質問:「カリオストロの城」の地下迷宮に残された日本語のメッセージについて教えてください
解答
1904 3 14 日本國軍偵 河上源之助 ここに果つ 仇(以下不明)
1904年(明治37年)3月14日とは、同年2月8日に始まった日露戦争の直後になります。当時、日本の軍偵が欧州で活動していたとすれば、対露工作であった可能性が高いでしょう。欧州方面の対露工作担当者(スパイマスター)といえば、まず陸軍の明石元二郎大佐の名前が思い浮かびます。彼の工作が日本の勝利に大きく寄与したことは、今さら改めて書くまでもありません。このように考えると、軍偵河上源之助とは、明石大佐の手足となり、欧州を舞台に活動した諜報員の一人であったという推測が成り立ちます。
カリオストロ公国といえば、別名「ゴート札」とも呼ばれる偽札造りの震源地です。もし偽札を謀略に用いるとすれば、後方攪乱の一種として行われる敵国経済の破壊以外にありえません。ルパンいわく「中世以来、ヨーロッパにおける動乱の陰にはゴート札あり」ですから。太平戦争中、日本陸軍が登戸にあった研究所で、同様の作戦を研究していました。これは実際に中国大陸で実施されたそうです。
明石大佐の密命を受けた河上源之助は、単身カリオストロ公国に潜入しました。何らかの伝手を使った河上は、公国の暗部を担っていた伯爵家との接触に成功します。河上は伯爵家にゴート札の製造を打診しましたが、伯爵家は即答を避け、河上にしばらく城内で逗留するように求めます。日本の要請に応じる気のなかった伯爵家は、”影”と呼ばれる暗殺部隊に河上の寝こみを襲わせました。からくも危地を逃れた河上でしたが、多勢に無勢の状況だけはいかんともしがたく、とうとう城の地下迷宮にまで追い詰められます。自らの死を悟った河上は、地下迷宮の石壁に日本語のメッセージを彫り込みます。やがて地下迷宮に”影”が押し寄せてきました。最後の抵抗もむなしく、河上は額に銃弾を撃ち込まれて処刑されてしまいました。かくして故郷を遠く離れた異国の地で、日本の軍偵は非業の最期を遂げたのでした。南無。
インターポールの会議において、ソ連代表が唱えた「CIAによるルーブル札偽造陰謀説」は、失敗に終わった河上工作を念頭に置いた示唆だったのかもしれない。