ハウス経営は父の代から。
「他の作物にはない収益率はトマトの強みですね」と池井戸さん。
希望を持って農業に
取り組める環境を作りたい
データの徹底管理で生産力をアップ
「うわぁ、いい匂いだ」
作家・池井戸潤さんが嗅いだのは、まさにあの赤い果実そのものの香りだった。
湘南・藤沢市北部の農業地帯にある「井出トマト農園」。大玉、中玉、ミニと全13種類のトマトを育てているハウスが、2ヘクタールの敷地に9棟あり、そのすべての適温適湿の保持に目を配るのが、井出寿利社長の日課だという。37歳。50名余りの従業員を束ねる、若きリーダーである。
「気温と日射量を確認しながら、温度と湿度、飽差(飽和水蒸気量と湿度の差)を調整し、パソコンで管理しています。一度苗にダメージを与えてしまうと尾を引きますから、気を遣いますね。データは瞬間値だけでなく、過去のログの蓄積が大事。良質なトマトを安定生産できるよう、自前のネットワークシステムを作って運用しているんです」
用水の管理、肥料の配合も一括管理。従業員の作業量も数値化して記録し、1日約700キログラムの収穫分は、小売店への出荷や個人客への直販のほか、ジュース、ジャム、ケチャップなどの加工品製造にも使用。農園の大事な収入源になっている。「すばらしい収益率ですね」と、池井戸さん。
「データをリアルタイムで把握するから、より効率のいい農作業ができる。数字の読みも緻密で、実に目の行き届いた経営だと思います」
従事者の意識向上が成長の鍵
創業者である父から後を託されたのは、12年前。当時120万円程度だった年収を増やすため、生産技術の向上を目指してさまざまな工夫を試みたが成果は上がらず、やっと上向いたときには経営方針についていけない従業員が離反するという困難も経験した。
「皆がどうやって希望を持ちながら農業に取り組んでいけるのかと……。それで、CCS(指揮管制体系)ノートを作り、従業員に持ってもらうことにしたんです」
井出社長のビジョンや会社のルール、トマト作りのマニュアルや日常作業のチェック項目まで盛り込んだ、農園独自のワークマニュアル。従業員一人ひとりが自立心や経営感覚を持って生産に取り組めるよう作られた一冊は、その後も井出社長と従業員全員での意見交換により、改訂が重ねられている。
「会社の理念に始まって、日々の仕事の細かい要素までが明文化され、コンパクトにまとまっている。もう少し規模のある企業でもなかなかできていない、進んだマネージメントですね」と、池井戸さんも感心する。
ノウハウの明文化は就農を促進する
現在執筆中の新作で、スマート農業の普及に向けた新技術を採り上げている池井戸さん。「農業経営は、従事している人は知っているけれど、それ以外の人にはまったくわからないという、ブラックボックスの部分が大きい。それが参入障壁になって、高齢化し離農者が増えるという農業の現状を生み出しているようです。若い就農者を増やしていくには、栽培のノウハウの明文化と、客観的なデータに基づく、誰にもわかりやすい経営をしていく必要があると思います」
昨年は遠隔地に新農場を建設。年間を通じた安定供給と従業員の労務時間の安定が狙いだ。顧客の満足と健康増進、従業員の充実、会社の発展という「三方よし」を理念に、今も進化を続ける井出トマト農園の挑戦に、「失敗をしながらも、組織のあるべき形を自力で見出したところに価値がありますよ」と池井戸さんは評価。そして井出社長は、さらなる高みを目指す。
「海外と比べれば、欧米や中国の大手種苗メーカーと日本の競争力の差は歴然。外国に学んで、より力をつけなくてはいけない時代です。また、家族農業が困難になり、農業者がさらに減っている現状に対して僕ができることは、この会社で実現したパターンを皆さんに伝えること。使命感や志を持った農業者を育てるために、少しでも役に立てればと思っています」
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Staff Credit
writer:Michiko Otani ,
stylist:Munekazu Matsuno
池井戸潤 / Jun Ikeido
1963年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。『果つる底なき』で江戸川乱歩賞を受賞、作家デビュー。『鉄の骨』で吉川英治文学新人賞を、『下町ロケット』で直木賞を受賞。他の作品に、半沢直樹シリーズ、花咲舞シリーズ、『七つの会議』『民王』『アキラとあきら』『陸王』などがある。6月15日より初の映画化作品『空飛ぶタイヤ』が全国ロードショー。