『わが生涯』 第17章
中島章利
《凡例》
赤字―高田訳と同一。漢字⇔ひらがなの変換は同一とみな す。固有名詞の表記違いも同一とみなす。読点の有無も同一とみなす。語順の入れ替えは網掛け表示。
ピンク字―単語の本質的ではない言い換えを含むが高田訳とほぼ同 一。語順の入れ替えは網掛け表示。
青字―現代思潮社版と同一。語順の入れ替えは網掛け表示。
水 色―現代思潮社版と 類似。語順の入れ替えは網掛け表示。
(露)/ ―ロシア語原文とは語順が異なる。
(高)/ ―高田訳とは語順が異なる、入れ替えがある。
(現)/ ―現代思潮社版とは語順が異なる、入れ替えがある。
語順の入れ替え箇所を / で示す。
省略がある部分の幾つか―革命的な闘争→革命的闘争、 自由主義者→自由主義者たちといった省略や助詞の省略など意味に関係しない省略―は≪略≫で示す
第一七章 新しい革命≪略≫の準備
(高)/反 動の/数 年間、(高)/私 の仕事/の大 部分/は、一九〇五革命を解釈することと、(高)/第 二革 命への道を/理 論的に 明らかにすること/にあった。
国外に到着するとすぐ、私は(高)/二 つの報告テー マを たずさえて、/ロ シア人亡 命者と学生≪ 略≫の 居留地を/講演してまわった。一つは「ロシア革命の運命(現在の政治≪略≪状況に寄せて)」で、もう一つは「資本主義と杜会主義(社会≪略≪革命の展望)」である。前者は、永続革命としてのロシア革命の展望が一九〇五年の経験によって裏づけられていることを主張するものであり、後者はロシア革命を世界革命に結びつけていた。
一九〇八年一〇月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象とし たロシア語≪略≫新聞『プラウダ』を発行≪略≫しはじめた。この新聞は、あるいはガリツィアの国境を越え、あるいは黒海を越えて、(高)/ひ そかに/ロ シアに/届け られた。この新聞は、いいときで月に二回程度の頻度で三年半にわたって発行されたが、その発行には(高)/面 倒で根気のいる/多 大な/労力を要した。ロシアとの秘密の文通には莫大な時間が費やされた。加えて、私は、黒海の非合法の海員組P428合 と密接な関係を持っていて、彼らの機関紙の発行を援助した。
『プラウダ』における私の主要な協力者は、のちにソヴィエトの著名な外交官となるA.A.ヨッフェだった。私たちの親交はウィーン時代から始まった。ヨッフェは、高い思想性を持ちながら、個人的には非常に温和で、大義への揺るぎない献身を有した人物だった。彼は『プラウダ』≪略≫にその持てる力と手段を注いでくれた。
ヨッフェは、神経の病に苦しみ、ウィーンの著名な医者アルフレート・アドラーのもとで精神分析の治療を受けていた。この医師は、フロイト教授の弟子として出発したが、その後、師と対立するようになり、(高)/個 人心理学と いう/独 自の/学派を旗揚げした。(高)/私 は/ヨッ フェを通じて/精神分析学の諸問題に関する知識を得た。この分野では(高)(現)/ま だ/多 くのこ とが/不明瞭であぶなかしく、空想と独断の入る余地がいくらでもあるが、それでも私はこの学問に大いに興味をそそられた。
私のもう一人の協力者はスコベレフという学生で、のちに、ケレンスキー政権の労働大臣になった男である。一九一七年に私と彼とは敵として相まみえることになる。一時『プラウダ』の書記をつとめていたのは、ヴィクトル・コップである。彼は今、≪略≫スウェーデンのソヴィエト公使になっている。
ヨッフェは、ウィーン≪略≫『プラウダ』の仕事のため≪略≫、ロシアに出かけて活動に従事した。その彼はオデッサで逮捕され、長期間投獄されたのち、シベリアに流刑になった。彼が(高)/釈 放されたのは、/よ うやく/一九一七年の二月革命によってであった。ヨッフェは、十月革命の最も積極的な参加者≪略≫の一人だった。重い病気を持ったこの人物の個人的勇気は実に見事なものだった。一九一九年の秋、砲弾で穴だらけになったペトログラード郊外の戦場に立つずんぐりした彼の姿が、今でもありありと目≪略≫に浮かぶ。外交官の洗練された服装に身を包み、落ち着き払った顔に柔和な微笑みを浮かべながら、ステッキを手に持ち、あたかもウンテル・デン・リンデン通りを歩いているように、ヨッフェは、(高)/歩 みを早めもせ ず遅ら せも せず、/近 くで砲 弾が炸 裂す るのを/おも しろそうに眺めていた。
ヨッフェは、(高)/思 慮深く心 のこ もった/演 説をする/優 れた演 説家 であり、/著述 家としてもそうであった。(高)/ど んな仕 事にお いても、/ヨッ フェは/小 さなことに細や かな神経を使っていたが、/こ れは多 くの革命家に欠けていた資 質だっ た/。レーニンは(高)/ヨッ フェの/外交官としての/仕事を高く評価していた。私は長年にわたって(高)/誰 よりも/こ の人物と/深いつき合いがあっP430た。(高)(現)/そ の/思 想上の堅 固さは/も とより、/友 情へ の彼 の献 身は/比類なきものだった。
ヨッフェの生涯は悲劇的な結未を迎えた。(高)/重 い/遺 伝性 の/持病は/彼 を/すっ かり衰弱させていた。それに劣らず(高)/彼 を衰弱させたのは、/マ ルクス主義者/に 対する/エピゴーネンどもの野放図な迫害であった。病気と闘う可能性を奪われ、したがってまた政治≪略≫闘争の可能性をも奪われたヨッフェは、一九二七年の秋に自ら≪略≫命を絶った。私に宛てられた遺書は、(高)/ス ターリンの手先≪ 略≫に よって、/こっ そりとベッドサイドのテー ブル≪ 略≫か ら/持ち去られた。友人としての思いやりを込めて書かれた章句が、(高)/ヤ ロスラフスキーを はじめとする内 的に堕 落した連中に よって/遺 書か ら削り とら れ、/歪曲され、中傷された。だがこのことは、ヨッフェが革命の歴史に/その最良の名前の≪略≫一つとして永遠に書き記されることを妨げはしない。
最も活気のない淀んだ反動期において、(高)(現)/私/と/ヨッ フェ/は/確信 を持って新しい革命を展望し、しかも、まさに一九一七年に展開したとおりの形で展望していた。当時≪略≫メンシェヴィP431キ で今はスターリニストであるスヴェルチコフは、回想録の中でウィーン≪略≫『プラウダ』について次のように書いている。
「この新聞の中で彼(トロツキー)は、以前と同様、(高)/倦 まずたゆまず/ロ シア革 命の 「永続性」 についての考 えを/展開していた。すなわち、ロシア革命はいったん開始されたならば、資本主義の打倒と全世界における社会主義体制の確立にいたるまで終わることはない、という思想である。ボリシェヴィキもメンシェヴィキも、彼を嘲笑し、そのロマンティシズムと七つの大罪ゆえに彼を断罪していたが、(高)/彼 は/攻 撃に≪ 略≪/ひ るむことなく、/断 固たる確信を持って/己 れの観 点を/堅 持して/いた。」
一九〇九年、私は、ローザ・ルクセンブルクのポーランド語雑誌〔『社会民主主義評論』〕の中で、(高)/革 命に おける/プ ロレタリアートと農民との/相互関係について次のように特徴づけた。
「地方的クレチン病は農民連動の歴史的病いである。地主の土地を奪うために自分の農村においては地主に襲いかかるが、軍服を着ると労働者に発砲する。このような農民の政治的視野の狭さが、ロシア革命の最初の波(一九〇五年)を打ち砕いた。だが、革命のすべての諸事件は一連の容赦ない実物教育であるとみなすことができる。(高)/歴 史は/そ れを 通じて、(高)/土 地に 対する/農 民の/地 方的/要 求と(高)(現)/国 家権力/と いう/中 央的/問題 との結びつきを(高)/農 民の/意 識/の 中にたたき込んでいる。」
P432そして(高)/、社 会民主党が小 作農 の問題を めぐって農 村で 巨大な影 響力を獲 得しているフィ ンランドの例をひき ながら、/私 は/次のように結論づけた。
「(高)/都 市と農村における/新 しい/は るかに広範な/大 衆/運 動を/指 導す る中で、そ してそ の結果と して、/わ が党 が (高)(現)/いっ たいどれほど大きな/影 響/力を/農 民に 対して持 つ/こ とか! (高)(現)/も ちろん、/わ れわれ自身が、来 る≪ 略≪新 しい波によっ て不 可避的に提 起される政 治≪ 略≪権 力の誘惑に恐 れを なして 武器を降 ろさないならばの話 だ。」
いったいこれのどこに「農民≪略≪の無視」や「農業問題の飛び越し」があるというのか!
(高)(現)/革 命が永遠かつ絶望的な までに たたきつぶされたかに見 えた/一 九〇九年一二月四日、/私は 『プラウダ』に次のように書いた。
「(高)(現)/反 動の黒 い暗 雲が/すっ かり周 囲にたち込めている/今 日に おいても、/わ れわれの目には、/新しい十月の勝利の照り返しが見える。」
(現)/当 時は、自 由主義者の みならず、メ ンシェヴィキも、/こ れらの言葉を嘲 笑した/。彼らには、それが(高)/ア ジテーション向けの/空 虚な/叫びであり、中身のない空文句であると思えたのだ。(高)(現)/「ト ロツキズム」という言葉を発明した栄誉に 浴する/ミ リュコーフ教授/は、/私に反論してこう述べている。
「プロレタリアート≪略≪独裁の思想―これは何といっても、純粋に子供じみた思想であり、ヨーロッパには(高)/こ れを真 面目に支 持し ようとす る者など/誰 一人として/いない。」
それにもかかわらず、一九一七年に(現)/起 きた/事 件は/、(高)/自 由主義的教授の/こ の/確固たる確信を大いに揺るがすことになる…。
反動の時期≪略≫、私は世界≪略≫および国内における商工業の景気変動の問題に取り組んだ。その目的はあくまでも革命の利益であった。≪略≫一方における商工業の景気変動と、他方における労働運動および革命闘争の諸段階と≪略≫の相互関係を明らかにしたいと思ったのである。(高)/他 の同種 の問題と 同様、/こ の問題においても、/私 は/何 より、/政 治を/機 械的に/経 済に/従 属させるこ とのないよう≪略≫/気を つけた。両者の相互作用は、総体としてとらえられた(現)/過 程の/全 体/から出てくる≪略≫のでなければならない。
ニューヨークの証券取引所が「黒い金曜日」に襲われたとき〔一九〇七年三月〕、私はまだボヘミア地方の小都市ヒルシュベルクに滞在していた。これは(高)/世 界≪ 略≫恐 慌の前 触れで あり、/日 露戦争とそ の後の革 命によって根 底まで揺 さぶられた ロシアをも 不可避的に襲 うことは間違いなかった/。この恐慌の結果はどう≪略≫なるだろうか? 党内のどちらの派においても支配的であった考えは、≪略≫恐慌が革命闘争の先鋭化をもたらすだろうというものだった。私は≪略≫異なった立場をとった。大規模な闘争と大規模な敗北のあとでは、恐慌は労働者階級に対して、活気をもたらす方向に作用するのではなく、士気を阻喪させる方向に作用するのでP434あって、自らの力に対する労働者の自信を失わせ、(高)(現)/彼 らを/政 治的に/解体する。このような≪略≫状況のもとでは、工業の新しい活況のみがプロレタリアートを結束させ、再生させ、その確信を取り戻させ、さらなる闘争の可能性をつくり出す。
この≪略≫展望は批判と不信で迎えられた。(高)/党の公式の 経済学者たちは/さ らに、反革命体制のもとでは産業好況はそもそも不可能であるという考え≪略≫を展開していた。(高)(現)/彼 らとは対 照的に、/私 は、/経済の活況は不可避である(高)/と いう観点に もとづいていた/。 好況 は/ス トライキ運動の/新 しい/時 期をも たらすに ちがいなく、そ のあとで 生じる新 しい経 済恐慌は革 命≪ 略≫闘 争への刺激と して役立 つだ ろう/。この予測は全体として裏づけられた。産業好況は、反革命体制にもかかわらず一九一〇年に始まった。それとともにストライキ闘争が活発となった。一九一二年にレナ河金鉱で起こった労働者への発砲事件は、全国に巨大な反響を呼び起こした。一九一四年には恐慌はすでに疑いのないものとなっていた。ペテルブルクは再び労働者のバリケードの舞台となった。(高)(現)/こ の光景を目 撃したの は、/大 戦直 前にツァー リを訪問して いた フランス大統領のポ アンカレだっ た。
この理論的・政治的経験はその後、私にとって計り知れない意義 を持った。コミンテルンの第三回大会のとき、私は、戦後ヨーロッパにおける経済≪略≫好況の到来は不可避であり、それは≪略≫その後の革命的危機の前提条件であると主張したが、(高)/大 会代 議員≪ 略≫の/圧 倒的多数か ら/P435反対を受けた。そして、つい最近でも、コミンテルンの第六回大会に対して私は、コミンテルンが中国で起こっている経済的・政治的状況の転換をまったく理解しておらず、革命が無残な敗北をこうむったあとでも、中国における経済≪略≫恐慌の先鋭化の結果として革命が引き続き発展するという誤った見通しを持っていることを、批判しなければならなかった。
この「過程の弁証法」(高)(現)/そ れ自体/は/そ れほど複雑なものではない。しかし、(高)/そ の一 般的特 徴を/定 式化することよ りも、/生 きた諸事実のう ちに/こ の弁 証法を/その度ごとに改めて発見することの方がはるかに難しい。少なくとも、(高)(現)/今 日に至るまで/私 は、/こ の種 の間 題にお いては/つ ねに最 も頑 強な先入観に/出くわしてきた。こうした先入観は、(高)/政 治にお いては/つ ねに深 刻な誤りと手痛いしっぺ返しを/こうむることになる。
他方、(高)/メ ンシェヴィキのその後の運 命と党 の組織的課 題の評 価に 関しては、/ウィー ン『プ ラウダ』は/レーニンの明晰さからはほど遠かった。(高)/私 は/な お、/新しい革命が、一九〇五年と同様、メンシェヴィキを革命の道へと押しやるだろうと期待していた。私は、(高)/準 備的な/イ デオロギー的/淘汰作業と政治的訓練の意義を十分評価していなかった。(高)/党の 内部発 展の≪ 略≫問 題に関 しては、/私 は/一種の社会革命的運命論に陥っていた。これは誤った立場であった。しかし、それは、現在コミンテルンの陣営で私を批判している大多数の連中の顕著な特徴となっている無定見な官僚主義的運命論に比べればはるかにましである。
P436(高)/新 しい政治的高揚が疑 いの 余地なくはっ きりしていた/一 九一二年、私は、社会民主労働党のすべての分派の代表者からなる統一協議会を招集しようとした。この時期、ロシア社会民主主義の再統一に対する期待が私だけに特有なものでなかったことは、ローザ・ルクセンブルクの例に示されている。一九一一年の夏、彼女はこう書いている。
「それでもやはり、(高)/合 同で協議会を開催することを/両 派に/強いるならば、(高)/ま だ/党 の統一は/救えるかもしれません。」(『ローザ・ルクセンブルクの手紙一六〇頁』。
一九一一年八月、彼女は(高)/こ う/繰 り返して/いる。
「統一を救う唯一の道、それは、ロシアから派遣された人々による合同協議会を実現することです。なぜなら、ロシア国内の人々はみな平和と統一≪略≪を望んでおり、彼らこそ、国外の喧嘩好きな連中に理性を取り戻させることのできる唯一の力だからです」(『ローザ・ルクセンブルクの手紙一六三頁』。
この時期、ボリシェヴィキ自身のあいだでも調停主義的傾向は非常に強力であり、(現)/私 は、 この事情がレー ニンをも合 同協議会へ の参加を受 け入れる方向に押しやるの ではないかという希 望を/捨ててはいなかった。しかしながら、レーニンは(高)/統 一の 試みに/全 力を挙げて/反対した。その後における(高)/事 態の 歩みの/す べてが/(高)/示 してい るように、/レー ニンは正 しかった/。ウィーン協議会は、一九一二年八月にボリシェヴィキ抜きで開催された。私は公式的には、P437メンシェヴィキとボリシェヴィキ異論派の種々のグループとの「ブロック」の中にいた。このブロックに政治的基盤はなく、あらゆる基本≪略≫≪略≫問題で私はメンシェヴィキと意見を異にした。彼らとの闘争が早くも協議会の翌日には再燃した。社会革命的潮流と民主主義的改良主義の潮流という二つの潮流間の深刻な対立から、(高)/毎 日のように/先 鋭な衝 突が/生起した。
(高)/ア クセリロートは/ウィー ン協議会の 少し前の/五 月四日に/こう書いている。
「(高)/私 は/ト ロツキーの手紙から/はなはだ重苦しい印象を得た。彼には実際のところ、……敵に対する共同の闘争のために、われわれおよびロシアのわれわれの友人たちと真剣に親しくなりたいという願望は見られない。」
(高)/た しかに、/こ のような意 図/― ボリシェヴィキとの 闘争のた めにメンシェヴィキと統 一するこ と―は/私 には/なかったし、ありようもなかった。協議会後、マルトフはアクセリロートヘの手紙の中で、トロツキーが「レーニン=プレハーノフ流の文学的個人主義の最悪の習慣」を復活させていると嘆いている。数年前に公刊されたアクセリロートとマルトフ≪略≫の往復書簡は、私に対する両者の心底からの嫌悪を余すところなく物語っている。(高)/私は といえば、/わ れわれのあ いだを分かつ深淵に もかかわらず、/彼ら に対してこのような感情を抱いたことはない。今でも私は、若い頃、彼らから多くのことを学んだことを感謝をこめて思い出す。
P438八月ブロックのエピソードは、エピゴーネンの時代において、ありとあらゆる「反トロツキズム」の教科書に収められている。そこでは、新参者と無知な者向けに、(高)/あ たかもボリシェヴィズムが準 備万端整えた姿で歴 史の実験室から飛 び出してき たかのように、/過 去≪ 略≫が/描か れている。しかしながら、(高)/ボ リシェヴィキと/メ ンシェヴィキと の/闘争の歴史は同時に、(高)/党 の統 一に 向けた/絶 え間ない/試みの歴史でもあった。(高)/一 九一七年に/ロ シアに帰 還した/レー ニンは、メンシェヴィキ国際主義派と交渉する最後の試みを行なっている。(高)/私 が/五 月に/アメ リカから戻ってきたとき、社会民主労働党の(高)/地 方/組 織の 大多数は/合同 したボリシェヴィキとメンシェヴィキによって構成されていた。(高)/レー ニンが帰 還す る数 日前に 開かれた/一 九一七年三月/の党 会議に おいて、/ス ターリンはツェレテリの党との合同を主張した。十月革命のあとになってもまだジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ルナチャルスキーをはじめとする十数名のボリシェヴィキは、エスエルおよびメンシェヴィキとの連立のために激しい闘いを繰り広げた。(高)/こ れらの人々も また、/今で は、/一九 一二年のウィーン統一協議会に関するおどろおどろしいお伽話によって己れの思想的実存を支えているのだ!
そんなおり、『キエフスカヤ・ムイスリ〔キエフ思潮〕』≪略≫が(高)/戦 争≪ 略≫特 派員としてバルカンに赴 くこ とを/私 に/持ちかけてきた。この提案は、八月協議会がすでに流産に終わったことがはっきりしていただけになおさらタイムリーなものだった。私はせめてしばらくのあいだP439だけでも、ロシア亡命者≪略≫のごたごたから離れる必要性を感じていた。私がバルカン半島で過ごした数カ月間は、戦争に明け暮れた月日だったが、それは(高)/多 くのことを/私 に/教えてくれた。
一九一二年九月、(高)/バ ルカンの南 東部に着いた。/私 はそ れに先立って、戦 争はあ りうるど ころか、不可避であると思っ てい た/。だが、ベオグラードの舗装道路に立たずみ予備役兵たちの長い列を目にし、≪略≫もはや後退はありえず戦争は(高)/起 こる/― しかも数 日のうちに―/とい うことをこの目で確かめたとき、そして、私のよく知っている(高)/幾 人かの/知 人/が(高)/国 境で/す でに/兵 役についており、最初に誰かを殺すか殺される立場に置かれていることを知ったとき、自分の頭の中や論文の中であれほど軽々しく扱っていた戦争が、今度は起こりそうにもなく、ありえない≪略≫ように≪略≫思われた。
(高)/カー キ色の軍服を身 につけ、 粗末な百姓靴 を履き、帽 子には緑の小枝をさ して戦 争に赴 く連隊(第 一八≪ 略≪連 隊)を、/私 は/まるで亡霊でも見るかのように眺めていた。(高)/完 全武 装した兵 士には不釣り合いな、/足も との百姓靴と頭 にさした小枝が、/兵士 たちを破滅の祭壇に供される生け贄のように見せていた。そして、この瞬問、この(高)/粗 末な百姓靴と/緑 の小 枝/ほど、戦争の不条理さを≪略≫意識の中に絶えがたい痛みを持って焼きつけたものはなかった。現在の世代は、この一九一二年の習慣と気分からいかに遠く隔たっていることか! (高)/そ のとき/私P440は、/歴史 の過程に対する人道主義的で道徳的な見方がいかに無力なものであるかを強く実感した。しかし重要なのは、説明することではなく、身をもって体験することであった。歴史の悲劇≪略≫が引き起こす直接的で、言葉では言い表わせない感情が、私の心の中に湧き起こった。それは、運命を前にした無力感であり、(高)/い なごの大群の ごとき/人 間の/群れに対する焼けつくような心の痛みである。
数日後、宣戦が布告された。(高)/私 はこ う書 いた/。
「ロ シアにいる諸君は/この布告を知り、それを信じている。だが、ここ現地にいる私には信じられない。ごく普通の生活風景、日常の人間的なもの―雄鶏、安煙草、裸足の鼻たれ小僧―と、戦争という信じられない悲劇的≪略≪事実とが、私の頭の中でどうしても結びつかないのだ。(高)/宣 戦が布告され、す でに戦 争が始 まって いるこ とを/私 は/知っている。しかし、いまだにそれを信じることができないでいる。」
しかし、(高)/長 期にわたって/しっ かりと/信じないわけにはいかなかった。
一九一二年から一九一三年にかけて、私はセルビア、ブルガリア、ルーマニアを、そして戦争を身近に知ることになった。それは多くの点で、一九一四年だけでなく、一九一七年に向けた重大な準備だった。私は論文の中で、スラブ主義者の嘘や排外主義一般に対し、≪略≫戦争の幻想に対し、世論という科学的に組織≪略≫されたペテンのシステムに対し、闘いをいどんP441だ。(高)/私は、/ブ ルガリア人 が/ト ルコの負傷 兵や捕 虜に加 えた/残 虐行為に ついて書き、ロ シアの新聞が口 裏を合わせてこの事実に沈 黙を守っ ているこ とを暴いた。/『キ エフスカヤ・ムイスリ』≪ 略≫編 集部は、/このような論文を掲載するだけの勇気を持っていたが、それは自由主義派からの(高)/怒 りの/嵐/を巻き起こした。一九一三年一月三〇日、私は、(高)/ミ リュコーフに、/ト ルコ人に対 する/「ス ラブ人」≪ 略≫/の残 虐行為について/新 聞の 中で/「議 会外からの質問」を行なった。ブルガリア政府の札付きの弁護人であるミリュコーフは窮地におちいり、もごもごと無力な返答をしただけだった。論争は数週間にわたって続き、政府系新聞は、「アンチド・オト」というペンネームを使って記事を書いているのは単なる亡命者ではなくオーストリア・ハンガリーのスパイであるとほのめかさざるをえなくなった。
ルーマニアで過ごした一カ月は、私をドブルジャヌ=ゲレアに近づけ、一九〇三年以来の知人であったラコフスキーとの友情を永遠に打ち固めてくれた。一八七〇年代世代に属する(高)/あ る/ロ シア人/革命 家が、露土戦争≪略≫前夜に「通りすがりに」ルーマニアに立ち寄り、そのままそこに腰を落ち着けた。そしてわずか数年で、この同胞は、ゲレアという名前で、(現)/ま ずルーマニアのイ ンテリゲ ンツィアに対し、続 いて先 進的≪ 略≫労 働者≪ 略≫に対し、/大 きな影響力を/持つようになった。社会的基盤に立脚した文芸批評、これが、ゲレアがルーマニア・インテリゲンツィアの先進グループの自覚を促した主要な分野であっP442た。(高)/彼 は、/美 学と個人的 道徳の 諸間題から/科学的社会主義へと導いていった。ルーマニアの(現)/ほ とんどすべての政党の/政 治家たちの多 くは、/≪ 略≫青年時代に、ゲレア≪略≫指導≪略≫下のマルクス主義の即席学校で学んだ。もっとも、このことは、彼らが成長して反動的ギャング政治を行なうことを妨げるもので はなかったが。
フリスチャン・ゲオルギエヴィチ・ラコフコフスキーはヨーロッ パの社会主義運動の中で最も国際的な人物の一人であった。彼は(高)/出 自と しては/ブ ルガリア人/であ り、ブルガリアのど真ん中にあるコーテルという町の出身であったが、バルカンの地 図からすればルーマニア国民であった。フランスで医者としての教育を受け、その人脈、共感の対象、著述活動の点ではロシア的であった。ラコフスキーは、バルカン諸国のすべてのP443言語とヨーロッパの四つの言語をあやつり、さまざまな時期に、四カ国―ブルガリア、ロシア、フランス、 ルーマニア―の社会主義政党の党内生活に積極的に参加した。その後、彼は、ソヴィエト連邦の指導者の一人となり、コミンテルンの創始者の一人、ウクライナ・ソヴィエト≪略≫人民委員会議長、イギリスとフランスのソヴィエト≪略≫大使となり、最後には、≪略≫左翼反対派と運命を分かちあった。ラコフスキーの個人的特徴―(現)/広 い/国 際的/視野と高潔な人格―は、正≪略≫反対の資質の持ち主であったスターリンにとってとくに忌ま忌ましいものだった。
一九一三年、ラコフスキーは、のちに共産主義インターナショナルに加盟したルーマニア杜会党を組織しその指導者となった。この党は目ざましい発展を遂げた。ラコフスキーは日刊紙を編集するとともに、その資金も出した。ラコフスキーは、黒海≪略≫沿岸の、マンガリアからほど遠くないところに、遺産として受け継いだ小さな(現)/土 地を/所 有/していたが、そこからの収入をルーマニア杜会党や他国の革命≪略≫グループ・個人への資金援助にあてていた。ラコフスキーは、週のうち三日≪略≫をブカレストで過ごし、論文を書き、≪略≫中央委員会の会議を主宰し、集会や街頭デモで演説をし、それが終わると、細引ひも、釘などの日用品を持って黒海沿岸行きの汽車に飛び乗り、自分の所有地へと向かう。着くと、その足で畑に出かけ、新しいトラクターの作業状況を点検し、(高)/都 会的 なフ ロックコートを着たまま、/ト ラクP444ター のあとについて畑 のう ね溝 を/走り回る。そして翌々日には/、集会や会議に遅れないよう再び/とって返す/の であった。
私はこの往復旅行につき合ったことがあるが、その猛烈なエネルギー、疲れを知らぬ気力、≪略≫変わることのない新鮮な精神、名もない人々に対する優しい恩いやりに心を打たれた。(高)/彼 は/マ ンガリアの道 ばたで/会 話する際、わ ずか一 五分ほどのあいだに、ルー マニア語からトルコ語、ト ルコ語からブルガリア語へと 移り変わり、/入 植者や商人たちと話すときには/(高)/フ ランス語や/ド イツ語を/話し、さらに、付近に大勢住んでいるロシア人のスコペーツ≪略≫とはロシア語で話していた。彼は、時には地主として、時には医師として、ブルガリア人として、ルーマニア国民として、そして何よりも社会主義者として話を交わした。私から見れば、彼は、この辺鄙でのどかで淀んだ沿海の町にあって、一個の生きた奇跡であった。夜になると、再び汽車に乗って戦闘の場へと向かうのである。彼は、ブカレストにいても、ソフィアにいても、パリやペテルブルクやハリコフにいても、変わることなく元気で自信にあふれていた。
* * *
私にとって第二の亡命期はロシアの民主主義新聞との協力の時期だった。私は、ミュンP445ヘ ンの雑誌『ジンプリチシムス』に関する長大な論文で、『キエフスカヤ・ムイスリ』にデビューした。一時期、私はこの雑誌にかなり興味をひかれ、創刊号からの全部の号に注意深く目を通した。当時はまだ、(高)/T.T.ハ イネの/挿 し絵には/鋭 い杜 会的感情が脈 打っていた/。その頃すでに、私はドイツの新しい小説に深く接するようになっていた。ヴェデキントについての(現)/長 い社会評論/を 書き/さ え/した。というのは、革命的気分が衰退するのと平行して、ロシアの中で彼への関心が高まりつつあったからである。
『キエフスカヤ・ムイスリ』は、(高)/ロ シア≪ 略≫南 部で/最 も広 く普 及した急進的≪ 略≫新 聞で、/マ ルクス主義的色 彩を帯 びていた/。このような新聞は、(高)/工 業の 発展が弱く、階 級的矛 盾が未 発達で、イ ンテリゲンツィア的急 進主義の伝統が根強 い/キ エフのような/ところにしか存在しえない新聞だった。必要な変更を加えたうえでのことだが、この急進的新聞が(高)/キ エフで生 まれたの は/『ジ ンプリチシムス』がミュンヘンで生 まれたのと 同じ理由に よる、/と 言うことができるだろう。私はこの新 聞に実にさまざまなことを(高)/書 いた。/時 には、テーマの性質からして、検 閲される大きな危険を冒すこ ともあった/。ごく短い記事を書くのに膨大な準備作業を費やすことも珍しくなかった。言うまでもなく、合法≪略≫の無党派≪略≫新聞の中で言いたいことをすべて書けたなどと言うつもりはない。しかし、言いたくないことを書いたことは一度としてない。
P446『キエフスカヤ・ムイスリ』に書いた≪略≫諸論文は、革命後、ソヴィエトの出版社から何巻かにわたって出版された。そのさい私は、一行たりとも削除する必要はなかった。ただし言っておくが、私がブルジヨア新聞に協力したのは、レーニンが多数をとっていた≪略≫中央委員会の公式の同意を得てのことである。
(高)/す でに述 べたように、/私 たちはウィー ンに着くとすぐ郊外に居を定めた/。妻は次のように書いている。
(高)/私は/ヒュッ テルドルフが/気に 入った。私たちが借りた家は身分不相応なほどりっぱだった。ここでは、別荘は春≪略≫に借り≪略≫るのが普通なのに、私たちは秋と冬に借りたからである。窓からは、すっかり暗赤色の秋≪略≫色に染まった山々が見えた。()/裏木戸をくぐれば、/表通りを通ることなく/開けた場所に出ることができた。冬の日曜日になると、鮮やかな色の≪略≫帽子をかぶりセーターを着込んだウィーンの人々が、手ソリやスキーを(高)/持っ て/やっ てきて、山 への道を/めざすのであった。四月になると、家賃が倍になるので引っ越さなければならなかったが、その頃にはすでに、すみれが庭から裏手にかけて咲きほこり、(高)/窓 を/開 ける と、/そ の香りが/部屋いっぱいに広がった。次男のセリョージャ〔セルゲイの愛称〕が生まれたのもこの家だった。私たちはより庶民的な(高)/ジー ヴェリングと いう/町/に 引っ越すP447ことになった。
子供たちはロシア語とともにドイツ語も話した。幼稚園や学校ではドイツ語を話し、したがって、家で遊ぶときもドイツ語を話していた。しかし、私や夫が話しかけると、たちまちロシア語に戻った。私たちがドイツ語で話しかけると、少しとまどいながら、ロシア語で返事をした。最後の頃になると、子供たちは(高)/ウィー ン訊りの/ドイ ツ語/をすっかり会得して、それを上手に話した。
子供たちはクリャチコの家に行くのが好きだった。その家では(高)/誰 もが、/≪ 略≫主 人も奥さんも、もう大きくなっていたお子≪ 略≫さ んたちも、/二人にとても気を使ってくれ、興味をそそるようなものをたくさん見せてくれたり、何か素敵なもので楽しませてくれた。
子供たちはまた、著名なマルクス研究家であるリャザーノフのことが大好きだった。(高)/当 時/ウィー ンに住んでいた/リャ ザーノフは、/その 体操の妙技で子供たちをびっくりさせ、何かというと大騒ぎすることで子供たちをおもしろがらせた。あるとき、下の子のセリョージャが床屋へ髪を切ってもらいにいき、私もそこについていった。セリョージャは、指で合図をして私をそばに呼び、(高)/そっ と/耳 もとで/ささやいた。「僕、リャザーノフみたいな髪にしてほしいな。」彼はリャザーノフの(高)/す べすべした/大 きな/禿頭が気に入っていた。それは、他のどんな人の≪略≫とも違っていて、はるかに立派だった。
P448リョー ヴィク〔長男レフの愛称〕が学校に上がったとき、宗教教育の問題が起こった。当時のオーストリアの法律では、子供たちは一四歳まで≪略≫親の宗教で教育を受けることを義務づけられていた。私たちの身分証明書にはいかなる宗教の記載もなかったので、子供たちのためにルーテル派の新教を選んでやった。この宗派なら≪略≫、子供たちの(現)/肩 にも/心 にも/それほど重荷にならないと思われたからである。
このルーテル派の教義は、校内とはいえ放課後に女教師によって教えられた。(現)/リョー ヴィクは/こ の授業が/気に入り、このことは彼の小さな顔に表われていた。だがこのことを家の中で吹聴する必要はないと思っていたようだ。ある日の夜、(高)/す でに布団に 入っていた/リョー ヴィクが/何かをつぶやいているのが聞こえた。私がどうしたのと尋ねると、彼はこう答えた。「これはお祈りなの。ねえ、お祈りってとても美しいんだよ。まるで詩みたいなんだ。」
私が最初に亡命して以来、両親はときどき国外に出るようになった。二人はパリにいる私のところを訪れ、その後、(高)/ウィー ンに もやっ てきた。/ウィー ンに来たときには、/当 時田舎でいっしょに暮 らしていた上の娘〔最 初の妻とのあいだの子供〕を 連れて/きた。一九一〇年にはベルリンにもやってきた。その頃にはすでに、両親は完全に私の運命を甘んじて受けP449入れていた。その気になった最後の、重みのある論拠はおそらく、ドイツ語で書かれた私の最初の著作〔『革命のロシア』〕だったのではなかろうか。
母は重い病気(放線菌症)をわずらっていた。母はその生涯の最後の一〇年間というもの、自分の病気を重荷が一つ増えたぐらいに考えて(高)/耐 え、/働 くことをやめよ うとはしなかった/。彼女はベルリンで腎臓摘出手術を受けた。母は齢六〇だった。手術直後の数カ月は、非常に元気だった。この症例は医学界でもかなり広い注目を浴びた。しかし病気はやがて再発し、数カ月後、帰らぬ人となった。母は、苦労続きの生涯を過ごし子供たちを育てたヤノーフカで、静かに息をひきとった。
(高)/私 の生 涯に おける/こ のウィー ンでの/長い一章は、この地で最も親しい友人であった老亡命家S.L.クリャチコの一家に触れないとしたら、不完全であろう。(高)/第 二の亡 命期 を通してずっと/私は/この一家と密接に結ばれていた。クリャチコ家は、広い政治的関心および知的関心(高)/一 般の真のか まどであり、/音 楽、ヨー ロッパの四カ国≪ 略≫語、ヨー ロッパのさまざまな 人脈/に いろどられていた/。一九一四年四月、一家の主であるセミョン・リヴォヴィチ〔クリャチコ〕が逝去したことは、私たち夫婦にとって、大きな悲しみだった。かつてレフ・トルストイは、豊かな才能に恵まれた弟のセルゲイを評して、彼が偉大な芸術家になるうえで(高)/不 足していたの は/二、 三の小さな欠点だ けだった/と言ったことがある。同じことP450は セミョン・リヴォヴィチ≪略≫にもあてはまる。彼は、傑出した政治活動家になるための(高)/す べての/資 質を/有していた―そのためになく≪略≫てはならぬ欠点を除けば。私たちは、クリャチコ家からいつも変わらぬ(高)/援 助と/友 情と/を得た。そして(高)/両 者はともに、/私 たちに とって/しばしば必要不可欠なものだった。
『キエフスカヤ・ムイスリ』からの印税は、私たちのつましい暮らしには十分だった。だがそれでも、『プラウダ』の≪略≫仕事のせいで、報酬のある原稿が一行も書けない時期が何カ月も続いたことが何度かあった。そういうときは、ピンチが訪れた。妻は質屋通いをし、私も一度ならず、もう少し余裕のあった頃に買った本を古本屋に売り払った。私たちのささやかな家具が家賃の代わりに差し押さえられたこともあった。私たちには小さな子供が二人いたが、子守りはいなかった。私たちの生活は妻にとって二重の負担になった。しかし、それでも彼女は(高)/時 間と労力≪ 略≫を割 いて、革 命≪ 略≫活 動に おいて/私 を/助 けてくれた/。