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桐原郁美は赤が嫌いだ。正確には赤をはじめとした派手な色をしたものが嫌いだった。だから選ぶ服の色も地味なグレー系の物が多かった。眼鏡のフレームも黒縁で、髪を染めた事がなかった。
郁美は自分のことを地味だと思っている。今日も会社のデスクに座っているのはグレーのスーツを着た黒縁眼鏡の地味女。それが当たり前だった。
だが、今日の郁美の胸にはひとつのブローチが留まっていた。グレーと黒の中に、嫌でも目立つ赤の色。
郁美はそれが気になって仕方がなかった。パソコンのキーを打ちながら、何度も位置を確かめるように触っては離す。むず痒い所を服の上から掻いているようなもどかしさがそこにはあった。
細長い銀色の台座の上に親指の爪ほどの大きさの赤い半球。ルビーのような輝きはなく、かといってプラスチックのような軽さもない。
同僚の太田加世子が有給休暇で有田に旅行に行ったときのお土産の品である。有田焼の陶磁玉を使った色とりどりのブローチを彼女は仲の良い同僚の女性社員に土産に、と買ってきてくれたのだ。
休憩室でお茶と一緒に振る舞われたそれらに、同僚の女子社員たちは一様に目を輝かせた。
赤に青に黄色、どれも郁美の嫌いな色だった。地味な自分がそんな色を身につけるところを想像してみると、派手できらきらとした色がたちまち輝きを失ってしおれてしまう。そんな気がしてならない。
このときばかりは女学生の様にきゃいきゃいとはしゃぐ同僚たちを後目に郁美は気後れしたまま手を伸ばせないでいた。
郁美と加世子の仲は悪くない。この間も給湯室で噂話をしたばかりだ。上司の木村は毎日ネクタイの柄が違う。怒られそうになったらそこをほめるとごまかせる、とか。くだらなくって笑ってしまったが、今度怒られそうになったら試してみよう、と郁美は思っていた。そのネクタイ素敵ですね、とか言ってみたら上司はどんな顔をするんだろう。本当に話をごまかせるんだろうか。
加世子はそんな話が上手で毒なく話すので、皆からそれとなく好かれていた。それだけでなく、オフィスに花を飾るなどの細かい気配りをする事もあった。花は原色をたっぷりと使った濃い赤色と黄色、それと白のガーベラ。郁美の嫌いな色だった。けれども、そんな事を言うわけにもいかず、唯一嫌いでない白のガーベラに目をやりながら、
「お花を飾ると華やかになりますよね」
とか適当な事を言ってみた。すると、
「ですよね、とってもきれい」
と加世子は顔をほころばせた。ええ、と同意してから郁美は葉と茎の緑へと目を逃がした。
そんな加世子の気遣いが裏目に出た形がこのブローチだった。赤や黄色が好きな人なら、饅頭や煎餅より気が利いているかもしれない。だが、郁美は色とりどりのブローチやヘアピンの前でどうにもあぐねいていた。
本当だったら断ってしまいたいぐらいだったが、それでは角が立つ。だからといって、一番目立たなくって、地味な色のアクセサリーをさっさと取ってしまうのもはばかられた。皆が選びながら話をしているときに、その話題の中心を奪ってしまうようなことをすれば、一気に場が白けてしまうかもしれない。社会に出ても、結局細かな気遣いがなにかしら必要になるということを郁美は痛感していた。
「桐原さんにはこれとかどうかしら」
ここでもまた加世子の気遣いが裏目に出た。きっと郁美が遠慮しているように見えたのだろう。郁美の最も苦手な赤の色がはまった銀のブローチをひょいっと取ってグレーのスーツの胸元に合わせて見せた。そのまま微笑まれると何も言えず、郁美は曖昧な作り笑顔を浮かべてそれを受け取った。
いいですね、似合ってますよ。やっぱり太田さんはセンスいいわね。桐原さんはそれで決まりですね。
口々に感想を言って、同僚たちも内心で品定めしていたアクセサリーを手に取る。そして何のためらいもなく、髪に付けてみたり、胸に飾ってみたりしている。
赤に黄色に青。
安っぽいアクセサリーでさえ他人が身につけているときはどこか輝いて見える。だが、手の中にある赤はもう褪せて見えた。
「桐原さんはどう?」
加世子が悪意なくたずねる。ええ、とつながらない返事を返してから郁美はブローチを胸に留めた。鏡で見るまでもなく、褪せた赤色を胸に留めている女はさぞお粗末だろうな、と
「やっぱり、とっても似合ってますよ」
と笑顔を見せる加世子に、ありがとうございます、と笑顔で返事を返した。が、内心ではどうにも落ち着かない心境だった。上司に見つかるといけないから、と適当な口実を立てて胸のブローチを外してしまいたかった。
喉元まで出掛かったとき、休憩室の戸が開いて上司の木村が顔を見せた。悪いことをしているわけではないが皆、少しこわばったような顔をして見せた。
「おや、アクセサリーかね?」
少しいぶかしんだ声で、木村が尋ねた。郁美は内心で、気まずく思いつつも、このまま角が立たずブローチを外してしまえることを望んでいた。
「あ、はい。お土産なんです、女子限定で。課長も欲しかったですか?」
ぱっと明るい笑顔で加世子が嫌味なく笑いかけた。木村は気を悪くした風もなく、近くにいた郁美のブローチに目をやってから、へえ、いいじゃない、と残して出ていってしまった。
どこがいいのか、と郁美は内心で毒づいた。
その場はそこで解散になり、それぞれが自分のデスクへと戻っていった。
今もパソコンに向かって帳簿を打ち込んでいても、胸にあるブローチが気になって集中出来なかった。もしも誰かに似合ってると言われれば、ありがとうと礼を言えばいいのか。柄にもないと言われたら、もらいものなんです、とおどけて言えばいいのか。
「桐原さん、これもお願い」
どさり、と郁美のデスクに追加の帳簿が置かれた。去り際に書類を置いた男子社員はちらりと郁美のブローチに目をやった。ちりっとした緊張感が走る気配がした。
が、何か言うこともなく歩いていってしまった。そもそも気づいていたのかいないのか、それさえもよくわからないままに。
顔を画面に向けたまま、せいっぱいその背を目で追いながら郁美はなんとなく拍子抜けした気がした。
追加された帳簿の入力が終わったのは六時をまわってからだった。定時はとうに過ぎている。残った社員の数は十人もいない。課長の木村が定時を過ぎた途端に退社したため、オフィスに残って仕事をしている社員にはどこかだらけた雰囲気が流れていた。
二回目の確認を終えて、郁美は小さく伸びをした。
初夏の夕暮れは日が落ちるには早く、オフィスの中はまだ明るかった。そっと見回しても女子社員は郁美ひとりになっていた。
仕事は一段落ついた。あとは明日でも十分だ。誰かに頼まれている仕事もない。性分で郁美は自分に言い聞かせるように心の中で確認を繰り返した。
「それじゃあ、お先に」
だらけたオフィスの空気に向かって告げると、おつかれーと返事があった。誰一人として顔を向けてもいないので誰の声かもわからない。
身体中にべったりとへばりつくような疲労を感じて、電車の吊革に掴まっているのさえどうにも辛い。キーボードの打ち込みで目も疲れていた。外は、ようやく暗くなり始めていた。
家に帰り着き、迎えてくれた母が、ん、と目を凝らした。ふと手をやってみると、固い感触に触れた。嫌いな赤のブローチをつけていたことをすっかり忘れていた。自分は、もっと赤が嫌いだと思っていたのに。
「あんた、派手な色って嫌いじゃなかったっけ? 似合わないわよ」
「別にいいでしょ、気にならないもの」
遠慮のない物言いに、郁美は肩をすくめてみせた。
終
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