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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


楠木正成と七生報国(前編)

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『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』の第三巻から、「楠木正成と七生報国」をお届けします。
たいへん長い読み物ですので、前編と後編にわけて掲載します。後編は明日です。


20181125 楠木正成
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


▼「元弘の乱」の始まりと「赤坂城の戦い」

文永の役、弘安の役は、一方的な外国の侵略行為に対して、鎌倉武士たちが立ち上がった戦いでした。
では、日本国内での戦いはどうなのでしょうか。
そのひとつとして、楠木正成のことを書いてみたいと思います。

楠木正成は、敵をして「勇士とはこのような者を申すべき」と言わしめた天才武将です。
大義を貫き、戦死を覚悟で従容として戦場に赴いたその姿は、「忠臣の鑑」「日本人の鑑」として長く讃えられました。
吉田松陰、真木保臣、坂本龍馬など多くの志士たちが正成の墓に参り、明治の新しい国づくりに貢献したといわれています。
いわば日本的武人の体現者です。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて河内を本拠地に活動しましたが、出自はまるで謎につつまれています。
歴史的に確かなものは、元弘元(1331)年の挙兵から建武3(1336)年の湊川(みなとがわ)での自刃までのわずか6年ほどの間にすぎないのです。

さて、時は元寇から半世紀がたった鎌倉時代末期、すでに幕府の実権は、北条氏の手に握られていました。
度重なる徳政令で幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は政治を顧みず「田楽のほか他事なく」といわれるほど遊興三昧の日々を送っています。
民は重税に苦しみ、世の中も乱れていました。

これを見かねた後醍醐天皇は、元弘元年、三種の神器をもって京都で挙兵します。
これが元弘の乱の始まりです。


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「世の中をなんとかしたい」
民衆への誠実を貫こうとする後醍醐天皇は、幕府に不満をもつ諸国の武将や豪族などに蜂起を呼びかけました。
しかし、世が乱れているとはいえ、まだまだ幕府軍の力は強大です。
倒幕の狼煙をあげた後醍醐天皇のもとに、「義」をもって駆けつけた武将は少数でした。
その中にいたのが、当時37歳の楠木正成です。

ちなみに「義」というのは、羊に我と書きます。
古代において羊は神への捧げものでした。
その羊の代わりにわが命を捧げる。
それが「義」の意味です。

後醍醐天皇は、楠木正成に質問します。
「勝てる見込みはあるか?」

正成は答えました。
「武芸に秀でた関東武士と
 正面から戦っても勝ち目はございません。
 しかし、知謀をもって策略をめぐらせば
 武力をしのぐことができます」
そう言った正成の兵力は、たったの五百余騎です。
これに対し幕府は、数万の大軍を差し向けています。

装備も違いました。
鎧兜に身を包み華麗に重武装した幕府軍に対し、正成軍の将兵はまるで野武士の集まりです。
兜なんてありませんし、上半身が裸の者もいます。

戦が始まりました。
あまりに粗末な正成の山城を見た幕府軍の武将は、
「こんな、にわかづくりの城は、
 片手にのせて放り投げてしまえるではないか。
 1日くらい持ちこたえてもらわぬと
 恩賞に与れまいぞ!」
と声を荒らげました。

正成軍をなめてかかった幕府軍の兵たちは、武功をあせるあまり、我れ先にと山城の斜面を勝手に登り始めたのです。
ところが、兵たちが斜面を登りきろうとしたその時、ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れだしました。
幕府兵の頭上から、大きな石が地響きをあげて転がってきました。
正成はあらかじめ城の石壁を二重にしておいたのです。

戦といえば、1対1で戦うことを名誉としていた鎌倉武士にとって、正成の戦法は思いも及ばなかったに違いありません。
寡兵で大軍を制すための正成の機略でした。
この初戦だけで幕府側は七百名もの兵を失ってしまいます。

そして、楠木正成軍は、上から大木を落としたり、熱湯をかけたり、はたまた熱した糞尿をかける(まさに焼け糞です!)などなど、奇策を駆使して、幕府軍を翻弄し続けました。

やむなく幕府軍は戦法を変え、城を包囲して兵糧攻めに持ち込みます。
こうなると困るのが山城にとどまっている正成軍です。
食糧は二十日分しかありませんでした。
このままでは飢え死にしてしまいます。

そのとき、京で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入ります。
正成は城に火を放ちました。
城は焼け落ち、幕府の武将たちは、正成が炎の中で自刃したと考え、
「敵ながら立派な死に様だった」
と讃えました。

ところが正成たちは生きていました。
裏山の間道(抜け道)を使い、火の勢いを借りて、見事に城を脱出していたのです。
ここまでが有名な「赤坂城の戦い」です。


▼良将は戦わずして勝つ

翌元弘二(1332)年、赤坂城の戦いで焼死したと思われていた楠木正成が、忽然と姿を現しました。
正成軍は河内、和泉の守護を攻め落とし、摂津の天王寺に陣を張り、京に迫ったのです。
「天下の大悪党ここに現る!」
鎌倉幕府は、関東一の弓取りと名高い宇都宮公綱の軍勢五百騎を討伐に差し向けました。
いわば幕府の精鋭部隊です。

前回の戦いに寡兵で勝利した楠木正成には、たくさんの兵が味方についています。
その数二千。
幕府精鋭隊の四倍です。
正成の部下は「夜討ちで一気に叩きましょう」と進言しました。

しかし正成は、この進言を受け入れずこう言い放ちます。
「良将は戦わずして勝つ」
そして正成は、突如、全軍を天王寺から撤退させます。
幕府軍は難なく天王寺を占拠しました。

ところが夜になると、何万もの篝火が天王寺を包囲します。
幕府軍に緊張が走りました。
正成の大軍が、いつ夜襲をかけてくるか分かりません。
そのまま一睡もせずに夜明けを迎えました。
しかし、正成軍が動く気配はありません。
そして次の夜も、そしてまた次の夜も、無数の篝火が天王寺の周囲を取り囲みます。
毎夜、極度の緊張を強いられた幕府軍は、精神的にも肉体的にも追い詰められていき、ついに四日目、天王寺から撤退してしまうのです。

実はこの篝火は、正成が近隣の農民の協力を得て、天王寺を取り巻くように松明に火を点していただけだったのです。
これにより正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利しています。


▼諸葛公を彷彿とさせる天才的戦略家

翌元弘3(1333)年二月、幕府は八万騎の大征伐軍を編成して、正成追討を図ります。
迎え撃つ楠木正成の軍団は、わずか千名です。正成は山奥の千早城に籠城しました。

ここでも正成は、鎧を着せた藁人形を囮にして敵をおびき出し、そこに大石を投げ落としたり、幕府軍が城壁ヘ大橋をかけて渡ろうとしたところに油を注いで火をつけたりして、再び幕府軍を翻弄しました。
幕府軍は正成の奇策の前に小さな山城を落とすことができません。
そして二年前の赤坂城と同様に兵糧攻めが1番と、千早城を取り囲みました。

しかし、正成はあらかじめ用意していた間道を使い、近隣の農民たちと連携して幕府軍の補給路を断ってしまいます。
こうなると困るのは、八万もの大軍をかかえる幕府軍のほうです。
なまじ人数が多いゆえに、たちまち兵糧が底をついてしまいます。

逆に正成軍のほうは、間道から運び込まれる兵糧のおかげで3カ月たっても士気旺盛です。
やがて幕府軍からは撤退する部隊が続出し、結局幕府軍は、千早城を落とせずに撤退することになります。
これが「千早城の戦い」です。

楠木正成の作戦は、幕府の大軍をゲリラ戦に有利な山岳に誘い出して長期戦に持ち込み、「幕府軍恐れるに足らず」と、幕府の弱体ぶりを全国に流布することだったのです。
正成の狙いどおり、数万の大軍を差し向けながら、わずか千名の千早城を落とせなかった幕府の威信は地に落ちました。

そして、これを見た各地の豪族が、次々と蜂起します。
さらに、足利尊氏や新田義貞などの大物豪族たちも幕府に反旗をひるがえし、尊氏が京都守護である6波羅探題を攻め落とすと、そのわずか15日後には、義貞が鎌倉の北条氏を滅ぼします。
こうして鎌倉幕府は、141年の歴史に幕を閉じたのです。

ちなみに楠木正成は、「赤坂城の戦い」「千早城の戦い」で命を落とした人々のため、供養塔(五輪塔)を二基造立しています。
ふたつあるのは、味方と敵、双方の死者を弔ったからです。

しかも、この供養塔には「敵」という文字が使われていません。
代わりに「寄手(攻撃側)塚」という文字を使っています。
味方のほうは「身方塚」です。
そして、「寄手塚」のほうを、「身方塚」よりひとまわり大きくしてあります。

敵味方なく供養したうえ、敵を手厚く弔うところなど、楠木正成が忠義だけでなく、恩情の厚い人物であったことをうかがい知ることができます。
この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。

(明日の「後編」に続く)

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

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