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2018-11-30

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「わたしのこころは、まっ暗闇のなかにいるようだ」
 とか言ってる場合、その人の言うまっ暗闇というのは、
 どれくらいの暗闇なのだろうか。
 ぼくは、たまたま、じぶんの指先も見えないような
 恐ろしいほどのまっ暗闇を経験したことがあるので、
 「こころがあんなにまっ暗闇のなかに放り出されたら」
 なにもできないだろうなぁと思ってしまう。

 どっちに向かって歩きだすこともできない、
 すべてがまちがっているかのような暗闇があるのだ。
 薄ぼんやりでも、なにかちょっとでも見える暗闇なら、
 ほんの少しなら歩き出せそうな気がするけれど、
 星明りさえもあてにできないような暗闇では、
 じっとして夜が明けるのを待つしかなかったろう。 
 昔を生きていた人たちは、おそらく、みんな、
 あんなまっ暗闇を知っていたんだろうなぁと思う。

 そういう時代に、遠くへ旅をするということは、
 どういう気持だったのだろうか。
 想像したふりまでならできるけれど、
 全身でわかるようなことはできそうもない。
 しなければいけないから、旅をする。
 そのままそこにいられない理由があって、旅をする。
 そういう人のする旅と、ぼくらがいましている旅は、
 根本からちがっているのだろうと思う。

「ほぼ日の学校」の今度のテーマが「万葉集」で、
 上野誠先生による第一回の教室にいさせてもらった。
 それがおもしろくて、つい上野先生の
 『はじめて楽しむ万葉集』という本も買った。
 あらためて、万葉の歌に触ってみたら、
 少ないことばの数で、強靭になにかを言っている。
 そこでふと思ったのが、かの時代の人びとが感じていた
 夜の暗さと旅のつらさのことだった。
 それは山の高さでもあり、空の青さ、恋の切なさなどにも
 連なる「生きることの濃さ」であるように思えた。
 いま現在を生きているぼくらの体内にも、
 昔の人びとの感じていた夜の闇の深さが記憶されている。
 残っている歌のなかに、そういう記憶が刻印されていて、
 いまでも、それが呼び起こされているのだろうなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いまを生きろ、いまを生きろ、そのために昔を生きてみろ。


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