明治32年 1899年5月10日 | 大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。 |
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大正5年 1916年4月 | 京城の仏教学校・京城中央学林に入学 卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をする。 |
大正11年 1922年冬 | 朴広海へのまたいとこからの紹介状と、密教系大学への朝鮮仏教会からの推薦状を持参して来日し、大阪市梅田の朴広海を訪ねる。 |
梅田駅で、同年3月に東京上野の不忍池で開催される平和記念東京博覧会に参加する予定の両班階級の40人程の観光団と出会う。 | |
金天海と朴広海は、観光団の人に、朝鮮独立の意識を持たせる為に観光団の滞在していた旅館を訪れ、観光団の7人に「東京には行かない」事に同意させた。 | |
大阪府衛生課や警察などが7人を参加すように説得した。その過程で、7人が金天海から説得されたことが発覚し、金天海に逮捕状が出された。金天海は、東京に逃げた。 | |
大正11年 1922年春 | 金天海は、日本大学社会科に入学した。日本大学社会科には、三・一独立運動(万歳事件)に参加した者などが在籍していた。 |
金天海は共産主義者になり、労働者のストライキを見たり、堺利彦や山川均の書物を読む。 | |
「朝鮮が独立するためには、日本の帝国主義を打倒しなければならない。打倒するためには、日本人労働者と結束して、革命を起こすしかない」という考えを持つ。 | |
大正11年 1922年7月 | 日本共産党が、暁民会、水曜会、建設者同盟などが連合され結成される。 |
大正11年 1922年7月 | 信濃川朝鮮人虐殺事件が発生する。 |
大正11年 1922年7月29日 | 東京の読売新聞が、信濃川朝鮮人虐殺事件を報道する。 |
大正11年 1922年11月 | 在日朝鮮人により、在日本朝鮮労働者状況調査会が結成され、在日朝鮮人の労働状態が調査された。朴広海は茨城県、長野県、群馬県、愛知県の飯場を、実際に働きながら調査した。 |
在日本朝鮮労働者状況調査会を推進した人々が中心となり、東京朝鮮労働同盟が結成された。金天海は、東京朝鮮労働同盟会の実行委員に就任した。 | |
大正11年 1922年12月 | 大阪で大阪朝鮮人労働者同盟が結成された。 |
大正12年 1923年9月1日 | 関東大震災(マグニチュード7.9)が起きる。死者行方不明者、105385人 住宅被害棟数、372659棟 |
大正13年 1924年3月16日 | 東京朝鮮労働同盟と日本労働総同盟は、「関東大震災被虐殺日支労働者合同追悼会」を開催した。 |
金天海は、朝鮮人代表として、日本労働総同盟に対して、「日本政府に朝鮮人虐殺を抗議しよう」と提案するが、日本労働総同盟は賛同しなかった。 | |
大正14年 1925年1月 | 思想団体・一月会が結成された。金天海は一月会に所属した。 |
大正14年 1925年2月 | 全国の10数の朝鮮人労働組合団体が大同団結し、在日本朝鮮労働総同盟(略称は在日朝鮮労総)が結成された。 |
大正14年 1925年7月 | 金天海は、在日朝鮮労総の神奈川県の地方組織として、神奈川朝鮮合同労働会を結成し、常務執行委員に就任した。 |
大正15年 1926年 | 共産主義系の朝鮮労働青年団の指導者となった |
神奈川朝鮮合同労働会中央委員、関東朝鮮労働組合連合会委員長に就任した。 | |
大正15年 1926年12月10 | 神奈川県足柄上郡松田町で、町役場と警察署が内鮮融和講演会を開き、融和派の3人の朝鮮人が公演を行なうことになっていた。 融和に反対する朝鮮人飯場の親方6人が乱入し、公演予定の朝鮮人3人を殴打し、内鮮融和講演会は中止になった。 警察は、6人の朝鮮人親方を逮捕して取調べた結果、金天海が朝鮮人親方をオルグしていたことを突き止め、金天海は小田原町弁財天の旅館「北辰館」で逮捕された。 |
昭和2年 1927年1月10日 | 小田原区裁判所で金天海の第1回公判がおこなわれ、東京、神奈川、静岡などから、朝鮮人飯場の親分40人以上が、傍聴にやってきた。第2回公判でも、30数人の朝鮮人の親分が、傍聴に訪れた。警察は公安担当者全員で法廷内外を警備した。金天海が控訴して横浜に送致されることになると、30人の朝鮮人親分が同行した。 |
昭和2年 1927年2月 | 朝鮮共産党日本総局が設立された。 |
昭和3年 1928年5月 | 金天海は在日朝鮮労総中央執行委員長兼争議部長に就任し、日本全体の在日朝鮮人労働運動の最高指導者となった。 |
金天海、朝鮮共産党に入党する | |
昭和3年 1928年6月 | 朝鮮共産党日本総局責任秘書・韓林ら、大多数の日本総局幹部が逮捕されると、金天海は朝鮮共産党日本総局責任秘書に就任した。 |
昭和3年 1928年夏 | 朝鮮共産党日本総局と高麗共産青年会日本部は、国恥記念日(日韓併合により朝鮮総督府が発足した8月29日)と関東大震災虐殺同胞追悼記念日(関東大震災が起った9月1日)に向けて、闘争を組織した。この闘争は、労働者の要求に基づく「経済的部門的闘争」ではなく、民族主義に基づいた「民族的政治的闘争」となった。 |
昭和3年 1928年8月29日 | 東京新宿の武蔵野館横の空き地で、150人の朝鮮人労働者が集まって、集会を開いた。その後、革命歌、労働歌を歌い、ビラをまきながら、デモ行進した。 |
デモ隊は、駆けつけた警官隊と乱闘となり、23人が治安維持法違反で現行犯逮捕された。 | |
警察は、23人の朝鮮人労働者を取り調べて、朝鮮共産党指導部の存在と、指導部指示による集会・デモ闘争を把握した。官憲は、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓、朴台乙ら闘争指導者を割り出した。 | |
昭和3年 1928年10月25日 | 金天海は、神奈川朝鮮労働組合横浜支部で逮捕された。 |
昭和3年 1928年12月 | コミンテルンは、朝鮮共産党の分派抗争に関して、どのグループも支持しないとして、朝鮮共産党承認を取り消した。 |
昭和4年 1929年 | 在日朝鮮労総では、日本共産党指導下の日本労働組合全国協議会(略称は全協)への解消が提起された。 |
在日朝鮮労総関東協議会で、川崎と横浜の代表が解消に反対した。 | |
金斗鎔らが解消を推進した。金斗鎔は、労働者独自の運動に戻り、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』に基づいて民族的闘争を放棄することを主張した。 | |
その後、東京の在日朝鮮労総と川崎・横浜の在日朝鮮労総の間で内ゲバが起こる。 | |
昭和4年 1929年12月14日 | 在日朝鮮労総全国代表者会議で、在日朝鮮労総を解体し、工場を基盤として、組合を産業別に再組織化することが決定した。 |
また、全協への即時加盟が決定した。全協には、朝鮮人委員会が設立され、朝鮮人委員会が朝鮮人問題の指導に当たることになった。在日朝鮮労総傘下の組合員数は3万数1000人あった。 | |
昭和5年 1930年10月 | 在日朝鮮労総は全協に再組織されたが、組合員数は2600人に激減した。 |
昭和5年 1930年11月25日 | 東京地方裁判所で、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓らの第1回公判が開かれた。混乱したため「分離裁判・非公開裁判」となる。 |
昭和5年 1930年12月8日 | 第2回公判が開かれるが、第1回公判同様混乱のため、「分離裁判・非公開裁判」となる。 |
昭和6年 1931年3月21日 | 金天海は懲役5年の実刑判決を受け、控訴した。 |
昭和6年 1931年10月 | 幹部の大量検挙により、朝鮮共産党日本総局が解体した。同年、全協組合員1万人中、4000人が朝鮮人だった。 |
昭和7年 1932年8月30日 | 控訴審判決があり、金天海の懲役5年の実刑判決が確定した。金天海は市ヶ谷刑務所に服役した。 |
昭和10年 1935年 | 金天海は市ヶ谷刑務所から出所した。 |
李雲洙が訪ねてきて、金天海に合法的な朝鮮語の新聞を作ることを提案した。金天海は、李雲洙の提案に賛同した。 | |
昭和10年 1935年12月16日 | 合法的に「朝鮮新聞社」が設立された。「在日朝鮮人労働者の文化的向上を目指し、在日朝鮮人労働者に社会的・階級的・民族的自覚を喚起させること」を目的とした。 |
昭和10年 1935年12月31日 | 『朝鮮新聞』創刊準備号が発行された。 |
昭和11年 1936年7月10日 | 『朝鮮新聞』の中心メンバーが、「新聞を通じて共産主義を宣伝し、日本共産党の目的遂行のために活動した」として逮捕された。同年7月31日までに、李雲洙、朴台乙、金斗鐙が検挙された。 |
昭和11年 1936年12月5日 | 朝鮮人の人民戦線運動家が一斉に検挙された。朴広海と朴景順も、「合法組織を偽装して共産主義非合法グループを組織し、『朝鮮新聞』を通じて共産主義を宣伝した」として逮捕された。 |
昭和12年 1937年11月1日 | 金天海は起訴された。懲役4年の判決を受けて滋賀県の膳所刑務所に服役した後府中刑務所に移送され、独房生活を送った。その間、1941年3月に治安維持法が改正され、予防拘禁制度ができたことにより、共産主義から転向しない限り、刑務所から釈放されないことになった。金斗鐙は共産党から転向し出獄したが、金天海は転向を拒否した。 |
昭和17年 1942年9月 | 刑期が満了したが、共産主義からの転向を拒否していたため、予防拘禁制度により東京・豊多摩刑務所の東京予防拘禁所に送られた。 |
昭和17年 1945年8月15日 | ポツダム宣言を受諾し、日本が条件付きで降伏する。 |
昭和20年 1945年9月10日 | 在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)中央準備委員会が結成され、新宿角筈の朝鮮奨学会に、事務所を開いた。 |
朝連中央準備委員会は、日本共産党の再建のための集会費、自動車代、印刷代などの費用を援助した。 | |
昭和20年 1945年10月10日 | 寺尾五郎が豊多摩刑務所から出所し、400人(多くが朝鮮人)が寺尾を出迎えた。 |
寺尾ら400人は、数台のトラックに「歓迎・出獄戦士・万歳」と書かれた幕を貼り付け、トラックに分乗して府中刑務所に向かった。 | |
徳田球一、黒木重徳、志賀義雄、金天海、山辺健太郎ら16人が、府中刑務所から出所した。寺尾ら400人が出迎えた。 | |
府中刑務所前で、徳田と志賀が挨拶し、天皇制の打倒と人民共和国樹立を目標とすることを宣言した。 | |
金天海は、「日本帝国主義と軍閥の撲滅」「天皇制の廃止」「労働者農民の政府樹立」「朝鮮の完全独立と民主政府の樹立」を訴えた。 | |
その後、出獄した政治犯は、アメリカ軍のトラックで、陸軍中野学校跡の兵舎に連行され、連合国軍最高司令官総司令部からの事情聴取を受けた。 | |
出獄歓迎の群衆2000人は、芝田村町の飛行会館で、「出獄同志歓迎人民大会」を開催し、新橋と銀座に出て、デモを行なった。 | |
昭和20年 1945年10月15日 | 日比谷公会堂で在日本朝鮮人連盟が結成され金天海は、最高顧問に就いた。日本各地から代表4000人が集まった。 |
結成時の綱領は、 「新朝建設に献身的努力を期す」 「世界平和の恒常的維持を期す」 「在日同胞の生活安定を期す」 「帰国同胞の便宜と秩序を期す」 「日本国民との互譲友誼を期す」 「目的達成のために大同団結を期す」 の6項目だった。 | |
昭和20年 1945年11月 | 朴烈は秋田刑務所から出所した。その後、朴烈は新朝鮮建設同盟を結成し、後に在日本大韓民国居留民団(略称は民団。後の在日本大韓民国民団)の民団長になった。 |
昭和20年 1945年10月16日 | 在日本朝鮮人連盟の左翼化に反対した在日朝鮮人の青年が集まり、朝鮮建国促進青年同盟(略称は建青)を結成した。町井久之(本名は鄭建永。後の東声会会長、東亜相互企業社長、釜関フェリー社長)は朝鮮建国促進青年同盟東京本部副委員長となった。 |
昭和20年 1945年12月1日 | 代々木の日本共産党本部で日本共産党第4回大会が開催された。 |
天海は中央委員に選出され、中核である7人の政治局員にも選ばれた。20人の中央委員候補には、金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(本名は李浩明)、宋性澈の4人の在日朝鮮人が含まれていた。後に、遠坂寛(本名は崔斗煥)も中央委員候補に入った。このときの共産党員は6847人(うち約1000人が在日朝鮮人)だった。党中央には朝鮮人部が設立され、金天海が部長に、金斗鎔が副部長になった。 | |
昭和21年 1946年2月27日 | 永田町国民学校で、在日本朝鮮人連盟の第2回臨時全国大会が開催された。 |
大会は「朝鮮人民共和国支持問題」で紛糾した。 | |
在日本朝鮮人連盟の右派は「共産主義者を在日本朝鮮人連盟から追い出せ」と書かれたビラをまいた。これを切っ掛けに、町井久之の建青ら右派と朝連の左派との乱闘となり、右派の鄭哲が左派の若者の腹部を銃撃した。 | |
昭和21年 1946年3月6日 | 在日朝鮮人連盟傘下の青年組織として、在日朝鮮民主青年同盟(略称は民青)が結成された。 |
昭和21年 1946年夏 | 金天海は北海道旭川市の炭鉱近くの朝鮮人部落を訪れ、朝連への参加を呼びかけた。朝鮮人部落の全員が朝連への参加を決めた。 |
昭和21年 1946年7月19日 | 金天海は、民青中央メンバーに「建青の若者は困った者だ。自分が説教して言い聞かせるから、連れて来い」と言った。 |
民青中央メンバーは「拉致して、罵倒して暴行を加えて、懲らしめろ」と解釈した。民青メンバー約100人は、拳銃や日本刀や棍棒を持ち、トラック3台に乗って、六郷橋のアメリカ軍憲兵(MP)の検問を突破し、川崎市四谷建青支所に向かった。 | |
昭和21年 1946年7月20日 | MPの検問を突破した民青メンバー約100人は、川崎市四谷建青支所を襲撃した。 |
その後、桜木町の朝鮮人住宅を襲い、建青幹部10人を拉致し、板橋の民青のアジトに連行し、暴行を加えた。 | |
同日、民青メンバーは建青本所支部を襲撃した。 | |
方、同日、建青メンバーは、朝連荒川支部、朝連上野支部などを襲撃した。 | |
昭和21年 1946年7月22日 | MP司令部は警視庁警備課長と朝連の代表者と建青の代表者をMP司令部に呼び、抗争事件を再発させないように警告した。 |
昭和21年 1946年7月 | 金天海は京都の会議に参加した。宿舎がなかったため、京都到着時に迎えに来てくれた在日朝鮮人の労働運動家宅に泊まることになったが、労働運動家が玄関先で「私の妻は日本人ですが」と言うと、金天海は家には入らずに野宿した。 |
昭和21年 1946年10月3日 | 朝連の左翼化に反対するメンバーが、在日本朝鮮居留民を結成した。 |
昭和21年 1946年12月20日 | 皇居前広場で、朝連主催の生活権擁護人民大会中央大会が開催され、1万人を超える人が参加した。 |
デモ隊の一部が首相官邸に乱入し、警官隊と乱闘になった。 | |
警官隊は拳銃2丁と実弾10発を奪われた。武装警官とMPが出動し、デモ隊に向けて銃弾4発を発砲して、デモ隊を鎮圧した。警官隊の重軽傷者は24人。15人の在日朝鮮人がMPに連行された。 | |
昭和22年 1947年10月 | ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。 |
昭和23年 1948年1月24日 | 日本政府は、各都道府県知事に、朝鮮学校の閉鎖と在日朝鮮人生徒の日本学校への転入を通達した(朝鮮学校閉鎖令)。これを切っ掛けに阪神教育事件が勃発した。 |
昭和23年 1948年8月15日 | 東京・皇居前広場で、朝連と日本共産党は生活防衛・反ファッショ人民大会を共同で開催した。 |
金天海は、民族教育闘争や不当弾圧反対闘争のアジテーション(扇動・策動や政治活動)を行った。 | |
昭和23年 1948年秋 | 朴烈、建青幹部・李孝燮らは金天海の暗殺を計画した。 |
昭和23年 1948年11月 | 金斗鎔は北朝鮮に密航した。 |
昭和24年 1949年1月 | 李孝變が暗殺された。 |
朴烈は、若手アナキストによって、民団長を辞任させられた。 | |
このころ、金天海は金恩順と内縁関係にあった。金恩順は後に朝連婦人部二代目部長となり、在日本朝鮮民主女性同盟(略称は女同)の初代委員長となった。 | |
昭和24年 1949年6月30日 | 福島県平で、平事件が勃発した。 |
昭和24年 1949年9月8日 | 団体等規制令により、在日本朝鮮人連盟に解散命令が下され、金天海、韓徳銖、曺喜俊ら19人の朝連幹部は公職追放となった。 |
同日、在日本朝鮮民主青年同盟、在日本大韓民国居留民団宮城県本部、大韓民国建国青年同盟塩釜支部も解散させられた。民青では9人が公職追放となった。 | |
昭和24年 1949年9月16日 | 日本共産党は党本部にて在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する緊急対策会議を開催、翌17日には2日間に渡り在日本朝鮮人連盟などの団体等規制令による解散に対する日本共産党朝鮮人部拡大全国会議を開催した。 |
会議の冒頭では金日成のメッセージが朗読された。金天海らはGHQと法務省に抗議をおこない、朝連などの解散撤回と公職追放撤回を求めたが却下された。 | |
昭和24年 1949年12月 | 朴恩哲が日本共産党朝鮮人部に代わって、新たに日本共産党民族対策本部(略称は民対)を組織した。韓徳銖は民対の指導メンバーになったが、朴恩哲体制が確立すると、韓徳銖は反朴恩哲グループを形成した。 |
>昭和25年 1950年6月10日 | 金天海は金桂淡とともに、香住丸で鳥取県境港から大韓民国釜山に密航した。金天海は日本共産党中央委員のポスト後継者に韓徳銖を指名した。 |
昭和25年 1950年6月15日 | 金天海は北朝鮮に密航した。 |
昭和26年 1951年11月 | 朝鮮労働党第2回大会で、金天海は労働党中央委員・社会部長に就任した。 |
昭和26年 1951年12月10日 | 日本へのラジオ演説を開始した。 |
昭和27年 1952年5月2日 | 日本向けラジオで「在日同胞に訴う」を演説した。 |
昭和30年 1955年7月8日 | 金天海は平壌放送で在日朝鮮人に向けて「8・15解放10周年を祝おう」と訴えた。 |
昭和31年 1956年1月27日 | 祖国戦線議長として「在日朝鮮公民の帰国と大村収容所の釈放問題は正当に解決されるべき」との声明を発表した。 |
昭和32年 1957年1月1日 | 朝鮮総連に激励の辞を送った。 |
昭和32年 1957年11月8日 | 祖国戦線第2回大会で議長団に選出された。 |
昭和33年 1958年 | 金日成から労働勲章を受けた。 |
昭和35年 1960年8月13日 | 「8.15朝鮮解放15周年慶祝訪朝日朝協会使節団」を平壌の飛行場で出迎えた。 |
昭和45年 1970年 | 労働党第5回大会で金天海の名前が中央委員名簿から消えた。以後、金天海の消息は途絶えた。 |
アムネスティー・インターナショナルが発表した勝湖里(平壌市勝湖区域にある)強制収容所の収容者名簿に載ったと伝えられている。 | |