□星のナイフ 最終話
だから、教えてください。
ここはいったい、どこですか?
そっと、空を見上げた。
木々の葉の僅かなすきまから、宝石みたいなお星様と、太陽みたいなお月様が、きらきらと光を注いでいた。
それはさっき望遠鏡で覗いたものとなにもかも同じだった。同じだったから、私は余計に悲しくなった。お月様はなにもかも教えてくれた。だからこそ、自分がどこにいるのかほんとうにわからなくなった。少なくとも、もうお父さんとお母さんには会えないんだと思った。私の迷い込んだこの森は、さっきのキャンプ場と同じ敷地にはなかった。それどころか、見たことも聞いたこともない場所だった。
遠くの方で、ぎゃあぎゃあとなにかの騒ぐ声がした。きっとこの森に住む化物に違いない。あれに喰い殺されるのだ。あっと言う間に。私みたいなとろくさいのは、きっと奴らの一番のエモノなんだ。
両脚からいっぺんに力が抜けて、地面に崩れて、今度こそ私は立ち上がれなかった。近くの木に寄りかかって、あとはもうぼんやりと空を見上げながら、自分の化物に襲われるその時を待っていた。ぐずぐず涙が出てきたのを拭くこともしなかった。夏なのに、冷たくて、寒くて、身体中冷えきっていて指の先も動かなかった。それから、ゆっくりと脳みそも凍りはじめてきた。雪山とかでよくやる、眠ったら死ぬぞっていうのは、きっとこういう感覚のことを言うんだって思った。眠くて眠くて、たまらない。どうせしばらくしたら化物に食べられてしまうんだ。それなら、もう、頑張って起きていることもないや……
やおら目を細めた。今度はほんとうに、ただ眠いだけだった。
半分こになった視界には、まだお月様の姿があった。半分寝ぼけた頭の中に、またあの言葉が流れ込んできた。
22時18分5秒。
げんそうきょう。
いつしか私が迷い込んでいた世界は、そんな名前をしていた。
「そうして気を失ったの。失って、目が覚めた時には家の自分の部屋にいた。お父さんに聞いたら、あの後私、どうしてかテントの中で寝てたんだって。怖いぐらいぐっすり眠ってたから少し心配だったけど、今は目を覚ましたから安心した、って」
彼女は静かに耳を傾けていた。途中で言葉を挟むことはおろか、相槌を打つことさえしない。けれど、私の話を真剣に受け止めてくれている、その姿勢は本物だった。
「普通はさ、こんなことがあったら、悪い夢を見ただけだって、そう思うよね? 私、このことをいろんな人に話したんだけど、みんな口を揃えて、夢に決まってるって、そう言うの。けど私にはそうは思えなかった。あんまりにリアル過ぎたから。木の匂い、土の冷たさ、空に浮かんでた、星と月の光。全部ぜんぶ、本物だった。うそなんてひとつもない。あれは確かに、あの日、あの瞬間、あそこに在ったの。もう一つの世界が、在ったのよ」
「………」
「それから私ね、もう一度あの世界に行ってみたくなったの。あんなに恐い思いをしたのに、どうしてか、惹かれたの。そうやって私のオカルトライフが始まったわけなんだけれど、なんていうか、一人でちまちまやってるのにも飽きてきたっていうか……うん、ちょっとマンネリしてきたかなぁって。大学生になっていろいろ出来るようになったわけだし、じゃあせっかくだから思い切ってサークルでも作ってみようかって、思って。私と一緒に、異世界めぐりをしてくれる人、いないかなぁって、ね。自分がおかしなこと言ってるって、自覚はあるよ。けど本気。マジで言ってるのですよ、これ」
おちゃらけたふうに微笑みなんて送ってみる。彼女はそこでようやく、そうみたいねと一言呟いた。感心しているようにも、呆れているようにもみえた。やっぱり、話がトンでも過ぎたのかな……そりゃそうだ、よりにもよって、“異”世界だもの。
けど、それでも、私は本気だ。本気で、もう一度あの場所に行ってみたいって、そう思ってる。この眼が教えてくれた世界はなにもかも新鮮で、それなのにどこか懐かしい匂いもして、記憶に焼きついて拭えなかった。今もなお憧憬だった。月を見るたびに、あの瞬間を思い出す。私を連れて行ってはくれないものかと、淡く想い焦がれた。
一人ではあの月には届かない。じゃあ、二人なら? 三人は? 四人ならどうだろう。見つからないから探す、探すけど見つからない。一人より二人、二人より三人。三人より、四人より、たくさん。だってその方がいいじゃない。その方が、もしいつかもう一度辿り着けた時、大勢で笑い合えるじゃないか。みんながみんな、違う世界を認めてくれるじゃないか。みんながみんな、私を、信じてくれる。
……認めてほしかったんだ。
誰かに。
信じてほしかった。
私を。
「……ふ、ふふ」
「は、ハーンさん……?」
「ふふ、あはは、あっはははははは!」
私が話を終えると、彼女は薄く閉じていた唇の端を少し開いて「ぷっ」と息を洩らしてから、やがて盛大に笑い始めた。それはもう、店の外にまで響かんとばかりの勢いで、私は顔が途端に真っ赤になっていくのを感じていた。
「いや、もう、あなたったら最高よ!」
「なによー、そんなに笑うことないじゃん……」
「だって、どうせ笑うならって、そう言ったのは宇佐見さんじゃない。それにしても、ほんとうに、……どうしてあなたに興味を持ったのか、私自身よくわからないところがあったんだけれど、あなたの話を聞いて納得できたわ。これはきっと、必然だったんだって」「えっと、どういうこと?」
破顔していた顔を、今度はどこか神妙な面持ちに変えて彼女が言う。ころころと変わる表情は、その心の内をそう簡単には読み取らせてくれなかった。
彼女は、紫のひとみをぱちりと見開いて、それをすっと私の方へと差し向けてきた。視界いっぱいにその色が映り込む。そこにはどうしてか視線を逸らすことのできない、惹き込まれてやまない輝きが宿っていた。
「“特別”なのはね、あなただけじゃないってことよ」
「……それは、」
「最初にあなたの眼を見た時から、ずっと気になってたの。どうして、私とおんなじ色をしているのかなって。鏡に映したみたいにそっくりなんだもの、びっくりしちゃったわ。そして、今あなたの話を聞いて、理解した。あなたにも、あなたの眼にも、私と同じものが視えているんだ、ってね」
「………」
その時、彼女のひとみの奥に、私は確かに“ここ”でないどこかの風景を幻視した。山と、川と、空の郷だった。そのどれもが合成でも人工でもない天然で、もうこの世界では見ることのかなわない、幻想で。そうしてそれは、私が幼いころ眼にしたものとまったく同じ色と形をしていた。私の追い求めていた、探し続けてきた世界は、あろうことか彼女のひとみの中にあったのだ。
「宇佐見さんが羨ましいわ」
「どういうこと?」
「だって、あなたは実際に行くことが出来たんでしょう? 偶然でも、一時でも、その世界の空気を吸えた。それはとても素敵なこと。私には、そこが視えるだけだったから……行こうと思えばきっと行けたんでしょうけど、でも、恐かったの。どうしてか、私はそっちへ行ってはいけない気がして……だから、一人でいることは、本当はとても寂しかった。一人でいる限り、目の前にある世界に飛び込めないんだもの。勇気がなかったのよ、私。とても臆病で弱虫で、だから、手を繋いでいてくれる誰かが傍にいてほしかった。一緒に歩いてくれる人が、必要だった」
眼を細めて、たおやかな笑みを浮かべてみせて、彼女は最後に付け加えて言った。
透き通った優しいアルトが、鼓膜に染みた。
「まさか、こんなに近くにいるとは、思わなかったんだけれどね」
私は胸の高鳴りを抑えられそうにもなかった。ともすれば心臓が爆ぜてしまいそうで、握った左手を胸に添えると、その鼓動の大きく打ち震えていることがじんと伝わってきた。きっとこれは運命なんだと、信じて疑わなかった。私を理解してくれる人がいる。信じてくれる人がいる。私が理解したい人がいる。誰より、何より、信じたい人がここにいる!
「じゃ、じゃあ、入部してくれるの? 私のサークルに?!」
「あなたといると、毎日楽しそうなんだもの。これからよろしくね、……蓮子」
「ぁ……うん、よろしくね! えっと、まえ、マエリベー……」
「言い難いでしょう? メリーでいいわよ。愛称っていうか、略称みたいなものだから」
「そっかぁ。……じゃあ、それじゃあ――!」
たぶん……私が今までしてきたことに、意味なんてなかった。私一人ではなにも成せない。届かない。月も星もあんまりに遠い。辿り着くには辛すぎる距離。歩いていくには、寂しすぎる道程。
でも、今はそうじゃない。二人なら、きっとなんだってできるし、どこにでも行けるし、世界中が敵になったって恐くなんかない! やっとスタートラインに立てたのだ。あとはどこまでもどこまでも歩くだけだった。かけっこみたいに競わなくてもいい。二人三脚みたいに息を合わせなくてもいい。ただ、手を繋いで、たまに放して、やっぱり繋ぎなおしながら。疲れたら休もう。道草もたくさんしよう。急がなくたっていいんだ。ゆっくりと、止まってしまいそうなほどにゆっくりと行こう。ねぇ、それでいいよね、そういうことでいいんだよね。焦らなくたっていいよね。時間はたくさんあるんだもの、急いだって、疲れるだけだよ。私を置いていったらダメだよ。あなたはなんだか、簡単に向こう側に行けるみたいだけれど、私はそうもいかないんだから、あなたが私を置いて先に行っちゃったら、私、どこにもいけなくなっちゃうよ。
「秘封倶楽部をはじめましょう、メリー!!」
私を置いていかないでね、メリー。
約束だからね。
約束、したからね。
▽
真っ暗な部屋でパソコンに向かう。画面に表示されているいくつものページを定期的に更新しつつ、また別のウィンドウでは黙々とインターネット検索を続けていた。検索サイトはいくつもあったから、思いつく限りのところでキーワードを試してみたけれど、検索結果のほとんど変わり映えしないことには正直言ってがっかりした。どこの誰だ、ネットは広い、なんて言った奴は。狭くて小さくて、息苦しいばかりじゃないか。どこもかしこも、トピックのタイトルも内容も同じようなものばかりで、私の求めるべきものは何一つ見つからなかった。
『犯人、依然として手掛かりは掴めず』
『女子大生刺殺事件の捜索は未だ難航』
『府警捜査本部、縮小の可能性を発表』
……見つかるはずがないって、そんなことはわかりきっているけれど、それでも私は探さずにはいられなかった。ある一つの最悪の可能性を打ち消すために、他の無限の可能性を探した。形振り構ってなんかいられない。格好悪いくらいにがむしゃらで、必死だった。世界中の草の根を分けてでも探し出してやるつもりでいた。けれど、私の身体ではそんなこと到底無理な話で、だから私は掻き分けるべき根を情報に絞ることにした。今日、この瞬間、どこかの掲示板に犯人の情報が書き込まれたりしないだろうかと、そんなことばかり考えながらマウスを滑らせた。何十回、何百回とニュースサイトにアクセスしては、変わらない文面に失望した。普段なら絶対に開かないようなサイトも開いてみた。この国で一番情報が集まってくると評判のアングラサイトだった。眼のチカチカするようなレイアウトが鬱陶しかったけど、どうにか我慢しながら最新の話題のトピックを漁っていった。『モデルガン強盗、店員に取り押さえられ逮捕』『K都でまた怪事件! 26歳男性行方不明』『女子大生刺殺事件迷宮入り確実か?』『月旅行詐欺増加中、懸賞当選メールに注意』……どうでもいいニュースに混じって、メリーの事件に関する話題がいくつか掲載されていたけれど、やっぱりそれもどうでもいい内容ばかりで、うんざりした。ここもやっぱり広いばかりで、深さなんてちっともない。結局、その日はそれきりパソコンを閉じてしまった。
ぷつんとモニターの明りが切れると、部屋の中はすぐにねっとりとした濃い闇色に包まれた。それがいっぺんに身体に纏わりついてきたようで、ずしりと身体が重たくなって、そうしてそれはすぐに深い眠気へと姿を変えていった。もう、ずいぶんと夜も更けた。何時頃だろうと思って、デスクの隅に置いてあった携帯電話を取った。画面には、午前3時17分を告げるデジタル表示と、メールの受信を知らせるランプが明滅していた。その数は三件。どうやらサイレントにしていたから、どれにも気付かなかったらしい。今にも閉じきってしまいそうな目蓋をどうにか持ち上げながら、一つずつ、眼を通していく。
最初のメールの件名には、ハンドメイド・カスタムナイフご注文確認と記してあった。ナイフのオーダーなんて私にはよくわからなくて、サンプルから適当に選び出したものだったけれど、どうやらそれが私の手元に届くのは二週間ほど後になるらしい。その期間が長いのか短いのかは、よくわからなかった。半分、勢いで注文してしまったようなものだから、自分の中で整理をつけるには、ちょうどいい時間なのかもしれない。
二件目は、喫茶店のおじさんからだった。おじさんからは今までにも、良い珈琲豆が入った時なんかにメールが来ることがあったけれど、今回はたぶんそうじゃないだろう。件名には“宇佐見君へ”と、まるで手紙の書き出しのような言葉が付けられていた。
>明後日がなんの日か、知っているかい?
>ハーン君が亡くなってからね、ちょうど百日目なんだ。
>卒哭忌とも言ってね、泣き暮らしていたのを泣き止む日を意味しているんだよ。
>ずいぶん長いこと、学校に行ってないみたいだね。
>そろそろ、立ち直らなきゃいけない頃だよ。前を向いて、進まなきゃ。
>その時はまた、うちの店に寄ってくれると嬉しい。美味しい珈琲をご馳走するよ。
>じゃあ、またね、宇佐見君。
そっか。
もう、そんなに経つのか。
経ってしまったのか。
おじさんまでそこまで言うのなら、私もそろそろ、ちゃんと学校に行かなきゃいけないかな。あいつ一人が私にうるさく言うのならいくらでも無視できたけれど、私が立ち直らないでいることで、おじさんまで哀しい思いをしているというのはやっぱり胸が痛んだ。
おじさんの珈琲も、久しぶりに飲んでみたいな。
メールには、「もう大丈夫です」と一言だけ返信することにした。あまり長々と報告するようなこともなかったし、それくらいがちょうどいいと思った。送信ボタンを押して、メールが届いたのを確認してから、私は三件目のメールを開いた。
アドレスは、知らない携帯からだった。誰からだろう。そう思いながら件名を見たところで、私はぴたりと、動けなくなった。指の先まで石になったみたいに動かせなくて、どうしても、ボタンを押す指が固まったままだった。
“小泉です”
それは、パンドラの箱のようにも思えた。
開けたら最後、なにもかも終わってしまうのだ。絶望や、真っ暗な感情に呑まれて、宇佐見蓮子なんてあっと言う間に喰い尽くされてしまう。こんなものは開かない方がいい。こんなメールは、読まずに削除してしまうのが、一番良い……
けれど私は知っていた。
パンドラの箱の中には、絶望と一緒に、希望も僅かに残っているんだって。
全身ががたがた震えた。ぎゅっと歯を食い縛って、言うこと聞かない身体を無理矢理抑え付けながら、私は震える指先でボタンを押した。操作を間違えて、削除してしまうなんてことはないかなって、……変な期待もしたけれど、でも、私の眼に飛び込んできたのは、いつものディスプレイに表示された、短い本文だけだった。
>小泉です。
>知らないアドレスで驚いたでしょう? 妹の携帯から写したの。ごめんなさい。
>蓮子ちゃん。
>蓮子。
>最後にあなたともう一度だけお話したいの。
>それで、あなたと会うのは、最後にしようと思うの。
>時間はあなたに任せます。そっちの都合のつく時で構いません。
>その気になったら、このメールに返信ください。
>じゃあね。
希望なのか。絶望なのか。
そんなこと、私にわかるわけもなくて。
今はただ、時間がほしかった。
もう少しだけ……あなたを信じていられる、優しい時間がほしかった。
▽
翌日、私はしばらくぶりに大学に顔を出した。そこで私が一番に目にしたのは同じ学部の友人たちのひどく驚いた顔で、最初は驚嘆だったそれがみるみるうちに笑顔を取り戻していくその光景には、こう言ってはなんだけれど、少し薄気味悪さを覚えてしまった。
その中でも私と仲の良かった女の子が一人、両の眼に涙をいっぱいに湛えて、私に痛いくらいに抱きついてきた。他の人たちもたくさんいたけれど、周りの眼なんて全然気にしていないようだった。彼女は私をぎゅっと捕まえたまま、くしゃくしゃの声でこう言った。
「よかった、ほんとうによかったぁ……蓮子ちゃん、もうだめになっちゃったのかと思って……」
「……もう、大丈夫。平気になったから。心配させてごめんね」
「うぅん、そんなことないよ。一番傷ついたのは、蓮子ちゃんなんだから」
彼女が言い終えてから、他のみんなも口々に、私が無事に復学したことに安心したとそんな言葉を口にした。宇佐見さんのことが心配でたまらなかった、この前押しかけた時はほんとうにごめんなさい、みんなが口にした言葉はどれもこれも優しくて、どうやら私は思った以上に周りから大切にされているらしかった。今になって初めてわかった友達の優しさはとても温かかった。でも、それだけだった。胸にぽっかりと穴の空いたままでは、せっかく受け止めたぬくもりも、あっと言う間に冷めていくばかりだったのだ。
「ねぇ蓮子ちゃん、今度の日曜日にさ、みんなで遊びに行こうよ。久しぶりに、ね?」
誰かが言った。その言葉もやっぱり身体をするりとすり抜けて、どこにも引っ掛からなかった。私を元気付けようとしてくれているのに、なんだか申し訳なくなってくる。けれど私にはやらなければいけないことがあったから、残念だけれど、彼らと同じ時間を過ごしている余裕はなかった。
「ごめんね、誘ってくれて嬉しいけど、しばらくは無理かな。ほら、授業とかいっぱいさぼってて、大変なことになってるから」
「そっ、か。そうだよね……仕方ないよね」
「うん……」
「で、でもさ! お昼ぐらいは、一緒に食べてくれるかな?」
けれどその必死な声まで、できないと言って切り捨ててしまうのはやはり気が引けた。お昼を一緒にするぐらいは、付き合ってもいいかもしれない。今さら、今まで通りの学生生活に戻れるだなんてそんなことは考えていないけれど、ほんの少し、息抜きぐらいにはなるかなって、思った。
メリーのいない穴ぼこは、誰にも埋められない。私は穴の空いたまま生きていかなきゃならない。毎日がすかすかで、空っぽの、乾いた日々だった。大学に戻ってはきたけれど、それでもやっぱり、なんにも変わりはしないだろう。ちょっとだけ騒がしく、賑やかにはなるかもしれないけれど、それだけだった。一過性なのだ、なにもかも。残るものがない。残そうとする努力も、とうに放棄しているから。
それからまた少しお喋りをしてから、空もすっかり赤くなったので解散となった。みんなちりぢりばらばらの方向へ帰っていく。私に抱きついてきた子だけ、しばらく私と帰り道を同じにしていたけれど、それも長くは続かなかった。二百メートルぐらい歩いたところで、名残惜しそうな声で、お別れの言葉を言ってから、彼女は新興の住宅地の方へと去っていった。
そうしてまた私は一人になった。街を行く人々の喧騒と雑踏の中で、一人茫然としていた。どこへ行こう、どこにでも行ける気がしたけれど……一人じゃつまんないから、やめた。家に帰ろう。帰ってレポートを仕上げなくちゃ。お父さんとお母さんに、大学に戻ったって伝えなきゃ。それから、それから……
「……そうだ」
そこで、そう言えば私が大学に復帰したことをまだおじさんに伝えていないことに気がついた。おじさんのメールが、なによりも私の背中を後押ししてくれたんだから、真っ先にお礼を言いに行くべきなんじゃないかって、朝からずっと考えていた。
時間はまだ大丈夫、向こうについて、珈琲を一杯ご馳走になるくらいの余裕はあった。ここからなら、だいたい二十分ぐらいでお店に着く。私は駅の方へ向けていた踵を返して、繁華街の方へと歩き出した。帰り道を急ぐ人の波に逆らって、何も考えずに足を進めた。大通りを渡り、路地に入り、薄暗い空間の先を見通すと、開店中であることを知らせる三角看板はまだ店先に立ててあった。ビルのすきまから零れる、暮れなずむ斜陽の真っ赤な光がそれを照らしていた。目に焼きついて拭えない光景だった。とても奇麗で、けれどどか寂しくて。それはきっと、私の隣に誰もいないからなんだって、そう思った。
そっと、窓から中の様子を窺った。明りは灯っていた。カウンターの脇には、まだあのラジオが置かれたままだった。ここはなんにも変わっていない。いつでも、いつまでも変わらずに、私とメリーを待ち続けてくれるに違いない。とても穏やかな時間の流れる場所だった。私は、この喫茶店が大好きだった。今ではきっと、そう、メリー以上に。
ドアをノックする。とても静かに。
それから扉を開くと、からんころんとベルの音と一緒に、またあの優しい声が「いらっしゃい、宇佐見君」と言葉をくれた。入ってすぐのカウンターにはおじさんがいた。皺の多い顔で、小さな微笑みを作っていた。
「久しぶり。来てくれて嬉しいよ」
「……心配かけてごめんなさい。……私、今日から大学に戻ることにしました。いろいろと、割り切れたので」
「そう。それは良かった」
私が席に着くと同時におじさんは店の奥に引っ込んで、それから数分ほどして、その手にコーヒーカップを持って戻ってきた。黒い水面のゆらめくたびに、深い香りが鼻をくすぐる。一口だけ口にした。じんと熱かったけれど、でも、とても心が落ち着いた。やっぱり私は、自分の部屋に篭っているより。誰も来ない場所でじっとしているより、このお店でこの珈琲を啜っているこの瞬間こそ、いちばん穏やかな気持ちになれるようだった。
私たちが、……私がこのお店にいる間、おじさんはまるで空気のようになっていた。それは決して悪い意味じゃなくて、何も言わず、ただそこにじっと存在しているだけなのに、とても落ち着いた雰囲気を作り出してくれているということだった。優しい人だった。ここで私とメリーがキテレツな話を繰り広げていても、それをばかにするふうでもなく、面白そうだねって、素敵だねってそう言って、微笑んでくれた。
ここで、たくさんの時間を過ごした。たくさんの想い出を作った。それを知っているのは、今となっては、私と、おじさんしかいない。メリーはいない。死んでしまったから。だから、ここはもうなにかを紡ぐ場所ではなくなってしまった。廃れてしまったのだ。歯車の欠けた機械は動かないし、そんな機械を置いてある工場ではなにも紡げない。私はこの喫茶店が大好きだった。なにも、変わらないから。そりゃそうだ、時間が止まってしまったんだもの、なにかが変わるわけなんて、ないに決まってるよ。
だから、私はたぶん、今日を限りにここへ来ることはなくなるだろう。ここはあまりにも居心地が良すぎて、だからこそ、居てはいけないのだと思った。ここでメリーを待ち続ける日々も、それはそれでいいかもしれない。けれど私にはやらなきゃいけないことがあったから。前に、進まなきゃいけなかったから。
ゆっくりと珈琲を口にする。ほんの少しだけ甘くて、柔らかい味がした。思わず顔が綻んで、そんな私を見ておじさんは、慈しむような声で、語った。
「ハーン君の通夜の席でね、彼女のご両親と少し話をしたんだ。一人娘を亡くして、ひどく哀しんでた」
三ヶ月ほど前の話だった。雰囲気に居た堪れなくなって、私が逃げ出した、あの夜のことだ。
「とても大切にしてきたそうだ。娘は他人とちょっとだけずれていたから、だから、自分たちが守らなければいけないって、そう思っていたらしい。それなのに、守れなかった。たった一人の我が子を喪ってしまった。絶望が、丸ごと表に出ていた。真っ暗なひとみに、生気に欠けた顔。人はこんなに酷い顔ができるのかって、思った。彼らはもう二度と笑うことはできないんだろうなって、思ってしまった。今にして思えば、私は、とてもひどいことを考えていた」
「………」
「……つい先日、二人がここを訪れたんだ。私はもうびっくりしてね、思わず、何かあったんですかって、そう訊いてしまったよ。そしたら二人がこう言った。『お礼を言いに来ました』って。私はお礼をされるようなことをした憶えなんてなかったから、どうしてですかって、もう一度訊ねて、そうしたら彼らはこう答えた。『やっと心の整理が付きました。これ以上泣き暮らしていては、亡くなったあの子も浮かばれないだろうと、そう思えるようになりました。今はお世話になった方々に挨拶をして回っているところなんです。ここは娘が生前、とても懇意にしているお店だって聞いてましたから。挨拶が遅れて本当に申し訳ございません、娘がほんとうに、お世話になりました』」
雪のようにしんしんと、言葉が積もる。
空っぽの胸を埋めるように。
満たされていくのがわかった。
優しさで。あるいは、……哀しみで。
「彼らはね、君のことも口にしていたよ。君にだけは、どうしても面と向かって会えそうにないから、だから君と会ったら伝えてほしいって。メリーと仲良くしてくれてほんとうにありがとう。そう、言っていたよ」
私はなにも答えられなかった。どんな言葉が相応しいのか、わからなかった。
あんなに美味しかった珈琲の味も、よくわからなくなっていた。
「君にメールをしたのはね、単純に、元気になってもらいたかったのと、伝言を伝えたかったから。それも、もう終わってしまった。だから、私の役目はここでお終い。後はなにもかも君次第だ。ここにはもうなにもない。それは君自身がよくわかっているはずだ。私が君や、ハーン君にしてあげられることは、もうなんにもないんだよ……」
おじさんは笑った。細めた目の端からは涙が溢れていた。ぽたぽたとカウンターを濡らして、小さな染みを作っていく。おじさんはそれを拭おうとはしなかった。じっと微笑んだまま、私を見据えるばかりだった。
私は最後の一口を飲み干して、そうしてゆっくりと席を立った。100円玉を三枚、カウンターに置いていく。ごちそうさまと呟くと、おじさんはしわがれた声で、ありがとうございましたと返してくれた。それから店を出た。あれほど真っ赤に染まっていた空は、すっかり夜の帳を落としていた。
路地はとても静かだったけれど、一歩表通りに出た途端、私は耳のつんざけてしまいそうな喧騒に呑み込まれた。頭の中にたくさんの音が流れ込んできて破裂してしまいそうで、私はそれらを追い出そうとばかりに、いろんなこと考え、思い出し、忘れていった。古い想い出。新しい記憶。お父さんとお母さんの声。私にうそつきと言った誰かの声。大学のつまらない授業。友達のばかな話。メリーの声。メリーと交わした約束。はじめて呼んでくれた私の名前。おじさんの声。言葉。
一人娘を亡くした。
たった一人の我が子を喪った。
ドッペルゲンガーの話を思い出した。世の中には自分と全く同じ姿形をした“なにか”がいて、出会ったら最後、自分の影に殺されてしまうっていう、あの話。
メリーを、殺したのは、
それからの時間は、ともすれば立ち止まってしまいそうなほど緩慢に経ち過ぎていった。ゆっくりと、歩くよりも遅い速度で、けれど確実に毎日が進んでいった。大学にはちゃんと行くようになっていた。遅れた分を取り戻すために、授業もゼミもしっかりとこなしていった。お昼には同じ学部の友人たちと一緒に食事をして、他愛もない話題で盛り上がっていた。お互いの将来のことを語り合ったりもした。意外なことに、みんな真面目に未来を見据えていてびっくりした。院に進む人、就職する人、地元に帰る人。私はどうだろう。なんの考えもなかった。でも、これからゆっくりと考えてもいいだろう。私の時間は、まだまだたくさんあったから。そうやってキャンパスでの一日を終えて、夕陽の綺麗な中、アパートに帰ってくる。レポートがあれば、早めに仕上げることにしていた。そうしてだいたい夜も八時くらいになってから、遅めの夕飯にして、それから寝支度を整えて十時前には布団に入った。眠りにつくのは、とても早かった。
空を見上げることはなかった。
私にはもう、必要のないことだった。
ある日大学から帰ってくると、郵便受けに未配達通知が入っていた。その翌日私は学校をさぼった。朝早いうちに局へ行って荷物を受け取って、それから駆け足に部屋に戻ってきて封を切った。包みの中からは小さな木箱が入っていた。宝石に触れるように、そっと箱を開いた。重々しい金属の色合いが、私の眼にいっぱいに飛び込んできた。
ナイフだった。私はただ注文をして、お金を振り込んだだけなのに、それなのにとても簡単に手に入ってしまった。
蒸し返るように暑い、夏の日だった。ベランダに出て、ナイフをかざすと、それはぎらぎらと凶暴な光を辺りに反射させて、その光だけで人を何人も殺せてしまいそうだった。こんなもので刺されたら、ひとたまりもない。誰だって、なんだって、生きてなんかいられない。
それからすぐに眼が眩んできたので、私はナイフを箱にしまおうとして、そこでもう一つ付属品が付いていることに気付いた。皮製のナイフホルダーで、腰につけて携帯できるような造りになっていた。便利なものもあったものだ。物の試しに左腰につけてみると、それは驚くほど自分にぴったりで、まったく違和感を感じることがなかった。なんだか、メリーのくれたあの帽子みたい。どうしてこれが今まで私の傍になかったのか、今さら疑問にさえ思えてきた。
とても静かで、穏やかな気持ちだった。冷たい刃物の感触が、私を落ち着かせてくれているのだろうか。そんな心持ちのまま、私はクリーニングに出してそのままだった黒いスーツを引っ張り出してきて、そっと袖を通した。そしてポシェットに財布と携帯電話を、そして腰にはホルダーをつけたままで、眩い光に満ちた外の世界に飛び出した。
行き先は決めていた。
彼女に会いに行くのだ。
▽
メリーのお墓は以前見た時よりもずいぶんと薄汚くなっていた。お盆前で、まだ誰も手入れに来ていなかったからだろう。私は時間をかけてメリーのお墓を掃除していった。お水をかけ、雑草を抜き、墓前にはシロツメクサを添えた。その後はずっとメリーと話をしていた。メリーが突然いなくなって寂しかったけれど、最近ようやく立ち直れたこと。メリーのお父さんとお母さんも、悲しみを乗り越えたこと。私を支えてくれる人は、私が思っていた以上にたくさんいたこと。だからメリーは、もう安心して眠っていてもいいんだよ、って。
たくさんのことを話した。メリーはなんにも応えてくれなかったけれど、それでも私は満足していた。こんなふうにメリーと話をするのは、もうずいぶんと久しいことだったから。懐かしくて、けれどなんにも変わってなくて、嬉しかった。ここにおじさんがいれば、言うことなかったんだけれどな。でも、それはさすがに我侭が過ぎるだろうし、やっぱり三人が揃う時は、あの喫茶店じゃなくちゃだめだってそう思った。
いくら話しても話したりないような気がした。こんな時ばかり、時間が止まってくれたらいいのにって思う。叶うはずのない願いだ。それでも祈った。祈っているうちに、どんどんと刻一刻と太陽は昇り、沈んだ。気がつけば空は茜色に染まりきっていて、からすの群がわっと空を横切り、山の方へと去っていった。私もそろそろ、帰る頃かな。そう思って視線を下ろした先に、彼女がいた。
メリーがいた。
「遅かったですね」
「ええ、急なメールだったから。できれば日時は前もって知らせてほしかったわ」
「ごめんなさい、突然思いついたことだったので」
「いいのよ、それで。自分の気持ちに正直なのは、良いことだもの」
仕立ての良いワンピースに、真っ白な日傘と、手に持った黒のつば付き帽子。彼女の姿は、雰囲気は、以前会った時となんにも変わっていなかった。
「お墓参りしてたのね」
「百日経ちましたから、いろいろと報告に」
「そう。きっとあの子も喜んでるわ」
たおやかに微笑みながら口にする。その言葉に裏はないようだった。はじめからそんなものなんてなかったんだと思う。彼女はいつだって、真っ直ぐな態度で私に向かっていた。
だからこそ、悔しかった。
とても。
「……話って、なんですか」
「………」
「最後に話したいことがあるって、メールにそう書いてありましたよね。何を、ですか? どうして、もう私と会うつもりはないって、そんな寂しいこと言うんですか?」
斜陽が目に刺さり、視界が真っ赤に染まりあがる。それでも決して彼女から目を放したりなどしない。少しも逃げてはいけない。立ち向かわなければならない。目が潰れようが、心が潰れようが、私にはやらばければいけないことがある。
生ぬるい風が吹いて、草の穂を撫でた。長い沈黙を経て彼女は、
「もう、ここにはいられないからよ」
その風にさえ攫われてしまいそうなほど、幽かな声でそう呟いた。
「妹が亡くなったって聞いて、もともとの用事を放り出してこっちに来たの。今までずっと先延ばしにしてきたんだけれど、もう限界みたい。だから、せめて元いたところに帰る前に、あなたの顔を見ておきたいって思ったの。あなたはとても、優しい人だったから。それに、」
「……それに?」
「これを、渡さなくちゃって、思って」
そう言って彼女は、手に持っていた帽子をそっと私の方に差し出してきた。ずいぶんとくたびれた、みっともない帽子だった。あちこち傷が目立っているし、汚れもひどい。けれど、どうしてかとても愛しい。他のどんなものにもない輝きが、黒い布地にいくつも織り込まれているようだった。私が、私とメリーが、繕ってきたものだった。それは私がいちばん最初に失くしてしまった、いちばん大切なメリーだった。
「この帽子、あなたのでしょう?」
「……ええ」
「大切なものは失くしたりなんかしちゃだめよ。ずっと傍に置いておかないと、ね? だから私、これをあなたに、」
「いりません」
即答した。迷うことなんてなかった。
目を丸くして、開いた口を閉じられないでいる彼女に向かって、私は淡々と続けた。
「メリーは死んだんです。だからいまさら、メリーとの想い出に浸るだなんて、ばかばかしいですよ」
「う、そ……」
「百日を過ぎたって、言ったじゃないですか。もう、メリーのことで悩んだり、哀しんだりするのは終わりにしたんです。そうじゃないと、私、前に進めないから。やらなきゃいけないこと、やれないから、だから、」
「うそでしょう……蓮子、ねぇ、そんなのって、」
「やめてよ」
声はひどく冷め切っていた、自分でも驚くほどに冷たくて、鋭利で、そうしてその言葉は彼女の胸を容易く貫いたようだった。蒼白な顔をして、それでもまだ彼女は私に帽子を差し出し続けていて、それがどうしてか、厭に気に障った。私はその帽子をはたき落とした。てんてんと地面を転がって、近くの草むらに埋もれてしまった。
彼女の顔には絶望が浮かんでいた。この世のおぞましいものを、いっぺんに覗き込んだような顔だった。そうして、その眼に映り込む私の顔にはのっぺりとした無感情なものが張り付いていて、あえて形容するなら、ひどい失望の色をしていた。
「ぁ……」
「話、終わりましたよね。もう帰ってください。早く、はやく、帰ってください」
「そんな……そんなっ」
「――――お願いだから帰って! 私の前からっ、消えてよぉっ!!」
やめて。
やめてよ。
これ以上、いやな気持ちにさせないでよ……
信じたいのに、信じていたかったのに、みんな、みんな、私を裏切る。メリーがいないなんて、死んだなんて、うそに決まってるのに、誰一人私の言うことを信じてくれない。だってメリーはここにいるよ。私の目の前にいるよ。今にも泣き崩れそうな顔をして、私を見ているよ。どうしてって、私にそう訴えてる。そんなこと私が訊きたいよメリー。どうしてあなたは死んでしまったの。どうして殺されてしまったの。あなたがメリーを殺した理由は、いったいなに?
ねぇ、どうして?
どうして!?
押し黙ったまま、彼女が踵を返した。金色の髪が茜色の光を受けて、眩しく、鮮やかに輝いていた。輪郭がぶれる。ずれた焦点に、私の大好きなひとが重なる。小さい肩、細い背中、あんまりにも華奢で、だからきっと、あれを壊してしまうのは、殺してしまうのは、とても容易い。
だからこそメリーは、死んでしまったのだから。
私にだってできる、とても簡単な方法で。
殺されてしまったのだ。
「……じゃあ、さよなら。蓮子」
わあっと叫んで、私はその背中目掛けて飛び出した。頭の中は真っ白で、けれどすぐに真っ赤になって、そこで思考が焼き切れた。
――――その顔で!!
ホルダーからナイフを引き抜いて、彼女めがけて突き出した。叫び声に驚いて彼女が振り返った時には、すでに彼女との距離は肉薄していた。見開かれた紫のひとみに映り込んだ私の顔は、まるで幽鬼のような、とても醜いものをしていた。
――――その声で!!
ナイフは吸い込まれるようにして、彼女の右のわき腹に突き刺さっていった。はじめ、ケーキにナイフを入れるような柔らかい感触があって、そしてそれはすぐに重く鈍い抵抗へと変わった。勢いに任せるまま、ぐうっと力を込めていくと、ずぶりとそんな音がしてやがて動きは止まった。彼女も、私も、抱き合うような格好で立ち尽くしていた。熱を帯びた互いの体が、とてもとても熱かった。
「メリーを騙るなあああああああああ!!!」
この時、この瞬間、肌に触れている体温も、柔らかい匂いも、全部うそものなんだと思うと哀しかった。実はほんものなのかもしれない。よくわからない。正しいとか正しくないとか、そんなことを考えるのには、もう疲れてしまった。
「……やめてよ。メリーのふり、しないでよ」
「――――ぁ……ちが、…………わた、し」
「あなたじゃないなら、……だれ?」
たった一つ、答えがわかればそれでいいよ。
メリーを殺したのは、誰?
「……れん、」
彼女の体からナイフを引き抜く。なんの抵抗もなく、するりと、滑るようにして抜けてしまった。彼女の体が後ろに傾ぐ。重力に引かれるまま、地面に仰向けに倒れて、それからすぐに赤い血溜まりを広げていった。地面に散らばった金の髪は、金色の花を咲かせているようにも見えた。
それを、とても幻想的だと思った。美しかった。やっぱり、あのうそのメリー人形とは比べ物にならない。ほんものは、こんなにも紅くて華やかで、見惚れるほどに綺麗だ。
やっぱり、お葬式の席で見たメリーは、うそだったんだ。メリーはやっぱり生きていたんだ。生きて、今までもずっと私の傍にいて、そして今日、呼び出されて、そして殺されたんだ。
私に。
メリーを殺したのは、誰?
いつもの駅に着いた頃にはすでに日も落ちきっていた。電車に乗り続けて、そのままアパートを目指してもよかったのだけれど、どうしてかふらりとホームに下りてしまったので、仕方なく街をふらついて回った。服を着替えてはいなかったけれど、黒い生地だとやはり汚れも目立ちにくいのか、私の姿を見て眼を疑うような人はいなかった。もっとも、誰の眼中にも、私の姿なんて映りこんでいないというのが一番の理由なのだろうけれど。
ふらふらと、幽霊のようにあてもなく彷徨い、そんなことをしばらくやっているうちに、ぽつぽつと雨の雫が髪の毛を濡らした。それに気付いた途端、その雨は突然バケツをひっくり返したような豪雨に変わって、痛いくらいに私の肌を打ちつけてきた。前にもこんなことがあった気がする。どうだっていい。ともかく雨宿りしようと近くの雑居ビルに転がり込んで、濡れた上着を引き絞った。
とんだことになった。通り雨ならいいけれど、すぐに止みそうな気配はない。濡れ鼠になった身体が寒さに震えた。いつまでここで待っていればいいんだろう。寒いし暇だし、そして寂しい。なにか気を紛らわせそうなものはないかと辺りを見渡して、そしてそこで目に付いたのはビルに外接してある非常階段だった。時代に取り残された、鉄筋が露わになっている危なっかしい階段。雨に打たれてべこんばこんと音を立てているのがなんとなく気になって、私は考え無しにそっちに足を運んでいった。階段はずっと上まで続いていた。どうやら屋上まで直結しているようだ。
まだ身体は幽霊のままだったから、やっぱり私はふらふら覚束無い足取りのまま階段を昇り始めた。べここん、ばここんと音がする。それに加えて、私が一歩踏み出すたびに、みしりと鉄の板が軋みをあげた。そこらじゅう錆びだらけだ。私がもうちょっと重たかったら、一段目で崩れてたに違いない。そう考えるとなんだか楽しくなってきた。せっかくだから、屋上まで言ってやろう。私は弾む気持ちのまま、階段の悲鳴を楽しみながら上を目指して、そうしてだいたい五分ぐらいして、いやに呆気なく終着点を迎えてしまった。
汚いところだった。長年掃除されてこなかったのか、一面鳥の糞だらけだったし、どこから転がってきたのかわからない空き缶の山や、煙草の吸殻で埋め尽くされていた。ひどくがっかりした。もっと素敵な、それでいて不思議な場所を想像していたのに、とんだ期待外れだ。それでもせっかく来たことには変わりないから、私はしばらく辺りをうろついて、そして大通りに面した一辺で足を止めた。どうしてか、そこばかり、とてもきらきらしていたからだ。
そっと眼下を覗き込んだ。私の思っていた以上に高いビルだったようで、真下を行く人や車がとても小さく映っていた。外灯やネオンの光がぴかぴか点滅していて、それはまるで夜空に浮かぶ星の瞬きのようにもみえた。けれど、空に浮かぶ星がこれほど近くに見えたことはなくて、そのことには素直に感動した。ちょっと頑張れば、手が届きそうだとも思った。じゃあ、天上はどうだろうと思って見上げてみると、まだ雨を降らし続ける雨雲が一面に広がっていたので、月も、星も、どこにも見当たらなかった。しょうがないので、また足元に眼を向けた。メリーは死んでしまって、お星様になってしまった。じゃあ、あの足元にいっぱい散らばっている光のどれもがきっとメリーの欠片なのだ。私はそのきらきらを捕まえたくてたまらなくなった。もっとずっと見えるようにと、柵をひとつ乗り越えて、ビルの端の方に足をつけると、わっと吹いた風にあおられて、ふわりと体が浮いて、それからひゅうと風を切って落ちた。頬を撫でたひんやりとした空気が、とても気持ちが良かった。
「……ねぇ、メリー」
ぐんぐんと近付く、たくさんの星々に向かって呟いた。
「蓮台野に行った時のこと、憶えてる? 桜がいっぱい咲いてたよね」
雨よりも速く落ちる。
たぶん、星よりも。
「向こうでも、お花見ができるね、メリー」
とてもふわふわとした、心地の良いものに包まれたまま、
私の意識と体は、奈落に落ちていった。
Epilogue.
また、喪った。
私はまた、ともだちを助けられなかった。
私が助けようとすると、死んでしまうのだ。
もうどうしたらいいのかなんて、わからないよ。
『先月、K市にある雑居ビルの屋上からK大学三年の宇佐見蓮子さんが転落し死亡した事件で、警察は被害者の遺留品を調査した結果、被害者を今年三月に起きた女子大生刺殺事件の容疑者であるとして、容疑者死亡のまま立件、起訴しました。これは極めて異例の判断で、警察では――』
連日、話題に挙がるニュースといえばそればかりで、カウンターの隅に置いてあるラジオも、たまに電源を入れてやればそのことばかり口にしていた。いい加減うんざりしてきたので、もう二度と物を言わないようにと店の奥へと引っ込めてしまったぐらいだ。そうすると突然、店の中ががらんどうになってしまったかのように感じるものだから、なんとも言えない息苦しい気分にさらされて、結局ラジオはまたカウンターの隅に舞い戻ってくるのだった。
店を訪れる客はいない。もっとも半分以上道楽でやっているような店であるから、客が来ようが来まいが、さして問題ではなかったのだが。開けたい時に店を開け、閉めたい時に閉める。そんないい加減な喫茶店もどきを好む客が多いはずもなく、立地の悪さも相俟って、二日三日客足がないなんてこともざらだった。
そんな三流以下の喫茶店でも、足しげく通い詰めてくれた二人の女の子がいた。快活で溌剌な子と、おっとりとした雰囲気の子の二人組み。二人は自分たちのことを秘封倶楽部と称して、店の隅のテーブルで、いつもなにやら怪しげな話に興じていた。内容ははっきりいってちんぷんかんぷんだったけれど、あんまりに眼を輝かせて話をしているものだから、こっそりと聞き耳を立てていた私までうきうきしてきたぐらいだった。夢の世界に想いを馳せる彼女たちは、今まで出逢ってきたどんな異性よりもいっとう輝いてみえた。彼女たちの真っ直ぐなひとみに強く惹かれていた。私がもう少し若ければ、おそらくは、いや、確実に恋に落ちていたかもしれない。年もすでに半世紀以上を数える今では、彼女たちとその時間を共有するよりは、それをそっと見守っていることの方が、私にとってなにより心安らぐ時間だった。
そんな穏やかな時間が、ずっと続いていくものだと私は信じて疑わなかった。たとえ終わるとしても、それはとても優しく、誰も傷つかない、そんなふうにして終焉を迎えるのだとばかり思っていた。ただただ夢想し、妄想していた。そうあればいいという幻想。誰も傷ついてはいけないのだ。哀しんでは、まして失うだなんて、あってはいけないはずだった。
……それなのにどうしてかこんなにも、日常は脆い。
人間は弱い。
その時がくれば、あっけなく崩れる。長い間をかけて、一つ一つ積み上げてきたものも、壊れる時は一瞬で。どうにか持ち直そうと頑張ってはみたものの、結局私にはどうすることもできなかった。
成せなかった。なにも。
助けられなかった。誰も。
もう、あの少女たちがここを訪れることは未来永劫ありはしない。しあわせだった時間は、終わってしまったから。突然、理不尽に。瞬きをする間に、気がつけばなにもかも、私の手の中から零れ落ちていた。
マエリベリー・ハーンは死んだ。どこかの誰かに、ナイフで刺されて、絶えた。
宇佐見蓮子も、死んだ。どこかの誰かに、背中を押されて、逝った。
そうに違いない。
違いないのに。
どうして!
そんな思考を廻らせてもう何順したのか、私は憶えていない。たぶんこれから一生繰り返すのだろう、納得がつくまで。そんなものつかないということもわかりきっているから、だから結局、一生繰り返すのだ。
夏を過ぎ、秋を迎えていた。それでもまだ残暑が厳しくて、黙っていればじっとりと汗が滲んできた。
その日も朝から店を開けていた。相変わらず人の来る様子はない。それどころか外の路地を通りがかる人の姿も見当たらなくて、おそらく今日は誰も来ないだろうと、そんなふうに思っていた、矢先のことだった。
ドアのベルが鳴り響いたのは。
「こんにちは」
その、しんと透き通ったアルトに、私は凍りついた。
ドアの方へは背中を向けていた。その背に、誰かの視線が向けられているのが感覚で理解できた。いやいや、なにを恐がっているんだ、ただのお客さん、じゃないか。振り返り、挨拶をしないといけない。いらっしゃいませと、まずはそう言わなければなんにも始まらない。
だのに、どうしてか、背筋が凍り、指先が震えた。冷たいものが全身の神経を走っていった。さっきまでの残暑の名残など、それでもうなにもかも吹き飛んでしまった。
「あの、店主さん?」
「――ああいや、いらっしゃい」
それでもどうにか覚悟を決めて、私は思いを切って身体を返した。一人の若い女が、店のドアを半分開けたままでそこに立ち尽くしていた。金の髪、白い肌と、西洋人形みたいな整った顔。私の記憶の中にあるものと寸分違わぬ彼女の輪郭は、間違いなく、
「ハーン、君……」
「え……?」
しかし彼女は、私の言葉に純粋な戸惑いだけを示した。困惑した視線が私を捉える。それは私も同じことだった。
思い違い……?
そんな、ばかな。
「その、……お店、やっていますか?」
「あ、あぁそうだね、私が悪かった。どうぞお入りください」
慌てて彼女を招き入れる。店の内装をいろいろと眺めつつ、彼女は入ってすぐのカウンターに腰を下ろした。彼女たちがいつも利用していた、あの席には見向きもしなかった。お冷と、次いでメニューを渡したところで、彼女がふとこんなことを言ってきた。
「そのラジオ、」
「……ラジオが、どうしました?」
「いえ、旧くて、珍しい形だと思って。触ってみてもいいですか?」
私はほんの少し逡巡した。もともと客に触れてもらう意味でそこに置いておいたものではあるが、ここ最近のこいつの口の悪さを考えると、どうにも電源を入れることに抵抗があったのだ。
それでも、彼女の興味が少しでもずれてくれるならそれでいいとも思った。私が気を紛らわすため、というのも少しと言わず多分に含まれてはいたが。私が了承を示すと、彼女は薄く微笑んでみせてから、ラジオの電源を入れ、チューナーを弄り始めた。ざらざらとしたノイズの零れてきたあとで、やがてラジオがひとつ電波を拾った。
それは、午前の時間帯いっぱいやっている、最新の話題を集めたニュース番組だった。
やはりこいつはどこまでもどこまでも、私を苛立たせるつもりでいるらしい。
『先月、K市にある雑居ビルの屋上からK大学三年の宇佐見蓮子さんが転落し死亡した事件で、警察は被害者の遺留品を調査した結果、被害者を今年三月に起きた女子大生刺殺事件の容疑者であるとして、容疑者死亡のまま立件、起訴しました。これは極めて異例の判断で、警察では――』
そこで音声がぷつりと途切れた。何事かと思うと、意外にも彼女がラジオの電源を切っていた。なんの躊躇いもない、真っ直ぐな手付きで。私は唖然としてしまって、どうしたのかと彼女に訊ねようとして、しかし機先を制するようにして彼女が、こんなことを言った。
「なんだか、ひどい事件ですよね」
「……ひどい、とは?」
「お友達を殺して、そのことをずっと隠していて……もうずっと時間が経った今になって自殺、でしょう? いくらなんでも無責任が過ぎ「宇佐見君は、そんなことをしない」
口を挟まずにはいられなかった。事情も知らないくせに、なんだ、この女は。……こんなのがハーン君であるはずがない。彼女が宇佐見君を貶すようなことを言うなんて、考えられない。考えたくない。
「でも、証拠、見つかってるじゃないですか。血のついたナイフを持っていたって聞きましたし、上着に返り血がついていたとも」
「……っ」
それは、……嘘でもなんでもない事実だった。だからこそ宇佐見君は、逝ってしまった今もなお不特定多数の大勢に責められ続けている。おそらく彼女は有罪になるだろう。世論もそういう方向で固まってしまい、今さら誰がどう足掻いても結果は変わることはないだろう。もちろん、おかしな点はいくつもあるのだ。ナイフについていた血が新しいものだったとか、そもそもどうしてそんなものを持って自殺などしたのか。けれど、そんなことは些細な誤差でしかなくて、大きな流れの前には呆気なく呑まれてしまうもので。世間は真実を望んでいるわけではないのだ。ただ、今すぐにでも犯人がほしい、そいつを断罪したい、それだけが理由だった。
だから彼女の言うことは至極正しい。みんながみんな口を揃えて正しいと言えば、それが正しい。大は小を兼ねない。飲み込むだけだった。
「どこで、間違えちゃったんでしょうね」
「………」
「どこで間違えたから、助けられなかったんだろう」
――その時ふと彼女の声音が変わったような気がして、そっと眼を向けてみると、驚いたことに彼女は眼いっぱいに涙を溜めて、静かに唇を噛んでいた。私は言葉を失った。さっきまでとはまるで別人だった。人が変わった、雰囲気も、もう似ても似つかない。
そこにいたのはそう、まるで……
「こんなはずじゃなかった。彼女を助けたかった。立ち直ってほしかった。また笑顔を見せてほしかった。しあわせに暮らしてほしかった。それだけだった! なのに! どうして! こんなことにっ……。こんなの誰だって望んでないのに。誰だってしあわせになりたいだけなのに。これじゃあ、誰だって救われないじゃない……私も、蓮子もおじさんも、みんなみんな、哀しいだけよ……」
ぼろぼろと頬を泣き濡らしながら、彼女はそれからしばらく嗚咽を零した。搾り出したような声で何度も、自分がどこで間違いを犯したのかを、何を間違えたかを、誰でもない誰かに問うていた。
私は深く息を吸ってから、彼女に声をかけた。
万に一つの、可能性に賭けて。
「ハーンく、……いや、メリー。君はほんとうに、」
マエリベリー・ハーンなのかい? そう続けようとしたところで、しかし彼女の今までにない鋭い眼光が両目に突き刺さって、私は物怖じしてしまってそれ以上を口にできなかった。その眼は、私の記憶の中にあるハーン君の眼をしていなかった。人間のものですらないと思った。どす黒い光を放つ、悪魔の眼。彼女のひとみが、とても禍々しいもののように見えてしまった。
「誰よ、それ」
私を凝視したまま、彼女が言う。
静かな怒りを湛えた、そんな声だった。
「メリーって、誰。そんなやつ知らない、私はそんなやつじゃない。八雲よ、私は。小泉八雲……メリーじゃない。私は、メリーなんかじゃ、ない……」
「そうかい」
でもね、
君がいくら違うと言ったって、私は、君が“メリー”にとても近いなにかなんじゃないかって、そう思う。
その髪はハーン君のものだ。とっても綺麗なブロンドをしているから、間違いない。
その顔はハーン君のものだ。もう何度も私に微笑んでくれた顔だから、間違いない。
その服はハーン君のものだ。彼女はいつも淡い紫色を好んでいたから、間違いない。
その帽子は宇佐見君のものだ。いつも彼女が、どんなものよりも大切にしていたんだ。
間違いない。
「ひとつ、訊いていいかな?」
いくら彼女がメリーではないと言ったって、否定しきれないものが一つだけ在る。
彼女がさっきから、ずっと握り締め続けているその黒い帽子だけは。
「……なに」
「その帽子、いったいどこで?」
私がそう訊くと、彼女は。
泣きじゃくっていた顔を、くしゃくしゃのまま笑顔に変えて。
こう言った。
「犯人の方に、いただきましたわ」
気がつけば彼女の姿はどこにもなかった。
カウンターの上には、持ち主を亡くした黒い帽子が、静かに息をしていた。
夏を過ぎ、秋を迎え、その秋ももうすぐ終わろうとしていた。
あの日以来、とうとう店に客が来ることはなくなった。表通りにいっとうお洒落なカフェテリアが進出してきたのである。それでも私はまだまだ店をやっていくつもりだったが、残念なことに来年度から区画整理が本格化するらしく、私が店を構える路地にも大幅な整理が入ることとなってしまった。立ち退き金はずいぶんな額面がもらえたが、それと引き換えに私は、人生の意味の半分以上を紙切れ一枚に奪われてしまった。もう私が、あの路地のあの店で珈琲を淹れることはない。それはつまり、もう二度と彼女たちには会えないというのと、まったく同じ意味だった。
店の家財を片付けている間、あのラジオは点けっぱなしになっていた。あることないこと、次から次へと垂れ流すほら吹きラジオ。そのラジオが、ある日の午後、こんなことを口にした。
『――被告に、有罪判決が下されました』
私はグラスの梱包を中断し、そっとラジオに近付いて手に取ると、それを思い切り床に叩き付けた。そこにまた近くにあった椅子を持ち上げて振り下ろし、何度も何度も打ち付けた。アルミのフレームが歪み、変形し、原型はみるみるうちに元の姿を失っていく。やがてノイズも吐かないほどに打ち壊れた頃には、手にしていた椅子も無残な姿に変わり果てており、それを握っていた私の手もまた木片で切ったのか血が滲み出ていた。それでもなお、止まらなかった。次にカップとグラスを一つずつ踏んで割って回った。それが終わると珈琲豆を一面にぶちまけ、それを靴の裏で踏み砕いてにじった。最後に目に付いたのは、店の壁にかけてあったあの黒いつば付き帽子だった。深く息を吸い込み、吐き出してから、私はわあと叫びながら帽子を引っ張った。フックに引っ掛けてあったところから布が裂け、痛々しい裂傷が一本出来上がってしまった。
そうやって一通り、かつて大切だったものを壊し尽くしてからようやく気付いた。片付けが面倒になっただけだった。それだけだった。
「あ、あぁ……ああぁぁぁぁぁっ……」
今は亡き、彼女の言葉を借りよう。
こんなはずじゃなかった。彼女を助けたいだけだった。また、私の傍で、あのとびきり面白い夢の世界を、語ってほしいだけだった。もう一度、秘封倶楽部を見たかった。彼女たちの世界を見たかった。けれど、もう、叶わない。
奪われてしまったからだ。
誰かに。
なにかに。
彼女たちを殺したのは、誰だ!?