□星のナイフ 第一話
星を見れば、時間がわかり。
月を見れば、場所がわかる。
だから、お月様が、「ここにいてもいいよ」って言ってくれたのならそこは、私が未来永劫いるべき場所なのかもしれないって、思った。
秘封倶楽部を創った時、メリーに、隣にいてもいいかって、訊いた時、
メリーは、いいよって、言ってくれたんだ。
「またにやけてる」
「そう? フツウにしてるつもりなんだけどなぁ」
「なにか良い事でもあったの? 今日のあなた、ばかみたいにしあわせそうよ」
何言ってるんだよ、メリー。
しあわせに決まってるじゃないか。
「しあわせだよ、メリー、私は。自分が世界で一番しあわせかも知れないって、そう思うくらい」
「ずいぶんな自信ねぇ」
「自信っていうか確信よ。毎日楽しくて仕方がないんだもの。この世の春よ、メリー。ついでに私の人生も。今ならどんなものでも、いっとう輝いて見えるわ!」
「眼にお星様でも入れてきた?」
「そんなの、ずっと前から入ってる」
輝いて見えた。
なんでも。
メリーの紫色のひとみに映り込む、私の表情は満面の笑顔だった。うん、我ながら素敵な笑顔。そうして、それを見てやわらかく微笑むメリーの顔も、いつもと変わらず可愛らしかった。私はその笑顔が好きだった。大好きだった。もし、私が男の子だったら、きっとこの瞬間に恋に落ちてしまっていたに違いない。……うぅん、もっと前から、かな。ずっと前。ずぅっと前。出逢った時から私の眼には、お月様みたいにきらめくあなたしか映っていないのよ、メリー。
――なんて言ったって、メリーはきっと鼻で笑うんだろう。おかしな蓮子って言って、笑い飛ばしてしまうに違いない。だから言わない。伝えない。この気持ちは胸の内に大事にしまいこんで、そっと温め続けておくことにする。いつの日か伝えられる日が来るのだろうか。別に相思相愛になりたいとか、そういうことを考えているわけではなくて、ただいつか――もしかすると近い将来――秘封倶楽部が終わってしまった時に、ただの“サークル仲間”のままお別れしてしまうのが、いやだった。メリーにとって私がどういう存在なのかはわからないけれど、私にとってのメリーはそれこそかけがえのない、友人以上の何かだったから。親友でもなければ、まして恋人でもない。けれどそれに匹敵するほどの、何か。手放したくない。その手を掴んで離したくない。メリーの隣はいつだって、不思議と、奇妙と、幻想で満ちていた。メリーの魅せてくれる世界を、私は確かに愛していた。
私たちはこの春から三年生になった。そろそろ、将来について真面目に考えなくてはいけない時期だった。院に進むのか、就職するのか、それとも他の何かを目指すのか。これからもっともっと忙しくなって、秘封倶楽部として活動できる時間もどんどん短くなって、それはつまり、メリーと共にいられる時間が減っていくわけで。名残惜しくないわけがない。我侭が通じるなら、もう一度一年生からやり直したいよ。でもそういうわけにもいかないし、なにより私の我侭でメリーを困らせるのはもっと嫌だった。メリーなら、……きっと私の無茶を聞いてくれるだろう。しょうがないわねって、そう言って、私のために自分を投げ出してくれるだろう。そんなのダメだ。どんなに嬉しくたって、楽しくたって、それじゃあダメだ。メリーの傍には、居たいけれど、それはメリーに甘えるためじゃない。同じ時間を、同じような笑顔で過ごしたい。そのためにどちらかが無理をしなくちゃいけないなんて、私はそんなこと望まない。なるものか。しあわせは、秘封倶楽部は、二人で笑いあえてはじめて完成するんだもの。
「ねぇ、メリー」
「なにかしら」
「お花見、楽しみね」
「……えぇ、とっても」
たぶんその時の私は、焦っていたんだと、思う。季節が移ろいで、いろんなことが変わっていって、それに取り残されてしまいそうな自分に、それをのらりくらりとやり過ごしているメリーに、焦っていたんだ。だから私は両腕をいっぱいに伸ばして、手近に散らばっていて掻き集められそうな“しあわせ”をがむしゃらに寄せ集めていた。そんなもの後からいくらでも拾えたはずなのに、どういうわけか執心して離れられなかった。そうやって掻き集めたしあわせの塵をひとまとめにして、私はそれと引き換えにメリーとお花見にいく約束を結んだ。なんだか滑稽な話。けれど、私にとっては大切な話。なにをそんなに必死になっているんだい? そんなもの、これからいくらだって訪れるのに。うん、そうだと思う。思うけれどそれでも私は、今すぐ、しあわせになりたかった。
いつだって、そうしてきたんだもの。
今だって、そうするよ。
「神社の桜って言ってたわよね。なんだかそれだけで綺麗に思えてくるわ」
「でしょう? 去年見つけてから、ずっと眼を付けてたのよねぇ」
「蓮子の審美眼に期待しておくわ。来週、楽しみにしてる」
いま、この瞬間、笑えているならそれでいいよ。
楽しければそれでいい。いつまでも続く至福なんてありえないってわかってるから、だから私は、それよりもっと短い幸福をいくつもいくつも繋げていこう。一瞬を一秒に、一秒を一分に、一分を一時間に、一時間を一日に、一日を……たくさん、たくさん。
星を視れば時間がわかる。
今まで紡いできたしあわせの、どれだけ永いかを教えてくれる。
月を視れば居場所がわかる。
これからもしあわせを紡がせてくれる場所の、すぐ傍にあることを教えてくれる。
欲張りでわがままな私は、世界中の誰よりも、しあわせになりたかった。
日常だった。
毎日楽しくて、満ち足りていて、しあわせだった。
いつまでも続いていくものだと、信じて疑わなかった。
けれどそれは、電気の使い過ぎでブレーカーの落ちてしまったように。
今まであんまりにもしあわせが過ぎたから、だから、しあわせのぷつりと途絶えた後の世界は、どこまでも、どこまでも、真っ暗だった。
星は絶えて、
月は、奪われて、
もう私の眼には、なにもない世界ばかりしか、映らない。
<1>
メリーの両親から、葬儀が終わった後の宴会には出て行くよう勧められたけれど、私はそれを丁重に断って、早々に家路につくことにした。誰かと一緒にいたい気分ではなかったし、まして大勢での宴会なんて、きっとすぐに気分を悪くしてしまうだろうと思ったから。俯いて、何も答えられずにいる私を見て、メリーのお母さんは「じゃあね、蓮子ちゃん」と微笑みながら言ってくれた。その気遣いが、正直とてもありがたかった。
私は深く一礼してから、踵を返して、のっぺりと暗い夜の町へと歩を進めた。斎場を振り返ることはなかった。未練なんて、なかった。はじめからない。そもそも、どうしてお葬式なんかが開かれているのかが、理解できていなかった。なんだか不思議な気分だった。どうして自分が、ここに? 私はいったいどこにいるんだろうと、それが気になって空を見上げたけれど、鉛色の雲が一面を覆う空にはどこにもお月様の姿は見えなかった。そりゃそうだ。私のお月様は、もう、ないんだもの。見えるはずなんて、ありはしないのだ。
春の夜は、まだ少しだけ肌寒い。鳥肌のたつ二の腕をぎゅうっと抱き締め、喪服の袖を引き絞りながら、私は駅へと急いだ。辺りには外灯も少なくて、足元もおぼつかないような暗闇だったけれど、それでも目の前には繁華街の煌びやかなネオンが見えてきていたから、あと少しの辛抱だと思って一心に歩いた。暗くて、寒くて、こわい。こんなところに一秒だっていたくない。私は途中から早足に駆け出して、宅地を抜けてビル街に飛び出した頃にはもうすっかり走り出していた。ここまでくれば、駅まではもうすぐだ!
なにか得体の知れないものが後ろから迫ってきているような気がした。あるいは、身体の内側から込み上げてくるようでもあった。眼の奥底めがけて、じんと熱い塊がすぐそこまで迫ってきていて、熱くて、痛くて、たまらない。私は歯を食い縛り、それが目玉ごと飛び出してしまわないようじっと堪えながら、駅まで一直線に続く最後の通りをがむしゃらに駆けた。ぐにゃぐにゃに歪んだ視界にはいろんなものが飛び込んできた。人影だったり、街路樹だったりした。どすんばすんと、あちこちに身体や鞄をぶつけた。怒声に罵りが私の背中に突き刺さったけれど、抜いている暇なんてありはしない。足を止めた瞬間に、私の中で、なにかが張り裂けて、二度と元通りにはならないだろうって、そんな気がしていた。
走る。走れ。あと少しで駅に着く。着いたら、そうしたら、どうなるっていうんだ。そこに辿り着けば安心できるの? このわけのわからない衝動が収まるの? ――あぁ違うんだそうじゃないんだ。私は確か、とても大切な約束があって、それを守るために駅に向かっているんだ。他のどんな約束よりもいっとうだったじゃないか。なにがあっても遵守したい、私の一番の望みだったじゃないか。私ったらばかだなぁ。そんな大切なこと、すっかり忘れていただなんて。
ぐっと力を込めて、どこまでも飛んでいってしまいそうな身体にブレーキをかける。
おそるおそる開いた視界の先には、小さなベンチがひとつ、ぽつんと在った。
「……メリー……」
桜を、見に行こう。
必ず見に行こう。
鉛のように重い足も、自然と動き出していた。外灯の光に薄ぼんやりと浮かび上がるベンチの影は、スポットライトに当てられているようでもあり、早くここに座りなよと、私にそう囁きかけているようにも思えた。言われるがままに腰を下ろす。冷たい金属の感触が、すぅっと背筋を這い上がっていった。
目の前には、さっきまで無心で駆け抜けてきた街の光が、ぎらぎらと輝いて明滅している。もう夜もすっかり遅いのにその勢いは収まるところを知らないようで、街を行く人の流れもずっと絶えることはなかった。終電も近いのだろう、駅に向かって来る人の姿も決して少なくはなかったけれど、誰も彼も私を気にとめる人はいなかった。気付いていないのかもしれない。見えていないのかもしれない。それでもいい。今は世界で一人ぼっちでも、待ち人がくれば、私だって眩しいくらいに輝けるんだから。
そうだよ、そう。私はここで待ち合わせをしていなくちゃいけないはずだったのに、……なんでお葬式なんかに出てたのかなぁ、私。いったい、どこの、誰の? そもそもほんとうにお葬式だったっけ。この半日の記憶が不鮮明で、自分がなにをしていたのかが上手く思い出せなかった。ぼんやりと思い浮かぶのは、誰かがさめざめと泣いていた、その消え入りそうな声だけだった。
その声も今や、雑踏と喧騒に呑まれて聴こえない。私自身もまた、町のさざめきに呑まれて消え失せてしまいそうだと思った。自分が不確かになる。ほんとうにここにいるのか、わからなくなる。なんとなく見つめた手のひらはまだしっかりとした形を持っていたけれど、それもこの瞬間に、透けてなくなってしまうんじゃないかって、不安に思った。私はここにいるよ、メリー。早く来てよ。もうすぐ待ち合わせの時間だよ。私に気付いていないの、メリー? ここにいるよここにいる。だから、メリー……あなたは今どこにいるの?
――その時、ざぁ、と冷たい風が吹き荒んで私の帽子を攫っていった。長い間大切にしてきた黒のつば付き帽はアスファルトの上をてんてんと転がっていって、ずいぶん離れたところの植え込みに引っ掛かってようやく止まった。まいったなぁ、と思わず声が漏れる。長年の相棒を追わないわけにはいかない。やおらベンチから腰をあげると、凍りついていた膝のぱきりと軋む音がした。
あれはサークルを結成したその日に、お祝いだと言ってメリーがプレゼントしてくれたものだった。きっと似合うよと笑いながら、私の頭にぐいぐい押し付けてきたのをよく憶えている。はじめのうちこそ慣れなかったものの、三日もするとすっかり馴染んでしまって、まるで私の身体の一部になってしまったかのように思えてきたのにはひどくびっくりした。メリーの目利きは確かだった。以来私は、どこへ出掛けるにも必ずメリーのくれた帽子を被っていくようになった。大学へ行く時も、ちょっと買い物に出掛ける時も。もちろん、サークル活動の時だって。
私が帽子を被っていくと、たまにメリーは恥ずかしそうな声でこう言った。それ、まだ使ってるの? って。プレゼントをあげた方が後から恥ずかしくなってくるというのはよくある話だけれど、メリーもどうやらその中の一人らしい。私があんまりに肌身離さないものだから、もう気になって気になって仕方がないみたいだった。そんなメリーがおかしくて、私は声をあげて笑った。ずっと使わせてもらうよと言った。その言葉をどう受け取ったのかはわからないけれど、メリーは拗ねた顔をしてそっぽを向いて、ばかね、と照れ臭そうに呟いた。
大切な帽子だった。
ほんとうにほんとうに、大事にしていた。
「あっ……」
立ち上がり、一歩を踏み出そうとした時。どこからともなく姿を現した一人の男が私の帽子に近寄って、……手に取った。どきりとした。まさか。男は二、三度辺りを見回して、もう一度帽子に目を落として、――品定めでもしているかのようにじっと見て、それから、それから……
「うそ」
それから、これは自分の落とした帽子です、とでも言いたげな態度で、あろうことか私の帽子を持ち去って行ってしまった。男の姿が駅舎に消えていく。私はその光景を前にして、茫然と、立ち尽くすばかりだった。どうしよう、早く追いかけないといけない、取り返さないといけない、わかっているのに足が進まない。進んではいけないと、そう訴えるのは私の心だった。自分の気持ちなのに矛盾している。意味がわからない。帽子を、“メリー”を、取り戻さないと……けれどあの男を追って私がこの場を離れている間に、“メリー”が来たらどうしよう……
メリーを取り返したい私と、
メリーを待ち続けたい私と。
腕時計を見ると、二時の五分前だった。もうすぐメリーが来る頃だ。今あの男を追っていったら確実に入れ違ってしまう。今日こそメリーより早く待ち合わせ場所にいようって、私はそう強く思っていた。その意志は自分でも簡単には曲げたくない。……捨てたくない。
帽子は大切なものだ、取り返したい。けれどここでメリーを待ち続けることも、私にとっては同じくらい重要なことで。行ってしまうメリーと、これから来るメリー、どちらかを選べと迫られた時、私は……ここに残る方を選んだ。帽子のことはメリーが来た時に謝ろう。素直に頭を下げればメリーだって悪い顔はしないはず。そうだ、せっかくだから新しい帽子を選んでもらってもいいかもしれない。そうしよう。うん、そうしよう……良い方へ、良い方へ、自分を無理矢理にでも突き動かそう。
私はベンチに腰を戻して息を吐いた。吐いたはずなのに、胸はずしりと重くなった。夜の空気は冷たくて、鋭い。帽子をなくした頭の上を凍えた風が撫でていく。さっきの突風よりずっと穏やかなくせに、それよりも何倍も肌寒く感じられた。身震いせずにはいられなくって、私は両腕を抱えて丸くなった。それでもやっぱり寒さが紛れるはずもなく、私は早く待ち人が来てくれないかと、祈るような気持ちで胸をいっぱいにして震えていた。
しばらくすると、小雨が降ってきた。
耳たぶに触れたひやりとした感触にどきりとして私は跳ね上がった。ぐんと仰け反った身体が天を仰ぐ。鈍色の厚い雨雲が視界いっぱいに広がっていて、月も、星も、ぜんぶ覆い隠されていた。場所も時間もわからない。けれど大丈夫。ここは駅前で間違いないし、今日は腕時計をしてきたから時間もばっちりだ。
それでもやっぱり、曇った空が好きになれないことには変わらないけれど。雨も雪も嫌いだ。私の居場所をわからなくして、私という存在を曖昧にしてしまう気がするから。メリーに言わせればそれは夢の世界への旅路の第一歩なのだろうけれど、あいにく私には夢遊病の経験は一度たりとてなかった。それはメリーの専売特許。私はそれをカウンセリングしてあげるだけ。……うぅん、そんな偉そうなものでもないかな。少なくとも私はメリーに対してカウンセリングを行っているという自覚はあまりない。メリーとお喋りしているだけ。メリーの語って聞かせてくれる――あるいは連れて行ってくれる――世界を、楽しんでいるだけ。
今日だってメリーと倶楽部活動をするつもりだった。神社に綺麗な桜の咲いているところを見つけたから、一緒にお花見をしようって、私がそう提案した。駅のベンチに、二時。だから私はここにいる。ここにいればメリーに会える。確実に会える。絶対に会える。会えるはず。逢えないなんて、ありえない。
「遅いなぁ、メリー」
お昼の二時だっけ……真夜中の、二時だっけ。どっちにしても、どちらとも過ぎてしまえばおんなじことかなぁ。また深い息をひとつついてから、私は空に送っていた視線を腕時計に戻した。約束の時間をすでに84時間と12分も過ぎている。遅いよ、メリー。私が遅刻した時はいつも文句を言うくせに。84時間と12分だよ、メリー。これで今までの遅刻の分はおあいこになったよね?
それにしてもいったいどこをほっつき歩いてるんだろう、それともまだ家で寝ているのかな? ……けれどいくら電話をかけてもメリーが出ることはなかった。何回、何十回、何百回とコールした。自宅にも携帯にも出てくれなかった。メールだってどれだけ送ったかわからないのに、開いてさえもらえていないのか返信はない。それらを何度か試しているうちにとうとう私の携帯の電池が切れてしまって、これから先、いつ、どこから連絡をいれようともきっとメリーは応えてくれないんだなぁって、私はその時になってようやく悟った。
だから私に残された最後の手段は、駅前のこのベンチでただ待ち続けることだけだった。待ち合わせの約束は確かに交わしたんだ、メリーが私に何も言わずに約束を反故にするなんてあるわけない。だから待っている。ずぅっと、待っている。指先が凍りつき、全身が熱を失っても、待ち続ける。
この瞬間にメリーが来るかもしれない。
そのちっぽけな希望の炎ばかり、胸の奥に抱えていた。
メリーが来ない。ここに来ない。来るわけない。
だってメリーは、もう――
それまで振っていた雨が、突然車軸を流したような土砂降りになった。
世界が途端に、真っ暗になった。
お葬式はメリーのためのものだった。
▽
待ち合わせの時間を一時間過ぎたところで、私はキレた。なによメリーのやつ私にはさんざん遅れるなって言っておきながら自分は大遅刻するなんて! 憤慨した私は乱暴に携帯電話を取り出してメリーにコールした。あんのやろう、今週の土日は暇してるって言ってたくせに。寝坊でもしたのかな。それとも、まさか、ダブルブッキング? もし後ろの方だったらどうしよう……電話をした途端にそんな心配が込み上げてきて、なんだか胸の奥がざわついた。メリーに限って、まさか。
……思えば、メリーがここまで待ち合わせに来なかったことなんてはじめてのことだった。そうでなくても、予定がふいになった時にはちゃんと連絡してくれた。理由もなしにメリーが約束を反故にするなんて私には考えられなくって、私は手にした携帯を潰さんとばかりに握り締めて祈った。出てよ、メリー。コールに応えて! けれど、五回、十回と呼び出し音が鳴っても反応はなく、十五回目を数えたところで留守番電話に切り替わってしまった。発信音の後にメッセージを、の機械音声を聞き終わる前に私は携帯を閉じた。なにかうすら寒いものが、首筋を撫でていった。
それからも私は、ふとした折にメリーがひょっこり現われてはくれないかとそればかりを願いながらじっと待ち続けていたけれど、太陽がすっかり傾いて夕陽になった頃になっても結局メリーが来ることはなかった。ごぉん、と五時を知らせる鐘が駅前の広場に響き渡る。私はその音を聞いてやおら腰をあげた。きっと……なにか、どうしても都合の悪いことがメリーの身にあったんだ。自分には、そう言い聞かせることにした。
そのまま電車にのって真っ直ぐ家に帰っても良かったんだけれど、私の足取りは駅舎の方ではなくて、その近くにある、あの喫茶店の方へと向かっていった。メリーと少なくない時間を共にした、あの喫茶店だ。もしかしたら、あるいは。そんな僅かな希望を抱えて、私は小走りに駆けていく。店の看板はすぐに目に付いた。OPENの札が掛けられていることを確かめてから、私は半ば殴りこむような勢いで扉を開け放った。
「――いらっしゃ「メリーは? いる?!」
お店の中には、おじさん以外の人影はなかった。お客さんがいなくて、ちょっとだけ安心した。これでいくらでも声を張り上げられると思ったからだ。
おじさんは目を丸くして私を見つめていて、なにがなんだかわからないと、そんな視線を送っていた。対して私はと言えば、このがなり声だ。自分では意識していないのだけれど、相当きつい物言いになっていたらしい。とりあえず座りなさいと、おじさんが静かな声でそう言った。
「なにがあったんだい、宇佐見くん」
「メリーが来ないの……すぐそこで待ち合わせしてたのに……おじさん、ここにメリー、来なかった……?」
言うと、おじさんはちょっとだけ困ったような顔をしてみせた。その反応だけでなにもかもわかってしまったけれど、おじさんは確認するようにして、こう言った。
「いいや。今日は居るから店を開けていたけれど、……ハーンくんは来てないよ」
「……そう、ですか」
「今日は確か、お花見に行く予定だったんだろう?」
「………」
胸の辺りがぎゅっと絞られたようになって、苦しくて、私は言葉を返せなかった。メリー、ほんとうにどこにいるんだろう……。検討がまるで付かなくなってしまって、それまでの不安が一気に何倍にも膨れ上がって、胸が、心臓が、ずきりと痛い。
なにか持ってきてあげるよとそう言って、おじさんは店の奥へと引っ込んでいった。おじさんがいなくなった途端に、自分がなんだかとても小さいもののように思えてきた。このままどんどん小さく小さくなっていって、ついにはそのまま消えてしまいそうだとも。冗談じゃない。メリーに会うまで……会って、その笑顔を確かめるまで、消えたりなんかしてやるものか。
けれども、頭の中に渦巻く黒い影は決して消え去ってはくれなくて。なにか不吉な予感がさっきから思考の片隅で蠢いていて、考えないように、意識しないように頑張ってはみるものの、どうしても無視できなかった。だから私は、せめてこの不快な気分だけでも紛らわせないものかと辺りを見渡して、そうしてカウンターの隅に置いてあった古ぼけたラジオを見つけた。ずいぶんとレトロなデザインだ。まだ動いて、受信できるんだろうか。電源と思しきボタンを押すと、スピーカーからはぞろぞろとノイズが溢れてきた。いくらかチューニングしていると、やがてそれも人の声に変わった。思った以上に鮮明な音質だ。はきはきとした喋り方はリスナーではなくアナウンサーのもので、どうやら夕方のニュース番組を流しているようだった。
「いいラジオだろう?」
ふと声がした。おじさんのものだ。それと一緒に、暖かい珈琲の香りが鼻をくすぐった。記憶によく刻み込まれた、あの優しい匂いだ。
「リペアーして、もう何十年も使ってる。今時そんな旧いラジオなんて流行らないけどね、私のお気に入りなんだ」
おじさんは微笑みながらそう言った。まいったな、そんなに大切なものに勝手に触ってよかったんだろうか。けれどおじさんは、使ってもらうためにそこに置いてあるんだと、屈託なく笑ってみせた。
ラジオは淡々と語る。アナウンサーの肉声も、私にはなんだか機械の合成音声のように聴こえていた。まるで人間味を感じない、嘘らしい、冷たいもののように思えた。だから語られるニュースも、もしかすると全部嘘物なんじゃないかって。誰かの作り話なんだ。全部。そういうことにしてしまえば、そういうことにすることが、自分の耳の不調を疑うよりも、よほど楽だと思った。
その冷たい声が、やっぱり淡々と、語った。
それは一人の女性が、今朝殺されているのが見つかったらしい、ニュースだった。
『今日未明K府K市で女性の他殺体が見つかった事件で、被害者の身元がK大学に通う学生であると確認されました。被害者は――』
がちゃん、と音がした。おじさんがカップを床に落とした音だった。けれどもおじさんは零した珈琲を片付けようともせず、ただじっと立ち尽くしたまま、ラジオを見つめるばかりだった。話題はすでに他の事件のものに切り替わっていた。それでも視線は動かなかった。その顔は鳩が豆鉄砲をくらったような、それとも飼い犬に手を噛まれたかのような、奇妙な顔で。長年自分が大切にしてきたラジオが、まさかこんなことを吐き出したなんてことが、きっと信じられないでいるんだろう。それは私も同じ気持ちだった。おじさんのラジオが、語っただなんて、信じたくない。もしこのラジオがおじさんの持ち物でなかったなら、私は全力でもってこいつをスクラップにしていただろう。
頭の中にふっとメリーの顔が浮かんできた。その表情は笑顔だった。けれど、どこで見た笑顔だったか、思い出せなかった。それがたまらなくもどかしい。いつ、どこで? 星はどこだ。月はどこだ。わからないじゃないか。なんにも、わからないよ。私が答えを見つけられないでいる間に、そのメリーの顔は不意に消えてしまった。もう、思い出せなかった。途端に全身が、空っぽになっていくのを感じた。胸にぽっかりと穴の空いてしまったようで、乾いた空気とラジオの声が、その穴をすぅと通り抜けていく。
『所持していた身分証明書から被害者はK大学三年のマエリベリー・ハーンさんであると判り、警察では遺族に確認を取ると共に――』
二分か、三分か、凍りついた間があってから、おじさんは飛びつくようにしてラジオの電源を切った。けれど勢いありすぎたのかそのまま薙ぎ払うかのような格好になってしまって、ラジオは床の上に投げ出され、派手な音を打ち鳴らして転がった。スピーカーが破れ、角がへこんでいる。内側もダメになってしまったんじゃないだろうか。彼に罪はないのにね。おかしいよね。けれど私も、立ち上がって、その残骸にトドメの蹴りを喰らわしてやりたい気持ちでいっぱいだった。
「……すまない」
おじさんが呟く。誰に謝った声なのか、わからなかった。
「すまない。ほんとうに、すまない」
「……気にしないでください」
「………」
それきり会話は絶えてしまった。鉛のように重苦しい沈黙が立ち込める。なにか口にしなければとは思うけれど、どんな言葉も決して喉より上には上がってこなかった。何度も、何度も、私は声になれなかった息を飲み込んだ。その度に肺腑が、ぐっと押し潰されて、汚いものを吐き出しそうになって。
けれどその静寂も決して長く続いたわけではなかった。空気の読めない、突然の電子音が鳴り響いたのだ。それは私の携帯の着信音だった。さっきはうんともすんとも言わなかったくせに、と思うと同時に、なんだか助け舟を差し向けられたような気分にもなって……
でも、携帯の画面に表示された相手を見て、私は硬直せざるを得なかった。凍りついた、と言ってもいい。携帯を持つ手が、かじかんで震えているようにも思えたから。
「……出ないのかい?」
おじさんはそうは言うけれど、私は正直、戸惑っていた。一体全体どうして、この瞬間……メリーの携帯から電話なんてかかってくるんだろう、と。相手は誰? メリー? メリーなの? そこにいるの?
……そんなことあるはずなんてないって、わかってる。さっき知ってしまったばかりのことだもの、忘れられるわけ、ないよ。けれど確かめなくちゃいけない。この電話を見逃したら、きっと私はとても後悔するだろうと思った。通話ボタンに触れる。核爆弾の発射スイッチでも持たされたみたい。これを押したら大変なことになるぞ。もう取り返しがつかなくなるぞ。どうでもいいよそんなことばかばかしいメリーのためなら人が百人死んだって百万人死んだって構うもんか! メリー! メリー! そこにいるんでしょう?!
メリーさんの電話。けれど、ちょっと違う。私はむしろメリーの居場所が知りたくて、知りたくて、たまらなくて。
十一回目のコールでボタンを押して、そっと耳にあてがった。すぐ隣で、おじさんはぐっと息を殺している。電話からはしばらくの間応答がなかったけれど、やがて、やっと一滴搾り出したような、かすかな声が鼓膜を揺すった。
それだけのことで、私の最後の期待は、音を立てて崩れ落ちた。
『……蓮子、ちゃん、でしょう?』
掠れて、しわがれた、今にも死んでしまいそうな声は、メリーのものじゃなかった。メリーのそれよりもずっと年老いた人の声だ。けれど私はその声に確かな聞き覚えがあった。蓮子ちゃん、と私を呼ぶその人は……あぁ、……
『うちのメリー、そっちにいるかしら……蓮子ちゃんと一緒に、お花見してるんでしょう?』
「……いいえ。待ち合わせてたんですけど、来てくれませんでした」
『……うそ』
「こんなこと、嘘ついたって、……」
う゛、と嗚咽の零れる声がして、次いで携帯からはがしゃんとどこかにぶつけられたような音が聴こえてきた。それに合わせて誰かの慟哭がはじまった。絹を裂いたような、ヒステリックな悲鳴。とても聞いてなんかいられなかった。あの人が――あんなに優しかった、メリーのお母さんが、こんな痛々しい声をあげるなんて、私には……
思わず、携帯から耳を引き剥がそうとして、
けれどまた別の、今度はひどく落ち着き払った声が、耳を打った。
『蓮子ちゃん、私だ、メリーの父だ』
「……どうも」
『突然電話して、ほんとうすまない。……メリーのこと、もう知っているかい?』
「さっき、ラジオのニュースで」
でも、知りたくなかった。そう付け加えようとして、やめた。ちらりと窺ったおじさんの顔の、苦悶に歪むのを見てまで、そんなこと言えるはずがなかった。
「ほんとうのこと、なんですよね? ほんとうにメリーが……?」
『……間違いないんだ。間違いであってほしかった。けれど、間違いじゃ、なかった』
希望は過去形で。絶望は、現在進行形で。受話器の向こうの、彼の顔色が眼に浮かぶようだった。平静を装ってみせているけれど、その声の小さく震えていることに気付けないほど私は鈍感じゃない。彼だってまた、理由の見当たらない事実に打ち震えていた。どうして自分たちにこんな不幸がと、嘆いていた。間違いなかったんだ。彼がもう一度繰り返した。じゃあ、間違えたのは、いったい誰?
誰だよ。
誰なんだよぉっ!!
メリーのお父さんは、それから長い時間をかけて、自分と、自分の家族に起きたことを、ひとつひとつ私に言って聞かせてくれた。メリーが昨日の夜からずっと帰っていなくて、はじめのうちは私の所に泊まっているんだろうと思っていたこと。朝に事件の速報を見たときには、娘が巻き込まれているだなんて思いにもよらなかったこと。お昼過ぎに警察から電話がかかってきて、警察署に呼ばれ、そこで事件の被害者が自分たちの娘であることを確認したこと。その後しばらくして、警察から返されたいくつかの遺留品の中に携帯電話があったこと。そこには私の着信履歴があったこと。最後の、最期の望みをかけて、私に電話してきて……裏切られた、こと。
『明日には、通夜式だ。……どうしても外せない用事がなければ、どうか、メリーのために、来てほしい』
その言葉に私は、わかりましたとだけ小さく呟いて答えた。自分でもびっくりするほど乾いた声音だったけれど、今の自分の声帯じゃ、どう頑張ったってこんな声しか出せそうになかった。喉は嗄れていた。涙さえ流さないうちに、嗄れてしまった。
それから一言二言挨拶を交わして、そうして通話は途切れた。終わり方は実にあっさりとしていて、どんな後味も残らなかった。胸に空いてしまった空白は、結局この電話でさえ埋まることはなかった。いまだぽっかりとそこに空き続けて、ひゅうひゅうと風の通り道になっている。そこになにが詰まっていたのか、もう、思い出せそうにもない。
携帯電話を畳んで、シャツのポケットに突っ込むと、私はそっと席を立った。それまで押し黙っていたおじさんが、そこでようやく口を開いた。帰るのかい? その声に私は答えなかった。ただ何も言わずに踵を返して、お店のドアを開いた。
「またね、宇佐見くん」
ドアの閉まりきる直前に、おじさんは最後にそんな言葉を投げかけていった。
またね、だって。次におじさんと会うのは、いったいいつになるだろう。そう思った矢先に、そう言えばメリーは死んでしまったんだから、近いうちにお葬式が開かれることになるということに思い至った。おじさんも来るに違いない。さっきの「またね」は、きっとその時に会おう、ということなんだ。
その一言が、とても哀しくて、たまらなかった。やめてよ、おじさん。おじさんまで私を騙したりしないでよ。みんなみんな、意地が悪いよ。メリーが、死んだなんて、いないなんて、そんなことあるわけ、ないじゃない。
きっとみんなして私をからかっているんだ。メリーも、メリーの両親も、おじさんも、警察も、テレビも、みんなして私を騙してからかっているに違いない。嘘物だ。全部ぜんぶ作り話なんだ。なんて意地悪なメリー。私をいじめてそんなに楽しいの? それって、桜を見に行く約束を破ってまでやらなきゃいけないの? 答えてよメリー。あなたの声を聞かせてよ。そう思って、私はもう一度携帯電話に手を伸ばした。もしかしたらこの瞬間にも、メリーは電話を握り締めて、私が泣き言を告げてくるのを今か今かと待ち構えているかもしれない。向こう側でほくそ笑んでいるのかもしれない。それとも、このすぐ近くに居て、うな垂れる私を見て、悦に浸っているのかも。考えると途端に苛々してきた。やめた。メリーの思い通りになんかなるものか。
伸ばしかけた手を握りこぶしに変えて、私は猛然と駆け出した。なんて嫌味なやつ! 次に会ったらただじゃすまさない! メリー、いつまで隠れているつもり? そんなに私を困らせてなにが楽しい! ちくしょう! メリーのばか! しんじゃえ!
ばかなのは私だった。
さっき、もう死んでるんだって、聞かされたばっかりなのに。
喫茶店を出た後から先の記憶はぷっつりと途切れていて、私の記憶はそこから一気に、間借りしている自分のアパートにまで飛んだ。どこをどうやって家に帰ったのか。途中でどこかに寄ったのかそうでないのか。なんにも思い出せなかったけれど、でも、どうせ憶えていても仕方がないくらいにどうでもいい記憶だったんだろう。今日は疲れた。わけのわからないことが一片に押し寄せてきて、きっと脳みそがパンクしてしまったんだ。だから、いらないことは憶えていない。それでいい。人間の頭は、都合よくできているものなのだ。
それでも、記憶にない間の私は相当な無茶をやっていたらしくて、脚なんかぱんぱんで、痛くて引き攣りそうだった。明日は筋肉痛になること間違いなし、だ。立っているのも辛くて、私は服も着替えないでそのままベッドに倒れこんだ。平たい布団が私を受け止める。何故だか、ぞっとするほど冷たい。
「……ばか」
ばか。ばか。メリーのばか。こんな嫌な気分になったのなんて、はじめてよ……。裏切られた。そう思った。勝手に約束を破るメリーなんて嫌い。勝手に、遠くへいってしまうメリーなんて、大っ嫌い。
じっとしていると、鬱屈とした気持ちに身体が沈んでしまいそうでたまらない。このままいくと死にたい気持ちになってくるだろう。冗談じゃない。メリーをぶっ飛ばすまでは死ぬわけにはいかないんだ。半分自棄になって跳ね起きて、テレビを点けて、冷蔵庫を漁った。ろくなものは入っていなかったけれど、缶チューハイが数本転がっていたのは運が良かった。つまみがないのが寂しいな、なんてぼやきながらテレビの前に戻ると、ちょうど、あの事件についての特集が眼に飛び込んできた。
帰宅途中のところを襲われた。服には乱暴されたような跡があって、おそらく犯人と揉み合いになった時のものだと思われる。その後、犯人に背中を向ける機会があり――おそらくは逃げ出そうとした時――その際に、犯人に追いつかれてしまい、背中から、ナイフで。誰にでも簡単に手に入る、小さなナイフで、思い切り、
――――見たくない。
いやだよ、やめてよ、……やめて、やめてよ! 見たくない視たくない聞きたくない聴きたくない知りたくない識りたくない触れたくない狂れたくないわからないわからないわかりたくなんてないよ! 助けて! 誰か助けて! テレビを止めて! もう私になにも知らせないで! メリー、近くにいるんでしょう! 今すぐここに来てよ! どこにいるんだよぉ! メリー……!!
事件の日の一日は、そんなふうにして、過ぎていった。