これまで3回にわたり、企業活動における人権のグローバル・ルールである「人権デュー・ディリジェンス」を取り上げました。この「人権デュー・ディリジェンス」という考えは、2011年に国連人権理事会で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則(以下、指導原則)」に規定されて、国連を通じて世界に普及されています。
指導原則のなかで示された、人権デュー・ディリジェンスと並ぶ重要なポイントが、「企業が尊重する責任を負う最低限の基準が国際人権基準であること」です。ここでいう国際人権基準は、世界人権宣言、自由権規約、社会権規約、国際労働機関(ILO)中核条約を指します。指導原則は、あくまで「原則」なので、法的拘束力を有しません。しかしながら、企業は「責任(社会的責任)」として国際人権基準を尊重することが求められます。この責任は国家の義務とは別に負うとされており、つまり、企業は活動地の国内法の規定とは関係なく、世界のどこでも国際人権基準を尊重する社会的責任を負うことになります。
労働時間に関する国際基準といえばILOがすぐに思い浮かぶかもしれませんが、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約(以下、社会権規約)」にも規定があります。社会権規約第7条では、公正かつ良好な労働条件を享受する権利の内容として、「労働時間の合理的な制限」を規定しています。
この社会権規約を批准している各国政府は、条約を実現できているかについて社会権規約委員会から定期的に審査を受けなければなりません。2013年に日本は第3回目となる審査を受けました。その時、日本は、労働時間に関する法規制は国際基準に合致していないと勧告を受けてしまいました。日本政府は、企業に自主的に対策をとるよう促しているが、「多くの労働者が今なお非常に長時間の労働に従事していること」、「過労死および職場における精神的ハラスメントによる自殺が発生し続けていること」は懸念される事態であり、これでは社会権規約第7条「労働時間の合理的な制限」が実現できていない、というのです。
日本の労働基準法では、1日8時間、週40時間という労働時間の規制があります。しかし、現実に事業を行うなかで時間外の労働が必要な場面も出てくることから、時間外労働・休日労働は認めつつも一定の限度を設ける制度として、36協定(「時間外・休日労働に関する協定」)の締結が認められています。36協定は、重要なステークホルダーである労働者の良好な労働条件や安全衛生を維持すべきという企業の方針や取組みのなかで、本来の労働者を保護する制度として機能してきました。一方で、制度を悪用しようとする企業に対して、過重労働を十分に規制することができないという問題点が指摘されてきました。
厚生労働省の行政指導通達(「過重労働による健康障害防止のための総合対策について」、2006年、2008年および2011年に一部改正)では、時間外労働が月100時間または2~6カ月平均で月80時間を超える場合、事業者は産業医の助言指導等の健康管理の措置を実施する必要があるとしており、これが過重労働の定義と考えられてきました。一方、36協定では延長時間の限度が規定されている(原則月45時間まで)ものの、特別条項付きの協定を結べば、限度時間を超える時間を延長時間とすることができます。延長は「全体として1年の半分を超えないこと」とされていますが、限度時間を超える延長時間は「できる限り短くするように努めること」とされるにとどまり、過重労働が許容される余地が残されてしまっています。森岡孝二氏(関西大学名誉教授)は、「労基法には時間外労働協定(36協定)による抜け道があるために、働き過ぎの基準としての法定労働時間は、残業手当の支払基準以外の意味を失っている」と批判しています。
*森岡孝二『過労死は何を告発しているか:現代日本の企業と労働』(岩波書店、2013年)2頁。
森岡氏によると、日本の男性正社員の労働時間は1950年代半ばの数字と変わらないことが指摘されています。日本の労働者の年間労働時間は減少してきていますが、非正規労働者の増加によるところが大きく、正社員、とくに男性は平均で一日10時間以上、週50時間以上働いています。また、2015年6月11日帝国データバンク発表の「従業員の健康管理に対する企業の意識調査」によると、過去1年間で月間の時間外・休日労働が100時間を越える過重労働となる従業員が「いた」と回答した企業は12.5%、大企業では21.7%で、中小企業の9.9%および小規模企業の5.8%に比べ、高くなっています。業種でみると、運送・倉庫が25.0%、サービス業が22.3%と2割を越えています。
*帝国データバンク「従業員の健康管理に対する企業の意識調査」(2015年6月11日発表)、
http://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p150603.pdf
さて、今年6月7~8日にドイツ・エルマウにおいてG7首脳会議(サミット)が開催されました。その首脳宣言のなかに、「ビジネスと人権に関する指導原則」、そして人権デュー・ディリジェンスが登場します。
責任あるサプライチェーン
安全でなく劣悪な労働条件は重大な社会的・経済的損失につながり、環境上の損害に関連する。グローバリゼーションの過程における我々の重要な役割に鑑み、G7諸国には、世界的なサプライチェーンにおいて労働者の権利、一定水準の労働条件及び環境保護を促進する重要な役割がある。…(略)
我々は、国連ビジネスと人権に関する指導原則を強く支持し、実質的な国別行動計画を策定する努力を歓迎する。我々は、国連の指導原則に沿って、民間部門が人権に関するデュー・ディリジェンスを履行することを要請する。我々は、透明性の向上、リスクの特定と予防の促進及び苦情処理メカニズムの強化によってより良い労働条件を促進するために行動する。我々は、持続可能なサプライチェーンを促進し、ベスト・プラクティスを奨励する、政府及び企業の共同責任を認識する。
*外務省訳では「サプライ・チェーン」と訳しているが、筆者は「サプライチェーン」を用いる。
企業の社会的責任(CSR)の一環として各企業が積極的に取り組んでいるのが、自社の商品・サービスの原材料や資材を調達する一連の流れである「サプライチェーン」における取引先への人権デュー・ディリジェンスなどCSR実現に向けた働きかけです。自社が新規契約を決定する際、その後は定期的に、取引先のCSRの取組みをアンケート調査等で確認します。第三者機関による監査を取り入れている企業もあります。このような調査・監査のなかで、児童労働・強制労働の禁止と並んで、必ず挙げられているチェック項目が「労働時間の適正管理(過剰な労働時間の禁止)」です。
首脳宣言にあるように、「安全でなく劣悪な労働条件は重大な社会的・経済的な損失につながり、環境上の損害に関連する」ため、「持続可能なサプライチェーン」を促進する必要があります。来年2016年に、日本政府はサミットのホスト国となり、伊勢志摩サミットを開催します。ホスト国として、「国連の指導原則に沿って」、日本企業をはじめとする民間部門に「人権に関するデュー・ディリジェンスを履行することを要請する」ことになります。そうなると取引先に国際人権基準を尊重するよう働きかける日本企業自身が、国際人権基準に合致していない国内法規制のもとで事業活動を行うという矛盾を生じてしまうかもしれません。日本企業には、取引先への働きかけの前提として、このような国内での違反に加担することなく適正な労働時間の管理を実現していくことが、人権デュー・ディリジェンスとして期待されています。
この「持続可能なサプライチェーン」はオリンピック・パラリンピックでも登場します。国際オリンピック委員会は、「持続可能性(サステナビリティ)」は環境、社会、経済の要素からなり、オリンピズム(オリンピック精神)の不可欠な要素であるとしています。2012年のロンドンでは「持続可能な資材調達コード(Sustainable Sourcing Code)」が、2016年のリオでも「持続可能なサプライチェーンガイド (Sustainable Supply Chain Guide)」が定められ、運用されています。これらコードやガイドに規定された、調達先、スポンサーおよびライセンス企業が自社および取引先で遵守すべき労働条件のなかには「労働時間が過剰でないこと」が含まれています。総労働時間は、原則、週60時間を超えてはならないとし、国内法や労働協約で定めがある場合や緊急事態など例外時は、それを越える労働が許されます。このように国内法による例外が認められているのは、「国内法は、通常、一週間の総労働時間に制限を設けている」からです。さて、森岡氏が指摘するように、その国内法に抜け道があるために事実上過重労働が十分に規制できておらず、そもそも国際人権基準に合致していないとされている場合は、国内法による例外が認められるのでしょうか。
加えて、2014年12月にモナコで開催された第127次IOC総会では、オリンピックの改革案である「オリンピック・アジェンダ2020」が採択され、このなかでも持続可能性の実現が確認されました。
提言4 オリンピック競技大会のすべての側面に持続可能性を導入する
1.持続可能性に関する戦略を前進させ、オリンピック競技大会の潜在的な開催都市と実際の大会開催都市を
統合する。さらに、各都市のプロジェクトのあらゆる段階で、経済、社会、環境の各領域を包含する持続可能性の
施策を設ける。
提言5 オリンピック・ムーブメントの日常義務に持続可能性を導入する
1.IOCはIOCの日々の業務活動に持続可能性を取り入れる。
・IOCは物品やサービスの調達、およびイベントの組織運営(大小の会議など)で持続可能性を取り入れる。
・IOCは移動による二酸化炭素排出量への影響を減少させる。
・IOCはローザンヌの本部統合に際し、可能な限り最善の持続可能性の基準を適用する。
「各都市のプロジェクトのあらゆる段階で」、また「物品やサービスの調達、およびイベントの組織運営」に、持続可能性を取り入れるということは、これに関わる企業のCSRや人権デュー・ディリジェンスの取組みが評価されることになります。
2020年東京オリンピック・パラリンピックではどうでしょうか。組織委員会による「東京2020ライセンシングプログラムのご案内」に少し記述はありますが、未だ持続可能で責任あるサプライチェーンに関する資材調達コードやガイドは公表されていません(2015年8月25日現在)。今年6月には第1回街づくり・持続可能性委員会が開催されており、今後示される具体策に期待しています。
主要国首脳会議やオリンピック・パラリンピックなど世界の動きから過重労働を考えてきましたが、日本でも動きがありました。2014年6月に「過労死等防止対策推進法」が成立(同年11月から施行)しました。労働法分野で初めての基本法です。今年7月24日に、この基本法に基づき対策を推進するための「過労死等の防止のための対策に関する大綱」が閣議決定されました。将来的に過労死等をゼロとすることを目指し、2020年までに「週労働時間60時間以上の雇用者の割合を5%以下」にすることなどが目指されることになりました。
このように前進はみられますが、日本の法制度上は、過重労働を許容する余地が残されたままになっています。だからこそこの問題に対する企業の社会的責任が問われているのです。「過重労働は禁止されるべきもの」という認識が、過労死等防止対策推進法および大綱をはじめ、2016年伊勢志摩サミットや2020年東京オリンピック・パラリンピックを契機に、日本社会のなかで一層高まるとともに、日本企業が国内での違反に加担することなく、人権デュー・ディリジェンスとして「適正な労働時間の管理」を実現することで、日本の労働環境の改善が期待されるところです。
菅原絵美(大阪経済法科大学法学部准教授)
(2015/10/05)