□RingRingRing□


 是非曲直庁への採用が決まった時には、それはもう目を丸くして驚いたものである。なにせ相手は地獄の最高府、輪廻転生を執り仕切る魂の番人だ。そんな権威ある組織に、自分のような凡下が選ばれるなんてなにかの間違いではないかと思ったが、しかし応募を送ったのは他ならぬ自分であるし、採用通知の届いたことは事実なのだ。ならば腹をくくって、胸を張っているのがいちばんだろう。そう決意した私は、思い立ったが吉日とばかりに故郷の地を飛び出していた。

「今日からあなたの担当を務めさせていただく、ヤマの四季映姫です。小野塚小町、と言いましたか。是非曲直庁へようこそ。あなたの活躍に期待していますよ」

 やる気ばかりを胸いっぱいに詰め込んで訪れてきた私を出迎えたのは、翡翠色の髪とひとみの美しい女性だった。見るからに華奢な人に見えたが、聞けば地蔵上がりの出世組で、実力で閻魔の地位にまで昇りつめた辣腕だという評判らしい。そんな人が、これから私の上司だなんて。私は改めてこの組織の凄さを思い知ると同時に、ほんとうに自分がこの中でやっていけるのか、一抹の不安を抱えずにはいられなかった。
 それからしばらくして私の是非曲直庁での所属が決まった。役職は船頭死神、此岸と彼岸とを隔てる三途川で、死者に舟を出し川を渡してやるのが主な仕事である。細かい決まりごとはいろいろとあったが、基本的には舟を漕ぎ続けるだけの単純労働だ。頭を使わなくてもいいが、その分肉体の酷使は激しい。泥くさい印象もあるためか、是非曲直庁の中ではあまり人気のある部署ではなかった。
 新人の私がこの仕事に回されたのは、そんな背景があるからなのだろう。ぽっと出の新参者に充てるにはちょうどよい役目なのである。だが、いちいち注文を付けていられる身分でないことは承知の上、与えられた任務はしっかりやり遂げてみせようと、私は意気込んで櫂を手に取った。さほど力仕事に自信があったわけでもない、しかしあの世に訪れてきた者たちが、最初に目にするのは私たち船頭死神の姿なのだ。恥ずかしいところは見せられまい。私たちは黄泉の看板、黄泉の顔。そんなふうに息巻いて、私は賽の河原に声を響かせるのであった。

「さぁ、寄ってらっしゃいお客さん! この船頭小町が、快適な黄泉路をお約束いたしましょう!」
 父のかおも母のかおも、わたしはしりません。ものごころついた時にはひとりぼっちで、それからもずっとひとりで生きてきました。生きるためになにをすればいいかは、はじめから頭のなかに“ちえ”としてそなわっていました。ねずみをとったり、すずめを捕まえたりするやり方。だけどもわたしはぞんがい小さなからだで生まれてきたらしい。手足をのばしても、すんでのところで捕まえられないことばかりで、おなかがいっぱいになる日はほとんどなかったと思います。
 そんな日がつづいて、わたしはすっかり弱っていました。からだがだるくて、力がはいらない。しっぽなんて、もうおもりを引きずっているようなものです。はやくなにかごはんを食べなくてはと、しかしそう思った時でした。目のまえでいっぴきのねずみが、鼻をくんくんならしているではありませんか。きっとこれは神さまがくれたさいごのチャンス。わたしはのこされた全力をふりしぼって、ねずみに爪をふりおろしました。
 転びそうになる時がある。挫けそうになる時がある。だけどそれは仕事中のことではない、一日の雑務を終えて、膨れ上がった重たい腿を引き擦って家路につく時が、私にとっていちばんの気疲れをもたらす瞬間だった。
 田舎から鞄一つで飛んできた私には、是非曲直庁から社屋が手配されることになっていた。地獄通りの長屋の一つ、繁華街からの喧噪がいつも漏れ聞こえてくるような、そんな落ち着かない雰囲気の裏町に私の今の住居がある。九尺二間の住人は、私ひとりだ。決して広くなんてない部屋なのに、それでも夜中にひとりきりでいると、いやに壁や天井が遠くにあるかのような錯覚に囚われた。それは部屋が広くなったというよりは、私がちっぽけになっていくかのような感覚で。そんな時、私はどうしようもなく心細くなって、そしてこんなふうに考えるのだ。ああ、この部屋は私には広すぎるって。誰か一緒に、住んでくれる人がいればいいのに、って。
 仕事に不満があるわけじゃない。船頭の勤めはとてもやりがいのあることだとそう思っている。ただ、時折ふとわからなくなることがあるのだ。自分はなんのために舟を漕いでいるのか、誰のために櫂を握っているのか。死人を導くためだろうって、そんなふうに諭されたいわけじゃない。ただ純粋に、誰かのために――それは例えば、私の帰りを待っていてくれる、愛しい誰かのために、なんて。
 いつしかその気持ちは、私の中でどんどん大きく膨らんでいった。
 同居人が欲しい。
 疲れて帰ってきた私の体を、やさしく受け止めてくれる腕が欲しい。

 そんなささやかな願いを抱いて、いくつかの夜を過ごしたある日。
 彼女は突然、私の前にやってきた。
 だけれどもけっかは、わたしのまけでした。いつもどおり、いやいつも以上にあっさりと、ねずみはまえ足のあいだをするりとぬけて逃げてしまいました。やんぬるかな、もうげんかいだ。わたしはりょう足をなげだして、冷たいじめんの上にころがりました。それから、かなしくなって泣きました。おなかがすいた。あったかい寝どこもほしい。こんなにつらいのなら、猫になんて生まれてくるのではなかった。親をうらんでもどうにもなりませんが、しかしわたしはじぶんをのろいました。小さなからだ、できのわるい足、なにもかもがきらいになりました。
 そんな時です。ふっとからだがかるくなり、宙にうかびあがりました。なにごとかとおどろき、手足をばたばたさせると、まえ足の爪で引っかいてしまったのか、だれかがうめいたような声を出しました。その声にまたしてもおどろいて、わたしはこうちょくします。それは表のとおりにたくさんひしめいている、“やつら”の声だったのです。
 わたしはそのままやつに捕まり、そしてやつの寝どこへと連れさられてしまいました。おそろしい、わたしはきっとこれから食われてしまうのだ。寒さとはちがうふるえが、からだをかけめぐります。ですがきみょうなことに、やつはいっこうにわたしに手を出そうとはしません。味つけにまよっているのだろうか、そんなことを考えていると、ふとわたしのまえにお皿がさしだされました。そこに盛られているもののにおいをかいで、わたしはみたびおどろくはめになりました。こんなにおいしそうなにおい、はじめてだ! わたしはおそるおそるやつのかおを見上げました。そこにあったひょうじょうは、なんともふしぎなものをしていました。人のかおのちがいは、よくわかりません。ですがやつ、いえ、この人のそれは、見ているととてもあたたかい感じがするのです。そこでようやくわたしはりかいしました。この人は、わたしを助けてくれたのだと。おなかいっぱいにごはんを食べさせてくれるのだと。うたがいやえんりょは、ごちそうのまりょくにあっさりとくっぷくしました。もう、がまんのげんかいでしたから。
 ああ、なんてしあわせなのだろう。やはり猫に生まれてよかった。わたしが猫でなければ、きっとごはんはお皿いちまいでは足りなかったでしょうから。
 こういうの、なんというんでしたっけ、“いっしゅくいっぱんのおんぎ”でしたでしょうか。
 猫のみぶんのわたしにも、なにかおんがえしできることは、あるのでしょうか。
 眠れない夜だった。寝苦しいというわけではないが、とにかくさっきから落ち着かない。耳を済ませてみると、なにやら長屋の裏手の方で物音がした。もしや盗人の類いだろうか、にわかに緊張が張り詰めるが、しかしその糸は張った直後にぷつりと切れた。なんてことはない、あんまりに間の抜けた鳴き声が聞こえたものだから、気を削がれてしまったのである。

「にゃあん」

 それは猫の声だった。それもまだずいぶん幼いもののように聞こえる。母親離れしてすぐか、あるいは迷子だろうか。猫なんて路地にはいくらだって暮らしている、それは別段気にするほどのことでもなかったが、しかしいざ寝直そうと思っても、どうしてかさっきの声が耳について離れなかった。にゃあん、と、まるで助けを求めるかのような声。いやいや、猫の言葉なんてわからないから、それが本当にそんな内容だったのかなんて予測もつかないけれど。でも、ひとつだけ確かなことがある。

 あの猫もまた、ひとりぼっちなんだろうな――

 後のことは語るまでもないだろう。私の膝の上では、真っ黒なちびが穏やかに寝息を立てている。
 寂しかったのだ、私は。気を紛らわせるなにかが必要だった。それは猫でもかまわない、いや、猫でなくてはだめだったろう。さすがに四畳半の部屋では、人が二人で暮らすには狭すぎた。
 かくして一人暮らしの寂しさに堪えかねて、私は一匹の猫を飼いはじめることにした。と言っても、長屋の裏でぴいぴい鳴いていたところを拾っただけのことなのだけれど。小さな体で懸命に鼠と格闘している姿がなんとなく自分に重なって、気がつけばおなじ釜の飯を喰らう仲になっていた。黒い毛並みにご飯粒をたくさんくっつけている姿がなんだか間抜けで可愛らしい。それほど夢中になるほど我が家の食卓が気に入ったのか、黒猫はそれ以来うちに居つくようになっていた。ただ飯ぐらいの居候の誕生だ。けれども私は不思議と幸福な気持ちだった。それまでの、ただただ大きな流れに身を任せているだけのような平坦な毎日に、ずいぶんとお茶目な刺激を得ることができたのだから。私は猫に首輪を買い与え、鈴をつけて家族に加えた。りん りん りんと、自慢げに鈴を揺らす彼女に、私はあっという間に夢中になっていった。
 さて恩がえしをはじめましょう、そうは思い立ったはよいものの、わたしはなんだいに頭を抱えていました。というのは、ことばが伝わらない。望みはなにかとたずねても、恩人は小首を傾げて、それからくすくすと笑いだすばかりでした。それもそのはず、私と恩人では、背かっこうも体格も、歩き方さえ違うのです。これだけ違えば、もちろん話すことばも異なるでしょう。恩人はお喋りで、よくわたしにさまざまな話を語ってきかせてくれましたが、くやしいかな、わたしにはなにを話しているのかよくわかりませんでした。
 それでも恩人の顔を見れば、伝えたいことがたのしいことなのかかなしいことなのか、そのぐらいのことは感じとれるようになりました。少しずつ、気持ちをひとつにしてゆくのです。これも一種の、“ぼでぃらんげーじ”でしょうか。あいにくわたしは猫ですので、笑ったり泣いたり、恩人のように顔をくしゃくしゃ変えることはできませんが、なに、あいきょうのある尻尾がございますから、うれしい時にはうれしいと、かなしい時にはかなしいと、ぶんぶん振ってみせればよいのです。気持ちが伝わると、恩人はぱっと笑顔になって、わたしにごはんを作ってくれます。しあわせです。
 そんな日々のなかに、わたしはしだいにじぶんの役割というものを見だしてゆくのでした。恩がえしはいつしか、恩人とすごす日常のひとつに変わっていきました。わたしのしごとは、恩人の出かけているあいだ、家の留守をあずかることです。恩人はいつも決まった時間にしごとにゆきます。そして、日もくれて夜のとばりが降りてくるころに帰ってきます。家についた恩人はひどく疲れているようすでした。なにか力しごとをしているのか、白い手にはいつもまめがたえず、足はかたく張っています。そんなに疲れはてたからだでも、しかし恩人はわたしのごはんだけは欠かさずに用意してくれました。時にはじぶんのごはんを抜いてまで、わたしに食べさせてくれることもあります。これには少し困ってしまいました。どんなに恩をかえそうと思っても、恩人がわたしにそれ以上のほどこしをしては、わたしはいつまでたっても恩人に報いきることができないからです。
 だって、見てください、わたしのこの首を。
 こんなにきれいなものまでいただいて、わたしはいったいどうやって、あの人に報いればよいのですか。
 わたしの首には、鈴が揺れていました。小さいけれど、とても作りがいい。わたしが歩くと、りん りん りんと、とても澄んだ音を鳴らしてみせます。その音が、わたしはすぐに気にいりました。とくいになって駆けまわり、鈴の音を家じゅうに響かせてみせました。となりの住人が、めいわくそうな顔をしてたずねてくるまで、わたしは飛んで跳ねてよろこんでいました。
 うれしかったのです。
 うれしかった。
 あの人の、とくべつになれたような気がした。

 うれしくて、
 そして、重たかった。

 この鈴は、こんなに綺麗で、うつくしくて、わたしもだいすきなはずなのに。
 どうしようもなく、重たかったのです。
「うちの猫が、かわいいんです」

 職場先の上司にも、そんな惚気話を零すことが多くなった。上司は、暇さえあれば猫の話ばかりをする私にうんざりしたような様子だったけれど、しかし一方で「とても明るくなりましたね」とそんな評価を付けてくれたりもした。それはどういうことかと問い詰めると、どうやらそれまで仕事場で皆が私に抱いていた印象は“生真面目で融通のきかないやつ”ということだったらしい。私は、是非曲直庁なんていう大きな組織でつまらない失敗なんてしていられないと必死になっていただけなのだけれど、それがどうやら同職の目には、手の抜き方を知らない阿呆に見えていたらしい。その事実を知って、私はひどく落ち込んだ。すっかり気落ちして返ってきた私を慰めてくれたのは、やはりあの黒猫の鈴の音だった。
 やがて私の心を、その黒猫が占める割合がずうっと大きく膨らんでいった。彼女は私の良き同居人であり、妹であり、相談役だった。小さな背中で家の留守を預かってくれる姿には感謝したし、私の膝の上で寝息をたてる姿には庇護欲を掻き立てられた。私が仕事疲れでぼろぼろになって帰ってきた日には、泣き言や愚痴を黙って聞いてくれた。
「お前は、ほんとうにいいやつだ」
「にゃあ」
「ずっとそばにいるんだぞ。約束してくれるか?」
「にゃあ」
「そうか! そう言ってくれるか!」
 ああ、わかるとも。わかったさ。私には彼女の言葉がわかった。彼女は、「いいよ」と、そう言ってくれたのだ。言葉なんて通じなくたって、心で理解し合えたのだ。胸の底から歓喜の気持ちが溢れ出すのが抑えられなくて、私は彼女の小さな体を抱き寄せて、それからぼろぼろと泣き出した。その日は、船頭の仕事に就いてからはじめて、大きな失敗をしてしまった日だったのだ。上司には大変な迷惑をかけた。これまで私を不器用呼ばわりしていたほかの連中は、ここぞとばかりに陰口を叩いて笑っていたことだろう。惨めで、情けなくて、川に身を投げて消えてしまいたいとさえ思った。けれども、船上で水面をぼうっと眺めていると、思い浮かんでくるのはやはり彼女のことだった。一人残される彼女のことを思うと、死ぬに死ねなかった。思い残すことが、あった。

 私は、彼女に救われたのだ。
 だから今度は、私が彼女を救わなければならない。
 そう思うのって、普通のことでしょう?

 いくらかの時間が経った。季節は何度も何度も移り変わった。あの日以来、私はいっそう懸命に仕事に打ち込んで、どんな些細な失敗も起こさないよう心がけていた。もう惨めな思いをして、打ちひしがれる姿を彼女に見られるのはごめんだ。私の方がずっと体も大きくて力も強いはずなのに、それなのに小さな彼女に助けられてばかりだなんて、なんだか格好がつかないじゃないか。その信念を少し行動に移すだけで、私はそれまで以上に立派な働きぶりをみせることができた。上司も満面の笑みで「優秀な部下がいてくれてよかった」と声をかけてくれる。私はすっかり得意になっていた。どうしてそんなに頑張ることができるのか? 不思議そうに声をかけてくる人に、「うちの猫がかわいいからです」と返すのが、私の決まり文句になっていた。
 そんな愛猫はここのところ、日がな一日寝て過ごすのが日課になっているらしい。私のあげたあの鈴を、りん りん りんと鳴らしながら通りを我が物顔で闊歩している姿も、最近ではあまり見かけないそうだ。とかく彼女はよく眠った。寝る子は育つというわりには、その寝姿はずいぶんと小ぢんまりとして見えた。最近は帰宅した私を出迎えてくれることもめっきり少なくなった。ただ、静かに上下する彼女の背を見て、ああ、そこに居てくれるんだなと安堵した。私は眠る彼女を起こさないよう、そっとその体に触れて毛並みを撫でた。艶もなめらかさもすっかり失われていた。いったいどんな散歩をすれば、こんなふうにぼろぼろの毛になってしまうのだろう。そもそも、彼女はほんとうに、散歩なんてしているのだろうか。
 私は、
 私は私が仕事に行っている間、彼女がどこでなにをしているのかをまったく知らない。もしかしたら近所の猫と壮絶な一騎打ちを果たしているのかもしれないし、それとも私の知らない誰かの家に“愛人”として転がりこんでいるのかも。だけど、そんなことは私にとってどうでもいいことなのだ。私が家を出る時と、返ってくる時。その瞬間に彼女が居合わせてくれるだけで、私は一日の活力を存分に得ることができるし、また一日の疲れのいっさいを洗い流すことができる。それはもう私には欠かすことのできない日常で、平穏だった。ただそこにいてくれるだけでいい。そこで鈴の音を鳴らしてくれるだけでいい。彼女とは約束をしたもの。ずっと私のそばを離れないでくれ、って。
 気がつけば私のひとみは、いつかのように大粒の涙を湛えていた。いけない、いけない、彼女の前で泣いてしまっては。かっこ悪いじゃないか。みっともないじゃないか。私にとって彼女が自慢の家族であるように、彼女にとってもまた私は自慢の家族でありたい。強がってみせたかったのだ、私は。だけどそう思ってはいても、嗚咽を噛み殺すだけが精一杯で、彼女の黒い体を濡らすことは止められそうになくて。涙の雫がくすんだ毛並みに落ちて、ゆっくりと時間をかけてその奥に沁みていった。ごろごろ、と彼女が一度だけ喉を鳴らした。それから、また相変わらずの深い眠りについて、今度こそ、朝まで目を覚ますことはなかった。
 季節のうつろいを、わたしは肌で、髭で、尻尾で、感じていました。春には草花のくすぐったい匂いが鼻をくすぐりました。夏の陽ざしは黒い体をようしゃなくやきました。秋にはこがらしを尻尾の先でもてあそんで過ごしました。冬にはとくになにもしませんでした。橙色の灯をくゆらせる火鉢は、わたしをたいだにする魔法の道具でした。 あの人は相変わらずわたしに、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、いろんな顔を見せてくれました。わたしが暮らしにたいくつを覚えずにいたのは、そんな目まぐるしくうつり変わるあの人のすがたが大好きだったからです。あの人と過ごす毎日は、たのしくて、やさしくて、けれども矢のようにはやかった。時間をわすれるくらい、わたしはあの人に夢中になっていました。
 そう……ほんとうに、なにもかもがはやすぎた。
 ほんの少しでもいい、時間が止まってくれないものかと、わたしは日々の節々にそう願うようになっていました。
 わたしはまだ、あの人になにも返していない。
 恩義やあいじょうに、目に見えるかたちがあればよかったのにと思います。それならば、有限だからです。抱えきれない分は、どこかに除けてしまえる。だけども、ほんとうはそうではありません。目には見えません。形もありません。ただただ、純然たる重みとなって、いくらでもいくらでも積もり続けるのです。いつからかこの首の鈴には、とんでもない量の想いが収められていました。猫の身には、耐えがたいほどの、あい。だけれどもこれはあの人からの贈りもの。わたしがあの人のとくべつである証。外すわけにはまいりません。苦しくたってへっちゃらと、あの人の前では、そんな猫を被ってみせました。
 だけれども、ああ、時ははやい。体は重い。鈴は想い。日ましに積もる情念は決してとけることはなく、わたしの心をみるみるうちに埋めつくしていきました。それに引きずられるようにして、手足もなまりのように鈍っていきます。まるであの人に拾われる前にもどってゆくかのように。体の不自由さゆえに湧いてくる気だるさが、わたしから活動する意欲を奪いとっていきました。
 そしてついには、食欲さえもほとんどなくなってしまいました。
 おいしいはずのご飯を差し出されても、一口も口にすることができません。
 はじめてご飯を残した時の、あの人の悲しそうな顔をわたしは決して忘れることはできないでしょう。

 わたしは、いったいなんのためにここにいるのだろう。
 あの人を悲しませるため、こんな情けのない姿を見せているのだろうか。

 ごめんなさい、ごめんなさい、あなた。
 ああ、あなたのそんな顔を見るぐらいなら、
 わたしはもう、あなたの前から消えてなくなってしまいたい。
 しんしん、しんしんと、部屋に不思議な音が満ちているのに気がついて、わたしはゆっくりと目を覚ましました。はじめぼんやりとしていた意識は、寝起きの体にまとわりつく冷気ですぐさまはっきりと覚醒します。わたしはこの音と凍えがどこから来るものなのか、部屋の中をぐるりと見渡してみました。すると出所はすぐに見つかりました。なんてことはない、わずかに開かれた玄関の戸の向こうが、真っ白に染まってるのです。
 雪だ。
 薄ぼんやりとした明かりの中を、冷たい雪が舞っている。
 どうりで今朝はよく冷えるはずです、これほどの寒空は、はじめての経験かもしれません。尻尾の先がきんきんに冷えてたまらない、はやく暖をつけてもらおう、そう思いあの人の方を見ると、あの人はまだ昏々とした眠りに中にいました。ここしばらくずっと気疲れしている様子でしたから、無理もありません。ともすればこの寒ささえも、あの人の眠りを維持するのに必要なものなのでしょうか。そう思うと、とてもあの人を起こそうという気にはなれませんでした。
 それからわたしは居住まいを正して、隙間の向こうの雪景色をぼうと眺めていました。雪は積もるほどのものではありませんでしたが、それでも地面には薄っすらと白化粧がかかっていて、繊細で、見るからに美しいと思わせます。まだ誰にも踏まれていない、無垢な肌。そんないっとうの自然の芸術に、ふと自分の足跡をつけてやりたいと思う悪戯心が湧いてくるのは、きっと仕方のないことなのだと思います。あれほど綺麗な景色なのだ、自分だけのものにしてやりたいと、そんな独占欲をわたしは覚えました。
 あの雪に触れたい。
 気がつけばわたしは、重い体を引き摺るようにして、寒空の中を歩き出していました。
 雪に染められた町は、いつもの喧騒さえもすっかり凍りつかせて、耳に痛いほどに静寂でした。通りを行く人の姿はひとつもない、みんなあの人のように眠っているのだろうか。はじめて出歩く無人の町には、ひどく寂しく、哀しげな印象を受けずにはいられません。しかしその一方で、わたしは一人でいることにどうしてか安心のような気持ちも覚えておりました。なにせ蹴飛ばされる心配も、子どもに追い回される危険もない。世界はわたしだけのものでした。わたしひとりきりでした。あの人さえも、ここにはいない。
 雪の町をわたしは往きます。宛てはなくともかまわない。ちょっと様子を見たら、すぐにでもあの人の待つ家に帰るつもりでしたから。しかしながら、この体の不自由なことといったら、わたしの想像を遥かに越えるほど重いものでした。雪を踏んだ足はみるみるうちに冷たく凍え、体の芯は底冷えして熱という熱を瞬く間に失ってゆきました。これは不味いことになった、少しだけ体を休めよう。そう思い、どこか雪の凌げる場所へと考えて、わたしは路地の一本へと身を滑り込ませます。窮屈で狭いところでしたが、これ以上体に雪が降りかかることはありませんでした。
 ようやくわたしは体を横たえます。地面に雪は積もっていませんでしたが、それでもやはり、ぞっとするほど冷たいことは承知していました。ああ、なにをやっているのだろう、わたしは。こんなことなら、あの家を出なければよかった。冷たい地面より、あの人の用意してくれた毛布のほうがずっとずうっと温かかったのに。だけれども、雪に触れたいと思った気持ちもまた確かだったのです。そのことには後悔していません。わたしは、わたしの意志でここにいる。たとえそれが、とても後ろ向きなものであったとしても。
 雪に触れたかった。
 雪に成りたかった。
 雪のように、消えてしまえたら。
 あの人が、泣くのです。わたしを見て泣くのです。泣き疲れて、そして眠りにつく。到底堪えられるものではありませんでした。不甲斐ない自分が、大嫌いになります。すべてはこの体の鈍重さがわるいのだ。あの人の恩愛に応えきれない自分が許せないのだ。ならばいっそ、わたしなどもういなくなってしまったほうがよいのではないか。恩を返せぬ不義理は残るかもしれませんが、これ以上、あの人の涙を見ることもない。

 三年の恩に、三日で報いる方法は、
 わたしにはもう、これぐらいのことしか思いつかなかったのです。
 空気に冬の匂いが混じりはじめたある日も、私は変わらず船の上にいた。櫂を握り、三途の川のほとりで客を待っていた。けれども、その日はどうしてかなかなか仕事をはじめることができない。さっきからいくらかの人魂が、おどおどとした様子で私の船のそばまで来るのだけれど、私の顔を見ると、どれもみなそそくさと立ち去ってしまうのだ。そんな経験ははじめてのことだった。いつもなら、黙っていても向こうのほうから次々やってきて忙しいぐらいだというのに、今日に限って客足はぱったりと止んでいたのだ。この調子では、ノルマの達成は難しいかもしれない。しばらくぶりの不出来に思わずため息が漏れ出す。
 そうやって俯いた視線の先で、私はようやく客の寄り付かない理由に気がついた。覗き込んだ水面に映りこんでいたのは、まるで幽鬼そのものだった。生気に欠けた、死人のような顔色をしている。これでは客が寄ってくるはずもない、いくらあの世に渡るための船とはいえ、誰が好き好んでこんな顔をした船頭に送ってもらうというのだろう。からからと、喉の奥から乾いた笑いが吐き出された。やはり、私には彼女が必要なのだ。商売笑顔の作り方さえ忘れてしまうほどに、今の私は参っていた。
 今朝は、彼女に会えなかった。
 目を覚ますと、彼女がいなかった。いつもの寝床に、いつもの黒いちびの姿が見当たらない。今朝早くに抜け出したのか、それとも夜中の間に目を覚ましてそのままふらりと行ってしまったのか、どちらにせよこの瞬間彼女のいない事実に変わりはない。変わりないことに、ひどく胸がざわついた。このまま変わらなかったら、帰ってこなかったらどうしよう――いやいや、今朝はたまたま彼女の方が早起きして、日課の散歩に出かけただけだ。この程度のこと、すれ違いでしかないじゃあないか。私も気にせず仕事に出かけよう。いつものように船を漕いで、いつものように疲れて帰ってくれば……きっといつものように、彼女が待っていてくれるとも。
 ……そんなふうに、思っていたはずなのに。
 やはり、だめだった。彼女がいないと、彼女に会えないと、私はなんにもできやしない。気力も、生気も、空っぽだ。膝を見てみろ、がくがくと震えて、今にもくず折れて水に落ちるぞ。ああ、まったく、猫に会えなかったただそれだけのことで、どうしてこんなにか気持ちが落ち着かないのだろう。会いたくて、会いたくて、たまらない。ついに私は船の上からおろおろと、彼女の姿を岸辺に探しはじめてまった。あの小さい体を、黒い毛並みを、川原に、土手に、求め縋った。小船が揺れる。ぐらりと揺れる。それは私の心の中さえ波立てて、感情を押しては返し、焦燥と不安を好き勝手にぶちまけた。私はすっかり正気を失っていた。だから、ごく当然のことにさえ考えが及ばなかった。彼女に会いたい気持ちだけがすべてだった。彼女の気持ちは、考えなかった。
 そんな私だから、きっと罰が下ったのだろう。
 神さまが、いやあるいは彼女が、私を叱りに来たのだ。
 そう……来て、しまったのだ。

 波だっていた胸の中が、ぴたりと止んだ。
 凍りついたように、
 揺らぐことのない彼女が、そこにいた。

 なぁんだ、やっぱりいるんじゃないか。
 ――どうしてそこにいるのだ。
 お前も、私に会いたくなったんだろう。
 ――どうして会いに来たのだ。
 約束を、果たしにきてくれたんだな。
 ――どうして、果たしてくれないのだ!



 りん

 りん

 鈴!!
 目を覚ますと、そこは見知らぬ土地でした。鼻に触れる風は湿っていて、覚えのない感触に意識がすぅっと研ぎ澄まされていきます。どこだろう、ここは。こんなところ、今までに連れて来られた憶えはない。それになんといっても目の前に広がる光景は、到底この世のものとは思えないほどの迫力がありました。なんて豪壮なことだろう、甕の水をひっくり返した時の、何十倍や何百倍もの水がとめどなく流れているなんて。これは“川”かな、それとも“海”だろうか。わたしが一眠りしている間に、世界はいったいどうなってしまったのだろう。目の前のこの流れに、なにもかも押し流されてしまったのでしょうか。
 ……いや、
 きっと、流されてきたのはわたしの方なのでしょう。
 路地裏も、雪景色も、あたりにはなにひとつ見当たりません。ただ轟々と唸り声をあげる奔流と、延々と続く石の原だけが広がっています。遠い遠いところまで来た、それだけは間違いないのだれど、あれからいったいどれだけの時間が経っているのか、わたしにはまったく計りかねていました。長い長い旅路を終えてきたかのような達成感があれば、あっと言う間に過ぎ去ってしまった時間に困惑するような気持ちもある。胸の中はそんな不思議な感覚で満ちていました。
 どうしたものだろう、わたしはいったいこれからどうすれば。引き返そうにも帰り道なんてものはわかりませんし、そもそも、今さらどんな顔をして帰ればいいというのでしょう。勝手に抜け出して、一眠りしたかと思えばこのありさまです。あぁ、あの人は今ごろなにをしているのだろう。寝床にない私の姿を、探してくれているのだろうか。突然姿をくらましたのは、やっぱり失礼が過ぎたかもしれない。せめて一言、別れを告げてくるべきだったとそんなふうに考えます。もっとも、あの人に言葉が伝わらないのであればそれもおなじことだったのかもしれませんが。
 あの人の前から消えてなくなってしまいたい、どうやらその願いは思わぬ形で叶ってしまったようでした。どこの誰が願いを聞き入れてくれたのかはわかりませんが、まったく余計なことをしてくれた――なんて、思ってしまうのはわたしのわがままなのでしょうか。我ながら、未練がましいことだと思います。ですが本心、わたしはあの人に会いたかった。会って伝えたいことがあった。ありがとうや、さようなら。ごめんなさいに、いってきます。人の言葉は難しい。猫の身では手に余る。だけれども、心だけは繋がっていると信じたい。縛られているということは、つながりがあるということですから。
 りん りん りんと。
 鈴の音が鳴ります。
 わたしはあの人の特別。

 だからどこにいたって、わたしたちは――出会える。
 しゃにむに、私は船から飛び出した。川の冷たい水温も、身の内からの燃え上がるような衝動の前に瞬時に沸騰して消えた。りん りん りん。鈴の音を目指して私は駆ける。叫ぶ。名を呼ぶ。彼女は、ただそこにじっと座っていた。行儀よく背筋を正し、尻尾をぴんと張って、私を見据えているのだ。私の帰りを待っているかのように。約束を遂げに来ましたと誇らしげに。だけれどもああ、お前はそこにいてはいけないのだ! お前の待つべき場所は、ここではないのだ!
 だって、ここは。
 この、川は……
「そんな……」
 彼女のところまで、あと数歩。それだけの距離が、途方もなく遠い。幾百光年をかけても至れず、決して縮まることはない。それは、生きているものと、死んでいるものとの、どうしようもなく埋めようのない、絶対的な距離だった。私にはそれがわかる。それを見定めるのが、私の仕事だから。けれども彼女はそうではないのだろう。なんにも、わかっちゃいないのだ。だから今もこうして、かぎ尻尾を凛と立たせて、埋めようのない数歩を私が埋めてくれるのを、待っているのだ。いつだって、会いに行くのは私の方で、彼女は待ち続ける側だったから。だから私が行かなくては、終わらないのだ。彼女が、終われないのだ。
「――いやだ」
 生けとし生けるものは、ここに来てはならない。ここは黄泉路に逝くものの集う場所だ。永劫の旅をはじめる場所だ。その意味がお前にわかるかい、りん。ああ、わからないだろうなぁ、お前、猫だもの。どうせ今日だって、気まぐれに私の後を付いてきて、驚かせてやろうと思ったんだろう。朝にふっといなくなったのも、私を怖がらせるための一芝居ってわけだ。
 そうなんだろう、りん。
 そうだって。
 ……言えるわけ、ないよなぁ。
 お前、猫、だもの。
 猫だから、あんまり丈夫じゃない。
 命の距離は、とても、短い。

 だからどうした。
 それはきっと運命のようなものだと感じました。天の導き、あるいは訪れるべくして訪れた必然。あぁ、きっとはじめからなにもかも決まっていたのです。わたしがあの人に拾われたことも、あの人に愛されることも、その重みから逃げ出してしまうことも……そしてそんなわたしを、あの人が、追いかけてきてくれることも。
 それはここからいくらと離れていない水の上。岸辺に浮かぶ船に、あの人は静かに立っていました。そこからわたしの姿を、じっと見つめていました。やがてあの人は船から飛び降り、わたしを目掛けて一目散に駆けてきます。その雄姿に、わたしはただただ打ち震えていました。あぁ、こんなことがあっていいのか。一度は逃げ出したわたしに、再びあの人と向き合う資格なんてあるのでしょうか。だけどもきっと、わたしの意志など関係ないのでしょう。あの人は、あの人自身がわたしに会いたい一心で走っているのです。あの人自身の、望むままに。あの人がわたしを想うままに!
 わたしはもう身動きひとつ取ることができませんでした。硬直した体には力など入らず、あの人の元へ駆け出してゆきたい衝動を頑なに抑え続けていました。そしてついにあの人がわたしの元へと辿りつきます。距離にして、わずかに数歩。その最後に残された距離が埋まらないのは、きっとあの人が心のどこかでわたしを叱っているからなのだと思いました。どうして勝手にいなくなったのだ、と。なるほど、でなければわたしは謝らなくてはなりません。心の底から、謝罪を申し上げなければならない。むしろその程度で済ませてもらえたことは寛大なお心といっても良いでしょう。ともすればわたしは、裏切り者と後ろ指を指されてもおかしくはなかったのですから。
「いやだ、りん。帰ろう、お前はここにいちゃいけない」
「にゃあ」
「あたいと一緒に帰ろう、りん。お前の居場所はここじゃないぞ。あの長屋の、あの万年床がお前の寝床じゃないか。ここは寒くて冷えるだろう、長居をすると体に悪い。お前は小さいからなぁ、帰ったら、湯たんぽでも作ってやろうなぁ。さぁ、帰ろう、りん。大丈夫だ、私が守ってやるとも。ちょっとくらい旅の予定が狂ったって、なぁに、なんとでもなるさ」
「ごめんなさい。臆病なわたしを、許していただけますか?」
「―――」
「いい子になります。もう勝手にいなくなったりしません。あなたのために、わたしのすべてを捧げます。だからどうか、わたしがあなたのそばにいることを、わたしがあなたの猫であることを、赦してはいただけませんか。きっとあなたの力に成ってみせます。弱い体を克服して、あなたの楯になりたい。もう、あなたを泣かせたくなんてないのです。わたしは、強く、なりたい」
 だけど、だから、どうしたっていうんだ。そんな当たり前のこと、今さら繰り返さなくたってわかっているよ! ああ、覚悟なんて、できてなかったに決まってるじゃないか! 私のかけがえのない宝物が、見てないところで、あっさり、亡くなったっていうんだぞ! 冗談じゃない! 今日までなんのために生きてきた! 私は私の愛する彼女をこの手で渡すために、今日まで櫂を漕いできたのか!?
 そんなこと、断じて認められない。この期に及んで、私は彼女を“裏切りもの”になどしたくないのだ。頭のてっぺんから、どろりとした情感が流れ出て、両腕を伝って指先に集う。その汚れた手で、私は彼女の喉下をくすぐった。ようやく触れられて嬉しかったのか、にゃあ、と彼女が小さく鳴く。その言葉が、私の理性を繋ぎとめていた最後の鎖を、いとも容易く断ち切った。気がつけば、私は彼女の体を抱えて走り出していた。冷え切った彼女の魂を、溶かさんばかりに抱きしめていた。

 ――命は、あるがままでなくては、いけないよ。
 ああ、だから、ここにあるままに、しておきたかったのだ。
 わたしは精一杯の言葉であの人に話しかけました。理解されるはずないとわかっていても、伝わるなにかがあると信じて。
 そんなわたしの訴えに、あの人もまたいくらかの言葉でもって応えてくれました。もちろんその内容はわたしには理解が及ばない。けれども、会話をしている、その実感だけでわたしは十分でした。胸の中は満たされた気持ちでいっぱいだった。だって、だって……こんふうに抱きしめられたことなんて、あの日以来で……
 気がつけばわたしはあの人の腕の中にいました。
 はじめてあの人に抱きしめられた日のことが蘇りました。不安と恐怖と、それを反を成すかのような幸福感が、いっぺんにわたしの胸に溢れかえります。それは抑えがたい感情の奔流でした。わたしを容易く飲み込み、翻弄します。まるで川の流れのように。わたしはあの人のもたらすすべての感覚にまったく抗うことができませんでした。成すがまま、痛いぐらいにあの人の愛を受け止めていました。
 もう迷うことはありません。
 どんなに不恰好でも、臆病でも、わたしがわたしであることそのものが、あの人の支えになるらしい。
 わたしははじめて、自分が選ばれたことの意味というものを実感していました。


 長い夢を、見ていたような気がします。
 あたたかいけれどつめたくて、うれしいけれどかなしいような、そんな夢。幸福と不幸の狭間をたゆたい、ささやかな逃避と追跡があって、気がつけばわたしはいつもの場所にいました。いつもの部屋の、あの人の匂いのする毛布の中。そこからぼんやりと部屋の中を見渡してみると、外の明かりの薄暗いことと、表の歩く人の数少ないことに気がつきました。日はすっかり暮れていました。あぁ、もうすぐあの人の帰ってくる時間だ。わたしは寝床からひょいと飛び出すと、玄関の前に腰を下ろします。そうして、じきに帰ってくるだろうあの人に、こう言ってあげるのです。「おかえりなさい」と。
 心も、体も、驚くほどに軽やかでした。あんなに重苦しかったのがうそのよう――いやいや、あれは夢の中のことでしたから、現実が違うのは当たり前のことでしょう。ですがわたしは、心身ともに生まれ変わったかのような心持ちでした。この小さな体の中に、無限の活力が湧いてくるかのようでした。
 もしかするとこの体なら、夢の中では不甲斐なかったわたしも、あの人に精一杯の恩返しができるかもしれない。
 わたしの胸では、そんな期待感が沸々と高まってゆくのでした。
「ただいま」

 家に帰ってくると、いつものように彼女が出迎えをしてくれた。にゃあお、と彼女がよく通る声で鳴く。ぴんと張った背筋。きらきらと輝く黒い毛並み。彼女は美しい猫だった。優しい猫だった。私の自慢の家族であり、また信頼できる相棒であった。
 今までも。
 これからも。


 路地裏の猫の死体がいつの間にか消えていたという怪談が噂になっていたが、聞くのもばかばかしい、笑い話だった。
 新しい朝がはじまりました。日の出前の空に、あの人は仕事道具を携えて出かけて行きます。その姿が、今日は一段と凛々しいもののように見えました。上手い言葉は浮かびませんが、なにもかもを背負いきったような、そんな凛とした格好よさが後姿に浮かんで見えるのです。そして、あの人にそんな背中をさせる理由がきっとわたしにあるのだろうと思うと、わたしはもう感無量のあまり飛び跳ねずにはいられませんでした。
「いってらっしゃい、あなた!」
 感極まって、わたしはそんな言葉をあの人の背中に投げかけます。それは、今までは胸の中で呟くだけで済ませてきた言葉。決して伝わることなんかあるまいと、そっとしまいこんできた気持ち。だけれども、今なら通じるような気がするのです。今のわたしには、なにも恐れるものなどなかった。だって体はこんなにも壮健で、全身活力に満ち溢れているのです。やはりわたしは生まれ変わったのでしょうか。あの人のために、強く逞しい自分を手に入れた!
 わたしはもうあの人の剣にだって楯にだってなれます。もう、あの人を泣かせたりなどするものか。あの人が苦しむすべてのものを、このわたしが払い除けてみせましょう!
 きっと今日もあの人は疲れて帰ってくる。あの人には、安息の地が必要なんだ。そうしてそれは、わたしが留守を預かるこの一間以外に他はない。今まではただ漠然とここに居座っているだけでした。自分たちの寝床という認識以外を、この部屋に持ったことはなかった。けれどもそうではないのです。この部屋にはわたしたちがこれまで積み重ねてきた生活と、そしてこれから築いていく未来の両方がぎゅっと詰まっているのです。それらは無限の幸福と安寧をわたしたちにもたらします。この家のある限り、わたしたちは生きてゆける。
 もう、この場所から逃げない。
 わたしがわたしでなくなったって、二度とこのしあわせを、手放さない。
 翌日、三途の川は大変盛況であった。とは言っても、戦争かなにかのせいで、死人の魂が溢れかえっている、というわけではない。川原に集っているのは、意外なことに地獄の鬼たちであった。それも身なりのしっかりとした服を着ていることから、かなり位の高い役職についているらしいことが遠目にもよくわかる。見たところ、彼らはなにか探しものをしているふうに見えた。忙しなく頭を動かしては、あれでもない、これでもないと首を振っていた。
 そんな折、ひとりの鬼とふと目が合った。金色の相貌が、じろりと私を睨めつける。程なくして彼は踵を返し、他所の鬼の一団からある人を呼び寄せてきた。他の鬼たちと較べてずいぶん小柄なその人の姿は――私には、とてもよく見知った人物のそれであった。
「ああ、小町。待っていましたよ」
 私の前に歩み寄ってきた彼女は、目を合わせるなり毅然とした様子で私の名を呼んだ。反射的に背筋がぴんと張り詰める。彼女には決して逆らうことができないと、私の長年の経験はそう判断をつけていた。やはり腐っても是非曲直庁か、もっと末端の不祥事には鈍感なものだと思っていた、そんな私の考えは砂糖菓子よりも甘かったらしい。
「いかがなさいました、映姫さま」
「小町、あなたに確かめたいことがあるのです。質問に答えてくれますね」
「なんなりと」
 彼女にはうそもはったりも通じない。誤魔化そうとするだけ無駄なのだ。どんなに上手に取り繕っても、彼女はどんな小さなほつれも見逃さない。はみ出した糸からさえも、薄っぺらい虚言の衣を解いて真実を暴き出してしまう。
 要するに彼女がここにいる時点で、なにもかも事件の全容は掴まれた後なのだ。それなのに彼女の口ぶりは、とても意地悪なやり方のようにしか思えなかった。ひとつひとつ、私に突きつけるように言葉を紡ぐ。柔肌に剃刀を当てて、無遠慮に撫でるように。
「あなたは船頭死神でしたね。船頭の仕事とは、具体的になにをするものなのですか?」
「はい。ここ三途川に至った魂を、あの世の側へと船で渡すのが仕事です」
「それだけですか?」「それだけです。他にどんな仕事もありません。私たちに許されていることは、魂を渡す、ただそれだけのことです」
「そうですか。ですが困りました、それでは少し、おかしなことがあるのですよ」
「おかしい、とは?」
「先日、この三途の川の岸辺にて、何者かが無許可の反魂を行ったらしいとの報告がありました。輪廻転生の行方の裁定は本来あの世の側にて執り行われるもの。それがどうして、まだ川を渡る前の岸辺で成されたのでしょう。誰の赦しがあって、命の価値が歪められたのでしょう。魂の在り方、行き先は、平等に取り決められなければなりません。個人の価値観や、主観を取り入れてはいけないのです。誰かが誰かの命を首輪に繋いで縛り付けるなど、おこがましいことだとは思いませんか」
 翠色のひとみには、どんな感情もこもってはいない。ただ揺らぎのない光のみを湛えて、私の内側を見透かしていた。心なんてものはもう、すっかり丸裸だった。彼女には見えているんだろうな、私がこれまで過ごしてきた日々の幸福や、充実がなにもかも露わなんだ。そうしてそれを見つめた上で、裁量を下しているのだろう。罪の重さを推し量るなんて、それこそお前の主観だろう反駁してやりたい気持ちもあったけれど、しかし彼女が主観と客観の両目を使い分けられる人物だということも、私は痛いほどに理解していた。
「……小町、あなたの仕業ですね」
「そうです、映姫さま」
「素直でよろしい。あなたへの処分は、後日改めて連絡が行くでしょう。その日が来るまであなたには自宅での謹慎を命じます、いいですね」
「はい」
 さすがに大勢の鬼たちの前で公開処刑が行われるようなことはないらしい。二、三日で通達が来るだろう、そう言い残すと、彼女はこれでお終いだとばかりに背中を向けてしまった。その後姿が、よりいっそう小さなものに見えてしまう。それは大柄な鬼と並んでいるからなのか、それとも彼女自身の纏う雰囲気が萎縮したからなのか。どちらにせよ、私にはその背中にかける言葉なんてなかった。思えば彼女は私をよく気にかけてくれた。私を心から誉めてくれた人物というのも、思い返せば彼女以外に見当たらない。そんな人の期待を私は裏切ったのだ。私欲のために。どんな躊躇いもないまま、あっさりと。
「小町、」
 歩き去ろうとする直前、ふと彼女がもう一度私の名を呼ぶ。そこには、さきほどまでとは違い、僅かながらに感情の込められているような気がした。気のせいだろうか、しかし私の予感を裏付けるかのように、彼女はこんな言葉を口にした。
「これは閻魔大王としてではなく、私個人の感情であなたに言わせていただきたい。あなたはあの子にほんとうによく恩愛を注いできましたね。あなたの目にも、それは多くの輝きとなって映っていたのではないですか」
 彼女が言っているのは、きっと渡し賃のことだろう。ああ、たしかに見えていたともさ。きらきらと、星のつぶてのような閃きを、その魂に見たとも。それだけの光があれば、彼女は船になど乗らなくとも、猫のひとっ跳びで向こう側に辿りつけたことだろう。だからこそ私は焦ったのだ。彼女にその輝きを失わせたくなどなかった。渡らせたくなかった。私の注ぎ満たしてきた愛を、誰にも渡したくなんてなかった!
「なればこそ、そのまま逝かせてあげればよかったものを。あなたに満たされた愛で、送り出してあげるべきだった。人ならざる魂が川を渡るなど、そうありふれたことではないというのに。ましてや……いえ、これはあなたが自ら気がつかなければ意味のないことでしょうか。まったく行き過ぎた想いは人を盲目にするのですね。しかしどんなにか目を背けたところで、あなたがあの子を縛り付けたその報いは、必ずや訪れることでしょう。そしてそれはもう、あなただけの罪では済まされないのですよ。覚悟なさい小町。あなたは少し――求めすぎた」
 それきり彼女はなにも言わず、残りの鬼たちを連れて彼岸へと引き返していった。後には、私ひとりがぽつんと置いてけぼりにされる。途端に人気のなくなった川原はひどく空虚だった。あまりに遠大が過ぎて、自分がどこにいるかもわからなくなりそうになる。こんなところで迷子になるなんてごめんだ。道を忘れないうちに今日はもう帰ってしまおう。家に着けば、また愛猫が私を迎えてくれるさ。そうすれば私はまたしあわせな気持ちを得られるのだ。いっとうの幸福で満たされるのだ。
 帰ろう。
 私の日常に、帰ろう。

 だけど、私は不安だった。怖かった。震えていた。今さらになっておどおど、びくびくしているなんてまったく情けのない話だけれど、それでも我慢がならないほどに、恐ろしかったのだ。部屋でじいっとしていると、体中を冷たい腕に這いまわされているような錯覚に囚われる。それはたぶん、私が川辺より連れてきてしまった霊魂どもの声なのだ。彼らは私を取り囲んで、次々に呪いの言葉を投げかける。えこひいきだの、強欲だの、どうして自分は還されなかっただの。そうは言っても、仕方がないじゃないか! 私はお前たちのことなどどうでもよかったのだから。お前たちのために船頭をしていたわけではないのだから。ああ、ひいきだとも。職権の濫用さ。それのなにが悪い! 愛するもののために出来る限りを尽くしたんだ! 美談だろう! 感動するだろう!

 不公平!
 卑怯者!
 この、死神め!

 しかし、いくら私が声を張り上げたところで、この耳鳴りは止まないのだ。怨嗟の声は次第に勢いを増して、脳髄に直接叩き込まれるかのような悪寒にまで悪化する。ついには耳鳴りに留まらず、万力で締め付けられるような頭痛の波が絶えず襲ってくるようにまでなった。限界だった。わずか二日で、私はすっかり気を狂わせてしまっていた。もう、彼女を気にしている余裕なんてなかった。餌をやることも、その姿を視界に捉えることさえ億劫だった。それでも彼女は健気だった。心配そうな様子で、幾度となくか弱い声でわたしを呼ぶのだ。その鈴の音のような響きが、ひどく鬱陶しかった。

 私は悪夢にのたうちまわっていた。
 そして、我が身をもって実感していた。
 当たり前の平穏というものは、案外取り返しのつかないものらしい。
 けれどもその夜、帰ってきたあの人は、ひどくうなされていました。
 雑巾を絞ったかのようにだらだらと寝汗を垂らして、もがいた両の手は幾度となく虚空を掻いていました。目に見えないなにかを引き裂くように。そこにいないなにかを払い除けるように――いや、“いた”のです、そこには。やつらの姿を、わたしの目ははっきりと双眸に映しだしていました。青白く輝く幾筋もの燐光の帯が、あの人の全身という全身、爪先から、腹から、首に至るまで、ぎゅうっと締め付けているのです。その苦しみに堪えかねて、あの人は悲痛な叫びを上げている。到底、見ていられるものではありませんでした。わたしはしばらく使う機会のなかった前足の爪をじっと見つめます。これでやつらを追い払えるだろうか。やっつけられるだろうか。いや、やるしかないのです。わたしはあの人の剣、あの人の楯。ここで逃げ腰になって、いったいどうしてあの人を守ることなどできようか!

「離れろ! 化物どもめ!」

 りん、という鈴の音が、わたしを芯から奮い立たせました。後ろ足に力を込めて、わたしはやつらに飛び掛ります。牙を剥き、爪を立て、体ごとひとつの刃物に仕立てて切りつける! ――だけれども、返ってくる感覚はひどく虚しいものでした。わたしの爪は、なにも切らない。振り返った先では、やつらはいまだ冷たい輝きを放ちながら、あの人を苛み続けていました。外したか、いやまだだ、何度だって裂いてやる! そう意気込んではみるものの、しかし当たらないのです。当たらない、いやすり抜けているのだ。わたしとやつらとでは、決定的になにかが違う。その違いがなんなのか、わたしには理解ができない……弱い、弱いからいけないのだ。わたしがまだまだ強くないから打ち克てないのだ。ちくしょう、ちくしょう!

 強くなりたい。
 もっと、もっと、強くなりたい。
 あの人のために、強く!



「ひどい顔をしていますね」

 そして約束の三日目。是非曲直庁の執務室を訪れた私の顔を見るなり、上司かけられた言葉はそんな内容だった。顔は洗ってきたのですか? と声が続く。身だしなみは整えてきたつもりだったけれど、どうやら私の予想以上に顔色は壮絶なものをしているらしい。
「考えはまとめられましたか?」
「……あんな状況でまともに頭働かせられるやつがいたら、見てみたいもんですけど」
「そうですか。しかしあなたの意志の有無に関係なく、私は事実のみを正確に伝えなければなりません。覚悟ができていないというのなら、今この場で心構えを定めてください」
 わかっているくせに、なんて嫌味なことを言う。私は視線を伏せて反抗の意思を見せたが、しかし彼女の意に介すことはない。淀みのない動作で一通の書簡を広げ、その内容にさっと目を通す。もしかすると、重罰が科せられるかもしれない。だというのに私の胸中はひどく穏やかだった。どうしてか今朝からは、あの頭のひび割れそうな幻聴が聞こえていないのだ。連中も閻魔のお膝元は怖いのか。私を罰しようとする人物にこそ救われているなんて、なんだか滑稽な話だ。
「――終わりました。小町、これからあなたに是非曲直庁の下した処分を申し付けます、よろしいですね」
「いつでも、どうぞ」
 やがて書面を読み終えた彼女がぼんやりとしていた私の意識を引き戻した。少し強い物言いをされるとつい体が張り詰めてしまうのは、もはや職業病と言ってもいい。しかしそれも今日までだ。どんなに良くても免職は避けられまい。まさか彼女が私の身を守ってくれるということもないだろう。船頭、小野塚は今日で閉業だ。せめて櫂を握っていた腕が、残ったままであってくれればいいのだけれど。
 ――だけど。
 だけども、彼女の言い渡した処分は、私の想像を遥かに……下回っていたのだ。
「是非曲直庁は今回の件に関し、あなたにとても寛大な処置を施しました。あなたのこれまでの働きぶりがよく評価されたようです。よかったですね」
「……なんですって?」
「あなたには、本日付けで新地獄庁での事務整理課への異動が言い渡されました。船頭職からはしばらく身を引いてもらう形になりますが、あなたの今後の身の振舞い方次第では、元の現場への復帰も望薄ではないでしょう。一両日中に新地獄へと籍を移し、仕事にあたってください。活躍を期待していますよ」
 わけがわからない、どういうことだ。無許可の反魂など、是非曲直庁のお上がもっとも目くじらを立てそうなことなのに、どうして。困惑を隠し切れない私を他所に、彼女は淡々と話を続ける。回転の遅い思考に、次から次へと言葉が押し込められて、もう破裂してしまう寸前だった。
「なお、あなたが旧地獄に借りていた借家の家財は、すべて置いて行って構わないとのことです。新地獄へはなにも荷物を持ってこなくていいそうですよ。必要なものがあれば新たに申請してください、同等かそれ以上の品が改めて支給されるでしょう」
 ああ、だから、おかしいと言っているのに。私は罪を犯したのだ、重罪人なのだ! それだのに、そんな処分は軽すぎるだろう! それどころか、対偶が良くなっているとさえ言えるじゃないか。今さら私のご機嫌を取るような真似はやめてくれ。今日は辞表だって懐に忍ばせてきたのだ。お願いだから、責任を取らせてくれないか。私にけじめをつけさせてくれ! だってこれじゃあまるで、まるで……はじめからなんにも、なかった、みたいじゃないか……私が罰せられる理由なんてなにもなかった、それはつまり、要するに……

 反魂なんて、そんなものはなかった。
 黄泉還った魂なんて――ひとつも、ない。

「いいですか、小町、だから――なにも持ってきてはいけませんよ。いいえ、持ってくるものなどないでしょう。
 だってあなたには、たいせつなものなど、もうどこにもないのですから」

 彼女が言葉を発し終えるよりも先に、私は踵を返して執務室を飛び出していた。やられた、連中、はじめから事件そのものを揉み消すつもりで! ちくしょう、ちくしょう! 彼女は今もあの長屋で待っている。一刻も早く帰らなくては、守らなくては! ああ、こんなことなら一緒に連れてくるんだった! 彼女にはいつも待たせてばかりで、一人にしてばかりで、だけどこれじゃああの時となんにも変わらない! また、私の知らないところで失われる、そんなの、もう、ごめんだ!!

「りん――……っ、鈴!!」




「あのぅ、映姫さま、今飛び出していった死神って、例の小野塚さんですよね?」
「そうですよ。まったく人の話を最後まで聞かないから困ります」
「でも、あの……処分通達の日は、明日だったはずじゃあ、」
「それがどうかしましたか」
「どうかしたって、言われましても」
「処遇が決まったのなら、速やかに知らせなければと考えたまでです。情報の迅速な連絡のどこに問題がありますか。あれでも私のたいせつな部下なのです。私はあの愛猫家が、弱気になっている姿なんて一日だって見ていたくないのですよ」

 さぁ、小町。
 あなたの審判を、見せていただきましょう。
 風が肌を灼く。地を蹴る足は、まるで針の筵を踏みしめているかのよう。疲労困憊の体には、世界中のどんな現象さえ痛烈な刺激となって私を責めたてた。ああ、私には待っているものがあるのだ。邪魔をするな。手足の一本や二本、持ってゆきたいのならくれてやる。その代わりに、なんとしてでも私は間に合わせるぞ! りん、鈴! すれ違う人目もはばからず、私は鈴の音を大声で叫びたてた。りん りん りん。私の声は、彼女のあの透き通るような美しい響きと較べて、かすれきったとても醜いものだったけれど、その声を遠くまで響き渡らせることにかけては、少しも引けを取っているつもりなんてなかった。りん、聞こえているのか。今、私が向かっているぞ。お前のために、帰路を急いでいるのだ。だからいつもの場所で待っていておくれ。いつものように、行儀のいい子でいておくれ。
 やがてようやく旧地獄の通りに差し掛かった頃には、私はみるも無惨な風体だった。道行く人の目が、一瞬ぎょろりとして、私の格好を見ていったい何事かと奇異の視線を向けている。にわかにざわつきだした雑踏の中心を、しかし私はわき目も振らずに我が家へと急いだ。道を空けろ、私を通せ! 無言の要求は大衆に素直に受け入れられた。よほど鬼気迫る様子だったのか、興味本位な野次馬も、気味悪がっていつしか姿を消していた。そうして私が見慣れた長屋の前にたどり着いた時、あたりはずいぶんしんとして、人の息をする気配もなにもかも消え失せていた。生を感じられない、無機質な静寂。すっかり絞りつくしたはずの汗が、額に一条流れ落ちた。私はゆっくりと戸に手をかける。振戦する指先を、最後の渾身でもって捻り伏せ、私は自然なふうを装いながら、我が家の門を開いた。
 かける言葉は決めていた。
 相応しいものは、当たり前のものは、ひとつきりしか思い浮かばなかった。
 我が身を削った死闘は、眩むような朝と共に終焉を迎えました。三日三晩振るい続けた手足はもうすっかり困憊です。しばらくは立ち上がることもままならないかもしれません。しかし、それはとても心地の良い疲労感でした。やり遂げた、今度こそ逃げずに、最後まで戦った。自分にそんな強さが確かに備わったことに、わたしは言いようのしれない充足感を得ているのでした。
 やつらは、いつの間にかその姿を消していました。
 あの人にまとわりついていた悪しき影は、もうどこにも見当たりません。わたしの必死の攻撃が功を奏したのでしょうか。それとも単に、飽きていなくなってしまったのか。どちらにせよ、今朝のあの人の解放されたかのような顔には、わたしも晴れ晴れとした気持ちを抱きます。あの人は自分の身になにがあったのか今ひとつ理解しかねているようでしたが、あの人のそんなきょとんとした表情さえ、わたしにはいとおしく思えます。これはわたしからのささやかな恩返し、気づいてもらえなくたって、構いません。あぁ、これからもこんなふうに、ひとつずつ恩を返していこう。この小さな体にできることは限られているかもしれないけれど、しかし今のわたしには底知れない活力が溢れています。塵も積もれば山になれる、猫の額ほどの奉公を、いくつもいくつも積み重ねていこうではありませんか。
 心持ちを新たに、わたしは玄関のほうを向き直ります。さぁ、どこからでもかかってこい。もうどんな悪漢にだって、この家を荒らさせてやるものか。もうどんな悪霊にだって、あの人を悩ませてやるものか。ぴんと背筋を立たせると、首に結わえられた鈴が呼応するかのように鳴り響きます。りん りん りんと。あんなに重たかった鈴の音も、今ではわたしに溢れんばかりの勇気を与える激励でした。
 その音が聞こえるだけで、わたしは世界でいちばんの戦士になれる。
 もうなにものからも逃げ出さない、勇敢で頼られるわたしになれる。

 だけどももし、その“名”を呼ばれたのなら、
 わたしは世界でいちばんの甘えんぼうになってしまうでしょう。
「ただいま、鈴」
「にゃあん」
「――――、鈴」
「おかえりなさい!」
 そして……返事があったのだ。おかえりなさいと、声が聞こえた。けれども家の中にあの小さな体躯は見当たらない。どこだろう、そう思った時、棒になっていた脚に擦り寄るぬくもりがあることに感づいた。その瞬間、私はついに膝からがくりと崩れ落ちた。全身脱力して、もう自分の体を支えてなどいられない。三和土の上にへたり込んで、体中に染み渡る倦怠感に身を委ねた。
 そんな私の姿を、彼女は不安げな目で見つめている。労わるように体を寄せて、ごろごろと喉を鳴らしていた。ありがとうと、呟いた声ははたして届いてくれたろうか。息も切れて、肺腑はほとんど潰れかけていた。参ったな、上手く言葉が出てこないや。仕方がないので、そっと彼女を抱き寄せて、精一杯の安堵を伝えようとしてみる。腕を開くと、彼女はそれを待ち望んでいたかのように、ひょいと胸の中に飛び込んできて甘えた声をあげた。
 猫っ毛のくすぐったい匂いが鼻をくすぐる。
 視界の端で二房の尻尾がゆらゆらと揺れて、ご機嫌な様子を見せていた。
「りん、無事だったんだな、よかった。ほんとうに、よかっ……、……」
 ああ、そうさ、無事だったのだ。どこにも、変わったところなどないのだ。彼女は当たり前のようにここにいて、私を出迎えてくれたじゃないか。彼女はなにも変わっていない。私を慕う気持ちや、待ちわびる寂しさは、きっと今までとひとつも変わってなんていないだろう。
 だから、
 だから心変わりしてしまったのは……きっと、私の方なのだ。
 私はもう、彼女と一緒にいられやしない。胸が押し潰れそうなのだ。絞られて、そのまま引き千切られそうになる! だって、見てみろよ! 彼女の形を! 変わり果てた姿を! 心はなんにも変わっていないのに、姿形は、もう別の存在だ! こんなことは望んでいなかった! 純粋な願いだったのだ、一緒にいたかっただけなのだ!
「うそだろう……りん、……」
 だけどもそれは、
 彼女の在り方を捻じ曲げてまでなんて、そんな、ふうには……

 彼女はもう――安らかには、永眠れない。
 綺麗な二本に分かれた、その黒尾。
 輪廻に触れ、魔に堕ちた、それの意味するところがどういうことか、わからない私ではない。


 なればこそ、そのまま逝かせてあげればよかったものを。
 あなたがあの子を縛り付けたその報いは、必ずや訪れることでしょう。
 そしてそれはもう、あなただけの罪では済まされないのですよ。
 鈴音はいつもわたしに教えてくれます。たいせつな人が帰ってきたことを。わたしの想いの報われたことを! うれしいなあ、張り裂けそうなくらいに、胸が弾みあがって。あんなに疲れ果てていたはずの手足もあっと言う間にばねを取り戻して、今すぐにでもあの人に飛びついてしまいそうで。するとそんなわたしの気持ちが通じたのか、あの人はゆっくりと膝を折り、それからわたしに向けてその腕を大きく開いてみせたのです。わたしにはもう我慢の限界でした。はやる気持ちを抑えきれず、ふかふかの胸の中に飛び込むと、あたたかな感触が体中いっぱいに広がります。言葉にするなら、それは至福以外のなにものでもありません。
「――、――――」
 胸の中にわたしをぎゅうっと抱いたまま、あの人はやわらかな声で囁きます。言葉の意味は、やっぱり理解がつかないけれども、そこに込められた想いの丈は、触れる両の腕を通じてひしひしと伝わってくるかのようでした。器から溢れかえりそうなほどの、愛。以前のわたしでは、ついに受け止めきることのできなかった愛。だからこそわたしは、もう二度とこの情愛を取りこぼすつもりなどありません。一滴だってもらさず受けて、そして何倍にも膨らませてあの人にお返ししてみせるのです。
 それこそがきっと、わたしがここにいる理由なのでしょう。
 わたしは、鈴という存在は、この瞬間あの人の腕の中に在るために生まれてきたのです。愛されるために生まれてきた、あぁ、この陳腐な言葉がこんなにか身に沁みるだなんて。
 絶えることないぬくもりの恍惚に、すっと目を細まっていきます。このまま眠りにつければどんなに心地よいことだろう。そう思った矢先、あの人はわたしを抱えたままふっと立ち上がりました。突然の刺激にまぶたがはっと開かれます。どこかへ行くつもりだろうか、わたしも連れていってくれるだなんて、なんて珍しい。やっぱり今日は特別な一日なのかもしれません。さっきからなんだか、わたしのうれしいことばかり続いているではありませんか。
 今まで、こんな早い時間に帰ってくることはあったでしょうか。
 今まで、こんなに痛いほど抱き締められたことはあったでしょうか。
 ……これほど、悲壮な笑顔なんて。
「――――、――、――」
 あの人がまた何事かを口にします。しかしその響きに、わたしはこんどこそなんの感慨も受け取ることはできませんでした。とても無機質で、とてもあの人の口から発せられているとは思えない。困惑し、戸惑うわたしの視線があの人と重なります。瞬間、わたしは蛇に睨まれた蛙のように寸分も身動きできなくなりました。
 凍りついた表情というのは、きっとああいう顔のことを言うのだろう。
 わたしは、わたしを見るあの人の目にはじめて……愛情以外のなにかを、垣間見たような気がしました。
 見てしまいました。
 あの人の言葉が、蘇る。
 全部、わかっていたんだな。こうなることも……そして私が間違いを犯さなければ、どうなっていたかも、すべて。
「そう、か……。りんは、極楽に、往けたんだよなあ」
 そりゃあそうさ。彼女が極楽に往けないはずがない。だってあれほど愛されたのだから。私が、愛したのだから。そんなにかたいせつにされてきた彼女は……私が余計なことをしなければ、あのまま往かせてあげていれば、きっと……
「ごめん、ごめんなぁ、りん。私ばかだった。お前のこと、なぁんにも考えてなかったんだなぁ。ようやく気づいたよ。今さら、遅すぎるよな。りん、鈴、ごめんよ、ごめん……」
 謝れども、謝れども、いったいどれだけの想いを伝えられることだろう。言葉が通じないのがうらめしい。心がわからないのがくやしくてたまらない。だって、私はこんなにも胸の張り裂けそうな気持ちでいるのに、彼女といえばこの瞬間にだって、私の腕の中で丸くなって甘えているのだ。私に全幅の信頼を寄せているのだ。そんな彼女に、私はいったいどんな顔をして向き合えばいい? 笑顔も、悲痛な表情も、なにもかもが違っている気がしてならない。彼女に相応しいものを、私はなんにも持ち合わせちゃいない。
 ああ、言われたとおり私は、彼女からあまりに多くを求めすぎたのだ。
 彼女はそれを、ただ黙って、にゃあんと一声鳴くだけで、なんでも私にくれたけど。
 私から彼女に返してやれるものは……なんにも、なかったんだ。
「私にはもう、……お前を縛りつけておくことなんて、できないよ……」
 私は、彼女の体をゆっくりと引き離すと、その首に結わえられている鈴に手を添えた。きょとんとした顔で彼女が私を見上げている。自分の身になにが起こったのか、なにをされようとしているのか、まったくわからないというふうに。猫だものなぁ、通じてくれないよなぁ。うん、それでいいんだと思う。臆病な私の、こんな弱気な胸の内なんて、お前には知られたくないもの。

 彼女の首から――結わえていた鈴を、そっと解いた。
 凛、とひとつ、鈴の音が揺れた。
 あの人の手が、ゆっくりとわたしの首に伸び、
 そして、無上の愛の注がれてきた鈴が、外されました。

 りん、と小さな音がします。鈴、と泣きそうな声がします。りん りん りんと、それはしばらくの間頭の中でずうっと反響し続けていました。特別な響き。わたしをわたし足らしめたはずの音。だけれどもどうして、今はこんなに切ないのでしょう。胸の中が、空っぽだ。たいせつなものの抜け落ちた、埋めがたい空虚感に、溺れそうになる。
「私はお前を愛しすぎた。こんな鈴一つで、お前のなにもかもを縛りつけてしまった」
「にゃあ」
「だけども、こんなものはもう必要ない。必要としちゃいけなかったんだ。これからはお前の自由に生きていいんだよ、鈴。もう私の帰りを待っていなくていいんだ。どこへでも好きなところへ行って、好きに遊んで暮らすんだ。大丈夫、お前にはもう力があるからね、一人でだって、こわいことなんかないよ」
「にゃあ」
「……うそだよ。ごめん。ほんとはもう、お前と一緒にいるのが怖いんだ。お前を失いそうになるのが恐ろしいんだ。お前のことが大事すぎて、いとおしくて、だからきっと、もう一緒にはいられない。盲目になってしまうから。お前のことばかりを見ていたはずなのに、お前のすぐ後ろにあったはずの風景に気がつけなかっただなんて、おかしな話だろう。そんな失敗はもう犯したくないんだ。お前には今度こそ、しあわせになってほしい。そしてそれを与えてやれるのは、きっともう、私の役目じゃないんだよ」
 私は彼女の体をそっと抱きかかえると、そのまま土間を出て通りの方へと抜け出した。それから、玄関の戸にしっかりと鍵をかける。長年二人で暮らしを営み、住み慣れてきたはずのこの長屋。しかし今度の行為は、いわゆる施錠とはその意味を大きく異ならせていた。言うなれば、封印だ。想い出も未練も、彼女にまつわるすべてをここに置いてゆく。もう取り戻しに帰ってくることもない。
 決別だった。
 生と死の距離なんかより、ずうっと遠い、別れのように思われた。
「ごめんね……、鈴……」
 抱えていた彼女の体を下ろす。抵抗はなかった。すとん、と彼女の体は地面の上に落ち着いた。その視線の先には、今しがた私が鍵をかけたばかりの長屋がある。彼女はその戸を、じいっと見つめていた。不思議そうに眺めていた。そりゃあそうだ、今まで彼女がいる時に家に鍵をかけたことなんてなかったから、彼女に理解ができないのも無理はない。やがて彼女が前足で戸をかたかたと揺らしはじめた。そうすれば自分の体を滑り込ませるだけの隙間が出来ると思っているから。だけども、開かない。固く閉ざされた玄関は、決して彼女に戸口を開くことはない。かたかた、がたがたと。帰りたい。ああ、懐かしいあの日々に帰りたい。帰りたい!

 だけども帰ってはいけない。
 帰らせてはいけない。
 還らせてはいけなかった。

 今度こそ私は背を向けて、なにもかもから逃げ出した。
 一匹の猫を捨て置いて。



 ありふれた話、よくある話。
 飼いきれなくなった動物を捨てるなんて、みんなやってる。
 それだけのことだった。

 次はもっと、やさしい飼い主に、拾われなさい。
「かえして」
 わたしの喉は、自然とそんなふうに震えていました。だめです、いくらあなたでも、それはいけない。わたしがわたしである証しを、持っていかないで!
「返してください、お願い、返して!」
「――、――――」
「返して……かえして。わたしの鈴です、あなたからもらった、たいせつな、……」
 わけがわかりませんでした。突然のことに、わたしはすっかり混乱に陥っていました。せっかく、軽くなったと思ったのに。これからあなたの愛をいくらだってその鈴に溜め込むつもりだったのに、どうして?! あの人はわたしの問いかけには答えてくれませんでした。通じていないからです。言葉も、心も、なにもかもが致命的に噛み合っていない。
 そんなふうにわたしが茫然としていると、あの人はわたしを抱いたまま、踵を返し表へと出ました。まだ太陽はずいぶんと高いところにありましたが、通りに人影は見当たらず、しんとしています。不思議な光景でした。見慣れた景色のはずなのに、まるで別の世界のようです。けれども思い返せば、ほんの少し前にもわたしはこれと似たような静寂の中にいた気がします。しんしんと降りしきる、雪の朝のこと。あの人と出会ってからはじめての、ひとりぼっちの世界。
 その時の不安や、心細さがふと胸の中に蘇ってきそうで、わたしは思わず体を強ばらせて丸くなります。やっぱり外は寒い、あたたかい部屋の空気が、恋しいや。
 ――そんなわたしの目の前で、あの人は、家に鍵をかけました。
 迷いのない動作で。
 あぁ……そうです、そうですとも。お出掛けをする時には、家に鍵をかけなくては。今まではわたしがお留守番をしていたからよかったけれど、わたしも一緒に出掛けるのなら、戸締まりをしなくてはいけません。そういうことなら、納得できる。けれど念のため、ちゃんと鍵がかかっているか、確かめておいたほうがよいかもしれない。そんなわたしの意を汲んでくれたのか、あの人はわたしの体をそっと地面の上に降ろしました。さっきまで、あんなにあたたかい腕の中にいたからでしょうか。剥き出しの冷気が、あっと言う間に体の芯にまで届きます。ぞっとする寒さに、全身の肉の凍りつく感覚がありました。
 だけれども、寒さになんて負けていられない。あの人にいただいた仕事をやり遂げなければ。衝動に突き動かされるまま、わたしは閉ざされた戸に前足をかけて、がたがたと揺さぶってみせました。がたがた、がたん。戸が歪な音を立てるのに合わせて、掛けられた錠前もまたかちゃかちゃと擦れあい、その存在を主張します。それはわたしよりもさらに小さい体であるくせに、わたしよりも遥かに強力な番人であるに違いありませんでした。悔しいかな、しかし彼の働きぶりは完璧だ。これならばもう誰も、この家に立ち入ることはできないでしょう。誰ひとり決して。それはわたしも、あの人でさえ――

「あぁ、これなら安心ですよ、あなた……」

 ひとしきり、自分のお払い箱っぷりを体感したところで、わたしはゆっくりと振り返ります。
 お待たせしました、けれどこれで、もう不安なことはない。だから一緒に行きましょう。今度はわたしを、どこへ連れていってくれるのですか。なに、わたしはどこでだって構わない。あなたが一緒であれば、そこはどこだって、わたしにとって楽園なのですから。
 あなたさえ、一緒なら……

 一緒に、いてくれるはずのあの人の姿は、
 振り向いた時にはもう、どこにもなくなっていました。



 わたしは途方に暮れていました。なにかをしようにも、まったく方向がわからない。たいせつなものをいっぺんに見失って、それがどこへ行ってしまったかもわからないものですから、動きようがありませんでした。帰るべき場所、あの人の姿、あの人のくれた鈴。そのどれもがわずかに数分の間に、わたしの手の届かない遠いところへなくなってしまったのです。悲しいというより、唖然としました。今だってきっと、思考が現実に追いついてこないから、ひどく無気力な気持ちでいるのです。わたしはまだ夢の中にいるのではないかと、本気でそう思いました。残念ながら、冬の夜の身を切るような寒さは、どうしようもないほどに真実でしたが。
 結局わたしは、あの人を見失った門前から、少しも身動きができないでいました。体も感情も、あの瞬間よりぴたりと凍りついたままで動かない。だけれどもそんなわたしを置き去りにしたまま、時間は無常に流れてゆきます。通りにはいつしか雑踏が舞い戻り、道行く人の足並みに何度となく蹴飛ばされそうになりました。これにはたまらず、わたしは向かいの家の屋根の上に避難します。そうしてそこから、夕日に暮れなずむ町の風景をぼんやりと眺めて過ごしました。眼下に広がる人の群れ、誰もがみな、家路を急いでいるのでしょう。わたしは思わずその群衆の中に、あの人の姿を探してしまいます。我が家へと急ぐあの人を。置き去りのわたしのために、通りを駆けてくる姿を……

 だけれども、探せども、探せどもあの人はいない。
 もう、この町の外へ、遠い遠いところへ行ってしまったのでしょうか。

 そのままぼんやりと時の流れに身を委ねていると、やがて翌日の朝が巡ってきました。一眠りして、目を覚ませばなにか変わっているのではないか、そんなわたしの期待は、微塵も叶えられることはありません。確かなものは身に凍みる冬の空気だけ。昨晩少しだけ降ったらしい雪の絨毯は、あの人の家の前だけ綺麗な色を残すままでした。
 今日もまた、待ちぼうけをくらって過ごすのでしょうか。時間がこんなにも緩慢に流れるなど、わたしはこれまで知る由もありませんでした。これまでの生活が、どれほど充実していたというのでしょう。たった一日あの人を見ないそれだけで、自分さえも見失いそうになってしまうなんて。
 意識のあるうちは、そんな思考がいつまでも頭の中で渦を巻きます。あの人という存在意義を失って今、わたしはとても不安定な状態にありました。ぐるぐる、ぐらぐらと。回転と暗転、反転と動転を繰り返す視界には、様々なものが映し出されては流れて行きます。懐かしい記憶、あたたかな想い出。だけどもそれと対を成すかのような、どうしようもない現実もまた網膜に大写しになって表れます。どこにもない彼女、見当たらない鈴。そして閉ざされた部屋の前に群がる、連中の――
 はっとなって、わたしは目を見開きました。
 いったい、なにが起ころうとしているのだ。
 わたしたちの家の前にたむろする、あいつらはいったい、なにものなのだ?

「鍵、掛かってるみたいですが、どうしましょう。構わねぇ、どうせ近いうちに長屋ごと取り潰されるんだ、今のうちにぶっ壊しておいても問題ねぇよ。はぁ、それじゃあひと思いに。中の荷物もばらしちまうんすかあ。使えそうな物は上で引き取るってよ、そうでないガラクタはまとめて粗大ごみさ、それとたしかもうひとつ……。猫ですね。ああ、猫だ、猫、見つけ次第始末しとけだと。ったく優等生の考えることはわからないっすねぇ、なんで畜生なんかに世話を焼いたんだか。猫ったって、このあたりにはごろごろいますけど、探すんですか? 飼い猫だって話だから、鈴か首輪ぐらいつけてるだろう、なに、家の中にいなけりゃそれでもいい、俺たちゃ別に、ここらの猫を皆殺しに来たわけじゃねぇ。ですね、進んで仕事を増やすこともないですか。早く終わらせちやいましょう、もう体が震えてきてらあ」

 なにを、なにを話しているのだ。わからない、貴様ら、いったいそこでなにをするつもりなのだ!
 ……そう、声を張り上げたつもりでした。けれどもどうしてか、わたしの喉は震えない。どんな叫びも咆哮も、胸の中に反響したきり、決して外に漏れ出すことはありませでした。まるでわたしの意識とは関係のない、言うなれば体そのものが歯止めをかけているかのようで。死にたくなければ、息を潜めろと。凍えきったお前の体で、いったいなにができるのかと。

 だからわたしには、見ていることしか、許されなかった。
 目の前で、
 なにもかもが終わってゆくのを、ただただ呆然と見つめていました。


 ――ばきぃん!!


 鈍い金属音が耳を穿ちました。なにかを乱暴にへし折ったような不快な音。慌てて眼下を覗き込むと、そこで繰り広げられていた光景にわたしは目を疑いました。わたしたちの部屋を固く閉ざしていたはずの南京錠、それが三人組の手によって、いとも簡単に壊されているではありませんか! わたしがあんなにかその堅固さを確かめたはずの封印は、わずかに一分と侵入者を阻むことはできませんでした。そうして無防備になった家の中に、やつらの魔の手がぞろぞろと伸びていきます。部屋中を土足で荒らし、無遠慮に品物を持ち出しては、後方の台車に放り込んでゆきました。あぁ、あれはわたしがはじめてご飯をもらったお皿。あれはわたしのお気に入りの毛布。わたしの、あの人の、想い出が日常が、次々に略奪されてゆきます。踏み躙られ、汚されていく。わたしはもう見ていることなどできませんでした。固く目を瞑り、身を縮こまらせ、それでもなおこの耳に届く侵略の音に、がくがくと震えるばかりでした。
 どうしたのだ、わたし。
 あの人を守る楯なのだろう、敵を打ち倒す剣なのだろう。
 だったら往かないか、目の前には、あんなにも明確な敵がいるじゃないか!

 ……だけども、怖い。勇気が、出ないよ……
 だってこの首にはもう、あの鈴が……

 わたしは恐れていた。生まれてはじめて湧いた感情に、成す術もなく打ちのめされていた。
 死にたくない。
 いやだ、あの人に繋いでもらったこの命、こんなところで……失いたくなんてないよ!


 気がつけば、わたしは一目散に飛び出していました。
 もう逃げないだなんて、そんな誓いもなにもかも忘れて、逃げ出した。
 死の寂しさが、冷たさが、どうしてかとても鮮明に理解することができて。
 ただ二度も死にたくないという一心が、わたしを無様な逃亡に駆り立てたのです。
 簡潔に言って、私は一週間と経たずに新しい職場を辞めてしまった。私の事務処理能力は、期待されていたほど高くはなかったのだ。特に厄介なのはその作業量の膨大さで、ある程度個人の判断で仕事量の調整が許されていた船頭とは違い、事務の方は休めば休んだ分だけ課題が積み重なっていくばかりなのである。仕事のペースに自分が付き合わされる、そんな現場にどうしても慣れることができず、あっという間に調子を崩して私は仕事ができなくなってしまった。元の上司に出すはずだった辞表は、事務課の担当に渡す羽目になってしまった。
「まったく、あなたには期待を裏切られてばかりですね。私、もしかして人を見る目がないのでしょうか」
「申し訳ありません……」
「いいですよ、病人にまで鞭を打つつもりはありません」
 そんな自分に嫌気がさして、部屋にこもって塞ぎこんでいたところへ訪ねてきたのは、他でもない船頭時代の上司だった。いつもの制服はまだきっちりと着こなしたままだ。どうやら仕事の合間を縫って私の様子を見に来てくれたようである。
「まだ、引きずっているのですか?」
「……わかりません。でも、いつまでも抱えていたら重荷しかならないって……必ずどこかで置いていかなきゃいけない感情だって、そう思っています」
「そうですか。あなたが後悔をしていないというのならそれでいいでしょう、安心しました」
 ほんとうは、この感情が後悔なのかなんなのか、名前もわからないというだけなのだけれど。しかし、珍しくため息を吐くほどに安堵してみせた彼女を、わざわざ心配させることもないだろう。それに、彼女が無事だと言ってくれたのなら、その言葉は私にとってとても信頼できるものだった。彼女はうそをつかない。誤魔化さない。だからこそ彼女からもらえた肯定は、私を勇気付けてくれるいちばんのおまじないだった。
「……だけど小町、これからいったいどうするつもりですか。是非曲直庁を辞めて、行く宛があるのですか。この家だって上から借り受けているものです、職員でない者をいつまでも住まわせておくわけにはいかないのですよ」
「それは、えぇと」
「考えていなかったのですか。まぁ、後先考えずにすぐ行動に移すのは、あなたの長所であり短所と言ったところでしょうか」
 呆れたふうに彼女はいう。私には言い返す言葉もない。たしかにこれから先、自分の身がどうなるかなど考えたことはなかった。いや、自分のことばかりでなく、全体の先を見通すということ自体が私は苦手なのかもしれない。そうでなければ、あんなことにはなかった。すべてはこの不甲斐ない自分の性格ゆえか。自分の駄目さ加減に息を吐きそうになると、しかしそれを制するかのように彼女が意外なことを口にした。
「それでしたら小町、あなた、船頭に戻ってみるつもりはありませんか?」
「え、――えぇ?!」
 あまりに予期していなかった発言に、私は思わず素っ頓狂な声をあげた。この期に及んで船頭だなんて、問題を起こしたからこそその職を追われたというのに、今さら復帰などはたして可能なことなのだろうか。
 しかし私のそんな困惑を感じ取ってか、彼女は少し意地の悪い笑みを浮かべながらこんなふうに続けた。この人にも、こんな顔をする時があるのか。こんなに、嬉しそうな顔を浮かべることが。
「あなたにはやはり、舟を漕いでいる姿がいちばん合っていると思うのです。そんなあなたの仕事ぶりを見ていることが、私は楽しいのですよ」
「で、でも……あんなことをしでかしておいて、今さら、」
「あなたが二度も過ちを犯すような人物だとは思っていません。もし次にこのようなことがあれば、その時は私の審美眼が紛いものだったということです」
「それは、私は、もう二度と……だけど、私や映姫様が良くても、他の皆は納得してくれるでしょうか……」
「自分の立場のことで悩んでいるのなら安心なさい。あなたが船頭に戻っても誰も文句を付けない、むしろ感謝さえされてしまうような担当場所が、ひとつ空いていたところなんですよ」
 有無を言わせぬ強い眼光。まったく、これじゃあやりませんかという誘いじゃなくって、やれ、という命令も同然じゃないか。もはや私に退路はないようだった。すべては彼女の思うがまま。いつの間にか私の首には輪がかけられていて、そこから伸びる紐はしっかりと彼女の手に握られていたのだ。
 どこまで来たのだろう。足が悲鳴を上げている。道端の石を踏みつけた拍子に、みし、と嫌な感覚が体中を突き抜けて、そのあまりの鮮烈さにやられてわたしはついに力尽きました。四肢を放り出し、脱力した体を支える術もなく、やがて大地の重みがゆっくりと圧し掛かってくるような感触に、わたしは「やんぬるかな」と呟きました。
 やはりわたしは出来の悪い猫でした。果たすべきことも果たせず、遂げるべきものも遂げられない。挙句の果てには、この無様。あの人が見ていたら、きっと悲しむことでしょう。あぁ、ほんとうに残念でならない。そう思うと同時に、あの人がわたしから離れていった理由も、ようやく理解することができていました。要するに、わたしはなにもかも遅すぎたのです。恩を返すのも、その想いを告げるのも、なにもかもが手遅れだった。あの人に注がれたはずの愛は、とうの昔に腐っていたのでしょう。腐ったものをつき返されたって、いい顔をしてもらえるはずがない。それなのにわたしは馬鹿みたいに甘えて懐いて、あの人に腐臭を擦りつけてばかりいたのです。まったく、なんて恩知らずな話。この不恰好な死に様は、恩を仇で返してきたわたしへの、当然の罰なのかもしれません。

「ほんとうにそうだったって、思ってる?」

 ……いいえ。
 いいえ、本心、わたしはあの人に尽くしていましたとも。尽くしていたつもりでした。この小さな体に秘められたかぎりの可能性で、あの人に報いたつもりでした! だけど!
「だけども通じなかったって、そういうふうに強引に理由をつけて納得しているのは、あなただけではないかしら」
 だってそうでなければ、あまりにも都合が良すぎるではありませんか! 返した恩は腐れていて、報いたつもりが裏切りです! それがどうして無罪放免になるのです! いや、ほんとうに罪などないというのなら、わたしに対するこの仕打ちはなんだ! 穏やかに生きてきたのに! あの人のためになりたかっただけなのに! ちくしょう! ちくしょう!!
「……あなたはほんとうに賢い猫ね。動物のくせに、ずいぶん纏まった理性をしている。それもすべて愛とやらの賜物かしら。あなたの御主人様は、愚かなほどに真っ直ぐな愛猫家だったのね。
 だけどね、あなた、やっぱり猫だから。猫って、勝手に生きて、勝手に死ぬ生き物だから。それでいいんじゃないかしら」
 わからない。わたしはいったいなんなのですか。あの人のなんだったのですか。愛玩ですか。愛猫ですか。勝手に生きて怒られませんか。勝手に死んで悲しまれませんか。わたしはこれからどうすればいい。帰るべき場所を、待つべき人を、縋るべき音を失って今、わたしは、わたしでいられる、自信がないのです……

「臆病な子、けれどやさしいのね、あなた。
 気に入ったわ。
 私と、取引をしましょうよ」

 くたびれた体が、ふっと軽くなります。今までのどんなものとも違う感触に、わたしは戸惑いと……しかし、たしかな安堵を感じていました。
 心が通いあうなんてことは、はじめてだ。尻尾を振る必要も、甘い声で鳴くこともない。ただ胸いっぱいに想うだけでいいのだ。好意を、思慕を、はちきれんばかりの愛を。
 そして、
 わたしを、救ってくださいと。


 帰るべき場所なら与えましょう
 待つべき人に私がなりましょう
 縋るべき音なら、鳴らしてあげる


 りん

 りん

 燐


 私の猫になりなさい

 三途川に支流というものは存在しない。悠然とした流れの源流はひとつであり、おなじものは三千世界にふたつと在りはしない。
 しかし流れとしての三途川は一本きりだが、それが見せる表情には幾百幾千という数が存在している。川に立ち入る者の心象次第で、その様相が無限に変化するのだ。ある者には賽の川原一面の花畑を、ある者には荒れ狂った濁流の川を。日々多くの死者が集ってくるはずの三途川が、霊魂で溢れかえらないのにはそういう仕掛けがあるらしい。もっとも大戦争などで同一の経験を有した死霊が集えば、河原は大変な盛況になること間違いないだろうが。
 その日、私はあるフレーズを抱いて三途の川へと向かっていた。私にとっては、はじめて訪れる三途川の“別の顔”ということになる。いや、正確に言えば話だけは聞いていたのだが、その噂の内容が私には今ひとつ理解しがたいものだったのだ。
 呑気で、能天気で、それでいて奇天烈な思考回路の持ち主ばかりが暮らす世界。

 その名を、幻想郷。

 私が新しく担当を命じられたのは、人間と妖怪の共存するらしい、そんな混沌とした世界の彼岸だった。
「それにしても、なぁ」
 それにしても――噂に聞いていたとはいえ、ほんとうにここが幻想郷の三途川なのだろうか。私にはどうにも実感が沸かなかった。空気が平穏というか、なんとも気ままなのだ。もちろん渡しを待つ霊魂は見かけるし、仲間の舟もちらほらと川面に浮いている。だが、どいつもこいつも悪い意味で適当そうに見えるのだ。お前たち、渡る気はあるのか。先輩方、渡す気はあるのですか。しかし誰に聞いても帰ってくるのは、ほんのりと酒の匂いを含んだ息ばかり。なるほど納得がいった。ここの連中には、ことごとく自分勝手なやつしかいないのだ。自分のルールの中で、自分のやりたいようにやっている。気ままに、自由に。まるで猫のように。
「だけど……うん。いいかもしれない」
 けれど、私の口からは自然とそんな言葉が零れていた。悪くない、うん、こんないい加減な場所だけど、悪くない。景色はどうしてか鮮やかに映るし、川霧を吸い込んでも胸が苦しくならないのだ。こんな素敵な場所を紹介してくれた映姫さまには感謝しなくては。ああ、でも私の直属ということは、彼女もまた幻想郷の変人たちを相手することになるのだろうか。まったく物好きな人め。私のような不出来の面倒を見てくれて、ほんとうにありがとう。
 あまりに天気が良かったものだったから、つい櫂を握るのも億劫になって、私は川岸に舟を止めてその上にごろりと寝転がってみた。こうして空を見上げてみるのは思えばこれがはじめての経験だろうか。仕事に追われるあまり、今まで余裕というものについて考えてみたことはなかった気がする。そうだ、思い返せばはじめから、私は手の抜き方を知らない阿呆だったんだっけ。その時は馬鹿にされているとばかり思っていたが、今にしてみれば必ずしも侮辱ばかりがこもっていたわけでもないのだろう。少しは休んだらどうなのかと、労わられていたのかもしれない。こんな考え方はちょっと楽観的すぎるかな。いいじゃないか、そんなもので。だってここは幻想郷だ。自分に都合のいいように捉えちゃ、わるいのかい。
 ふわふわと降りてきた陽気にあてられて、すぐに目蓋が重くなる。猫のようにあくびをして、猫のような背伸びを済ませれば、あとは小船の揺りかごに身を委ねるだけだった。
 猫のように眠ろう。
 猫のように生きよう。

 私は、猫になりたかったのかもしれない。
 首輪に縛られない、自由な猫に。
 燃えるような赤い髪、紅いひとみ。
 猫背じゃなくて、すらりと伸びた真っ直ぐな姿勢。
 あなたの想う、いっとうの人を思い浮かべなさいと、彼女は言った。

 だからわたしの髪は赤い。ひとみは紅い。
 ぴんと張り詰めた背筋は、どこから見ても映えるに違いない。
 そして、極めつけに。


「――あたい」
「はい、よく出来ましたね、燐」


 わたしを連れ帰った彼女がまずはじめに教えてくれたのは、ご飯の時間でも寝床の場所でもなく、“人の形”をとる術でした。「その方が、なにかと便利だから」と彼女は笑って言いましたが、慣れ親しんだ猫の姿から人の器へと乗り換えるのは中々に勇気のいることです。しかし最終的に、彼女の操る話術の前にわたしは容易く陥落します。「あの人のように、なりたくないの?」そんなふうに言われて、どうして首を横に振ることができましょう。
 かくしてわたしは新しいわたしを手に入れることができました。猫の心はそのままに、人の体と、人の言葉を手に入れたのです。それはもう感無量以外のなにものでもありませんでした。心の通いあわすことのできる相手が増えるのは、素晴らしいことです。その日からわたしは会話というものに深く傾倒していきました。相手を識り、自分を知らせるという行為。そしてそれを通じて得られる“友人”という存在は、これまでのわたしの生活になかった痛快な刺激でした。

 だけど、
 だけども時折、ふと考えてしまうことがあるのです。
 こんなにか満たされたわたしであれば、今一度あの人を射止めることが出来たのかもしれない、なんて。
 人の言葉を理解した今、わたしは……

 その抱かれざる感情を振り払うかのように、わたしはわたしの日常に没頭していきました。仕事に逃げる、という行為は、人の形だからこそ成しえる賢い逃避であると、彼女にはそう教えられました。
 わたしは彼女の猫でした。猫であるということは、つまり手を借り出されることもあるということです。その言葉の通り、彼女はわたしの手を惜しむことなく使いました。なんでも彼女はこの年からこの地の管理を任されたらしく、右も左もわからぬ状況の中で、とにかく手足として使える駒が欲しかったのだとか。なんと調子のいい人でしょう、わたしは気前よく、彼女の頼みを引き受けることにしました。
 わたしの仕事は、わたしの生まれ育ったあの町の“清掃”です。わたしの故郷――彼女が言うところの旧地獄は、ここのところすっかり荒れ果てた様相を呈していました。町は廃れ、人通りは堪え、路地には腐敗した匂いが滞るようになっていました。彼女から掻い摘んで聞いたところによると、どうやらこの町は見捨てられたらしい、住人の多くは新地獄へと移り住み、ここにはならず者と重罪人ばかりが取り残されたのだと言います。地底深くに封じられ、今では太陽も昇らなくなってしまったかつての地獄は、今では死体が灯す燐火ばかりがいつまでも燃え続ける死者の国でした。
 それでも――そんなところでも、やはりわたしにとっては懐かしの地で。崩れた長屋に、枯れた井戸端に、わたしはかつての面影を想起しては、猫車に積み重ねて運んでゆきます。町は変われども、この想いは決して褪せることはない。伝えたくても伝えられなかった昔日の感情を、わたしはいくつもいくつも拾い集めては、死体の山とともに積み重ねてゆきました。


 いつの日か、焼き払ってしまえる日がくると信じて。
 すべてなにもかも綺麗な燐火に変えた時、
 わたしはようやく、過去に決別できるのです。





 だけども、ああ、この罪はどうして忘れられよう。
 りん りん りんと。
 輪廻の罪が、この首を絞めつける。





 だけども、ああ、この愛はどうして忘れられよう。
 りん りん りんと。
 あなたの鈴音が、いつまでも鳴り止まない。








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