『わが生涯・上』 第12章
中島章利
《凡例》
赤字―高田訳と同一。漢字⇔ひらがなの変換は同一とみな す。固有名詞の表記違いも同一とみなす。読点の有無も同一とみなす。語順の入れ替えは網掛け表示。
ピンク字―単語の本質的ではない言い換えを含むが高田訳とほぼ同 一。語順の入れ替えは網掛け表示。
青字―現代思潮社版と同一。語順の入れ替えは網掛け表示。
水 色―現代思潮社版と 類似。語順の入れ替えは網掛け表示。
(露)/ ―ロシア語原文とは語順が異なる。
(高)/ ―高田訳とは語順が異なる、入れ替えがある。
(現)/ ―現代思潮社版とは語順が異なる、入れ替えがある。
【 】―ロシア語原文に存在しない語句。
【欠落】―欠落・脱落がある。
≪≫―誤訳。
< >―誤訳とまでは言えないが適切とは言えない訳。
<(複)/ >―ロシア語原文では複数形。
第一二章 党大会と分裂
p299レーニンは(露)/三 〇歳の成熟した人間として外国にやってきた。ロシア【国内】では、学生サークルでも、≪最初の≫<(複)/社会民主主義グループ>でも、流刑先の≪居留地≫でも、≪第一人者≫の地位を占めていた。彼と<接した>人や共に活動した人がみな彼のことを認めたという一点 だけでもすでに、彼は自分の≪力量≫を≪自覚≫しないわけにはいかなかった。彼は、(露)(高)国 外に出た【ときには】す でに、≪ 広い≫理 論的<知 識>と革 命的経験の≪ 豊かな≫蓄 積と を備えてい た。外国で【欠落―彼を】待っていたのは、≪「労働解放団」≫との≪共同作業≫、【欠落―и】何よりもプレハーノフとのそれだった。プレハーノフは、輝かしきマルクス解説者、≪数世代にわたる≫教師、理論家、政治家、<政論家>、≪演説家≫であり、ヨーロッパ≪規模の≫名声とヨーロッパ≪規模の≫≪人脈を≫持っていた。≪プレハーノフと並んで最も大きな権威があったのは ≫、ザスーリチとアクセリロートだった。(露)ヴェー ラ・イワノヴナ〔ザスーリチ〕を≪指導的地位に押し上げた≫のはそ の英雄的な過去だ けではない。【欠落―否、それをなしたのは】き わめて明晰な頭脳、広い教養―主として歴史に関するそれ―たぐいまれなる心理的直観力【に恵まれていたから】である。≪「労働解放団」はかつて、ザスーリチを通じて老エンゲルスとp300つながっていた≫。【また、】アクセリロートは、≪ラテン系の≫社会主義との<結びつきが最も深かった>プレハーノフやザスーリチと違い、≪「労働解放団」≫の中でドイツ社会民主党の思想と経験を≪代表≫していた。
しかしながら、この時期には(高)す でにプレハーノフにとっての 衰退期が始まっていた。プレハーノフの力を奪っ≪た≫ものこそ、まさにレーニンに力を与え≪た≫ものであった。革命の接近がそれである。プレハーノフの活動のすべては思想的準備という性格を有していた。彼はマルクス主義の宣伝家であり論争家であったが、プロレタリアートの革命的政治家ではなかった。革命がますます<間近なものとして>迫ってくればくるほど、プレハーノフは(高)/ま すますはっきりと足もとの基 盤を奪 われていった。彼【自身】そのこと【欠落―自体を】を感じないわけにはいかなかった。これこそが、若い活動家に対する彼のいらだちの【欠落―態度の】根底に あったものである。
『イスクラ』の政治的指導者はレーニン≪であり、≫新聞の主要な≪論説家≫はマルトフであった。彼は、≪まるで話すように≫すらすらと際限なく≪書きまくった≫。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに≪居心地の悪さを感じていた≫。彼らはまだ「俺、おまえ」と呼び合う仲だったが、(高)/【明 らかに、】両 者のあいだにはすでに冷やか なものが【欠落―はっきりと】≪流れていた≫。マルトフは【レーニンよりも】はるかに、今日という日≪の中で≫生きていp301た。<時事間題>や日々の著述活動、政論、ニュース、会談≪の中で≫生きていた。レーニンは、≪今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた≫。マ ルトフの頭には無数の【―】そしてしばしば≪機知に富んだ≫【―】洞察、仮説、提案が≪つまっていたが≫、(高)/し ばらくすると彼 白身≪欠落―よく、ちょくちょく≫そ のことを忘 れて≪しまうことも 珍しくなかった≫。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉 えた。≪マルトフの思想は≪繊細であったが、≫【どこか】<脆いところがあり>、【そのため】レーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる≫。≪政治路線の相違は≫当時まだ≪決定的なものになっていなかった≫だけでなく、表面化<すら>していなかった。後に、第二回【党】大会での分裂の際、≪「イスクラ」派≫は≪「硬派」≫と≪「軟派」≫に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、【両派を分かつ】明確な【路線上の】分岐線はまだなかったが、【問題への】アプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟<といった点で>【両者に】違いがあることを≪示していた≫。
レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは≪「硬派」≫であり、マルトフは≪「軟派」≫であった、と言うことができる。【欠落―そして】二人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、<批判的で><少し疑わしげな目で>マルトフの方を<ちらっと見る>ことがあった。マルトフは≪こうした≫【レーニン の】視線を感じると、気にして(高)/神 経質そうに痩 せた肩を≪ひきつらせる≫のであった。<二人は>【直接】会って【欠落―お互いに】話をするときも、もはや友達のような口調【で話したり】冗談【を言った りするようなこと】はなかった。少p302なくとも私の前ではそうだった。≪レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし≫、≪マルトフは≫、【きれいに】(高)/磨 かれたためしのない【少し】ずり落ちた鼻 眼鏡の奥で≪生気のない目をしていた≫。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。
「なんだって、そうユーリー〔マルトフ〕が言ったの か。」≪そんなとき≫、ユーリーとい う名前は独特【な響きで】、【すなわち、】(高)/少 し強調気 味に、まるで≪警 戒するよ うな≫【調 子で】発音され≪た≫。≪「非常に立派な人問だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね。」≫≪さらに≫、≪マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的に≫マルトフをレーニンから遠ざけ【る要因になっ】ていた。彼女の部屋には、≪暗号の≫手紙を≪あぶり出したときの≫、(露)/≪ 紙の焦げた≫匂いが≪いつも≫漂っていた。
レーニンはロシアとの 連絡をすべて自分の手中に握っていた。編集部の書記をしていたのは、妻のナデージダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤだった。(高)/彼 女はあらゆる組織p303活 動の中心にい て、到着した<(複)/同志>を 受け入れ、出発≪する≫同志たちに指示を与えて送り出し、連絡を確立し、≪隠れ家を手配し≫、手紙を書き、【それを】暗号文<に直したり>暗号文を解読したりしていた。そして彼女は、手紙があまり来ないこと、暗号が間違っていること、化学インク【欠落―によっ て】【の文字がにじんで】行と行とが重なり≪合ってしまって≫いることなどを、【彼女】独特のおだやかだが執拗な調子で【欠 落―たびたび、ちょくちょく】≪嘆くのであった≫。
レーニンは、日常の組織的・政治的活動において、(高)/で きるだけ≪ 古参派≫から、何よりもプレハーノフから自立しようとつ とめていた。レーニンはさまざまな問題をめぐって、(高)/と りわけ党の綱領草案の作 成をめ ぐってすでにプ レハーノフと激 しく衝突していた。プレハーノフ案に対抗して提出されたレーニンの当初の草案は、ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ【〔プレハーノフ〕】によっ て、こういう場合いかにも彼らしい居丈高で嘲笑的な調子のきわめて辛辣な評価を受けた。(高)/も ちろん、≪ レーニン≪が≫それで≪落ち込んだり、たじろいだりすることは ≫≪なかった≫。両者の闘争は劇的な性質を帯びてきた。仲裁者として【の役目を】≪買って出たのは≫、ザスーリチとマルトフだった。≪ザスーリチはプレハーノフの【ために】、マルトフはレーニンの【ために】≪そうした≫。この二人の伸裁者は【もともと】非常に協調的な≪傾向の持ち主であったし≫、それに加えて、お互いに【欠落―ひじょうに】仲が良かった。ヴェーラ・イワノヴナは、≪彼女自身が言p304う≫ところによると、レーニンに次のように言った。
「ジョルジュ(プレハーノフ)はボルゾイ犬〔ロシア産の猟犬〕ね。引っ掻いたり、噛みついたりするけど、獲物を放してしまう。でもあなたはブルドッグだわ。噛みついたら最後けっして獲物を放さない。」
(高)/こ の【ときの】会話を私に≪伝えたとき≫、ヴェーラ・イワノヴナはこ うつけ加えた。「彼(レーニン)」はこの言い方が≪やけに≫気に入った【ようね。】「噛みついたらけっして放さない、か」って、うれしそうに問い返していたもの。」そう言ってヴェーラ・イワノヴナは、【そのときのレーニンの】【欠落―質問の】イントネーションと、Rを不明瞭に発音するくせを、悪 気なく≪真似してみせた≫。
こうした激しい悶着はすべて、私が国外に到着する以前にすでに持ち上がっていた。私にはそんなことは思いもしないことだった。さらにまた、私の間題をめぐって編集部内の関係がさらに悪化していたことも知らなかった。私が国外に到着≪してから四カ月【以上たった頃】≫、レーニンはプレハーノフに次のような手紙を書いている。
一九〇一二年三月二日(パリ)
私は、「ぺロー〔ペン〕」を、他のメンバーと同等の権利を有する編集部員として補充するよう、全編集部員に提案します。(≪私 見によれば≪)、補充には多数決ではなく、全員一致の決定が必要なはず)。(高)/票 決の都合からしても(現 在の六人は偶数)、また≪スタッフの充実をはかるためにも≫、七人目の編集部員が≪どうしても≫必要です。「ペロー」はすでに何カ月も毎号【のように】執筆しています。総じて彼は、『イスクラ』のために<非常に>精力的に働いており、何度か講演も行なっています(しかも大きな成功を収めました)。時事間題に関する論説や小論においても、われわれに とってはなはだ有用になるだけでなく、ぜひとも必要な存在になるでしょう。彼が、非凡な能力を持ち、確信に満ち、精力的で、今後大いに伸びる人物であることは、疑いありません。さらに、翻訳や大衆的文献の分野でも、多くの仕事をすることができるでしょう。考えられる反対意見。(1)≪若すぎること≫、(2)(高)/近 いうちに(お そらく)ロシ アに≪帰 還する≫こと、(3)【彼の】ペン≪(文字通りの)≫には、コラム的文体の痕跡が見られ、【表現に】凝りすぎる【きらいがある】こと、等。
(1)について。「ペロー」は独立したポストに就くよう提案されているのではなく、編集部【の一員】に【なるよう】提案されています。その中で彼は経験を積むでしょう。彼には党の≪一員としての≫、≪イスクラ派 の一員としての≫(高)/「セ ンス」は 疑いなく存在するし、知識と経験【に関して】は、<これからいくらでも身につけることができます>。彼が学び活動していること、このこともまた疑いありません。彼 を完全に【わ れわれの側に】引きつけ、≪ 成長をp306促す≫ためには、補充することが【ぜひとも】必要です。
(2)について。「ペロー」がすべての活動【欠落―в курс】に精通することになれば、すぐには≪帰国しないかもしれません≫。たとえ≪帰国 する≫ことになっても、【彼が】編集部と組織的結びつき【を保ち、】その指導に従うことは、マイナスではなく、巨大なプラスでしょう。
(3)について。文体の欠点は重要なことではありません。しだいに改まっていくことでしょう。現在、彼は「修 正」を黙って受け入れています(もっとも、あまり進んでは受け入れていませんが)。編集部に入れば、ちゃんと討議と票決が行なわれ、「指示」はより正式で有無を言わせぬ形をとるでしょう。
以上の理由から、私は次のように提案≪します≫。
一、「ペロー」を完全な【権利を持った部員として】補充する【欠落―ことについて の】問題≪について≫編集部 の六名【欠落―всем】が投票を行なう。
二、彼が補充されたなら、(露)/≪ 編集上の問題≫と票 決【の手 続き】≪ を≫最終的に確定≪し≫、正 確な規 約の 作成に【欠 落―затем】と りかかるこ と。これは、われわれにとって必要であり、大会にとっても重要です。
追伸。補充を先送りすることは、はなはだ不都合でまずいことになると思います。なぜなら、「ペロー」 は―もちろん、直接そう言ったわけではありませんが―、白分が【欠落―все】≪宙に浮いた存在であり≫、いまだに「若者」として軽く扱われている(彼はそう感じている)という、かなりの不満を持っていることが、私にはっきりしてきたからです。(高)/も しわれわれが今すぐ「ペロー」を採用せず、一ヶ月【も】して彼がロシアに出発してしまったなら、彼はこのことを、われわれが編集部への≪抜擢を≫あからさまにいやがったこと【を示すもの】として理解するでしょう。私はそう確信します。そうなれば、【彼を】<「取り逃がす」>ことになり、それは大いにまずい【結果になる】≪と思います≫。
(高)/こ の手紙は、私 自身もつい最近知ったのだが、(高)/ほ とんど全文を(技 術的な細部を 除いて)こ こに引用した。なぜなら、それが編集部内部の状況や、レーニンその人、および私に対する彼の関係を、≪申し分なく≫特徴≪づけている≫からである。(高)/私 を編集部に入れる問題をめ ぐって私の背後で繰り広げられていた闘争については、すでに述べたように、私は何も知らなかった。(高)/編 集部に入れてもらえないことに対して私 が「かなりの不満」を持っているというレーニンの言葉は正しくないし、(高)/当 時の私の気持をいささかも≪ 反映したものではない≫。実際、そんな考え≪が≫≪私の頭をよぎったことは一度もなかった≫。編集部に対する私の態度は、教師に対する生徒のそれであった。私は【まだ】二三歳であった。編集部の中で最も年少のマルトフ【でさえ】、私より七歳も年上だった。レーニンは一〇歳【も】上だった。(高)/こ のよp308う なす ばらしい人 々の集団に自分をかくも近くに引き入れたくれた運命に、私 は十分満 足していた。彼らの一人一人から【欠落―私は】多くのことを学ぶことができたし、【私の方も】一生懸命に学んだ。
私が不満を抱いているなどというレーニン≪の話は≫、【いったい】どこから生じたのだろうか? (高)/思 うに、 これは単 に戦術的な方 便だったのだ。レーニンのこ の手紙全体が、自分の【考えの】正し さを証明し、【相手を】納得させ、自分の目的を達成するという、【一貫した】≪努力≫に貫かれている。レーニンは、私の不満【なるもの】を≪想定し≫、私が『イスクラ』から離反するかもしれないという可能性【を持ち出すこと】によって、他の編集部員をわざと脅かしているのである。(現)/そ れは彼にとって補足的な論拠にすぎず、それ以上では≪なかった≫。≪「若者」≫【云々】という≪議論≫も同じような性格<を持っている>。(高)/こ ういう呼び方は≪たしかに≫老≪ ドイチュ≫は【欠落―часто】し ていたが、それは彼だけだっ た。≪しかも、≫(高)/私 は≪ドイチュ≫とは非常に仲がよかった。もっとも、彼は私にいかなる政 治的影響も 及ぼさなかったし、及ぼしようもなかったが。(高)/レー ニンが【ここで】≪「若さ」≫に関する≪議論≫を≪持ち出しているのは≫、私 を政治的に一 人前の人 間として扱 う必要性を古参派に≪ わからせるために≫す ぎな≪かった≫。
レーニンの手 紙から一〇日【近く】たったのち、マルトフは(高)/ア クセリロートに次のように書いている。
一九〇三年三月一〇日(ロンドン)
・・・・・・
ウラジーミル・イリイ チは、(露)/あ なたもご 存知の 「ペロー」を、完 全な権利を<もっ た>【メ ンバーとして】編集部に採用するよう【欠落―われわれにнам】提案しています。彼の著述活動は、疑問の余地なく彼の才能を示しており、その傾向からして完全に<「われわれの側」>【の人間】であり、『イスクラ』の利益≪に全面的に貢献しており≫、すでにその並はずれた演説の才能のおかげで、この地(外国)で大きな影響力を獲得しています。彼の話はとてもうまく、それ以上うまくする必要がない【ほどです】。この点は【欠落―私も】ウラ ジーミル・イリイチも≪認めています≫。彼は知識も豊富で、【さらに】それを【いっそう】充実 させる【べく】熱心に≪努力しています≫。私は、ウラジーミル・イリイチの提案に無条件に賛成です。
この手紙の中で、マルトフはレーニンの≪主張をそのまま引き写している ≫にすぎない。しかし、【欠落―彼は】私の不満≪云々の議論≫≪は繰り返されていない≫。私とマルトフは、同じアパートで【欠落―隣り合って。一緒に】暮らしていた。私が編集部員になりたくてうずうずしているといった勘繰りをするには、あまりにも身近にわたしと接していたのだ。
P310【それにしても、】(高)/レー ニンはなぜこれほど熱心に、私を編集部のメンバーに入れる必要性にこだわったのだろうか? 【それは、】【編集部内で】<安定した>多数を確保したかったからである。一連の重要問題をめぐって、編集部は三人ずつの二つ【のグループ】に分かれていた。すなわち、≪古参派≫(プレハーノフ、ザスーリチ、アクセリロート)と≪若手派≫(レーニン、マルトフ、ポトレソフ)である。レーニンは、最も先鋭な諸問題において私が彼の側につくことを疑っていなかった。あるとき、プレハーノフに反対しなければならなくなったとき、私 をそばに呼んで、いたずらっぽくこう 言った。
「ここはマルトフに発言させた方がいいだろう。(露)(高)/(現)//君 ならずばっと言うだろうが、マルトフは≪やんわりと言う≪からね。」私の顔に少し驚いた表情を見てとると、すぐにこうつけ加えた。「そりゃ私だってずばっと言いたいよ。でも(高)/プ レハーノフが相手じゃ、この際≪やんわりと言った≪方がいいんだ。」
私を編集部に入れるというレーニンの提案は【、結局、】プレハーノフの≪反対≫にあって挫折した。いっそう悪いことに、この提案は、<(高)/プ レハーノフが私に対して激しい敵意を抱く主要な原因となった。プレハーノフは、レーニンが自分に対抗して安定多数を確保しようとしていることに感づいた>。編集部の再編問題は大会まで持ち越され【ることになっ】た。しかしながら、編集部は、大会を待たずに、私に審議権【だけ】を与えて会議に出席されることをP311決 定した。プレハーノフはこれにも 断固として反対した。だがヴェーラ・ ザスーリチは【欠落―彼に】言った。「それでも、私は彼を連れてきます。」そして実際、彼女は次の会議に私を「連れてきた」。舞台裏の事情について【何も】知らない私は、ゲオルギー・ヴァレンチノヴィチ〔プレハーノフ〕が、 【彼の】お家芸【とも言える】洗練された冷淡さで挨拶したことに、少なからず当惑した。私に対するプレハーノフの敵意は長く続き、本質的にはけっしてなくならなかった。一九〇四年四月、マルト フはアクセリロートに宛てた手紙の中で、「この人物(私のこと)に対する、【欠落―彼の】(高)/(プ レハーノフの)下 劣で、 自らの人格を卑しめるような個人的憎 悪」について書いている。
興味深いのは、(高)/<レー ニンの手 紙の中で、>私 の当時の文体について<書かれている>意見である。それは≪二つの≫点で正し≪かった≫。【欠落―周知の】【私の少々】凝りすぎ【た文体のこと】と、他人が私の文章を修正するのをあまり進んで受け入れていな≪かった≫こと、である。私の著述活動はこの時点でたかだか二年を数える程度であり、文体の<複/ 問題>は私の活動の中で大きな独立した位置を占めていた。私は言葉の素材に好みを持ちはじめたところであった。歯の生えはじめた<複 /子供>が、時には不適切なものを使ってさえ、歯茎をこすりたいという欲求を感じるように、(高)/私 の著述家としての歯が生えは じめた時 期を≪反映して≫、言葉や決まり文句や比喩表現を自己満足的に追求する【傾向が生じたのであった】。洗練された文体に到達するにはまだ時間をP312要した。他方、【叙述】形式のための闘いは偶然的なものでも、外的なものでも【何でも】なく、内面的な精神的過程を≪反映していた≫≪。≫≪したがって、≫(高)/い かに編集部に対する畏敬の念が大きか ろうとも、形成されつつあった(高)/著 述家としての私 の個 性を、完全にできあがっている【―】だが別のスタイルを持った【―】著述家からの介入に対して、私が本能的に防衛しようとしたとしても、無理からぬことと言えよう・・・。
そうこうするうちに、大会の予定期日が迫ってきたので、結局、編集部をスイスのジュネーブに移すことが決定された。そこでは生活費がはるかに≪安くつき≫、ロシアとの連絡も容易だったからである。レーニンはしぶしぶ同意した。(高)/セ ドーヴァはこう書いている。「ジュ ネーブで、私たちは(高)/小 さな部 屋が二 つあ る屋 根裏部屋に住居を定めた。L.Dは大会の準備に没頭した。私は党活動のためにロシアに帰国する準備をした。」大会代議員の第一陣が到着し、彼らとのあいだで絶え間ない会合が開かれた。この準備活動において、(高)/指 導権は―必 ずしも目立ったものではなかったが―文 句なしにレー ニンにあった。(高)/代 議員の一部は疑間や不満を抱いてやってきていた。準備工作に多くの時間が費やされた。各種の会合で大きな位置を占めたのは、規約の問題だった。その際、組織的構成における重要ポイントは、(高)/中 央機関紙(『イ スクラ』)と、 ロシア国内で活動している中央委員会との相互関係だった。(高)/私 は、 国外にやっ てきたと き、編 集部は中央委員会に「従属」するべ きであるという考えを持ってい た。ロシアの「イスクラ」派の多数(高)/も そういう意見だった。
「それはまずい」とレーニンは反対した―「両者の力関係はそうじゃない。いったい彼らはロシア国内からどうやってわれわれを指導するというんだね? それはまずいよ・・・。われわれは確固たる中核であり、思想的にもわれわれの方が強力だし、われわれがここから指導するんだ」。
「つまり、編集部が全面的な独裁をふるうということですか?」、私は尋ねた。「それで何か問題でもあるかね?」、レーニンは反論した―「現在の状況では、そうすることが必要なんだ」。
レーニンの組織構想は私に多少の疑念を引き起こした。しかし、これらの問題をめぐって党大会が分裂することになろうとは、夢にも思わなかった。
* * *
私は、流刑中に密接な関係を持っていたシベリア同盟から≪代議員に選出された⇔原文と正訳はполучил мандат委任状を受け取った≫。トゥーラ【選出】の≪議員で≫レーニンの弟である医師のウリヤーノフといっしょに(高)/大 会会場に向かった。 私たちは、「犬 ども」を 避けるために、ジュ ネーブからではな く、 その次のニヨンとP314い う駅から列車に乗った。この駅は、急 行列車がた かだか三 〇秒ほどしか止 まらない、(露)/ひっ そりとし た小 さな駅だっ た。いかにもロシアの善良な田舎者といった<風情の>私たちは、≪急行の入ってくる≫線の反対側で列車を待ち、急行が到着すると、【列車の】緩衝器【に飛び乗り、】【そこ】から車両の中に≪入ろうとした≫。【しかし、】【緩衝器から車両の】昇降口によじ登る前に列車は動きだした。駅長は、二人の乗客が緩衝器にいるのに気づくと、【あわてて】警笛を鳴らした。列車は停まった。私たちが車両の中に入るとすぐに車掌がやってきて、こんな馬鹿なやつを見たのは生まれて初めてだと悪態をつき、列車を止めた罰金として五〇フランを払うよう言ってきた。だが、私たちの方も、ただの一語もフランス語を解さないことを彼にわからせてやった。実際には、それはまったくの真実というわけで はなかったが、目的にかなっていた。なぜなら、この太ったスイス人は、三分ばかり私たちに向かって大声でわめき散らしたあと、放免してくれたからである。私たちは五〇フランなど持ち合わせていなかっただけに、彼の行ないはなおさら賢明だった。(高)/そ のすぐあとの検札の際に、改めて車掌は、緩衝器から≪乗り込んできた⇔原文пришлось снимать≫この二人の紳士に対するはなはだ侮蔑的な意見を他の<複/ 乗客>≪と≫【さんざん】≪言い合った≫。【この】不運な男は、私たちが党を創設するために旅行中だとは≪思いもしなかったろう⇔原文не знал≫。
大会の会議は、ブリュッセルの「人民の家」と呼ばれる労働者協同組合の建物で開かれた。われわれの活動のためにあてがわれた倉庫は、部外者の目を≪欺く≫には≪うってつけ≫だったが、羊毛の梱がいくつも置いてあったため、われわれはノミの大軍の攻撃を受けるはめになった。(高)/わ れわれはそ れを、ブルジョア社会を強襲するために動員されたアンセールの軍勢と 名づけた。会議は正真正銘の肉体的拷問と化した。なお悪いことに、すでに初日から代議員たちは自分たちに執拗な尾行がついていることに気づいた。私は、見も知らぬサモコヴリエフというブルガリア人のパスポー トを持って行動していた。大会二週目のある夜遅く、私はザスーリチといっしょに≪「フェザン・.ドレ〔錦鶏〕」⇔原文"Золотой фазан"。森田訳はフランス語版≫という名のレストランから出てきた。そのとき、(高)/私 たちの前をオデッサの代議Zが 横切り、こちらを振り向くことなく、ささやいた。
「スパイが後ろにいる。≪二手に≪分かれろ。スパイは男の方を追う。」
Zは警察【のスパイ】に関する偉大なスペシャリストで、<その道にかけては>天体<望遠鏡>並みの目を持っていた。彼は≪「フェザン【・ドレ】」≫のそばにある宿の上の階に≪陣取り≫、その窓を監視哨にしていた。私はただちにザスーリチと分かれ、まっすぐ歩いていった。ポケットにはブルガリア人のパスポートと五フラ ンしかなかった。刑事は、鴨のくちばしのような鼻をした、≪ひょろ長い≫フランドル人で、案の定、私のあとをつけてきた。すでに真夜中で、通りにまったく人影はなかった。私は突然振り返った。
「ムッシュー、この通りは何という名前ですか?」
フランドル人は唖然として、壁を背にへばりついた。
「知りませ ん。」彼はてっきりピストルがぶっ放されるとでも思ったらしい。だが私はそのまま≪大通りを≫まっすぐ歩いていった。どこかで(高)/午 前一 時を 知らせる時 計が鳴った。最初の横道にさしかかると、私はその角を曲がって、全速力で走りだした。フランドル人もあとを追った。こうして、お互い面識のない二人の男が(高)/ブ リュッセルの深夜の通りで追いかけっこをしはじめた。今でも、私には二人の足音が聞こえてくる【ようだ】。(高)/私 はフ ランドル人を後 ろに従えたまま一 ブロックの 三つの角をぐるっと回って、も との大 通りに戻っ てきた。私たちは二人とも疲れ、いらいらし、嫌気がさしながらも、さらに歩きだした。通りには(高)/二、 三台の辻 馬車が停まっていた。その中の一台をつかまえても、(高)/刑 事も別 の一 台をつかまえるか ら、無駄≪だろう≫。二人はそのまま歩き続けた。はてしない≪大通り≫もついに終わりに近づいたようで、私たちは街外れに≪さしかかった≫。深夜の小さな居酒屋のそばに、(高)/辻 馬車が一台だ け停 まっていた。私は走りだし、そのまま馬車に飛び乗った。
「出してくれ、<急いでいるんだ!」>
「どこまでで すか?」
刑事は耳をそばだてた。私は、自分のアパートから(高)/五 分ほど歩いたところにある公園のP317名前を言った。
「一〇〇スーです!」
「いいから、出してくれ!」御者は手綱を引いた。刑事は居酒屋に駆けこみ、給仕を連れて出てきて、敵の走り去った方向を彼に指さしていた。三〇分ほどたって、ようやく私は自分のアパートに戻ってきた。ロウソクに火をともすと、サイドテーブルの上に、私のブルガリア人名に宛てた手紙が置いて≪あった≫【欠落―(置いてあることに)気がついた】。【いったいどうやって】【欠落―誰が】ここに手紙を出すことができたのだろう?【開けてみると、】「サモコヴリエフ殿、明朝一〇時に、パスポート持参のうえ、警察に出頭されたし」という内容の召喚状だった。ということは、(高)/別 の刑 事がす でに前日、私を尾行していたということであり、この夜の大通りでの追いかけっこはすべて、両参加者にとってまったく無益な運動だったのである。他の代議員たちも、この夜、同じ召喚状を受け取った。警察に出頭した者は、二四時間以内にベルギーの国境外に出るよう命令された。私は警察署には出頭せず、大会の会場が移されたロンドンにそのまま向かった。
当時ベルリンでロシア の諜報活動を指揮していたガルティングは、後日、本国の警察局に対し、「ブリュッセル警察は外国人の大量入国に驚き、一〇名に無政府主義的陰謀の嫌P318疑 をかけた」と報告した。しか し、ブリュッセル警察を「驚かせ」た のは当のガルティング自身だった。彼は本名をゲッケルマンといい、挑発者<の>爆弾≪テロリスト≫だった。彼はフランスの法廷で、欠席裁判により懲役刑を言い渡された が、その後、ツァーリズムの保安警察の長になり、偽名でフランスのレジヨン・ド・ヌール勲章を授与された。またガルティングは、ベルリンで大会の準備に積極的にかかわっていた<スパイ>挑発者のジトミルスキー博士から情報を受けていた。しかし以上のことは(高)/す べて、 ずっと後 年になっ てから明らかになることであ る・・・。どうやらすべての糸はツァーリズムの手に握られていたようだ。だが、それも結局は救いにはならなかった・・・。
≪大会が進むにつれて≫、『イスクラ』の主要幹部のあいだの対立がしだに露わになってたきた。「硬派」と「軟派」への分化が表面化してきた。意見の相違はまず最初、規約第一条をめぐって、すなわち誰を党員とみなすかをめぐって起こった。レーニンは、党と非合法組織を一致させることに固執した。マルトフは、非合法組織の指導のもとで活動する人々も党員とみなすことを望んだ。だが、この対立は(高)/直 接の実践的重要性を持っていなかった。なぜなら、どちらの定式においても(高)/議 決権は非合法組織のメンバーにのみ与えられていたからである。とはいえ、(高)/二 つの相 異なる傾 向が存在することは疑いなかった。レーニンは、党≪の【問題】において≫、≪無定形さを排し、輪郭をはっきりさせること≫を望んだ。マルP319トフは曖昧さに流れる傾向があった。この問題におけるグループ分けが、その後の大会のすべての進行を、とりわけ党の指導機関の構成を決定づけた。
舞台裏では、個々の代議員を獲得しようとする闘争が繰り広げられた。レーニンは、私を自分の側に引き込むための努力を惜しまなかった。彼はクラシコフをともなって私を長い散歩に連れだし、マルトフ は「軟派」だから君とは進む方向が違うと説得しようとした。だが、クラシコフが(高)/『イ スクラ』の他のメンバーに与えた評価は(高)/あ まりにぶしつけなもので、レー ニンも顔 をしかめ、私も身 震いするほどだっ た。編集部に対する私の態度にはまだ、若者らしい感傷がずいぶん残っていた。このときの対話は、私を近づけるよりもむしろ遠ざけた。意見の相違はまだ曖昧なものであり、誰もが手探りで≪進み≫、≪かすかな手がかりを頼りに行動していた≫。
「イスクラ」派の主要メンバーで会合を持って、話し合いをすることになった。だが議長の選出で早くも困難にぶつかった。「君たちのところのベンヤミン〔トロツキーの変名〕を議長に選んではどうか」と≪ドイチュ≫≪が助け船を出した≫。こうして私は、(高)/ボ リシェヴィキとメンシェヴィキと の分裂が決定的とな る会 議の議 長をつとめる ことになったのである。誰もが極度に 神経を張りつめていた。レーニンはドアをバタンと鳴らして出ていった。この激しい党内闘争において、レーニンが自制心を失ったのを目のあたりにしたのは、(高)/後 にもP320先 にもこのときだけであった。状況はますます先鋭化していった。
意見の相違はついに、大会の場そのものにまで噴出した。レーニンは、私を「硬派」の側に引き込もうともう一度試み、女性代議員のZと自分の弟のドミートリーを私のところによこした。彼らとの話し合いは近くの公園で何時間にもわたって続けられた。二人の使者はなかなか私を放そうとはしなかった。「(高)/あ なたを何としてでも連れてくるように言われているんです。」だが結局、私は彼らに従うのをきっぱりと拒否した。
(高)/【つ いに大 会が】分 裂≪ したとき≫、それは【欠落―大会の】参 加者の誰に とっても予 期せ ぎるこ とだった。(高)/【こ の】闘争において最も積極的な 役割を果たした【欠落―人物である】レー ニン【で すら】、分裂など予想していなかったし、望んでもいなかった。両派とも、思いがけない≪事の成りゆき≫に深刻な≪打撃を受けた≫。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。セドーヴァは覚書の中でこう述べている。
「ロンドンから、L.Dはほとんど毎日のように手紙を書いてきた。手紙は日をおうにつれますます不安の度合を強め、ついに分裂の事態を知らせてきた手紙は、(高)/絶 望<的 な調子で>次 のように≪述べていた≪。『イ スクラ』はもはや存在しない、そ れは死んでしまった・・・。『イスク ラ』<の>分裂は私たちを極度に苦しめ≪た≪。L.Dがロンドンから帰ってくると、(高)/大 会の資料を持ってペテルブルクに 向けて出 発した。そ の資料は薄 い紙に細かい字で書 かれP321た もので、ラ ルースのフランス語辞典の表紙のあ いだに隠されて、 運ばれた。」
なぜ私は大会で「軟派」の側についたのだろうか? 編集部の中で私が(高)/最 も密 接に結ばれていたの は、マ ルトフとザスーリチとアクセリロートだっ た。彼らが私に及ぼしていた影響は議論の余地のないものだった。大会が開かれるまで、編集部の中には、ニュアンスの相違はあったが、はっきりとした意見の相違はなかった。私はプレハーノフとは最も距離があった。最初の(高)/衝 突以 来―実 際にはそれは第二 義的な 性格のものだったが―、プレハーノフは私のことを毛嫌いしていた。私に対するレーニンの態度は非常に好意的なものだった。しかし、まさにその彼が、私にとって一体のものであった編集部を、そして『イスクラ』という魅力的な名前を持った編集部を、今や纂奪しようとしているものと私の目には映った。編集部の分裂という考えは私には冒瀆的なもの【であるよう】に思われた。
革命的中央集権主義というのは、厳格で、有無を言わせぬものであり、厳しい要求をつきつけてくる原則である。それは、昨日まで(高)/意 見を 共にしていた個々人やグループ全体に対してさえ、しばしば容赦ない形をとる。レーニンの≪決まり文句⇔原文в словаре語彙≫の中で、あれほど頻繁に「非妥協的」とか「無慈悲な」という言葉が出てくるのも、わけあってのことである。あらゆる低俗で私的なことがらから解放された高度な革命的目的意識のみが、この種の個人的な冷酷さを正当化する≪のである≫может。
P322一九〇三年の時点で問題となっていたのはせいぜい、アクセリロートとザスーリチを『イスクラ』の編集部から除くことだけであった。(高)/私 は両者に対して畏敬の念を抱いていただけではなく、個人的にも親密な関係にあった。レーニンにしても二人の過去を高く評価していた。だがレーニンは、二人が未来への途上においてますます障害になっていくだろうという結論に達していた。そして彼は、両名を指導的ポストからはずすという組織上の結論に達した。それは私 にはとうてい受け入れること のできないものだった。ようやくにして党 創立の入り口にたどり着いた古参同志たちをこのように無慈悲に切り捨てることに、私の全存在が反発した。(高)/私 が感 じたこ の【ような】憤激から、第 二回【党】大会に おけるレーニンとの決 裂が生 じたの である。彼のとった措置は、許しがたく、醜悪で、言語道断であるように思われた。だが、実際にはそれは政治的に正しく、したがって組織的にも必要なものだった。準備期に≪沈澱して≫そこから抜け出せない古参派との決裂は、いずれにせよ避けられないことだった。レーニンはこのことを他の者よりも早く理解していた。それでも彼は、プレハーノフをザスーリチとアクセリロートから切り離すことで【戦列】に≪とどめようとした≫。しかし、≪こうした≫試みも、その後の事態がすぐに示すように、成果なく終わった。【以上のように言うと、】私とレーニンとの決裂が【欠落―, таким образом,】あたかも、「道徳的な」、それどころか個人的な≪理由≫にもとづいて起こったかのよう【に見える】。だがそれは単なる外観にすぎなかっP323た。実際には、分裂の≪理由≫は政治的性格を持ったものであり、それが組織の分野で【欠落―наружу外に】噴出したにすぎなかった。
私は白分を中央集権主義者だと思っていた。だが当時の私は、幾百万の大衆を旧社会との戦闘に引き入れるために、革命政党にとってどれほど厳格で有無を言わせぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかった。このことにいかなる疑いの余地もない。私は少年時代を(高)/反 動の陰鬱な雰囲気の中で過ご し、とくにオ デッサで はその雰 囲気はさ らに五 年ほ ど長 引いた。それに対してレーニンの青年時代は、「人民の意志」【派】の時代にまでさかのぼることができる。また、私よりも少しばかり歳の若い活動家は、すでに新しい政治的高揚の中で育った。一九〇三年のロンドンでの党大会の頃、(高)/革 命はま だ私 にとって半ば理論的抽象物だった。(高)/レー ニン的 な中 央集権主義はま だ私 にとって、独自に考え抜かれた明確な革命的構想から出てきたものではなかった。だが、問題を自分で理解し、そこから(高)/いっ さいの必 要な結論を引き出すことこそ、つねに、私の精神生活において最も欠くことのできない要求だったのである。大会で生じた衝突があれほど先鋭なものになったのは、かろうじて識別できた原則的側面を別とすれば、レーニンの成熟度と重要性を評価するうえでの古参派の目測の誤りに原因があった。大会のあいだ中、およびその直後において、レーニンの行動に対するアクセP324リ ロートをはじめとするほかの編集部員の憤激には(高)/ど うしてあ んな大それたことが彼にできたのかという一 種の戸 惑いをともなっていた。
「だいたい、彼が<生徒>として国外にやってきたのは、そんな以前のことじゃない」、と古い同志たちは口々に言い合った―「それに<生徒>らしくふるまっていた。いったいどうして突然あんなうぬぼれが生じたのか? ど うしてあんな大それたことが できたのか?」。だが、レーニンにはできたし、あえてそうしたのである。そうするうえで彼に必要だったのは、革命が迫りつつある状況のもとでプロレタリア前衛の戦闘組織の直接的な指導権を自らの手に握るだけの能力が古参派にはないことを確信することだけだった。この点で古参派は―彼らだけではないが―見誤っていた。≪レーニン≫はすでに、≪単なる傑出した活動家というだけでな≪く、≫【欠落―этоこれは】目的意識性に貫かれた指導者であった。思うに、彼が古参の同志たちや師匠たちと肩を並べるようになったとき、そして白分が彼らよりも強力であり必要であることを確信するに至ったとき、(高)/決 定的に、自 分が指導者であることを白覚したの≪だろう≫≫。『イスクラ』の旗のもとに結集していた人々が、≪なおかなり漢然とした気分を抱いていた≫中で、(高)/一 人レーニンのみが、全面的かつ徹底して、あらゆる厳しい課題、激しい衝突、≪無数の犠牲者をともなう≫明日という日を思い描いていたのである。大会でレーニンはプレハーノフを獲得したが、それはおよそ当てにならないものだった。P325同時に彼はマルトフを失ったが、こちらの方は永久的だった。プレハーノフはおそらくこの大会で何事かを感じたのだろう。少なくとも、そのときレーニンについてアクセリロートにこう語っている。
「このようなパン生地から、口ベスピエールのような人 間がつくられるんだ。」
プレハーノフ自身は大会で何ら傑出した役割を果たさなかった。ただし、(高)/たっ た一度だけ私は、精 力がみなぎっているプ レハーノフを見 聞する機会があった。それは大会の綱領委員会でのことである。(高)/綱 領についての明晰で科学的に練 り上げられた図 式を頭に備え、自分自身と自分の知識と自分の優越性に確信を抱き、快活で皮肉に満ちた情熱で目をらんらんと輝かせ、ごわごわした白髪まじりの口髭をたくわえ、少し芝居がかっているが生き生きとした表現力豊かな身ぶりでもって、プレハーノフは議長をつとめ、博識と機知の生きた花火のように、大所帯の部会の全体を【欠落―собою】照らしだし≪た≫。
メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の一人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。<回転の早い頭脳は>その代わりとは≪ならなかった≫。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意P326志のばねで支えられていない彼の思想はすぐ下に沈んでしまう。(高)/私 と彼の親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。
いずれにせよ、第二回党大会は、その後何年にもわたって私をレーニンから引き離したという一点だけからしても、私の生涯における大きな画期となった。だが、今こうして過去を全体として振り返ってみても、このことに悔いはない。私が(高)/再 びレーニンのもとに戻っ たのは、他 の多くの人々よりも 遅かった。しかし私は、革命、反革命、帝国主義戦争という経験をくぐり抜け、それについて熟考したうえで、自分なりの道をたどって戻ったのである。そのおかげで私は、彼の「弟子」たちよりも確固として、より誠実に戻ったのである。これらの弟子たちは、師が生きていた頃は、師の言葉や身ぶりを―しばしば的外れな形で―真似していたが、彼の死後は、無力なエピゴーネンとなり、敵勢力の手中における無自覚的な道具と化したのである。