼を持って生まれてきたんだろう、って。お父さんもお母さんも、こんな力は持っていなかったのに。私だけが小さいころから、おかしなものばかりを視る。歪む空、曲がる景色。無数の視線に監視されているかのような、おぞましい肌寒さだって。それがこの眼の代償だって言うのなら、こんなもの要らない……夢なんて、見なくてもいい。抉り出してしまいたい。最悪の気分……
「でも、さ」
どす黒いものが渦を巻く。私の気持ちなんて知りもしないくせに、人の心に土足で踏み入って、好き放題に散らかして。あなたはいつだってそう、自分の想いを伝えることばかりに懸命で、私の心中を察してくれようとなんてしない。いつもなら笑って許せるそのマイペースが、今ばかりは煩わしかった。
手を握っていてほしいと、彼女にお願いをした。
彼女は笑って、それを聞き届けてくれたけれど。
ねぇ、痛いよ、蓮子。
そんなに強く握ったら、痛くて、痛くてたまらないの……
「その眼があったから、私たちは出会えたんだよ。出会って、そして秘封倶楽部を創るきっかけになったんだ。そこで私たちはかけがえのない想い出をたくさん残した。それは曲げようのない真実だよね?」
「それだって、私の空想だったかもしれないんでしょう? 私がでっち上げた過去なのかもしれない。そうであってほしいと想像しただけの、紛いものの風景を見せつけられていたのかもしれない。……夢、そう、全部私の中の夢。なんてちっぽけなスケール。あんなに大冒険をした気になって、その実、世界はこの脳髄の中だけでなにもかも完結していただなんて……私一人で自己完結していた精神病ならまだしも、それにあなたまで巻き込んで……そんなものに今まで騙されていたかもしれないのに、あなたは悔しくならないの?!」
「それでも、綺麗だった」
強すぎる想いは痛切な感情にしかならなくて、じくじくと胸を灼いて癒えない痕を刻んでいく。たまらなくなってその手を振り解こうとする、けれども、すべては手遅れだった。痩せ細った私の腕には、もう彼女を振り払うだけの力なんて残されていなくて。そこで私はようやく理解した。彼女は私のお願いを聞き入れてくれたわけではなかった。むしろ彼女の方こそ、私を手放すまいと必死になっていたんだ。
どこにも行かせるものかと、まるで縋りつくようなその視線。
求められていたのは――私の方だったのか。
「メリーの見せてくれた景色は、いつだって綺麗だった。西の稜線に沈む夕陽や、止むことのない桜の雨や、九天から降り注ぐ滝だって。今では失われて取り戻すことのできない幻想は、なにもかもすべて、忘れることなんてできやしないよ。うそかほんとうか、そこに意図や恣意があったかどうかなんて、そんなことはどうでもいい。それを素晴らしいものだって感じた私は、確かにここに存在しているんだもの。もう一度だけ、言うよ? メリーと一緒に巡ってきた世界は、綺麗だったんだ。これでもまだメリーは、そんなふうに感じた私の気持ちは間違っているって、否定するつもりなの?」
真摯な面持ちを前に、私はいよいよ返す言葉を失う。そんな言い方は卑怯だ。わかってやっているのなら、とんでもない大悪人だ。
憎らしくないの?
恨んだりしてないの?
そんな私の内なる叫びに、彼女は無邪気な笑顔をひとつ浮かべて、真っ直ぐに答えてみせた。
「もう一度見せてよ、一緒に見に行こうよ、メリー。きっと今度も素晴らしいよ。だって私は、あなたを信じているからね」
無条件の信頼というものがほんとうにあるのならば、それは正しくこの瞬間のことを言うのだろう。私という存在のすべてにおいて、彼女はその一片に至るまでを肯定してくれる。弱いところも汚いところも、なにもかもそのまま受け入れてくれる。綺麗だ、と彼女は言った。私と見た世界、私の描いた夢に、もう一度想いを馳せてみたいと。
だけど、
「私だって……こんなことを言うのは自惚れかもしれないけれど、あの夢はとても美しかったって、そう思える。その気持ちはきっとあなたと一緒。願わくばもう一度、触れることができるなら。……だけどね、だからこそ、怖ろしいことってあるでしょう。信頼がいつも勇気になるとはかぎらない、むしろ、期待に沿えなかった時のことを考えると、どうしても足が竦んでしまう……」
あなたが私に寄せる想いは、とても重くて。受け止めきれるだろうか、最後まで支えていられるだろうか。考えるほどに胸が詰まって、息が苦しくなって立ち止まってしまう。あなたが私に向ける情熱が冷めてしまったらどうしよう。一度でもそんな思考が脳裏を過ぎれば、後は臆病と躊躇が列を成して押し寄せてくるばかりだった。
「次はどうなるかわからない。またあなたが素敵だと言ってくれた世界に導いてあげられるかどうか、私には保証なんてできやしない。失敗したらどうしよう。私が上手くできなかったせいで、あなたを危険になんて晒してしまったら……そんなふうに考えると、胸がぎゅうって、痛くなるのよ。だって、やり方だってわからないのよ、私。ついさっき聞かされたばかりの仮説だけが頼りなんて、いくらなんでも心細すぎるわ」
「協力するよ。私たちは二人でひとつの、秘封倶楽部でしょ」
「どうやってよ。いつだって口先だけは立派なんだから」
「うーん、そうだなぁ」
彼女はいつだって調子が良い。手を引いてくれるのは嬉しいけれど、勢い余って私がもたついて転んでしまうということにはちっとも気をかけてくれない。つがいの鳥なら、羽ばたきを揃えましょう。二人三脚なら、足並みを合わせなくちゃ。私一人に背負わせないで。あなたばかりに楽をさせるつもりなんてないんだから。
重いものは、二人で。
想い出は、二人で。
それが“相棒”というものでしょう?
――なんて。
最後の最後まで蓮子には油断がならないって、そんなたいせつなことを忘れていた私は、やっぱりおろかものだったんだ。
「じゃあ、タイムマシンでも持ってこようか」
「――へ?」
「タイムマシン。それがあればメリーも、きっと境界を創るイメージが持ちやすくなると思うんだ。うん、名案ね。近いうちに、私が用意しておいてあげる!」
彼女は私の顎を外すことを生きがいにしているんじゃないかって、本気でそう思う。すっかりくたびれてしまった関節では、しばらくの間開いた口を閉ざすことなんてできそうになくて。意気揚々と飛び上がる彼女を前に、私は茫然としたまま、鼓膜を震わせた単語を幾度となく反響させていた。
タイムトラベル
タイムマシン
もし、ほんとうにそんなことができるのなら――