□星のナイフ 第三話
駅前通りを行く道すがら、隣に並んでいた彼女がふいに声をかけてきた。まさか、向こうから声がかかってくるとは思っていなかった。咄嗟のことに返事が出せなくて、私はぽかんと口を開けたままの間抜け面を彼女に晒すことになってしまって。
そんな私を見て彼女は小さく笑ってみせた。おかしな人ね、とずいぶんひどいことまで付け加えて言った。
「も、もう! 急に話しかけてくるからびっくりしたじゃない」
「そんなに不意だったかしら?」
「そうよ。心の隙を突かれたわ」
油断も隙もありゃしないって、まぁ実際私は隙だらけだったんだけど。少しばかりぼうっと考え込んでいた。というのも次にどんなことを話そうかって、そんなことを考えていたんだけれど、彼女に先に話題を振られてしまった今では、もうどうでもいいことだった。
口をぴっと閉じて“聞き手”の姿勢に入る。足並みを少し緩めると、彼女もそれに合わせて歩幅を狭めてくれた。通りを行く人の緩慢な流れに身を委ねながら、私は彼女の言葉にそっと耳を傾ける。
そう言えば、今日初めて、彼女の方から話しかけてきてくれた。
「それで、私がどうかした?」
「どうかしたもなにもないわ。そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
「あー、えーと、……なにを?」
「理由よ。宇佐見さんが私を呼び出した理由」
「はは……」
思わず苦笑い。いやいや、私も隠すつもりだったわけじゃない。ただ、なんというか、そう、タイミングを見計らっていたのだ。彼女の心の隙を、窺っていたのだ。けれど彼女のガードは堅いなんてものじゃなくて、どこからどう突き崩そうとしても、あの掴みどころのない笑みでのらりくらりと避けられてしまっていた。暖簾に腕押し、ぬかに釘。すぐそばにいる彼女は宙ぶらりんに浮いていて、手を伸ばして捕まえようにも、ふわふわと私を翻弄するばかりだった。
その彼女が、いよいよ攻勢に打って出てきた、というわけである。機先を制していたつもりが、いつの間にやら逆転されていた。彼女はトン、と一歩前に躍り出て私の行く手を遮った。私の眼を覗き込む、紫色のひとみが悪戯っぽく光った。
「ねぇ、ずいぶん歩き回ったことだし、そろそろどこかに入って休まない? そこでゆっくりお話しましょう」
そんなことを言ったかと思うと、彼女は突然私の手を掴んでずんずんと歩き始めた。躓きそうになりながらもどうにか彼女についていく。すっかり相手のペースだ。あぁ、もう、どうにでもなってしまえ!
彼女は駅の方を目指して元来た道を引き返していった。どこへ行くのと訊くと、「素敵なお店があるのよ」とそんな返事を返してきた。駅前には大きな通りが一本走っていて、そこを中心に林立するビル群の合間にはたくさんの小路が続いている。そのうちの一本に彼女は足を踏み入れていった。そこは表通りとはほんの少し雰囲気が違っていて、ちょっと古臭い感じの建物が目立つレトロなところだった。
「こんなところ、あったんだ……」
「レトロスペクティブ京都、ってね。でも、お店の方はもっと素敵」
見て、と彼女が指差した先には一軒の喫茶店が在った。小路に面した広い窓は開放的な印象を与えているけれど、いかんせんビルの谷間にあるものだから、店内はちょぴり薄暗い。けれどもその光の加減が、外装の不思議な雰囲気を盛り上げるのに一役買っていた。今はもうほとんど見かけなくなったコロニアルスタイルのその建物は、明治のころの日本の建物を、そっくりそのままここに移してきたかのようにも思えた。ビル街の最中に、こんな洒落たお店があるなんて。場違いだと思う一方で、けれどどこかで調和がとれているようにも思う。いまだ驚きの表情を隠せずにいる私を見て、「行きましょう」と彼女は入店を促した。
「ずいぶんとまぁ、小洒落てるわね。ここに入るの?」
「そう。私のお気に入りのお店なのよ」
一見するとなかなか入りづらい雰囲気のお店だったけれど、彼女は別段気後れする様子もなく、我が家の門を開くかのような自然な動作で入り口のドアを開いた。からころん、と小さなベルが鳴り響く。内装は表と合わせた西洋アンティークで、椅子もテーブルもシックな調子に調えられていて、とても静かな空気を作り出していた。
私たち以外にお客さんの姿はなかった。それどころか店員の姿さえ見当たらない。しかし彼女はそれを全く気にしていないようで、勝手に奥に進んでいったかと思うと、大きなシュロチクの陰に隠れた二人掛けのテーブルにさっさと腰を下ろしてしまった。はじめからそこに座るんだって、決めていたみたい。――決めていたんだろう。お気に入りの店だと言っていた。彼女なりの特等席があるのかもしれない。
それから彼女は私に視線を振った。私を捉えた眼が、来ないの? とそんな言葉を投げかけていた。お邪魔しますと一言呟いてから、私は彼女の向かいの席についた。
「勝手に入っちゃっていいのかなぁ」
「ここの主人とは知り合いだから、気にしなくていいの」
「私は、気にするのよ。いい子だから。……あ、」
腰を下ろして、すぐのことだった。カウンターの方から、珈琲の強く深い香りが漂ってきているのに気がついた。よく見れば、棚一面にはいろんな種類の珈琲豆が所狭しと並べられている。オリジナル、そんなラベルの貼られた瓶も一つや二つではなかった。どうやらブレンドの専門店らしい。テーブル脇に添えてあったメニュー表に眼を通しても、珈琲の銘柄ばかりで、紅茶の文字はどこにも見当たらなかった。
「ずいぶん徹底してるじゃない。アールグレイくらい置いあってもいいと思うんだけど」
「ここの人の趣味なのよ。紅茶は好かないんですって」
「はぁ、頑固だねぇ」
「頑固さ」
……その時、私に帰ってきた言葉は、彼女のものではなかった。さっきまで微かだった香りが、いつの間にかいっそう近くにまで迫っていた。つんと鼻を刺すような焙煎風味。それなのに、どこか柔らかい感じもする。珈琲よりは紅茶の方が好きなんだけれど、この香りは、嫌いじゃない。
落ち着きのある低い声だった。振り返るとそこには、ひょろりと背の高い壮齢の男の人が、穏やかな表情をして立っていた。その右手には、二人分のコーヒーカップを乗せたお盆が一枚。テーブルの上にカップを載せてから彼は、「サービスだよ」と小さく笑ってみせた。
「いらっしゃい、ハーン君。それと……」
「私の“友達”よ。宇佐見さんって言うの」
「そうかい。聴き慣れない声がしたから、誰かと思ったよ」
彼が私の方に笑顔を向ける。私が今まで見てきた中でも、いっとう人の良さそうな顔つきだった。
「はじめまして、宇佐見君」
「あ、はい……」
「ハーン君がここに人を連れてきたのは、君が初めてだよ。いつも、店の隅でひとりで寂しそうにしていたんだよ」
「おじさん、余計なこと言わないで」
珍しく彼女が大きな声をあげてみせた。照れを隠しているのがばればれだ。なんだ、結構可愛いところもあるんじゃないか。大学にいる時の、あの“孤高”という言葉がぴったりと当てはまる彼女からは、ちょっと想像がつかない姿だった。
ひとしきり彼女の文句を聞き流した後で、じゃあねと言葉を残して彼は――おじさんは、踵を返して店の奥へと戻っていった。客を放任するのが彼の主義なのか、それとも端から商売っ気がないのか。どちらにせよ、おじさんの去った後の店内はまた静かな調子を取り戻していた。
ちらりと彼女の顔色を窺う。よほど恥ずかしかったのか、まだ頬を赤らめたままぶつぶつ言っていた。
「なんだか、意外ねー」
「……そうかしら。私だって女の子だもの、一人が寂しい時ぐらいあるわ」
「じゃあさ、なんで大学じゃいつも一人なの? 正直言って評判良くないよ……話しかけても、愛想良くないって」
一人が寂しいと言った割りには、大学で見かける彼女はほとんどの時間を一人で過ごしているようだった。学部が違うからそれほど頻繁に顔を合わせているわけではないのだが、キャンパス内で耳にした彼女の風評はあまりよろしいものではない。日本人離れしている整った顔が注目を集めて、彼女に言い寄ろうとした人もたくさんいたそうだけれど、彼女はその全員をあの言葉その言葉で追い払ってしまったそうだ。興味がないだとか、うざいだとか。もっと辛辣な言葉を浴びせかけたこともあるらしい。噂話だから、いったいどこから尾ひれが続いているのかだなんて私にはわからないけれど、でも、たまにカフェテリアで見かけた彼女の背中には確かに、私に話しかけないでオーラが漂っていたような気がした。
「人見知りが激しいのよ、私。知らない人と話すのが苦手なの」
「えぇと、だったら、グループ活動みたいなのもダメだったり?」
「そうよ、わかってるじゃない」
その声は厭になるほどはっきりしている。言葉どおり、他人と行動するのが心底嫌いなのだろう。自分の領域をきっかり決めて、そこに結界でも張ってるみたい。土足で踏み込んだ途端にきっとこう言われるのだ。それ以上近付くなころすぞ、ってね。
それならどうして、と私は疑問に思った。それならばどうして彼女は、私の誘いに乗ってくれたんだろう。一緒に街に出かけてくれたんだろう。彼女のお気に入りの喫茶店に、連れてきてくれたんだろう……?
「ねぇ、宇佐見さん」
「へっ?」
「さっきの質問の答え、いい加減に教えてよ」
「え、っと……」
「どうして今日、私と出かけようなんて思ったの? 私の評判は宇佐見さんも知っていたんでしょう? その上で、どうして、私を選んだのかしら」
訊きたいのはこっちの方だ。どうして私の誘いに、……って、誘った方がそんなことを考えたってしょうがないのか。ここでこうして、彼女と珈琲を飲んでいる。それだけが事実だ。絶対だ。理由がなんであったにせよ宇佐見蓮子はラッキーガールだったのだ。他の誰にも踏み入れなかった彼女の領域に、こうして片足突っ込めたんだから。
そう考えるとなんだか意欲が湧いてきた。彼女が乗り気でいる今こそチャンスではないのか。思い切って、なにもかもぶちまけてしまった方がいいんじゃないのか。
彼女はその深い紫色をしたひとみを真っ直ぐ私に向けていて、じっと押し黙ったまま私の言葉を待っていた。その強い眼力に気圧されそうになる。言おうとした言葉が、喉に痞えて上がってこない。けれど、それを吐き出さないことには、いつまで経っても彼女になにも伝えられない。彼女は待っている、私はその期待に応えなければいけないのだ。
取り繕ってはいけない。
彼女のその“眼”は、私のそれと同じで、フツウの色をしていなかった。
「……ハーンさんは、サークルとか、入ってないんでしょう?」
「ええ、さっきも言ったけど、みんなで何かするっていうのが苦手なの」
「私もさ、サークルには入ってないんだよね。面白そうなところが見つからなくってさ、どこも乗り気になれなくて。だから、私、それなら自分で創ろうって思ったんだ。面白いサークルがないなら、自分で人を集めて創ればいい。だから、」
「私を勧誘しようとした、ってことね。いつも一人でいて、サークルなんて入ってないって思ったから」
まったくもってその通り。もっと突き詰めて言えば、もう彼女以外に候補が挙がらなかったというのがあるけれど。私の友人連中はとっくの昔にあちこちのサークルに加入して上手くやっていたから、私の我侭に無理に付き合わせるわけにはいかなかった。今までの人脈は当てにならない。だから私の偉大な野望は、ほんとうになにもかも一から始めなければいけなかった。
……けれど、私の創りたいと思っているサークルは、その……ちょっとばかり“おかしな”サークルだったから。誰にも見向きもされなくて、つまらなさそうって一蹴されて。そんな成果のない虚しい日々が続いて、いよいよ行き詰まりを迎えた最後の最後になって現われたのが彼女だった。分の悪い賭けなんてもんじゃないと思っていた。相手にさえされずに終わるに違いないって、半分以上諦めていた。
――それなのに彼女は。私に向き合う、彼女のその表情は、
どうしてか、小さな微笑みを浮かべていた。
「……宇佐見さんの創ろうと思ってるのは、どんなサークル?」
「へ? ど、どんなって?」
「どんなもなにも、なんとか研究会とか、同好会とか、サークルって言ったっていろいろあるじゃない。なにをするサークルなのか、教えてくれなきゃ困るわ」
彼女の言うことはもっともだった。活動内容もわからないサークルに入ろうなんて考える人は普通いない。けれど私の場合、その内容が普通じゃないから今まで相手にされてこなかったのであって……なんというか、肝心なところが口にしづらくてならなかった。怖れていたとも言う。彼女にまで拒絶されたらどうしようかと思うと、わけもなく身体が竦みあがって。
それまでの勢いが、眼に見えて失速していくのがよくわかった。頬をいやな汗が伝い落ちていく。せっかくここまで来たのに……いやここまで来たからこそ、不安でならない。おかしいな、宇佐見蓮子はこんなに意気地のない人間だったけ。今までどんな人を相手にしてきたって、上手くやれてきたじゃないか。たとえ結果がなんであったにせよ、自分の想いを全部吐き出せていたじゃないか。嫌われたってかまわない。厭われたってかまわない。自分にそう言い聞かせて、しゃにむに頑張ってきたじゃないか。
なのに。
「……っ」
どうしてか彼女にだけは嫌われたくないと、そんなふうに思った。理由なんてわかりやしない。わからないけどただ、否定、されたくない。
彼女なら私を理解してくれるかもしれない、受け止めてくれるかもしれない、そんな勝手な期待をいつの間にか抱いていた。根拠なんてどこにもないのに、思ってしまった。他の誰よりも特別な人に思えた。あるいは、これから、特別になるのかもしれないって。
なんともいえない沈黙が私を包み込んで、締め付けていた。ぎゅっと胸の絞られたようになって、思うように息が吐き出せなかった。不安と焦燥が内側を苛んで、じっと言葉を待つ彼女の視線が、外側からさらに圧してきて――
「どうして私がここにいると思う?」
けれど、そんな重苦しい空気を先に突き崩したのは、彼女の方だった。
透き通るような迷いのない声が、静かに耳を打った。
「あなたが答えに困っているみたいだから、それなら私が、先にあなたの質問に答えてあげるわ」
「………」
「面白そうだって、そう思ったからよ。あなたに、あなたのしようとしていることに、興味が湧いたの。他の人のことなんてどうでもいいと思っていたけれど、あなたに限ってどうしてか、ね」
すっ、と顔を寄せてきて、その深い色のひとみを近づけてきた。私の心の内でも見透かしているかのよう。それはまるで、私という人間を知ろうとしているようにも見えて。
興味がある、と彼女はそう言った。あの、誰も寄せ付けなかった彼女が、私にだけは心を開いてくれている。それはきっと、とても大事なことなんだって思った。私は彼女にとっての特別なんだ。自惚れなんかじゃない。そんなことは“眼”を見ればわかる。そのちょっぴり不思議な色をした眼を見れば、なにもかも。
紫の光。ゆかり色をしたひとみ。
私はその中に、……私の探し求めていた世界を、見つけたのだ。
「……笑わないで聞いてね。どうせ笑うなら、馬鹿笑いにしといて」
「えぇ、わかったわ」
「私の創りたいサークルは、――――秘封倶楽部は……」
▽
季節は梅雨に入っていた。長雨の日々が四日ほど続いていて、街中がじっとりと蒸し暑い大気に覆われていた。不快指数のばか高いこんな日に嬉々として外を出歩く人間なんて普通はいない。私だってもちろんそうだ。先約さえなければ今日は、……今日も、部屋から出ようなんて考えは思い浮かぶはずもなかった。
それだのにその先約さんと言えば、朝早くから電話まで寄越して私に念を押してきた。受話器越しに聞こえた声は「約束、憶えているわよね」とただそれだけだったのに、その言葉には妙な威圧感があって、忘れたふりしてやり過ごそうだなんて、そんな私の思惑もあっさりと砕けて散った。行かなかったら行かなかったで、その時はきっと私の部屋に押しかけてくるに違いない。どちらにしたって疲れるのなら、素直に従って波風立てない方がよほどましだ。
溜息一つ吐いてから、ベッドに張り付いていた身体をゆっくりと引き剥がした。服を着替えなきゃ、身嗜みも整えなきゃ。面倒臭いからいっそこの薄汚い格好のまま表に出てやったって良かったんだけれど、するとまたあいつが文句を言うに決まってるのだ。もっと女の子らしくしなさい、って。あの声で、あの顔を歪めて私を叱るんだ。冗談じゃない。死体に口はないんだから、口を閉じて永遠に黙っていてほしい。
「う、わぁ……」
のそのそと洗面台の方まで歩いていって、鏡を見たところで思わずそんな声が漏れた。想像以上に、酷い。睡眠時間なんて有り余っていたはずなのに目の下には濃いくまができていたし、髪の毛はくしゃくしゃのぼさぼさで、櫛で梳いたって真っ直ぐにならない。生気の抜け切っているのが自分でもわかる。蝋人形かなにかのようで、ちょっと突つけば粉になって崩れてしまいそうだった。とても人に会いにいけるような顔じゃない。体面ではなく、顔面が悪い。外出する気なんて失せる一方で、“これ”を今からまともにしなくちゃいけないのかと思うと頭が痛くなる。面倒臭いなぁ、ほんとうに。なんで私が、こんな目に。
……普通の生活に戻れとあいつは言った。そりゃあ私だって、いつまでも腐ったままではいられないって、そんなことはわかってる。哀しい、辛い、放っておいて。そんな我侭の通用する時期は、もうとっくの昔に経ち過ぎているのだ。トラウマがどうとか、心の傷がどうとか、そんな甘えはあいつが絶対に許さないだろう。宇佐見蓮子は変わらなければならない。面倒だとか、気だるいとか、言っていられない。メリーのいない世界のメリーのいない日々が、これからの私にとっての日常だ。私にはそれを受け入れなければいけない義務がある。私一人のために足並みを遅くしてくれるほど世界は優しくなんかないのだ。それならいっそここに置き去りにしていってくれればいいのにね。リタイアさせてくれたって、いいじゃない。
もう疲れたんだよ、私は。
だから少し、休ませてよ。
でも、そうしたらやっぱりあいつはあのいっとう優しいアルトで、もう十分休んだでしょう早くしゃんと立ち上がって歩きなさいって、そう言うんだ。
変わらなければいけない。なのにいったいどんなふうに変わればいいのか、ちっともわからなかった。結局私の意志はどこにあるんだろう。なにをしたいんだろう。なにをするべきなんだろう。
あいつと会えば、その答えがわかるのだろうか。
あいつと会えば、私は変われるのだろうか――……
青い空が広がっていた。昨日までの雨がうそみたいな、初夏の晴れ空。湿気た空気は相変わらずだけれど、これだけお日様が照っていればすぐに乾くに違いない。久しぶりに浴びた太陽の光はただただ眩しくて、うっすらと目を細めなければ満足な視界が得られないほどだった。
なにもかも淡くぼやけた街並みを、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて歩いた。逃げ水が走り、陽炎が揺れていた。世界はこんなに歪な形をしていただろうか。こんなに不確かなものだったろうか。ともすれば、あのビルディングも、街を行く人の影も、すべて溶けてなくなってしまうんじゃないかって、そう思った。氷のように解けて消え去り、後にはただなにもない真っ白な景色ばかりが残るんだ。そうなってくれたらどんなにか楽なことだろう。私にも、境界を越えられたのなら。その時には、近くて遠いメリーの影に、この手が届くようになるのだろうか。
もう歩き慣れたはずの街。メリーと一緒に、刻んできた時間。そのどれもが今となってはおぼろげな、うっすらとした霞のようななにかに包まれて上手く思い出せなくなっていた。大切な想い出のはずだったのに、こうもあっさり消え失せてしまいそうになるなんて、なんだか哀しみを通り越して呆れてくる。胸の真ん中に空いた穴はまだ塞がらないままだった。生ぬるい風の吹き抜けるたび、そこからぽろぽろと零れ落ちていく。一歩歩くたび、道端に一つ落し物をしていく。それは羽毛のように軽かったから、落としたそばから風に吹かれて攫われて、気がつけば私の中に残るメリーの残りかすはずいぶんとその数を減らしていた。こうやって少しずつ少しずつなくなって、いつかは空っぽになってしまうんだ。そうなった時、私はいったいどんな気持ちでいるのかな。胸の内から、心の底から、メリーがほんとうに消えてなくなってしまった時、私はこころは、どこにあるんだろう。
けれど当分、……もしかすると一生、その心配は必要ない。
いくら耳を塞いだって、その声が耳に飛び込んで来るんだもの。
今だって、ね。
「2分19秒遅刻」
さも当然のように、あいつは私より先に待ち合わせ場所で待っていた。駅前の広場に、午後一時。五分以内の遅刻なんて大した誤差じゃないでしょうって言い返してやりたかってけれど、この蒸し暑い空気の最中、くだらない言い争いをするのもばかばかしいと思ったのでやめた。
メリーみたいなこと、言わないでよ。
ちくしょう。
「来るか来ないか、半々ぐらいだなって思っていたんだけれど。でも今は、ちゃんと来てくれて嬉しいわ」
「あんな電話まで寄越されたら、誰だって来ますよ。後が怖いですから、色々と」
「それはもう、怖いわよ。私、手加減するつもりなんてないから。……それじゃあ行きましょう、蓮子ちゃん」
ベンチに下ろしていた腰を上げ、彼女は意気揚々と歩き出した。その手に持っている白い日傘をくるくると回しながら行く様は、彼女の上機嫌ぶりを表しているかのようだった。私はひとりどんどんと突き進んでいく彼女の後ろに、金魚のふんみたいに付いて回った。ハニーブロンドの長い髪の、風に靡くのを追っていた。
彼女がどこへ向かおうとしているのか、私は知らない。秘封倶楽部に興味があると彼女は言った。それなら普通私に主導権を持たせそうなものだが、しかし彼女は私の手綱を握ったままで、ちっとも解放してはくれなかった。彼女の意図がわからない。私を誘い出した理由、ここまで私に押し迫る理由。彼女からしてみれば私は、妹の仲の良い友人のうちの一人でしかないはずなのに、それだのにどうして、ここまで私にまとわりつくのだろう。気持ち悪いくらい、親身に接しようとしてくるのだろう。
考えを巡らせても想像はつかなかった。何を考えているのかわからない、掴み所のないところまでメリーにそっくりだ。結局私にできることなんてなかった。押し黙ったまま、凛として歩くその背をじっと見つめていた。
金の髪と、薄紫のワンピースの揺れるたび、彼女の輪郭がひどくぶれる、重なる。面影だの、生き写しだの、そんな生易しいものではなくて、彼女の影形は誰がどう見てもメリーそのものだった。生き返ったのよとそう言われれば、簡単に信じてしまえそうだ。それなのに彼女は、小泉八雲は否定する。自分はメリーの姉だと、メリーの声でそう言い切った。メリーがメリーを否定している、それはとても薄気味悪い、背筋の凍りつくような不気味さを湛えていた。
……ドッペルゲンガーの話を思い出した。世の中には自分と全く同じ姿形をした“なにか”がいて、出会ったら最後、自分の影に殺されてしまうっていう、あの話。もし、そうだとしたら。彼女が、メリーにとってのドッペルゲンガーなのだとしたら……
見れば見るほど、全てなにもかも重なってしまう。
違うモノだと思い込みたい私の理性は、しかし本能にとても近いところで、あっさりと裏切られ続けていた。
「行きましょう、蓮子ちゃん。人目が鬱陶しいわ」
「行くっていったって、どこに、」
「それを探すのが秘封倶楽部ではなかったの? “ここでない場所”を探すのがサークルの活動だって、あの子からはそう聞いてるわ。私にはなんのことだか、さっぱりだったけれど」
振り返らずに彼女が口にする。
そこまで知っているのなら、どうしてまた、秘封倶楽部に興味があるだなんて言うんだ。
声をかけようとしたところで、しかし彼女が続けた。
「あの子は昔から夢の世界に憧れていたわ。自分には違う世界が視えるって、いつかはその世界に行って楽しく暮らすんだって、言い張ってた。それでよく自分の世界にこもっていたから、あの子には友達なんていなかったわ。私も、きっと一生あのままでいるつもりなんだろうなぁって、半分諦めてた」
彼女が足並みを少し緩めた。細い肩が、私の右隣に並んだ。
そこは、いつもメリーがいた場所だった。
「でもね、二年前、久しぶりにあの子と会った時、雰囲気がずいぶんと変わっていてとても驚いたの。びっくりするくらい明るくなってた。それから、友達が出来たって言って、笑ってた。お気に入りの喫茶店を見つけたんだって、友達と一緒にサークルも作ったんだって、ほんとう楽しそうにしてた。あれほど自分以外の世界に無関心だったあの子がはじめて興味を持ったもの、それがあなたなのよ、蓮子ちゃん。あの子はあなたの話ばかりしていたわよ。ただの友達じゃない、特別な人だって、眼を輝かせていたわ」
「……私は、なにも特別なことなんか……」
「そうかしら。類は友を呼ぶって、ね」
彼女の視線がほっぺたの辺りに突き刺さるのを感じて、私はむず痒くなってぷいと顔を背けた。この人はいったい私のことをどこまで知っているんだろう。“眼”のこと、知ってるのかな。たぶん私のことなんて、なんでもお見通しなんだと思った。この人相手にうそは吐けない。その双眸は、宇佐見蓮子を真っ直ぐ捕まえて離さない。束縛を通り越して、ほとんど呪縛みたいなものだった。
「あの子にとってあなたは特別だった。それこそ、自分の世界が変わってしまうぐらいにね。切欠は些細なことだったかもしれない。過ごしてきた日々の中に大きな変化はなかったかもしれない。それでもあの子は少しずつ変わっていったのよ。ずっと傍にいたあなたには気がつかなかったかもしれないでしょうけど、あなたたちが秘封倶楽部として過ごしてきた時間は、他のなににも代えがたいものだったのよ。あの子はあなたといる時間をなによりも大切にしていたはず。それは蓮子ちゃん、あなたも同じでしょう?」
「……っ」
「あなたにとって、あの子は、……マエリベリー・ハーンという女の子は、どんな存在だった? あなたにどんなものを与えてくれた? あなたにとって……秘封倶楽部は、どんなものだった?」
声が届いたのと同時に、ふと歩みが止まった。赤信号だった。前時代の遺産だったが、“とおりゃんせ”が聴けなくなるのはもったいないという市民の声により、街中にはまだいくつかがほったらかしにされたままになっている。通る車も絶滅寸前で、本来の意味なんてとっくに潰えているのに、それでもなお信号機は歌を唄い続けていた。なんだか意地を張っているみたいだと思った。俺の意味はなくなっちゃいないぞと、そう世界に向けて叫んでいるように聞こえたのだ。
なに言ってんだいばっかだなぁ。車もないのに、どうして信号機が勤まるんだい?
そいつはお互い様じゃあないか。たった一人で、なぁにが、秘封、倶楽部だ。
違う。
ひとりだとか、ふたりだとか、関係ない。
私にとって、秘封倶楽部は……
終わってなんかいない。終わらせたくない。いやだ。なくなってしまうのはいやだ。せっかく創ったのに。メリーと一緒に、創ったのに。部員が増えなくたっていい、大した活動が出来なくてもいい、ただ、これから一緒に仲良くやっていこうねって、それだけだった。突き詰めてしまえば、私は他の世界のことなんてどうでもよくて、ただ夢の世界を無邪気に駆け回る彼女を見ていられればそれで十分で。私に興味があると言ってくれた彼女に惹かれていた。メリーのこと、もっと知りたいと思った。学部も学科も、互いのスケジュールもなかなか揃わない私たちでも、秘封倶楽部さえあれば繋がっていた。それが在る限り私たちは離れ離れになったりしないんだって、ただただ、盲信していた。
ただの口約束サークルなんかじゃ、決してなかった。
簡単に壊れていいものではなかった。誰かに、何かに、蔑ろにされてはいけなかった。
メリーは、死んではいけなかったのだ。
「ダメ、だったのに」
「………」
「なくなっちゃいけなかったのに、どうしてなんでしょうね。気がついたら空っぽで、なんにも残ってなくって。秘封倶楽部で何かを築いたわけじゃない。何かを残せたわけでもない。そういうことをするサークルじゃ、なかったから。……想い出も、あってないようなもので。どんどん薄れていくのがわかるんです。思い出すと辛いから、だからたぶん、しあわせだった想い出から消えていくんだと思います。便利ですね、人間って。私が思っていた以上に、よく出来てます」
溶けるように、融けるように消えていく。私の中からメリーがすっかり消えてなくなるのはいつになるだろうか。そこを埋め合わせるためのなにかは、見つかるのだろうか。胸の中は真っ白で、今ならどんな色にだって染まれそう。黒になれ、紅になれ、塗り変わってしまえ、なにもかも。
「小泉さんが、私に立ち直れって、そう言うつもりなら、私明日からそうしますよ。メリーのいない世界で、どれだけやれるか頑張ってみます」
彼女の方へ向けた顔は、上手いこと笑えていたと思う。紫のひとみに映り込んだ私の顔は、自分でも惚れ惚れするくらいに素敵な笑顔だった。
だから、そんな笑顔に対して、当然彼女も微笑みを返してくれるものだとばかり私は思っていた。それがいいわねって、そう言ってくれるものだとばかり思っていた。
なのに、彼女は――
「ねぇ、蓮子ちゃん」
「なんですか」
「犯人が憎い?」
笑顔のままで、私は凍りついた。
喉が締め付けられたようになって、息が詰まるのを感じた。
「メリーを殺した犯人のこと、どう思う?」
私はその言葉に答えられなかった。血の気が引いて、貧血を起こして倒れてしまいそうだった。そんな私を見て彼女は、意を決したように眼の色を変えて、こう言った。
「もし、あなたの目の前に犯人がいたとして。あなたのその手に、ナイフが握られていたとしたら。……あなたはそのナイフを、犯人に突き立てるかしら」
「ええ、もちろん」
気がつけば信号は青に変わっていた。とおりゃんせが聞こえてこないのでわからなかった。あの信号機、壊れていたのか。
「そうだ、蓮子ちゃん、この先に美味しい洋菓子屋さんがあるのよ。合成卵未使用の、本物志向。よかったら一緒に行ってみない?」
「いいですね、行ってみましょうか」
その後彼女と一緒にお茶をして、それからさらに街をぶらついてから、夕方になって彼女と別れた。なんでも急ぎの用事が入ってしまったらしくて、すぐにでも駆けつけなければならないそうだ。その頃にはすっかり打ち解けていて、会話もごく自然なものになっていた。
電車に乗って帰り、自分のアパートについた時にはすでに六時を回っていた。私は家に着くなり、部屋の電気よりも先にパソコンの電源を入れて、ホームページに設定してあったインターネットの検索サイトに齧りついた。ゆっくりとキーを打つ。検索結果からページを辿っていくと、私の求めていたものはすぐに見つかった。
お金はあった。いつかメリーと遠くへ旅行に行こうと思って少しずつ貯めていたお金だ。使い道がなくなって、すっかり意味をなくしてしまっていたけれど、思わぬところで軍資金へと生まれ変わった。カタログの中から、いっとう鋭そうなものを選んで、かごに入れた。
何の変哲もない、国内産カスタムナイフ。
メリーを殺したナイフ。
私は、とても穏やかな気持ちで、注文ボタンをクリックした。