モニさんは、すやすや眠っておる。
モニとわしは滅多に喧嘩しないが、昨日は大喧嘩をした。
わしがぐーすかぴーから目がさめてみると、モニは本を読んでおる。
おはようでごんす、というと、
昨日の夜は気分が悪くてたいへんだった、という。
頭痛がして吐き気がひどかったが、嘔いたらたいへんな事になりそうな気がして隣の部屋に行って仰向けになってじっとしていた、という。
耳の中でひどい騒音がした。
苦しくて息ができなかった。
なんで、わしを起こさんねん。
いったい何を考えてるんじゃ、とゆって喧嘩になってもうた。
考えてみれば、つい何時間か前まで気分が滅茶苦茶わるかったやつと喧嘩をするのはオオバカであると思われる。
わしはあまり怒らないようにしている。
家系のせいにしてもよいと思うが、遺伝的な理由で(^^) 短気なので、わしはすぐにカッとなりやすいよーだ。
身体が大きいのと、みるみるうちに顔が紅潮してまっ赤になるので、本人はちょっと頭にきた、くらいのつもりでも、周りに居る人びとは「もうすぐ殺される」と思うものであるらしい。
頭がとろい人の常として腕力が強いが、ボクシングが長いあいだ趣味だったので、拳をつきだす速度がボクシングの修行をしないひとの2倍ある。
破壊力は加速度の2乗に比例するわけだから、わしがなぐって壊れない壁板はないとゆってもよい。
いちどミーティングのテーブルであまりに相手がわけがわからないことをいうので拳でテーブルを叩いたら、オフィ○デポのチョー安物テーブルであったに違いない、机の板が割れてしまって、それから暫く、あの若い男は凶暴だから気を付けた方がよいと陰口を利かれてうんざりしてしまったこともあった。
だから、怒らないようにしている。
ましてモニさんなどは、わしの人生で起きたいちばんよいことなので、その最もラッキーな天使さまに怒るなどとは考えもしないことである。
おかげで一日経った今日でも、まだ気分がしょぼしょぼしている。
モニは「ごめんな、ガメ。このチョコ半分やるから、わたしを許せ。ピース オファリングなんだぞ、これ」というが、自分のほうが悪いのに先に謝られてしまったので、なおさら惨めです。
イギリスの子供なら誰でも知っている歌に、
Nobody loves me
Everybody hates me
Going to the garden to eat worms
Big fat juicy ones
Tiny little squiggly ones
Watch them wriggle and squirm
というのがある。
わしも、いまでも愛唱しておる(^^)
庭に行けば、おいしそうなのがいるだろうか。
2
このブログ記事を読んでいるひとは、だいたいわしを日本人だと思っているよーだ。「山本七平」という人の名前がよく出てくる。
観察していると、「日本人だと初めから思わない」ひとは3種類あって、
「長い間(十年以上)西洋世界に住んでいる日本人」
「伴侶が西洋人である日本人」
「西洋人」
の3つの類型にわかれている。
どんなに気をつけていても、やはり日本語が外国人ぽいのだろうか、とがっかりしたりしたが、気をつけてみると、そうでもないらしい。
ものの考え方の点で、このひとは日本人ではないな、と気が付くもののよーである。
あたりまえではないか、というひともいるが、ほんとうは、そう事情は簡単ではない。
ちょっとエラソーに聞こえるかもしれないので、我慢してもらうことにして自分が日本語を書いているときの事情を述べると、日本語を書いているときには、わしは実際日本人なのである。
「日本語で考える」というようなことはもちろんだが、自分のなかの「日本語の圧力」というようなものが増大して、日本語の鍋から言葉がふきこぼれるように日本語を書くのでなければ、日本語に手をつけた意味がない。
わしは外国語としての外国語になど何の興味もないのです。
日本人が日本語をつかって世界をどういうふうに感知しているかに興味がある。
おおげさにいうと(そういうひとは大陸欧州に行けばいくらでもいるが)5カ国語が「自分の言語」であるひとは、5つの人格と思想をもっている。
わしが興味があるのは、その「日本語人格」であるということになる。
英語世界では、当然だが、外国人が英語で議論することがよくある。
よくある、とわざわざ言うのもアホらしいくらい普通のことです。
ここ十年くらいで、「このひとは英語が母語のひとよりも英語が巧みであるな」と思う人が登場するようになった。
むかしは、そういうことはなかなかなくて、ジョセフ・コンラッドやウイリアム・ワイラーというようなごく特殊な言語才能をもつひとに限られた。
日本語についてならば、 両方とも本人が書いたものを見たことがないのが残念だが、 両人について書き残されたものを見る限り明治時代の「快楽亭ブラック」やエリセーエフのようなひとは母語と変わらない日本語を話したり書いたもののよーである。
酔っ払っていたりして面倒くさいので英語で話しかけてしまった場合、マルクス博士のように「いやあー、ほんとに英語人なのではないか」という反応があったりしてずるっこけてしまうことがあるが、わざわざ(知ったかぶりの日本人がうようよ現れてくさったので二度とやらない)日本人向けに書き直した英語でない英語をみせようと思わないのは、くだらない人間のために自分が英語人であることを証明するというようなことをする必要があると思わないからで、相手が英語のほうが楽である場合には、当然、英語で書いて送る。
マルクス博士の場合は予想外にまともな(ごめん)英語で、あっさりメールを送ってきたので、うっかり(寝ぼけていたせいもあって)英語で返信してしまっただけである。
あのひとは、日本人だと思っていたのに、どうも英語人でもあるよーだ。
どういう人なのだろう?
相手がほんとうに「ガイジン」であるかどうか、というようなことにたとえばニュージーランド人は興味をもたないが、日本のひとや、最近判明したことによればロシアのひとも過剰な興味をもつ。
どうも、これも文化的な特徴であるようです。
日本では小説家が「現実の世界では、どんなひとか」ということについて、延々と議論が戦わされる時代が長く続いたが、それも、同じ文化の側面であるように思われる。
3
「我はあからさまに我が心を曰ふ、物に感ずること深くして、悲に沈むこと常ならざるを。我は明然に我が情を曰ふ、美しきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。然はあれども、わが美くしと思ふは人の美くしと思ふものにあらず、わが物に感ずるは世間の衆生が感ずる如きにあらず。物を通じて心に徹せざれば、自ら休むことを知らず。形を鑿ちて精に入らざれば、自ら甘んずること難し。人われを呼びて万有的趣味の賊となせど、われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり。」
というのは北村透谷の「哀詞序」の部分だが、この日本語はある程度観念のレベルが高くなった緊張の高いところで発語するのに向いている。
やってみれば判るが、この当時の文語体というのは、緊張した精神が自己を表現するには日本語として最も向いている。
一方、
「すると髭の男は、
『お互いは哀れだなあ』と言い出した。『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。
あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない』と言ってまたにやにや笑っている。
三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『滅びるね』と言った。」
という有名な三四郎の一節は、文章に何を求めるか、という思想において実は英語そのものである。
英語なみに生活感情と生活そのものがあますことなく表現できるように工夫されている。
言葉そのもののリズムは、少しレイドバックしたものになっていて、これは江戸時代の戯作のリズムであると思う。
いまさら、わしが繰り返しても何の新味もないわけだが、漱石の偉大さは日本語で日本的な普段の感情をあらわしうる日本語を創生したことにある。
しかし、困ったことに日本語では透谷的な観念のレベルと漱石が一種の韜晦でもってつくった表現のレベルのあいだに断層というか懸絶ができてしまって、それは結局埋まらないまま終わってしまった。
ここから先を書くとチョー長くなってしまうので書かないが、敬語を使って議論を成り立たせる難しさと並んで、小説家が解決しないまま怠った近代日本語の基本的な問題のひとつだと思います。
表現されうる思惟の範囲が、ひどく狭小になってしまって、紋切り型でない考えを表現するのがとてつもなく難しい言語になってしまっている。
ひどい言い方をすると、日本語は、ちゃんと調理されないまま、厨房の台の上にほうっぽらかしにされて腐りかけた料理のようなことになっている。
言語として完成されていないのではないか、と思わせるところがある。
なるべくややこしくない言い方をしようと思ってかんがえてみると、
その場で考えたことをポンと言えないで、発語まで手続きが多すぎる、というような欠点が解決されていないように見える。
4
今日は節をわけている割に、同じようなことばかり書いているが、
なぜ日本語に興味をもったかと訊かれると、
「子供のときに日本に住んでいたことがある」ことと
「マブダチの従兄弟の父親が日本人である」ということを挙げることにしているが、ほんとうは、それは全部ではなくて、丁度6年くらい前から妹に激しくバカにされたのを契機にして、外国語もちょっとはやらねーと拙かろうと考えた、ということがある。
だから、あんましゆわないだけで、いろいろな言語を一緒くたにいっぱいおぼえつつあるところで日本語はそのひとつだという側面があります。
わしの言語に対する態度はチョーえーかげんで、イタリア語とスペイン語は年がら年中混同されている。男性も女性も一緒くたで、数の数え方まで年中間違えるので、会話においては有卦をねらってわざとやってるのではないかと思うひともいるよーである。
そんなことに興味がないひとのほうが多いだろうと思っていつもは書かないが、わしの言語の習得方法はヘンで、単語より先にフレーズをおぼえている。それも初めの初めはひとに「これはあんたの言葉では何というの?」とひとに訊いておぼえるだけなので、友達の狐茶のようなマジな言語達人とは違って広東語とマンダリンの区別もつかないので、折角おぼえた中国語で話しかけても広東人のおばちゃんが周章ててどこかに行ったと思ったら北京人のひとを通訳に呼んできたりする人騒がせな中国語だったりする。
フレーズをおぼえてフレーズが1000くらいたまってくると、ヒマなときに、その言語で好きになれそーな現代詩や歌の文句を丸暗記する。
日本語で言えば岡田隆彦や岩田宏の詩がそうであって、高田渡やテンプターズ、忌野清志郎とかです。
古い日本語のほうが良いのは、新しすぎる日本語はかえって「腐る」言葉が多い。
特に日本語は言葉が次から次に消費されてくさってゆくので注意を要する。
それから自分のスペイン語と現実のスペイン語が合致しないとリファレンスとして文法を考える。
スペイン語で初めて文法の本を買ったのは「Olvídame Tú」という言葉が判らなかったからだった(^^)
そうやって言葉で遊ぶのは、数式や図形で遊ぶのと同じくらい楽しい。
「四カ国語」が出来ます、という人を見て「このひとは自慢しているのだ」と考える日本人は寂しすぎる上にやや異常だと思うが、そういうことから派生して、言語の習得ということが見栄の張り合いのような奇妙な感情と連なっているので日本のひとは外国語が出来ないのだ、と気が付いたのは、ごく最近のことだった。
そのことに対しては…うまく言葉がみつからない…世界というものは、そういう方角からみると、たちまち生きにくい場所になってしまうんだけど、というくらいしか言えそうなことがない。
全然うまく言えないが、世界というのは、もっといろいろやってみて楽しい思いで暮らせるように出来ているのに、わざわざそうやて暮らしにくい場所に変更しようと努力するのはバカげているのではないか?と思う。
前にツイッタで述べたことがあると思うが、わしが日本人で外国語を勉強しようと思い立てば、多分、英語とフランス語は避けると思われる。
英語人とフランス人には悪い癖があって、相手が自分の言語を上達すればするほど、「ちゃんと話さない」ことにいらいらする。
日本語で書いていることに乗じて告白すると、わしも同じなんです。
頭では、そういうことではダメだ、と思っていても、相手のアクセントに「かちん」と来てしまう。
どうも生理的なもののようです。
しかも、英語人やフランス語人は「相手が自分の言葉を話すのはあたりまえだ」と思う強い傾向がある。
えええー、そんなことないよお、というひとは日本に住んでいるのではなかろうか。
日本に住んでいる英語人やフランス語は日本のひとが評判以上に途轍もなく言葉が話せないのを熟知しているので、たまに英語やフランス語を話すひとに会うと、ちやほやして激励して、もっと上手になってもらおうと考える。
英語人などは、とんでもないひとの集まりなので、ちょっとヘンなアクセントで話すと、「えっ?」と(わざあとじゃないんだけど)おおげさに聞き返して、失礼にもゲラゲラ笑い転げたりする。
一方で稀に英語人なみに英語を話す外国人がいると、「どこの英語だか得体のしれない英語だ」とかゆって陰口を利く。
どーしよーもないひとびとであると思います。
ところがスペイン語はチョーメジャーな言葉であるのに、ちょっと完結した長い文章を話すと、
「ど、ど、どーしてお前はそんなにスペイン語がジョーズなんだ?
ほんとうはスペイン人なのか? それとも語学の天才であらせられるのか?」と派手にほめてくれます。
ほうっておくと、拍手しそーである。
わしはハモン屋でスペイン語で話して、涙ぐまれたことまである。
ゆわれんでも、もっと上手になろうと思う。
もうひとつ、イタリア人やスペイン人は「どんどん話す」のでオモロイ、ということもある。
イタリアで、わしはスペインが好きなんだけどね、とゆうと、店のおばちゃんがふたりで、「スペイン?スペインのどこがいいっちゅうの?アフリカじゃないの、あんなとこ」と口を揃えて合唱する。
そのあとはもっとすごくて文字通り店中のひとが加わっていかにスペイン人が不潔か、怠け者で、やる気がないか、これでもかこれでもかこれでもかこれでもか解説するが、どんな人間が聞いていても感心するには、そこにが少しの嫌味もなくて、まるで仲の良い兄弟が悪口を述べているような趣があるところで、ニコニコしながら、じっと聞いていると、どうしても「文明」ということを考えてします。イギリス人やニュージーランド人、日本人もいれてしまってもいいと思うが、嫌味たっぷりで聞かされていると胃が重くなるような嫌らしさがないのです。
文明度が高いというのは、なんと素晴らしいことだろうと考える。
タイのひとなどは、もっとすごくて、レストランでアロイ・マーと一言言っただけで、シェフのひとが厨房から出てきてしまったことがある。
それを書くと意地汚く品が悪い例の猿のごときひとびとがあらわれて、「肌の色が違うのに、そんなことを言う訳がない。これこそガメ・オベールが日本人である動かぬ証拠だ」と集団で喚き出すに決まっていて、日本人であることがそんなにいけないことだと知らなかったので、そういうことはどっちでもいいことだと盲信していたわしはぶっくらこいちまうが、そのシェフおっちゃんの厨房から出てきて、わしを見上げて述べた第一声は
「あんた、ほんとうはタイ人なの?」だった。
それから、一秒くらいも、わしをじっと見ていて
「そんなわけねーよなあ」という。
そこにいたひとみなが、シェフおっちゃんの間がよすぎて死ぬほど笑ってしまったが、タイのひとがタイ語を話す外国人に対することかくのごとしであって、さっきも話した狐茶 ( @kochasaeng )が、名門の家の超絶美人を欺してお嫁さんにしてしまって幸福な暮らしをしているのも、きっと同じ感情に流された結果であると思われる。
そういう事情は中国語でも同じで、オークランドにはひと言も英語が通じない中国料理屋がいくらでもあって、そういうところは5ドル300円で旨くて死にそうになるギョウザが30個くらい食べられるので、わしは屋根があくクルマに乗ってときどきでかけるが、ダンプリンでは通じないので、「チャオズ」というと、断末魔のひとのように緊張していた小男のおっさんが、わしを指さして「チャオズ!チャオズ!オー、チャオズ!」とゆって小躍りしながら30個の筈が40個になった餃子を出してくれる。
あんまり現世利益の面から言語習得を説いてはいけないが、やはり楽しいことがおおいほうがいいと思う。
日本のひとが言語を出来ないのは、多分、「リラックスできない」せいである。
ヘンなことをいうなあーと思うかも知れないが、前のめりになって、肩に力がはいった状態では言語など出来るようになるものではない。
間違いを怖がるのは、次に大敵だが、日本のひとは、どうも「英語ができたほうがえらい」とう不思議な後進国的な考えがあるようで、よく考えてみれば、まだおぼえていないものは出来ないのがあたりまえで、バカな話だが、なんだか言語のようなものまで「ぼくのほうがえらいもん」な社会に根深い病巣の道具に使いたくて仕方がないよーだ。
そんなんでは、というのは、そういう姿勢では、間違ってもこの世界で幸福になりえないし、いったい何のために生きているかいっぺんマジメに考えてみたらどうか、と思うが、言語習得においても、他のことと同様、ただ邪魔なだけで、しかも傍迷惑な見栄であると思います。
で、結局ガメさんが何国人なのかさっぱり分からん・・・私はすっかり日本人なのだと思っていたけど(最近ブログ読み始めました、モニさんとはハムスターか何かと思っていました^^)
rさま、
>モニさんとはハムスターか何かと思っていました^^)
ハムスターだなんて大失礼な。
(つい笑ってしまったが、笑ったのはモニには内緒で、きみとぼくだけの秘密にいたしませう)
(そうでないとおいしいお菓子つくってもらえん)
ガメさんこんばんは。ご無沙汰しておりました。
最近の記事は、なにか心地よく読ませていただいていました。
長かったですが。(笑)
ところで、このまえ、また何か一題タイトル消しませんでしたか?
でも、そのまえにしっかりコピィしてありました。やったー。
ガメさんの書く日本語は、不自然なところがないから、
かえって、“ガイジンにしてはうますぎる”、と怪しまれるのでは?
私は、ガメさんが日本人かそうでないかより、
年齢を疑いましたが・・・・
日本語について、ですが、だいぶまえ、
片岡義男「日本語の外へ」という本を読んだことがあります。
日本語を使って日本語の外へ出ようという提案が書かれていて、
やってみようと思ったものの、上手く出来ませんでした。
また、水村美苗という人が、
「日本語が亡びるとき - 英語の世紀のなかで」という本を書いています。こちらは読んでいないので、いつか読みたいと思っていますが、でも、読まないかもしれない。
ガメさんがよく名前を出す西脇順三郎、私もこの人の詩が
好きでした。高校一年か二年の時の国語の教科書に載っていて、
それまで知っていた詩とあまりに違うので、ガツンと来たのを
覚えています。少年はドルフィンを捉えて笑った
で終わる詩一編と、ほか二編が出ていました。
退職したら、詩を読んで、旅をして、自分の言葉、自分の生を
取り戻したいな、などと願っていますが、どうなるやら、です。
コマツナどん、
>ところで、このまえ、また何か一題タイトル消しませんでしたか?
読んでつまらなかったから粛清しました。
>“ガイジンにしてはうますぎる”、と怪しまれるのでは?
わしは日本人より上手だとおもっておる。
耳がいいからな。
言語も十全計画完遂させるねん。
>年齢を疑いましたが・・・・
マジメにこたえると20代のひとびとが使う日本語では、殆どなにも書けないと思う。
日本語て、わしが使っているビンテージ日本語からあとは、こわれてるんちゃいますやろか。
>片岡義男「日本語の外へ」という本を読んだことがあります。 日本語を使って日本語の外へ出ようという提案が書かれていて、 やってみようと思ったものの、上手く出来ませんでした。
片岡義男「本人も失敗した、とこのコマツナコメントを読んで私信を寄越した人がいました。
>水村美苗という人
あのひとの「私小説」オモロイす
>西脇順三郎
カタカナをカタカナの音であると理解して書いている数が極端に少ない日本人のひとりですのい。
コーヒーとcoffeeは違うのだとちゃんとわかっていたひとです。
ところがオモロイのは散文は、ぎょっとするくらい下手なんですのい(^^)
>退職したら、詩を読んで、旅をして、自分の言葉、自分の生を 取り戻したいな、などと願っていますが、どうなるやら、です。
いま、ブッちして行ってまう、というわけにはいかないの?
>表現されうる思惟の範囲が、ひどく狭小になってしまって、紋切り型でない考えを表現するのがとてつもなく難しい言語になってしまっている。
使っている私達がその事にあまり気付いていないので、結局、狭い世界を堂々巡りしているんでしょう。
だから>日本人が日本語をつかって世界をどういうふうに感知しているか というのも推して知るべしです。
最近NZへ行くという話を複数の人にすると、大体
「エーゴ話せるんでしょ、いいですね、凄いですね」と言われます。
それも、以前は外交官になる勉強をしており、大学にも行っていたような人に言われるのです。
エーゴ話せるのが凄いってのも、物凄い時代錯誤な気がしますが、私そんなにエーゴ話せませんのに。
せいぜい意志を簡単に伝える程度。
自分達で、外国の言葉に対してアレルギーを起こさせているのだと思います。
上と関係ないですが、先日のblogに長いコメントを書き込んでしまいましたが、そのせいで消されたんでは?と心配しておりますものです。
Ukohさん、
>「エーゴ話せるんでしょ、いいですね、凄いですね」と言われます。
なんか、あんまり工夫がない素朴な嫌味ですのい(^^)
>先日のblogに長いコメントを書き込んでしまいましたが、そのせいで消されたんでは?と心配しております
関係ねっすよ。ツイッタとかブログ記事とかアカウント全体も含めて、年中消えてるの。
たいした理由もなくて、「読んだらつまらん」とか「飽きた」とかですのい。
むかしからのつきあいの人はみな慣れてるみたい
>ハムスターだなんて大失礼な
寛容ですね(^^)
>モニは「ごめんな、ガメ。このチョコ半分やるから、わたしを許せ
前から気になってたんだけど、奥さんとの会話で、
「ガメ、元気無いな? ドウシタ?」「日本がコイシイのか?」みたいなくだりが有って、口調が男性的なのか、英語での会話だからそういうニュアンスを表現したくて敢えて書かれているんだと察しているんですが、ともすると機械的に聞こえるような書き方をされているけれど、実際は「ごめんねダーリン、このチョコ上げるから許してね」的な言い方なんすか?
個人的にはモニさんの性格がとても良く分かって面白いです。
上述の方はそこんとこ勘違いした要因なんじゃないかな?と思ったりしたんだけど。。。(^^;
>苦しくて息ができなかった。
ガメさんを呼べないほど苦しかったんでしょう。
しかし臨月の女性の体は内部で壮絶なエネルギーが錯綜しているに違いないです。とにかく「寛容〜寛容に」ね。奥さんとケンカしたのではなくて実際には奥さんのバックには赤ちゃんも居たのではないですか?(^^)
ところでお腹に向かって話しかけてますか? オイラはお腹に向かって毎日唄っていましたヨ。まあ曲は何でもいいんでしょうけれど。
Akiraさん、
>寛容ですね(^^)
rさん本人が失礼と思ってないと思う。
日本の人、よくこーゆーこと言いますがな。
欧州人や英語人に言ったらエライことになるが、それが判るのはアキラ環境のせいですのい。
(日本のひとが礼儀正しい、とかて誰がゆったんだろう)
(ねー)
>実際は「ごめんねダーリン、このチョコ上げるから許してね」的な言い方なんすか?
英語のときとフランス語のときではニュアンスがぜんぜんちゃうけど、そんなん、自分のとこの奥さんにききなはれ(^^) 私生活、ばらしちゃうぞ。
>ガメさんを呼べないほど苦しかったんでしょう。
いや、わざわざベッドから出て他の寝室で休んでた。
前に熱中症のときに、わしがパニクったので、心配させまいと考えたよーです。
アホやん。
>お腹に向かって話しかけてますか?
特殊寿関連の話題についてはいっさいお答えしないことにしています。
(そんなに何時間も、よく話す事があるな、とモニに笑われる)
(今度は、絶対にわしよりモニに好かれない、という契約書を読んできかせようと思ってます)
>まあ曲は何でもいいんでしょうけれど。
毎日モニさんと一緒にモーツアルト聴いてるみたい。
あんな変態音楽家みたいになったら、どーするんだ。
同級生でも「それはなにを言いたいの?ケンカをふっかけてるの?」というような話題を楽しげに話してくる人はいるので若い人なら言わない、というわけでもないよう。
学生運動華やかなりしころに朝の礼拝の後で一席ぶって高校をよしてしまうような母の教育を受けたので僕はかなり偏ってるはずなのですが、それでも実は真ん中にも届かないぐらいじゃないのん?と思うほど、「社会」がカバーしている範囲がせまいように感じます。
日本語がこわれているというのは自分の場合特にそう思う。
去年から日記を書いているんだけれどまったく文章を書けなくなっててびっくりした。出てくるのは単語や情報とネットスラングだけでまるで抜け柄杓を持たされた船幽霊。
これじゃ外国語を覚える以前に言葉の通じないところに言ったらのたれじんじゃうと冷や汗たらり。
というか人間としてこれで生きていると言えるのだろうか…乾いた笑いも出やしない。
いつからこうなってたのか、それとももともとそうだったのに今さら気づいただけなのかもしれないけど、ちょっと呆然としています。
たろさどん、
>学生運動華やかなりしころに朝の礼拝の後で一席ぶって高校をよしてしまうような母
かっけえかーちゃんさまですのい。
>出てくるのは単語や情報とネットスラングだけでまるで抜け柄杓を持たされた船幽霊。
20代の人が自分の世代の言葉で世界を記述するの、日本語ではもう途方も無い大事業になってしまった。英語では、すいすいやれます。むしろ以前より楽になった。
日本語は地方語に転落しつつあると思います。
みんなで仲良く自分達の暖かい洞窟のなかで起きたよしなしを語り合う「コタツ語」とゆってもよいかもしれませんが、それ以上の話はできなくなりつつある。
でも、まあ、そのうちなんとかなるとは思うけど (<ーいつも、こればっか)
どうもおぬしの言語はありきたりで優しい人々を呼び寄せるようであるが、当の君はそれが心地好くなかろう、とぼくには思える。
しかしながらそういうことをおぬしは延々と続ける様なので、意外にそういう状況を気に入ってるのかも、と思うけども、君は矛盾して狂おしい色とりどりの才能が在ると思われるので、あなたのその優しさの鎧が残念に思われる。
もっと手短に自体を日本語で書けぬものか、と、いつもボクは思う。ガメは遠慮深いひとだな。
日本語は間髪を入れぬ動きに適応するが、おぬし英語癖が抜けないではないか。
ジャコメッティーが描いた矢内原の前で初音ミクを聴くのは面白いぞ。
ぽんぴいさま、
ぽんぴいのコメント、自動で分類されてゴミ箱行ってた(^^;)
すまんすまん。
>意外にそういう状況を気に入ってるのかも、と思うけど
そんなことないよ。読む人、20人くらいでいいんだよ。
それ以上いてもしょーがない。
英語のときみたく、たくさんの人が読んでくれないと困るときとかは別だけど、日本語はね、ちゃんと読んでくれる人だったらひとりでもいいくらいだのい。
わしの気持はぽんぴいごときには判らぬであろう。
>もっと手短に自体を日本語で書けぬものか、と、いつもボクは思う。ガメは遠慮深いひとだな
うるせーんだよ。
>ジャコメッティーが描いた矢内原の前で初音ミクを聴くのは面白いぞ。
ジャコメッティー、死ぬほど高かった。
初音ミク、聴いたことない。
わしは興味がものすごく偏ってるねん。
毎日みたいに料理をするのは、趣味みたいなものだけど、楽しくてやってるのかというと、そうでもない。pH(H+指数)を計測する機械はセンサーを純水に晒してリセットするんだけど、おれの作る料理ってのは計器の純水みたいな役割です。わかりにくい説明だけど、他にたとえが浮かばない。だから、ってのもヘンだけど、だから大したものは作らない。
揚げ物が楽しいくらい。あれ、なんで楽しいんだろうね。ぶちぶち、って低い音だったのが揚がってくると、ぴちぴち、って高い音になるのを聞いてんのもいい。塩なんか振って、つまみ食いしちゃう。揚げ終わると吸い込んだ油で胸がいっぱいで、食欲なんかなくなっちゃうけど、あれは楽しい。
料理している間は、ふだん以上に考えなしだ。余計な創作とか裏ワザなんて小細工もしたくない。ふつうのレシピでふつう通りに具材や調味料もちゃんと計量して作ります。できあがった料理は、だいたい思った通りの味になるのがいいね。
台所がそんなに広いわけじゃないから、料理作りながら鍋や器を洗っちゃう。まな板も包丁も洗う。そんで、使った包丁は、その日のうちに必ず研ぎます。取っ手のついた小さな砥石があって、あれは便利。いつもはそんなかんじで、月にいち度くらいは、ちゃんとした砥石で研ぐ。研いでおかないと、次に使うとき、てきめんに切れないのがわかります。
まあ、ふだん使いのはヘンケルスの一万円もしない三徳とペティナイフがあればいいんじゃないか。日本製の高級包丁は手入れが大変で、素人包丁のおれには、あんな大層な刃物は必要ないです。
で、言葉なんだけど、あれは包丁と違って、使わないとナマクラになっていくね。十数年まえにスペインに行ったとき、数字が出てこなくて、あせりました。「ウノ、ドス、トレス。クアトロ、シンコ……あれ?」聞くぶんにはわかる言葉が、出てこない。
これは、やばい。
英語なんか、ここ二十年ばかりロクに喋ってないぞ。映画観て忘れないようにするのが精一杯なのに、「今何て言ったんだろ」とか「あ。知らない言葉だ」なんてのが、けっこうある。とりあえず前後の筋から推測して、「あとで調べなくちゃ」って思うんだけど、家に着いて「♪むかしアラブの偉いお坊さんが~」なんて歌いながらコーヒー飲むと、もう何を調べるんだったか忘れちゃってんだ。緊張感まるでなし。
そもそもネイティブだった北海道弁が、もうダメだもね。十八歳まで切れ味のいい北海道弁喋ってたのに、三十年くらいまえに北海道の知人と話してて、「ええ」って肯定の返事したら、「ええ、ってかい……。何いいフリこいてんだべか」ってイヤな顔されたっしょ。そこは「いいんでないかい」とか「そうだべや」って言わんとないんだわ。したけど、もう「ええ」のほうが、おれには自然だったんさ。北海道弁で文章は書かさるの。聞くのも問題ない。したっけ喋んのはもう、どもならんもね。
つうことで、今はタイ王国。日本語なんて、もうずいぶん喋ってないですね。そのうち忘れっちゃうかもしてうyrたもましたか。なんちって。忘れることはないだろうけど、ヘタにはなるかもしれない。でも、いいんだ。
おれにはタイ語がある。
タイ語を喋ってるときのおれは、他の言語のときよりも、はるかにいい。なんつうか人格が好ましいんだぞ。威張ることないけど。
なんでかっていうと、答えはかんたんで、タイ語ってのは、おれにとっては、うちのヨメと喋るためだけの言葉だったからです。今は息子も増えました。じぶんの良いところで勝負する言葉だもんね。背伸びしたりするんじゃなくて。見栄張ってもヨメにはバレバレだから。
そういう訳だから、つまんない奴とタイ語で喋りたくない。おれは時間を無駄にするためにタイ語を憶えたんじゃないんだ。ヨメと無駄な話で肩をぶつけ合って、くすくす笑うために憶えたんだよ。タイ語は。
そんなもんで、タイ語とおれはシアワセな関係にあります。これからも、そうだといいなと思うんだ。
他人の事なんか知らないよ。つうか、じつはヨメ以外のタイ人には、あんまり興味ないんだ。
タイ語は35歳になってから憶え始めたんだ。歳取ると記憶力が衰えるとかいうのは、嘘です。なんぼでも憶えられる。どんどん忘れっけど。その気になれば憶えられます。うん。歳取ると、それを言い訳にして、その気にならなくなるだけだ。
でも最初はテキトーだったな。つうじればいいか、って。タイ文字も訳わかんないし、そのうち暇なときにでも憶えればいいや、って。そんなんじゃ難しいよね。まあタラタラ憶えても、気の利いた挨拶ができて、テレビのニュースも三分の一くらいわかるようになって、人生相談を持ちかけられても「んなもん、自分で考えなさい」くらいの事が言えるようになって、ヨメと知り合った。それからです。ちゃんと憶えようとしたのは。
憶えかたは普通です。言葉を憶えるのに近道があればいいのにね。ひたすらテレビ見た。わかんなくても見る。そのうち(タイ語は長かったな。3ヶ月くらいかかった)意味はわかんなくても、聞き取れるようになります。囚人がスプーンで脱獄の穴掘ってるようなもんで、それが最初の小さな穴で、ひと筋の光が射し込めば、あとは広げるだけ。平行して読んでたタイ語のテキストの意味が「あ。これか」と次々と繋がればこっちのもの。
まあでも、ヨメとだけ話すタイ語だから、カーテンのことを「窓の服」みたいに、一般のタイ人につうじないタイ語が多かったんで、さいきんはそういうのを矯正してます。ちょっとまえまでは、「窓の服」が正しいタイ語だと思ってた。正しくはผ้าม่าน(パーマン)っていうんだけどね。これ読んだひとは憶えても使いようがないですね。
よその国の言葉を使うひとは、だいたいそうだと思うけど、おれも一度日本語で組み立てたものをタイ語に通訳するというような難しいことはできないんで、タイ語で考えて喋ってる。とうぜん日本語で考えるのと「なんかちがう」料簡になるんだけど、まあそういうもんだと思います。
だけど、タイ語で考えてても「象に踏み潰されて、ぺったんこになる最期はシアワセ」とは未だに思えないんで、おれのタイ語は、まだまだなんだろう。
韓国語とかスペイン語なんてのは、ひと月かそこらで憶えたものだから、「旅行でトラブルに巻き込まれなけりゃ困らない程度」の水準でした。だから忘れるのも早いよね。
広東語を憶えたのは、当時、香港に友達がいたからで、なんか動機が「このひととヨタ話がしたい!」って、おれは、そんなのばっかりだ。広東語と普通話(北京語)はまったく違う言葉で、お互い話そうと思っても意思がつうじないけど、筆談なら簡体と繁体の問題はあるけど、ほぼつうじる。でも、料簡はばらばらで、あの国をひとつにまとめんのは無理があると思うけどね。いつまでも暴力が言葉の壁を超える共通手段てわけにもいかないよね。痛いから。
そういえばむかーし東京に出てきて、バンドを組んだお友達のタイコやピアノの人が英語圏のひとで、話してみると、やたら英語がつうじたの。おれ、すげえじゃん。中学と高校の授業は無駄じゃなかったんだなー、って思ったんだけどね。今から考えると音楽用語ばっかりなんだ。つうじない訳がない。でもバカだから、その気になって英語の勉強したもんです。戦後の進駐軍のバンドマンじゃないんだから。ねえ。
日本人なんかに「こちら弧茶さん。語学に堪能で」なんて紹介されっと、ぜんぜん違うんだよなー、って思う。おれが語学なんて学の字がつくようなことするわけないじゃん。わかってないな。
あと「このヤマダくんは◎◎語がペラペラで」なんて言われて、「いやあ。日常会話しかできないっすよ」なんてヤマダくんはアタマ掻いてたりするんだけどね。そういうの見てると、おれは、「これはハナクソではなくてホクロです。だってホラ、毛が生えてるでしょ?」って何て言うの? って訊きたくなっちゃう。あと、「やあねえ。オカマだと思ってなめんじゃないわよ」とか。オカマっぽく言えるのか。日常会話って、そういうことだぞ。と思うけど、もう初老の紳士だから、「そうですか」なんてタイ式の微笑み浮かべたりしてて、おれはけっこうオトナなんだ。
それから、おれがタイ語を話すと知って、おれにタイ語で何か質問した奴もいたな。「日本人同士で何でタイ語なんだ。恥ずかしくないのか」って、タイ語の質問で返しちゃったんだけどね。「え? ちょっと難しくてわかんないです」とか言ってんの。ひとを試すような奴とは友達にならないんで、まあいいです。
まえにタイ語で書かれた小説を読んで感心したもんで、ベンキョーも兼ねて少し日本語に翻訳したことがあるんだけど、あれはなんか困る。やめちゃいました。
セルゲイ・ラフマニノフは作曲だけでなくピアニストとしても高名で、チャイコフスキーやショパンなんかも弾いてんだけど、聴くと「ああ。作曲家の演奏だな」って思う。ここだ、って部分でリズムキープ無視してまで旋律を広げて引き出してくるんだけどね。「そこなの?」とか「そういう解釈すんの?」ってのがあって楽しい。作者の意図も酌んでんだろうけど、「おれなら、こうだ」ってのが我慢できずに顔を出す。
翻訳ってのも、日本人には聞こえない楽器の曲を、日本人に聞こえる楽器の楽譜に書き換えるような作業だから、おれには無理だと思いました。おれがやると、翻訳に似た別のものになっちゃう。
このへんも、よく考える余地のあることなんだろうけど、おれはアカデミックなノマドではなくて、熱帯の路地で地べたにべったり脱力してる野良ノマドだから、ヨメと息子と三人で餃子を包みながら、くすくす笑ってるのに忙しいのだった。
なんか今回も長いコメントになってしまった。多少は申し訳なく思ってます。ごめん。
kochasaengさま、
>できあがった料理は、だいたい思った通りの味になるのがいいね。
それは、すごいな。
>料理作りながら鍋や器を洗っちゃう。まな板も包丁も洗う。
わしも、そうよ。皿洗い機にいれないもの(ホーチョーとか)はどんどん洗って、使ったスパイスや調味料は、どんどん片付けます。
>研いでおかないと、次に使うとき、てきめんに切れないのがわかります。
じゃ、わしの、やっぱし初めから切れないんだな(^^;)
一応、「有次」とか買ってあるんだけど、日本の料理つくらないから、まだ買ったときの油紙にはいったままだかんね。
>数字が出てこなくて、あせりました
指(ゆび)語、という便利なものがあるやん
>タイ語ってのは、おれにとっては、うちのヨメと喋るためだけの言葉だったからです
おお、いいだすなあ。
>ヨメ以外のタイ人には、あんまり興味ないんだ。
わしもモニ以外の人間にあんまり興味がない…あっ…
>タイ文字も訳わかんない
あれ、難しいよお。書くときのコツってあるんかしら。
>意味はわかんなくても、聞き取れるようになります
いいねいいねいいね。
わしもしゃべれるようになっても、しばらくは自分が何ゆってるのか意味はしらん(^^;)
テキトーに鸚鵡さんをしてるだけだからな。
>カーテンのことを「窓の服」
おおおおー、ますますお友達だわ。
>おれも一度日本語で組み立てたものをタイ語に通訳する
それやると、「日本人が書いたタイ語」になる。
わしはオモロがって、やってみる。
フランス語で組み立てたものを英語で書き直しても英語になるが、
日本語で組み立てたものを英語で書くと「日本人が書いた英語」になる。
おもろいっす。
>語学に堪能
語学に堪能、って、酷い表現ですのい。なんでベンキョーにしちゃうんだろーね。
英語で話す能力のことを「語学力」と表現しなければならないところが日本のひと全体の外国語能力のなさをすでに示している。
だいどーかん、でごんす。
>初老の紳士
わしねわしね。「初老」って聞くと斎藤茂吉の
Munnchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき
、っちゅう短歌を思い出す。
あのひと、これ作った時40歳+。
>ひとを試すような奴とは友達にならないんで、まあいいです。
わしも、ひとを試すようなバカはソッコーでエンガチョです。
>「ああ。作曲家の演奏だな」って思う
おおおおおおっ!
わしも、そー思うだよ!
あのひと、自分の曲弾くときもそーで、すげー素っ気ないっちゅうか、感情ゼロっちゅうか、演歌しないっちゅうか、そういう弾き方です。
なんにもひっぱらない、んだよね。
オモシロイ人だ。
>翻訳ってのも、日本人には聞こえない楽器の曲を、日本人に聞こえる楽器の楽譜に書き換えるような作業だから、おれには無理
翻訳は誰にも無理と思う。
不可能作業なんだよね、あれ。
>今回も長いコメントになってしまった。多少は申し訳なく思ってます。ごめん。
狐茶のコメントは長いやつのほうがオモロイと決まっておる。
もう十倍くらい書いて書いて。
タイ文字書くときのコツ。そんなものはないけど、あれ全部、書き順があって、そのとおりに書いてると、だんだん形になってくるよ。ってエラソーに言っちゃだめなんだ。おれのタイ文字は「コドモの字みたい」って、よく笑われるから。でも、まだ8歳の息子よりは上手い。←自慢になんね~。
それより、こないだ入国管理局の若者に「すみません。もっとゆっくり喋ってください」って言われちゃった。
あ。ごめん。ガイジン発音だから、わかんないよね。
「いや。発音は少しアレだけど、わかります。そうじゃなくて、喋るのが速すぎて、理解するまえに内容が、次々と重なって溜まっていくので、話の内容が理解できないんです」
それは失敬。
ふだんは、ゆっくり喋るんだけど、こういう役所なんかの話は、まえもって言いたいことや訊きたいことをアタマの中で整理して、だいたいのセリフを考えちゃうから、やたら速くなるようです。
ヨメがひとこと。「喋るのが速いのは、上品ではないわね」
うへぇ~。すみません。
>自分の曲弾くときもそーで、すげー素っ気ない
ラフマニノフが自分の曲弾くときは、「おれなら、こう表す」が、すでに終わってて、言いたいこと言い切っちゃって、ある種の興味失ってるから、あの人、速く弾くんだよね。ピアノ協奏曲の例えば2番の第1楽章モデラート。ふつうの演奏者は12分くらいかけて弾くんだけど、本人が弾くと8分とか9分で終わっちゃう。速い速い。あの重厚な曲が技術自慢みたいになってて管弦楽団員も付いてくるのが大変そう。
マイルズ・デヴィスもそうだったんだけど、曲目のテンポが演奏を重ねるごとに速くなっていくのね。初演よりも5年後、それよりも10年後と、どんどん速くなる。「この速さなら、言いたいことは言える。じゃ、もっと速くして言いたいこと詰め込むか!」って。速さと戦って高揚してる。あれは凄いよね。楽器やらない人にはわかんない感覚かも。
>あんまり現世利益の面から言語習得を説いてはいけないが、やはり楽しいことがおおいほうがいいと思う。
今いる国の公用語はスペイン語ですが、現地語もひんぱんに使われてます。そんなに一生懸命勉強してないので大してわからないけど、挨拶のことばくらいは聞き覚えで使ったりします。みんな一瞬ぎょっとして、そのあと大笑いして喜んでくれます。近所の八百屋(屋台)の家族はそのおかげで仲良くなって、(たまには)おまけしてくれるようになりました。毎朝毎晩通りがけに「さよならー!」「さよならー!」って声を掛け合うだけで、ほんとに幸せな気持ちになります。
にきーたどん、
>みんな一瞬ぎょっとして、そのあと大笑いして喜んでくれます。
そー。そー。楽しいよね。前にそーゆーこと書いたら、「あなたのような表面だけの友好をよろこぶのは本当の親善ではない」って書いてきたひといたけど(^^) きっと八百屋で、あっちいけて水まかれたりしていたのであろうとおもわれる。
>さよならー!」「さよならー!」って声を掛け合うだけで、ほんとに幸せな気持ちになります。
ほんまにほんまに
ガメさんはフランス語も喋れるんだね〜。。スゴいなーー
プライベートを聞くつもりじゃあなかったんだよ(^^; スンマソ。
いや〜 オイラが感じたのは「星 新一」的な肩で囁く小鳥みたいなニュアンスなんだよね〜(^^) あくまで対等、もしくは相手以上に賢く、英知が溢れていて、ぼーっとしてると心をワシ掴まれる言葉が優しく注がれる。。。みたいな。
うちのカミサンも普段流暢に日本語で話しているが、たまに「イマ、ナニヲカンガエテ、イル?」みたいなフレーズは文章にするとやっぱりカタカナが適当でしょう。
ちなみにオイラのカミサンは日に日に日本語での喧嘩が強くなっている。前は怒ると黙っちゃってその内ビンタが飛んで来たんだけど(怖) 最近は「恫喝プラス下段蹴り」になってきました。(余談だけどマイク・ベルナルド亡くなりましたね。オイラも空手〜ボクシング〜キックやってました)
>日本語に翻訳した
The Five Gospels: What Did Jesus Really Say? The Search for the Authentic Words of Jesus
http://www.amazon.co.jp/FIVE-GOSPELS-Robert-W-Funk/dp/0025419498/ref=sr_1_cc_1?s=aps&ie=UTF8&qid=1329349590&sr=1-1-catcorr
これ、翻訳してくれまヘんか?(^^) カミサンに何度も頼んでんねんけどてんで相手にされへん。
>ガイジンにしてはうますぎる
Arthur Binardなんて人も居る訳で。。。
「ニセガイジン」て〜揶揄は、日本人のコンプレックスの裏返しなんだろう。もはや「日本人以外に日本語が流暢に話せる外国人なんて居ないだろう」という島国根性は成り立たない。
ところで「ガイジン」の定義が分かりませんね。上記の彼は20歳過ぎてから勉強したみたいですが。
例えば、、
①幼少期から日本を行ったり来たりして日本語に触れていた。
②何となく留学、ホームステイしたりして日本語を覚えた。
③「クロサワ」やらアニメやら、武士道やらで劇的に日本に染まっちゃって長期滞在の異国の方。
③成人してから仕事で止むなく日本語を使っている。
①〜③は自然な日本語になるんでしょう。
③は方言も使われる。
④だと仕事の後は一切日本語使わない人も多いですね。
オイラの大学時代の医学英語の授業で南アフリカ出身の金髪白人のおっちゃんがいました。やっぱデーンとデッカいけど体が固そうで教室のボードを消すのに息を切らせている。いつも同じ薄い色のスーツに花柄のタイだった。
講義が始まるとすぐ「Any question?」から始まります。
「そんな朝っぱらからアンタに聞く事なんて無いヨ〜」って皆思うんだけど質問しないと怒るんだよね(^^;
その先生は奥さん日本人なのに講義が終わっても一切日本語を使わなかった。彼の座右の銘は
「日本は好きだけど日本人はキライ」なんだそうだ。
>「リラックスできない」せい
なるほど。うちのカミサンが「あなただって医学勉強する時間を語学に費やせば直ぐ喋れるわよ」って言うけどさ、結局リラックスした「時間」も取れないって環境要因がオイラにはあります。
実際、年に1回、1週間程度の欧州旅行が唯一英語をブラッシュアップする機会なんだよね。
ところでコマツナさんには大変申し訳ないんですが、今年の流行語大賞候補に「コマツナ」があるんだそうです。
「コマッテテモ、マッテレバ、ナントカナル」だって。。。
合掌
ポーランド語の本を一冊読み切った。
読んだ、というのはオオウソで、意味なんか分からないけどとりあえず読んでいっただけ^^; 辞書も引かなかった。途中で引いて意味を分かりたいと思ったことが何度もあったけれども、それを我慢して引かなかった。
一冊仕上げてみて、自分のポーランド語が進歩したのかどうかはまだ分からない。このやり方はつまるところ、ガメさんのやり方そのものだけれど、自分にとってもこのやり方があっているのかはまだ分からない。もっとまじめに、辞書を片手に読むべき時はいずれ来るだろう、とも思う。ただ言えることは、読んでいる間、幸せだったということだけだ。大げさかもしれないけど。
タイトルの意味も分からないこの本を読んでいる間、ときどき、前後の意味が手に取るようにわかるような気がするタイミングが訪れた。調べたことが一度もない単語の意味さえ、紙の裏側から透けて見えてるような感覚があって、その間だけは読むのも速くなった。その瞬間が本当に幸せで、その瞬間のためだけに、意味も分からない本を一時間、とか続けて読んでしまった。はじめから、こういうふうにしてポーランド語と付き合えばよかった、と何度思ったかわからない。
いま日本で人気のある、海外での活躍を日本人にもとめる人々の主張を聞いていると、英語の習得の方法にすら「正しいやりかた」があって、それを外れると「効率の悪い」「自己満足」のやり方で、そういうことをする人には「覚悟が足りない」のだ、と言っているようだ。
最近、もう聞く気がしないので彼らの主張は聞いていないが、もし、彼らのやり方が正しいのだと今も信じていて、それが今のさえない私の人生のドアを開くゆいいつの方法なのだと思い込み、自分が思う通りのやり方など唾棄すべき自己満足なのだと自分を律していたら、今頃は日々を生きることにさえ、ふかく絶望していただろうと思う。たとえ彼らの言い分が、本当は正しいのだとしてもだ。
ともかく、そうならないで済んでいるのは、彼らのやり方が、私の場合には自由への扉を開けてくれないのではないか、という自分の疑問を、自分がやさしくくみ取ってやれたこと、に尽きるのだと思う。なぜそんなことができたのかといえば、……運、なのかな^^;