子供の頃、いちばん好きだった遊びはユークリッド幾何学だった。
五つの公理があって、そこから導かれる数々の定理を証明して、世界を少しずつ語りつくしていく、あの快感は、いま考えても、ほかにはあまり比類がない快楽だったとおもう。
もちろん、学校では、そんなものはまったくやっていなくて、ただ自分で見つけてきて、世の中に用事がなくなって使われなくなった言葉を死語というが、いわば死学で、子供の頭で考えても、まったくの時間のむだだったが、どうやら、むかしから、無駄なことにしか惹かれない性格で、自分の将来の生活に役立ちそうなことには、なんの興味ももたなかった。
父親の家系も、母親の家系も、一生職業についたことがない人間が、ごろごろいるダメな家に生まれたので、そういうこともよかったのかもしれない。
先祖には、まだ馬車が走っている時代に、イタリア出身の娼婦の女の人に、すっかり魂を奪われて、出奔して、イタリアに帰ってしまった、そのひとを追って、ローマに住み着いてしまった人もいたりして、それがまた、尊敬のまなざしとともに語られる家の雰囲気だったので、別にダメでよくて、気楽なもので、学校は行きたくないときは行かなかったし、朝から晩まで数学ばかりやっていても、嫌な顔をされたことはなくて、ありがたいというか、張り合いがないというか、一生なんて、なんだかテキトーでいいのだ、ということは、多分、だから、自分の考えであるよりも、家の思想であるのかもしれません。
家の敷地を流れていた小川を跳ぶことから始まって、運動も好きで、長じては、クリケットや乗馬のような、めくるめく気分の高揚があるスポーツだけでなくて、ただバカみたいに走ったり、泳いで湾口を横切るというようなことにも、興奮があることを学んでいった。
運動をする人はみな知っているが、えっこらせ、うんとこしょ、と声が出ているような動きが、運動を重ねるにつれて身体が軽くなって、軽々と、重力をシカトして身体を動かすことが出来るようになる。
いちばんの違いは、リズムをつけて、タッタッタ、ターンとこなすような、例えば跳躍なら跳躍が、リズムもなにもなくて、無造作に、いきなり本題の身体運動に入れるようになることで、身構えずに、まるで月の地面に立っている人のように、バク宙をできるようになるところまでくると、人間の知性などは、身体の運動能力の付録であるようにおもえてくる。
人間の最も惨めな生き方は、他人の目のなかで生きることだろう。
他人の目のなか、とは、言い換えれば、他人の価値観に応えるための一生ということで、有名な大学に入れば、ほめてもらえるし、ある場合には、ただ職業を述べただけで、賛嘆してもらえることすらある。
「他人」のなかで、最も恐ろしいのは親で、巧妙な親になると、例えば医師に息子を仕立てたいと考えていても、直截はいわず、「ぼく、立派な医者になって病気の人を救いたい」と述べた途端に眼を輝かせたりして、親と子のあいだで通じるサインで、巧みに息子を誘導して医師に仕立て上げてしまったりする。
有名な大学をでて、医師になって、あるいは医学研究者になって、まわりの人間に敬意をもたれて、行くさきざきで「すごいですね」と言われて、自分の人生をすってしまう人間などは、それこそ何十万人もいる。
難しいことではなくて、医業に「むいていない」人間で、自分の知っている人間を考えても、容赦のないことをいえば、他人の発想を援用した、ゴミのような論文を書いて、大学の準教授にまで、うまくなりおおせて、なにしろ英語人という生き物は口さがないので、陰では、ただのバカなのではないか、あれは医学の研究をしたかったのではなくて、医学者になりたかったのだろう、とまで言われながら、自分の専門とはまったく関係がなさそうな人間に出会うと、まるでまともな研究者であるかのようにふるまって、鬱憤を晴らす人間もいる。
これ以上ないほど惨めな一生だが、医学を物理学、あるいは数学に置き換えてさえ、この手の人間は無数に存在する。
みながみな、他人の視線のなかで生きたがために、自分の人生を無駄に費消してしまったひとびとなのだとおもう。
人間にとっては、自分がなにをやりたいかを発見するのは、たいへんな難事業だが、考えて見ると、なにごとか、自分の価値を発現する職業をみいだして、そこで、余人にはなしえないなにごとかを達成しようとすること自体が、いわば、自分の一生を危うくする発想で、別になにもしなくて、なにごともなしえないで終わっても、それのどこが悪いのか、ということを、両親から教わった。
せっかく健康な肉体をもって生まれてきたのだから、自分が生きていることを満喫して、また彼岸に帰ればよいではないか。
と、いまは思っている。
人間は魂として存在する期間が長いというが、仮に魂という存在の様式があるとして、魂にとってはローストラムを食べる味覚の喜びがなく、愛しい人の肌に触れる触覚の愉楽がなく、自分の身体が地面を蹴って、宙で反転する、筋肉の躍動の快楽を味わう能力もない。
肉体は現世の快楽の受容器で、せっかく肉体をもってうまれたのに、たとえば本ばかり読んで、魂でもやれることばかりやって、老いてしまうのでは、人間のやりがいがないというか、不燃の一生であるとおもう。
男と女の違いは、女に生まれつくと、男に生まれた場合と異なって、肉体を意識させられる機会が多いことであるのは、ほとんど考える必要もない。
まず、調子が悪い日が、男に較べると圧倒的に多い。
気分がすぐれない、身体が重い、自分で理解できないほど奇妙な判断を繰り返す、PMSだけではなくて、ホメオスタシスという、恒常性のバランスそのものが、ぐらぐらするので、今日は魂どころではないな、これは、と考える日が多い。
男のほうは、もともと肉体の構成が単純で、あんまり肉体を意識しなくてもいいように出来ているというか、もっと簡単にいえば、粗製で、最低限の要素で成り立って、テキトーなので、自分に肉体があることを忘れやすい。
女のひとびとのほうが、人間の一生の意味を深いところで捉えて、「生」ということについて、深く深く考える傾向がある所以であると思います。
人間の社会性は、実際には、動物として生き延びるための本能にしかすぎない。
動物としての自分と距離をおいて一生をすごそうとおもえば、社会性などは邪魔なだけで、垂直に、深い井戸を覗き込むようにして言語をつかったほうが、人間として価値がある一生をすごしやすいのは、言うまでもない。
人間は、個人として一個の完結した宇宙で、その宇宙に法則が生まれて、光が生じはじめることが、人間にとっての成熟であるに違いない。
数万光年を生きて、意識をもたない宇宙に較べて、人間という宇宙は80年という寿命しか持っていない。
どんなに名を残そう、この世界に新しいものをつけくわえようと頑張ってみても、一個の完結した宇宙である以上、それは意識の意匠にしかすぎなくて、現実は、肉体と中枢神経が感受した「快」の積み重ねができて、死とともに雨散霧消するのでしかない。
人間の言語が神を前提とし、善を願い、永遠という野原に自分を置いてみたがるのは、いずれも人間の意識が、自分が死ねば、この宇宙は無に帰するのだという寂寥に耐えられないからであるに過ぎない。
無惨、ということがあてはまりそうなほど人間という小宇宙は儚い存在だが、せめても自分の意識が存在しているあいだ、この世界を楽しんで、手に手をとって、お互いの儚さを大事にして、悪意や憎悪から自分を引き離して、たださえ短い小宇宙の寿命を無駄に費消することを避けて暮らすのがよいようにおもわれる。
ほら、日本の詩人も言っているでしょう?
ミルクを飲むように
花の名前をおぼえるように
それが、どれほど大事なことかわかったときに、人間の一生は、やっと、始まるのだとおもいます。
家へ帰ってきて、も一回読んでみた。
「人間は、個人として一個の完結した宇宙で、その宇宙に法則が生まれて、光が生じはじめることが、人間にとっての成熟であるに違いない。」
名作です。
やっぱりガメさんは神の使い。
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