□ReSTARt 第一話



 目覚めは、後頭部の鈍い痛みによるものだった。

「――っ、痛ぁ……」

 ぐるぐると回る眼球に合わせて、部屋の天井も縦に横に引き伸ばされて歪んでいる。見ているだけで吐き気を催しそうな光景がいやでぎゅっと眼を瞑ると、今度は頭と背中に疼くような痛みが沸いてきた。どうやらベッドから盛大に転げ落ちてしまったらしい。それに加えて、床に放り散らかっていた本の角がこれまたいい具合の配置になっていたらしく、肩甲骨だの脇腹だのに受けたダメージは相当のものだった。
「これは絶対、殺人未遂だって……」
 普段は寝相は良い方なのに、どうして今朝はこんな目に。これはもう誰かの悪意あるいたずらによるものとしか思えない。私が寝ている間にベッドに細工をして、目覚まし代わりに私を突き落とすように設定されていたんだ!
 ――なんて、くだらない想像に憤慨しているうちにようやく鈍痛も治まってきた。のそのそと上体を起こすと、改めて部屋の惨状が目に飛び込んでくる。
「掃除は、まぁ、そのうち」
 ほんの数日前に、東京から越してきた。引越しの荷物はまだ半分以上がダンボールに収められたままで部屋の隅に転がっている。開封されているもう半数も、衣類やら書籍やらが乱雑にはみ出して、辺りに散乱している有様だ。一人暮らしの女の子の部屋なんてこんなもん、と自分に言い聞かせてみる。まだまだ新生活は始まったばかり、だらしのないところはこれから時間をかけてゆっくりと矯正していけばいいのだ、うん。この志を胸に、私のキャンパスライフは幕を開けてゆくのだ!
「キャンパス……キャンパス?」
 ふと、その単語が妙に心に引っかかった。つい最近、どこかで聞いたことがある気がする。キャンパスライフ、新生活。どこでその言葉を憶えたのか思案していると、床に転がっていた卓上カレンダーが目に飛び込んできた。四月の第一土曜日。赤いペンで花丸がつけてある。
 入学式!
 我ながら丸っこい字が、いやになるほど自己主張をしていた。
「――ぁ、」
 さ、っと血の気が引いていく。早朝の低血圧症だろうか。まさか、これでも朝には強い方で小さい頃からラジオ体操には――なんて現実逃避している場合じゃなくて! 慌てて部屋中をひっくり返し携帯電話を探し出すと、表面ディスプレイのデジタル表示を穴が開くほど凝視した。一文字ずつ、その数字を追っていく。0、9、0、3。九時三分。入学式の開式は、十時から。
 タイムリミットまで、残すところ一時間。

「遅刻、って……初日からぁ?!」

 思い返せば。
 この時から私の遅刻魔ぶりは、しっかり発揮されていたんだなぁって。
 私の友人は、そんな昔話を聞いて呆れたふうに笑うのだった。

 

 

 

 ReSTARt

 

 


<1>


 物事にはすべて、はじまりと終わりがある。どんな事象にも、どんな関係にも、いつかは必ずピリオドの打たれる時が来る。それは不可避の未来だ。捻じ曲げようのない因果だ。私たちがどんなに足掻いたところで、世界は足を止めてくれたりなんかしない。時間って、どうしてこうも不便で不都合なシステムなんだろう。相対性理論を思いついた科学者が憎らしい。たいせつな人との時間ほど永遠からは程遠いなんて、そんなの、あんまりだ。
 彼女と一緒にいたい。
 楽しい時間は、ずっと終わってほしくなんてない。
 当たり前の望み。誰だって一度は抱くはずの願い。どんな時代でも、人は永遠を願って生きてきた。国の繁栄や、平和な日常や、恋人と過ごす夜。そこに託された想いの強さは、きっと比べることなんてできやしない。みんながみんな願ってる。そして、みんながみんな、叶えられやしなかった。こんなところばかり神さまはとても平等だ。人類史上、今まで永遠を手に入れた人間なんていない。それもそうだろう、他でもない神さま自身、永遠の存在でもなんでもないのだから。
 終わりは等しく訪れる。それは定められた運命というよりは、理路整然に則って組み上げられたシステムのようなものかもしれない。作られたものが壊れてしまうように、芽生えたものが枯れてゆくように、生まれたものが死んでいくように。
 出会いの果てに、別れがあるように。
 入学をすれば、卒業してしまうように。

 ――卒業。
 私が今、迎えようとしているものは――

「相変わらず、到着が早いねぇ」
 背中から呼びかけられた声に、私はまず自分の耳の不調を疑った。ああ、ついにありえもしない幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。疲れているのかな、私。昨日は寝不足だったから仕方がないよね。うん、まったくもってありえない。だって腕時計を見てみたまえよメリーくん。長針はまだ十一の数字を指しているじゃあないか。つまり、約束の時間まではまだ五分もの猶予があるということで、それは要するに少なくともあと五分以内には私の待ち人は絶対に現れないということの証左なのだ。だってそうでしょう? 彼女が遅刻皆勤賞であるということを逆に読み解けば、約束の時間前には彼女はやって来ないということの証明になるのだもの。単純な論理の逆転、どこにも破綻した要素なんてない……はずだった。
「……ちょっと、居眠りでもしてるんじゃないでしょうね?」
 それなのに、私の鼓膜を振るわせる声はなくならない。それどころか声音をいっそうはっきりとさせて、脳みその奥底までじんと染みわたっていく。聞き慣れたものだけに、その浸透は早かった。もはや聞き間違いなどではないらしい、思考がはっきりと彼女の存在を認知した途端、私はなにか悪い予感を覚えて身震いをせずにはいられなくなった。
「今日、槍でも降るのかしらね」
「ちょっとどういう意味よそれ」
「だってあなたが時間前に来るなんて、それこそ天変地異の予兆だとは思わない、蓮子?」
「思わない思わない、私には世界の命運なんて委ねられていませんよっと」
 すこし拗ねたふうにそう言うと、待ち人は私の頭をぽんと叩いて、それからくるりと身を翻しながら向かいの椅子に腰を掛けた。何気なくやっているつもりなのだろうが、その仕草が妙に様になっているものだから始末がわるい。今日の蓮子はどうしたのだろう、今までの彼女とは違って、どこか垢抜けたところがあるように見える。最後に彼女とあった時とは、大違い――
 ……それも、そうだよね。
 だってこうして会うのは三ヶ月ぶりになるんだもの、蓮子だって、変わるよね。
 変わらずには、いられない。
「……しばらく見ないうちにまぁ、立派な人になって。私は嬉しいかぎりだわ」
「なによ、ちょっと遅刻しなかったぐらいで。そこまで言われること?」
「はじめてのことじゃない、あなたが約束の時間より前にやって来るなんて。三年付き合ってきて、今日が初なのよ? それで驚くなって言うほうが無理な話よ」
「それを言われると、まぁ、反論のしようがないんだけど」
「ほんとうにどういう風の吹き回し? 単に心を入れ替えて真人間になろうっていうことかしら」
「ま、そんなところだよ」
 にへら、と彼女が微笑んでみせる。それはいつも遅刻の言い訳をする時に見せた表情によく似ているようで、しかし受ける印象はまったく別のものだった。なんだろう、この胸のもやもやとする気持ちは。せっかく彼女の遅刻癖が直ったのに、どうして素直に喜ぶことができないんだろう。
 そんな私の胸中を知ってか知らずか、彼女は笑顔のまま言葉を続ける。
 照れ隠しをしているような、それでいてちょっぴり誇らしげなふうに、その口元が綻んだ。
「私だってさ、来年には社会人なわけですから。いつまでも時間に不誠実じゃいけないなぁと、蓮子さん考えたわけですよ」
 その言葉が、とすん、と胸に突き刺さる。
 わかっていたことだ。
 だからそんなふうに胸に痛みの種を宿してしまったとしても、私は顔色ひとつ変えずに、いつもどおりの調子のまま彼女に向き合うことができた。
「ようやく私の悲願が達成されたのね。今さら感がすごいするけど」
「今までご迷惑をおかけしましたっ」
 演技めいた挙動で彼女が頭を下げる。調子の良いところは相変わらずらしい。ふぅ、とため息をひとつ零して、そのつば付き帽子目がけてこう言い返した。
「悪いと思う気持ちがあるなら、それなりの誠意を見せてくれるんでしょうね」
「……えっ?」
「今日はあなたが奢ってくれるなんて。日ごろから良い子にしていると神さまもちゃんとご褒美を用意してくれるのね」
「そんなあ! 今日は私の脱遅刻魔をお祝いしてくれる日じゃないの!?」
 テーブルにくっ付けていた帽子のつばが、今度はびしりと私の顔を指した。信じられない、とその眼が私に訴えかけてくる。世間を知らないピュアなひとみだった。もちろん悪い意味だ。
「百歩譲ってもお祝いの対象になるようなイベントじゃないと思うわよ」
 改心したかと思えば、やっぱり根っこのところは変わらないらしい。まったく自分勝手なんだから。遅刻魔を卒業したところで、それは今までマイナスだったものがようやくゼロに戻ったっていうだけなのに。
 ――卒業。
 またひとつ、彼女が駒を進めた。
「……と、戯れはこのぐらいにして」
「戯れだったの、じゃあまた来週から遅刻魔に逆戻りね」
「しません。人生のレールは逆走しない主義なもので」
「三歩進んで二歩戻るゆとりも時には必要ではないかしら」
「忘れものも置き去りにしてきたものも、ないよ」
「………」
 言い返せなかった。蓮子のくせに。
 その眼に宿る光が、あんまりまっすぐしていたものだから。
 胸の次は、眼か。射竦められて、釘付けにされて、私はすっかり反撃の手立てを失ってしまった。当たり前だ、どんなに話題を逸らしたって、結局は本質に行き着く。彼女が行き着かせる。楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、永遠の頂には辿り着けない。
 もっと空気、読みなさいよ。
 ほんと、自分勝手なんだから。
「久しぶり、メリー。何日ぶりぐらい?」
「単位が違うわ。ヶ月、よ」
「あー、2208時間と30……からはうろ覚えだ、ごめん」
「それだけはっきりしていれば充分よ」
「なんか、つい最近も会ったばかりのような気がするんだけどなぁ」
「最後に会った時は、まだ梅雨が明けたばかりだったわ」
「今は曇り空が恋しくなるくらいに暑いもん」
 空を仰ぐ。ぎらりと輝く太陽は容赦なくアスフアルトを焦がして、足元からむっとするような熱気を立ち昇らせていた。待ち合わせにオープンカフェを選んだのは失敗だったろうか、いちばん暑い時期は過ぎたし、もうすぐ秋めいた気候になってくるだろうと思っていたのに。なかなか予想どおりにはいかないのが人生。だけどもうすこしばかり易しくたって、罰は当たらないんじゃないかな。
「んー……」
 壊れた冷蔵庫のような音が彼女の喉から鳴っている。そんなに耐えがたいなら帽子を脱ぐかネクタイを緩めるかすれば良いと思うのだけれど、彼女がそれを実行に移した場面を見たことはほとんどない。そんなところばかり身持ちが固いなんて、もっとしっかりしてほしい部分は他にたくさんあるんだけれど。
「唸るほど暑いかしら」
「いや、“こっち”と“あっち”だと、どっちの方がより夏っぽかったか検討中」
「……そういえば、ずっと帰省していたんだものね」
「やっぱり京都の方が暑いかもしれない、ビルが多いせいかな」
「東京は相変わらず?」
「うん、田舎。前時代感たっぷりだった」
 卯酉新幹線に乗ること片道五十三分。彼女が里帰りに要する時間は、私たちが大学に登校するのとさほど変わらない――と言いたいところだが実際は、東京駅を出てから彼女の実家に行くまでの道のりこそずいぶんと長いのだけれど。以前彼女の里帰りに着いて行った時は、一回の旅路で朝日と夕日の両方を拝んだような記憶がある。自分と彼女との時間という概念に対するギャップの大きさを痛感した忘れがたいイベントだ。
 それはさておき、夏休みの間彼女はずっと実家に帰省していた。より精確に言えばそれより前、春ごろからずっと京都と東京を行ったり来たりしていたらしい。卒業論文や就職活動だっておろそかにできないはず、それに加えて頻回の帰省ともなれば、彼女の多忙ぶりはいつ倒れてもおかしくないほどだった。当然のことながら、サークル活動などに勤しんでいる余裕なんてない。先ほど彼女との間に交わした「久しぶり」の挨拶は、秘封倶楽部として会う、という意味合いを多分に含んでいた。
「……迷惑ではなかったかしら」
「そんなことないって。むしろようやく身辺落ち着いて、ほっと一息つけたって感じ。だから今日、メリーと会えて良かった。やっと自分の日常に戻れた気がするよ」
 蓮子の言葉は、きっと真実だ。夏休み前までの、予定や約束に追い回されていたころの切羽詰った様子はもう見受けられない。だけども彼女は気づいているだろうか。彼女が帰ってきたという日常……私にとっては、帰ってきたあなたこそ、まるで別人のように見えているのだということに。
 それはきっと、悪い変化ではないのだと、思う。
 成長した? 大人になった? 今日遅刻をしてこなかったのは、あなたの身にまとう雰囲気が落ち着いているのは、これまでの経験のせい?
 どうしてだろう。
 胸が、こんなにも苦しい。
「そう、よかったじゃない、決着がついて」
「何度も話し合ったよ。舌の根が乾くくらい言い争った。思い返せば、親子同士でずいぶん汚い言葉ぶつけあってたなって、そこはちょっと後悔。だけどおかげさまで踏ん切りがつきました。すっきりした……吹っ切れたって言うのかな、なんだか心がふわふわして、妙な感じがする」
 重苦しいしがらみから解放されて――あるいは受け入れて、彼女は今ようやく安堵しているのかもしれない。そんな彼女はまるで風船のようで、しっかりと紐を握っておかなければそのまま風に乗ってどこかへと飛んで行ってしまいそうな気がした。いや、掴んでいたって、指の間からするりと抜けて行ってしまうかもしれない。私はどうしてか、彼女がすぐ隣にいるのだという実感が持てずにいた。なにもかもが軽くて手応えがない。彼女でない、別の誰かを相手にしているような感覚がある。そんなはずないのに。あってはいけないはずなのに。
 だけど、彼女は彼女で。
 宇佐見蓮子で。
 ふ、と息をひとつ吐いて、やおら彼女が姿勢を正す。黒曜石のような、力強い輝きをもった眼差しが私を見据えていた。私にだけ見せてくれる、そのひとみに宿る光。星と月の光。射抜かれて、私は息ができなくなる。体中が石になってしまったようで、指の先さえ動かすことかなわず、ただただ空気を介して彼女の息遣いや鼓動を感じることしかできなかった。
 彼女の言葉を遮ることさえ、ままならない。
 それがどんなにか、望まざるものだったとしても

「――私、卒業したら東京に帰るよ」

 それはあらかじめ用意されていた言葉だった。彼女はきっと、その一言を伝えるためだけに、今日私と会うことを了承してくれたのだと思う。それぐらい、その声には決して無視することのできない力を感じた。気づかないふりや、聞こえなかったふりをして聞き流すなんてできっこない。鼓膜の振動を内耳が感知して、それが神経パルスとなって脳髄に至る過程。そのすべてをはじめから繰り返してみろと言われれば、私は何度だって忠実に再現することができるだろう。これまで彼女と積み上げてきたどんな想い出より、明確に、精密に、これから一生、忘れることなんてできやしないほど。
「そう、なの」
 頭の中で反響している。帰る。どこへ。東京に。いつ。卒業したら。誰が。私が。壊れた再生機のようなリピートは、きっと神経が擦り切れるまで続くに違いない。そんなのはごめんだ。私はまだ真人間でいたいのだから。ほら、しっかりしなくちゃ、私。ここは彼女を肯定してあげる場面なのだから。一世一代の決意をしてきた彼女に、頑張ったねって、言ってあげなくちゃ。
 だけども、素直になれなくて。私の口からは、どこか的外れな言葉が漏れ出してしまう。理性と衝動はさっきから席の取り合いをしていて、なまじその実力がずいぶんと拮抗しているものだから、私の思考の舵を取ってくれるものはなにもない。今の私はまるで大海に放り出された小船のようだった。波の揺れるまま、風の吹くままに流されるばかり。行き着く先なんて知らない。彼女が、蓮子が、どこへ行ってしまうかなんて、わからない。
 わからないよ。
 私は、
 あなたは、
 これからどこへ向かって行くの……?
「……教授が聞いたら驚きそうね。あんなにあなたを買っていたもの。あれはきっと院に入らせて自分の手伝いをさせる気たっぷりだったと思うわ」
「あはは。私も最初はそうなるんじゃないかなって、漠然と考えたりもしてたよ。だけど、どうしてかな、いつの間にかこんなことになってた。いや、自分で決めたことだから、どうしてなんてことはないのか。もしかして私、とんでもない覚悟を決めてきちゃったり?」
「さあ、いつどこが人生の分岐点だったかなんて、誰にもわからないでしょうに。その決断に至るための決断、に至るための決断……なんて堂々巡りよ。考えるだけ無駄もいいところだわ。……だから、ね、捻りのない回答になってしまうけれど、今現在のあなたに迷いがないのであれば、それは最善の選択だったって、胸を張ってもいいのではないかしら。後悔はいつも先に立たない、だけど目の前にあるかもしれない不安に圧されて怖気づくなんて、ちっともあなたらしくないわね」
 口から滑り落ちる言葉はまるで自分のものとは思えない。当たり障りのないように取り繕う、滑稽な狂言回しのよう。本質を避けたいがための遠回り。目を背けたいがゆえの悪あがき。だけれど、そんな無駄な抵抗が一度だって彼女に通じたことはあったろうか。彼女のその頑なな姿勢を前に、私のやっていることは子どもが駄々を捏ねているのとなんら変わりはなくて。
 情けなくなる。
 私は弱虫だ。
「……聞かないの?」
「なにを」
「理由」
 案の定、私が避けて通ろうとした道を、彼女は迷うことなく突き進んでいく。問いかけという形で、私の手を引きながら。いやよやめて、歩きたくなんてないの。そんなわがままを言ったって聞いてもらえやしない。彼女は本気だった。私だけが子どもだ。わかっているのに、わからないふりをしている。
 だけどね、いじわるのひとつだって、してやらずにはいられないんだ。
 蓮子が、東京に帰ってしまう。
 その結果がすべてじゃないか。
 理由なんて、無意味だ。
「聞きたくないわ」
「メリー……」
「理由なんてどうでもいいのよ。あなたが選んであなたが決めたこと、それだけで充分ではなくて? だってもし私になにか話すことがあれば、あなたはもっと前の段階で私に相談を持ちかけていたはずよ。だけどあなたはそれをしなかった。それは私にさえ踏み入らせたくないプライベートだったからなんでしょう。なら、今さら私がそこへ踏み込んでいく必要はないわ。すべて終わってしまったことだもの」
 言葉には棘が含まれる。受け取った彼女の胸に、ちくりと傷を残す程度には。私の返事を受けて、彼女は力なく笑った。だよねぇ、と言った。まったくその通り。今さら遅すぎる。理由を問いただすとか以前に、なにもかも終わってしまった後なのだ。彼女が勝手に終わらせてしまった。私の知らないところで。要するにこれは事後承諾なのだ、ひとりでなにもかも終わらせてしまった自分を許してほしいという懇願だ。なんて卑怯なんだろう、ここまで外堀を埋められてしまっていては、もう私には返せるカードなんてたったの一枚しか残されていないじゃないか。
 それだけの覚悟があるのなら、私に叩かれてもかまいやしないって思ってここにいるのなら、もう、私がなにを言ったって、彼女の心は動かせないに決まってる。梃子でも、爆弾でも、きっと微動だにしない。芯の一本通っているところは、彼女の魅力であり、またどうにもならない頑固な一面でもあると思う。
 だから私にできることと言えば、黙って退いて負けを認めることだけだった。誠実さをもって私に向き合ってくれた彼女の心を易々と手折ってしまえるほど、私は非情にはなれない。どこかで折り合いをつけなくてはいけない。ピリオドはもう打たれてしまったのだ、私の知らないところで、私の許しなどないままに。
 だけどさ、きっと仕方のないことなんだよ、メリー。
 せっかくだから大人になろうよ。お互い、もう子供じゃないんだからさ。
 卒業をしよう。
「あなたの、好きにすればいいわ」
「……やっぱり怒ってる」
「怒ってないわよ」
「どうしたら、許してくれる?」
「今日は遅刻してこなかったから、チャラにしておいてあげる。どう、優しいでしょう私」
 彼女が私の顔を見て怯え竦む。わけがわからない、人の顔をじろじろと見てその態度とは、失礼なやつめ。怒ってなんかいやしない、ほんとうだ。ただ、妙に体が落ち着かないだけ。今すぐにこの場から飛び出してどこかへ消えてしまいたい、そんな衝動に駆られそうになるだけ。やめてよ、そんな眼をするのは。なんであなたがそんなに悲しそうな顔をしているの。そういうのってずるい。とてもずるい。
「蓮子」
「うん」
「あなたっていつもそう、真っ直ぐな性格をしているように見せかけて、裏ではかなり汚い手を平気で使うわよね」
「そういうメリーはわりと正攻法だよね。なんとなく搦め手が得意そうなイメージなんだけど」
「あまり難しいことを考えるのは得意じゃないの、文系ですから」
「メリーのそういうところ、好きだよ」
「……そういうところが、卑怯だわ」
 牽制球のキャッチボールが続く。お互いに、次の一言を告げるタイミングを計りかねている。今日だけで、取り返しのつかないことをいったい何度重ねただろう。待ち合わせの約束を取り付けたところからすでに転落しはじめていたのかな。もし、今日会わないという選んでいたら、今ごろはどんな午後を過ごしていただろう。――いや、考えたって仕方がない。当時の自分に迷いがなければそれでいいって、口にしたのは私自身だもの。数ヶ月ぶりに蓮子と会える、その約束を嬉しいと思った自分がいたことは誤魔化しようがない。会わなければ、なんて選択肢ははじめからなかったんだ。私たちは今日、会わなければならなかった。
 会って、終わらせなければならなかった。
 夢はいつか醒めるもの。熱意は冷める。想いは褪める。
 残暑に茹で上がった風がぬるりと肌を撫でる。その感触に、あっという間に全身の熱が奪われていったような感覚があった。底冷えするあまり体が震え上がりそう。さっきまでの暑さが、なにもかも幻覚だったと思えるくらい。そんな冷めた体の奥から這い出そうとする言葉はやはり、ひどく冷めきったものになるのだと思う。どんな感情さえ凍りついて、抑揚に欠けた響きで。事務的で、作業的で、効率性を重視するあまりに端的で。そんな台詞を伝えるために、私の声帯は震えあがるのだ。もっと他に言いようがあったかもしれないけれど、今さら中断なんてできそうにもない。だって見てごらんよ、星のひとみが私を覗いている。抉ってくれと言わんばかりに、無防備な眼球を曝している。なら、望みどおりにしてあげるのがせめてもの情けというものじゃない? 彼女がそれを望んでいるのなら。終わらせてほしいと、終わらせようとしているのなら、そのための介錯を、私に求めているのなら……!
 私は、
 その眼にナイフを突き立てる。

「秘封倶楽部も、もうおしまいね」

 血は、溢れ出さなかった。当たり前だ、どうして彼女を傷つけなくてはならない。だけども私の脳は奇妙な感覚を認知していた。この手でなにかを壊してしまったという感触。それとも、誰かの背中を押したような圧覚。ああ、ついにやってしまったなあと、まるで他人事のように考える。自分たちが当事者でないような錯覚があるんだ。あまりに非現実的すぎて。だって、ありえないとは思わない? 私たちの関係が、日常が、秘封倶楽部が終わってしまうだなんて、そんな――
 そんなこと……
「……そっか、おしまい、か」
 彼女の顔がくしゃりと歪んで、笑顔とも悲嘆ともつかない曖昧な表情がそこに浮かび上がった。怒っているのか、泣いているのか、それとも喜んでいるのか、にわかには判断しがたい。それは彼女のひとみに映り込む私の顔も同様だった。ひどく間抜けな顔をした自分がそこにいる。自分で言葉にしておきながら、開いた口を閉ざすこともできずに、ただ茫然とするままにお互いの視線を絡ませあっていた。
 湿り気のない吐息が零れる。乾燥した唇は無意識のうちに、水槽の魚が酸欠に喘ぐように蠢いた。
 ひとつ、一言ずつ、おさらいをする。
 おしまい。
 お互いにその台詞を口にして、ようやく実感が沸いてきた。
 そうか。
 秘封倶楽部は、終わってしまったのか。
「なんていうか、なんて言ったらいいんだろう……呆気なさすぎて笑えちゃう」
「そうね。でも、案外そういうものなんじゃないかしら。物事の終わりなんて。ドラマみたいな感動的な別れって、きっと演出過多なのよ。現実はもっと大雑把で、投げやりなものなのかもしれないわ」
「今まさに、盛大にぶん投げた感があるよ」
「どこまで飛んで行ったのかしら。誰か拾ってくれているといいわね」
「あ、それいいね。知らない誰かの手に渡って、私たちの関しないところで密かに受け継がれていくんだよ」
「でも来年の学生案内のパンフレットには載らないでしょうね、うちの部のこと」
「創部届け、出さなかったもんね」
「定員足りてないし、同好会の基準も満たしていないわ」
「アウトローだなあ」
「やってることからして、あんな感じですから」
 秘封同好会だったらダサかったよね、と彼女がおどけて言う。まったくその通りだ、と私はその意見に同意した。これでもしなにかの間違いで部員が揃っていたら、きっと私たちの部は今まで歩んできた道とはまったく別の方向へ向かっていたことだろう。どんな仲間と共に、どんな活動をしていたか、まるで想像がつきやしない。そもそも、その部活には秘封倶楽部という名前を冠しても良いものだろうか。単なるオカルト同好会の名前で学生会の便覧に載っていたとしてもおかしくない。いや、きっとそうなっていた可能性のほうがずっと高かっただろう。ということはつまり、秘封倶楽部が結成される確率というものは奇跡に近いものがあったのかもしれないなぁ、なんて。何百人といる学生の中から私たち二人だけが出会い、他のいっさいと関わり合いを持つことなく、二人ぼっちのサークルを結成して、それに秘封倶楽部と名付けた。いくつもの偶然が折り重なって、今日の私たちがここにいる。それはとても尊いことだと思う。決してないがしろになんてされてはいけない。傷ついてはいけない。思いがけず築き上げられたこの幸運な関係は、なによりもたいせつにされなければならなくて。
 はじまりが、いっとう素晴らしい出会いだったから。
 二人で過ごした日々が、あんまり輝いていたから。
 だからきっと……もし、いつかの終わりが訪れた時も、それはきっと美しいもののはずで。
 だけども、現実はそうじゃなかった。
 呆気なくて、味気ない。夢の終わりはやっぱり現で、別れの切っ掛けだって笑えるぐらいに世知辛い。実家に帰らなければいけないから、なんて。もっと美談になるような話は用意できなかったものだろうか。重病で余命わずかだとか、自分の超能力をどこかの組織に狙われているからだとか、そのぐらい荒唐無稽でドラマティックなシナリオがあってもいいんじゃない? だって私たちは秘封倶楽部でしょう。これまでいくつもの境界を越えて、それこそ夢物語としか言えないような経験をいくつも重ねてきたのに。それなのに、そんな特別な二人の結末が、こんなにもありふれたものだなんて。
 まるで引き裂かれる恋人同士のよう、なんて、そんなふうには思えない。離れれば、きっと想いは褪せていくだろう。それはここ数ヶ月の多忙だった彼女を見ていれば、容易く想像することができるものだった。半年にも満たない間に、彼女はずいぶんと変わってしまった。大人になった。周囲の環境や、彼女自身に与えられた新しい役割が、彼女をどんどん遠い存在へと追いやってしまった。大人には責任が付きまとう。彼女が東京でいったいなにを成すのかは知らないけれど、きっと大好きだったはずの物理学の勉強や、私との部活動を秤にかけても上皿が沈むぐらい重要なことなのだろう。世の中にはきっと、感情や私心ではどうにもならないことの方がたくさんあって。その大きな流れに、彼女は身を委ねた。無理難題を言う世間に対して、わがままを言うことを止めた。今回のことは、たったそれだけのこと。現実を見ただけの話。だってそうじゃない、将来を、未来を見据えれば、いつまでも境界巡りの遠足なんて、やっていられるはずがないんだから。
 大人になれ。
 卒業をしろ。
 モラトリアムなんて、とうの昔に終わっているんだぞ。
 誰でもない誰かが、私の耳元でそう囁きかけた。
「メリーはさ、卒業をしたらなにをするの?」
 茫然と思考していた頭の中に、ふと彼女の声が飛び込んでくる。どうやら私のせいで会話が止まっていたらしい。彼女の眼には、私の不調を案ずるような色が見受けられた。なんて情けのない体裁だろう。私は慌ててその言葉に応じようとして――けれども、後に続くことができなかった。喉下まで出かかった言葉が、けれどそこで痞えて声にならない。
「私、は……」
「メリーは?」
「たぶん……院?」
「いや、私に聞かれても」
「ごめんなさい、あまり深くは考えていないの。とりあえず、なるようになるかなって」
 口ごもる。卒業をしたらあなたはどうしたい? どんな道を進みたい? それは当然、私の大好きな部活動をずっと――
 だけどそんな甘ったれた未来なんて、あるわけもない。
 世界は、私に足並みを合わせてなんかくれない。ぐずぐずしているのろまは置き去りにして、どんどん、休むことなく先へ進んでいく。取り残された私には、きっと生き残る術なんてなにひとつ与えられやしないだろう。後に着いてこれなかったお前が悪いと、無慈悲な言葉だけを投げかけられて、最後には一人ぼっちのまま息絶えていくのだ。そんな未来はもちろん望まない。私だって人並みに暮らして、人並みにしあわせになりたいと思う気持ちはある。あるけれどもそこに彼女はいない。いるはずがない。彼女には彼女の人生がある。いつまでも私と並行するレールを走り続けてくれるわけはない。現にこうして彼女は路線を切り替えたのだ。より堅実で確かな現実に向けて。
「へえ、そんなふうに考えてたなんて、ちょっと意外。メリーの人生設計はもう生まれてから死ぬまでが一覧表にしてあるんじゃないかなって、ちょっと思ってた」
「予定は未定……なんて言ってもいられないんだけどね、実際。相対性心理学でご飯を食べさせてくれるところって、あんまりないのよね」
「“眼”は売りにはならない?」
「どうだか。そもそも、あまり安売りしたいとは思わないわね」
 十年後、二十年後の自分……いや来年の自分のことでさえ、私には思うようなビジョンが描けない。思い返せば、そうやって自分の将来の姿を想像してみた経験なんて、私にはほとんどないも同然だった。気の向くままに行こう、というのは蓮子がよく口にする常套句だったけれど、もしかすると私にはどこかへ行こうとする気力さえなかったのかもしれない。だって放っておいたって、この“眼”は私を知らず知らずのうちに異界へと誘うのだから。なにもしなくたって、なにをしていたって、私は見えざる手に翻弄されて振り回される。先のことなんてわからない。私ではないもう一人の私が、私を勝手に導いてしまう。
 もしかすると、この瞬間だって。
 私の関知しないところの“もう一人の私”が、勝手に取り決めてしまった未来なのかもしれないって――
 ばかなことを考える。
 それは責任転嫁っていうんだよ、愚かなメリー。
「余裕がないわ」
「猶予もなさそうだ」
「モラトリアムを借りすぎた利子、結構高くついちゃったのかしら」
「冗談言ってる余裕なんてあるの、メリー?」
「大丈夫よ。やることはちゃんとやっているわ。ただ、それが自分の意志でしていることだとは言えそうにないけれど」
「ネガティブだなぁ、今日は」
「ナイーブと言ってくれないかしら」
 嘆息する。正確に言えばネガティブとナイーブの相の子だ。どんな言葉だって胸の辺りにちくりと針を刺すような感覚を残していく。不意に芽生えた微痛に、思わず眉根がひそまった。
 それからしばらく二人の間に沈黙が横たわった。街角の雑踏もなんだか遠くの浜辺の残響のようで、規則的なリズムで押し寄せては、なにも残すことなく過ぎ去っていく。せめて、この胸の中の苦い気持ちぐらいは洗い流してくれたっていいのに。彼女との間にこんなにか居心地の悪い空気を作ってしまったことなんて、今までにはなかった。なんだか思うように噛み合わないのだ。以前までの以心伝心がうそのよう。今ではもう、彼女の胸の内なんてなにひとつわかりやしない。まるで空気を掴むようだった。手を伸ばして触れようとしても、かつて彼女がいたはずの距離には、もうなにも存在してなんていなくて。私は幻か、それとも蜃気楼でも見ているのかな。遠くなってしまった彼女が、まだそこにいるような錯覚に捉われているのだろうか。目の前にいる彼女は、ほんとうに、ほんとう? 違和感はやがて、彼女が存在することそのものへの疑念へとすり替わっていく。もし、今日私が体験したことのすべてが夢の中の出来事だとしたら――それはとても嬉しくて、虚しくて、悔しくて、悲しい。
 ――私、卒業したら東京に帰るよ。
 そんな言葉は、聞きたくなかったけれど。
 そんな言葉さえ告げられないまま、離れ離れになってしまうのは、もっと……
「――やっぱり、こんなのって、ダメだよね」
「え、……」
「うん、ダメだ。ぜーんぜんダメ。こんなに湿っぽくなっちゃって、ちっとも私たちらしくないよ」
 唐突に、けらけらと、彼女が白い歯を浮かせて笑った。さっきまでの沈んだ雰囲気を吹き飛ばしてやらんとばかりに。眼を丸くして、私は彼女の顔を覗きこむ。いやな予感がした。こういう時の彼女は、大抵ろくでもない考えを思いついた時なのだから。
 だけども今だけは、その気遣いに感謝をしたくなる。薄れかけていた彼女の存在感を、にわかに取り戻すことができたような気がしたから。
「私さ、今日はもうちょっとこう、波乱に満ちた一日になるかなぁなんて、勝手に考えててさ。だって私たちだよ? 私たち、秘封倶楽部の解散の日だよ? あの! 秘封倶楽部の! ……だから、こんな言い方が正しいのかはわからないけど、ここまで“普通”なのって、なんか変な気がして。ドラマの観すぎかな、私。だけど納得ができないんだ。実感がない、とも言えるかな。これでほんとうに終わってしまった気がしない。来週にも私たちはこの街角で待ち合わせをして、くだらない話に花を咲かせていそうな、そんな気がするの」
「普通は、きらい?」
「私たちらしくないとは思わない? 今までありえないような体験や経験を積み重ねてきた私たちの最後が、こんな内輪の、しょうもない理由で解散だなんて。いや、私にとっては重大事項そのものなんだけど……秘封倶楽部として、さ。なんだか格好がつかないと思うんだ。うん、格好悪い。これまで派手にやってきたんだもの、最後だって盛大に格好つけて終わりたい。なんて、考えちゃうのは贅沢なのかな……私、きっとわがままを言っているよね。終わりにしようって、終わらせてしまったのは私の方なのに、メリーにはこんな無茶を言っている。未練がましいって思う。後ろ髪を、ぎゅうって引かれてる。やり残したことなんてないだろうって思っていたけど、やっぱり、自分の心にうそはつけないんだね」
 彼女の言葉は、まるで私の心の内側を鏡映しにしたかのようで。私たちらしくない。現実という壁に立ち塞がれて、そこで諦めてしまうのは単なるオカルトサークルの域を出ない。だけど私たちは違う。壁を、境界を乗り越える術を持っている。その先にある素晴らしい光景を知っている……!
 もう一度、見てみたい。
 もう一度だけ、確かめたい。
 私たち秘封倶楽部が、いったいどんなサークルだったのか。
「ロマンチストね、あなた」
「知らなかった? 物理学には浪漫がいっぱいよ」
「……追い求めるのは、もうやめにするんじゃなかったのかしら」
「胸に抱き続けるだけなら、誰にもお咎めなんてもらわない」
「でも、」
「それでも私は、この夢の終わりをちゃんと見届けたいんだ……メリーと、一緒に。
 最後のサークル活動、しようよ」
 言葉の終わりに、すぅ、と手のひらが差し伸べられる。掴んでと、私に付いてきてほしいと、真っ直ぐな視線でもって私に語りかけていた。何度だって握り締めたことのある手。境界を踏み越える時、わけのわからない怪物に追いかけられた時、私たちはいつも手を繋いでいた。喜びを相乗し、恐怖を分かち合いながら、私たちは幾度も冒険を繰り返してきたのだ。世界中のどこでも味わうことのできない尊い体験、幻想との邂逅はいつも彼女と共に。今だって、この手を取った先には、そんな未知との出会いが約束されているだろう。彼女と二人、どこまででも行ける。期待が胸を膨らませて、そこに高揚感が満ちていく。あぁ、あの日々を取り戻せる――恍惚とする。ふわふわとした心地のままに、思わず、その白い手に縋りそうになって……
 だけど、ためらう。
 それは終点だから。
 別れの握手と、おなじことだから。
 私はこの手を取るべきだろうか、それとも払いのけるべきだろうか。これは最終確認だ。私たちの間に、ある約束を結ぶための儀式だ。すなわち、この最後の旅路の果てに、私たちは道を違える。今まで並行してきたものがついに捻じ曲がって、二度と交わることない地平に向かって伸びていく。
 私はまた、一人ぼっちになる。
 彼女と出会う前の、空っぽの日々へ。
 こわい。
 怖くて。
 その手はあたたかい。手のひらだけじゃなくて、きっと私の奥深いところまでを優しい温度で満たしてくれるに違いない。だからこそ、その熱を失った時の肌寒さが怖いんだ。身震いなんてものじゃない、それこそ身を切るような、引き裂かれるような冷たさが私に襲い掛かるのだ。それに私は耐えきれる? 後悔をしないと言いきれる? 痛ましい結末にしかならないってわかっているのなら、いっそここで、渇いた心のままお別れをしたほうが、ずっと気が楽になるんじゃない……?

 その手の表には、一握りの幸福。
 裏には、ありったけの絶望。
 そして私は、

「卒業旅行をしよう、メリー」

 両手で、そっとその手を包み込んだ。



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