□シンペイ蛙



 “すわこ”という女の子と出会ったのは、ぼくが十六歳だった時の、夏のことだ。  祖父の葬式は、さしたる障害も問題もなく淡々と、決められていた順序のとおりに始まって、終わった。以前から肺を患っていた祖父の容態が急変したのは今年の春。もう長くはない、もって一ヶ月だろうということで親族一同覚悟はしていたのだが、祖父はといえばそれから宣告された余命の三倍以上もの時間を生き長らえた。とは言っても最期の方は、もう死んでいるのか眠っているのかよくわからない状態だったと聞いている。もしかすると、本当に息を引き取ったのは夏よりずっと前のことだったのかもしれない。なんにせよ、その時間が短かったのか長かったのかはぼくにはわからない。ただ、ぼくの口から一つだけ言えることがあるとすれば、祖父がそれだけの時間を生きてくれたおかげで、ぼくは七月の長野を訪れることが出来たということだ。祖父がもう少し早く死んでいるか、それとももう少しだけ長く存命していたのなら、ぼくは夏の間に祖父の住む田舎町を訪れてはいなかっただろう。あの女の子と出会うことも、きっとなかった。
 だから、こういうことを言うととても不謹慎だけれど、ぼくは祖父が死んだのがあの夏でよかったと、今ではそんなふうに思っている。もちろんそのことは誰にも話したことがないし、話す気にもならない。あの日のことは、ぼくだけの秘密で、ぼくだけが体験した特別だった。白昼夢だったかもしれない。夢か幻だったのかもしれない。それでもいいと思う。それで、いいんだと思う。
 幻想は、幻想のままであるほうが、いつまでも輝いてみえるのだ。


 ▽


 祖父の葬式が済んだ、その翌日のことだった。縁側でぼんやりと日本の詩歌の二十一巻を眺めていたら、廊下の向こうから近付いてきた母が、突然ぼくの手から読みかけの本を取り上げてしまった。ちょうど、蛙は地べたに生きる天国である、のくだりが終わったところだったので、これからいいところだったのにと反駁すると、母はむすっとした顔をしてみせて、取り上げた本をこんな言葉と一緒に投げ返してきた。
「ちょっと、外に出ててちょうだい」
 言いながら母は背中を押して、出て行けとばかりにぼくを縁側から庭へと追い出した。唐突のことにぼくがなにも答えられないでいると、母は続けて「せっかく田舎に来たんだから、本の虫ばっかり潰してないで、蛙でも捕まえてきたら?」とそう言って、どすんばすんと荒い足音を残してまた家の奥へと引っ込んでしまった。それからすぐに座敷の方から、大人たちのなにやら騒々しく議論する声が聞こえてきた。家がどうとか、土地が云々とか、なにやら難しい話をしているみたいだった。そこでようやく、ぼくは自分が厄介払いされてしまったのだということに気がついた。それならそうと一言言ってくれてもいいのにとは思ったけれど、居ない人間に向けて文句を言ってもどうしようもない。仕方がないので、母につき返された本を小脇に抱えたまま、ぼくは太陽がかんかんに照らす夏の空の下へと踏み出すことにした。どこか涼しいところでも見つけて本の続きを読もう。蝉時雨を捕まえるよりも、その蝉のいる樹の木陰で本の虫を潰していることのほうが、ぼくにとってはとても有意義なことのように思えたのだ。
 祖父の家は、辺り一面に広がる原っぱの真ん中に、ぽつんと浮き島のように建っている。高い建物と言えば電線を張った鉄塔ぐらいで、遮るもののほとんどない草原を吹き渡る風は山の向こうからやって来て、そしてまた一方の山際へと去っていく。背の高い草の穂先の揺れる波がざっと押し寄せてきて、その圧倒的な光景にぼくは眼を奪われた。まるで海のようだと、そう思った。若い緑色の水面に、土と草の匂いのする潮風。真上から照りつけてくる陽射しも、まるで真夏のビーチのそれのように眩しい。ここは、そう、山の中の海なのだ。この辺りじゃ一番大きな諏訪湖だって、この翠色の海原の壮大さにはかなうまい。
 時折鼻の頭をかすめていく夏風のくすぐったいことには目を細めずにはいられなかった。草原の漣立つたびに、乱反射する光に当てられて眼が眩んだ。手にした本をひさし代わりに、家からずっと伸びている畦道を行く。海の上の道、まるで御神渡りのよう。どこまでも続いていたから、このまま、どこまでも行けるような気がした。なんといったって、神様の歩かれた道なんだから、ぼくの行きたいどんなところへでも導いてくれるに違いない!
 それじゃあ、この道はいったいどんな神様が歩かれた道なのだろう。そんなことをふと思い、先を行く神様の後姿でも見えないものかと両目を前の方へ凝らすと、ぼくの視界にひょっこりと現われたのは、路傍にしゃがみ込んで用水路の中をじっと覗き込んでいる、白いワンピースに麦わら帽子を被った、小さな女の子の姿だった。

 ――はたしてあの子が、この御神渡りを創った神様なのだろうか。

 いやいや、さすがにそんなわけはないと、ぼくは心の中でその考えを振り払った。神様というのは、もっと堂々としていて威厳のあるものだ。あんな小さな女の子に務まることじゃない。彼女は、きっとそう、この辺りに住む地元の子だろう。なんてことはない、子どもが外で遊ぶだなんて、ありふれていることじゃないか。
 ……それなのにどうしてか、ぼくの目は彼女の姿を捉えたまま動かせなくなっていた。両脚も石になってしまったかのように重くて、道の真ん中に立ち尽くしたままびくとも動けない。可愛いから目を惹かれたとか、好奇心を抱いたとかそういうことではなくて、理由なんてなんにもないはずなのに、どうしてもこの目を逸らすことが出来なかった。逸らしてはいけないような気がした。今、たとえば空を仰いだとして、青空を映したその目をもう一度彼女に向けたその時には、もう彼女はどこにも見えなくなってしまっているかもしれない、なんて。
 ふっと胸に生まれた不思議な感覚にぼくが困惑していると、それまで用水路を覗き込んでいた彼女が不意にぼくの方へと振り返った。彼女との距離はまだ十メートルほど離れている。それだけの距離を置いているにも関わらず、ぼくを一直線に見据えてくる彼女のひとみの、とても深い色をしていることがわかった。それは喩えるなら、夜の湖沼のような、音もなく静かに揺れる水面の黒によく似ていた。
 立ち上がり、彼女がぼくのほうへと歩み寄ってくる。それと同時に突然わっと立ち上った陽炎に目の前がぐにゃりと歪んだ。蒸しかえる熱気が体中を覆って、途端に息をするのが苦しくなった。
 それでも彼女はそんな熱波など気にする様子もなく、変わらない歩幅で静かにただ静かにぼくのほうへと近付いてきた。あるいは、この陽炎を立ち上らせているのは他ならぬ彼女なのかもしれない。そんな馬鹿なことがあるものかと思う反面、ぼくには彼女がもう普通の女の子には見えなくなっていた。あの子は、なにか、他のひととは決定的に違うところがある。なにをもってそうと判断しているのか、それはぼく自身にもよくわからなかったけれども、ただ、ここで圧し負けて彼女から目を離してしまっては、ぼくはそこでなにかとても大切なものを見失ってしまうような気がしてならなかった。今、見えている彼女は、きっと今しか視えない。瞬きをした次の瞬間にさえ彼女がそこから居なくなってしまうような気がして、何故だかぼくはそれがとても悲しくて、哀しく思えてならなくて。
 目を逸らすな! 絶対に逸らすな! 心の中のもう一人のぼくが、ガラスだって割れそうな大声で叫んでいた。蝉の声なんか、もう聴こえなかった。さっきまでそよいでいた風も、いつの間にか止んでいた。
 彼女がまた近付く。一歩前に進むたび、弾むように踊るように、小さな体と、麦わら帽子がふるふると揺れる。またさらに一歩近付くと、さっきまで陽炎に歪んでいた顔の輪郭もはっきりとしてきて、その表情がしっかりと見てわかるようになった。彼女は笑っていた。心底愉快そうに。ともすれば、少し悪戯っぽく、いじわるなふうにも。
 そうして最後に彼女は、ぼくから三歩離れたところでぴたりと立ち止まった。そこまで来てしまえば、後はもうなにも心配することなんてなくなった。彼女は、ぼくが暑さにやられて見ていた夢や幻なんかじゃないって、その笑顔を見た瞬間に確信した。さっきまではあんなに曖昧で幽かだった存在感でも、今では疑いようのないほどにリアルだ。手を伸ばせば、頭だって撫でられるに違いない。恥ずかしいから、そんなことほんとうにやったりはしないけれど。
 それからしばらく向き合ったまま、お互いにじっと相手の目を覗き込んでいた。改めて間近で見据えた彼女のひとみは、やっぱりとても深い色をしている。けれどそれは、海の深さとはまた少し違うような気がした。一番近いのは、井戸だと思った。底の方にほんの少しだけ揺らいで見える水面の、そのさらに奥になにかを潜ませていそうな、あの雰囲気にとてもよく似ていた。目の色に関して言えば、彼女はちっとも子どもらしくなんかない。それどころか人間らしくもなかったけれど、今のぼくにとっては彼女がいったい何者であるかなど、大した問題ではなくなっていた。彼女が人間であるか神様であるか、あるいはどちらでもないのか。そんなことはもうどうでもよかったのだ。
 彼女がそこに居る。ぼくが特別だと感じたひとが、この目に映っている。
 いちばん大切なのは、そこだけだ。

「今時私が見えるなんて、――見ようとするなんて、珍しい」

 その目を覗き込むのに夢中になっていると、突然彼女がそう言ったのでびっくりした。驚いて目を丸くすると、そんなぼくを見て彼女はけろけろと笑った。けらけら、ではなく、けろけろと。
「えっと、それはどういう意味?」
「いや別に。それよりも君、ここら辺じゃ見ない顔だね。引越してきたの?」
 微笑みを絶やさぬまま彼女は続けた。いつの間にか会話の主導権を握られてしまっている。見た目は小学校高学年ぐらいに見えるのに、その口ぶりはえらい饒舌だ。
 彼女の質問にぼくは違うと言って答えた。ここへは引っ越してきたわけではなく、祖父の葬式のために帰省してきただけだと。それを聞いて彼女はふうんと鼻を鳴らして、それからぼくにどこから来たのかを訊ねてきた。東京からだ、言うと彼女は「遠いところをわざわざ」なんて旅館の女将さんみたいな声でそう言った。
「それで君はこんなところで何をしてたの。お葬式は?」
「昨日で済んだよ。今日は、ちょっと散歩に出てみただけ」
「へぇ、こんなかんかん照りのなのにねぇ。散歩に行くのに君は本をはだかで持っていくの? 本、日焼けしちゃうよ」
「それは、その」
 母に家を追い出されて着の身着のままで、なんて言うとまた彼女に笑われてしまいそうだったから、なんとなくだよと適当にはぐらかした。もっとも、返ってきた彼女の言葉は素っ気無いもので、興味はすでに本そのものへと移っているようだけれど。
「なんの本? ぼろっちいけど」
「詩」
「わ、今時、詩かぁ。やっぱり君は珍しいひとだねぇ」
「余計なお世話だよ」
「ばかになんかしてないよ」
 心外な、と彼女は言い、ほっぺたを膨らませて両手をぱたぱたと振って抗議して見せた。その姿がまたおかしくて、さっきのお返しだとばかりに笑ってやると、彼女はもう怒ったとばかりにぼくの鼻先に人差し指を突きつけて、
「詠えよ」
 と言った。
「……えっと」
「ばかにして悪かったな。だからお詫びに、お前の詩を聴いてやるよ。ほら、ほら、どうした。せっかく詩歌本も持ってるじゃあないか。いっとうお気に入りのやつを詠ってみろよ」
 小さい体でぐいぐいと圧してくる、その力が意外にも強くて、バランスを崩したぼくは後ろにたたらを踏んでそのまま尻餅をついてしまった。そこに畳み掛けるようにして彼女が迫ってくる。両腕を組み、ふん、と鼻を鳴らして、偉そうな態度で踏ん反りかえってみせた。
「私の勝ちだな。大人しく言うことをきけ」
「いきなり押してくるなんて卑怯じゃないか」
「お前の方がずっと体が大きいじゃないか。このくらい、ハンデイだよ」
 詠え詠えとせがむ彼女を止めるのはもう無理だということをぼくは悟った。妙に頑固なところがあるみたいだから、ぼくがイヤだと言ったって、無理矢理にでも詠わせようとするに違いない。会話どころか、行動のイニシアチブさえもうそっくり彼女の手の中だ。小さい子どもの考えていることはよくわからない。それでも、変に抵抗して癇癪を招くよりは、おとなしく従っていたほうが無難だということだけは理解できる。
 ぼくは尻餅をついた腰を上げずに、そのまま地面にあぐらをかいて、その上に本を広げて頁を捲った。その向かいに彼女もちょこんと腰を下ろす。畦道の真ん中に座り込んで、二人して一冊の本を覗き込むなんて傍から見たらばかみたいな光景なのだろうけれど、恥ずかしいとは思わなかった。どうせ通る人もいないに決まってる。いたとしても、仲のいい兄妹が微笑ましく遊んでいるふうにしか見えるまい。旅の恥は掻き捨て、とはよく言ったものである。
 しばらく頁を追っていくと、やがてさっきの蛙のくだりが見えてきた。草野心平の節だ。蛙の詩を、たくさん書いた人だ。そこでぼくは、そういえば自分が小さいころ、国語の教科書に載っていた彼の詩をとても気に入っていたことを思い出した。たしか、河童と蛙、という詩だったはずだ。あれなら彼女のような小さい子にも受けがいいかもしれないと思い頁を捲っていくと、やはり有名なものだったのか、ぼくの持っている詩集にもちゃんと掲載されていた。
 懐かしい詩だった。冒頭の一説は、今でも忘れられない。ためしに小さな声ではじめのほうを詠んでみると、自分でもびっくりするくらいに、すらすらと言葉が出てきた。
「決まった? これにするの?」
「うん。いい詩だと思うよ」
「そう」
 彼女のはにかんだ顔がどうにもくすぐったくて、ぼくは赤い顔を彼女に見られないようにと、俯いて字面に目を落とすことにした。彼女は微笑んだまま、ぼくの顔をじっと覗きこんでいるようだった。ぼくの、次の言葉を、待っているようだった。

 一度だけ、深呼吸をしてから。そっと、唱えた。


「るんるん るるんぶ
 るるんぶ るるん

 つんつん つるんぶ
 つるんぶ つるん」


 そこまで読んだところで、そっと彼女の表情を覗いた。彼女は笑っていた。ぼくの視線に気付くと、さらに花の咲いたような笑顔になった。「続けて」と彼女が言う。ぼくはもうすっかり調子が良くなっていた。


「河童の皿を月すべり。
 じゃぶじゃぶ水をじゃぶつかせ。
 かほだけ出して。
 踊ってる。」


 大河童沼に、一匹の河童が居る。頭の皿には、きらきらのお月さまを光らせている。河童が水を掻きたてるたびに、水面に映った月は不気味に歪み、沸き立つ水に放り込まれたようにして弾けた。それから河童は、もう踊ることにも飽きたのか、突然水中から飛び出したかと思うと、空に浮かぶ、光り輝く月の形を睨めまわし、そして――


「もうその唄もきこえない。
 沼の底から泡がいくつかあがってきた。
 兎と杵の休火山などもはっきり映し。
 月だけひとり。
 うごかない。

 ぐぶうと一声。
 蛙がないた。」


 るるると踊る河童のダンスも、最後には、沈んで見えなくなった。水面に映りこむ、月の光は、水底からはどれほど煌いて見えるのだろう。どれほど羨ましく映えるのだろう。月と踊れなかった河童が最後に見た光景は、光り輝く、水底のトラウマになったのだろうか。始終見ていた、蛙の声は、素敵なワルツに対する賞賛の声かもしれないし、あるいは、水底に沈んだ河童への悼みのそれかもしれない。
 ぼくの詠った“河童と蛙”は、ほんの少しだけさみしい感じがした。ひとしきり、口にしたところで、ぼくはふと彼女の顔色が気になった。もしかしたらがっかりさせてしまったかもしれないと、不安になってしまったのだ。
 けれど、そんな心配もすぐに杞憂に終わった。視線の先の彼女の顔は、とても穏やかな色をしていたからだ。そうしてその色をしたまま、「良い詩だね」と、いっとうやさしい言葉をくれた。
「蛙は、いいね。ほんとうにいいね」
「蛙が好きなの?」
「うん、だいすき。さっきもね、こっちの蛙を見納めてしてたところだったんだよ」
 こっちの蛙、か。なんの疑問もなく、彼女は地元の子だと思い込んでいたけれど、ほんとうは彼女もまたぼくと同じようにどこか遠いところから来ただけなのかもしれない。それとも、これから、どこか遠いところへ行くのかも。
「実はね、その詩、知ってたんだ。シンペイでしょう。蛙の詩をたくさん作ってるから、知らないわけないよ」
「なんだ。言ってくれれば、他の人のだって詠んだのに」
「それじゃ意味ないよ。私は、蛙の詩が聴きたかったんだし。蛙の詩を選んでくれて、すごく嬉しかったんだもの」
 どこにも着飾ったところのない、ともすれば素直すぎる口調で。それは、彼女の心からの言葉であるに間違いなかった。いっとうの感謝であるに違いなかった。ぼくはそれでもうすっかり顔から火が出たみたいになってしまった。そんな、紅く染まったぼくの顔を見て彼女が訊いてくる。日射病になったのか、帽子を貸そうか。ぼくが返事をする前に彼女は自分の被っていたぼくの頭に乗せてきて、似合うよ、なんて言ってのけた。そのせいでまたいっそう顔が熱くなってしまったけれど、彼女は気付いているのかいないのか、けろけろと笑うばかりだった。
「ねぇ、もうひとつ詠ってよ。今度は、私も詠ってあげるから」
 ぼくの手から詩本を抜き取って、彼女は夢中になって頁を捲り始めた。そうしている時は、ほんとう小さな子どもにしか見えないのにな、なんて、そんなふうに思う。あぁ、そもそも、大人であるとか、子どもであるとか、そういうふうに括ってしまおうと考えることがそもそも間違いなのかも。彼女は彼女なのだ。それ以外のなにものでもない。
 そういえばぼくは、まだ彼女の名前も知らないでいる。

「さむいね」

 不意に彼女が口にする。何事かと思ってみると、彼女は詩集の一ページを開いて、そこに書いてある字面を細い指で指し示していた。彼女の目がくるりとぼくのほうを向いて、次は君の番だよと言いたそうにしている。なるほど、詠みあいっこをしようっていうわけか。

「ああさむいね」

 これもさっきと同じ、草野心平の創った詩だ。題名は、秋の夜の会話、だったと思う。第百階級という詩集の、いちばんはじめに掲載されている。二匹の蛙が、これから訪れる冬を前に、ひっそりと語り合っている場面を描いた詩だ。

「虫がないてるね」
「ああ虫がないてるね」

 ぼくと彼女で吟じる、二匹の蛙。彼女は“るりだ”で、ぼくは“ぐりま”。
 もうすぐ冬がやってくる。生き延びるためには、蛙は冬眠をしなくてはならない。次の時代を、次の次の時代を生きていくために、蛙は冬眠をする。
 そのために、彼らは――

 

 


「もうすぐ夢の中だね」

 

 


 ぼくは言葉を失った。
 おかしい、と思った。
 ちがうのだ。そこは。その後はこう続くんだ。「もうすぐ土の中だね」って。彼女の持つ詩集を見ても、確かに土の中と書いてある。読み間違うはずもない。どうして? なにがなにやらちんぷんかんぷんで、理由を求めて彼女に視線を向けると、そこにあったのは相変わらずの彼女の笑顔だった。けれど、その目だけは、笑ってなんかいなかった。あの井戸の底を思わせるような真っ黒なひとみが、ぼくをじっと見据えている。そして静かに訴えかけてくる。続けて、と。

「……夢の中はいやだね」

 蛙は、土の中で眠る。それじゃあ彼女は、夢の中で眠るとでもいうのだろうか。意味がわからない。眠っているから夢を見るんじゃないのか。もうすぐ、夢の中。彼女の言葉が蘇る。ぼくにはその意味の一割だって理解できていない。理解できないぼくを置き去りにしたまま、詩はどんどん先へ進んで行く。

「痩せたね」
「君もずいぶん痩せたね」

「どこがこんなに切ないんだろうね」

 その言葉はぼくに向けられたものだった。彼女が期待しているものは詩歌の続きではなくて、質問のその答えなのだ。ぼくの、心からの言葉なのだ。今、ぼくは切ないか。切ないに決まっている。予感がするのだ。とても、いやな予感がするのだ。だからそのせいで胸がぎゅうっと締め付けられて、痛くて、痛くて、それこそ痛切に、苦しくて。
 切ないのはどこだろう。痛むのはどこだろう。
 そんなの、考えるまでもなく、ひとつしかない。


「心だろうかね」


 彼女が小さく笑う声が聴こえた。
 たしかに痛いね、と。
 どこか哀しそうに、そう言った。


「心をとったら死ぬだろうね」
「死にたくはないね」
「さむいね」
「ああ虫がないているね」


 ▽


 夕方になるまで、ぼくは彼女と一緒にいろんなところを歩いて回った。彼女があちこちへ駆けていくのを、ぼくは少し離れたところから、ずっと見守り続けていた。無邪気に遊ぶその姿は、やっぱり見た目相応に可愛らしい。ぼくは一人っ子だけれど、もしも妹ができたとしたら、彼女のような元気な子だったらいいと思う。ぼくはそれを、やっぱり少し離れたところから静かに見つめているのだ。それだけきっと、とてもしあわせな気持ちになれるだろうから。
「空が、赤い!」
 山際に沈んでゆく太陽を指差して彼女が叫ぶ。お昼までは暴力的なまでに輝きを放っていた太陽も、ひとたび傾き出すと沈むのはとても早かった。みるみるうちに姿をひそめ、空には青にとって代わって、紅から藍色への綺麗なグラデエションが浮かび上がっていた。一番星どころか、二番星も三番星も、十番星だって、もうつぶらな光を放ちはじめていた。
「そろそろ、帰らないと」
「……もう、終わり?」
「明日にはこの町を出るから、準備しないといけない」
「そっか。それなら、仕方ないね」
 仕方がない仕方がない、繰りかえし呟いてから、彼女は最後に「お別れだ」とはっきりと言った。それはもう、清々しいくらいに。
「今日の記念に、その帽子、あげるよ」
 ぼくの頭には彼女が乗せた麦わら帽子がそのままになっている。それを指差して彼女が言った。ほんとうにもらってもいいのかと訊くと、家に帰れば別のお気に入りがあるから構わないのだという。そう言うのならと、ぼくは遠慮せず帽子を受け取ることにした。彼女からの贈り物だ、悪い気なんてするはずないし、似合っているとも、言ってくれたから。
 ありがとう。改まって礼をすると、彼女はどこかくすぐったそうな顔をしてみせた。そのやわらいだ顔に注いでいた斜陽が、不意に絶えた。ついに太陽が沈みきったのだ。この辺りは街灯もほとんどないから、夜の帳はあっと言う間に落ちてくるだろう。どうしよう、さすがにこの薄闇の中、彼女を一人で帰すというのも考えものだ。送ってあげるべきかどうか、そんなことをぼくが悩んでいると、ふと彼女の後ろの道から、背の高い人の影がこちらに向かってくるのが目に付いた。気配に気付いて彼女もまた振り返る。宵闇と共に現われたジーンズにTシャツ姿の“誰か”は、彼女の顔を一瞥して、それからぶっきらぼうな口調でこう言った。
「こんなところで油売っていたのか、諏訪子」
「神奈子……」
 すわこ、と聞いて一瞬誰のことかわからなかったけれど、すぐに“彼女”の名前だということに気がついた。すわこに振り回されてばかりで、そういえば自己紹介もしていなかった。今さら改まってそんなことをする気にもなれない。偶然とはいえ、僕だけが彼女の名前を知ってしまって、少し悪い気はしたけれど。
 さっきまで溌剌としていたすわこが、しかしかなこさんの前ではしゅんとして、少し大人しくなっているように見えた。彼女――かなこさんはいったいどんな人なんだろう。すわこのお母さん……にしては若すぎるように見えたし、かと言ってお姉さんであるようにも見えなかった。二人の関係がまったく見えてこない。見た目の年齢だけなら十歳以上も離れて見えるのに、お互いを呼び捨てあっているのもなんだか不思議な感じがした。
「そこの子は?」
 そのかなこさんが、不意にぼくのほうを見てそう言った。その視線に、何故だか途端に全身が竦みあがった。ぎゅうっと、心臓を鷲掴みにされたよう。すわこの眼とはまた大きく雰囲気が違う。すわこのそれのような奥深さこそないけれど、その代わりに、眼光の強く激しく、そして鋭いことは、今まで会ってきたどんな人の眼にも勝っていた。睨みをきかす、というのはこういうことを言うのだ。蛇に睨まれた蛙、そんな言葉がふと思い浮かんだ。
 すっかり怖気づいてしまって、息をすることも忘れかけているぼくをみて、助け舟を出してくれたのはすわこだった。かなこさんの視線を遮るようにして、その小さな体で、ぼくとかなこさんの間に割って入った。
「友達だよ、私の。今日、知り合ったんだ」
「………」
「そんなに睨まないでやってよ。私が連れ回したんだ、この子は悪くない」
 まだどこか納得できないようだったけど、結局すわこの言葉に圧し負けて、かなこさんはぷいとそっぽを向いてしまった。ぼくにしか聴こえない小さな声ですわこは「あいつ、自分だけ仲間外れにされて、拗ねてるんだよ」と悪戯っぽくそう言った。
「帰るよ。早苗が待ってるんだ。準備で忙しいってことぐらい、あんたもわかってるだろう」
「はいはい。サボってすみませんでした」
 二人の話していることが一体なんのことなのかはよくわからなかった。ただ、用事があったはずのすわこをこうも引き止めてしまったことは申し訳なく思った。悪いと思ったことは、謝らないと。ごめんなさいと、そう言って頭を下げると、二人はきょとんとした顔をしてみせた後で、それからどうしてか声を上げて笑った。「なぁ、面白いやつだろう!」そう言うすわこの声はとびきり弾んでいた。
 ぼくはといえば、こうも面と向かって笑われたことに赤面せずにはいられなかった。ひどい人達だ。ちょっと悔しいな。そんなふうに思った矢先、ふっと笑い声が途絶えて、何事かと思って伏せていた顔を上げると、そこに在ったのはすわこの、今までになく真面目な色をした双眸だった。
「なぁ、君は、来年も、再来年も、これから先もずうっと、この町に来るの?」
「諏訪子、あんたいい加減に、」
「神奈子は黙ってて」
 有無を言わさぬ、とても強い口調だった。あのかなこさんでさえ、言いかけた言葉を飲み込んでしまって、ぐっと口を閉じてしまった。
 すわこはぼくの目を真っ直ぐに見つめていた。真っ直ぐに真っ直ぐに、もう捕まえて離さないぞと言わんばかりに、真っ直ぐに。ちょうど、はじめて彼女を見つけた時、ぼくが彼女に向けた視線と同じような光を宿していた。逃げ出せるわけなんてなかったし、逃げ出そうとも思わない。すわこが、ぼくになにかを伝えようとしている。それはとても大切なことだ。目を逸らしてはいけないことだ。ぼくが知って、憶えていなくちゃいけないことだ。ぼくにしかできないことだ。世界で一人、たった一人ぼくだけしか、すわこのことを憶えていられない。

 ――何故なら、今日を最期に彼女は、

「この町に、また遊びに来てくれる? 来年もまた、私と遊んでくれる?」

 それは願いじゃない。期待でもなければ、希望ですらない。
 どこまでも純粋な気持ちで訊いているのだ。また会えるのか。また一緒に遊ぶことができるのか。それだけ。ただ、それだけ。
 だからぼくも答えを飾ったりなんかしない。理由がどうとか、そんなことはどうでもいい。彼女が知りたいのはそこじゃない。ぼくが伝えたいのは、そうじゃない。

「きっと、無理だよ」

 ぼくの言葉を聞いて、すわこはどこか安心したような顔をしてみせた。ほっと胸を撫で下ろして、それから、今日はほんとうにありがとうって、仰々しすぎるぐらいに深々と頭を下げて。それに釣られてぼくもお辞儀をする。二人して直角を作るぼくたちを見て、かなこさんは呆れたふうに笑っていた。

「もう会うことは、ないだろうけど」

 畦道の向こうへと、背の高いのと低いのと、凸凹の影が消えていく。途中で何度も何度も振り返っては、すわこは道の折れ曲がって姿の見えなくなるまでぼくに手を振り続けていた。ぼくも負けじと手を振り返す。腕の痛くなるくらいに、それでも、真っ暗な世界でも、しっかりと彼女に見えるように。

「私のこと忘れたら、やだよ!」

 二人分の影の、暗闇にひっそりと溶けてなくなる前に、すわこが叫んだ。彼女の声に呼応するようにして、辺りの草むらに潜んでいた蛙たちも、一斉に声を張り上げ始めた。そうするともうどんな音も飲み込まれてしまって、向こうの道を行く彼女たちの土を踏む音も、もう聴こえなくなってしまった。

 蛙が鳴いていた。泣いていた。
 行かないで、行かないでと、嘆きの声を、上げているようにも。


 忘れるものか。
 忘れられようか。


 ▽


 彼女と出会った夏が、過ぎ去ろうとしていた八月。
 日本から“すわこ”が消えた。


 ぼくは今、かつて祖父の家があったその跡地に立っている。祖父の家は葬式のあとすぐに取り壊され、土地も売り払われてしまった。親戚の中で、そこを引き継ぎたがる人が誰もいなかったのである。山奥に狭い土地をぽつんと持っていたって、仕方がないということなんだろう。祖父がいたからこそ――祖父の死があったからこそ、ぼくはあの田舎町を訪れることができた。だから、今となってはもう、ぼくがあの町を訪れるもっともらしい理由はなんにもなくなってしまった。私的に訪れることももちろんできただろう。けれど、当時のぼくには、東京から長野まで出向くための交通費や時間を、どうしても用意することができなかった。
 結局ぼくが再びこの地を訪れたのは、彼女と別れてから実に十年近い歳月を経てからであった。ぼくはもうすっかり大人になっていた。あの頃のぼくとは似ても似つかない。だけれども、胸に抱いたこの気持ちだけは、あの日あの時のぼくとなんにも変わってなんかいないと信じている。もう一度、彼女に出会うことができたのなら。その時はまた、蛙の詩を詠おう。けろけろと、大そう愉快な声で、彼女を笑わせてあげよう。
 彼女と出会ったあの夏以降――今にして思えば、彼女に詠わされたのがきっかけだった――ぼくは職業としての詩人を本格的に目指していた。詩篇をノートにいくつも書き連ね、校正し、出版社に持ち込んだ。もちろん、そう簡単に受け入れてもらえれば苦労はしない。大学生の頃からずっと活動を続けてきたけれど、結局今に至るまで、ぼくの詩集が公に発表されたことは一度もない。
 けれど、売り込み時代に築くことのできた人脈は、ふとしたきっかけでぼくに面白い仕事を与えてくれた。今のぼくはオカルト雑誌のルポライターなんてことをしながら毎日食いつないでいる。さっきの諏訪湖の消失について調査していた専門家が、去年の暮れに、諏訪湖の件については今の科学では解明不能という見解を発表したのだ。それを期に日本中にオカルト旋風が吹き荒れた。諏訪湖が失われてしまったのは、地底人のしわざであるとか、宇宙人が襲来したからであるとか、あるいは、諏訪にいらした神様の祟りであるとか。ぼくにとっては“諏訪湖”がどうして消えてしまったのかだなんてそんなことはどうでもよかったのだけれど、しかし昨今のオカルトブームはぼくにとって中々都合のいいものであったことは認めなければならない。霊的現場の現地取材と称して、日本中どこへでも飛んでいくことができたから。どこへでも、彼女を探しにいくことができたから。
 昨日だって、ぼくはくだんの諏訪湖の様子を見てきたばかりだった。諏訪湖は変わり果てていた。隕石でも落ちてきた跡のように、地面にはぽっかりと大穴が空いていて、底の方は吸い込まれそうなほどに深くて暗い。その湖底には一本、巨大な亀裂が東西に走っている。ぱっくりと裂けた地面。おそらくそこから湖水が流出していったのだろう。ただ、諏訪湖ほど体積のある湖が、全て地下に飲み込まれていってしまったとは考えにくい。そうではない、もっと別のところで、大量の湖水が失われたに違いないのだ。しかしわからないのはそこだった。どうして、がわからない。そして、どこへ、というのも皆目検討がつかないでいる。

 すわこは、どうして消えてしまったのだろう。
 すわこは、どこへ消えてしまったのだろう。

 その行き先を知っているのは、おそらく日本でもぼくだけだ。たった一人、ぼくだけ。ぼくだけしか真実を知らない。彼女は、そう、夢の中へ行ってしまったのだ。痩せこけて切なくなった心が苦しくて、そのまま死んでしまうのがいやで、だから夢の中へと行ったのだ。眠っている間は、良い夢だけをいつまでも見ていられる。それはいっとうしあわせなことに違いない。ただひとつ悲しいことがあるとすれば、彼女のそれは、春が来れば眼を覚ます蛙の冬眠とは違って、もう永久に目覚めることはないだろう、ということだけれど。
 あぁ、それでも。たとえそうだとしても、ぼくは。いつの日か彼女を冷たい土の中から、醒めない夢の中から連れ出してしまいたいとそう思った。もういちど、彼女に会いたい。彼女に詠ってあげたい。彼女が好きだと言った、シンペイ蛙の詩を。るんるん るるんぶと呟くと、ぼくの詩につられてか、草むらの蛙も一匹また一匹と喉を鳴らしはじめた。るるんぶ るるん。いつの間にか大合唱になって、夏の夜の大気を騒々しく振るわせる。その瞬間ぼくもまた雌を求める一匹の蛙と化していた。会いたい、会いたい。乾いた皮フを濡らすように、ぼくの目からはいつしか、大粒の泪が溢れだしていた。


 るんるん るるんぶ
 るるんぶ るるん


 今はもういない彼女を懐かしむように、七月の蛙がないていた。





 


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