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昨日の記事の続編です。
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』の第三巻から抜粋しています。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)▼一笑に付された命がけの注進
翌建武元(133四)年、後醍醐天皇は「建武の中興」といわれる天皇親政を理想とする政治改革を断行します。
このとき楠木正成は、河内・和泉の守護に任命されています。
「建武の中興」は改革があまりに性急で、恩賞の不公平や、庶民への重い年貢や労役を課したため、武士勢力の不満を招いたと一般には考えられています。
しかし実際は、天皇親政という政治形態をとったために、これを拒否する人たちによる妨害や裏工作により頓挫したという面も否定できません。
民衆の不満が高まるなか、足利尊氏は後醍醐天皇に突如反旗をひるがえしました。
彼は民衆の不安をあおり、建武二(133五)年十1月、鎌倉で挙兵し、京へと攻め上ります。
そして楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら、天皇方の武将たちがこれを迎え撃ちました。
激しい戦いの末、正成軍は尊氏軍を打ち破ります。
摂津豊島河原で大敗した尊氏軍は九州へと敗走します。
戦いには勝ちました。
けれど楠木正成は喜びませんでした。
なぜなら負けて逃げていく尊氏軍に、勝った天皇方の武士が少なからずついていったからです。
「我が方の武士までが、
尊氏を慕っている・・・・」
人々の心が天皇から離れていることを感じ取った正成は、京へ戻るとすぐに御所へ参内し、後醍醐天皇に、涙ながらに注進しました。
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https://www.mag2.com/m/0001335031.html 「どうか足利尊氏と和睦してください」
ところが公家たちに、正成の誠意は通じません。
「なぜ勝利した我らが、
尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。
不思議なことを申すものよ」
正成の命がけの注言も、公家たちに1笑に付されてしまいます。
いったんは九州に下った足利尊氏でしたが、九州の有力武将を味方に付け、建武3(1336)年4月、大軍を率いて再び京を目指しました。
後醍醐天皇は「湊川で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。
湊川というのは、いまの神戸です。
とはいえ、いまや3万以上の兵を擁する尊氏軍に対し、正成軍はわずか700です。
正攻法で勝てるものではありません。
楠木正成は再び注進します。
「私は河内に帰って兵を集め、
淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めします。
帝は比叡山に移ってください。
京の都に尊氏軍を誘い込み、
北から新田軍、
南から我が軍が
敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」
ところが公家たちは、帝が都から離れると朝廷の権威が落ちることを理由に、正成の案を却下してしまいます。
有事と平時の区別がつかなかったのです。
▼「勇士とはこのような者を申すべき」
失意の中、楠木正成は自ら死地へ赴くように、粛々と湊川へ軍を進めます。
このときすでに天皇の求心力は無きに等しいものでした。
戦を前にして、正成は後醍醐天皇に最期の言葉を遺しています。
「この度の戦で我が軍は
間違いなく敗れるでしょう。
倒幕の戦いのとき、
勅命を受け金剛山にこもった
この正成のもとに、
多くの地侍が名乗り出て、
たちまち軍勢が集まりました。
民は天皇と志を通じていたのです。
しかし勅命を受けたにもかかわらず、
この度は、一族、地侍、
みなこの正成に従いません。
正成、存命無益なり。
最前に命を落すべし」
「存命無益なり」というのは、生きていること自体が、もはや意味をなさないということです。
そして義を貫き、真っ先に戦って死ぬといっているのです。
このとき正成のもとに集った700の兵も、定めて同じ思いだったことでしょう。
5月25日、3万5千の尊氏軍と、わずか700の正成軍が湊川で激突しました。
圧倒的に有利な尊氏軍でしたが、正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか一気に攻め落とそうとはしませんでした。
尊氏にしてみれば、正成は3年前に倒幕のために共に戦った仲間なのです。
「楠木正成ほどの男を失うのは、
いかにしても惜しい、惜しすぎる」
足利尊氏は、何とかして正成の命を助けようと、正成へ再三降伏勧告をしました。
しかし、正成軍は鬼気迫る攻撃を重ね、阿修羅のごとき血戦が繰り返されます。
正成軍の猛攻撃により、尊氏軍の損失も増えていきます。
そして、ついに尊氏は総攻撃を命じ、6時間にも及ぶ激しい戦いに幕を引きました。
最期をさとった正成は、息も絶え絶えのわずかな部下と寺坊に入ります。
そして弟、正季に問いかけました。
「人は死ぬときの一念で
転生が決まるという。
お前は何を願うか」
正季は答えました。
「七生まで人間に生まれて
朝敵を滅ぼしたい」
「自分も思いは同じだ。
いつかこの本懐を達しよう」
そう兄弟で誓い合うと、死出の念仏を唱えて建物に火を放ち、正成は弟、正季と刺し違えましました。
このとき誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」です。
正成の首は、湊川の陣に二日間晒されたあと、京都6条河原に晒されました。
けれど尊氏の特別の配慮により、正成の首は故郷で待つ妻子の元に丁寧に届けられました。
尊氏側の記録『梅松論』には、正成のことを次のように記しています。
「誠に賢才武略の勇士とは、
かような者を申すべきとて、
敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
正成は敵からも敬愛され、死を惜しまれる人物だったのです。
▼建武の中興と国のカタチ
日本では古来、天皇は政治権力を持たず、施政者に政治権力を授ける権威として存在してきました。
日本のすべての民も土地も天皇の「おおみたから」であり、天皇に任命された施政者たちは、「おおみたから」である民や土地を天皇から預かる立場になります。
このような国のカタチを「シラス」といいます。
このように権威者と施政者とを分けることにより、日本は施政者が民や土地を、私有、支配することを防いできたのです。
このシステムは、民こそ主役とする究極の民主主義といえるものです。
このシラス国のカタチを、日本は七世紀に作り上げ、それ以降、日本のカタチとしてきました。
それが日本が日本として存続してきた最大の理由です。
逆に、支配者が民や土地を隷属させる統治形態を「ウシハク」といいます。
「ウシハク」は「ウシ(主人)」が「佩く(大刀を腰にさす意)」ですから、主人が私的に私有し支配するという意味があります。
支配と隷属、支配者と非支配者の関係で、多くの国──というよりも日本以外のすべての国が、このカタチでした。
後醍醐天皇の「建武の中興」は、鎌倉幕府の「田分け」と呼ばれた均等配分方式の相続制度によってもたらされた民の窮状をなんとかして救いたいという思いから始まったものです。
そのために後醍醐天皇は、「天皇は直接政治を行わない」という日本の古くからの統治形態「シラス」を破ってま
でも、親政を断行しました。
しかし、この後醍醐天皇の決断は、その後の日本のカタチを崩してしまう──つまり民が権力者によって支配される「ウシハク」という事態を招いてしまうものであったかもしれません。
もしかするとですが、日本の八百万の神々は、後醍醐天皇の理想も、そのおやさしさも十分に理解しながら、軍配を足利尊氏の側、つまり古来の日本の姿を守ろうとする側に与えたのかもしれません。
歴代天皇にはそれぞれの肖像画が残されていますが、なぜか後醍醐天皇の肖像画だけは、まるで中国皇帝のような姿で描かれているのも、そうした理由が背景にあるからかもしれません。
▼継承される民族の精神
戦いに勝利した足利尊氏は、そのまま京都に入り建武式目を制定します。
そして光明天皇を即位させると、暦応元(1338)年には征夷大将軍に任じられ、正式に武家政権を発足させました。
これが二百年以上、十五代にわたって続く室町幕府の始まりです。
暦応二(1339)年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、足利尊氏は天皇の菩提を弔うため、京都の嵐山に、まさに大伽藍と呼ぶべき荘厳な天龍寺を造営し、その業績を讃えました。
後醍醐天皇と足利尊氏は、いわば敵同士ですが、尊氏には後醍醐天皇の理想も、そのやさしさも、痛いほど分かっていたのであろうと思います。
しかし、室町幕府にとって足利軍と戦った楠木正成は仇敵です。
足利尊氏が没すると、正成は二百年以上の長きにわたり「逆賊」の汚名を着せられることになります。
楠木正成を再び世に出したのが、あの有名な水戸黄門(徳川光圀)です。
元禄五(1692)年、『大日本史』の編纂中だった光圀は、楠木正成の顕彰のために戦没地である湊川に墓碑を建立しました。
そこには光圀の自書による「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が刻まれています。
ちなみにこの墓碑建立の現場監督をしたのは、「助さん」こと佐々介三郎宗淳です。
光圀は、
「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、
すべての武士は正成の精神を見習うべし」
と、正成の名誉回復に努めました。
いま、この正成の墓碑の脇には、それを見守るように光圀の像が建っています。
たとえ逆賊の汚名を着ても、主君に忠義を捧げつくす。
楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に
「皇国の最大の英雄」と慕われ
「七生報国」は「忠君愛国、滅私奉公」とともに、日本軍人の精神として受け継がれました。
人間魚雷「回天」出撃の際には、正成の軍旗に記されていたとされる「非理法権天」の幟が掲げられ、その本体には楠木一族が用いていた紋所の「菊水」が描かれました。
「非理法権天」というのは、
「非は理に勝たず、
理は法に勝たず、
法は権に勝たず、
権は天に勝たず」
という意味です。
つまり、天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない。だから人は天道に従って行動すべきである、というものです。
皇紀二千六百有余年、世界最古の歴史を持つ国日本は、いまなお古代から続く天皇統治のカタチを護持し、民族の精神と伝統を継承しているのです。
(おわり)
お読みいただき、ありがとうございました。

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