□秋葉散る
はじめのうち食事もあまり取らなかった彼女だったが、秋が深まり山がほんのりと赤づきはじめるにつれて小康を取り戻し、起き上がって窓の外を眺めるほどには回復を遂げた。とはいえ、病の気配が拭えたわけではない。触れれば今にも砂となって崩れてしまいそうな輪郭は相変わらずで、床擦れを防ぐために体を動かそうとする度に、枝切れのように細い手足が折れてしまわないかどきりとした。
「この辺りでいいかしら」
「ありがとう。見えやすくなったわ。あぁ、もうすぐ外は紅葉ね、楽しみ」
布団を小窓の傍へと寄せて、窓向こうの景色を見やすくする。一日のほとんどを、彼女は外を見て過ごした。それしかすることがないと言えばそこまでだけれど、森の木立や訪れる小鳥を眺める表情はいつも穏やかな笑みを湛えていたので、この日常に飽き飽きしているというわけではなさそうだった。
「私、紅葉って好きよ。眩しくって綺麗だもの。見ていると、胸がどきどきしてたまらないの」
「そう。それは素敵なことね」
「あなたも、紅い山は好き?」
「えぇ。同好の士が見つかって、とても嬉しいわ」
こうも純粋な気持ちで言われると、私はなんだか誇らしくなって、彼女にもっと美しい景色を見せてあげたいと思ってしまう。本来であれば自然に任せて直接手を加えないところを、私はほんの少しだけ力を使って木々に呼びかけた。表の梢がざわ、と揺れて、私の言葉に応えてくれた。
「きっと明日には、もっと紅くなってくれるわよ」
「ほんとう?」
「山もあなたに、もっと自分の綺麗なところを見てほしいって、そう言ってる。あなたが良い子でいるから、ご褒美をくれたのね」
痩せた頬を撫でる。まるで新しい妹ができたみたいでくすぐったい。穣子もこのぐらい素直であればなぁと思ったところで、ふと彼女の顔色が変わったことに気がついた。
わずかに笑顔が陰って、寂しさの色を覗かせる。
独り言のように、彼女は呟いた。
「私、良い子でいれたのかな」
「私はあなたを迷惑だなんて思っていないけれど、」
「でも、お兄さまの邪魔をしてはいけないって、お母さまには言われたわ」
顔色は、申し訳ない、と思う気持ちで曇っているように見えた。それは病のせいだけではなく、おそらくは彼女の生まれ育った環境によるものだろうと言うことも、なんとはなしに伝わってくる。
思えば、いくら娘が病気をしたとはいえ、それをそのまま山に棄てるとは思いきったことをする親である。生まれてすぐの赤子を間引くならまだしも、ここまで成長した子を手放すしてしまうなんて。
「私は、今のお母さまのほんとうの子ではないから」
そんな私の疑問を読んだかのように、彼女は言葉を続けた。
他人事を話しているかのような、淡々とした口ぶりだった。
「新しいお母さまが来るってお父さまから聞いて、はじめは嬉しかったけれど。でもお父さまが亡くなってから、お母さまは私に冷たくなったわ。愚図な子ね、って言って。もっと良い子になれないのって、叩かれた。痛かったけれど、でも、仕方のないことだった。だって私が良い子でないのがいけないのだから、原因は、すべて私にあるのだから」
言葉の断片さえあれば、おおよその事情を察するのには困らなかった。連れ子を鬱陶しく思っていたところへ、ちょうどよくその子が大病の末期ということがわかったものだから、これを機に追い出してしまおうとでも考えたのだろう。となれば、彼女にはもう帰る家と呼べるものはあるまい。里ではとうに病気をで死んだことにされていて、彼女の母親は新しい夫を見つけているのかもしれない。
報われない子だ、とは思う。かといって私に干渉をする余地などないし、彼女もそんなことは望むまい。心から帰りたいと願っているのなら彼女は這ってでも小屋を出て行くだろうし、母親も彼女を連れ戻したいと思えば勝手に連れ戻し来るだろう。里人同士の問題は、あくまでも里の中だけで解決されるべきものであり、神の神徳を要するところではない。
そもそもの話、私にできることなんてたかが知れている。救おうなどとおこがましい。社も持たない流浪の神に、いったいなにができよう。
私に成せることなど精々、傍らで共に紅葉を愛でる、そのぐらいのものだった。
「あなたは、良い子よ。秋山を好きだという人に、悪人なんているものですか。だから、あまり自分を卑下するのはやめなさい。もっと図々しくしていたって、神さまは罰を与えたりなんてしないんだから」
再度、小さな頭を撫でてみせると、彼女はようやくはにかんだ笑みを浮かべてくれた。わずかでも彼女の支えになったのなら良かったと思う。久しく忘れていた他人との交流は思いのほか心地が良くて、胸をくすぐったい気持ちで満たしていった。
「不思議。あなたにそう言ってもらえると、とっても安心するの。あなたってなんだか、私のお姉ちゃんみたいね」
「あら、その肩書は正しいわ。実際私には妹が一人いるのよ、その子と比べれば、あなたはずいぶんと聞きわけがいいんだから」
「そうなの? その子は今、どこに?」
「今は離れて暮らしているわ。この時期は、私と違って妹はあちこちに引っ張りだこだから」
「……寂しくはないの?」
「あんなのがいたって、喧しいだけなんだから。それに、」
私は嬉しかったのだ。今年の秋を共に過ごしてくれる同居人ができたことに、運命的なものさえ感じている。ひとつの空間を分かちあっても不快に思わない相手というのはとても貴重だ。私は閑静さを好むが、進んで孤独になりたいわけでもない。傍らに佇む彼女の細やかな息遣いも、すでに私の愛する秋の一部となっていた。
そんな彼女に、心からの感謝を伝えたくて。
照れくささをぐっとこらえながら、私は彼女に面と向きあってこう言った。
「今はあなたが、私にとっての妹みたいなものだから、ね」
中秋に差しかかって、山は最盛を迎えた。枝葉は余すとこなく朱や黄に染まり、天上はおろか地上さえも鮮やかに染めあげている。時たま山の頂から吹きおろす風があると、空を埋めつくさんばかりの紅葉が舞い散った。
彼女のために、手塩にかけて創りあげたいっとうの秋。
生き延びるための木々の知恵は、華やかな生の煌めきとなって私たちの眼を魅了する。
その命の輝きに感化されたのか、ここのところ彼女の体調は順調に快方へと向かっていた。寝たきりだった生活も、時折布団から起き上がっては、小窓を開けて外の空気を味わうようになった。
「私、外へ出てみたい」
そうしているうちに外への期待が抑えきれなくなったのか、彼女はもっと間近で紅葉を見たいと口にするようになった。出会ったばかりの死人のような顔色もまるで冗談だったかのように、喜色満面として表情は生気に溢れていた。
「体調は平気なの? 無理の出来る体ではないのだから、落ち着いて考えなくてはだめよ」
「大丈夫。最近私の調子が優れていることくらい、あなたも知っているでしょう?」
言われてしまっては、その通りだと頷くほかない。見ちがえるほど明るくなった彼女を見て、まだまだね、と意地悪を言う気にはなれなかった。
「そこまで言うのなら止めはしないわ。明日にでも、私と紅葉狩りに出掛けましょうか」
「ええ、楽しみね!」
いっそう弾んだ声で答えると、それから彼女はいつもよりも早く床についた。少しでも早く明日になってほしいと考えているのだろうか。そんな仕草がまるで小さな子どものようで、だけども彼女とおなじぐらい気持ちを浮つかせている自分も、存外お子さまなのかも知れないな、とひとりごちて笑った。
あくる日は朝から快晴が広がっていた。山あいから下りてくる肌寒い空気も、今日はいくらか和らいで過ごしやすい。絶好の日和ね、と浮き足立つ彼女と共に支度を済ませると、昼過ぎに家を出て散策へと繰り出した。
一歩、家から踏み出して。
彼女の息を呑む音が聞こえてくる。
「……紅い!」
それまで小窓から見える風景がすべてだった彼女の世界は今、おそるべき勢いで広がりを見せ、そこに数々の色彩を取り込んで輝いたのだろう。空の青さ、大地の赤さ、飽きるほど見つめたはずの色なのに、その鮮烈な刺激から目を逸らすことはかなわない。私もまた、これほどの風景と出会ったのは数十年ぶりのことだった。秋めく山の、燃え上がるようなパノラマ。それをいつにも増していとおしいと思うことができるのは、他でもない彼女と、この気持ちを分かちあうことができるからだろうか。
「ねぇ、私、山がこんなにも赤くなるだなんて知らなかったわ。まるで花が咲いているみたいよ。満開の椛って、こんな景色のことを言うのね。もうすぐ枯れてしまう葉っぱのはずなのに、どうしてこんなに目に映えるんでしょうね」
「冬を前に、木々が精一杯に命を繋ごうと頑張っている印よ。少しでも多くの太陽の恵みを受けようと、身を綺麗に染めて自分を主張するの。私はここにいる、ここで生きている、って」
黄葉が形作るアーチの下をゆっくりと歩む。踏みしめた地面がくしゃりと乾いた音を立てるたび、彼女は気分良さそうな顔をして足取りをどんどんと軽く弾ませていった。
「ふぅん、樹木だって一生懸命なのね。なにも考えていないのかって、思ってた」
「そんなわけないじゃない。命あるものすべてに意思は等しく宿る。今日だってもしかしたら、あなたが来るとわかっていたからこそ、山もいつも以上にお粧しして待っていたのかもしれないわよ」
「……これが私のための風景なんだとしたら、贅沢が過ぎちゃうよ」
「いいじゃない、こんな時ぐらい。思う存分、独り占めしていいの」
言うと、ふと彼女は足を止め、空を見た。梢の合間から差し込む光の、その先を見通すように。
「できることなら、」
声はどこともない場所に向けて投げかけられていた。高くに構える秋の空の、そのさらに先を目がけて。天国や天上などと呼ばれる、決して手の届かない最果てに向けて。
「お父さまにも、この景色を見せてあげられたら良かったのに」
そこでいったん言葉を区切ると、踵を返してくるりと振り返る。やはり、彼女は笑っていた。そうすることが、まるで義務であるかのように。彼女と出会ってから数週間、私は彼女が涙を流しているところを見たことがない。どんなにか疼痛が体を苛んでも、彼女は弱音の一つも吐かないで笑顔を振りまき続けた。
だけども、人間がそんなに完璧なはずもなくて。
これまで押し止めた分の感情は、確実に彼女の内側に募っているはずで。
いつかはち切れてしまうことは間違いないだろう。堤の崩れるようにして、押し殺してきた感情がわっと溢れ出す、そんな日は必ず訪れるのだ。訪れてほしかった。私には、そんな彼女を受け止めてあげるだけの心構えを用意したつもりだった。
だけども、そんな日が訪れるかどうか、今となってはわからない。
彼女が心を壊してしまうよりも前に、彼女の命そのものが尽きる可能性の方が、はるかに高かったのだから。
「お父さまも結核で死んだわ。今日とおんなじ秋の日だった。いろんなお医者さまにかかって、良いお薬もたくさんもらって、けれどもやっぱり、手遅れになってしまった時間だけは取り戻せなくって。最期は静かなものだったわ。痛いとも苦しいとも言わなかった。お母さまの方こそ、胸が張り裂けてしまったみたいに泣き叫んでいたくらいよ」
亡き父の最期を語る少女の口ぶりは揺らがない。この小山に立ち並ぶ木々のように強い芯を持っていて、決して曲がることのない信念を据えているかのようで。
けれどもそれは、まだ幼さの残る顔立ちには似つかわしくないものだとも思う。
ともすれば彼女は、父親への悲哀を断ち切ると共に、そこにいっさいの感情を置いてきてしまったのではないかと、そう悲観してしまうほどに。
「でもね、きっとお父さまは未練があったと思うの。だってお父さま、家の中にずっと閉じ込められたままだったから。一目、椛を見たいと言っても、誰にも許されなかったから。お父さまは秋が好きだった。私に、秋の山の美しさを最初に教えてくれたのも、お父さまだった」
それでも彼女にたった一つ残ったものがあるとすれば、それはやはり、この秋の深山の燃ゆるような風景なのだろう。
ひとみの奥に焼きついて、決して拭い去ることのできない唐紅の山。
父親との想い出の季節に、場所に、彼女は秋を選んでくれたのだ。
「こうして紅葉狩りに出掛けたのは二回目。最初はお父さま、そうして今度は、あなたに連れられて。ありがとうなんて言葉じゃ足りないくらい、あなたには感謝しているの。これでもう、思い残すことなんて、なんにもないわ」
なぜだか、私は胸が苦しかった。そんな言い方ってないだろう。そんな、まるでこれから、命を絶つような。思い残すことがないならば、また新しいことに挑戦してみればいいじゃないか。まだまだ、秋の盛りなのだ。生命の燃ゆる灯火は煌々と輝いている。その火の尽きる前に終えてしまうなど、中途半端も甚だしい。人間は最期まで幸福を追うべきだ。そのために神に縋り、希っても構わない。その期待に神はきっと応えてくれる。応えてみせる。あなたが望むのであればいつだって、赤く、紅く、朱い秋を約束してあげられるのに!
――なのに、彼女はそっと微笑むばかりで。
わがままを言わない、良い子のままで。
「ありがとう、お姉ちゃん」
居た堪れなくなって、気がつけば細い体を抱きしめていた。ぎゅうっと、力を込めたくて、だけども手折ってしまいそうで怖くて。小さな肩を抱き寄せた私の腕はみっともなく震えていた。彼女は両の足でしっかりと立っているのに、どうして私の体はこんなにも強張っているんだろう。みっともないったらありゃしない。だけどももう、我慢ならないのだ。秋を、私を、好きだと言ってくれたこの儚いひとを、失いたくない!
「なにを言っているの」
「……お姉ちゃん、」
「あなたの気持ちなんて、私の知ったところではないわ。なにを勝手に、ひとりで満足しているのよ。ようやく、あなたと過ごす日々も悪くないって、そう思えてきたばかりだったのに、そんな私の気持ちを削ぐような真似をしないでちょうだい。あなたは私の同居人で、気のあう友人で、たいせつな妹なのよ。姉より先に死ぬなんて、そんなの、許されないわ」
拾った猫に情が湧いて捨てられなくなるなんてよくあること。けれども黙って見殺しにするよりか、無理をしてでも家に迎え入れたほうが、ずっと後悔をしなくて済むに決まっている。それとおんなじことじゃあないか。一度は死んだはずの彼女を命を私が拾って、いったい誰が私を責めたてよう。感謝こそすれ、恨まれる筋合いなんてない。ましてや恩を仇で返すだなんて、そんな不義理が通るとでも思っているのだろうか。
ただで死なせやしない。
いつまでだって、私の秋につきあわせてやる。
だから、うん、と頷け。その腕で、私を抱き返せ。どうした、どうして、動かない。あなたを迎え入れる時に、約束したじゃないの。なんでも私の言うことを聞きなさいって。忘れてしまったの? ねぇ、なにか返事をなさいよ。ねぇ……
「……ごめんなさい……」
こほん、と咳をついて、彼女は首を横に振った。私の腕の中で、矮小な体が身じろぎをする。こほん。抱き締める腕の力が強すぎたのだろうか、だけれどもここで手を離しては、彼女がそのまま遠くに行ってしまうような気がして。こほん。そう思って、腕に込める力を緩めずにいると、やがて胸の辺りがじんと火照って熱を帯びはじめた。こほん、こほん。じわじわと広がる。こほん、こほん、こほん。流るるものの熱さ。灼けるような感覚。それもそうだろう、さっきまで彼女の内側で燃え盛っていたものの残滓なのだから、余熱を持っていたっておかしくはないとも。
「……あなた、まさか、」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ、――は、ぁ……っ、」
高熱に融かされたようにして、彼女の体が腕の中からずるりと抜け落ち、そのまま地べたにくず折れた。突然に消え失せる彼女の体温。だけれどもこの胸に染み付いた灼熱はまるで収まる様子などない。心臓はさっきから狂おしいまでの拍動を刻んで、全身を突き破らんばかりに血を逸らせている。うるさい、ちょっとは静かにしていろと両の手で胸の上を押さえつけると、今度は途端に全身凍えて、思考さえも停止した。
手のひらに伝わる、ぬるりとした感触。
あぁ、山よりも紅く、秋よりも朱い――
「なによ、これ」
世界が冷めていく。さっきまでの情熱も、情感も、なにもかもがうそだったかのように。うそをつかれていた。うそに気がつけなかった。私は間抜けだ。とんだ節穴のまなこだ。もっとも留意すべきことを、真っ先に見落としていただなんて!
彼女と並んで山を歩けることが嬉しかった。
私の秋を喜んでくれることが誇りだった。
だから、私は、
ほんの少しなら、平気だろうって、
「――いや、だめよ。だめなの。どこにもいっちゃいや」
芋虫のように丸まって、ぜいぜいと息をつく彼女を見下ろして、言う。人間のくせに生意気な。神さまを騙すだなんて許されない。お前には死よりも厳しい罰を与えてやる。一生私の手足としてこき使ってやろう。春も、夏も、秋も、冬も、秋も、秋も、秋も、秋も――
どこへだって、ゆかせるものか!
やっとの思いで家に引きずって帰って、それから小一時間ほど血を吐き続けた後、ようやく発作は治まった。だけれども予断を許すような状態ではない、焼け石のように火照った体は私の力では成す術もなく、仕方なく竹林まで飛んで医者を呼んでくる羽目になった。連れてきた医者は彼女の容態を一目見て、ぞんざいにもため息など吐いてみせたものだから、その時点で私の怒りは破裂する寸前だったけれども、しかし病人の手前、怒気を押し殺して「治りますか」と訊いた。医者はしばらく思案顔をしてから、「命だけなら助けられないこともないが、人として死ぬ」とあっけらかんと答えた。連れてきてから五分と経たずに、小屋から蹴り出した。
「お姉ちゃん、」
そんなやりとりの騒がしさに気がついたらしい。彼女は数時間ぶりに目を覚まして、とろんとしたひとみで私を見やった。
「……起きたの」
「私、なにをしていたの。なんだか体がとっても重いの。筋肉痛かしら、なんて、」
「動かなくっていいのよ、そのままでいて。喉は、渇いていない?」
「からから、干乾びてしまいそう」
沸かしておいた白湯を椀に入れて冷まし、そっと彼女の口元に寄せる。舌先で水面をちろりと舐めると、おいしい、と一言呟いて、それきり口をつけなかった。
「せっかくの紅葉狩りだったのに、ごめんなさい」
「いいのよ、日を改めればいいだけの話だわ」
「次はいつになるかしら」
「そうね、明日にでも、」
言って、彼女の言葉を待った。楽しみね、と返してくれることを期待した。けれども彼女は力なく微笑むと、そのまますうっと瞼を閉じて、それきり深い眠りについてしまった。今日一日で、二度も私の言いつけを聞かなかった。もうこれまで通りではいられない、穏かな日々の終わってしまったことを思い知って、胸の奥がひどくざわめいた。
あれほど赤焼けていたはずの山はみるみるうちに精彩を欠いて、葉色を黄土にくすませたものから梢を去り、地に落ちては土に還る時を待つ。命力尽きた山並みには、先日とはうって変わって目を背けたくなるような閑寂が蔓延っていた。
秋が見せるもうひとつの顔。
死と、終焉。
それは当然の帰結であると、しばらく前の私であれば気落ちこそすれ、受け入れることを拒むような真似はしなかっただろう。始まりがあれば終わりが来る。生けとし生けるもの、みないつかは朽ち果てるのがさだめ。それはとても哀しい別れであるけれど、次の命を結ぶには必要な痛みであると、秋が終わるたびにぐっと堪えて、身を切るように凍える冬を忍んできた。
けれど、
だけども。
私は知った。二度と春を迎えぬ命があることを知った。この世にたったひとつだけ輝いて、失われれば永久に取り戻せないものがあることを知ってしまった! 顔も、形も、匂いも、仕草も、すべてが私の心を惹きつけてやまない。耽溺ともなんとでも言うがいい、みすみす彼女を失うぐらいなら、思慕に呑まれて溺死するほうがはるかに幸福だ! 生まれてはじめて胸中を満たしたこの痛切な感情は、きっと喪失感と呼ぶのだろう。たいせつなものが抜け落ちて、体に大穴の空きそうになる恐怖。彼女は、共に秋を愛で、慈しむ私の手足なのだから。それを奪われることは四肢を引き裂かれるにも等しい苦痛を伴って、私をこわしてしまうに違いない。
だからこそ足掻く。後悔をしないために、絶望を免れるために。方々手を尽くして回り、郷土中を幾度となく往復して駆けずった。けれども思うような成果は遅々としてあがらない。そうしているうちに時間ばかりが徒に過ぎて、山々は枯れて地肌を晒し、頬を撫でる風も冷たく、鋭く砥がれていった。
満身創痍の体が悲鳴をあげる。節々が軋み、あかぎれた指先が疼く。なんて情けない風体だろう、これでは彼女に見せる顔がない。すっかり意気消沈して、家路につく足取りは重かった。こんなにか気落ちした私を見て、彼女はなんと言うだろうか。きっと、いや間違いなく、労いの言葉をくれるのだろう。自分の体のことを棚に上げ、風邪はひかなかった? なんて訊いてくるに違いない。
「ただいま」
だから、つまり、そういう返事を私は期待していたのだ。今までどおり、彼女が自分をかえりみない言葉をくれることを望んでいた。それぐらいのことを言う余裕があるなら、まだ猶予は残されているのだと、なけなしの希望にさえ縋りたくて。
けれども病床の彼女は応えない。じっと息をひそめ、窓の外をぼんやりと見つめたまま身じろぎもしない。返事をすることも億劫なのか、それとも眠っているだけなのかも遠目には判別つかなかった。そろそろと足音を殺して近づいて、私は彼女の隣に腰を下ろす。そこから、おなじ窓の向こうを見やる。立ち枯れて、枝葉のほとんどを落とした小柄な楓が一本、視界に留まった。
「――冗談を言っても、いい?」
そんな折、ようやく彼女がかすれた声を発す。注意していなければ聞き取れないほどにか細い声音に、私は全身の神経を傾けて、
聞かなければ良かったと、すぐに後悔した。
「あの葉が散ったら、私は死ぬの。秋が終わったら、私は往くの。お父さまのところへ」
布団の中からそろりと腕を運んで、彼女は小窓の向こう、窓枠の端からのぞく突き出した小枝のひとつを指さした。その上腕はもはや枝切れよりも細くて脆い。視界に映すこともためらわれて、私は窓の向こうばかりを見つめることに必死になった。最後の落葉を間近に控え、まるでさよならの挨拶でもしているふうに梢が揺れている。枝先に一枚きり残った赤茶けた葉も、木枯らしに吹かれて今にも千切れそうだった。
「なにをばかなことを言っているの」
「………」
「秋はまだ、終わらないわ。終わらせてやるものですか」
「そうだね……、そうなると、いいなぁ」
からからと笑って、そこで力尽きたのか、彼女はまたゆっくりと意識を閉ざす。このごろは、こうして起きている時間も日に十数分と短くなって、満足のゆく交流を図ることも難しくなった。まだまだ、伝えたいことはたくさんあったけれども、そのすべてをぐっと飲み込んで胃に押し流した。腹の奥底に、消化の悪いどろどろとしたものが積もる。鉛のように重く、一方で焼けた鉄のようにも熱かった。
ぎり、と歯噛みをして、もう一度窓向こうの景色を睨みつけた。ふらふらと踊る枝葉は、今では私を嘲っているかのようにも見えてならない。もうすぐ、お前のたいせつなものを連れてゆくぞと、そんな挑発をけしかけられているようにも思えた。私が手を加えてやった恩も忘れたのか。ばかばかしい。私を誰だと思っている。秋の神。寂しさと終焉を司る自然の化身。お前らごとき、ねじ伏せることなんてたやすいのだ!
この秋をもう、散らせやしない。
翌日は秋だった。
冬備えで買い忘れた品があったことを思い出し、里の市へと赴いた。正月を前にした最後の売り出しということもあって、通りはそれなりの賑わいを見せている。私にとっては、あまり得意ではない喧噪だ。早々と買いものを済ませ帰途につこうとし、しかしそんな私の背中へと、久しく聞かなかった声がかけられた。
「おどろいた。姉さんぢゃないの」
その声を懐かしいと思う前に、面倒なやつと出会ってしまったなぁと、思わず落胆の息が漏れそうになる。振り返ると、そこにいたのは予想を違わず妹の姿だった。とはいえ、その恰幅は妙に豊かそうに見える。寒空の下だというのに頬は紅潮して色づき、召しものも普段より良い生地を使っているように見受けられた。
「穣子。今年は姿を見ないと思ったら、どこでなにをしていたの」
「はりきり過ぎちゃって、田畑が豊作でねぇ。あちこちお祝いを回っていたら、帰る暇なんてなくって。最近になってようやく落ち着いたんだけど、もう年も暮れるってことで、里の地主が一部屋貸してくれたのよ」
いやあまいったと妹は頬を掻く。露骨に自慢をしているのだろうことは丸分かりだ。けれども、そんな妹に食ってかかる気分にはなれなかった。ただただ、ここで話し込むだけ時間の無駄だ、一刻も早く話を終わらせたいと、焦燥が積もるばかりだった。
「あなたの贅沢ぶりなんて知るものですか。用が済んだのなら、私は行くわ」
「あぁ、ちょっと待ってよ姉さん、」
踵を返そうとした私の前へ穣子が躍り出る。邪魔をするなと怒鳴り散らしそうになって、しかし私の顔を覗く妹の視線にどきりとした。さっきまでの茶化した雰囲気はどこへやってしまったのだろう、妹の表情は、どうしてかとても思い詰めた様子をしていた。
「最近さ、里で妙な噂を聞いたの」
「噂?」
「うん。なんでも、ある女の子があちこちの医者を回っては、匙を投げられて回ってるっていう酔狂な話。それも、よりによって枯れ葉みたいな色の服を来た女の子なんですって。それって、どう考えても姉さんのことよね」
まるで私の心を見透かさんとばかりに、妹は真っすぐな視線で私を貫く。たちまち居心地が悪くなって、私は眼を逸らさずにはいられなかった。その態度を返事を受け取ったのか、妹は呆れたふうにため息をつくと、案ずるような口調でこう言った。
「姉さんがなにを考えているのか知らないけれど、あんまり入れ込まない方がいいわよ。神と人間の命は違うものだって、そんなことは姉さんがいちばん良くわかっているはずでしょう。だって、姉さんの神徳は、」
「穣子」
すべて言い切らせる前にその口を遮る。そんなことは言われずともわかっている。今さらお前の説教など聞くものか。くだらない忠告をしに来たというのなら、それは余計なお節介以外のなにものでもない。
「別に、特別なことなんてなにもないわ。ただ、拾った猫が少し病気をしてしまって、可哀想に思っているだけよ。えぇ、そう、猫を拾ったの。ちいちゃくて、とても良い毛並みの猫よ。落ち葉が舞うのを追いかけるのが好きな子でね、ついつい、構いたくなっちゃうのよ」
「姉さん……」
「どうしてそんな顔をするの。豊饒の神が陰気では、実るものも実らないわ。さぁ、そろそろお互い、帰るべき家に帰りましょうよ」
それからしばらく沈黙があって、やがて妹はなにも言わずに背中を向けて行ってしまった。その姿が通りの端を曲がって消えるまで、私はじっと見つめていた。心配をしてくれてありがとう、穣子。だけども私は平気よ。それどころか、今はとっても充実して、力が満ちてくるようなの。今まで、ひとりで山を眺めて過ごして来たころと比べて、とっても生きがいを感じている。誰かを笑顔にするって、こんなにか胸があたたかくなるのね。あなたが里人のために一生懸命になる気持ちも、少しは理解できた気がするわ。
だから、私も。
私のたいせつなひとを、笑わせてあげたいの。
それだけのことなのよ。
三日後も秋だった。冷え込む一方だった気温は最近になって上昇へと転じ、ここしばらくは肌寒くとも穏やかな日々が続いていた。囲炉裏の薬缶で湯を沸かし、雑穀が溶け出すまで煮て重湯にする。調理をする私の背中には、珍しく眼を覚ましている彼女の柔らかな視線が注がれていた。
「どう、食べられそう?」
訊くと、彼女は小さく頷いて応えた。ここのところは口数もなくなって、首だけを振って意思を伝えることが多い。彼女の声が聞けないのは惜しまれたけれども、以心伝心の成せるうちは、それだけで胸が満たされる。
「ほら、口を開けて」
匙に一口分を掬って、よく冷ましてから口元に寄せる。針穴のように狭い唇の隙間にそろりと流し込むと、彼女は満足げに微笑んで、美味しいと伝えてくれた。
「今日はとても良い秋よ。山がまた、色づきはじめたわ」
ゆっくりと時間をかけて食事を運びながら、私は彼女に語りかける。空が少し高くなったこと、枯れ木に潤いの戻りつつあること。窓向こう楓の葉の、まだ散ってはいないこと。
それを伝えるたびに彼女は、ほんの少しだけ困ったような顔を浮かべてみせた。しまった、これは少し、意地悪になってしまったかもしれない。身動きを取れない彼女を相手に、外の景色を素晴らしさを伝えたってしょうがない。とすればこの話はお預けだ。彼女がまた元気に歩き回れるようになったその時、一緒に山に出掛けて、満開の紅葉を楽しむことにしよう。
その日、彼女は食事を終えてもずいぶんと長く起きていた。じっと、窓硝子の外を眺めていた。その時ばかりは、彼女の胸の内がなんだかよくわからなくて、物言わぬ彼女の表情に、私は不安な心を拭いきれなくなる。なにを考えているのと訊いて、答えは返ってくるだろうか。ああ、だけれど、その返事さえもが怖い。聞いた途端に彼女が遠い存在になって、そのまま霧散して消えてしまいそうで恐ろしくって。
ねぇ、いったいなにを見ているの。
その葉切れ一枚に、どんな想いを乗せているの。
答えを知る勇気など、ない。
一週間後も秋だった。今朝は朝からからすがうるさくて、追い払うのに午前中をすべて使い切った。奇妙に思ったのは、からすの巣がこの近辺にあるようには思われず、彼らは遠路遥々この山に赴いて、わざわざ見物をしに来たかのように見えたことだ。鳥類といえど、秋茜には惹かれるものがあるのだろうか。それにしてはなんだか不躾な目つきをしていたような気がしてならない。そんな態度が気に入らなかったからこそ、私はからすを山から追い出したのだけれど。
それともまた別に、小屋の近くではなぜだか人の気配を感じることも多かった。紅葉狩りの見物客だろうか、それにしてはみな一様に怯えた足取りをして、自分が枝葉を踏み折った音にさえ驚いて逃げ出す始末だった。まったくわけがわからない。連中はいったいなにをしたいのだろう。そんな疑問を払拭しきれぬまま、今日という日も過ぎて行く。騒々しさこそあれ、山はおおむねいつもの秋に戻りつつあった。頭上を飾る朱の色彩もは増して、梢の葉色もすっかり鮮やかに染まっていた。
次の日も、秋だった。
次の日も、その次の日も。
翌週も、翌月も。
ずっと、ずうっと、秋だった。
一時はもう晩秋かと思われた季節は、しかしなかなかに逸って気を急いていただけらしい。落ち着きを取り戻した木々は今度は枯れ落とした葉を拾い上げ、幹をもう一度秋色の着物で飾っていった。燃え上がる生彩も空の清明も、すべてが元通りになった。
「らん、らん、ららら、ら」
その日は早起きをして、鼻歌交じりにお弁当なんて作ってみせて。笹に包んだ塩むすびに、甘く味つけた卵焼きと。彼女が気に入ってくれるとうれしいなぁ、なんて淡い想いを込めながら白米を握って――けれどもその作業は突然、無遠慮なノックによって邪魔をされる。まだ日の出もみない早朝のことに、心臓が跳ね上がって止まりそうになった。
どん どん どん
小屋を叩き壊さんばかりの勢いに切迫した空気を感じずにはいられない。穏やかな朝のひとときが台なしだ。いったいどんな輩だろう。うちには病人だっているのに、無神経にもほどがある。
居留守を決め込んでもよかったけれど、気持ちはすっかり憤慨して一言怒鳴りつけてやらなければ気が済まなくて。妹なら張り手を食らわせてやるし、もし賊だったのなら胸に風穴をあけてやる。いまだ騒々しく打ち鳴らされる入り口の戸を、私は思い切って開け放ち、
しかしそこに仁王立ちする影は、私の予想を大きく外す人物だった。
「いったいどういうつもりなの。いい加減、見過ごせないんだけど」
敵意を剥き出しにして私を睨めつける人間、それは郷では有名な東の神社の巫女だった。こんな朝早くからいったいなんの用事だろう。背後に気焔まで立ちのぼらせて、今にも弾幕を放ちそうな勢いだった。
「こんな時間から押しかけて、迷惑だとは思わないの? 少しは常識というものを持ったらいかが」
「常識? 笑わせないでよ。こんな異変を起こして平然としているあんたに、そんな説教を言われる筋合いはないわ!」
異変とは、また予期しない単語が飛び出したものだ。それも元凶は私とでも言わんばかりの口ぶりである。身に覚えのない濡れ衣を着せられて冷静でいられるほど、今の私の心中は穏やかではなかった。
「私が、異変を? なんのことだかさっぱりね」
「とぼけるのはやめて。この光景を見て、どうして言い訳ができるのかしら!」
そう言って、巫女は後ろの山々を指す。赤々とした山稜はいつもと変わりなく、秋だった。至っておかしなところなど見当たらない。この閑かな山の、いったいどこが彼女の気に障ると言うのだろう。
「どこにもおかしいところなんてないじゃない。今日も綺麗な紅葉よ。いつ見ても飽きない景色ね」
「だから、問題だって言ってるんでしょう。今日の日付が何月の何日か言ってごらんなさい。新年なんて、とうの昔に明けているのよ!」
語気も荒く、巫女は相当に苛立っているようだった。年初めから異変解決とやらに駆り出され、面倒に思っているのかもしれない。だけどもその怒りをぶつけられるのはお門違いと言うものだ。恨むのなら依頼人を恨むべきであり、私が批難を受ける理由はない。
しかし巫女の剣幕は収まるところを知らず、額に青筋立てて今にも暴発しそうだった。この巫女の実力はいやというほど知っている。本来であれば、挑発をして無事でいられる相手ではないことも。
それでも、引けない。引くわけにはいかない。
あの葉を、散らせるわけには……!
「幻想郷中が雪に埋もれてるっていうのに、この山だけ血に塗れたように紅いなんて、不気味にもほどがあるわ。里の間じゃ山が呪われたっていう噂が流れて、不安に思っている人間が大勢いるのよ。もう放ってなんておけないの。今すぐ、この山に冬を戻しなさい」
「いやよ。私、秋が好きだもの。秋でなくっちゃ、困るわ」
「……あなた、神さまでしょう。四季の調和を司る神が自然をねじ曲げてしまうだなんて、本末転倒だとは思わないの?」
「私は自分の持てる力を正当に行使したまでよ。それにね、私を信仰してくれる人がいるから。秋が好きだって、言ってくれた人がいる。だから私はその信仰に応えなくてはならない。奇跡を、神徳を授けなくちゃいけないの。ねぇ、それってなにか間違っている? あなたも巫女ならわかるでしょう。私の行いは、なんにも間違ってなんかいないのよ……!」
自分を慕ってくれるひとに報いることの、いったいどこがおかしいと言うのだろう。当たり前のことじゃないか。人間だの、妖怪だの、神さまだの、そんなことは関係なくって。想う人のために努力すること、必死になること、それは誰にだって持ちうる尊い感情じゃないか。私にだって気がつけた。無償の愛の存することを知ったのだ!
なのに、どうして。
認めてはくれないの……
「いいえ、あなたは間違っている。勝手に救った気になって、けれど信者がほんとう求める救いに気がつけないでいる、愚かな救世主気取りよ」
「……っ、」
「二度は言わないわ。冬を返しなさい。当然の死と、静寂と、終焉をもたらしなさい。さもなければあんたに代わって私が終わらせてあげる。私の冬は、ちょっとばかり厳しいかもね」
「嫌……渡さないわ、誰にも……」
「このっ、いい加減に聞き分け、」
「いやぁっ!!」
感情の爆ぜるに任せ、叫ぶ。抗わずにはいられなくて。ここで屈することは、彼女を見殺しにすることもおなじで……
なればこそ、決死の覚悟で立ち塞ぐ。
穿たれたって、貫かれたって、決して倒れまいと心に誓って、
……けれども、そんな私の背中へふと投げかけられた声があった。
消え入りそうな声音を、しかし私が聞き逃すはずはない。
身じろぎ、衣擦れのする音がして。振り返ると彼女が布団から這い出して、のろのろと私の傍へと寄ってくるところだった。
「どうしたの、お客さまなの、」
「……戻りなさい」
「や。私にもおもてなしさせてちょうだい」
「少し立ち話をしていただけよ。今、帰るところだから、気を使わなくっていいの」
「そう、残念」
くしゃと皺を寄せた笑みには、出会ったばかりのころの彼女の面影が見えて。けれども病に削ぎ落とされた頬や、薄皮一枚残った肌などは、死相をすっぽり被っているのと変わりない。
変わり果てた風体に、胸の奥がなにか、歪な軋み方をする。
どれだけ秋を深めても、紅く、染め上げても。
決して覆すことのできない終焉が、そこにはあった。
「もう、帰って……お願いよ、おねがい。私たちのことなんて、放っておいて。誰にも迷惑なんてかけていないわ。ここで慎ましく暮らしていただけじゃないの。これからも、そうよ。私はこの子と生きてゆくの。私の、ささやかな楽しみなの。一緒に、秋を愛でるのよ。しあわせなのよ、私。ほかになんにも、いらないわ……」
「………」
巫女は病床の少女を一瞥する。その色深いひとみに、彼女の姿はどのように映ったのだろう。なにを、感じ取ったのだろう。しばらくの間視線を交わらせ、やがてそれも絶えると、彼女は踵を返し地を蹴って空へと去って行った。おどろくほど淡泊な退散に思わず拍子抜けする。そんな私の鼓膜へ飛び込む言葉もまた、にわかには理解しがたいものだった。
「あの巫女さん、やさしいね」
「やさしい? 彼女が?」
「私にチャンスをくれたのよ。一度きりのたいせつな機会を、私に譲ってくれた。あなたに期待しているって……責任を持って、あなたが終わらせなさいと、そう言ってくれたの」
彼女のそんな声を聞くのは二度目だった。彼女と二人で山にいった時、私にごめんなさいと言ったあの時――思い出したくもない最悪の光景が蘇る。私の腕の中からするりと抜けてしまった、あの形容しがたい、喪失感――
けれども今度は、そうではなかった。あの日地に倒れ臥した少女は、今度はその両足で立って私に向き合おうとしていた。棒切れのような足で体重を支えようとして、けれど何度となく失敗しては地べたに崩れて。そのたび、もう一度、と呟いて立ち上がろうとする姿勢に、私は無性に悲しくなって、飛び出してその体を抱きとめたくなった。やめなさいと言いたかった。無理をするなと叱りたかった。けれどもこの体は石になったように固まって動かない。手を伸ばすことも、瞬きをすることさえかなわない。無慈悲に、残酷に見せつけられる。蟲のように床を這うことも、くず折れるたび叩きつけられる体の痛みも、すべて。
すべて……、彼女の尊厳だった。
彼女が生きて、幸福を掴もうと足掻いている証。
尽き果てる前の、最後の輝きだ。
椛のように、
美しいと感じた。
「ねぇ、お姉ちゃん」
ついに最後まで立ち上がることのできなかった彼女は、それでも膝立ちになって私の腰に抱き着いた。上から覆いかぶさるようにして、その体を抱きとめる。繊細な輪郭は、それだけのことで端々を少し欠いたかのような錯覚をみせた。抱き締めれば、そのまま潰れてしまいそうで、頭を撫でようとした腕は行き場をなくして虚空を掻く。
「私ね、秋が好きよ……だけど、凍える冬も、桜の春も、真っ青な夏も、嫌いじゃなくて。そうして、また廻ってくる秋が好き。めぐりめぐる季節の中の、秋という一幕が恋しい。静かで、侘しくて、けれどもどんな季節にもまけない色があることを知っているから」
鼻先をお腹に押し付けて、くぐもった声を上げる。
火を吹いているような熱い吐息には、隠しきれない血の匂いが混じっていた。
「お父さまに教えられて、あなたが与えてくれたこの秋……私にはもう、充分過ぎるくらいよ。残りは全部まとめて、お父さまのところに届けてあげたいわ。久しぶりに会うのに、お土産も持ってゆかないのは失礼でしょう? だから私、この秋を持って、お父さまのところへ往くわ。往きたいの。会いたいの、お父さまに。もう、ね、あふれ出しそうなのよ。痛くってたまらないの。胸の奥が灼けるようで、叫ぶ声さえ喉を焦がすの。こうやってお話をすることも、あなたに抱きしめられることも、なにもかもすべて、痛いよ……!」
痛いのなら泣けばいい。押しとどめるから、はち切れそうになって、後からつらい思いをする。それならはじめからなにもかも吐き出してしまえばいいのに。痛みも苦しみも、ひとりで抱え込んでおきなさいと、そんなふうに言ったことはなかったのに。
それでも彼女は、決して私に涙を見せることはなく。
やり残した未練も、捨てられた恨みも、病の苦痛もすべて自分で背負ったまま、この世を去るつもりなのだろうか。
私はついに、
彼女を泣かせることができなかった。
「あの葉が散ったら、私は死ぬの。
私が往く時、あの葉は散るの。
だから、お姉ちゃん、もう無理しなくっていいんだよ。
私たちの秋を……終わりにしようよ」
笑顔が、我慢ならなくなって。
力いっぱい、その体を抱き締めた。
途端になにか、硝子の砕けるような乾いた音がして。
私はかけがえのないものを失ったのだということを理解した。
新しい日の朝は、身を切るような冷たさが肌に凍みて、その容赦のない刺激に叩き起こされた。小屋を満たす空気はかつてないほどの冷気を湛え、壁際にはうっすらと霜が降りている。窓枠にももやがかかって、外の景色は窺えない。致し方ないと布団を抜け出し、そろそろと入り口を開けて戸外の様子を確かめようとして――
途端に、目頭が熱くなった。
「あぁ……」
薄曇りの空を背景に、朱と白が綯い交ぜになって踊っている。落葉散る中、この山にようやく降った初雪が、紅黄から純白へ、しんしんと世界を塗り替えていった。燃ゆる山が瞬く間に色を失う。生命は儚く、また呆気ない。世界を喰らい飲み乾すその貪欲なまでの白に、私も一緒に呑み込まれてしまえば良かったのに。どうして目覚めてしまったのか。この雪に抱かれて眠らせてくれなかったのか。あの小屋ごと、押し潰してくれないの!? 神さま、あぁ、神さま! こんな仕打ちはないだろう! こんなはずじゃなかったのに! いつものように秋を愉しみたかった、愉しませてあげたかった、ただ、それだけのことだったのに!!
わあわあと嗚咽をあげる私をあざ笑うかのように処女雪が舞う。
舞い落ちる白い結晶が梢の傍を過ぎる時、
冷たい腕を伸ばして、枝葉を一枚、攫っていった。
秋葉は散り、そして冬が訪れる。