□星のナイフ 第二話



 お葬式の席でメリーを見た。メリーは棺の中にいて、静かに眼を閉じて、一寸も動かなかった。綺麗だ。単純にそう感じた。透き通るような白い肌に、金色の髪は、私の記憶の中のメリーのものと少しも違ってなんかいなくって……けれども私の脳みそは、それがメリーであるとはどうしても認識できなかった。メリーの遺体は実は見つかっていなくって、そこに入っているのはメリーそっくりに作られた間に合わせの人形なんじゃないか、って。
 だから私には、この式がどうしても“ごっこ”にしか思えなくて、周りのみんながさめざめと涙を流している中で、泣けない私だけがひどく浮き立っているように思えた。実感がない。自分がここにいることが、ひどく場違いであるように思う。メリーのために、とメリーのお父さんは言ってくれたけれど、でも、あれって、人形だったじゃない……私、嘘のメリーのためには、泣けないよ。
 棺の中に入っていたのは、メリーじゃない。……だったら、いったい誰が、なにがメリーだと言うんだろう。その答えは案外すぐに見つかった。葬式の後日、出棺されたメリー人形が帰ってきた時のことだ。その時のメリーは小さな白木の箱に納められていて、なんだかずいぶんとちっぽけなものになってしまったなぁと私は思ったけれど、どうしてだかそっちの方が、これはメリーだよと言われてもしっくりくるような気がした。メリーのお母さんが、赤ん坊に触れるようにして、そっと箱を抱きかかえていた。きっと小さい頃のメリーもあんなふうに大事にされていたんだろうな。なんとなく、そんなことを考えた。


「――いらっしゃい」


 初七日の席の帰り、日も暮れてずいぶん遅い時間になった頃、私は通い慣れた喫茶店のドアを叩いた。閉店を知らせる札が掛かっていたけれど、気にはしなかった。ノックをして、すぐ。おじさんはまるで私の来店がわかっていたかのようにそこに立っていた。
「なにか飲むかい?」
「……いえ、いらないです」
「そう」
 とりあえず座りなさい、と進められるがままに、私はカウンター席に腰を下ろした。カウンターの脇には、おじさんが落として壊してしまったラジオがそのままの形で置かれていて、俺はここにいるぞと静かに存在を主張していた。
「お疲れ様。色々立て続けに起こって、疲れたろう?」
「そんなこと、ないです」
「疲れてるさ。心も身体も、きっと悲鳴をあげてる。君はほんとうはここに立ち寄らないで、真っ直ぐ家に帰って身体を休めるべきなんだ」
 招き入れておいてその言い方はないだろうとも思ったけれど、おじさんの眼は真っ直ぐ私を向いていて、その眼に圧されてしまって反論する気にはなれなかった。この年になって人に叱られるなんて。けれど決して、悪い気はしない。おじさんの言葉は、静かにただ静かに、鼓膜を通じて全身に染みていった。
「……しばらくしたら、帰りますよ」
「そうしなさい。これ以上夜も遅くなったら、また――」
 そこまで言いかけて、不意におじさんが口を閉ざす。それからすぐに「すまない」と言い返した。口癖、なんだろうか。変なの。
「そんなこと、もう気にしてませんから」
「………」
「あんまり深く考えないようにしました。死にたくなるんで」
 正確に言えば、深く考えられなかった。実感がない。自覚がない。メリーがいなくなってしまった後も世界は当たり前のように回り続けて、私は当たり前のように今日を生きている。メリーがいなくなって、いったいなにが変わってしまったと言うんだろう。私にとってあれほど大切だったメリーが、いなくなってしまったんだぞ? なにか大きな、とてつもなく大きな変化があったっていいじゃないか。メリーの家族が悲しんでいることや、ニュース番組が例の事件のことばかりになってしまったことは、私にとってあまり重要なことではなかった。なにも胸を打つものがなかった。たぶん、心が空っぽのままなのが一番の原因なんだろう。なにも響かない。どんな声も言葉も、全部するりと通り抜けてしまって、何一つ残りはしなかった。
 こんなことおじさんに言ったら、いったいどんな反応をするだろう。怒るのかな。それとも悲しむのかな。想像はつかなかった。おじさん、と喉を震わせかけて、やめた。私は押し黙ったまま席を立ち、身体が覚えていた、何日か前と全く同じ動作で踵を返した。
「もう帰るのかい?」
「早く帰れって、言ったくせに」
「はは、そりゃそうだ」
 頬を掻きながらおじさんが笑う。
「またね、宇佐見くん。いつでもおいで」
 おじさんの声は、やっぱり数日前と変わっていなくて。やっぱり、メリーがいなくたって、この世界はなんにも変わらずくるくる回っていた。メリーはこの世界にとって大して重要な歯車じゃなかった。メリーなんかいなくたって、お日様は昇るし、星空も浮かぶ。お月様もあった。昨日、眼を閉ざしたくなるほどいっとう強く輝いているのを、この眼にしたばかりだった。

 宇佐見蓮子は、ここにいるよ、と教えてくれた。
 ここはメリーのいない世界だよ。ここがお前の居場所だよ。

 知ってるよ、そんなこと。大きなお世話だ。

 お店を出れば、今日もまたあの腹立たしい月が空には浮かんでいるんだろう。間違っても眼にしないように、私は顔を俯かせたまま、お店の扉を潜ろうとした。そんな私におじさんが再三声をかけた。
「そういえば、宇佐見くん」
「なんですか?」

「帽子はどうしたんだい? ほら、いつも被っていた――」

 

 

 事件から、もう二ヶ月近くが経っていた。私の姿は、墓前にあった。メリーの本名は“マエリベリー・ハーン”なんて外国風な名前をしているけれど、メリーのお骨はごくごくありふれた霊園の、日本式のお墓の中に納められている。墓石には、小泉家、と彫ってあった。過去何世代にも渡るハーン家のご先祖様が、そこにみーんな眠っているらしい。もしかすると、メリーの実家は由緒正しい家柄なのかもしれない。家名がいつ、小泉からハーンへと変わったのかは私にはわからない。わかっても仕方がない。けれど、マエリベリー・コイズミなメリーにも、ちょっとだけ興味があった。
「元気、してる?」
 霊園に他の人影はなかった。平日の昼間だったし、お墓参りの時期も外れていたから、いないのが当たり前なんだけれど、それでも私にとっては都合がよかった。堂々とお墓に向かって声をかけても、周りの人に変な目で見られないですむから。
「私は元気じゃないよメリー。もうほんと、大変なことばっかり。大学に行ってもあなたの話で持ちっきりで、私に会う人みんながね、私にこう言うの。宇佐見さんかわいそう。辛くはないの宇佐見さん。宇佐見さんは、ハーンさんと仲が良かったんでしょう?」
 お葬式がすんで、心も身体もげんなりしていたけれど、それでも学校には行かなくちゃと思って重い足を引き摺って行ったら、そこで待っていたのは耳をつんざくような質問責めの嵐だった。とかくセンセーショナルな出来事だったからこの事件を知らないなんて人は大学にいなくて、その中でも特にメリーと親しくしていた私が、無理矢理話題の矢面に立たされたというわけだ。友人たちはこぞって「可哀想」と言った。そんなに親しくなかったはずの人にさえ「頑張れよ」と言われた。どこの誰がリークしたのか知らないが、報道関係の人に待ち伏せされていたこともあった。「今のお気持ち、どうですか?」向けられたマイクに舌打ちだけを残して、私は小走りで逃げ出した。
 げんなりはうんざりに変わっていた。世間は私に、気持ちの整理、というものをつける時間さえ与えてくれないらしい。腹立たしくて、苛々してたまらなくなって、ここ数日は誰にあっても目を合わせず、口もきかないようにしていた。宇佐見さんは冷たくなった。誰かがそう言っているのが聴こえた。冷たくなったわけじゃないよ、あんたたちが煩いだけ。
 うるさいんだよ。

 ほんとう、余計なお世話だ……


「秘封倶楽部、なくなっちゃったね」
 知らない人が、大そう残念そうに言っていた。


「ねぇ、メリー。私たちのサークル、なくなったと思う?」
 メリーは答えない。そりゃ、死人に口はないから、答えられるはずなんてないけれど、それでもただ一言だけ、言い返してほしかった。そんなわけないじゃないって、言ってほしかった。そんなわけないよ蓮子、まだ続いてるよ、お花見に行こうよ。頭の中にメリーの声が蘇る。なのにそれはひどく薄っぺらくて、乾燥していて、嘘くさかった。
 籍はあるんだ。秘封倶楽部、部員二名。メリーと一緒に大学の事務に届けを出したのをちゃんと憶えてる。まぁ、最低五名は必要なところを無理矢理押し通した感じだから、きちんと受理されているかどうかは怪しいけれど。でも、確かに、創った。メリーと二人で。部室がなくったって、部員がたった二人だって、あるんだ。あったはずなんだ!
 ……なのに、どうしてか、今では少しずつ少しずつ、信じられなくなっていた。秘封倶楽部はほんとうにあったのかな。もしかしたら、私が一人で勝手に騒ぎ立てて、メリーは渋々付き合っててくれただけなんじゃないのかな……。考えると背筋が凍りつきそうになった。メリーがいない今となってはもう確かめようもない。だから、恐い。あったのか、なかったのか、境界が曖昧になる。ついこの間まで、私にとって当たり前だったものが、手を伸ばせばいつだって触れられたものが、どこにもない。
 メリーがいない。
 どこにもいない。

 五月の風が吹いた。吹きさらしの頭が、ひどく寒かった。

「なくなってはいないんだ、きっと。……けどね、ごめんね、メリー。私なくしちゃった。メリーから貰った帽子、なくしちゃったよ……」
 ひゅうひゅうと髪の毛の風に靡く感触なんて、いったいいつ以来だろう。単なる微風でさえこんなにも冷たいものだなんて全然知らなかった。もうずいぶん暖かくなってきたはずなのに。皐月の空を巡る風は、心地よくなければいけないはずなのに、これじゃあまるで木枯らしじゃないか。
「ごめんなさい、メリー……探しても、いくら探しても、見つけられなかったの。誰かに持って行かれちゃったんだ。すぐに追いかけるべきだったんだけど……足がちっとも、動かなかった」
 今の私を見て……こんな不甲斐ない私を見て、メリーはいったいなんて言うだろう。「あんなに大事にしていたくせに、ずいぶんあっさりなくすのね」って、皮肉の一つでも口にするのだろうか。その通りだねメリー。私ったらずいぶん、ずいぶん簡単になくしちゃったよ。帽子を、平穏を、なによりあなたを、あっと言う間になくしちゃったよ、メリー。
 ほんとうに、あっさりと。蝋燭の風に吹かれて消えたように、春牡丹のころりと落ちるように、あっけなかった。私がアパートで花見の約束に浮かれていた間に、メリーはどこの誰ともわからない相手に殺されていた。私の手の届かない、……この眼に映らないところで、またメリーは勝手に、遠いところへといってしまったのだ。もう二度と帰ってはこない。私たちは今までいくつもの境界を越えてはきたけれど、その中には越えられない、超えてはいけない境界も確かにあった。私たちにはどうしようもない世界がたくさんあった。一と〇の境界。空と宙の境界。実と虚の境界。人間と妖怪の境界。

 ――――そして、生と死の、境界。

 私には超えられなかった。……うぅん、超えようと思えばいつでも超えられる。首を吊るなり、手首を切るなり、片道切符にはいろんな種類があった。迷っている……のかもしれない。どれを買うべきなのか、それとも何も買わないのが一番なのか。意志薄弱な今の私じゃあ、どれだけ悩んだっていっとうの答えは出せないのだろうけれど、でもそういう選択肢もあるんだということは、いつだって頭の片隅に浮かんでいる。

 覚悟は出来ていた。
 あとは、自分の中で答えさえ見つかれば、いつだってよかった。

 メリーはもういない――そんなわけないって、まだ心のどこかで信じてる。信じてる。この瞬間にも、あの声が耳を打つんじゃないか、あの柔らかい手で触れてくれるんじゃないか、あの優しい笑顔が目の前いっぱいに広がるんじゃないかって、ただひたすらに、信じてる。
 けれど世界は、世間は、そんな私の願いや望みを真っ向から否定した。「いい加減に現実を受け止めなさい」その言葉の前では、私の意志なんてとてもちっぽけなものだった。今だってそうだ。今だって、今すぐにだって、私の中に生き残った最後のメリーが息絶えてしまうかもしれない。それを殺すのは他ならぬ私だ。私の心だ。認めたく、ないんだ……ほら、よく言うじゃない。人は二度死ぬんだよって。一度目は肉体の死で、二度目は精神の死。この世に生きるみんなから忘れられてしまったその時に、人はほんとうに死んでしまう。なるほど、それじゃあ、メリーはまだ生きているってことでいいのかな。みんなの中で、私の中でずっと生きていくのかな。よかったね、メリー。でもね、私はちっとも嬉しくないんだよ。それじゃあイヤなんだよ、メリー、満足できないよ。声を聴きたいんだ。手を繋ぎたいんだ。傍にいたいんだ。近くて遠いのは、ごめんだ。

 ――メリーを、返せ。

 呟いたって、ないものはないと、誰かが言う。その証拠まで私につきつけて、反論の余地さえ与えてくれそうにない。石に刻まれたMaribelの文字は意外にも違和感が少なくて、それは死亡届だとか、警察の公式発表だとか、そんなものよりもずっとずっと強くメリーの死を知らしめていた。お前のたいせつなひとはもういないぞと、じっと語りかけてくるようでもあった。もう、いないよ、けれどここにいるよ、お前のすぐ足元だよ、掘り返さなくて、いいのかい?
 ――……あぁ、もちろん、したいさ。今すぐお墓を蹴倒して、中にあるお骨を攫っていってしまいたい。きっとそれは私にとって、どんな大金よりも価値があって、どんな宝石よりも美しいものに違いない。いっとう綺麗な白木の箱に入れて、枕元にそっと置いておこう。朝起きたらおはようって言って、寝るときはおやすみなさいって言おう。それだけで、きっと私はもう存分すぎるほどにしあわせになれる。世界がもう一度輝いて見えるに違いない。そうだ、メリーはまだ生きているんだ。ここにいるじゃないか。なにも答えてくれないけれど、もう優しい笑顔を見せてはくれないけれど、もう私と一緒にサークル活動をしてくれないけれど……! だけど! それでも! ここにいる!!


「そうでしょう、メリー?」


 メリーがいない。どこにも、ほんとうに、いない。わけがわからなくなって、どうしようもなく痛くて熱いものが身体の深いところから込み上げてきて、眼から、口から、鼻から、わっと溢れてしまいそうになって。

 けれど、……

 “メリー”の前じゃ、泣けないよ。

 

 

「どちら様……ですか?」

 

 

 とても、とても優しい声がしたので振り返ってみると、そこにいたのはメリーだった。飾り気の少ない薄紫のワンピースが春風に靡いて、その風に乗って微かに漂ってくる匂いも、記憶の中のそれと少しも違っていなかった。手に持っているトートバッグからは花束が顔を覗かせている。お墓に供えるためのお花だろう。どうしてメリーが、とも思ったけれど、考えてみればここはメリーのお墓なんだから、それも当たり前のことだと思った。
 思うしかなかった。
「遅刻よ、メリー」
「え……?」
「遅刻だってば。派手にやってくれたじゃない。これだけ待たされた私の身にもなってよ」
 いつからそこにいたのだろう。メリーは私の顔を見るなりひどく驚いたふうな表情をしてみせて、それはまるで、私を私と認識していないかのようで。……私だよ、メリー。宇佐見蓮子だよ、ど忘れしちゃったの?
 訊いてみようかと思ったところで、けれどメリーに先を取られてしまった。
 メリーはあのやわらかいアルトの声で、こう、言った。
「メリー……あぁ、マエリベリーは私の、……妹ですよ? それに約束って、――」
「ばか言わないでよメリー……私ずっと待ってたんだよ? ずっとずっと待ってたんだよ?! どうしてなにも言ってくれないのよ! 来れないなら来れないって、一言連絡してくれたって良かったでしょ! メリーのばか! 私がどれだけ寂しい思いをしたかだなんて、ちっとも考えてないんでしょ?!」
 メリーの声、……なのに、どうしてかとても、遠い。お互いに、まるで別のものと向き合っているみたい。私の精一杯の言葉も的を外れているようで、少しもメリーには届いていないようだった。これじゃあなんだか、一人で声を荒げている私だけがばかみたいじゃないか。ねぇ、メリー、メリー、答えてよ応えてよ。そうでないと、私は、あなたを……
「だから、私は、」
「私はなに?! 約束なんてしてないって言うつもり?! そんなのって、あんまりだよメリー……。私楽しみにしてたんだよ。メリーとお花見に行くの、ずぅっと待ってたんだよ……なのに、それなのに! 待ち合わせに来ないで! 連絡もしてくれなくて! 誰にも、どこにも、わからないまま、勝手にいなくなって! 今までだってそうだったじゃない! 夢の世界とか、ゲンソウキョウとか、わけのわからないところに一人で行って、みんなに迷惑かけて心配かけてそんなことがあってもメリーあなたなんにも反省してないじゃない変わってないじゃない全然少しも私のことなんかメリーは考えてくれてないんだ! メリーが居ない間私がどんな気持ちでいるか、知ってる? メリーのいない秘封倶楽部がどんなに退屈で、つまらなくて、空っぽか知ってる? 私なんかいなくてもって、メリー、そう思ってるんでしょう。それは違うよメリー。メリーがいないと、私たちの倶楽部は、なんにも意味がないんだよ……? ないんだよ、メリーがいないと、なくなっちゃうんだよ。それでね、メリー、今にもなくなりそうなんだよ。あんなに楽しかったのに、あんなにしあわせだったのに、サークル、なくなっちゃうよ……メリーがいないから。マエリベリー・ハーンがいないから、全部なくなっちゃう。なんにも残らない。だってメリー、なんにも残してくれなかったし、メリーがくれたものも私、なくしちゃったし、だから、もう、ないんだ。なにもない。わけわかんない。信じてるのに、信じるものは救われなくちゃいけないのに、信じれば信じるほど、虚しくなるのはなんでなのよ、メリー……」

 あなたを殺してしまうかもしれないよ、メリー……
 私の、この胸の中で、
 “メリー”が終わってしまうよ……!

 ……なのに、そこにいるメリーは、私の言葉に答えてはくれなかった。ただじっと押し黙ったまま、その深い紫色のひとみで、静かに私を見据えていた。一点の揺らぎもない強い強い光がそこに在った。見ているだけで吸い込まれてしまいそうな、深淵から届くような、一条の光。あの眼がいったいなにを映し、あの光がなにを照らし出すのかを私はよく知っている。メリーの魅せてくれた世界は、いつだってあの眼が、切り拓いてきたのだから。
 あぁメリーだ。……そこにいるのは、紛れもないメリーだ。セミロングだったはずの金の髪は腰に届くぐらいまで伸びていたけれど、メリーだ。いつもよりちょっとだけ背が高く見えるけれど、メリーだ。落ち着いた物腰は普段のメリーよりずっと年上の人に思えたけれど、メリーだ。
 この人は、メリーだ。
 ほんとうのメリーだ。
 メリーだ。
 メ、
「私は、メリーでは、ありませんよ」
 声は鈴の音のように透き通っていて、わずかな濁りもないままに、私の耳に染みて入った。それがとんでもない寒気を背筋に走らせて、思わずがたがたと震えだした奥歯を、私は噛み潰すようにして押さえ込んだ。腹の底から飛び出してきそうな言葉があった。けれどそれは、間違ってもメリーに向けてはいけないあまりにも汚い言葉で、どうしても口にするわけにはいけないと、がむしゃらにそう思っていたんだ。
「メリーではありません。……妹に似ているとはよく他人に言われますが……私に面影を重ねるのは、やめてくれませんか」
 意味がわからないよ、それ。冗談にしてはあんまりにもつまらないよメリー。面影ってなによ。あなたのその顔も髪も眼も声もメリーそのものじゃない。メリーなんでしょう? メリーなんだよね? メリーに違いない。
 違いない。
「おかしなこと言わないでよメリー、どこからどう見たって、あなたは」
「メリーじゃない。……お願い、妹のことを口にするのは、もうやめて」
「――ッ」
 それでもなお、メリーが私にかける言葉に変わりはなくて。だんだんと、だんだんと、心が軋む。絞られて、そのまま捻じ切られてしまいそうになる。
 メリーの姿が、少しだけかすんで見えた。
 その途端に、彼女がもう、メリーに見えなく、
「やめてよ……」
「………」
「うそ言わないでよ、これ以上私を失望させないで……やめて、やめてよ! ……メリーじゃないなら、あなた、誰なのよ……」
 その時の私は、いったいどんな眼をしていたんだろうか。私の眼を真っ直ぐに見据えていたメリーの視線が、ふっと横に逸れた。その視線の先にはメリーのお墓がある。苦々しげな表情でその墓碑を見つめている。メリーがメリーのお墓を、メリーは死んでいて、お骨になって納められていて、それなのにメリーは私の目の前にいて。あろうことか、自分はメリーじゃないって強情に言い張って、私を傷つけて、いくらでもいくらでも、冷たいナイフで突き刺して。
 その態度がひどく許せなかった。わけもなく、ただただ苛立たしくて、私はメリーに掴みかかって喚き叫んだ。声は言葉にならなかった。意味のない怒声を張り上げても、けれどメリーにはなにも伝わらない、届かない。その小さな肩にしがみ付いて、唇の触れそうなほどに顔を寄せて、メリーと、その名前を呼んだ。罵声はいつしか嗚咽に変わっていた。紫のひとみに映り込んだ私の顔はくしゃくしゃの泣き顔で、後から後から止め処なく押し寄せてくる情感の波に、私はもうすっかり溺れてしまっていた。正体不明の恐怖に呑まれて、このまま溺死してしまうんだと思った。

 いやだよ。
 メリーが、こんなに近いのに。
 それなのに!

 

 

 

「――――誰、なのよぉっ……」

 

 

 

 そこにいるのが誰かだなんて、知ってるよ。
 わかってるよ、なにもかも。
 全部ぜんぶ、受け止めきったつもりだよ。

 ……そんなわけなかった。
 ずっと逃げて、逃げて逃げて逃げ続けてきて、
 けれどとうとう、追いつかれて。
 弱くてちっぽけな私は、これからたぶん、押し潰されて死んでしまうんだろうと思った。
 “この人”に。

「小泉八雲と申します。……旧名は、パトリシア・ハーン」
「――ぁ、」
「あなたのこと、妹から……メリーから、よく聞いてるわ。蓮子ちゃんでしょう? 大学で一緒にサークル活動をしているっていう、」

 ぱりんと、割れる音がした。
 薄氷の張った水溜りを踏み潰した時の、あの音。
 そんなふうにして、くしゃりと、

 私の中のメリーが、壊れた。
 死んでしまった。

「――――いやだ」
「蓮子、ちゃん……?」
「いやだ。……いやだっ、いやだイヤだ嫌だあぁぁッ!」

 死んだんだって。マエリベリー・ハーンは、メリーは、死んでしまったんだって。それどころか殺されたんだってさ。乱暴されそうになったところで、どうにか逃げ出せたと思ったのに、追いつかれて、ナイフで刺されて、終わっちゃったんだって。痛かったのかな。苦しかったのかな。恐かったのかな。怖かったのかな。その中のひとつでも私が代わってあげられなかったのかな。私がその場にいたなら、メリーを助けられたのかな。それとも私も一緒にやられてしまったのだろうか。それはそれで、悪くはないかもしれない。一人ぼっちにならないのなら、それでもいい。秘封倶楽部が続けられるのなら、いいよ、それで。……でも、そうじゃなかった。私は生きているのだ。メリーのいない今日を生きている。そして、それは明日も、明後日も、これから先来る未来のそのずぅっと先まで続いているのだ。秘封倶楽部は、廃部だ。人がいないんだもの、仕方ないよ。仕方ない。運がなかったんだよ。私も、メリーも、ほんとうついてないだけだったんだ。だからメリーは殺されてしまったし、私は帽子を失くしてしまったし、秘封倶楽部は解散することになってしまった。仕方がない。しょうがない。魔法の言葉だった。どんなに都合の悪いことにも理由をつけられる、幻想ではないとびきりの魔法。神様が私のような頭の悪い人間にも救いを施せるよう与えてくださった、魔法の呪文。

 そんなもの、いらないよ。
 だから返してよ。
 私から奪ったものを、返してよ。
 返して!!

 

 

 

 

 

 

 


「返して! 返してよ! メリーを!! 私のメリーを返せええええええええ!!!」

 

 

 

 

 

 

 


 ▽


 次の日から私は、自分のアパートに引き篭もるようになっていた。学校に行く気力は少しも沸いてこなかった。そこにメリーはいない。登校しているわけがない。それは学校だけじゃなくて、この世界のどこを指しても言えることだった。メリーがいない。どこにもいない。世界が突然、無色で味気ない、とてもつまらないもののように見えてきてならなかった。あれほど輝いていて見えていたものすべてがくすんでしまって、私の眼には薄汚い色合いばかりが映り込む。とても目にしてなんかいられなくて、そんなものを視るくらいなら、部屋に閉じ篭っている方がずっとずっと気持ちが楽だった。外には、いろんなものがあったから。メリーと視たものに、メリーと過ごした場所は当たり前のようにそこに残っていて、そのどれもが色褪せてしまっていることに、とても耐えられそうになかったんだ。
 ベッドの上に身を投げ出して、一日中天井を眺めたり、カーテンの柄を凝視したり、内容のよくわからないテレビ番組を見たりして茫然と時間を浪費していった。昼も夜もなかった。私の時間は止まったままで、けれど世の中はごく普通の時を刻み続けて。枕元に置かれたデジタル時計だけが私に正常な時間を教えてくれた。部屋に篭ってからというもの、私は空を見上げていない。窓に掛けられたカーテンを開け放てばそれで済むことだが、どうしてだか気乗りがしなかった。日課のようにやっていたことをぷつりとやめてしまった途端に、今度は再開する理由が見当たらなくなってしまったのだ。
 針の音もない、静かな部屋。テレビなんてあってないようなものに等しいけれど、それでも残念ながら、定時のニュースがあのことを話題にあげる度に自然と意識を向けてしまう自分がいて、それがわけもなく胸を締め付けた。

 ――女子大生刺殺事件から二ヶ月が経った今もなお、犯人の手掛かりは掴めていない。

 気の良くなるニュースなどでは断じてなかった。

 ……気が良くならない、と言えば、学校の知人たちのこともそうだ。私が学校に行かなくなってから一週間ほどが経ったころ、キャンパスでも仲の良かった友人たちが私のアパートに大勢で押しかけてきて、蓮子、蓮子と大声を上げながらドアをばんばん叩いてきた。鍵の掛かっているノブを乱暴に捻ってあけようともしてきた。その時に感じたひどい恐怖は、私の胸の内にこびりついて拭いきれずにある。誰かに、他人に、この穏やかな時間を踏み躙られそうになったことに、正直気が狂いそうだった。メリーのいない世界で、どうにか私が私でいられそうな最後の場所さえ壊されてしまうのかと思うと、本気で、おかしくなりそうで。
 部屋の隅に身を寄せて、毛布を被って私は震えていた。外にいる連中は、かれこれ一時間近くも私の名前を叫び続けていた。蓮子いるんでしょう出てきなさいよ蓮子ちゃんわたしたちあなたのことを心配して来たのよ宇佐見さん辛いのはわかるけれどいつまでも塞ぎ込んでいたらだめだよ宇佐美くん蓮子ちゃん宇佐見蓮子さぁはやくこのドアを開け、
「うるさいな」
 呟いた声は、自分でも驚くほどに冷たい響きをしていた。私が声を発した途端に、彼らの呼びかけもふっと止まった。声、聞こえちゃったかな、でも別に今さら悪い印象を持たれたってどうでもいい。どうせもう顔を付き合わせることもない人たちだ、どうだって、いいよ。
 けれど私の予想は外れていた。彼らに代わって、また別の怒鳴り声が空気を震わせた。アパートの大家さんのものだった。ほんとうに友達なら今はそっとしておいてあげなさいと、しわがれた、けれど確かな重みのある声が彼らを諫めていた。ほんとうの友達、だって。大家さんそれは違うよ。友達なんて、もう、いないんだよ。

 ほんとうの友達がいないから、こうして部屋に篭っているんじゃない。
 ほんとうに大切な人がいなくなってしまったから、私は、……

 翌日から誰も尋ねてこなくなった。部屋は静寂を取り戻して、私のこころにも僅かながら平穏が戻ってきた。それでも、またいつあのドアが叩かれるともわからない。私が今身を寄せているこの世界だって、いつ終わってしまうともわからない。つい最近、私は世の中がとても上手く回っている反面、ちょっとしたことですぐに壊れてしまうんだということに気がついたばかりだった。ナイフの一突きで、ドアの一叩きで、声の一言で、脆く崩れる。砂になる。

 ――――部屋から出なくなって、三週間経ったある日。
 部屋のドアがまた無粋な音を立てたので、私は今度こそはと機先を制して、「帰れ!」と、声を張り上げた。もう誰もなにも私の邪魔をしないでほしい。ゆっくり過ごさせてよ。お願いだからこれ以上私を失望させないで。……絶望、させないで。
 でも、ドアの向こうの“彼女”は、少しだって動じない。ノックを繰り返した。あの、優しいアルトの声で、私の名前を呼んだ。
「そこにいるんでしょう、蓮子ちゃん」
 ……やめてよ。
 やめて。
 その声で、私の名前を呼ばないで。
 決して大きな声じゃないのに、その声は確かに、他のどんな人が言った「蓮子」よりも強く激しく、胸を打った。
「あなたが大学に行ってないって、聞いたから。まだぐずぐずしてるんだとは思ってたけど、……ひどいのね、ほんとうに。いつまでそこにいるつもり? そこにいて、なにかが変わるのかしら。そのままだと、あなた、死んじゃうわよ」
 余計なお世話だと声を出そうと思ったけれど、思うように口が動かなかった。思えばここ最近まともな会話をほとんど交わしていなかったから、次にどんな言葉を言えばいいのか、きっと忘れてしまったんだと思った。
 そんな私の不調に彼女も感づいているのだろうが、けれどそんなことはお構いなしに、彼女は発言を続けた。ドア一枚隔てた向こう側にいても、その存在の大きなことがよくわかる。気圧されていた。あるいは、……怖かった。
 対峙することが怖い。
 声を聞くたび、顔を見るたび。メリーはもういないという現実を、突きつけられているようで。
「みんなあなたのことを心配しているわ。あなたが思っている以上にね。だからもうそんなところで縮こまっているのはやめなさい。表に出て、フツウの生活に戻りなさい」
「………」
「ないものは、ない。いない人は、もういない。それを受け止めきれないほど、あなた子供じゃないでしょう」
 そんなわけない。私は子供だ。ちっぽけで、とても弱いものだ。だからあんたに“メリー”を視たんじゃないか……今だって、視てしまいそうになってるんじゃないか! 誰の! 誰のせいで! 私だって好きでこんなところにいるわけじゃないよ! 嫌だよ! 暗いのは、冷たいのは、一人ぼっちなのは嫌だよ! それでもどうしても世界がこわい! 一歩踏み出した途端に崩れてしまうんじゃないか。奈落の果てまで落っこちてしまうんじゃないか。メリーと見た景色が、メリーと過ごした場所が、まだまだこの町にはたくさんあって、目にした途端に、思い出ごとぼろぼろと朽ち果ててしまいそうで……。ただただ、こわくて。
 全部ね、……メリーが悪いんだよ。
 メリーさえいなければ。
 お前さえ、いなければ!!
「帰ってよ」
「蓮子ちゃん……」
「帰ってください……、お願いだから、帰って」
 ようやく声が出せた。掠れて、震えて、今にも霧散してしまいそうだけれど、でもそこには私の精一杯が込められている。飾らない、私の本心だった。
 あなただけには会いたくないと、それが全てだった。

 なのに。

 

 


「……サークル活動しましょう、蓮子ちゃん。秘封倶楽部がどんなものか、興味があるの」

 

 

 いっとう優しい声が、耳に触れた。
 大好きな、大好きな声。

 メリーがほんとうに帰ってきたんだと、そう思ってドアを開いてしまった自分が、
 ……とても、とても哀しかった。




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