【芸能・社会】赤木春恵さん逝く 94歳、心不全2018年11月30日 紙面から
「渡る世間は鬼ばかり」のしゅうとめ役や「3年B組金八先生」の校長役などで親しまれた女優の赤木春恵(あかぎ・はるえ、本名小田章子=おだ・あやこ)さんが29日午前5時7分、心不全のため東京都府中市の病院で死去した。94歳。旧満州(中国東北部)生まれ。通夜は12月3日午後6時から、葬儀・告別式は同4日午後1時からいずれも東京都杉並区永福1の8の1、築地本願寺和田堀廟所で。喪主は長女の夫、野杁和俊(のいり・かずとし)さん、葬儀委員長は演出家でプロデューサーの石井ふく子さん(92)が務める。 ホームドラマで存在感を示し、共演者らから「ママ」と呼ばれ親しまれた芸能界の母が逝った。この日の午前中に訃報が流れるや、「渡鬼」などの共演者から悼む声が相次ぎ、人望の高さをうかがわせた。赤木さんは近年、イベントに車いすに乗って出席することが多く、所属事務所などによると、3年前に大腿(だいたい)骨を骨折、さらにパーキンソン病を患うなど療養中だったという。 赤木さんは1940年、松竹ニューフェースとして映画デビュー。大映、東映と移り、59年に森繁久弥さんの自由劇団に参加し、映画や舞台の名脇役として活躍。テレビではホームドラマに欠かせない俳優となり、「渡鬼」では嫁をいびるしゅうとめ役が受け、学園ドラマ「金八先生」では温厚な校長先生役で親しまれた。 ドラマにNHK連続テレビ小説「藍より青く」「おしん」、大河ドラマ「おんな太閤記」など。舞台「お嫁に行きたい!!」「三婆」で菊田一夫演劇賞。2013年の映画「ペコロスの母に会いに行く」に88歳で主演し、「世界最高齢での映画初主演女優」としてギネス世界記録に認定された。「ペコロスの母-」は「第6回東京新聞映画賞」(東京新聞=中日新聞東京本社主催)に選ばれ、14年3月に東京都内で開かれた表彰式には、赤木さんも車いすに乗って登場。「森崎(東)監督の温かく優しい心根が全編にあふれた作品です」と受賞の喜びを語っていた。 11年に「もし倒れて降板でもしたら迷惑をかける」と舞台俳優から引退した。人生相談やエッセーの執筆も手掛け、著書に「おばあちゃんの家事秘伝」。93年に紫綬褒章、98年に勲四等宝冠章。 ◆ピン子「最近お姿見なくて…」ファミリー沈痛ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」のキャストら“渡鬼ファミリー”が29日、次々に追悼のコメントを発表した。 「渡鬼」で主演を務め、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」(1981年)などでも共演した女優泉ピン子(71)も訃報を受け沈痛な様子。 ピン子は赤木さんについて「最近はお姿を見かけることが少なくなり、どうされているかと心配しておりました」と記した。 「渡鬼」で赤木さんはピン子のしゅうとめ役を演じた。ピン子は「今までのドラマの再放送を見て、元気な赤木ママの姿と当時のことを思い起こしています。作品が思い出です」と振り返っている。 ◆石井プロデューサー 盟友「そんなばかな」赤木さんと「渡鬼」などでタッグを組んだプロデューサー石井ふく子さんは東京都内で取材に応じ、突然だった盟友の死にショックを隠せなかった。 「この世界で『ママ』って言ってるのは赤木さんだけ」と切り出し「けさ5時すぎにお電話いただいて、そんなばかなことがあるのかなと思って。振り向いたらそこに赤木のママがいないのか…話をするのはつらいんです」と肩を落とした。 「『渡る世間』でも、嫌がられるおしゅうとめさんの役をちゃんとやってくださった。お孫さんの運動会に行った時に『おばあちゃん、来ないでよ』って言われたと笑いながら言ってました」と声を震わせながら、故人をしのんだ。 ▽同ドラマの脚本を手掛ける橋田壽賀子さん(93) 「赤木さんは私より1歳年上で、彼女が元気でいらっしゃる間は私も元気でいられると思っていました。50年近く前、熱海に住まいを移したころ、偶然にも赤木さんが近くにお家を建てられて、そこから親しく仕事をさせていただきました。優しさと厳しさを同時に表現できる稀有な女優さんです。もうこんな俳優さんは出てこないと思います」 ▽藤田朋子(53) 「『いいのよ。』。柔らかな声で言う、赤木ママの口癖。かわいらしく、美しい女優さんとしての思い出が残る、赤木さん…いかに長く演じ続けられるのかを、その生き方で伝えてくださった」 ▽角野卓造(70) 「本当の母親のような存在でした。テレビはもちろん、舞台の時にはいつも赤木ママの楽屋でご飯を食べさせてもらったり、優しく気にかけていただきました。できの悪い息子で申し訳ありませんでした」 ▽中田喜子(65) 「舞台の共演では、楽屋で昼食を毎日ごちそうしてくださり、私たち後輩の面倒を見てくださる、お優しい方でした」 <赤木春恵(あかぎ・はるえ)> 1924(大正13)年3月14日生まれ、旧満州出身。40年松竹に入社。その後、43年に大映、48年に東映に入るなど渡り歩くが、59年森繁劇団に参加すると同時にフリーとなる。ドラマは「金八先生」のほか「新八先生」「仙八先生」「貫八先生」にも出演。47年に東映のプロデューサーと結婚し一女をもうけるが、夫は91年に死去している。
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