森田成也訳『永続革命論』の検討―第6章
中島章利
森田成也訳『永続革命論』(光文社古典新訳文庫2008年4月20日)が出た。
訳者の森田氏は「訳者あとがき」でこう述べている。
「『永続革命論』は日本では1961年に英語版からの翻訳が出されたが、いくつかの文章が欠落しているのと、当時の急進主義の影響による訳文の偏向が見られた。また、いくつかの重要なタームが正確に訳されていない。…(略)…その他、大小さまざまな不備があり、また日本語としても意味のとりにくい部分が少なくなかった。
以上の点を踏まえつつ、最初、『トロツキー研究』第49号(2006年)にロシア語原典からの翻訳を掲載したが、なお多くの不備が残されていた。そこで、今回、改めて全体を見直し、全面的に修正した上で、いくつかの新たな訳注を加えた。」(P480-481)
ポイントは次の3つに要約できる。
1. 姫岡玲治訳には不適切な訳語、文章の欠落、不自然な日本語などの欠点がある。
2. それを踏まえて森田氏が2006年に「ロシア語原典からの翻訳」を発表した。
3. それにも多くの不備があったので今回の光文社古典新訳文庫版では「全体を見直し、全面的に修正した」。
では、今回の文庫版でどのように訳出されているか見ていくことにする。ただし今回取り上げるのはそのごく一部でしかない。
なお、参考資料として森田氏による第6章の訳文を挙げておく。森田氏によってどのように見直し、修正されたか、ご自身で確認していただきたい。赤色=姫岡訳と同一。ピンク色=姫岡訳と類似。黒色=森田氏のオリジナルとほぼ見なし得る部分、である。
以下、光文社古典新訳文庫からの引用は「文庫」、『トロツキー研究』第49号からの引用は「雑誌」、姫岡玲治訳からの引用は「姫岡訳」と表記する。≪ ≫は中島が付したものである。
●文庫P267、1-2行目
ラデックは、≪この数年間における≫≪あれこれの≫≪公式の≫批判的≪文言≫を≪繰り返す≫だけでなく、部分的には≪それ≫を≪いっそう≫≪単純化≫している―≪そんなことができるとすればの話だが≫。
全73文字中、赤28文字、38.4%、赤+ピンク51文字、69.9%
以下の引用部分でも文字数が多いところではこの形式で示す。赤は同一部分。ピンクは類似部分。黒は森田氏のオリジナルと見なし得る部分である。これにより読者の皆さんは森田訳、西島訳がどの程度、姫岡訳を見直し訂正しているか、見方を変えればどの程度、姫岡訳を踏襲しているかを確認することができる。また同時に本当にロシア語から訳しているかどうかも確認することができる。
では引き続き見ていくことにしよう。
●雑誌版P155上段1-4行目 文庫版と同一
●姫岡訳P220、1行目
ラデックは、近年の二、三の公認の批判的文書を繰り返すだけでなく、それらをできるかぎり単純化しすぎている。
原文
Радек не просто повторяет некоторые официальные критические упражнения последних лет, он отчасти еще упрощает их, если это только возможно.
森田訳の問題点
1.≪この数年間における≫ 原文последних лет近年の 姫岡訳が正訳。
2.≪あれこれの≫ 原文некоторые二、三の、若干の 姫岡訳が正訳。
3.≪公式の≫ 原文официальные公認の 文脈からは「公認の」がよい。姫岡訳が正訳。
4.≪文言≫ 原文упражнения諸練習問題 3つの訳とも誤訳。この語に≪文言≫の意味はない。
5.≪繰り返す≫ 原文повторяет繰り返している 不完了体現在。反復。
6.≪それ≫ 原文ихそれら
7.≪いっそう≫ 原文ещеさらに ≪いっそう≫となるのは比較級とともに用いる場合。
8.≪単純化≫ 原文упрощает簡単にしている
9.≪そんなことができるとすればの話だが≫
原文если это только возможноこれができさえすれば
簡単にできるところでは簡単にしている、という意味。この箇所はラーヂェクの対する皮肉なのである。
●文庫P267、4-6行目
スターリンに追随してラデック≪も≫、歴史的段階の≪飛び越えは許されないのだと≫私に説教する。
赤+ピンク100%。他の数字は必要あるまい。
●雑誌P155上段7-9行目
スターリンのひそみにならってラデックも、歴史的段階の飛び越えが許されないのだと私におしえてくれる。
●姫岡訳P220、3-4行目
スターリンにならってラデックも、歴史的段階の飛躍が許され難いことに関して、私を啓発してくれる。
原文
Вслед за Сталиным Радек поучает меня о недопустимости перепрыгивания через исторические ступени.
森田訳の問題点
1. ラデック≪も≫ 原文Радекラーヂェクは ≪も≫にあたる語、強調は存在しない。
2. ≪飛び越えは許されないのだと≫ 原文о недопустимости перепрыгивания跳び越えが許しがたいものであることについて 姫岡訳が正訳。森田訳は原文の名詞句を節にして訳している。意味のずれはないが…
●文庫P267、後ろから2行目-P268、2行目
≪そこで≫、/何よりもまず/≪次のような問いが/出されなければならない≫。もし一九〇五年に私にとって/≪問題になっていたのが/「社会主義革命」にすぎなかった≫/ならば、どうして私は、それが後進ロシアにおいて先進ヨーロッパよりも早く始まる≪ことができる≫などと考えたのか?
全117文字中、赤77文字、65.8%、赤+ピンク115文字、98.3%
●雑誌P155上段後ろから4行目-下段1行目
そこで、/何よりもまず/次のような問いが/出されなければならない。もし一九〇五年に私にとって/「社会主義革命」だけが問題であったとする/ならば、どうして私は、それが後進ロシアにおいて先進ヨーロッパよりも早く始まることができるなどと考えたのか?
●姫岡訳P220、5-7行目
そこで、次のような質問が/何よりもまず提出されねばならぬ。もし一九〇五年に、私にとって/「社会主義革命」だけが問題であったのならば、どうしてその時私は、それが後進的ロシアにおいて先進的ヨーロッパにおけるよりも早く開始することができる、と信じたのか?
原文
Приходится прежде всего спросить: если для меня в 1905 году дело просто шло о "социалистической революции", почему же я считал, что она в отсталой России может начаться раньше, чем в передовой Европе?
森田訳の問題点
1.≪そこで≫ 原文に存在しない。
2.何よりもまず≪次のような問いが出されなければならない≫
原文Приходится прежде всего спросить: まず第一にこう尋ねることを余儀なくされる。
~尋ねざるを得ない。
3.≪問題になっていたのが「社会主義革命」にすぎなかった≫
原文дело просто шло о "социалистической революции" 社会主義革命のことが問題になっていただけ просто はшлоにかかっている。森田訳のように「社会主義革命」にかかっているのではない。
4.始まることが≪できる≫ 原文может начаться始まるかもしれない、始まる可能性がある。
●文庫P268、2-3行目
だがいずれにせよ実際に≪そうなった≫のだ。
●雑誌P155下段2-3行目
それはともかく、実際にそうなったのだ。
●姫岡訳P220、7-8行目
ところが、実際、そういう具合に起こったのだ。
原文
А ведь, как-никак, это произошло на деле.
だがたしかに、ともあれ、これは実際に起こったのだ。
≪そうなった≫ 原文это произошлоこれは(実際に)起こったのだ
姫岡訳の修正。「起こった」が消えた分、後退である。本当にロシア語原文を見ているのか?
●文庫P268、3-4行目
もし民主主義革命がわが国で≪一つの≫独立した段階として完成しえたならば
全33文字中、赤24文字、72.7%、赤+ピンク33文字、100%
●雑誌P155、下段3-4行目
もし民主主義革命がわが国で≪一つの≫独立した段階として実現されていたならば
●姫岡訳P220、8-9行目
もし民主主義革命が、ロシアにおいて、≪一つの≫独立した段階として実現されていたならば
原文
если бы демократическая революция могла завершиться у нас, как самостоятельный этап
≪一つの≫は原文には存在しない。姫岡訳から引き継がれたものである。英訳に見られる一般性の表現である ”a” を≪一つの≫と訳したもの。この ”a” を≪一つの≫と訳す問題性については廣西元信氏が1960年代という早い時期に鋭い指摘を行っている。
●文庫P268、4行目
今日、わが国にプロレタリアートの独裁は存在しなかっただろう。このことを、
全32文字中、赤13文字、46.4%、赤+ピンク28文字、87.5%
●雑誌P155下段4-6行目
今日、わが国にプロレタリアートの独裁は存在しなかったであろうことを、
●姫岡訳P220後ろから5行目
今日われわれはプロレタリアートの独裁をもたなかったのではないか、ということを
原文
что,… мы не имели бы ныне диктатуры пролетариата?
われわれは現在、プロレタリアートの独裁を持っていないはずだ、ということ
仮定法。現実に反する仮定。
●文庫P268、5-8行目
わが国でプロレタリアート独裁が西方よりも早く実現されたのはまさに、歴史が、ブルジョア革命の基本的内容をプロレタリア革命の第一段階と結合した―混同したのではなく、有機的に結合した―からこそであった。
全92文字中、赤62文字、67.4%、赤+ピンク85文字、92.4%
●雑誌P155下段6-10行目
≪わが国でプロレタリア独裁がヨーロッパよりも早く実現されたのは≫まさに、歴史が、ブルジョア革命の基本的内容をプロレタリア革命の第一段階に結合した―混同したのではなく有機的に結合した―からこそで≪あった≫。
●姫岡訳P220後ろから5-3行目
もしそれが西欧よりも先に来たとするならば、それはまさに、歴史がブルジョア革命の主要な内容をプロレタリア革命の第一段階に結合した―それらを混同したのではなく、有機的に結合したからこそであった。
原文
Если мы имеем ее раньше, чем на Западе, то именно и только потому, что история сочетала - не смешала, а органически сочетала - основное содержание буржуазной революции с первым этапом пролетарской революции.
森田訳の問題点
1. ≪わが国でプロレタリア独裁がヨーロッパよりも早く実現されたのは≫
原文
Если мы имеем ее раньше, чем на Западе
もしわれわれがプロレタリアートの独裁を西欧においてよりも早く持っているとすれば 単純仮定。
森田訳は時制が正しくない。また英語の発想で訳している。英訳からの重訳である姫岡訳を訂正していない。
2.からこそで≪あった≫。 原文и только потому, что~からでしかない。
●文庫P268、10行目
≪複数の文字を結合した音節が≫来る。
●雑誌P155下段最終行 同一
●姫岡訳P220後ろから2-最終行
文字を綴り合せたシラブルがやってくる。
原文Но за азбукой следуют склады, т. е. сочетание букв.
しかし、ABCの後に続いているのは音節、すなわち文字の組み合わせである。
森田訳は、原文と文の構造が異なる。姫岡訳と同じ構造である。
●文庫P268後ろから4行目
すでに≪現実によって≫生じたこの音節からABCへとわれわれを≪引き戻す≫。
●雑誌P156、3-5行目
すでに到達されたこの音節からABCへとわれわれを引き戻そうとする。
●姫岡訳P221、1-2行目
すでに達成したシラブルからアルファベットへと、われわれを引き戻そうとする。
原文
от складов, уже произведенных на деле, тянет нас назад, к азбуке.
произведенных
これは完了体動詞произвестиから派生した被動形動詞過去 произведённый の複数生格。作り出された、生み出された の意。能動態で訳すのではなく、受動態で訳すべきである。「被動」たる所以。
森田訳の問題点
1.≪現実によって≫ 原文на деле実際に の意。「現実によって」ではない。
2.≪ひき戻す≫ 原文 тянет нас назад引き戻している、後ろへ引っ張っている。тянет は不完了体。
●文庫P268、後ろから3行目
残念ながら、本当なのだ。
●雑誌P156上段5行目
悲しいことだが、本当なのだ。
●姫岡訳P221、2行目
悲しいことだが、本当なのだ。
原文Печально, но это так. 悲しいことだ、しかしその通りなのだ。
●文庫P268後ろから2行目-P269、4行目
/≪歴史の/生きた/過程≫は、全体として≪取り上げられた≫発展過程、すなわち≪その最も完全な形での≫発展過程の理論的区分から≪生じる≫個々の「段階」を常に≪飛躍するし≫、危機的瞬間には革命政治に同じことを≪要求する≫。
全90文字中、赤63文字、70.0%、赤+ピンク77文字、85.6%
●雑誌P156上段7-11行目
/歴史の/生きた/過程は、全体として≪取り上げられた≫発展過程、すなわちその最も全面的な発展過程の理論的区分から生じる個々の「段階」を常に飛躍するし、危機的瞬間には革命政治に同じことを要求する。
●姫岡訳P221、3-5行目
生きた歴史的過程は、全体としての、すなわち最大限度の完全性における進化過程の理論的区分から生ずる一つ一つの「段階」を続けさまに飛躍するし、危機的瞬間には革命的政治に同じことを要求する。
原文
Через отдельные "ступени", вытекающие из теоретического расчленения процесса развития, взятого в его целом, т. е. в максимальной его полноте, живой исторический процесс всегда совершает скачки и требует того же в критические моменты от революционной политики.
生きた歴史的過程は、全体として捉えられた、すなわち最大限のその完全さにおいて捉えられた発展の過程の理論的区分から出てきているところの個々の「段階」をつねに跳び越えるものであるし、危機の瞬間に、革命的政治に同じことを要求するものである。
森田訳の問題点
1.≪歴史の生きた過程≫ 原文живой исторический процесс生きた歴史的過程
姫岡訳が正しい。живой 生きた→исторический歴史的、という語順である。
2.≪取り上げられた≫ 原文взятого捉えられた
3.≪その最も完全な形での≫ 原文в максимальной его полноте最大限のその完全さにおいて
4.≪生じる≫ 原文вытекающие 不完了体動詞вытекать から派生した能動形動詞。вытекающий изで「~ということになる~」「~が(結論として)出てくる」の意味。
5.≪飛躍するし≫ 原文совершает скачки飛躍するものであるし。 不完了体現在。一般的命題を述べている。誤訳とまではいえぬが、もっと原文のニュアンスを出してほしい。
6.≪要求する≫ 原文требует要求するものである。不完了体現在。一般的命題を述べている。同じく誤訳とまではいえぬが不完了体のニュアンスがほしい。
●文庫P269、2-4行目
革命家と俗流的な漸進主義者とを≪分かつ第一の分岐点≫は≪まさに≫、この契機を認識しそれを利用する能力≪の有無≫にあると言うことができる≪だろう≫。
全63文字中、赤30文字、47.6%、赤+ピンク35文字、55.6%。黒=森田氏のオリジナル部分が多い。「訂正」できていることを期待しよう。
●雑誌P156上段11-14行目
革命家と俗流的な漸進主義者とを≪分かつ第一の分岐線≫は≪まさに≫、この契機を認識しそれを利用する能力≪の有無≫にあると言うことができる≪だろう≫。
●姫岡訳P221、5-6行目
革命家と俗流進化論者との第一の区別は、この契機を認識し、利用する能力にある。
原文
Можно сказать, что в умении распознать такой момент и использовать его и состоит первое отличие революционера от вульгарного эволюциониста.
そのような契機を識別しそれを利用する能力の中に、革命家と俗流漸進主義者の第一の相違があるということができる。
森田訳の問題点
1.≪分かつ第一の分岐点≫ 原文первое отличие第一の相違 姫岡訳が正しい。
雑誌版≪分岐線≫が文庫版で≪分岐点≫に変更された。いかなる理由、見なおし?
≪分かつ≫、≪分岐点≫という語はともに原文に存在しないから、この変更には何の客観的根拠もない。したがってこの変更の根拠は訳者森田氏の主観=恣意の中にしか存在しない。
2.≪まさに≫ 原文にまさに存在しない。
3.≪の有無に≫ 原文に存在しない。正しい訳かどうかの試金石は≪の有無≫という語の有無にある。
4.≪だろう≫ 原文に存在しない。
われわれを期待させた黒=森田氏のオリジナル部分は、以上の検討から原文に存在しない、まったくの「創作」であることが判明する。
●文庫P269、5行目
≪マルクスは工業の発展を、手工業、マニュファクチュア、大工業に区分したが≫
全32文字中、赤23文字71.9%、赤+ピンク27文字84.4%
●雑誌P156上段後ろから4-3行目
マルクスは工業の発展を、手工業、マニュファクチュア、大工場に分けたが
●姫岡訳P221、7行目
工業の発展を手工業、工場手工業、工場と分けるマルクスの区分は
原文
Марксово расчленение развития промышленности на ремесло, мануфактуру и фабрику
ここは姫岡訳が正しい。主語はрасчленение分割。また、原文ではфабрику軽工業工場。
森田訳「大工業」は、マルクス経済学ではそのような述語を用いるだろうが、この場合は訳者の解釈を押し付けることになる。
●文庫P269、6行目
この区分は≪経済学≫の、より正確に言えば経済史学の…
●雑誌P156、後ろから3-2行目
この区分は政治経済学の、もっと正確に言えば経済理論史の
●姫岡訳P221、7行目
(マルクスの区分は)経済学の―もっと厳密に言えば歴史・経済理論の
原文
относится к азбуке политической экономии, точнее, историко-экономической теории.
森田訳の問題点
森田訳≪経済学≫の部分は原文ではполитической экономии政治経済学。
わが国で通例『経済学批判』と呼ばれるマルクスの著作の原題もZur Kritik der Politischen Ökonomie
政治経済学批判のために である。
雑誌版では「政治経済学」だったのが文庫版では≪経済学≫に変更された。
●文庫P 269、6-7行目
しかしロシア≪では≫、≪大工業≫は、マニュファクチュアと都市手工業の時代を≪素通りして≫≪出現した≫。/これは/すでに/歴史の≪「音節」≫である。わが国では、/類似の過程が/階級関係や政治おいて≪も≫/起こった。
「 」は姫岡訳にないので外して全80文字中、赤54文字、67.5%、赤+ピンク74文字、92.5%
●雑誌P156上段後ろから2行目-下段3行目
ところがロシアにおいては、大工業は、マニュファクチュアと都市手工業の時代を飛び越えて出現した。これはすでに歴史の「音節」である。この国においては、階級関係や政治においても、同様の過程が起こった。
●姫岡訳P221、8-10行目
ところでロシアにおいては、工業は、工場手工業と都市の手工業の時代を飛び越えてあらわれた。すでにこれらは、歴史のシラブルである。この国においては、階級関係や政治の面でも、同様の過程が行われた。
原文
Но в Россию фабрика пришла, минуя эпохи мануфактуры и городского ремесла. Это уже склады истории.
しかしロシアへは、工場は、マニュファクチュアと都市手工業の時代を素通りしてやって来た。これはすでに歴史の音節である。
森田訳の問題点
1. ロシア≪では≫ 原文в Россиюロシアへは、ロシアには 対格。前置格ではない。3訳とも同じ。
2. ≪大工業≫ 原文фабрика工場、軽工業工場
3. ≪素通りして≫ 原文минуя 雑誌版で姫岡訳同様≪飛び越えて≫だったのが文字通り訂正された。不完了体副動詞。主動詞пришлаと同時並行的に行われる動作。付帯的状況。
4. ≪出現した≫ 原文пришлаやって来た
5. ≪「音節」≫ 原文склады かぎ括弧「 」に当たる記号は存在しない。原文、姫岡訳には存在しない。雑誌版、文庫版だけに存在する。なぜだろうか?
5. 階級関係や政治おいて≪も≫起こった。
原文произошел в классовых отношениях и в политике階級的諸関係と政治において起こった。
≪も≫にあたる語、強調語などは存在しない。3訳に共通。
この部分を見るだけでも、雑誌版西島訳はロシア語原文から訳したのではなく、姫岡訳をほとんど引き写していたことが明らかである。
●文庫P269後ろから5-3行目
というのも、≪実際には≫ロシアの歴史は―スターリンのお気に召さないだろうが―≪あれこれの≫段階を飛び越えたからである。
全51文字中、赤33文字64.7%、赤+ピンク43文字84.3%。
●雑誌P156下段8-10行目
というのも、実際にはロシアの歴史は―スターリンのお気に召さないだろうが―あれこれの段階を飛び越してきたからである。
●姫岡訳P221、11-12行目
というのも、実際にはロシアの歴史は―スターリンならば気にかけないだろうが―多くの段階を飛躍したからである。
森田訳の問題点
1.≪実際には≫
森田訳はこの部分を実際には正しく訳しているだろうか? 原文は以下のとおり。
Дело в том, что история России, не в обиду Сталину будь сказано, перепрыгнула через кое-какие ступени.
問題は、ロシアの歴史が、スターリンにこう言っては何だが、幾つかの段階を跳び越えたことにあるのだ。
冒頭のДело в том, что~は「問題は~にある」「~ということが問題だ」の構文である。ロシア語文法の基本事項である。森田訳では「実際には」となっている。姫岡訳からずっと訂正されていない。森田氏はこれを正しいと考えているのである。
つまり問題は(дело в том,что!)森田氏が冒頭のДело в том, что「問題は~にある」を正しく訳さず、на самом делеあるいは в самом деле と混同していることにある。
2.≪あれこれの≫ 原文кое-какие幾つかの、若干の
●文庫P269後ろから3-最終行
しかしながら、ロシア≪に関しても≫、諸段階の理論的区別は必要である。≪それがなければ≫、≪この飛躍の内実が何であり、その結果が何であるかを≫理解することができない≪からだ≫。
全73文字中、赤62文字、84.9%、赤+ピンク71文字、97.3%
●雑誌P156下段10-13行目
しかしながら、ロシアに関しても、諸段階の理論的区別は必要である。それがなければ、この飛躍の内容が何であり、その結果が何であるかを理解することができないからだ。
●姫岡訳P221後ろから7-5行目
しかしながら、ロシアに関しても、段階の理論的区別は必要である。それがなければ、この飛躍の内容が何であり、その結果が何であったかを理解しえないからだ。
原文
Теоретическое различение ступеней, однако, необходимо и для России, иначе не постигнешь, ни в чем состоял прыжок, ни каковы его последствия.
諸段階の理論的区分は、しかしながら、ロシアにとっても不可欠だ。さもないと、飛躍が何であったかも、その諸結果がいかなるものであるかも理解できない。
森田訳の問題点
1.≪に関しても≫ 原文и для Россииロシアにとっても
2.≪それがなければ≫ 原文иначеさもないと
3.≪この飛躍の内実が何であり、その結果が何であるかを≫
原文ни в чем состоял прыжок, ни каковы его последствия. 飛躍が何であったかも、その諸結果がいかなるものであったかも(~ない)
ни~, ни~ 「~も、~も、~ない」の構文。≪何であり≫現在形ではなく「состоял何であったか」。過去形。≪結果≫ではなく「последствия諸結果」。複数形。
3. 理解できない≪からだ≫ 原文не постигнешь理解できない。
普遍人称文。理由を述べているのではない。
この部分で変化したのは下線を付した3箇所である。並べてみよう。姫岡訳→雑誌版→文庫版の順
段階→諸段階→諸段階
内容→内容→内実
理解しえない→理解することができない→理解することができない
いずれも内容に抵触しない非本質的変更。もっと重要な変更すべき部分があるだろうに。
●文庫P270、1-3行目
別の面からこの問題にアプローチ≪するならば≫/≪(レーニンが二重権力に/アプローチした際に/時おり/そうしたように)≫、/ロシアに≪も≫マルクスの言う三つの段階がすべて存在したと言うことも≪できよう≫。
姫岡訳にも( )があるのでこれも含めて全83文字中、赤色59文字、71.1%、赤+ピンク72文字86.7%
●雑誌P156下段後ろから5-2行目
逆の面からこの問題にアプローチするならば/(レーニンが二重権力の問題に/アプローチする時に/しばしばそうしたように)、/ロシアはマルクスの言う三つの段階をすべて通過したと言うこともできよう。
●姫岡訳P221後ろから4-3行目
(ちょうどレーニンが、二重権力の問題に何度もアプローチしたように)別の面からこの問題にアプローチすることもできる。つまり、ロシアは、マルクスの三段階をすべて通過した、ということができる。
原文
Можно подойти к делу с другой стороны(как иногда Ленин подходил к двоевластию) и сказать, что все три марксовы ступени были в России. Но первые две в крайне сжатом, зародышевом виде.
別の側面から問題にアプローチすることができるし(ときどきレーニンが二重権力にアプローチしていたように)、3つのマルクス的段階のすべてがロシアにあったと言うことができる。
森田訳の問題点
1.≪できよう≫ 原文Можноできる 冒頭に「できる」とはっきり書いてある。≪できよう≫ではない。姫岡訳が基本的に正しい。
雑誌版、文庫版のように、原文に「アプローチすること」はできない。両者はありえない訳である。
2.≪(レーニンが二重権力にアプローチした際に時おりそうしたように)≫、
原文как иногда Ленин подходил к двоевластию
ときどきレーニンが二重権力にアプローチしていたように
иногда「ときどき」の語はЛенин подходил к двоевластию全体にかかる。「ときどきレーニンが二重権力にアプローチしていた」である。原文では、レーニンの、二重権力へのアプローチが「ときどき」である、と述べている。森田訳ではレーニンが二重権力にアプローチするときに、そうすることもあればしないこともあった、つまりときどき…の意味になる。森田訳と原文とのこの差は大きい。
3.ロシアに≪も≫マルクスの言う三つの段階がすべて存在したと言うこと≪も≫
≪も≫に相当する語、例えばиや強調の語は存在しない。
●文庫P270、3-5行目
ただし、≪最初の≫二つの段階はきわめて圧縮された萌芽的な形態で≪存在した≫。これらの≪「不全器官」≫―≪いわば≫点線で描かれた手工業とマニュファクチュアの段階―は、経済過程の発生的≪同一性≫を確証するには十分である。
「 」、―も姫岡訳に存在するのでこれも含めて全94文字中、赤57文字、60.6%、赤+ピンク78文字、83.0%
●雑誌P156下段後ろから2行目-P157上段3行目
ただし、最初の二つの段階はきわめて圧縮された萌芽的な形態で通過した。これらの「不全器官」―≪いわば≫点線で描かれた手工業とマニュファクチュアの段階―は、経済過程の発生的同一性を確証するに十分である。
●姫岡訳P221後ろから2-最終行
しかし、初めの二つは極度に短縮された未発育の形態で。これらの「発育不全物」―いわば、単に点として略図化された―手工業および工場手工業の段階は、経済諸過程の発生的個体を確証するに十分である。
原文
Но первые две в крайне сжатом, зародышевом виде. Эти "рудименты", как бы намеченные пунктиром ступени ремесла и мануфактуры, достаточны для того, чтобы подтвердить генетическое единство экономического процесса.
しかし、はじめの二つは極めて圧縮された、萌芽的な状態においてである。あたかも点線で輪郭を書かれたかのような、手工業とマニュファクチュアの段階というこれらの「痕跡器官」は、経済的過程の発生上の一致を確認するのに十分である。
森田訳の問題点
1.≪最初の≫ 原文первыеはじめの 複数形だから≪最初の≫とはならない。
2.≪存在した≫ この語は原文に≪存在し≫ない。
3.≪「不全器官」≫ 原文"рудименты"「痕跡器官」。進化の観点からは、退化によって本来の用をなさなくなった器官が、わずかに形だけがそれと分かるように残っているものと定義される。発生の面からは、ある器官の形態が出来かけたところで、その発達が途中で止まり、そのまま十分に発達せずに終わるものを指すのが一般的(Wikipediaより)。≪不全器官≫ではない。
4.≪いわば≫ 原文как быまるであたかも ≪いわば≫は何度も出てきているようにтак сказать
5.≪同一性≫ 原文единство一致、統一 ≪同一性≫はтождество,одинаковость,равность
トロツキーは彼のいわゆる『哲学ノートTrotsky's Notebooks,1933-1935』において「同一性」にтождество、「統一」にединствоの語を用いている。
●文庫P270、5-8行目
しかし、それにもかかわらず、≪この≫二つの段階の量的短縮は、≪わが≫国の社会構造全体≪欠落≫≪に≫まったく新しい質を≪生じさせる≫に十分なほど大きなもの≪だった≫。政治におけるこの新しい「質」を最も≪はっきりと≫≪示すもの≫≪こそ≫十月革命なのである。
姫岡訳に存在しない「 」を除いて全98文字中、赤63文字、64.3%、赤+ピンク81文字、82.7%
●雑誌P157上段3-8行目 文庫版と同一。
●姫岡訳P221最終行-P222、2行目
にもかかわらず、二つの段階の量的短縮は、国の社会的構造全体にまったく新しい質を生ぜしめたほど、大きいものであった。政治におけるこの新たな質の最も著しい表現は、十月革命である。
原文
Но тем не менее количественное сокращение этих двух ступеней так велико, что породило совсем новое качество во всем социальном строении нации. Самое яркое выражение этого нового "качества" в политике есть Октябрьская революция.
しかし、それにもかかわらずこの二つの段階の量的短縮は巨大なので、国の社会構造全体の中にまったく新しい質を創り出した。
森田訳の問題点
1. ≪この≫、≪わが≫ いずれも原文に存在しない。姫岡訳より後退。
2. 社会構造全体≪欠落≫≪に≫ 姫岡訳と同一。
原文во всем социальном строении нации国の社会的構造の中で、~の中に。前置格。森田訳にはво中で が欠落していることと、≪…構造全体に≫と対格を思わせる訳文になっていてよくない。したがって姫岡訳もよくない。
3. 新しい質を≪生じさせる≫に十分なほど大きなもの≪だった≫
時制の取り扱いが正しくない。森田訳の語順に従っておけば、前者はпородило創りだした 後者はвелико巨大な である。姫岡訳は前者が正しく過去形になっている。この点でも森田訳は姫岡訳に劣る。
4. 最も≪はっきりと≫≪示すもの≫≪こそ≫ 原文Самое яркое выражение最も顕著な表現が
≪こそ≫にあたる語は存在しない。
姫岡訳が形式的にも内容的にも原文を正しく訳している。このように訳すべきである。
●文庫P270、9-11行目
この問題において最も≪滑稽なのは≫、スターリンが「不均等発展の法則」と「段階の飛び越え不可能性」という≪二つのずた袋≫―それは彼の理論的全≪財産≫をなす―を≪背負って≫「理論化」に≪いそしんでいる≫ことである。
全85文字中、赤46文字、54.1%。赤+ピンク54文字、63.5% 他の箇所よりも黒=森田氏のオリジナル部分が多い。正しく訳してあることを期待しよう。
●雑誌P157上段9-13行 文庫と同一。
●姫岡訳P222、3-5行
この問題を議論するとき最も耐えがたいのは、スターリンの「理論化」であって、それには彼の理論的全財産をなすところの二つの装身具―「不均等発展の法則」と”non-skipping of stage ”〔段階を飛び越えることはできない、という理論〕―がついている。
森田訳の問題点
1.≪滑稽なのは≫
文庫版は雑誌版とまったく同一である。森田訳=西島訳と姫岡訳との異同について
ずた袋⇔装身具、スターリンが…「理論化」にいそしんでいること⇔スターリンの「理論化」 の部分が異なっているが、あとはほぼ同じである。
原文
Невыносимее всего в этих вопросах "теоретизирующий" Сталин с двумя писанными торбами, составляющими весь его теоретический багаж: "законом неравномерного развития" и "неперепрыгиванием через ступени".
Невыносимее всего は невыносимый うんざりする、鼻持ちならない、耐えがたい の最上級表現。姫岡訳が正しい。これを「滑稽なのは」と訳すのは≪滑稽≫である。
2. スターリンが…≪二つのずた袋≫―それは彼の理論的全≪財産≫をなす―を≪背負って≫「理論化」に≪いそしんでいる≫ことである
区切って見ていく。
ア スターリンが…「理論化」にいそしんでいることである
原文 "теоретизирующий" Сталин
теоретизирующий は 不完了体動詞теоретизирировать から派生した≪能動形動詞現在≫。「~しつつある」と訳され形容詞的機能を持つ。この場合はそのすぐ後にある Сталин にかかる。この場合は「『理論化に耽っている』スターリン」とでも訳すべきであろう。
イ ≪二つのずた袋≫…を≪背負って≫
原文с двумя писанными торбами
с писанной торбойは「くだらないことに余計な気をつかう、~を後生大事にする」の意。ここからс двумя писанными торбами「2つのくだらぬものを後生大事にして」の意。この с は「背負って」ではない。森田氏は英訳withのイメージで捉えているのではないか?「全体を見直し、全面的に修正した」森田訳は「大小さまざまな不備があり、また日本語としても意味のとりにくい部分が少なくなかった」姫岡訳よりも後退していると言わざるを得ない。「装身具」⇔「ずた袋」の書き替えも問題ではない。どちらも誤訳だからだ。
ウ それは彼の理論的全≪財産≫をなす
原文составляющими весь его теоретический багаж
直前の「2つのくだらぬものを云々」という句の内容を規定する句である。составляющими は不完了体動詞 составлять から派生した≪能動形動詞現在≫ составляющий ~を成している、の造格。直前のписанными торбами も造格で同格になっており、その内容を規定している。весь его теоретический багаж はスターリンのすべての理論的な蓄え、素養 の意。
トロツキーはこのбагаж の語をよく用いる。『レーニン』にも『わが生涯』にも登場する。これを英語のイメージでbaggage と捉えると誤訳する。森田氏は『レーニン』に2箇所登場するこの語を1度目は「小さな包み」(P26)と訳し、2度目は「知識」(P87)と訳していた。
ここで気になるのは「ずた袋」という森田氏の訳語である。с двумя писанными торбамиの部分には「ずた袋」に当たる語は存在しない。考えられるのはこのбагаж の語を 英語のbaggage のイメージで捉えている可能性である。そうだとすると、今度はс двумя писанными торбамиと同格でその内容を規定している後のсоставляющими~ 以下の句にあるбагаж を内容規定として捉えるのではなく性格規定の中に持ち込むという非文法的な仕儀を犯すことになる。しかしどうやらそのようだ。森田は「二つのずた袋」と訳しているからだ。двумя とбагаж をつないで考えているとしか考えられない。
さて、森田訳のこの部分の一番の問題点。
原文では「最もうんざりするのは『理論化に耽っている』スターリンである」、となっており中心点は「スターリン」にある。森田訳では「スターリンが…『理論化』にいそしんでいることである」
と、「いそしんでいること」というスターリンの活動に焦点がある。正しい訳とは言えない。
●文庫P270後ろから2行目
まったく大真面目に
●雑誌P157上段後ろから3行目
大真面目に
●姫岡訳P222、6行目
彼独特の厳かな調子で
原文с неподражаемой серьезностью真似のできない真剣さで、類まれな真面目さで
●文庫P270最終行-P271、1行目
早くプロレタリア革命に至る≪ことができる≫という予見は
●雑誌P157下段1-2行目 読点「、」がないことを除いて姫岡訳と同一。
早くプロレタリア革命に到達することができるという予見は
●姫岡訳P222、7-8行目
早くプロレタリア革命に到達することができる、という予見は
原文
может прийти к пролетарской революции раньше, чем
≪ことができる≫ 原文может прийтиы到達するかもしれない
「~という予見は」とあるように、このможетは蓋然性、可能性の表現である。
姫岡訳と雑誌版は「、」の有無を除き同一。文庫版では≪到達する≫が≪至る≫と変更された。何のための変更か? まったく非本質的である。変更するならможетの訳をこそ変更すべきだろう。
●文庫P271、3-4行目
≪一九一五年のレーニンからの引用≫を―その中身を引っ繰り返し無知蒙昧な解釈を施しながら―十年一日のごとく繰り返すことではない。
全58文字中、赤31文字53.4%、赤+ピンク49文字、84.5%
●雑誌P157下段、5-8行目
一九一五年のレーニンからの引用を―その中身を引っ繰り返し無知蒙昧な解釈を施しながら―十年一日のごとく繰り返すことではないのだ。
●姫岡訳P222、9-11行目
一九一五年のレーニンからの引用を―その内容を転倒し、無学まるだしに解釈して―十年一日の如く繰り返してばかりいてはならなかったのだ。
原文
а не просто жевать перманентную жвачку из ленинской цитаты 1915 года, опрокинутой на голову и безграмотно истолкованной.
森田訳の問題点
1. ≪一九一五年のレーニンからの引用≫ 原文ленинской цитаты 1915 года
1915 года 「1915年」はцитаты「引用」に後ろからかかり、цитаты 1915 года 「1915年の引用」という句をつくっている。これにленинской「レーニンの」という形容詞が前からかかっている。したがって「レーニンの1915年の引用」と訳すべきである。森田訳では≪1905年でもなければ1917年でもない1915年のレーニン…≫と読める。誤解を招く。
2.опрокинутой на голову и безграмотно истолкованной を文中の文法的つながりから恣意的に切り離して、副動詞的あるいは副詞的に訳していること。
опрокинутой、истолкованнойはいずれも被動形動詞で、その前にあるцитатыにかかる修飾句を形成している。опрокинутой на головуはс ног на голову поставлённыйと同様の意味で「歪めてとられた、解された」の意。
この部分の意味は、例えば
「歪めてとられ、間違いだらけに解釈された、レーニンの1915年の引用から永続反芻することではなくて」 ということである。
また、жевать перманентную жвачку 永続反芻すること という、永続革命にしゃれで懸けたトロツキーの辛辣な皮肉も読み取りたいものである。
原文にない2つの傍線による説明形式も姫岡訳由来である。
●文庫P271、6行目
反動期は≪必然的に≫
●雑誌P157下段10-11行目 文庫版と同一。
●姫岡訳P222、12-13
反動的時期は、当然かつ必然的に
原文
≪必然的に≫ 原文естественно当然
●文庫P271、6行目
スターリニズム
●雑誌P157、11-12行目
スターリン主義体制
●姫岡訳P222、13行目
スターリン輩
原文はСталинщина
Обломовщинаを「オブローモフ主義」と訳すような場合があるが、「スターリニズム」となると、森田氏がこだわっているように、これを定訳とする語はсталинизм であろう。Сталинщинаを「スターリニズム」と訳せば読者はсталинизм、stalinismを連想するであろうことはまず必至である。無用な混同はやはり避けたい。内務人民委員Ежов による大粛清、大弾圧時代をЕжовщинаと表現するようにここはやはりスターリンによる政治体制のことを示す語を当てたい。その意味では雑誌版の訳語「スターリン主義体制」等の方がまだしもよいのではないだろうか。
●文庫P271、7-9行目
党≪内≫反動の≪固有の≫≪産物≫は、≪その≫政治的追随主義と些末主義を覆いかくすものとして一種の≪段階論≫崇拝をつくり出した。今や/この反動的イデオロギーは/ラデック/を/も≪配下に収めた≫のである。
全81文字中、赤42文字、51.9%、赤+ピンク51文字63.0%
●雑誌P157下段後ろから7-3行目
党反動の固有の産物は、その政治的追随主義と些末主義を覆いかくすために、一種の段階論崇拝をつくり出した。今や/この反動的イデオロギーは/ラデック/を/も配下に収めた。
●姫岡訳P222後ろから6-4行目
党反動のふさわしき娘―は、その機械的繰り返しと寄せ集めを覆いかくすために、段階的運動の賛歌を創り出した。今やラデックも、この反動的イデオロギーを摑えたのである。
原文
достойная дщерь партийной реакции, создала своего рода культ ступенчатого движения, как прикрытие политического хвостизма и крохоборчества. Эта реакционная идеология захватила ныне и Радека.
党反動に似合いの娘は、政治的追随主義と瑣末な態度を偽装するものとして、段階的運動の一種独特の崇拝を創り出した。この反動的イデオロギーは、今やラーヂェクをも捕らえたのである。
森田訳の問題点
1.党≪内≫ 原文に存在しない。姫岡訳、雑誌版のように「党反動」と訳すべきであろう。トロツキーは≪党内≫にあたる語としてこの第6章でвнутрипартийнаяを用いている。
2.≪固有の≫ 原文достойная相応の、似合いの
3.≪産物≫ 原文дщерь娘 女性名詞реакцияを母とみなし、その産物Сталинщинаを娘に対比している。まずは原文どおりに訳すべきだ。
4.≪その≫ 原文に存在しない。
5.≪段階論≫ 原文ступенчатого движения段階的運動 姫岡訳が正しい。
6.≪配下に収めた≫ 原文захватила捕えた
●文庫P271後ろから6-2行目
≪歴史の過程≫のあれこれの段階は、理論的には必然的ではない≪場合であっても≫、≪一定の≫条件のもとでは≪必然的≫≪になる場合がある≫。≪逆に≫、理論的には「必然的」な段階であっても、/発展のダイナミズムによって/ゼロに/圧縮される/ことが≪ある≫のであって、/革命の時代には/とりわけ/そうである/。≪革命が歴史の機関車と呼ばれるのもゆえあってのことなのだ≫。
全147文字中、赤83、56.5%、赤+ピンク134文字、91.2%
●雑誌P157下段後ろから2行目-P158上段5行目
歴史的過程のあれこれの段階は、理論的には不可避的でない場合でさえあっても、一定の条件のもとでは必然的になる場合がある。逆に、理論的には「不可避的」な段階も、/発展のダイナミズムによって/ゼロに/圧縮される/ことがあるのであって、/革命の時代には/とりわけ/そうである/。革命が歴史の機関車と呼ばれるのもゆえあってのことなのだ。
●姫岡訳P222後ろから3行目-最終行
歴史的過程のあれこれの段階は、理論的には不可避に見えないとしても、一定の条件のもとでは不可避であることがわかる。また逆に、理論的には「不可避的」な段階も、発展のダイナミックスによって圧縮されてゼロになることがありうるのであり、革命が歴史の機関車と呼ばれるのは理由のないことではないのである。
原文
Те или другие этапы исторического процесса могут оказаться в данных условиях неотвратимыми, хотя теоретически они и не неизбежны. И наоборот: теоретически "неизбежные" этапы могут динамикой развития сжиматься до нуля, особенно во время революций, которые не даром названы локомотивами истории.
歴史的過程のあれこれの諸段階は、理論的にはそれらが必然的でないне неизбежныとはいえ、与えられた諸条件において不可避であるнеотвратимымиことが判明することがあり得る。またその逆でもある。すなわち、理論的に「必然的な」"неизбежные"諸段階が発展の動態によってゼロにまで圧縮されることが、とりわけ、歴史の機関車と名づけられているのが無駄ではない諸革命の時代に、あり得るのだ。
森田訳の問題点
1.≪歴史の過程≫ 原文исторического процесса歴史的過程 процесс историиではない。姫岡訳、雑誌版が正しい。
2.≪場合であっても≫ 原文хотя~とはいえ
3.≪一定の≫ 原文данных与えられた、或る
4.≪必然的≫ 原文неотвратимыми
文庫版森田訳では≪必然的≫の語が3回出てくるが、原文はこれを2種類の単語で書き分けている。
雑誌版では訳し分けられていた「不可避的」「必然的」という差異が消失し、すべて「必然的」に一元化された。いかなる「見なおし」の結果だろうか? その理由を聞きたい。
ここで3訳と原文を対比しておこう。原文の単語の違いを無視してすべて同じ語で訳している姫岡訳と文庫版は適格であるとは言い難い。
姫岡訳 不可避―不可避―「不可避的」
雑誌版 不可避的―必然的―「不可避的」
文庫版 必然的―必然的―「必然的」
原 文 неизбежны―неотвратимыми―"неизбежные"
5.≪になる場合がある≫ 原文могутあり得る 原文の蓋然性のニュアンスをはっきりと訳し出すべき。
6.≪逆に≫ 原文И наоборот: またその逆でもある。
この句は、それまで述べてきた事柄の逆もまた言える、成り立つという場合に用いられる表現。文末のコロンに注意すべき。ここで一旦、文が切れた後、その逆の内容が述べられている。森田訳のように逆接の接続詞で続いていくのではない。
7.≪ある≫ 原文могутあり得る
8.≪革命が歴史の機関車と呼ばれるのもゆえあってのことなのだ≫
わずか27文字のこの部分、森田訳はさまざまな問題を抱えている。
ア революций, которыеという関係代名詞による説明という構造を無視して断ち切っていること。もちろん、切って訳す場合もあるが、森田訳は形式、構造だけでなく、意味まで文脈から断ち切ってしまっている。ウで述べる。
イ названы を森田氏は「呼ばれている」と訳していること。この語は完了体動詞назвать「~と名づける、命名する、~を…と評する、性格付ける」から派生した被動形動詞過去短語尾である。「(~という名で)呼ぶ」の語義になるのは不完了体動詞называтьの場合である。
ウ не даромをнедаромと取り違えていること。
неとдаромの間が開いているか開いていないかの違いがあるだけで文字まで同一。まことによく似ているが意味は違う。
не даромはдаром「無駄に」をнеで否定する構造。「無駄に~しない」「無意味に~しない」の意。
недаромは「訳があって、理由があって」の意。
森田氏は前者を後者と取り違えている。そしてこれが関係代名詞節を文から切り離すことと連動している。意味が違ってしまっている。
森田訳では≪革命が歴史の機関車と呼ばれるのもゆえあってのこと≫となっている。どんな「ゆえあって」か? 森田訳に従えば、それは革命が≪歴史の過程のあれこれの段階を、発展のダイナミズムによってゼロに圧縮することがあるから≫だということになる。
原文では、歴史的段階の、理論的に「必然的な」諸段階が発展の動態によってゼロにまで圧縮されることがありうる、とりわけ歴史の機関車と名づけられている諸革命の時代にそれがあり得る、となっている。
森田訳では歴史<革命である。原文では歴史>革命である。この意味の違いは重大である。この違いを把握することはけっして無駄ではないне даром。
森田氏はいかなる「訳があってнедаром」、いかなる「理由があってнедаром」、не даром をнедаромで訳し、関係代名詞節を切り離すのだろうか?
●文庫P271最終行-P272、2行目
≪たとえば≫、≪わが国の≫プロレタリアートは、憲法制定議会に≪せいぜい≫数時間≪の存在≫を―それもただ≪裏庭≫で―≪許しただけで≫、民主主義的議会主義の段階を「飛び越えた」。
全71文字中、赤55文字、77.5%、赤+ピンク62文字、87.3%
●雑誌P158上段6-9行目 文庫版と同一。
●姫岡訳P223、1-2行目
われわれの場合、このようにしてプロレタリアートは、憲法制定会議に数時間の生命を―それもただ歴史の裏庭において―許しただけで、民主的議会主義の段階を「飛び越えた」のであった。
原文
Так у нас пролетариат "перепрыгнул" через стадию демократического парламентаризма, отведя учредилке всего несколько часов, да и то на задворках.
こうして、われわれのところではプロレタリアートは、憲法制定議会にわずかな時間を割いて、それも目立たぬところでだが、民主主義的議会主義の段階を「跳び越えた」。
森田訳の問題点
1.≪たとえば≫ 原文Такこうして ≪たとえば≫の語義もあるが一義的には「こうして」。
2.≪わが国の≫ 原文у насわれわれのところでは у нас пролетариатを「われわれのプロレタリアート」と訳す場合もある。しかしいずれにせよ「わが国の」ではない。
3.≪せいぜい≫ 原文всегоわずか、ほんの
4.≪の存在≫ 原文に存在しない。
5.≪裏庭≫ 原文на задворках目立たぬところで ≪裏庭≫の語彙もあるが文脈からあまり適切ではないと思う。
6.≪許しただけで≫ 原文отведя割いて 副動詞。
森田氏=西島氏は副動詞をまったく訳出しないから、文庫版も雑誌版も姫岡訳を訂正できず、誤訳をそのまま引き継いでいる。
●文庫P272、2-4行目
しかし、/中国では現在の反革命の段階を/飛び越えることは/けっして/できない。/それは≪ちょうど≫、わが国で/四つの/国会の/時期を飛び越えることができなかったのと≪同じである≫/。
全74文字中、赤34文字、45.9%、赤+ピンク63文字、85.1%
●雑誌P158上段9-12行目 文庫版と同一。
●姫岡訳P223、2-4行目
しかし、ちょうど、われわれのばあい、国会の四つの時期が飛び越えられなかったように、中国における反革命的段階は、けっして飛び越えられない。
原文
А вот через контрреволюционную стадию в Китае никак нельзя перепрыгнуть, как нельзя было у нас перепрыгнуть через период четырех Дум.
しかし、われわれのところで四つの国会の時期を跳び越えることができなかったように、中国における反革命的段階は決して跳び越えることができないのである。
森田訳の問題点
≪ちょうど≫、≪同じである≫などの語は原文に存在しない。как~のように だけである。
森田訳では文の重点が「飛び越えることができない」ことにあるのか、中国の場合と≪わが国≫の場合が同じであると強調することにあるのかはっきりしない。
●文庫P272、5-8行目
それはスターリン=ブハーリンの破滅的政策の直接の結果であって、彼らは≪「敗北の組織者」≫として歴史にその名を残すことだろう。だが、日和見主義の果実は、革命の過程を長期にわたって阻害≪しうる≫≪一つの≫客観的要因となったのである。
全103文字中、赤90文字、87.4%、赤+ピンク96文字、93.2%
●雑誌P158、上段後ろから4-3行目
それはスターリン=ブハーリンの破滅的政策の直接の結果であって、彼らは「敗北の組織者」として歴史にその名を残すことだろう。だが、日和見主義の果実は、革命の過程を長期にわたって阻害しうる一つの客観的要因となったのである。
●姫岡訳P223 5-6行目
それはスターリン・ブハーリンの破滅的政策の直接の結果であって、彼らは敗北の組織者として歴史に残されるであろう。日和見主義の果実は、革命的過程を長期にわたって阻止しうるところの、一つの客観的要因となったのである。
原文
Она есть непосредственный результат гибельной политики Сталина-Бухарина, которые войдут в историю, как организаторы поражений. Но плоды оппортунизма стали объективным фактором, который может надолго задержать революционный процесс.
それは、敗北の組織者として歴史に名を残すであろうところのスターリン・ブハーリンの破滅的政策の直接的帰結である。しかし、日和見主義の諸果実は革命的過程を長く妨げるかもしれぬ、客観的要因となったのであった。
森田訳の問題点
1.≪「敗北の組織者」≫ 原文にかぎ「 」に当たる記号は存在しない。なぜか文庫版だけに「 」がついている。この「見直し」、「修正」の根拠は何か?
関係代名詞節でのスターリン、ブハーリンについての説明部分も切り離さずに主文に従属させて訳した方が文の緊張感が出る。
2.≪しうる≫ 原文может~かもしれない ここは可能性、蓋然性を述べている。≪阻害しうる…客観的要因≫という日本語が不自然であることは言うまでもない。
3.≪一つの≫ 原文に存在しない。
●文庫P272、9行目
大衆の≪発展≫における現実的な/段階、/すなわち客観的に条件づけられた段階
●雑誌P158下段1-2行目
大衆の≪発展≫における現実的な、/すなわち客観的に条件づけられた段階
姫岡訳と同一。
●姫岡訳P223、8行目
大衆の発展における現実的な、すなわち客観的に条件づけられた段階
原文
реальные, т. е. объективно-обусловленные этапы в развитии массы
森田訳の問題点
大衆の≪発展≫ 原文в развитии массы 大衆の成長(における)
大衆の≪発展≫は日本語として不自然。
●文庫P272、後ろから6行目
労働者大衆の≪大多数が≫、社会民主主義者を、≪いわんや≫国民党を、あるいは労働組合主義者を信頼しつづけているかぎり、われわれは、大衆の前にブルジョア権力の即時打倒の任務を提起することはできない。
全87文字中、赤68文字、78.2%、赤+ピンク82文字、94.3%
労働者大衆の≪大多数が≫
●雑誌版P158下段3-7行目
労働者大衆の≪大多数が≫、社会民主主義者を、≪いわんや≫国民党や労働組合主義者を信頼しつづけているかぎり、われわれは、大衆の前にブルジョア権力の即時打倒の任務を提起することはできない。
●姫岡訳P223、9-11行目
労働大衆の多数が、社会民主主義者、いわんや国民党や労働組合主義者に信頼を置いているかぎり、われわれはブルジョア権力の即時打倒の任務を提起することはできない。
原文
Пока рабочая масса в большинстве своем верит социал-демократам, или, допустим, гоминдановцам, или тредюнионистам, мы не можем ставить перед ней задачу непосредственного низвержения буржуазной власти.
労働者大衆が大部分、社会民主主義者たちを、あるいは、仮定することにするが、国民党員たちを、あるいは労働組合主義者たちを信じている間は、われわれは労働者大衆にブルジョア権力の即時打倒の任務を課することはできない。
森田訳の問題点
1.労働者大衆の≪大多数が≫ 原文рабочая масса в большинстве своем
в большинстве своем は 大部分は、大抵は の意。森田氏はбольшинствоと混同しているのではないか? 同様の現象が氏の訳『レーニン』P99にも見られる。姫岡訳も誤訳。
2.≪いわんや≫ かような文言は原文に存在しない。存在するのは挿入句допустим仮定しよう
姫岡訳に由来するこの語はずっと訂正されていない。西島氏、森田氏の「見なおし」がどんなものかうかがえるというものだ。
●文庫P272後ろから3-2行目
この準備がきわめて長い「段階」になることもあるだろう。
●雑誌P158下段8-9行目 文庫版と同一。
●姫岡訳P223、11行目
この準備は、極めて長い「段階」であることがわかる。
原文Подготовка может оказаться очень большой "ступенью".準備はひじょうに長い「段階」であることが判明するかもしれない。
文庫版、雑誌版は「あるだろう」で可能性、蓋然性を表現したことは姫岡訳より前進。しかし、оказатьсяを欠落させてしまったことは姫岡訳より後退。
●文庫P272後ろから3行目
それに向けて大衆を≪準備させる≫ことが≪まず≫必要に≪なる≫。
●雑誌P158下段7-8行目 も同一。
●姫岡訳P223、10-11行目
大衆にそのための準備ができていなければならないのだ。
原文 К этому надо готовить массу. このために(これに向けて)大衆を訓練することが必要である
森田訳の問題点
1.≪準備させる≫ 原文готовить この文脈では「訓練する」
2.≪まず≫ 原文に存在しない。訳者の解釈を押し付けるもの。
森田訳、西島訳は随所で姫岡訳を下敷きにしているが、この「まず」に関してはそうしなかったようだ。
3.必要に≪なる≫ 原文надо必要である。≪なる≫ではない。
●文庫P272-273
しかしながら、あたかもわれわれが「大衆とともに」国民党の内部に(まずは右側に、次に左側に)席を占めなければならない、あるいは「大衆が指導者たちに幻滅するまで」はストライキ破りのパーセルとのブロックを維持し、その間は相互の友好関係にもとづいて彼らを支持しなければならないなどと信じることができるのは、追随主義者だけである。
全148文字中、赤98文字66.2%、赤+ピンク127文字、85.8%
●雑誌P158下段
しかしながら、あたかもわれわれが「大衆とともに」国民党の内部に(まずは右側に、次に左側に)席を占めなければならないとか、あるいは「大衆が指導者たちに幻滅するまで」はストライキ破りのパーセルとのブロックを維持し、その間は相互友情にもとづいて彼らを支持しなければならないなどと信じることができるのは、追随主義者だけである。
●姫岡訳P223後ろから8行目から
しかし、われわれは「大衆とともに」まずはじめに国民党右派に、その次に左派に、席を占めねばならぬとか、「大衆がその指導者達に幻滅を感ずる」までは、その間われわれが友情をこめて支持し、権威を与えていたストライキ破りのパーセルとのブロックを維持せねばならぬなどと、信ずることのできるのは追随主義者(chvostist)だけである。
原文
Но только хвостист может считать, будто мы должны "вместе с массой" сидеть в Гоминдане, сперва в правом, потом в левом, или сохранять блок со штрейкбрехером Перселем - "до тех пор, пока масса не разочаруется в вождях", которых мы тем временем будем своим содружеством поддерживать.
森田訳の問題点
ここでの問題点はв вождях",которых~の вождяхを先行詞とする関係代名詞節の理解である。
в вождях",которых мы тем временем будем своим содружеством поддерживать.
которых は当然、先行詞であるвождях「指導者たち」を指す。
своимは 自分たちの意。мыと同一。
ここは 「われわれは(大衆が指導者たちに幻滅してしまうまでの)その間は指導者たちを、自分たちの友好(関係)によって支えるだろう」という意味。
森田訳では≪彼らを支持しなければならない≫となっているがдолжны がかかるのはсохранять блок со штрейкбрехером Перселем までである。
森田氏の解釈ではдолжныが、которых以下の関係代名詞節の中にある動詞поддерживатьをも支配することにならざるを得ない。この解釈は関係代名詞節を切り刻み、その文法的機能を無視するものである。森田氏式に訳すならばこの関係代名詞は不要になる。
姫岡訳も誤訳しているが、ロシア語原文から訳し直した、しかも全面的に見直したと言うのであればこれは見逃してはならない。
●文庫P273、5行目
それどころか
●雑誌P158下段、最終行も同一。
●姫岡訳223、後ろから3行目
…とか…
原文, кроме того, それだけでなく、その上
●文庫P273
から乖離することに他ならないと≪決めつけた≫ことを、おそらく忘れてはいない≪だろう≫。
全37文字中、赤20文字54.1%、赤+ピンク33文字89.2%
●雑誌P159、2-3行目
と決裂することだとみなしたことを、よもや忘れてはいないだろう。
●姫岡訳P223、後ろから3-2行目
から分離することだと規定したことを、よもや忘れ果ててはいないだろう。
原文
вероятно не забыл, что требование выхода из Гоминдана и разрыва Англо-русского комитета кое-какие "диалектики" именовали не иначе как перепрыгиванием
おそらく、……跳び越え以外の何ものでもないと呼んでいたことを忘れはしなかった。
森田訳の問題点
1. 忘れてはいない≪だろう≫ 原文не забыл忘れはしなかった 完了体
森田訳「忘れてはいないだろう」はвероятноを≪おそらく…だろう≫と訳したことに起因すると思われるが無用の誤解を招く。また、蛇足かもしれぬが訳文が不完了体過去забывалを連想させはしないだろうか? 姫岡訳由来の「だろう」は訂正されぬまま引き継がれている。
なぜ≪乖離≫という訳語を当てなければならなかったのか? 分離すること、決裂することで何の問題もないし、その方がはるかに分かり易いと思われるが。
2.≪決めつけた≫ 原文именовали呼んでいた
なぜименовалиの訳を「決めつけた」と決めつけたのか? 理解に苦しむ。
●文庫P273、7-8行目
ラデック自身がこれらの≪憐れな≫≪欠落1≫「弁証法家」≪に属していた≫のだから、なおさらよく≪欠落2≫覚えているはずである。
●雑誌P159上段4-5行目
ラデック自身がこれらの憐れな「弁証法家」に属していたのだから、それだけいっそうこのことを覚えているはずである。
●姫岡訳P223、最後の1-2行目
ラデック自身がこの憐れなタイプの「弁証法家」に属していたのだから、それだけ一層よく、このことを憶えているはずである。
原文
Радек должен это помнить тем лучше, что он сам был в числе этих "диалектиков" печального образа.
森田訳の問題点
1.≪憐れな≫≪欠落1≫
原文печального образа哀れな姿の。образаが欠落。
2.≪に属していた≫ 原文был в числе~の一員であった
3.≪欠落2≫ этоが欠落。姫岡訳、雑誌版には「этоこのことを」が存在し、原文にも存在しているのに、文庫版では削除された。いかなる理由で削除、「見直し」したのだろうか? 不思議だ。
●文庫P273、10-11行目
…レーニンは…次のように述べている。
●雑誌P159上段7-9行目 文庫版と同一
●姫岡訳P224、1-2行目
…レーニンは…書いた。
原文Ленин писал: レーニンは次のように書いていた。次のように書いた。
文庫版、雑誌版は原文の時制を無視している。
●文庫P274、4-6行目
レーニンは、ここでは≪直接に≫、ロシアが「ブルジョア民主主義を越えて飛躍」したと言っている。/もちろん/レーニンは心中ではこの主張にあらゆる必要な限定を≪課していた≫/。
全74文字中、赤52文字、70.3%、赤+ピンク69文字、93.2%
●雑誌P159上段最終行-下段3行目
レーニンは、ここでは直接に、ロシアが「ブルジョア民主主義を飛び越えて飛躍」したと言っている。/もちろん/レーニンは心中ではこの主張にあらゆる必要な限定をほどこしてしていた/。
●姫岡訳P224、7-8行目
レーニンは、ここで直接に、ロシアは「ブルジョア民主主義をこえて飛躍」した、といっている。レーニンは、たとえ間接的にではあっても、この論点にすべての必要な限定を補足したことは確かである。
原文
Ленин здесь прямо говорит, что Россия совершила "скачок через буржуазную демократию". Конечно, Ленин мысленно вносит в это утверждение все необходимые ограничения:
森田訳の問題点
1.≪直接に≫ 原文прямо率直に、はっきりと
≪直接に≫言う、は人づてに、間接的にではなく、自分から相手へと直に言う、の意である。
2.≪課していた≫ 原文вносит加えている 現在形である。
どちらも姫岡訳に由来するもので訂正されていない。
●文庫P274、6-7行目
弁証法はすべての具体的諸条件を毎回改めて≪繰り返すこと≫にあるのではないし、
全35文字中、赤22文字、62.9%、赤+ピンク31文字、88.6%
●雑誌P159下段3-5行目 文庫版と同一
●姫岡訳P224、8-9行目
弁証法は、すべての具体的条件をいつでも繰り返していることを含んではいないし、
原文
диалектика состоит ведь не в том, что каждый раз перечисляются заново все конкретные условия;
перечисляютсяは≪繰り返すこと≫ではなく、「数え上げられるものだ、列挙されるものだ」。姫岡訳以来、訂正されていない。
●文庫P274、7-9行目
この筆者[レーニン]は、読者自身も何ごとかを考えていることを前提していたからである。それにもかかわらず、ブルジョア民主主義を越えての飛躍≪という事実≫は依然として残るのであり、そのことは、レーニンの正しい評価によれば、≪あらゆる≫教条主義者や図式主義者にとってソヴィエトの役割の理解をはなはだ困難にしたのである―そしてこのことは、「西方において」だけでなく、東方においても理解を困難にしている。
全175文字。ただし[レーニン]は森田氏の追加で原文にはないからこれを外せば全174文字。うち赤110文字62.9%、赤+ピンク158文字90.3%
●雑誌P159下段5-12行目
この筆者[レーニン]は、読者自身も何ごとかを考えていることを前提としていたからである。それにもかかわらず、ブルジョア民主主義の跳び越えはそのまま残るのであり、そのことは、レーニンの正しい評価によれば、「西方」においてのみならず東方においても、≪あらゆる≫教条主義者や図式主義者にとってソヴィエトの役割の理解をはなはだ困難ならしめるのである。
●姫岡訳P224、9-12行目
著述者は、読者自身も何ごとか考えていることを、当然のこととして前提している。それにもかかわらず、ブルジョア民主主義は、飛び越えられたままなのであって、そのことが―レーニンの正確な観察によれば―西欧においてばかりでなく東欧においても、≪あらゆる≫教条主義者や図式主義者にとってソヴィエトの役割の理解を困難ならしめるのである。
原文
писатель исходит из того, что у читателей есть у самих кое-что в голове. Но скачок через буржуазную демократию, тем не менее остается и, по правильному замечанию Ленина, крайне затрудняет догматикам и схематикам понимание роли Советов, - при том не только "на Западе", но и на Востоке.
森田訳の問題点
1.時制の無視
文庫版に付した2つの下線部に注目していただきたい。
「前提していたからである」→原文ではисходит из того ~に立脚している、拠りどころとする
現在形である。森田訳は時制を無視している。
「困難にしたのである」→原文ではзатрудняет困難にしている
これも現在形である。同じく森田訳は時制を無視。ところが文末では「困難にしている」と現在形になっている。原文に対してだけでなく自分の訳文の時制に対してすらもまったく無頓着。
雑誌版(P159)では前者は「前提としていたからである」でやはり過去形。文庫版と異なり「と」の1文字がある。後者は「困難ならしめるのである」と現在形になっている。後者を現在形から過去形に「全面的に修正した」理由は何であろうか? 時制を無視することで森田氏は読者の理解を「困難にしたのである」。
姫岡訳は「前提している」、「困難ならしめるのである」(P224)でともに現在形。時制把握は正しい。
2.飛躍≪という事実≫ 原文に存在しない。姫岡訳、雑誌版にもなかったが文庫版で追加された。いかなる「見なおし」の結果か?
3.≪あらゆる≫ 原文に存在しない。姫岡訳からの引継ぎである。
●文庫P274、後ろから2行目
そして、今では思いがけなくもラデックを≪かくも≫不安に陥れている≪あの≫『一九〇五年』への「序文」は、この問題に関してまさにこう述べている。
●雑誌P159下段後ろから6-5行目
そして、今では思いもかけずラデックを≪かくも≫不安に陥れている≪かの≫『一九〇五年』への序文は、この問題に関してまさにこう述べている。
●姫岡訳P224、13-14行目
そしてまた「一九〇五年」の序文は―ラデックは、これを読むと、たちまち頭痛が起こるだろうが―こう述べている。
原文
говорится в том самом "Предисловии" к книге "1905", которое теперь неожиданно причиняет такие беспокойства Радеку:
いま、思いがけずラデックをこのような不安な気持にさせている、著書『1905年』へのまさにその「序文」においてこう述べている
森田訳の問題点
1.森田訳、西島訳の≪かくも≫は「陥れている」にかかる副詞として訳されているが、原文ではбеспокойства 「諸不安」にかかる形容詞такие「そのような」である。
2.また、森田訳、西島訳の≪あの≫、≪かの≫は原文ではтом самом「まさにその」で『1905年』ではなく"Предисловии"「序文」にかかる。
●文庫P276、1行目
だが、まさに≪この点を≫ラデックは左から≪攻撃する≫。
全21文字中、赤17文字、81.0%、赤+ピンク21文字100%
●雑誌P160上段、最終行
だが、まさにこの点をラデックは左から攻撃するのだ。
●姫岡訳P225
だが、ほかでもないその点をラデックは左から攻撃するのだ。
原文
Но как раз здесь Радек заходит слева.
森田訳の問題点
1. ≪この点を≫
森田訳では≪この点を≫は名詞、目的語である。原文はздесьで副詞。как раз здесьは「ちょうどここで」。目的語ではなくラデックの行動の状況を示している。
2.左から≪攻撃する≫
森田訳では動詞は「攻撃する」。原文ではзаходит 回り込んでいる
заходит слева左側から行くのである、左側へ行くのである、といった意味。いずれにしても「攻撃する」ではない。
2008年5月4日脱稿 5月5日改訂
5月14日三訂
≪参考資料―森田成也訳『永続革命論』(光文社古典新訳文庫、2008年)から≫
〔凡例〕
赤字―姫岡訳と同一。漢字⇔ひらがなの変換は同一とみなす。固有名詞の表記違いも同一とみなす。読点の有無も同一とみなす。語順の入れ替えは網掛け表示。
ピンク字―姫岡訳とほぼ同一あるいは類似部分。単語の本質的ではない言い換えを含む。語順の入れ替えは網掛け表示。
黒字=森田氏のオリジナルとみなせる部分
(姫)/―姫岡訳とは語順が異なる、入れ替えがある。語順の入れ替え箇所を / で示す。
≪略≫―省略がある部分。革命的な闘争⇔革命的闘争、自由主義者⇔自由主義者たちといった省略や追加、接尾語、助詞の省略や追加など意味に関係しない省略が大半であるが、まれにそうでない場合もある。
〔この資料が明らかにするもの〕
まず一目瞭然たる事実は赤=姫岡訳との同一部分の多さである。おそらく60-70%に達するはずである。この事実は、「改めて全体を見直し、全面的に修正した」という森田氏の言葉の信憑性が薄いものであることを明確に示している。森田氏のこの発言が事実ならばもっとピンク色の部分が多くなってしかるべきだからである。事実は森田氏の言に反して見直し・修正部分が意外に少ないことをはっきりと示している。
第二に明らかな事実は赤+ピンク部分の無類の多さである。これで90%前後になるだろう。ピンク色部分は姫岡訳との類似部分である。その手法は同義語による言い替え、接尾語の省略や追加、助詞の追加や省略、単語・熟語の句や節による置換え・その逆など、いずれも訳文本体の内容にはほとんど影響しない非本質的な変更である。
第三に明らかな事実は赤、ピンクで塗られていながら姫岡訳とは語順が入れ替えられている部分があることである。この部分は網掛けと/ / によって表示してある。赤、ピンクで塗られていながら姫岡訳とは語順が入れ替わっているということは、語順変更が内容には抵触しない、まったく非本質的なものであることを物語る。何のためにこのような語順の入れ替えをしたのかという疑問さえ浮かび上がる。積極的な理由が何もないからである。いわば部屋の中の模様替えをしただけのようなものだ。
以上、3つの事実がはっきりと示していることは、森田訳は姫岡訳を一部修正しながらも、大部分をほとんどそのまま踏襲しているということである。家屋に例えれば、外装、内装部分だけを変更しただけで、土台・基礎、柱、壁、梁、屋根などの本質的構造部分はほとんどそっくりそのままなのである。
ここから次のような率直な疑問が浮かび上がる。森田訳にはなぜかくも赤、赤+ピンクの部分が多く、黒の部分=森田氏のオリジナル部分がかくも少ないのか?
これに対しては、ロシア語原文を正しく訳していれば訳文が同じになったり類似したりすることもありうることではないのか? という声が聞こえてきそうである。
ここで忘れてはならない最も重要なことがある。森田氏は何ゆえに「ロシア語からの」翻訳を行ったのかということだ。森田氏=西島栄氏自身に語ってもらおう。「西島栄」とは森田成也氏のペンネームである。
「(姫岡訳には―中島)藤井一行氏が指摘しているように、重要な誤訳が多数含まれており、その中にはトロツキーに対する根本的誤解の元となるようなものさえ存在する。そこで今回、ロシア語版にもとづいて全体を訳しなおした。」(『トロツキー研究』第49号、PP6-7、特集解題)
姫岡訳『永続革命論』に対して森田氏=西島栄氏自身が不適格の判断を下している。これは忘れてはならないことである。それゆえに氏はロシア語から訳しなおした、とはっきりと語っている。
そうであるならば欠陥の多い姫岡訳と比較した場合、森田氏による新訳は当然のことながら黒の部分=森田氏のオリジナル部分が圧倒的に多くならなくてはならない。姫岡訳には「重要な誤訳が多数含まれている」のだからだ。
それにもかかわらず森田訳に存在する赤=姫岡訳との同一部分のこの多さ、赤+ピンク部分の多さ! これはいったい何を物語るものであるか?!
考えられる答えは2つ。姫岡訳不適格という森田氏=西島栄氏の判断が誤りであるか、森田氏=西島栄氏に姫岡訳の誤りを訂正するだけのロシア語能力がないか、このいずれかである。そして、この2つの仮説の最終的検証はロシア語原文との照合によって果たされる。
森田訳、西島訳がどの程度ロシア語原文を正しく訳しているか、あるいはどの程度正しく訳していないか、そして姫岡訳をどの程度正すことができたか、あるいはできなかったか? これもまた藤井一行氏のきわめて綿密な点検や先の私の検討によってすでに明らかである。
2008年5月6日
第六章 歴史的段階の飛び越えについて
ラデックは、この数年間におけるあれこれの公式の批判的文言を繰り返すだけでなく、部分的にはそれ≪略≫をいっそう単純化し≪略≫ている―そんなことができるとすればの話だが。彼の言うところによれば、私はそもそも、一九〇五年においても今日においても、ブルジョア革命と社会主義革命とを、東方と西方とを区別していないそうだ。スターリンに追随してラデックも、歴史的段階の飛び越えは許されないのだと私に説教する。
そこで、(姫)/何よりもまず/次のような問いが/出されなければならない。もし一九〇五年に私にとって(姫)/問題になっていたのが/「社会主義革命」にすぎなかった/ならば、どうしP268て≪略≫私は、それが後進≪略≫ロシアにおいて先進≪略≫ヨーロッパ≪略≫よりも早く始まることができるなどと考えたのか? 愛国主義や民族的誇りからか? だがいずれにせよ実際にそうなったのだ。(姫)/もし民主主義革命がわが国で一つの独立した段階として完成しえたならば、今日、わが国にプロレタリアートの独裁は存在しなかっただろう。このことを、/ラデックは/理解しているのか? わが国でプロレタリアート独裁が西方よりも早く実現されたのはまさに、歴史が、ブルジョア革命の基本的内容をプロレタリア革命の第一段階と結合した―≪略≫混同したのではなく、有機的に結合した―からこそであった。
ブルジョア革命とプロレタリア革命とを区別することは、≪略≫ABCである。だが、このABCの次には、複数の文字を結合した音節が≪略≫来る。歴史は、ブルジョア的アルファベットの最も重要な諸文字と社会主義的アルファベットの最初の諸文字のこのような結合をなしとげた≪略≫。だがラデックは、すでに現実によって生じたこの音節からABCへとわれわれを引き戻す。残念ながら、本当なのだ。
一般に発展段階を飛び越すことができないかのように言うのは、馬鹿げている。(姫)/歴史の/生きた/過程は、全体として≪略≫取り上げられた発展過程、すなわちその最も完全な形P269での発展過程の理論的区分から生じる個々の「段階」を常に飛躍するし、危機的瞬間には革命≪略≫政治に同じことを要求する。革命家と俗流的な漸進主義者とを分かつ第一の分岐点はまさに、この契機を認識しそれを利用する能力の有無にあると言うことができるだろう。
(姫)/マルクスは/工業の発展を、手工業、マニュファクチュア、大工業に/区分した/が、この区分は経済学の、より正確に言えば経済史学のABCに属する。しかしロシアでは、大工業は、マニュファクチュアと都市≪略≫手工業の時代を素通りして出現した。(姫)/これ≪略≫は/すでに/歴史の「音節」である。わが国では、(姫)/類似の過程が/階級関係や政治≪略≫においても、/起こった。(姫)/ロシアの/近代/史は、(姫)/マルクスの/三段階―手工業、マニュファクチュア、大工業―の/図式を知ることなくしては、理解することができない。しかしこれ(姫)/を知っている/だけ/なら、何も理解していないのも同然である。というのも、実際にはロシアの歴史は―スターリンのお気に召さないだろうが―あれこれの段階を飛び越えたからである。しかしながら、ロシアに関しても、諸段階の理論的区別は必要である。それがなければ、この飛躍の内実が何であり、その結果が何であるかを理解することができないからだ。
P270(姫)/別の面からこの問題にアプローチするならば/(レーニンが二重権力≪略≪に/アプローチした際に/時おり/そうしたように)、/ロシアにもマルクスの言う三つの段階がすべて存在したと言うこともできよう。ただし、最初の二つの段階はきわめて圧縮された萌芽的な形態で存在した。これらの「不全器官」―いわば点線で描かれた手工業とマニュファクチュアの段階―は、経済≪略≫過程の発生的同一性を確証するには十分である。しかし、それにもかかわらず、この二つの段階の量的短縮は、わが国の社会≪略≫構造全体にまったく新しい質を生じさせるに十分なほど大きなものだった。政治におけるこの新しい「質」を最もはっきりと示すものこそ十月革命なのである。
この問題において最も滑稽なのは、スターリンが(姫)/「不均等発展の法則」と「段階の飛び越え不可能性」という/二つのずた袋―それは彼の理論的全財産をなす―/を背負って/「理論化」にいそしんでいることである/。(姫)/スターリンは、/発展の/不均等性/の本質がまさに/諸段階の飛び越えにあること(あるいは特定の段階に過度に長くとどまっていること)を/今日に至るまで理解していない。(姫)/永続革命論に/対抗して/スターリンが/まったく大真面目に/持ち出しているのが…/不均等発展の法則/なのである。ところが、歴史的に後進的なロシアが先進的なイギリスよりも早くプロレタリア革命に至ることP271ができるという予見は、不均等発展の法則に全面的に依拠しているのだ。ただ、こうした予見に必要だったのは、歴史の不均等性をそのダイナミックな具体性の全体において理解することであって、一九一五年のレーニンからの引用を―その中身を引っ繰り返し無知蒙昧な解釈を施しながら―十年一日のごとく繰り返すことではない。
歴史的「段階」の弁証法は、革命的高揚期には比較的(姫)/容易に/理解することが/できる。反対に、反動≪略≫≪略≫期は≪略≫必然的に安っぽい漸進主義の時代となる。スターリニズム、この濃縮された思想的俗悪さ、党内反動の固有の産物は、その政治的追随主義と些末主義を覆いかくすものとして一種の段階論崇拝をつくり出した。今や(姫)/この反動的イデオロギーは/ラデック/を/も配下に収めたのである。
歴史の過程のあれこれの段階は、理論的には必然的ではない場合であっても、一定の条件のもとでは必然的になる場合がある。逆に、理論的には「必然的」な段階であっても、(姫)/発展のダイナミズムによって/ゼロに/圧縮される/ことがあるのであって、/革命の時代には/とりわけ/そうである/。革命が歴史の機関車と呼ばれるのもゆえあってのことなのだ。
たとえば、わが国のプロレタリアートは、憲法制定議会にせいぜい数時間の存在P272を―それもただ≪略≫裏庭で―許しただけで、民主主義的議会主義の段階を「飛び越えた」≪略≫。しかし、(姫)/中国では現在の反革命の段階を/飛び越えることは/けっして/できない。/それはちょうど、わが国で/四つの/国会の/時期を飛び越えることができなかったのと同じである/。しかしながら、中国における現在の反革命的段階は、(姫)/けっして/歴史的に≪略≫/「必然的」なものではなかった。それはスターリン・ブハーリンの破滅的政策の直接の結果であって、彼らは「敗北の組織者」として歴史にその名を残すことだろう。だが、日和見主義の果実は、革命の過程を長期にわたって阻害しうる≪略≫一つの客観的要因となったのである。
大衆の発展における現実的な/段階、/すなわち客観的に条件づけられた段階を飛び越えようとするあらゆる試みは、政治的冒険主義を意味する。労働者大衆の大多数が、社会民主主義者を、いわんや国民党を、あるいは労働組合主義者を信頼しつづけているかぎり、われわれは、大衆の前にブルジョア権力の即時打倒の任務を提起することはできない。(姫)/それに向けて/大衆を/準備させることがまず必要になる。この準備がきわめて長い「段階」になることもあるだろう。しかしながら、あたかもわれわれが「大衆とともに」(姫)/国民党の内部に(/まずは/右側に、次に左側に)席を占めなければならないP273、あるいは「大衆が≪略≪指導者たちに幻滅するまで」は(姫)/ストライキ破りのパーセルとのブロックを維持し、/その間は相互の友好関係にもとづいて彼らを支持し/なければならないなどと信じることができるのは、追随主義者だけである。
ところでラデックは、あれこれの「弁証法家」たちが、国民党からの脱退や英露委員会との決裂という要求を、段階の飛び越え以外の何ものでもなく、それどころか(姫)/農民/(中国の/場合)や(姫)/労働者大衆/(イギリスの/場合)から乖離することに他ならないと決めつけたことを、おそらく忘れ≪略≫てはいないだろう。ラデック自身がこれらの憐れな≪略≫「弁証法家」に属していたのだから、なおさらよく≪略≫覚えているはずである。今では彼は、その日和見主義的誤りを深化させ一般化させているにすぎない。
一九一九年四月にレーニンは、(姫)/「第三インターナショナルとその歴史上の地位」という/綱領的論文/の中で、次のように述べている。
(姫)/おそらく次のように言っても間違いではないだろう。/ロシアが後進的であること、そのロシアが、/ブルジョア民主主義を越えて、/民主主義の最高の形態へ、/ソヴィエト民主主義ないしブロレタリア民主主義へと「飛躍」した≪略≫こと、この二つP274のあいだの矛盾、まさに―この矛盾こそ…西方においてソヴィエトの役割の理解をとくに困難にし、あるいは遅らせた原因の一つであったと/。(レーニン、第一六巻、一八三頁)。
レーニンは、ここでは直接に、ロシアが「ブルジョア民主主義を越えて飛躍」したと言っている。(姫)/もちろん/レーニンは心中ではこの主張にあらゆる必要な限定を課していた/。というのも、弁証法はすべての具体的諸条件を毎回改めて繰り返すことにあるのではないし、この筆者[レーニン]は、読者自身も何ごとかを考えていることを≪略≫前提していたからである。それにもかかわらず、ブルジョア民主主義を越えての飛躍という事実は依然として残るのであり、そのことは、レーニンの正しい評価によれば、(姫)/あらゆる教条主義者や図式主義者にとってソヴィエトの役割の理解をはなはだ困難にしたのである―そしてこのことは、「西方において」だけでなく、東方においても、/理解を困難にしている。
そして、今では(姫)/思いがけなくもラデックをかくも不安に陥れている/あの『一九〇五年』への「序文」は、/この問題に関してまさにこう述べている。
P275(姫)/ペテルブルクの労働者は、/すでに一九〇五年に、/自分たちのソヴィエトをプロレタリア政府と呼んでいた。この呼称は、当時の日常語にまでなっていて、労働者階級による権力獲得のための闘争の綱領に完全に収まるものだった。しかし、それと同時にわれわれは、(姫)/ツァーリズムに対し、/政治的民主主義の全面的な綱領/(普通選挙権、共和制、民兵、等)/を/対置した/。そうする以外にはありえなかった。政治的民主主義は、労働者大衆の発展における(姫)/必然的な/一/段階だからだ。ただし、(姫)/次のような重大な留保を付した上でのことである。/すなわち、ある場合にはこの段階を通過するのに数十年もかかるのに対して、別の場合には革命的情勢のおかげで、政治的民主主義が≪略≫制度として現実のものとなる以前にさえ、大衆が政治的民主主義の偏見から解放されることもありうる、ということである。(トロツキー『一九〇五年』序文、七頁)
ちなみに、先に引用したレーニンの思想と完全に一致するこれらの文言は、「政治的民主主義の全面的な網領」を国民党の独裁に対置することの必要性を十分に説明すP276るものだと私には思われる。だが、まさにこの点を、ラデックは左から攻撃する≪略≫。革命的高揚の時期には、彼は、中国共産党が国民党から/脱退することに反対した。反革命的独裁の時期になると、民主主義のスローガンのもとに中国≪略≫労働者を動員することに反対する。これでは、夏に毛皮を提供し、冬に衣服を剥がすようなものだ。