『わが生涯』 
17

中島章利

 

《凡例》

赤字―高田訳と同一。漢字⇔ひらがなの変換は同一とみな す。固有名詞の表記違いも同一とみなす。読点の有無も同一とみなす。語順の入れ替えは網掛け表示。

ピンク字単語の本質的ではない言い換えを含むが高田訳とほぼ同 一。語順の入れ替えは網掛け表示。

青字現代思潮社版と同一。語順の入れ替えは網掛け表示。

水 色―現代思潮社版と 類似。語順の入れ替えは網掛け表示。

()/ ―ロシア語原文とは語順が異なる。

()/ ―高田訳とは語順が異なる、入れ替えがある。

()/ ―現代思潮社版とは語順が異なる、入れ替えがある。

語順の入れ替え箇所を / で示す。

省略がある部分の幾つか―革命的な闘争→革命的闘争、 自由主義者→自由主義者たちといった省略や助詞の省略など意味に関係しない省略―は≪略≫で示す

 

第一七章 新しい革命≪略≫の準備

()/反 動の/数 年()/私 の仕事/大 部分/一九〇五革命解釈すること()/第 二革 命への道/理 論的に 明らかにすること/にあった

国外に到着するとすぐ私は()/二 つの報告テー マを たずさえて/ロ シア亡 命者と学生≪ 略≫の 居留地を/講演してまわった一つは「ロシア革命の運命(現在の政治≪略≪状況に寄せて)もう一つは「資本主義と杜会主義(社会≪略≪革命展望)である。前者は、永続革命としてのロシア革命の展望一九〇五年の経験によって裏づけられていることを主張するものであり、後者はロシア革命を世界革命に結びつけていた

一九〇八年一〇月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象とし たロシア語≪略≫新聞『プラウダ』発行≪略≫しはじめたこの新聞は、あるいはガリツィアの国境を越えあるいは黒海を越え()/ひ そかに/ロ シア/届け られた。この新聞は、いいときで二回程度の頻度で三年半にわたって発行されたがその発行には()/面 倒で根気のいる/多 大な/力を要したロシアとの秘密の文通には莫大な時間が費やされた加えて私は、黒海の非合法の海員組P428合 と密接な関係を持っていて彼らの機関紙の発行を援助し

『プラウダ』における私の主要な協力者はのちにソヴィエトの著名な外交官となるA.A.ヨッフェだった私たちの親交はウィーン時代から始まったヨッフェは高い思想性を持ちながら個人的には非常に温和、大義への揺るぎない献身を有した人物だった彼は『プラウダ』≪略≫その持てると手段を注いでくれた

ヨッフェは、神経の病苦しみウィーンの著名な医アルフレート・アドラーのもとで精神分析の治療を受けていたこのフロイト教授の弟子として出発したその後、師と対立するようになり()/個 人心理学と いう/独 自の/派を旗揚げした()/私 は/ヨッ フェを通じて/精神分析学の諸問題に関する知識を得たこの分野では()()/ま だ/多 くのこ とが/不明瞭であぶなかしく空想独断の入る余地がいくらでもあるそれでも私はこの学問に大いに興味をそそられた

私のもう一人の協力者はスコベレフという学生でのちに、ケレンスキー政権の労働大臣になった男である一九一七年私と彼とは敵として相まみえることになる一時『プラウダ』の書記をつとめていたのは、ヴィクトル・コップである。彼は、≪略≫スウェーデンのソヴィエト使になっている。

ヨッフェは、ウィーン≪略≫『プラウダ』の仕事のため≪略≫、ロシア出かけ活動に従事した。その彼はオデッサで逮捕され投獄されたのちシベリア流刑になった()/釈 放されたのは/よ うやく/一九一七年二月革命によってであった。ヨッフェ十月革命の最も積極的な参加者≪略≫の一人だった重い病気を持ったこの人物の個人的勇気は実に見事ものだった一九一九年の砲弾で穴だらけになったペトログラード郊外の戦場立つずんぐりした彼の姿が、今でもありありと≪略≫に浮かぶ外交官の洗練された装にを包み落ち着き払った顔に柔和な微笑みを浮かべながら、ステッキを手に持ち、あたかもウンテル・デン・リンデン通りを歩いているように、ヨッフェは、()/歩 みを早めもせ ずら せも せず/近 くで砲 弾炸 裂す るの/おも しろそうに眺めていた

ヨッフェは、()/思 慮深く心 のこ もっ/演 説をする/優 れた演 説家 であり/著述 家としてもそうであった()/ど んな仕 事にお いても/ヨッ フェは/小 さなことにや かな神経を使っていたが/こ れは多 くの革命家に欠けていた資 質だっ た/レーニンは()/ヨッ フェの/外交官として/仕事を高く評価していた私はにわたって()/誰 よりも/こ の人物と/深いつき合いがあっP430()()/そ の/思 想上の堅 固さは/も とより、/友 情へ の彼 の献 身は/なきものった

ヨッフェ生涯悲劇的結未を迎えた()/重 い/遺 伝性 の//彼 を/すっ かり衰弱させていたそれに劣らず()/彼 を衰弱させたのは、/マ ルクス主義者/に 対する/エピゴーネンども野放図迫害であった。病気と闘う可能性を奪われしたがってまた政治≪略≫闘争可能性を奪われたヨッフェは一九二七年の秋に自ら≪略≫命を絶った私に宛てられた遺書()/ス ターリンの手先≪ 略≫に よって/こっ そりとベッドサイドのテー ブル≪ 略≫か ら/持ち去られたとしての思いやり込めて書かれた章句が()/ヤ ロスラフスキーを はじめとする内 的に堕 落した連中に よって/遺 書か ら削り とら れ/歪曲され、中傷されただがこのことはヨッフェ革命の歴史/その良の≪略≫一つとして永遠に書き記されることを妨げはしない

最も活気のない淀んだ反動期において()()///ヨッ フェ//確信 を持って新しい革命を展望し、しかも、まさに一九一七年に展開したとおりの形で展望していた当時≪略≫メンシェヴィP431キ で今はスターリニストであるスヴェルチコフは回想録の中でウィーン≪略≫『プラウダ』について次のように書いている

「この新聞の中で彼(トロツキー)以前と同様()/倦 まずたゆまず/ロ シア革 命の 「永続性」 についての考 え/展開していたすなわち、ロシア革命はいったん開始されたならば資本主義の打倒全世界における社会主義体制確立にいたるまで終わることはない、という思想である。ボリシェヴィキメンシェヴィキも彼を嘲笑し、そのロマンティシズムと七つの大罪ゆえに彼を断罪していた()/彼 は/攻 撃に≪ 略≪/ひ るむことなく/断 固たる確信を持って/己 れの観 点を/堅 持して/いた。」

一九〇九年、私は、ローザ・ルクセンブルクポーランド雑誌〔『社会民主主義評論』〕の中で、()/革 命に おける/プ ロレタリアートと農民との/相互関係について次のように特徴づけた

地方的クレチン病は農民連動の歴史的病いである。地主の土地を奪うために自分の農において地主に襲いかかるが軍服ると労働者に発砲する。このような農民の政治的視野の狭さがロシア革命の最初の波(一九〇五年)を打ち砕いた。だが、革命すべての事件は一連の容赦ない実物教育であるとみなすことができ()/歴 史は/そ れを 通じて()/土 地に 対する/農 民の/地 方/要 求と()()/国 家権力/と いう/中 央/問題 とびつきを()/農 民の/意 識/の 中にたたき込んいる。」

P432そして()/社 会民主小 作農 の問題を めぐって農 村で 巨大な影 響力を獲 得しているフィ ンランドの例をひき ながら/私 は/次のように結論づけた

()/都 市と農村における/新 しい/は るかに広範な/大 衆/運 動/指 導す る中でそ してそ の結果と して/わ が党 が ()()/いっ たいどれほど大きな/影 響//農 民に 対して持 つ/こ とか! ()()/も ちろん/わ れわれ自身が来 る≪ 略≪新 しい波によっ て不 可避的に提 起される政 治≪ 略≪権 力の誘惑恐 れを なして 武器を降 ろさないならばの話 だ

いったいこれのどこに「農民≪略≪の無視」農業問題の飛び越し」があるというのか!

()()/革 命が永遠かつ絶望的な までに たたきつぶされたかに見 えた/一 九〇九年一二月四日/私は 『プラウダ』に次のように書いた

()()/反 動の黒 い暗 雲/すっ かり周 囲にたち込めている/今 日に おいても/わ れわれの目には、/新しい十月の勝利の照り返しが見える。」

()/当 時は、自 由主義者の みならずメ ンシェヴィキ/こ れらの言葉を嘲 笑した/彼らには、それが()/ア ジテーション向けの/空 虚な/叫びであり、中身のない空文句であるとえたのだ()()/「ト ロツキズム」という言葉を発明した栄誉に 浴する/ミ リュコーフ教授//私に反論してこう述べている

プロレタリアート≪略≪独裁思想―これは何といっても、純粋に子供じみた思想でありヨーロッパには()/こ れを真 面目に支 持し ようとす る者など/誰 一人として/いない。」

それにもかかわらず一九一七年()/起 きた/事 件/()/自 由主義的教授の/こ の/確固たる確信を大いに揺るがすことになる

反動の時期≪略≫、私は世界≪略≫および内における商工業の景気変動の問題に取り組んだ。その目的はあくまで革命の利あった。≪略≫一方における商工業の景気変動と他方における労働運動および革命闘争の段階と≪略≫の相互関係を明らかにしたいと思ったのである()/他 の種 の問題と 同様/こ の問題においても、/私 は/何 より/政 治を/機 械的に/経 済に/従 属させるこ とのないよう≪略≫/気を つけた。両者の相互作用は体としてとらえられた()/過 程/全 体/から出てくる≪略≫のでなければならない

ニューヨークの証券取引所「黒い金曜日」に襲われたとき〔一九〇七年三月〕、私はまだボヘミア地方の小都市ヒルシュベルクに滞在していた。これは()/世 界≪ 略≫恐 慌の前 触れで あり、/日 露戦争とそ の後の革 命によって根 底まで揺 さぶられた ロシアをも 不可避的に襲 うことは間違いなかった/この恐慌の結果はどう≪略≫なるだろうか? 内のどちらのにおいても支配的であった考えは、≪略≫恐慌が革命闘争の先鋭化をもたらすだろうというものだった私は≪略≫異なった立場をとった大規模な闘争と大規模な敗北のあとでは恐慌は労働者階級に対して、活気をもたらす方向に作用するのではなく士気阻喪させる方向に作用するのでP434あってらの力に対する労働者の自信を失わせ()()/彼 らを/政 治的に/解体するこのような≪略≫状況のもとでは工業の新しい活況のみがプロレタリアートを結束させさせ、その信を取り戻させさらなる闘争の可能性をつくり出す。

この≪略≫展望は批判と不信で迎えられた。()/の 経済学者たちは/さ らに反革命体制のもとでは産業好況そもそも不可能であるという考え≪略≫を展開してい()()/彼 らとは対 照的に/私 は/経済活況は不可避である()/と いう観点に もとづいていた/。 好況 は/ス トライキ運動の/新 しい/時 期をも たらすに ちがいなく、そ のあとで 生じる新 しい経 済恐慌革 命≪ 略≫闘 争への刺激と して立 つだ ろう/この予測は全体としてづけられた産業況は反革命体制にもかかわらず一九一〇年に始まったそれとともにストライキ闘争が活発となった。一九一二年レナ河金鉱起こった労働者への発砲事件は全国に巨大な反響を呼び起こした一九一四年には恐慌はすでに疑いないものとなっていペテルブルクは再び労働者のバリケードの舞台となった()()/こ の光景を目 撃したの は、/大 戦直 前にツァー リを訪問して いた フランス大統領ポ アンカレだっ た

この理論的・政治的経験はその後、私にとって計り知れない意義 を持ったコミンテルン第三回大会のとき私は、戦後ヨーロッパにおける経済≪略≫好況の到来は不可避であそれは≪略≫その後の革命的危機の前提条件であると主張したが()/大 会代 議員≪ 略≫の/圧 倒的多数か ら/P435反対を受けた。そして、つい最近でも、コミンテルン第六回大会に対し私は、コミンテルンが中国起こっている経済的・政治的状況の転換をまったく理解しておらず革命が無残な敗北をこうむったあとでも中国における経済≪略≫恐慌の先鋭化の結果として革命が引き続き発展するという誤った見通し持っていることを批判しなければならなかった

この過程の弁証法()()/そ れ自体//そ れほど複雑なものではないしかし()/そ の一 般的特 徴を/定 式化することよ りも、/生 きた諸事実のう ちに/こ の弁 証法を/その度ごとに改めて発見することの方がはるかに難しい。少なくとも()()/今 日に至るまで/私 は/こ の種 の間 題にお いては/つ ねに最 も頑 強な先入/出くわしてきた。こうした先入は、()/政 治にお いては/つ ねに深 刻な誤りと手痛いしっぺ返しを/こうむることになる。

他方、()/メ ンシェヴィキのその後の運 命党 の組織課 題評 価に 関しては/ウィー ン『プ ラウダ』は/レーニンの明晰さからはほどかった()/私 は/な お/新しい革命が一九〇五年と同様メンシェヴィキ革命の道へと押しやるだろうと期待していた私は()/準 備的/イ デオロギー的/淘汰作業と政治的訓練意義を十分評価していなかった()/の 内部発 展の≪ 略≫問 題に関 しては/私 は/一種の社会革命運命論に陥っていたこれは誤った立場であったしかしそれは、現在コミンテルンの陣営私を批判している大多数の連中の顕著な特徴となっている無定見な官僚主義的運命に比べればはるかにましである

 

 

P436()/新 しい政治的高揚疑 いの 余地なくはっ きりしていた/一 九一二年私は、社会民主労働党のすべての分派の代表者からなる統一協議会を招集しようとしたこの時期ロシア社会民主主義の統一に対する期待が私だけに特有なものでなかったことは、ローザ・ルクセンブルクの例されている一九一一年夏、彼女はこう書いている

「それでもやはり、()/合 同で協議会を開催することを/両 派に/強いるならば()/ま だ/党 の統一は/救えるかもしれません。」(『ローザ・ルクセンブルクの手紙一六〇頁』。

一九一一年八月彼女は()/こ う/繰 り返して/いる。

統一を救う唯一の道、それは、ロシアから派遣された人々による合同協議会を実現することですなぜならロシア国内の人々はみな平和と統一≪略≪望んでおり彼らこそ国外の喧嘩好きな連中に理性を取り戻させることのできる唯一の力だからです(『ローザ・ルクセンブルクの手紙一六三頁』。

この時期ボリシェヴィキ自身のあいだでも調停主義的傾向は非常に強力であり()/私 は、 この事情がレー ニンをも合 同協議会へ の参加を受 け入れる方向に押しやるの ではないかという希 望を/捨てていなかったしかしながらレーニンは()/統 一の 試みに/全 力を挙げて/反対したその後における()/事 態の 歩みの/す べて/()/示 してい るように、/レー ニン正 しかった/ウィーン協議会は一九一二年八月ボリシェヴィキ抜きで開催された私は公式的にはP437メンシェヴィキとボリシェヴィキ異論派の種々のグループとの「ブロック」の中にいたこのブロック政治的基盤はなくあらゆる基本≪略≫≪略≫問題私はメンシェヴィキと意見を異にした彼らとの闘争早くも協議会の翌日には再燃した社会革命的潮流民主主義改良主義の潮流という二つの潮流間の深刻な対立から()/毎 日のように/先 鋭な衝 突が/生起した

()/ア クセリロートは/ウィー ン協議会の 少し前/五 月四日/こう書いている

()/私 は/ト ロツキーの手紙から/はなはだ重苦しい印象を得たには実際のところ、……敵に対する共同の闘争のためにわれわれおよびロシアわれわれの友人たちと真剣親しくなりたいという願望は見られない。」

()/た しかに/こ のような意 図/― ボリシェヴィキとの 闘争のた めにメンシェヴィキと統 一するこ と―は/私 には/なかったしありようもなかった協議会後マルトフはアクセリロートヘの手紙の中でトロツキーが「レーニン=プレハーノフ流の文学的個人主義の最悪の習慣」を復活させていると嘆いている数年前に公刊されたアクセリロートとマルトフ≪略≫の往復書簡は私に対する両者の心底からの嫌悪を余すところなく物語っている()/は といえば/わ れわれのあ いだを分かつ深淵に もかかわらず/彼ら に対してこのような感情を抱いたことはないでも私は若い頃彼らから多くのことを学んだことを感謝をこめて思い出す

P438八月ブロックのエピソードは、エピゴーネン時代において、ありとあらゆる「反トロツキズム」の教科書に収められているそこでは新参者と無知な者向けに()/あ たかもボリシェヴィズムが準 備万端整えた姿で歴 史の実験室から飛 び出してき たかのように/過 去≪ 略≫/描か れているしかしながら()/ボ リシェヴィキ/メ ンシェヴィキと の/闘争の歴史は同時に()/党 の統 一に 向けた/絶 え間ない/試みの歴史でもあった()/一 九一七年に/ロ シアに帰 還した/レー ニンはメンシェヴィキ国際主義派と交渉する最後の試みを行なっている()/私 が/五 月/アメ リカから戻ってきたとき社会民主労働党の()/地 方/組 織の 大多数/合同 したボリシェヴィキとメンシェヴィキによって構成されていた()/レー ニンが帰 還す る数 日に 開かれた/一 九一七年三月/党 会議に おいて/ス ターリンはツェレテリの党との合同を主張した十月革命のあとになってもまだジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ルナチャルスキーをはじめとする十数名のボリシェヴィキは、エスエルおよびメンシェヴィキとの連立のために激しい闘いを繰り広げた()/こ れらの人々も また、/で は/一九 一二年のウィーン統一協議会関するおどろおどろしいお伽話によって己れの思想的実存を支えているの!

そんなおり、『キエフスカヤ・ムイスリ〔キエフ思潮〕』≪略≫が()/戦 争≪ 略≫特 派員としてバルカンに赴 くこ とを/私 に/持ちかけてきたこの提案八月協議会すでに流産に終わったことがはっきりしだけになおさらタイムリーなものだった私はせめてしばらくのあいだP439だけでもロシア亡命者≪略≫ごたごたから離れる必要を感じていた私がバルカン半島で過ごした数カ月戦争に明け暮れた月日だった、それは()/多 くのことを/私 に/教えてくれた

一九一二年九月()/バ ルカン南 東部に着いた/私 はそ れに先立って、戦 争はあ りうるど ころか、不可避であると思っ てい た/だがベオグラードの舗立たずみ予備兵たちの長い列を目にし、≪略≫もはや後退はありえず戦争は()/起 こる/― しかも数 日のうちに/とい うことをこの目で確かめたとき、そして、私のよく知っている()/幾 人か/知 人/()/国 境で/す でに/兵 役についており、最初にかを殺すか殺される立場に置かれていることを知ったとき、自分の頭の中論文の中であれほど軽々しく扱っていた戦争が、今度は起こりそうになく、ありえない≪略≫ように≪略≫思われた

()/カー キ色の軍服を身 につけ、 粗末な百姓靴 を履き帽 子には緑の小枝をさ して戦 争赴 く連隊(第 一八≪ 略≪連 隊)/私 は/まるで亡霊でも見るかのように眺めていた()/完 全武 装した兵 士には不釣り合いな、/も との百姓靴と頭 にさした小枝が/兵士 たちを破滅の祭壇に供される生け贄のように見せていたそして、この瞬問この()/粗 末な百姓靴と/緑 の小 枝/ほど戦争の不条理さ≪略≫意識の中に絶えがたい痛みを持って焼きつけたものはなかった現在の世代はこの一九一二年の習慣気分からいかに遠く隔たっていることか! ()/そ のとき/P440/歴史 の過程に対する人道主義的で道徳的な見方がいかに無力なものである強く実感したしかし重要なのは、説明することではなく、身をもって体験することであった歴史の悲劇≪略≫が引き起こす直接的で、言葉では言い表わせない感情が私の心の中に湧き起こったそれは、運命を前にした無力感であり()/い なごの大群の ごとき/人 間/群れに対する焼けつくような心の痛みである

数日宣戦が布告された()/私 はこ う書 いた/

「ロ シアにいる諸君は/この布告を知り、それを信じているだがここ現地にいる私は信じられないごく普通の生活風景、日常人間的なもの雄鶏、安煙草、裸足の鼻たれ小僧戦争という信じられない悲劇的≪略≪事実と私の頭の中でどうしても結びつかないのだ。()/宣 戦が布告されす でに戦 争が始 まって いるこ とを/私 は/知っているしかしいまだにそれを信じることができないでいる。」

しかし()/長 期にわたって/しっ かりと/信じないわけにはいかなかった

一九一二年から一九一三年にかけて私はセルビア、ブルガリア、ルーマニアそして戦争を身近にることになったそれは多くの点で一九一四年だけでなく、一九一七年に向けた重大な準備だった私は論文の中でスラブ主義者の排外主義一般に対し、≪略≫戦争の幻想に対し世論という科学的に組織≪略≫されたペテンのシステムに対し闘いをいどんP441()/は、/ブ ルガリア人 が/ト ルコの傷 兵や捕 虜に加 え/残 虐行為に ついて書きロ シアの新聞が口 裏を合わせてこの事実に沈 黙守っ ているこ とを暴いた/『キ エフスカヤ・ムイスリ』≪ 略≫編 集/このような論文を掲載するだけの勇気持っていたそれは自由主義から()/怒 り//巻き起こした一九一三年一月三〇日、私は()/ミ リュコーフに/ト ルコ人に対 する/「ス ラブ人」≪ 略≫/残 虐行為について/新 聞の 中/「議 会外からの質問」を行なったブルガリア政府の札付きの弁護人であるミリュコーフは窮地におちいりもごもごと無力な返答をしただけだった論争は数週間にわたって続政府系新聞は、「アンチド・オト」というペンネームを使って記事を書いているのは単なる亡命者ではなくオーストリア・ハンガリーのスパイであるとほのめかさざるをえなくなった

ルーマニアで過ごした一カ月は、ドブルジャヌ=ゲレアに近づけ一九〇三年以来の知人であったラコフスキーとの友情永遠に打ち固めてくれた一八七〇年代世代に属する()/あ る/ロ シア/革命 家が露土戦争≪略≫前夜「通りすがりに」ルーマニアに立ち寄りそのままそこに腰を落ち着けたそしてわずか数年この同胞はゲレアという名前で()/ま ずルーマニアのイ ンテリゲ ンツィアに対し続 いて先 進的≪ 略≫労 働者≪ 略≫に対し、/大 きな影響力を/持つようになった社会的基盤に立脚した文芸批評、これが、ゲレアがルーマニアインテリゲンツィアの先進グループの自覚を促した主要な分野であっP442()/彼 は/美 学と個人的 道徳の 諸間題から/科学的社会主義へと導いていっルーマニアの()/ほ とんどすべての政党/政 治家たち多 くは、/≪ 略≫青年時代にゲレア≪略≫指導≪略≫マルクス主義の即席学校で学んだもっとも、このことは、彼らが成長して反動的ギャング政治を行なうことを妨げるもので はなかったが。

フリスチャン・ゲオルギエヴィチ・ラコフコフスキーはヨーロッ パの社会主義運動の中で最も国際的な人物の一人であった彼は()/出 自と しては/ブ ルガリア/であ りブルガリアの真ん中にあるコーテルという町の出身であったが、バルカンの地 図からすればルーマニア国民であったフランスで医者としての教育を受けその人脈共感の対象著述活動の点ではロシアであったラコフスキーは、バルカン諸国のすべてのP443言語とヨーロッパの四つの言語をあやつりさまざまな時期に、四カ国―ブルガリア、ロシア、フランス、 ルーマニア―の社会主義政党の党内生活に積極的に参加したその後彼は、ソヴィエト連邦の指導者の一人となりコミンテルンの創者の一人ウクライナ・ソヴィエト≪略≫人民委員会議長イギリスフランスソヴィエト≪略≫大使となり最後には、≪略≫左翼反対派と運命を分かちあったラコフスキーの個人的特徴―()/広 い/国 際的/視野と高潔な人格≪略≫反対の資質の持ち主であったスターリンにとってとくに忌ま忌ましいものだった

一九一三年、ラコフスキーは、のちに共産主義インターナショナルに加盟したルーマニア杜会党を組織しその指導者となったこの党は目ざましい発展を遂げたラコフスキーは日刊編集するとともに、その資金も出しラコフスキーは黒海≪略≫沿岸マンガリアからほど遠くないところに遺産として受け継いだ小さな()/土 地を/所 有/していたそこからの収入をルーマニア杜会党や他国の革命≪略≫グループ・個人への資金援助にあてていたラコフスキーは週のうち三日≪略≫をブカレストで過ごし論文を書き、≪略≫中央委員会の会議を主宰し、集会や街頭デモで演説それが終わると、細引ひも、などの日用品を持って黒海沿岸行きの汽車に飛び乗り、自分の所有地へと向かう。着くと、その足で畑に出かけ、新しいトラクターの作業状況を点検し()/都 会的 なフ ロックコートを着たまま/ト ラクP444ター のあとについて畑 のう ね溝 を/走り回るそして翌々日には/集会や会議に遅れないよう再び/とって返/の であった

私はこの往復旅行につき合ったことがあるがその猛烈なエネルギー疲れを知らぬ気力、≪略≫変わることのない新鮮な精神、名もない人々に対する優しい恩いやりに心を打たれた()/彼 は/マ ンガリアの道 ばたで/会 話する際わ ずか一 五分ほどのあいだにルー マニア語からトルコ語ト ルコ語からブルガリア語へと 移り変わり、/入 植者や商人たちと話すときには/()/フ ランス語/ド イツ語/話し、さらに、付近に大勢住んでいるロシアのスコペーツ≪略≫ロシア語で話していたは、時には地主として、時には医師としてブルガリア人としてルーマニア国民としてそして何よりも社会主義者として話を交わした。私から見れば彼は、この辺鄙のどかで淀んだ沿海の町にあって、一個の生きた奇跡であった夜になると再び汽車に乗って戦闘の場へと向かうのである彼はブカレストいてもソフィアいてもパリやペテルブルクやハリコフにいても変わることなく元気で自信にあふれていた

*  *  *

私にとって第二の亡命ロシアの民主主義新聞との協力の時期だった私は、ミュンP445ヘ ンの雑誌『ジンプリチシムス』に関する長大な論文で『キエフスカヤ・ムイスリ』にデビューした時期私はこの雑誌にかなり興味をひかれ創刊号から全部の号注意深く目を通した当時はまだ、()/T.T.ハ イネの/挿 し絵には/鋭 い杜 会的感情が脈 打っていた/その頃すでに、私はドイツの新しい小説に深く接するようになっていた。ヴェデキントについて()/長 い社会評論/を 書/さ え/というの革命的気分衰退するのと平行してロシアの中でへの関心が高まりつつあったからである

『キエフスカヤ・ムイスリ』は()/ロ シア≪ 略≫南 部で/最 も広 く普 及した急進的≪ 略≫新 聞で/マ ルクス主義的色 彩を帯 びていた/このような新聞は()/工 業の 発展が弱く階 級的矛 盾が未 発達でイ ンテリゲンツィア的急 進主義の伝統強 い/キ エフのような/ところにしか存在しえない新聞だっ必要な変更を加えたうえでのことだが、この急進的新聞()/キ エフ生 まれたの は/『ジ ンプリチシムス』がミュンヘン生 まれたと 同じ理由に よる、/と 言うことができるだろう。私はこの新 聞に実にさまざまなことを()/書 いた/時 には、テーマの性質からして、検 閲される大きな危険を冒こ ともあった/。ごく短い記事を書くのに膨大な準備作業を費やすことも珍しくなかった言うまでもなく合法≪略≫無党派≪略≫新聞の中で言いたいことをすべて書けたなどと言うつもりはないしかし言いたくないことを書いたことは一度としてない

P446『キエフスカヤ・ムイスリ』に書いた≪略≫諸論文は、革命後、ソヴィエトの出版社からかにわたって出版されたそのさい私は一行たりと削除する必要はなかった。ただし言っておくが、私がブルジヨア新聞に協力したのは、レーニンが多数をとっていた≪略≫中央委員会の公式の同意を得てのことである

()/す でに述 べたように/私 たちウィー ンに着くとすぐ郊外に居を定めた/妻は次のように書いている

 

()//ヒュッ テルドルフ/気に 入った私たちが借りた家は身分不相応なほどりっぱだったここでは、別荘は春≪略≫に借り≪略≫るのが普通のに私たちは秋冬に借りからである窓からは、すっかり暗赤色の秋≪略≫色に染まった山々が見えた()/裏木戸をくぐれば、/通りを通ることなく/開けた場所に出ることができた。冬の日曜日になると鮮やかな色の≪略≫帽子をかぶりセーターを着込んだウィーンの人々が手ソリやスキーを()/持っ て/やっ てきて、山 への道/めざすのであった。四月になると、家賃が倍になるので引っ越さなければならなかったがその頃すでに、すみれが庭から裏手にかけて咲きほこり、()/窓 を/開 ける と、/そ の香りが/部屋いっぱいに広がった。次男のセリョージャ〔セルゲイの愛称〕が生まれたのもこの家だった私たちはより庶民的な()/ジー ヴェリングと いう//に 引っ越P447ことになった。

子供たちはロシア語とともにドイツ語も話した幼稚園や学校ではドイツ語を話ししたがって、家で遊ときもドイツ語を話しいたしかしや夫が話しかけるとたちまちロシア語に戻った私たちがドイツ語で話しかけると少しとまどいながらロシア語で返事をした最後の頃になると、子供たちは()/ウィー ン訊り/イ ツ語/をすっかり会得してそれを上手に話した

子供たちはクリャチコの家に行くのが好きだったその家では()/誰 もが/≪ 略≫主 人も奥さんも、もう大きくなっていた≪ 略≫さ んたちも、/二人にとても気を使ってくれ興味をそそるようなものをたくさん見せてくれたり、何か素敵なもので楽しませてくれた

子供たちはまた著名なマルクス研究家であるリャザーノフのこと好きだった()/当 時/ウィー ンに住んでいた/リャ ザーノフは/その 体操の妙技で子供たちをびっくりさせ、何かというと騒ぎすることで子供たちをおもしろがらせたあるとき下の子のセリョージャが床屋髪を切ってもらいにいき、私もそこについていったセリョージャは、指で合図して私をそばに呼び()/そっ と/耳 もとで/ささやいた「僕、リャザーノフみたいな髪にしてほしいな。」彼はリャザーノフの()/す べすべした/大 きな/禿頭が気に入っていたそれは、他のどんな人の≪略≫とも違っていてはるかに立派だった

P448リョー ヴィク〔長男レフの愛称〕が学校に上がったとき宗教教育の問題が起こった当時オーストリアの法律では子供たちは一四歳まで≪略≫親の宗教で教育を受けることを義務づけられていた私たちの身分証明書にはいかなる宗教の記載もなかったので子供たちのためにルーテル派の新教を選んでやったこの宗派なら≪略≫、子供たちの()/肩 にも/心 にも/それほど重荷にならないと思われたからである

このルーテルの教義は校内とはいえ放課後に女教師によって教えられた()/リョー ヴィクは/こ の授業が/気に入このことは彼の小さな顔に表われていただがこのことを家の中吹聴する必要はないと思っていたようある日の()/す でに布団に 入っていた/リョー ヴィクが/何かつぶやいているのが聞こえた私がどうしたのと尋ねると彼はこう答えた。「これはお祈りなのねえお祈りってとても美しいだよまるで詩みたいなんだ。」

 

最初亡命して以来両親はときどき国外に出るようになった二人はパリにいる私のところを訪その後()/ウィー ンに もやっ てきた/ウィー ンに来たときには、/当 時田舎でいっしょに暮 らしていた上の娘〔最 初の妻とのあいだの子供〕を 連れて/きた一九一〇年にはベルリンもやってきたその頃にはすでに両親は完全に運命を甘んじて受けP449入れていた。その気になった最後の重みのある論拠はおそらく、ドイツ語で書かれた私の最初の著作〔『革命のロシア』〕だったのではなかろうか。

母は重い病気(放線菌症)をわずらっていた母はその生涯の最後の一〇年間というもの自分の病気を重荷が一つ増えたぐらいに考えて()/耐 え/働 くことをやめよ うとはしなかった/彼女はベルリンで腎臓摘出手術を受けた。母は齢六〇だった手術数カ月は非常に元気だったこの症例は医学界でもかなり広い注目を浴びたしかし病気はやがて再発し数カ月後帰らぬ人となった母は苦労続きの生涯を過ごし子供たちを育てたヤノーフカで、静かに息をひきとった

()/私 の生 涯に おける/こ のウィー ンでの/長い一章は、この地で最も親しい友人であった老亡命家S.L.クリャチコの一家に触れないとしたら不完全であろう()/第 二の亡 命期 を通してずっと//この一家密接にばれていた。クリャチコ家は、広い政治的関心および知的関心()/一 般の真のか まどであり/音 楽ヨー ロッパの四カ国≪ 略≫ヨー ロッパのさまざまな 人脈/に いろどられていた/一九一四年四月一家の主であるセミョン・リヴォヴィチ〔クリャチコ〕が逝去したこと私たち夫婦にとって大きな悲しみだった。かつてレフ・トルストイは豊かな才能に恵まれたのセルゲイを評して偉大な芸術家になるうえで()/不 足していたの は/二、 三の小さな欠点だ けだった/言ったことがある同じことP450は セミョン・リヴォヴィチ≪略≫にもあてはまる彼は傑出した政治活動になるため()/す べて/資 質を/有していたそのためになく≪略≫てはならぬ欠点を除けば私たちは、クリャチコからいつも変わらぬ()/援 助と/友 情と/を得た。そして()/両 者はともに/私 たちに とって/しばしば必要不可欠なものだった

『キエフスカヤ・ムイスリ』から印税は、私たちのつましい暮らしには十分だっただがそれでも、『プラウダ』の≪略≫仕事のせいで報酬のある原稿が一行も書けない時期が何カ月も続いたことが何度かあったそういうときは、ピンチが訪れた妻は質屋通いをし私も一度ならず、もう少し余裕のあった頃に買った本を古本屋に売り払った私たちのささやかな家具が家賃の代わりに差し押さえられたこともあった私たちには小さな子供が二人いたが、子守りはいなかった私たちの生活は妻にとって二重の負担なったしかしそれでも彼女()/時 間と労力≪ 略≫割 いて、革 命≪ 略≫活 動に おいて/私 を/助 けてくれ/