糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

11月28日の「今日のダーリン」

・昨日は、時代の「時間感覚」のことを書いたけれど、
 もう一度、時間の感覚について書きたくなった。
 いや、むつかしい話ではない。
 先日、ぼくは「高齢者運転講習」というものに参加した。
 いや、好き好んで仲間入りしたのではなくて、
 70歳になった人は免許の更新をするときに、この、
 「高齢者運転講習」を受講しておく義務があるのだ。

 老人ならではの目の検査だとかがあって、
 老人ならではリスクについての座学の時間もあって、
 シメは、自動車教習場のコースを使っての技能の教習だ。
 教室に集まっていたのは、20人くらいだったかなぁ。

 3人ずつがひと組になって、ひとりの教官について行く。
 ぼくの組は、同じような年の男が3人だった。
 ひとりはダークスーツの老人、
 もうひとりはややしゃれた感じのカジュアルな老人、
 そして、ぼくという老人だった。
 最初に、女性の教官がこれから走るコースを、
 実際に走ってみせる「この6番を右折して…」などと
 ていねいに教えてくれるが、暗記しなくてもいいと言う。
 教習所の練習につきものの「クランク」とか「車庫入れ」
 というような「難所」もコースに組み込まれている。
 ただ一回り走ってOKというような甘いものではなかった。
 それまで互いに無口にしていた3人の老人が、
 だんだんと口を開くようになる。
 「うわぁ、これは脱輪しそうだなぁ」「できるかな」と
 できの悪い学生みたいに話しだした。
 教官は笑顔で言う「あわてなくていいですからね」と。
 脱輪したり車庫入れに苦しんだりしても、失格はない。
 ただ、なんというか、失敗はしたくないものなのだ。

 あっけない結論を言ってしまうのだけれど、
 スーツ老人も、カジュアル老人も、ぼく老人も、
 問題なくコースのすべてをなんとかして終えた。
 どうしてできたんだろう、と、それぞれ冗談を言った。
 その答えを、ぼくはわかっていた。
 「慎重に、時間をかけてゆっくり走った」だけのことだ。
 スイスイ運転してみせる必然性が、まったくなかった。
 理解し、動かせる速度でクルマを動かしただけだった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ださくてもゆっくりやれば、うまくいくこともあるんだな。