憲法9条の終わりに

1945年の日本の敗戦はそれまでの世界史のどこにもないくらい徹底的なものだった。
8年間をアメリカですごした松岡洋右は「アメリカで長く暮らした私にしかアメリカ人の国民性はわからない。アメリカ人とは一発なぐってから話し合いをして友達になるものだ」と不思議な意見を述べて、そのとおりの外交を行ったが、一発なぐられたほうのアメリカは、殴られたのをよろこんでお友達になるどころか、原爆を落とす予定の都市以外のほとんどの都市を通常爆弾とナパーム爆弾で焦土化して、その上に二発の原爆をおとして、本土上陸作戦の前哨となった沖縄では火炎放射器で洞窟にたてこもる日本軍を甕にはいった泡盛ごと焼き払ってしまった。

日本語世界からは、ちゃんとみえないが、太平洋戦争はアメリカと他の連合国にとっては「正面の敵と戦っているときに後ろから殴りつけてきた卑怯者との戦い」だった。
「正面の敵」はいうまでもなくヒトラーが率いるナチで、チェコスロバキアという工業国を併合したあと、あっというまに富裕な先進国フランスまで手中にしてしまって、実際、工業生産高の合計からいってもアメリカとイギリスの連合くらいではとてもおいつかないほどの軍備を身につけそうでもあった。

「バスに乗り遅れるな」という。
当時の日本で流行った標語で、ドイツがフランスをたたきつぶしイギリスとアメリカに勝ちまくって弱っている隙に、欧州勢がアジアにもっている財産をいそいでぶんどらないと損だ、という意味です。

他の当時の欧州指導者の大半と同じく、ヒトラーはアジアの権益に興味をもっていなかった。
「どうでもいい」というのがホンネだったでしょう。
期待があったとしても日本がロシア人の最新機甲師団のうち数個師団でも極東にひきとめておいてくれれば助かる、という程度の期待だったと思うが、日本陸軍中最強であったはずの関東軍がノモンハンで1939年にソ連の機甲師団に救いようのないほどのボロ負け(日本語の歴史では健闘して引き分けたことになっている)をした結果、スターリンはジューコフ麾下の精鋭機甲師団群を極東においておく必要性を認めなかった。
全部、「祖国戦争」、すなわち対ドイツ戦争に軍事リソースを振り向けてしまいます。
それでもヒトラーはアフリカ戦線のイタリア軍に対する半分ほどもがっかりしたり、怒ったりした形跡はなくて、初めから日本軍には何も期待していなかったのがみてとれる。「アジア人」(この場合はロシア人も含んでいる)全体に対する、とりつく島もないようなヒトラーの軽蔑を考えれば、あたりまえといえばあたりまえなのかもしれません。

イギリスで、じーちゃんたちの話を聞いていて、へえ、と思うのは、日本から派遣されてくる陸海軍の将校は「女の世話」を要求するひとが多いので有名で、例の「当国では、女びとの愛情は恋愛によって得ることになっておりますので、なにとぞご了解ください」と返答したという、よく知られた、ほんまかいなという逸話を初めとして、日本軍将校たちの「女を世話してくれ」の要求に悩まされたという話は、英語の回顧談のあちこちに散見される。
ナチ・ドイツは、あたりまえのように、日本から派遣されてくる軍人たちに娼婦を「なんとか令嬢」「なんとか夫人」ということにしてあてがっていたようで、売春婦を提供することを拒否したイギリス側の態度をほぼ例外なく「人種差別」と受け取った日本人将校達のあいだでは「ドイツはいい」というのが陸海軍を問わず評判になってゆく。

そうやってドイツが獲得していった日本軍人間のドイツ贔屓の「世評」にくわえて、フランスが負けたせいで目の前にぶらさがった「盗んでも怒る人のない果実」であったインドシナ、ドイツ軍に決定的におしまくられて周りの植民地から完全に孤立している連合王国のもつ広大なインド=マレーシア、あるいは国そのものが消滅したようなオランダがもっていたインドネシアを目の前にして、火事場泥棒というか、あわてて力の空白だった地域を抑えにかかったのが日本の「太平洋戦争」だった。

ダグラス・マッカーサーのような太平洋地域の司令官は補充もなにもまともに行われないアジアにいて、「欧州戦線がすべて」で、太平洋戦線を露骨に「三流戦線」扱いするアメリカ政府に、自分を三流に扱う心根を感じて怒り心頭であったし、軍人事務屋の頂点としてシンガポールの極東軍総指揮官に任命されたアーサー・パーシバルに至ってはまともな戦力はないも同然で、兵士の訓練度はゼロに近く、兵器の質にしても、たとえば戦闘機で言えば、ブリュースター・バッファローという、複葉戦闘機と戦っても負けそうなとんでもない代物が主力だった。

ウインストン・チャーチルがいったん日本が参戦した場合、シンガポールの陥落を予期していたことは、ほぼ間違いない。
口にするわけにはいかないので黙っていただけです。
プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを派遣して負けたときの国民への言い訳にする一方で、対ドイツの国防に必要なものはいっさいシンガポールへは送らず、極東方面への兵力補充は輸送船団が北海で死闘を繰り返しながら行っていたロシアへの増援よりも優先度順位が低かった。

日本語の世界で語られる太平洋戦争が「日本民族の英雄的な叙事詩」であるのは当然だが、日本語以外の、たとえば英語で語られる太平洋戦争は、常にドイツとの戦況にからめて解説される。
わし自身も日本がそのときどきにどのくらいやれたかは「ドイツと連合国の戦況次第」だったのだと思っています。
そんなことをあんまり詳しく書いても仕方がないので、書かないが、1930年代と40年代の日本軍についての印象は、日露戦争を戦った日本軍と較べると「びっくりするほど弱い軍隊」で、具体的には戦力としての「衝撃力」が小さいので、特に陸戦においては相手を屈服させる力がまったくなかった。
衝撃力、というのがわかりにくければ、もっと衝撃力の範囲をせばめて「火力」と言い直してもいいかもしれません。

1900年代初頭、日本の軍隊が強いことは、常に事前の見積もりがあまいアメリカはともかく、欧州の軍人はみな知っていた。
言うまでもなく日露戦争の詳細なレポートが行き渡っていたからで、国力は貧弱なのに軍隊だけは強力で、国ごと巨大な暴力の国と意識されていた。

ところが1937年に始まった日中戦争では(日本では点と線は確保したが面としての中国は広大で…というもっともらしいだけで、戦争をする前から中国にも地図があったのを知らなかったような説明がされているが)欧州から見て「弱い」と思われていた中国軍よりも更に弱いのが明らかになって、各国の武官達に「へえ」と思わせた。

余計なことを書いておくと、日本にいるあいだじゅう、わしは過去の雑誌、週刊朝日、少年サンデー、平凡パンチ、主婦の友、ミセス….を蒐集するのが趣味で集めてまわったが、ついでに自費出版の本もかなりの数を蒐集した。
だいたいにおいて、読むのが苦痛になるような「自分史」が多かったが、なかには、たとえば戦後国民党軍にくわわって対中国共産党の戦いを戦ったひとの台湾への撤退記やインドネシアで独立運動に加わったひとの手記のような記録もあった。
そういう自費出版のうち、意外だったのは、なかにはロシア戦に始まって、中国、イギリス、オランダ、オーストラリア、アメリカと相手を変えつづけながら通信兵として戦った、というような数奇の運命のひともいて、そのひとの書いたものを読むと「なんといっても中国兵が勇敢で最強だった」と書いてあることだった。
「自分の死を省みない」という点では中国国民党兵は日本兵にまさった、と書いてあって、その頃は日本兵についてまるで異なる印象をもっていたわしは、ぶっくらこいてしまったものだった。

だから実際に中国兵が通常信ぜられているよりずっと強かった可能性もなくはないが、しかし、欧州勢が驚いたのは日本軍の「衝撃力のなさ」だったと思います。
戦局を決定するだけの火力がないせいで、いつまでもいつまでもだらだらと戦争をしているだけである、と欧州勢は観察した。
これは、とてもではないが近代戦を戦える軍隊ではないな、とおもったでしょう。
当時の本を読むと、「第一次世界大戦に参加しなかったからだろう」という推測がもっとも多くて、わし自身も、第一次世界大戦にごく小規模な戦闘をのぞいて参加しなかったことが日本の軍隊を決定的に「時代遅れ」のものにしたのだと、いまは思っている。

もうひとつ、この時期(1930-40年代)の日本軍に特徴的なことは軍紀の弛緩で、南京に入城した松井石根がたるみきった軍紀に不安を感じて「諸君は皇軍の名を汚してはならぬ」と将校・兵士を集めて演説したら聴いていた兵士達がいっせいに笑い出したという。
それも兵士のみならず若い将校たちに至るまで嘲りの笑いを隠さなかったので、傍でみていたひとびとはびっくりしたようです。

「星の数よりメンコの数」という言葉は一面では当時の軍隊の有様をよく表していて、上官というものはそれほど敬意を払われなかった。
特に新任の将校などはまったく言う事を聞いてもらえず、突撃と言えば、おまえが行け、と後ろから声がし、戦況不利となると、具合がわるいので後方の病院に下がらせてくれ、という下士官がでたりした。
もっと後の南方戦線では、ジャングルが多い事をいいことに「道に迷って会合できなかった」という理由をつくって、戦闘が終わるまでジャングルの安全なところに隠れている小隊がいくつもあらわれる。インパール作戦になると中隊ごと戦闘を「さぼる」部隊まで出てきてしまう。

よく考えてみると日本の軍隊が欧州人の目を見張らせるほど強かったのは立見尚文のような正規の軍人教育を受けなかった将校たちが幅を利かせていたころまでで、欧州のコピーでつくった士官学校と海軍兵学校の出身者で指揮官を固めるようになったあとは、役人根性むきだし、というか、あとの霞ヶ関の上級試験と同じで士官学校の入校時の成績が退役するまでものを言う軍隊というガッチンガッチンの官僚組織のなかで縄張り争いや繁文縟礼の言い合いに勝った「要領のよい」ものだけが生き残ってゆく「近代化された軍隊」になってからは、他国に聞こえるほど役人根性がしみついた軍隊になって、
日本のひとがいま考えるよりはずっと弱い軍隊だったように見えます。

http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/

国家的理想の観点から憲法第9条を改正するかどうかに懸命に集中して考えるのは大事なことだが、いざ第9条が改正されたときに、どういう軍隊になるかを十分考えないで「国防軍」が出来てしまうと、「国防軍」が暴走して侵略軍になりかねない、というのは、アジア人全体の憂慮であると思う。
中国が無茶苦茶ばかりしていて、アメリカも欧州もさしてマジメにアジアのことを考えているわけではないのが明かなので、アジアのあちこちで、中国様に対抗できるのは日本くらいのものかなあーと思っているひとがいくらもいるのを、わしはよく知っている。
わしに言うのは平気でも、日本人に面と向かっていうと、軍服を着たいばりくさったマヌケな日本人が統治者になって、兵隊たちがまた夜中に家に突然やってきて、奥さんや娘さんを強姦しに来そうな気がするからです。

1945年にずたずたにされた国民としてのプライドを守る為に、戦後の日本人は、たとえば「少年サンデー」の巻頭ページ、というようなものを使って、当時の子供を相手に、「日本軍はアジアのために立派に戦った。負けたのはやむをえぬ物量の差であった」と懸命に語って聴かせた。
巻頭図解でなくても、むかしの人気漫画をみると「大空のちかい」「ゼロ戦レッド」「紫電改のタカ」…無数、といいたくなるほどの「戦争マンガ」があって、さらには貸本マンガ(40年代-60年初頭)というところまで遡ると、こちらに至ってはもう殆どが「日本が悪かったわけではない」という「大東亜戦争」肯定のマンガの洪水で、水木しげるのようなひとまで何十という戦記マンガを描いている。

そういうマンガや、あちこちで「少年向け」に書かれた戦争中の物語は、ちょうど司馬遼太郎が発明した幕末や明治がほんものの歴史に姿を変えていまの日本を闊歩している
http://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/13/坂の上の雲_「明治時代」は存在したか?/
ように、日本人の「記憶」となり、英語人が聞いたら死ぬほどびっくりすると思うが「日本は白人の人種差別に抵抗して戦争を戦ったのだ」という主張を信奉している日本のひとは意外なくらいたくさんいる。

戦後、日本に生まれた子供たちが誇りを失わないで生きてゆかれるようにという元敗残兵たちの切実な祈りをもって書かれた物語やマンガが、クスリが効きすぎた、というか、歴史的事実のほうをぬぐいさってしまって、「ほんとうは日本が正しかったのだ」と説明されだしているいまの時代に、「国防軍」が出来てしまうのは、こわいかなあー、と、つい考えてしまうのです。

11/December/2012

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魚が釣れない午後

ニュージーランドでは27センチ以下の鯛は釣れても海に戻してやらなければならないことになっている。
小さい鯛が釣れてしまうと、「きみは、日本で釣られていたら鯛飯にされていたのがわかっておるのか、もっと立派になるまで二度と釣り針にかからないよーに」と説諭して海に帰す。
「サビキ」を使うとどうかするといっぺんに3匹も4匹も釣られてしまうので、しみじみ「27センチ以下の鯛がこの餌を食べるのを禁止する」というサインを針の近くにつけておけばどーだろーか、とモニと話し合う。

鏡のように凪いだ海を小さなパワーボートで30キロくらいしか離れていないところにでかけて、錨をおろして、モニとふたりで日光浴をかねて釣りをするのは楽しい。
モニは眠るのが大好きなので、つばの広い帽子を顔の上にのっけてすぐに眠ってしまう。
仕方がないのでモニの釣り竿も監視しながら、ぼんやり海をみつめている。
通常はオークランドの海は、よく判らない理由によって、餌をつけなくても、真鯛や鰺のような魚はいくらでも釣れる。
でも、潮目に関係があるのでしょう、ときどき、2、3時間もソナーにたくさん魚が映っているのにまったく釣れなくなってしまうことがあります。
そーゆーときは、モニを起こすのも嫌なのでひとりで、ぼんやり海をみている。
中身を食べてしまってからテーブルの上で展げてみたチョコレートの銀紙のような海面に午後の太陽が乱反射して、なんだか現実でないような美しさであると思う。

おおきなボートとは違って小さいほうのボートででるときには、片道50キロもいかないのが殆どなので、3Gの圏内で、キンドルで面白そうな本をダウンロードして読んでいることもある(^^)
でも、たいていは、なあーんにもしないで、魚がかからないときには30分に1回くらいしかかからない魚の相手をするほか、ただもうぼんやりと空を眺めたり、クーラー(10mくらいまでの小さな船はバッテリーの容量の都合でだいたいエアコンや冷蔵庫はつけない)の氷のなかから取り出した白ワインを開けて飲みながら、モニと付き合いだしたばかりの頃のことや、子供のときに妹やデブPたちと一緒にツリーハウスで世界を救済する計画を練って、小川で二隻の縦列艦隊をつくって近隣に潜んでいると思われる悪の組織に見張りの眼を光らせたりしていた果てしのないガキわし時代、いまは麻薬戦争で行けなくなっているが大好きだったメキシコの内陸の小さな町や村、
http://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/メキシコのねーちゃん/
(リンクは自分で書いたブログ記事なので昔から読んでいる人は押さないよーに。日付が1970年になっているのはアカウントを閉鎖したときに記事がどっかにぶっとんでしまって年月がデタラメになったせいでごんす)
なかんずく、まだ神様がとどまっていそうな風情の教会の公園に鋭い目をした子供たちが屯していて、
「写真を撮ってもいいかい?」と聞くと、
「絶対ダメだ」と鋭く言い放つ、いま考えてみれば、なんのことはない、もうすでに麻薬に染め抜かれた区域だった町のことを思い出したりする。

メキシコとならんで「特別な外国」だった日本のこともよく思い出します。
遠い国をおもいだすときというのは面白いもので、そこに滞在していたときに面白いと思っていたものは脳髄にたいした印象を残していなくて、思いがけない断片、氷に包まれた別荘地の道に忽然とたっていた鹿の姿や、トンネルを抜けた途端に、いちめんに広がる稲田を埋め尽くす黄金色の「はさ」、あるいは午後に鎌倉の家で眼がさめて、二日酔いで朝比奈の切り通しを歩いて、ふと見上げると覆い被さるように建っていた(いま絶対鎧を着たおっちゃんがクビをひっこめたのが見えたよーな)中世の砦のあと、池子の弾薬庫の縁の丘を散歩してみつけた旧海軍の標識、ポール・ジャクレーの家の石標、
http://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/
(このリンクも前と同じく自分のブログ記事なので注意も前に同じ)
そんなことばかりおぼえている。
義理叔父はいまはなくなった浄明寺の鮨屋に行くのに西脇順三郎が戦争中に「学問もやれず絵も描けず」と呟きながら歩いた切り通しを通ってでかけて、帰りは「出るに決まっている」ので、くるまの通行が激しい県道を通って帰ったものだった、というが、その「出るに決まっている自然石のトンネル」で夜中まで幽霊が大好きなイギリスからやってきた友達と酒を飲んですごしたりした。

福島第一事故があったから日本に行けないのではなくて、政府が事故によって日本中にばらまかれた危険を認めないから日本に行けないのだと思う。
日本に偵察にでかけた義理叔父や海外に住む日本人の友達たちから聞いたことを考えると、なぜ日本の政府は「放射性物質が危険だと思い込んでいる」国民のために産地を県別から市町村別にしたり、サイトを使って製品の流通経路を明らかにしたりしないのか、ぼくにはよく判らない。
放射性物質を危険だと思う自分の国の国民がいて、一方では、それを「こうだから絶対に安全だ」と証明できない非力な科学の現実がある。
「消せない火」であることで有名な原子力は、同時に人体へ与える影響が皆目わからない物質を原料とする「火」でもある。
事故のあと、「わかっている」と言い張る「学者」が日本ではたくさん出たが、そんなことは多少でも学問の常識が存在する大学ではありえない強弁でしかない。
それを強弁と呼ぶしかない理由は簡単で「明瞭に科学的にわかっている」などとは、単なるウソにしか過ぎないからである。

安全が証明できないのならば、なぜせめて、放射性物質を危険であると思う国民のひとりひとりが余分なコストを自分で負う形でもいいから、「自分で判断して危険でない食品を選択する」ためのチャンスを与えないのだろう。
県別表示を町村別表示に変えるどころか、「国産」表示に変えるという聞いていて吹きだしてしまいそうなマンガ的な露骨さも、それが個々の人間に自分の生命を大事にさせないための工夫であることに思い当たると、大笑いしかけた顔が凍りついてしまう。

「あの遠い国と同じ海でつながっている」というのは安物のロマン主義の常套句だが、無数の瓦礫が漂着するカナダの太平洋岸の人間たちは、おもいがけないなりゆきで「同じ海でつながっている」現実を考えなければならなくなってしまった。
太平洋戦争中に蒟蒻糊で紙を貼り付けてつくったしょぼい風船にくくりつけられた爆弾がオレゴンまで飛んで6人の人間を殺したのに、福島から放射性物質がとんでくる心配はしなくてもよいというあなたの根拠はなにか、とインターネット上で、「あなたは距離というものが判っていない」と述べた水力発電コンサルタントにかみついているアメリカ人の主婦のひとがいて、ほんとだよなー、と考えたが、世界中で原発擁護の記事を書いている人に多い職業である「元水力発電コンサルタント」の肩書きを無視して考えても、「科学に知識がない」主婦の直感のほうが正しそうに思われる。

人間には、ごく基本的な権利として、自分の判断で健康で病気にならない生活を選択する自由があると思うが、日本では、それは贅沢な望みにすぎないことを政府は簡単に白状してしまった。
日本人に生まれるということは日本という「全体」の国益に資する「部分」として国益に生みこまれることであって、日本人である限り、それ以外の人生はない、ということを日本政府はこれ以上ない明瞭さで提示してしまった。

日本の政府に欠落しているのは個々の国民に対する想像力で、これだけ露骨に「日本には個人の幸福を考える意思はまったくない」と言葉にして表明しておいて、個々の国民、特に若い人間が絶望しないと考えるのは、はっきりした想像力の欠如であると思う。
どこの国の政府も実務家を中心に「国民は愚かだ」と考える傾向をもつが、日本ははっきりと、どれほど国家に対して好意的な人間でも幻想をもてないほど明瞭に政府が国民を生きた愚昧としてしか認識していないことを示して、「個人の幸福」を否定してしまった。

日本の政府は、いわば、「国」というものを腐らせる中心に腐食をすすめる種子を植え付けてしまったのだと思う。
国というものを腐らせる中心、という表現がわかりにくくて「愛国心」と言い換えたければ言い換えてもよいかもしれない。

日本がここに至るまでには、たとえば知識人や芸術家たちの長い長い期間に及ぶびっくりするほどの無責任・無節操や、「ほんとうのことは別のところにあるが、言葉にするときは、こういうふうに言うものだ」という「タテマエ」という名前の集団的ウソの伝統があった。
言葉を現実からはぎとり、作家は「面白い物語」を書くことを誇り、なぜ自分が書く物語が社会を反映して破綻しないかを訝しくおもわない文学者の鈍感の伝統があった。
際限もなく続いて数え上げていける、たくさんの理由があるが、
その最大のものは言葉というものの恐ろしさを社会全体が理解できなかったことだろう。
言葉が現実から剥離してしまうと、すなわち、自分たちが盲いて、耳が聞こえなくなり、声がでなくなるのだ、という単純な事実に気が付かなかった。
いまの日本の姿は、影が自分の体についてきてくれなくなって途方にくれるピーター・パンに最も似ていると思う。

夕方が近付いて風が吹き出すとモニが眼を覚ます。
だいたいそれと時を同じくして魚…鯛、シマアジ、鰺…がびっくりするほど釣れだす。30分ほどでクーラーがみるみるうちにいっぱいになる。
ニュージーランド人が普通たべない鰺に眼をつけてレシピを研究したのは、「そろそろ30歳なのだから、健康のために魚を食べるように」という健康コンサルタントのおばちゃんの意見にしたがって始めた新事業だが、食べてみると取り立ての鰺は「食用に適さない」という図鑑の記述とは異なって、押し鮨やその日のうちに料理するフライや「シオヤキ」は不味くはない。
鮨屋でモニとふたりで二日間に亘って受講した「ガイジン向け鮨クラス」も役に立っている。アメリカ人のおばちゃんが話をしながら、身振り手振り、刺身包丁をふりまわすので、あの1回だけで「鮨クラス」は終わってしまったそうだが(^^) 

ふたりで船上でシャンパンを開けて、のんびりしてから暮れなずむ海を港に帰る。
夕陽で真っ赤に染まった海面を時速30ノットで辷るようにして戻る。
桟橋に着くと他の「海のひとびと」と冗談を言い合って、ときどきは近海の情報を交換する。
あの浜辺の沖は、夜、停泊すると夜光虫が綺麗なんだよ。
あそこは浅瀬に船を泊めて買い物にに行きやすいが、よく船泥棒が出るので注意が必要だ。
あのチャネルにはイルカがよく出るのさ。それを狙ってシャチの群れも来る。

…そうしているうちに、多分、ただこのブログ記事を書いているという理由だけで続いている「日本」の影が頭からするっととれてしまって、また日本語でものを考えるまでは、すっかりどこかに行ってしまう。
こういう習慣は、なんだかヘンだ、と自分でも思うが、なぜ日本語にこれほどこだわりをもったのか自分で理解できるように所まで、どうしても、その場所まで行けないものだろうか、と考える。

その、静まりかえった沈黙と巨大な悲惨がたたずんでいる場所へ。

05/December/2012

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初心者のためのラスベガスガイド

Macy GrayとSealのコンサートへ行った。
前座のMacy GrayがおめあてでSealはつけたしです。
Pearl というコンサート・シアターはThe Palmsというラスベガスの「ザ・ストリップ」からはおおきく外れたところにあるホテルで、初めて行くホテルだった。
運転手おっちゃんに、「ここに泊まると、遊ぶのに大変だのお。どういうひとが泊まるんだろう?宿泊費が安いのかな」と訊くと、大声で笑って
「若いひとが多いんでさ。考えもなしに泊まるところを決めてしまう、若くてアホなひと」という。
宿泊費も同じなのだそーである。

Macy Grayは相変わらずサイコーで、あのやる気のなさそーな態度から歌い出すと、たくさんのひとを泣かせてしまう。
カバーでEurythmicsの Sweet Dreamsを歌ったが、なにしろ前座なのでMacy Grayの名前もしらない人でがやがやしていたのがしぃーんとなってしまうくらいよかった。
Macy Grayの歌のうまさは普通ではない。
モニもわしも特別な席でなくて、Sealになればダンスフロア化するのがわかりきっている前列は避けて(Sealなんかで踊るとうらぶれた気持ちになるであろう)そのすぐうしろの舞台からの中心線に近いボックスの席を買った。
StubHub
http://en.wikipedia.org/wiki/StubHub
で買った切符で、誰かが買った切符の転売なので切符の名前がモニとわしの名前ではないが、アメリカでは普通のことです。

開演まで30分くらいあったので、モニはシャドネ、わしはウイスキー・ソーダを飲みながら、まわりのひととのんびり話して待った。
両隣は地元のラスベガスのひとで片方のカップルはもう22年ラスベガスに住んでいる。
「ファイナンシャルコンサルタント」だが、いまはトラックの運転手やいろいろな仕事をやって凌いでいる。
いまは誰にとってもたいへんなときですのい、というと、その通り、でもアメリカは希望の国だから、なんとかなると思ってる、という。
(あたりまえだが)堂々としています。
必ずなんとかなる、と信じられるところがアメリカの良いところで、40代らしいそのひとは決してそう思い込もうとしているわけではなくて、実際に、いちどはうまくいかなくなったが頑張れば成功できる、と考えている。
努力して「がんばれば」、そのうちに成功するだろうと信じている。
どんな時代でもアメリカという社会の強みはそこにあったが、いまも変わらないよーである。

よく中年をすぎて「人生おわりだあ」というひとにあうと例としてもちだすが、マクドナルド創業者のレイ・クロックが「マクドナルドシステム」を設立したのは52歳のときだった。
カフェとペトロルステーションのおやじだったサンダースじいさんがフランチャイズビジネスを始めるのは62歳のときである。
地面を踏みしめた二本の足を踏ん張って、固く握りしめた両手の拳で世界と正面から向き合って戦って勝とうとするのは、いまではピューリタンの伝統であるより「アメリカ」の伝統であるだろう。

斜め前(眼の前の席ふたつは空席)のカップルはロス・アンジェルスから遊びにきている。
最近のコンサートでは写真を撮っても怒られないことになっている(撮ってはいけない場合はアナウンスがあります)ので、おばちゃんはサムソンのS3でとりわけSealの写真を撮り狂っていたが、そのS3のケースが鰐皮のケバイケースだったので、どこで買ったか訊いてみるとS3のケースはどこにでもいろんなの売ってるわよ、と不思議そうに訊き返された。
ニュージーランドでお籠もりさんをしているうちに、すっかり田舎人になってしまっておるよーだ(^^)

コンサートが終わってからモニとふたりでバーで少しだけ酒を飲んだが、土曜日のカシノはチョーうるさいので、クルマを呼んで、まだ12時になったばかりだったがアパートに帰ってきた。
乾いた熱風が気持ちのよい深夜のテラスで、ふたりでコクテルをのんで3時頃まで話しました。

そろそろラスベガスも飽きてきたので移動しようと思うが、ラスベガスで遊んでいるうちにオレンジカウンティの友達とやろうと思っていた凍死についての考えが変わってしまった。簡単に言えば、やる気がなくなってしまったので、それならばいちどニュージーランドにもどればどうかとモニが提案しておる。
家のまわりのフェンスを直す手配をするのに自分でも見ておきたいし、庭をつくりなおしているのも見ておきたい。
そーですか。
ほんじゃ、いちど帰るべかしら、と思う。

そうなると明日でもあさってでも、いつ帰るかわからないが、ラスベガスはこの前のブログ記事でも書いたように主にMGMグループの大戦略によっておおきく変わったので、忘れないうちに書き留めておきたいことがある。

むかしjosicoはんがバルセロナに行ったときに、わしの大事なお友達であるjosicoはんのためにバルセロナガイドを書いたことがあったが、それに近いものになればよいと思う。

わしはどこかへでかけゆくときガイドブックを読む習慣をもたないが、子供の時からなんべんも行ったことがあるところばかり行く、という理由のほかに、ガイドブックを読んででかければ、そのガイドブックを読んだ他の人がそこにたくさん来ている、という単純な事実のせいもある。
中国の人気ガイドブックに書いてある店は中国からの観光客であふれているし、日本のガイドブックに出ているらしき店は日本のひとばかりでごったがえしている。
これを逆手にとって、たとえば旅先でのロシア人の挙動を観察したい場合にはロシアのガイドブックを手に入れる、という方法がありそーな気もするが、やってみたことがないので有効な方法かどうかわかりません(^^)

初めてラスベガスに行くとすると、ラスベガスはもともと短期滞在客用に設計されているので、「The Strip」のなかのどれかのホテルに泊まるのがよい。
夏ならば華氏100度(摂氏38度)を軽くこえるのでコンサートがあったThe Palmsのようなホテルに泊まるとでかけたり戻ってくるたびにタクシー待ちの大行列に並ばなくてはならなくてたいへんであると予想される。
毎度リムジンを手配しておく、という手もあるが、これには英語が十分に話せる、という条件がいります。アメリカに限らず一回借りのリムジンはちょーえーかげんなので、いろいろ取り決めておく必要がある。
「多少の英語」では間にあわないのではないかと思われる。
このブログ記事を書くために訊いておくべ、と訊いてみたところではあとで述べる「MGM要塞」までタクシーで20ドル、リムジンで40ドルだそーでした。
わしはどーしているかというとニヒヒ人なので、着いた日から同じストレッチリモを二台借りっぱなしである。
費用はここに書くのをはばかる。

初めてでも英語が不自由なく話せる、という場合は短期でもアパートという手がある。
ラスベガス地元人推奨の滞在方法でもあります。
だいたい80平方メートルから100平方メートルというようなホテルの部屋に較べれば遙かに広い2ベッドルームが中心でホテルの室料とあまり変わらない。
前に中国系人に教えたら「アジア人が全然いないので気後れする。落ち着かない」と述べていたが、気にしなければいいだけのことである。
MGMシグネチャというようなアパートメントなら、アパートメントから始まってMGM、http://www.mgmgrand.com/
ニューヨーク・ニューヨーク、
http://www.newyorknewyork.com/

エクスカリバー、
http://www.excalibur.com/?CMP=KNC-Google-Excalibur_Corp

ラクサー、
http://www.luxor.com/

マンダレイ・ベイ
http://mandalaybay.com/

と全部「動く歩道」のある屋内移動路(いちぶ屋外あり)でつながっていて、夏に散歩しても熱中症で死ななくてもすむ。
おもしろがって、歩数計をポケットにいれてモニとふたりでマンダレイベイからMGMまで屋内だけを通って散歩してみたらみっつあるシグネチャの端っこの棟まで行って帰ってきて15000歩であった。

日本で有名なカシノ・ホテルの
バラージョ
http://www.bellagio.com/
やシーザースパレスは
http://www.caesarspalace.com/casinos/caesars-palace/hotel-casino/property-home.shtml?

「ザ・ストリップ」のずっと北のほうにあって、前者は噴水のショーと高級ぽいレストラン(ドレスコードがありまんねん)、後者はマジなギャンブリングで有名だが、アトラクションで有名な
Treasure Island
http://www.treasureisland.com/

The Mirage
http://www.mirage.com/

を含めた北のほうのホテルは、それぞれ孤立していて歩いてはカシノ間を移動しにくいので、冬に散歩をかねていくか(^^) 何度かでかけてラスベガスに行き慣れてからのほうがよいような気がする。
ついでに書いておくとラスベガス人は誰に訊いても「ラスベガスに来るなら3月が最もよい」という。
アホが少ない。気候が心地よい、そのひとによって挙げる理由は違うが「3月がもっともよい」という点だけは一致しているのが玄妙である。

ラスベガスは1993年くらいから賭博と売春の町から脱皮を目指して町の改革をつづけてきて、実際家族連れが多い。
とはいうもののラスベガスはラスベガスなので、
わしがいまいるアパートメントは全館禁煙・賭博禁止というへんなアパートメントだが、
普通のホテルはいまでもどこにでも灰皿があって喫煙もできれば、朝から酒をのんでいるひとがおおぜいいます。
昨日もアパートメントの通路のドアで、午後1時、立ちふさがるようにしてスーパーモデル風ねーちんがふたりで、ドアをおもいきり押して「開かない!」と叫んでいて、
鍵がないとあかないんだわ!鍵!鍵!とゆっているので、
わしがちょっとどいてね、とゆって、引いて開けると、
まあ、魔法使いなのね、あなた!素敵だわ!
と感嘆していたが、要するに、ふたりともひるまっからデースイしているのです。

と、書いていこうと思ったが、きりがない。
博打はいまはポーキーズ(スロットマシン)が全盛で、いまみると償還率は1¢マシンで88% 5¢マシンで89.8% 25¢マシン・90.7% $1マシン 93.5% $5マシン 94.3%
$25マシンが 96.8% Megabucksで85.3%
だと書いてある。
不思議に思うひとがあると気の毒なので書いておくと、何に書いてあるかというと
ラスベガスのそこいらじゅうに転がっている「Casino Player」という雑誌に書いてあるのです。

わしは賭博という悪徳が好きなのでブラックジャックのテーブルの上でオカネを増やしたりなくしたりするが、ほんとうはラスベガスに短期滞在して賭博をすると賭博だけの旅行になってしまうので、よくないのではないか、と思う。
そこいらじゅうでやっているショーを観て、最近はラスベガス全体がそれを売り物にしている「シグネチャレストラン」(有名シェフの名前が売り物のレストラン)で食事をして、バーで酒を飲んで遊ぶくらいがよい。
やはりこれも行ってみるとアジア系のひとはゼロに近いので、日本語ブログ記事に書くのはどうだんべ、と考えたが、
若い人はクラビングに行くとよい。
ラスベガスには、アメリカでずっと流行していて(とゆっても流行の終わりだが)、そのうちに日本にも流行がやってくるに違いない「Wet Club」もいくつかあります。
週末にジェット機に乗って、踊り狂いにくる、あるいは見知らぬ相手とイッパツやりにくる若いにーちゃんやねーちゃんで溢れている。

具体的な場所はおしえてあげないが、砂漠の、誰もいない夜中の丘のうえからラスベガスを一望にできる自然の見晴らし台のような場所がある。
おしえてあげない、最もおおきな理由は、ぜんぜん安全ではないどころか無茶苦茶危ない場所だからで、到底他人にすすめることはできないが、賭博にまけて、くたびれた頭で、ぼんやりラスベガスの輝くネオンの海(なにしろラスベガスではマクドナルドの「M」までネオンで点滅している)を眺めていると、自然と「オカネというのは自分の一生にとってなんであるか」
「物質的繁栄とは人間にとってどんな意味があるか」ということを考える。
そうすると、なんだか面白い気がしてきて、もうしばらく人間として過ごすのも、そんなに悪い考えではないだろう、という気がしてきます。
全体としてはおおきな「歓楽」にすぎなくても、よく眼をこらしてみれば、そんなに裕福ではなさそうな男が積み上げた100ドルチップの山が、あっというまに減っていくのを酒を何杯も飲んでアルコールの力でカネを急速に失う痛みに耐えていたり、絵札をふたつテーブルの上にもつ中年の女びとがディーラーの前に4枚のカードでつくられた21を見て、耐えかねるように手のひらのなかのチップの山をテーブルに小さく叩きつけていたり、実際、週末の夜中になると、ミニマム25ドルのテーブルが多くなって、あのくらいの賭け方だと、5000ドルくらいは負けると思われる。
それがブラックジャックプレーヤーの常で平静を装っていても、みていて、ショックを受けて、いまにも崩れ落ちそうになる心を必死で支えてテーブルの前に座っているのがみてとれる。
あるいは、よくラスベガスのおっちゃんたちが冗談に「最近、売春婦がいなくなったのでなくて、普通の女の子が売春婦そっくりの恰好で町に出てくるようになったから区別がつかねーだけだ」とゆって、がはは、と笑うが、夜にいちど部屋にもどって、ぐっと濃くした化粧と脚をおもいきりみせつける短いスカートにstilettoで、若い女びとたちが真夜中の頃になるとくりだしてくる。
ラスベガスは犯罪発生率は低くても、主に中西部の田舎からやってきた「XXの花」や「○○の夜明け」ちゅうような、その町で男たちに恋い焦がれられた若い女びとが、物語にするのも憚られるほど退屈でお決まりの転落を遂げるので有名な町なのでもある。

MGMを中心としたラスベガス開発の企業家たちが1993年から目指してきた「ラスベガスの大衆化・健全ワンダーランド化」は功を奏して、いまの「明るい、健康的で、少しだけ悪徳の香りがする」ラスベガスのイメージはアメリカ人のあいだに定着してきたが、
人間に欲望がある以上、ラスベガスはやはり本質的には物質社会の強者であるお金持ちの町で、そうやって考えてみれば、なんのことはない普段の世の中と同じで、お金持ちたちだけが思考を停止させて楽しみ、普通の人間にとっては破滅の陥穽にみちた、それでいて表面だけは平穏な「悪魔の遊園地」と呼びたくなるような場所にしかすぎないのかもしれません。

4/August/2012

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ラスベガス

ラスベガスから「悪徳の町」の最後の名残、売春婦たちの姿が通りから消えたのは2年前のことだった。
テーブルにチップが積み上がるといつのまにか傍らにやってきて耳の中にあつい息をともに不思議な言葉を囁いたり、はなはだしきに至っては物陰にひっぱっていかれて、何事かだとおもってついていくといきなり跪いてジッパーを開け始める売春婦達の姿はこの町の名物だったが、2年前の大クリーンアップで通りからもカシノからも姿を消してしまった。

わしは大学生のとき、この町の19歳の売春婦のねーちゃんと一緒にカシノのカウチに座って、肩をならべて、くっくっとお互いの冗談に息を苦しくしながら、それぞれが認識している宇宙についての意見を述べ合ったことがある。
いちばん嫌なのはデブおやじよ。だって、なかなかいかなくて重いんだもん。
豚のおばけみたいな尻に手をまわしてくれと言って、ハニーハニー、って薄気味悪いったらありゃしない。
日本人や韓国人はいい。とてもいいお客さんよ。こわくないし。
あれが小さくて、すぐに終わってくれる。
淡泊なんだよね、あのひとたち。
なに言ってるかよくわかんない人ばっかしだけど、礼儀正しくて、いいひとたちなんだと思う。
ねえ、今度、一緒にEvanescenceのコンサート行かない?
この町にくるんだって。
それとも、もうすぐ、あなたは帰ってしまうの?
あなたみたいな人は、ずっとこの町にいればいいのに。

売春がなくなったわけではなくて、それより安くても高くても「おかしい」という、一時間200ドルから1300ドルの範囲で何万人という数の女びとが、働く身になってみれば世の中でも最も不愉快であるに決まっている重労働に従っているのだという(バーテンダー談)
いまでは電話をかけて教えられたサイトの写真から誰を買うか選ぶ方法や、いろいろな方法があるそーです。

ポーキーズ、と英語では言う。スロットマシンやポーカーマシンが洪水のように広がって、一晩で5万ドルすって顔を真っ赤にしてテーブルを拳でたたく赤ら顔の中年男に代わって背をのばしたまま膝の上にハンドバッグを置いて、何回もATMと機械との間を往復して静かに3000ドルをする主婦がカシノのルーザーの「典型」になっていった。

悪徳はカードをめくりながら昔話や自分の故郷の町の話に耽るディーラーたちの手から離れて、「777」やコミックのキャラクタ、いまではゴジラやモスラの姿まである ドラムにプリントされた明るい色彩の絵柄になって、むかしはチップですらない現金でやりとりされた欲望もいまはデジタルクレディットになって敗者たちの痛みを和らげている。

悪徳がなくなってゆくのは寂しい。
悪徳というものには人間性にとってどこかしら本質的なところがあって、いつでも帰ってゆける家のような、母語のような、不思議な暖かさがある、
というようなことを前に父親に述べたら、かっかっか、と笑われて、それはお前が悪徳に染まったことがないから、そう言うのさ、息子よ、お前は、どうやら父親が考えていたよりもずっと善良な人間であるらしい、とゆわれて、なんだかバカにされたようで、ひどく腐ったことがあったが、案外そういうものなのだろうか。

クラビングに疲れて、モニとふたりで帰ってくる明け方近い夜、
間延びしたクルマのなかでシャンパンを飲みながら、まだNe-Yoを聴いている。
運転しているおっちゃんにお願いして、砂漠へ向かってもらう。

クルマの冷蔵庫のシャンパンを開けて酔っ払ってモニとふたりで昔の話をした。
楽しかったので、すぐに部屋に帰りたくなかった。
窓をあけてみると、熱風がふきこんでくる。
仕切りを開けて運転おっちゃんに、今年はずっとこんなですか?と訊くと、
今年は特別に暑い、という。
でも、私はもともとシカゴの人間なので、ラスベガスのことはそれほどちゃんと判らない。
マンハッタンはいちどだけ行った事があるが、とても嫌なところだった。
それに、アジア人が多すぎる。
恥ずかしいが、私は人種差別は嫌いだがアジア人とは相性が悪いんでさ。
中西部の人間が好きなんです。
失礼ですが、ガメさんはイギリスの方ですか?

モニと頬をよせあっていろいろなことを思い出して話した。
大喧嘩をした日に、家に帰ってカウチに座って泣いていたら、夜になってあなたがやってきた。
ずぶ濡れになって、両手に抱えきれないほどの花束をもって、飼い主に置き去りにされたテリアみたいに哀しそうな眼をして、あなたはそこに立っていた。

モニがわしを好きな理由を述べよ。
「ガメは初めて女のひとと話をするときに女の胸に眼をやらない、わたしの知っているゆいいつの男性だった」
「えっ?そんなの理由としてひどいと思う。第一、女の胸を見ながら話しする男なんていないでしょう?」
みんな見るわよ。ちらっと見るのよ。例外なんていなかった。
ガメが初めてです。
胸を一瞥もしないで、いつも、それがあたりまえであるかのように、ずっとわたしが紹介する友達たちの眼だけをみて話してた。
このひとはほんとうはゲイなのだろうか、と思ったこともあった。

レストランでわたしをびっくりさせるようなことをやってみて、とふざけて言ったら、あの格式の高い「N」で突然テーブルに飛び乗って、自分がどれだけわたしを好きかと演説しだしたと思ったら「I love my life」と急に大声で歌い出した。
ああ、このひとは根っから頭がおかしいんだ、なんてすてきなんだろう、と思ったわ。

砂漠の日の出をふたりでクルマの車体に寄りかかって眺めてから、モニとわしは帰ってきた。
悪徳の町ですら寝静まって、遠くから聞こえてくる救急車の声が聞こえてくるだけである。
エレベータのホールでも、まだ浮かれて踊ってるわしを掃除のおばちゃんが呆れ果ててみておる。

モニもわしもいつかは年をとって、悲惨なもの思いに沈むことがあるだろうか。
年をとるということは神様が残していった人間への底なしの悪意だが、それに逆らわないでうけいれても、やはり年をとることはそれ自体が悲惨にほかならないのだろうか。

わしにはわからん。
わしには判らないことばかりだが、でも、なんだか「判る」ことはもうどうでもいいような気がする。
世界を理解することになんて、どれほどの意味があるだろう。
曇ったガラスの向こうで刻々と死んでゆくアフリカのガキどもやすっかり破壊された精神のかけらを拾い集めようとして、病院の床にしゃがみこむ女びとたちが低くつぶやく呪詛の声を「理解」して、ただ耳をすませていることにどんな意味があるというのだろう。

そんなことに時間を費やすくらいなら、踊りにでかけたほうが良いよーである。
モニを抱き上げて、両腕のなかに抱きかかえて、寝室に運んで、ベッドの上に放り投げて、二番目や三番目の「小さな人」が生まれる結果を招来するかもしれぬ、いちゃいちゃでもんもんな時間を過ごしたほうが良いような気がします。
須臾は、畢竟、須臾にしかすぎなくて、それが「50年」というレッテルをもつに至ったのは、それが人間の意識にとって都合が良い時間意識の単位だったからに過ぎないには、よく考えてみればあたりまえのことであると思う。
あなたもわしも、その長い須臾のなかで他のひとのために涙したり、時の経過を悲しみながら年をとってゆく。
笑ったり、怒りにこぶしをふりあげたり、うずくまって泣き崩れたり、安らかな寝息をたてて眠る午後ですら、意識などとは関係なく、まして「思想」などにはおもいもよらぬ彼岸の時間を、生滅の時空間を流れてゆく。

考える葦であるよりはただの葦でいて、いまの一刻をより深く呼吸することのほうが大事なことなのかも知れません。

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激しい雨のあとで

オークランドの天気は、「海のまんなかにヨットを出していると思えばよい」という。
滝のような雨が降ったかとおもうと、次の瞬間には晴れている。
セントヘリオスの海岸で、海辺の太陽の光のなかを散歩していると5マイルほど離れたノースショアで豪雨が降っているのが見える。
ひどいときには、海がお日様と雨と陰った光とで斑にみえることもあります(^^)

クライストチャーチで歩いているのは、ほとんどの場合(クルマが買えない)ビンボニンと決まっているが、オークランドは都会なので、オカネモチもビンボニンも、男も、女も、じーさんも、若い衆も、いろいろなひとが歩いて移動している。
バスを乗り継いで、まだ未発達な鉄道に乗って、あちこちへ行く。
多分ケントにある町の名前をそのままつけたHerne Bayという町に行くと2億円を超えるのに車庫が無い、というニュージーランドらしくない家までたくさんある。
ポンソンビーとCBDというふたつの繁華街が歩いていける距離なので、忙しいオカネモチのなかには、「クルマなんかいらん」というひともいるのでしょう。

一方で、最近は変わってきたが、もともとはニュージーランド人には「傘をさす」という習慣がない。
雨が降れば濡れて歩く。
いまでも、ぐっしょり濡れて下を向いて歩いている人と、傘をさして歩く人と半々くらいだろうと思う。

雨のあと、カフェの椅子に腰掛けて行き交うひとを見るのは楽しい。
びしょ濡れになったことに神の悪意を感じたように、むっとした顔をしているパケハ(白人のことです)おっちゃんや、雨などふらなかったとでもいうように、濡れた髪の毛、モニとわしが日本語で「チョンマゲ」と呼んで喜ぶ、頭の上で髪の毛をまるく束ねたかっこうで、悠々と歩く、雄大な体格のポリネシア人の若い女びとたち、もう空は晴れ渡っているのに、広げたままにして乾かすつもりか、今度は日傘なのか、黒い傘をさしたまま、無表情に歩いて行く中国系のおばちゃん、いろいろなひとが歩いていくが、よく見ると、激しい雨のせいで少しだけ経験した興奮が歩き方にも現れているようでもある。

特に応援するというのでも、好奇心でもないが、なあーんとなく、官邸前の抗議が終わるまで起きていようかと考えた。
日本語ツイッタのアカウントを見ていたら、ジュラやオロナインさん、バカタレなことにお腹に子供がいるミナまでが、赤坂にいることが判ったからでもある。
NZは日本よりも3時間早い。
日本の8時は11時である。
デモは不思議なもので、そのなかにいると、自分が「特別な人間」などでないことが理屈でなくて判る。
「その他おおぜい」のひとりである。
目立ちたがりのひともいれば、なんだかコーフンに酔ってしまっているひともいる。
「シュプレヒコール」をあげたりはしないが、まわりのひとよりも少し上に出た、間の抜けた顔で、のんびり辺りを見渡してみる。
集団のなかにいるのに、どんどんひとりになってゆく。
なあんだ、やっぱり、おれはひとりなんだな、と考える。
「もうすぐ、前のほうでは警察の暴力沙汰がはじまるようだ」と隣のやはり背が高い体格のよい男が話しかけてくる。
「前に行こう」

日本では、幸いなことに、そこまでいかないよーだ。
たくさんのひとが金曜日に官邸をめざして、そして、さっさと帰って行く、という印象であると思う。
そういう、言わば、あっさりとしたデモのありかたを、ニセモノだ、単なる署名活動で実行力などない、という声もたくさんあるようだが、わしには、意見はない。
感想はあるが、ここで書きたいとは思わない。

なるべく気をつけていよう、と思っていても、普段の生活では「福島」という言葉を思い出さない。あの遠い国には集団行動も雑踏も嫌いなのに、やむにやまれない気持ちで赤坂をめざすジュラがいて、お腹に子供がいるのに、仕事のあとで、息せき切って駆けつけるミナがいる。そうやって、陸続と集まった、とうとう政府もごまかしきれなくなった数万という人の願いが物理的な人間の群になって現れ、官邸前に詰めかけている。
それをニセのデモだと言って嘲笑う人があり、「主催者側」は勘違いしていると皮肉に述べるひとたちがいる。

自分で飛行機を操縦して遊びにくるT(前にブログ記事に出てきた女びとと同じひとです)が、「ガメ、寿司たべに行こうぜ」という。
モニが、ガメはこのごろ日本料理はいっさい食べない、と述べる。
なぜ?と訝るTに、モニが日本の食材は放射性物質で汚染されているかもしれないこと、オーストラリアとニュージーランドはいろいろな国のなかでも例外的に食品の輸入規制が甘いので、ガメは嫌がって日本のものは何も食べない、と説明している。

Tは、「やべー、おれ、寿司食べちった。去年から20回くらい食べてるぞ。妊娠してねーだろな。Jと先月だいぶんワイルドなやつかましたからな」とゆって顔をしかめておる。
そーだった。日本では原子炉事故があったんだった。
チェルノブルのときは、母親が、もっと気をつけてたよーな気がするのになあー、と独りごちておる。

ソーセージをよく買いに行く肉屋のおやじが、
「この頃原発事故で日本人がいっぱい逃げてきてるの、知ってますか?」という。
いや、知らない。日本人が、多いの?
と、とぼける、わし。
「あっちにもこっちにも、うじゃうじゃいるんでさ。たまらねえよ。
このあいだKの不動産ブログにも、日本人が買い漁ってるせいで住宅の価格があがってる、と得意気に書いてやがった。あのバカ、自分はいいだろうが、日本人たちのために家が買えなくなっていく、ニュージーランド人はどうだっていいっちゅうんだろうか」
K、というのは新聞やブログで不動産情報を流している名前の知られた不動産エージェントです。
「第一、あの日本人たち、昼間から仕事もしねーで、ぶらぶらしてやがる。いったい、どういう奴らなんだか、みんな薄気味悪がってるんでさ」
昼間からぶらぶらしてるのは、わしも同じだぞ、悪かったな、というと、
おっと、こいつは失礼、とゆって、肉屋のおやじがそれで商売を繁盛させている、いかにも「善良そのもの」の笑顔で大笑いする。

家に帰ってから、Kがそんなことを書いているのか、と考えてブログを読んでみると、「不況の住宅市場を中国人たちのオカネが支えている」という記事が、肉屋おやじの話に出てきた記事のようだった。あるいは肉屋のおやじが言うように日本人についての記事が実際にもあるのかもしれないが、それ以上読む気がしないので、ページを閉じてしまった。

なんだか、やりきれない感じがするんだよ、モニと寝る前におもいきっていってみる。
人間には悪意がおおすぎる。
誰にも、他の人間のことをほんとうに心配する能力が、そもそもないみたい。
きっと、他人のことなんか、どうでもいいんだよ。
遠い日本の福島で子供が死んだって、誰かが白血病になったって、そんなことは、コーヒーを絨毯にこぼすことほども大変じゃないんだ。
アフリカで子供が死んでも、AIDSで死んだ赤ん坊たちの3フィートにも満たない墓の穴が見渡す限り並んでいても、自分の子供が足をすりむくほどのことですらない。
いったい、この便利な人間の感情のありかたは、どこから来たのだろう。
無関心という悪意は、なぜ当の無関心な人間を苦しめないように出来ているのだろう。

ひょっとすると、わしは涙ぐんでいたかも知れないが、わしの記憶は都合良く選択制で出来ているので、おぼえてない。

ガメは、そうじゃないんだから、それでいいじゃない。
モニは、そっと手のひらでわしの頬をなでながら言う。
まるで赤ん坊をあやしている調子だが、実際、そういうくだらない駄々をこねる亭主などは赤ん坊だとでも思わないと付き合いきれないのであるかもしれぬ。

激しい雨が降って、わしはたちすくんだまま、道路の向こう側で、次次に死んでゆくひとたちを見ている。こちらを見て、大きく目を見開いて、あんなに大きな声で叫んでいるのに、わしには何を訴えているのか聞こえない。
顔を両手で覆って、大声で泣いているのに、その母親が何を嘆いているのか、いくら耳をすませても聞こえない。
わしは、途方にくれて、たちすくんだまま動けなくなって、雨のなかで、ずぶぬれになっている。
驟雨のカーテンが、その怖ろしい情景を隠してくれることを願っている。
ただ、もうこれ以上の悲惨をみないですむことを、神ではないものに祈っている。

そうして、踵をかえすと、家のゲートを固く閉めて、もう人間のことなど考えるのはやめようと思うだろう。

もう世界は二度と人間を愛してはくれないだろうから。

07/July/2012

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官邸前の愚者の群

日本で毎週金曜日に行われているデモは、「官邸前」で行われているから暴発も阿鼻叫喚もなく行われている、という考えがある。
官邸が出来てからしばらくして閉館になってしまったが、あの官邸の隣にはキャピトル東急という、もともとはヒルトンが開業したホテルがあって、わしは何度か泊まったことがある。

わしは旅先でもなんでも酔っ払うとメンドクサイので、酔っ払った町のホテルでテキトーに泊まる、というえーかげんな性格まるだしの癖があるが、赤坂にはおいしいギネスを出すバーがあって、一杯2000円だかなんだかのそのギネスは、ただのギネスなのだから、そんなにオカネをだしたくはないが、そのバーテンがいれるとなぜかおいしいので、意志が弱くなると、ついふらふらと、そのバーへ足が向かった。
想像すればわかるが、日本にいるときというのは、家をもっていたとはいっても、わしにとっては「旅先」にいることであって、そういう用件のない旅先でギネスを5杯くらいも飲めば、すっかり良い気持ちで、ニューオータニのホテルのてっぺんのバーでも酔っ払って、そのうちには意気投合という陳腐な言葉がぴったりの気持ちになったシドニー生まれの、なんだかものすごくマジメなストリッパーのねーちんと、ふたりで朝まで飲み狂ったりしたよーである。

キャピトルホテルは、そーゆーときに泊まるホテルで、あのホテルは裏に日枝神社が続いてもいて、夏などはなかなか良い場所だが、そのときに見覚えた地形から言うと、人がたくさん集まってデモをするには極端に不利な地形である。
見てないからわからないが、一万人も集まれば、延々長蛇の列になって、戦火を逃れて道路に展延する難民の行列(すみません)みたいに見えたはずである。

むかしはのっぺらぼうの顔の狢が出たという紀尾井坂には清水谷公園という小さな小さな公園があるが、せめて、あのくらいの核になるスペースがないとデモには暴発的なエネルギーは生まれない。

それが良かったのではないか、というのが説の根拠で、出典が気になって仕方がない出典ヘンタイのひとびとのために言うと、説をなしているのは、わしである(^^)

1992年のロスアンジェルス暴動は、このあいだ死んだロドニー・キングへの警官の無罪評決がきっかけということになっていて、それは実際にそうなのだろうが、ガキわしが見聞した範囲では、それは「韓国系アメリカ人対アフリカン・アメリカン」の緊張が生んだ暴動と意識されていた。
ロスアンジェルスのあの辺りでは「ノー・ニガー」と張り紙を出していた店もあったとかで、アフリカン・アメリカンには韓国系人たちへの憎悪をあからさまにする人が多かった。

屋上に銃列を敷いてアフリカンアメリカンたちに対峙する韓国系人たちの有名な写真
http://commonamericanjournal.com/?attachment_id=45932
があるが、もう掠れてしまって、ほんとうかどうか判らなくなっている記憶のなかには橋の上に並んで、射撃する韓国系人たちの姿がある。

あるいはyoutubeを覗けばいくらでもあがっている、最近の暴動の動画を見ても、
http://www.youtube.com/watch?v=NljVxqRpbw0

群衆の怒りが「爆発」すると、だいたいどういう感じになるかは、手がかりくらいはつかめるだろう。

ツイッタでジャンミンという、いろいろなオモシロイものを教えてくれるので、わしがフォローしている人が渡邉正裕というジャーナリストの「日本でデモっていうと、署名活動と同じくらいの意味なんだよね。アラブとかの革命が前提のデモとは全く別モノ。既存の法律を守っていたら何も変わるわけないじゃないか。既存の体制が自分の都合のいいように作った法律なんだから。みんなきれいに洗脳されてる。」
「「管理されたデモ」は既にデモではない。その本質的な意味合いから、存在しないもの。警察に管理されたデモ=「○○○」と同じ。」
というような、官邸前のデモは「ニセモノ」で、あんなものは「予定調和なガス抜きのお祭りなわけで、お上意識が根っこまで染みついてる」
と述べていて、微笑とともに読んだが、
このひとが「ほんとうのデモ」と言っているものは英語ではriot、暴動と呼ぶ。
既存の法律に従っていては何も変わらないのだから、ダメであるというが、しかし、それはこのひとが「既存の法律」あるいは「既存の体制」に人々が実効性をもって正面から立ち向かったときに国家というものがいかに怖ろしい牙を向いて、というよりも効率的な暴力機械になって、どこまでも血の通った人間でしかいられない「民衆」を肉体の外側と魂の内側から、いかにずたずたにするかへの想像力をもたないから、暢気に「あんなデモじゃダメだよ」とチョーノーテンキなことを言う。

日本の社会を見ていて顕著なのは、ちゅうか、ぶっくらこくのは、このジャーナリスト人のように、「国家の暴力」というものへの想像力を根本から欠いている人が多いことで、国家の「暴力発動」スイッチを押してしまえば民衆などは、ひとことを述べる以前に無惨に踏み潰されるだろう。
天安門を見て「あれは中国だから」と考えるひとは、よほど暢気な民族差別主義者なので、鄧小平は糊塗するのがメンドクサクもあれば、胡耀邦の息がかかった人間たちにむかっ腹を立ててもいたので、いっちょうナマの姿で国家というこの世で最大の暴力装置の力の片鱗を見せてやれ、と思っただけである。

日本の政府が、官邸前に集まった人間を2、300人ぶち殺したところで、しばらくは非難されるが、特に「日本」という国に痛痒以上のものを与えないのは、天安門事件のあとの中国の興隆ぶりを見れば簡単に納得がいく。「西洋人たちがきっと送りこんできてくれる」はずの「自由の女神」などは、どこにも姿はなく、その代わりに勇敢に戦った中国人たちが見たものは、
ほとぼりが冷めた頃に商談にやってくるフォルクスワーゲンであり、BMWやトヨタの社長たちだった。

わしはジャンミンの手に導かれて、通り雨のように読んで、渡邉正裕というひとの言う事を、へえ、と思って好意的に眺めたが、デモの箇所は、正義漢の小学生がリングの上のプロレスラーに「だって、あんたたちがやっているのは八百長じゃないか!」と叫んでいるのを見ているようで微笑ましく感じた。

実際には、西洋のどんな社会でもデモは平和裡に行うことになっているのは、言うまでもない。「黙っていられない」から通りに出ていくので、デモというのは社会のためというよりも自分のために参加するものなのである。
それに実効的な社会変化の力を加えようとして石や火炎瓶を投げ、自動車をひっくり返して派手に暴れる人間も出てくることがあるが、そうなった時点で、国家はこれを「暴徒」として仮借なく押さえ込みにかかる。
それでもなお法律外の運動力に訴えようとすると、正体の片鱗をみせるに至ることすらある。

国家の正体、というのは憲法なわけではなくて、どんな国家も同じで「絶対暴力」である。これが国家のすべての権威、光輝、やさしさ、その他考え得る限りの国家のもちうるすべての特性の源泉であって、「絶対暴力」を本質としない国家はこの世界には存在しない。

しかも国家がほんとうにやる気を出してしまえば、国民などはひとりひとりでも束になっても、十分組織化されていてすら「ぐうの音」も出ない。
たとえば、「そうなったら日本から逃げる」という幸せなひとがあるが、そういう事態になって国民をおめおめと海外に逃亡させる国家など、あると思うほうが頭がどうかしている。

そーかなー、と頬をふくらませて考える人は、暴動の先にある「革命」というものが
、どういう状態の国家で、どのくらいの成功率をもったか歴史を振り返って考えてみるのも良いかもしれない。

カール・マルクスが考えた革命は、もともと理屈の上ではイングランドでしか起こるはずのないものだった。
しかし現実にマルクス式の革命が発生したのは、政府と呼ぶのが憚られるようなヨレヨレでふらふらの、「なんでこんなボロイ政府がまだ立ってるんだ?」と訝られるようなチョービンボ国あるいは骨董品国家ばかりであって、断末魔に苦しんでいる政府に最期の毒の一滴を盛るに近い役割しか革命には与えられなかった。

もっと大規模で有名な革命に少し話を移しても、フランス革命は徹頭徹尾無惨な失敗の物語であって、理想と思想、もっと言えばありとあらゆる観念が、現実の社会と国家にとっていかに有害であるかの見本市のようなものにしかすぎなかった。

わしは大規模な革命のゆいいつの成功例はアメリカの独立革命であると思うが、なぜこれが成功したかの説明は、ここでホイホイと書けるような性質のものではなさそーである。

わしは正直に言って、なぜ官邸前の役に立たないデモが大逆事件以来、あんまり良くできてもいなかった見せかけの「自由社会」の意匠はべつにして、徹底的に根こそぎにされてきた日本の民主主義の復活の兆しであることを疑うひとがいるのか、理解できない。
なんで、そんなものに違法性や暴力性、もっと言ってしまえば実効性が必要なのか、さっぱり判らない。
それとこれとは、関係のない話に決まってるでないの、と思う。

官邸前のデモのことを考えたり、日本語とかは、やっぱし、もういい加減にすべきだろーか、と考えながらブッシュミルを飲んでいたら、帰りにバーに財布を置き忘れた。
外に出て、5、6歩あるいて、あっ、いっけねー、と気が付いてバーに戻ったら、もう盗まれたあとであった。
その間、約1分。

なかにはクレジットカードや免許証やEFPOSがてんこ盛りになってはいっていて、そういうIDを悪用されると妹が「はっはっは、うつけものめ。おにーちゃんって、やっぱり、ほんもののマヌケなのねえー」とゆって大喜びしてしまうので、やむをえず警察に寄って盗難届を出した。
で、現金もはいっていましたか、と訊くので、
「6000ドルとちょっと、はいってました」というと、
顔をしかめて、なんで、そんなに入っていたんですか?という。
わしは、愚か者め、と考える。
「そういうことは、きみとは関係がないことだろう。大きなお世話だぜ。自分の仕事をちゃんとやれよ、バカめ」と、やや言い方がきびしくなってしまった。
免許証は5日くらいで紛失証明が出せる。
当座は紛失届けとして処理されて、誰かがクレジットカードを使おうとしたところで盗難届けに切り替わります、とたいして関心もなさそうに担当官が言う。

警察を出て家にもどってから、わしは、「日本ではああいうときに、警官に、バカ、とかゆえないのかもしれないな」とちょっとだけ考えて、考えたとたんに自分達を阻止するために隊列をつくる日本の警官たちにまで「自分達はあなたたちを個人として憎んでいるわけではないのだ」と意思表示しないではいられない日本のひとたちのことを思って、ちょっと涙ぐんだ。

いいじゃない、デモで政府が転覆しなくたって。
そうやって、あのジャーナリストのように、賢い、ものが見えるひとは、ひとり、またひとりと、立ち去っていけばよい。
そうやって少しでも計算が立つ「言の賢い人」が頭をふりながら、離れていって、
最後に残るのは、自分の顔がテレビに出てしまったら隣近所のひとはどう思うか、とくよくよ思い詰めている主婦や、上司がおれの姿をみつけたらやべーよなあー、と翼々とする臆病なうだつのあがらないサラリーマンのおっさんの「烏合の衆」だろう。

それが賢いひとびとにとっての夢の終わりであり、
愚者の群にとっての希望のはじまりである。

そして、そういう愚かな者たちの臆病な思いだけが、いつまでも「政府」という、絶対暴力の奴隷である怪物を歴史の終わりまで怯えさせてひきずっていくのだと思います。

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ケ・テ・パサ

ビーフシチューを食べた。
前にも書いたがビーフシチューは日本では高級な食べ物みたいな顔をして一流レストランのメニューの良いところに座っているが、ほんとうはそーゆー食べ物ではないのね。
もっと「家族」のにおいのする食べ物です。
自分のことに照らして考えると、このあいだビーフシチューを食べたのは、かーちゃんやとーちゃん、及び妹と湖のほとりにキャンプに出かけたときのことで、多分、10年くらい前のことである。

「オランダ人のオーブン」とか「フランス人のオーブン」と名前のついた、日本の「鍋物」をつくる肉厚の鉄鍋に似た鍋
http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_oven
で、チャックステーキを、ぐつぐつ煮てつくるのもおいしいに決まっているが、わしが生まれた国では普通はオーブンで焼いてつくる料理です。
4時間くらいオーブンにいれておくと、自分で勝手においしくなる。

冬なので、モニとふたりで、会ったばかりの頃にモニに平手打ちされたことやなんかを話してクスクス笑いながらつくった。
料理のおばちゃんやおじちゃんたちはオークランドの南東にある温泉に遊びに行っているので丁度よかった。

「小さなひと」の面倒をみるひとや、掃除のひと、そーゆーいろいろなひとにうまく働いてもらうように家宰するひと、といろいろなひとが増えてモニとわしの暮らしは会社みたいだ、とわしはときどき機嫌が悪くなる。
モニとふたりだけのときのほうがずっとよかった。
好き勝手をゆってむくれているわしをモニさんは大体ニコニコしながら見ているだけである。
ときどき、ガメは、ほんとうに子供みたいだ、と言う。

ギネスをたっぷりいれたシチューは、この世のものとも思えないくらいおいしくて、
モニとふたりでニコニコしながら食べた。

そうやっている間にも欧州は嵐を前にして身構えていて、富裕な中国人たちは自分達自身の過熱した市場に怯えてアメリカやオーストラリアで不動産を買い漁っている。

日本人たちは戦っている。
日本の歴史が始まって以来初めて、日本人たちは懸命に自分たちのために戦っている。
丁度放射線防護服のようにおおげさで非人間的な理論に身を固めた政府や科学者や無限に現れる「賢いひとびと」に嘲笑されながら、自分達のなけなしの生存への本能だけを頼りに戦っている。
自分のために、旦那さんのために、子供たちのために。

モニが、そっと人差し指を唇にあてる。
いまは悲しい話はやめましょう、という。
悲しい話をすると悪魔たちが耳を澄ましていて、集まってくる。

もちろん、モニもわしも、もうなにもかも知っている。
すっかり判っている。
これからモニとわしと「小さな人」が生きていかねばならない世界は、ろくでもない世界で、犬が犬を食べ、人間が人間の脂をしぼって灯をともす世界になってゆくに違いない。

人間は自由を信奉することによって弱肉強食の世界に時計をまきもどしてしまった。

ときどきわしは考えるが、「自由」はそれほど大事なものだったろうか。
前に同じことを日本語で書いたときに「欧州的教養」が売り物の小説家がやってきて、「自由の価値に疑いをもつ、おまえはナチだ」というようなことを言いに来たことがあったが、あのひとは、わしらにとっては「自由」は言わば自分自身のようなもので、捨てられもせず再検討することも出来ず、サラミスやテルモピレーのむかしから、ただ盲目的に、というよりは自分の思想的肉体として疑いもせずに自分自身だと信じてきたものであるという感覚が、あのひとには判らなかった。
あのひとには「自由」という観念を対象化する能力がわしらには欠けていることを知らなかった。
欧州の苦しみがそこにこそあることに気が付こうともしなかった。

自由はそれほど大事なものだったろうか。
わしの友達は、いつか酔っ払って、飢えて死んでゆくアフリカの子供を足の下に踏みつけて凱歌を挙げる「自由の女神」を描いて送ってきたが、われわれの自由にはそれ以上の意味があっただろうか。

日本語の世界は「賢いひとびと」で充満しているので、こんなことを書けば鼻で笑うひとたちが何千人もいるに決まっているが、わしには、もう「賢さ」や「知恵」など、どうでもいい。

自由はそれほど大事なものだったろうか。
人間が人間であることには、それほどの価値があっただろうか。

いったい、私が私であることには、どれだけの価値があるのか?
あなたがあなたであることには、どれほどの正当性があるだろうか?

言語の挑戦的な太陽が頭上に輝く午後がまた待っているのだろうと思います。

10/June/2012

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汚れた髪

うつ病といっても要するに病気なのでふつうに病気として対処すればたいていの場合簡単に治る。
軽いうちに適切に応対すれば、あっさり治るがこじらせると、えらいことになって、死んでしまったりするひとがでてくるのも、病気だから、あたりまえなのである。
むかしは医者もホイホイと処方薬をだしていたが、このごろでは副作用がおおきい薬が多いのがわかってきたので、やや慎重にすることにした。
基本は、まさしく風邪と同じでバランスのとれた食事と健康的な生活習慣で、ひらたくゆってしまうと、アホらしい感じもするが早寝早起きをするのがよいという。

社会的な理由もあるに違いなくて、わしが生まれついて育った社会は、人口ごとうつ病であるかのごとき社会で、子供のときから「誰それはデプレッションだから」というようなことをよく聞いた。
あんまりひとに向かっていうことでもないが、わしの大好きな大叔母は、やはりうつ病が持病で、ロンドンの街中で突然くるまを止めて泣き出したりするので、ガキわしは、なにしろガキというのは同時にバカであるということなので、どうしたらよいか判らなくて、じっと大叔母をみつめていたりした。
いかにガキでバカであるとゆっても、そういうときに「ダイジョーブですか?」というようなマヌケな質問をするほどのバカではなかったので、そのまま30分くらい大叔母が泣いているのをみつめていた記憶がある。

あるいは高校生のときに幼なじみの女の子とリージェントストリートで偶然でくわしたことがあったが、いつも身なりがばっちし決まってるひとであるのに、そのひとの「目がさめるような」という表現がぴったりの金髪が少し汚れているような気がした。
やあ、元気?
この頃、あんまり見なかったね、というようなありきたりの挨拶を交わしてから、では、とゆって歩み去ろうとすると、ガメはわたしを軽蔑しているでしょうね、という。
びっくりして、そんなことあるわけない、 なんで、そんなことを訊こうと思ったのか判らないが、そんなことは金輪際ない。軽蔑なんか、してるわけないじゃないか。心からいうが、きみは、わしのおおむかしからの友達なんだから。

相手をほめるべきとき、というか、敬意をもっている相手には、はっきりと言葉をつくして述べることにしているので、わしはふだん、そのひとに対してもっている印象をはっきり詳しく言ったのをおぼえている。

相手はにっこり笑ったが、そのあとに、すっ、と目が暗くなったようにみえた。
わしは相変わらず、そのひとの髪の毛が少し汚れているような気がしていた。

そのひとが自殺したのを聞いたのは次の週のことだった。

わし自身にはうつ病の傾向はないよーだ。
風邪をひきやすい体質のひともいるし、なかなか風邪をひかない体質の人間もいて、どうやら(もっと年をとらないと、うつ病のようなものはわからないが)わしは後者に属しているよーです。
まず第一に体力が旺盛だということがあるだろうし、他人の目を気にする習慣がない、という教育に起因する「考えの習慣」ということもあるかもしれない。
遺伝的な要素が強いとすれば、家系図を見渡すだけでもうつ病で自殺したりしたひともごろごろいるので、病気になりやすい体質のはずだが、うつ病も躁病もいまのところは縁がない。病気もしないので、ただただ健康でばかばかしい感じがするが、ほんとうはばかばかしい、などとバチアタリなことを言ってはいけなくて神様に感謝しなければいけないのでしょう。

モニはチョーまじめなので、ときどきゆーうつな気分になるよーだ。
自分にも、もっと出来る事があるのではないか、とか、自分にあんまり価値がないのではないか、とか、わしに言うことがあるが、そーゆーときは、やや抑鬱的な気分なのであると思われる。
特別なことを言ったりやったりはしないが、モニが憂鬱そうにみえるときには、海にいくべ、とか温泉に行くべ、外でお昼ご飯たべるべ、とゆって、問答無用で連れ出して遊びにいく。
将来はどうなるかわからないが、いまは、それで、すぐ気分が変化するよーです。

日本語の世界では、「うつ病」というのが、奇妙に特別な感じで言われるので、へえ、と思ったことがあった。
英語世界では、うつ病というのは、チョーありふれた病気なので、「精神病」などとあらためてゆわれると、なんだか違う病気の話をしているよーな気がする。
あまつさえ、風邪のひきかけくらいの鬱状態の若い社員に「がんばらなきゃだめじゃないか」と上司がゆった、というような話を聞くと、ずるっこけてしまうが、風邪をひいた人間にジョギングいってなおしてこい、と諭すような、そういうヘンな考えも、時間が経っていけば社会からは淘汰されてゆくに違いない。

ニュージーランドのような社会は、もともとがイギリスのまじめな労働階級の人間が「こういう生活をしたい」と思った夢の煮こごりのようなところがあると思う。
マジメに仕事をしさえすれば、ロンドンでは夢でしかない一戸建ての広い庭がある家が買える。クルマを2台もって、子供がふたりか3人いる笑い声が絶えない生活がつくれる。ニュージーランドという国のおおもとになっている考えは、そういう労働者階級の人間が必死に願った「幸福」の現実化であって、だから「支配層」というものを生理的に嫌う。
幸福の定義もだから単純で、家やクルマや収入というような現実に目でみて一目瞭然なものに限定されている、とゆってもよいくらいである。

欧州人や日本人はスズカケの木のごとく屈折した長い歴史をもっているので、なかなかそう簡単に幸福になれない、というひとも多くて不便であるとおもう。
歴史が長い、ということは、これこれしかじかの歴史があるから、なかなかそう簡単に変化するわけにはいかないのだ、という変化しないことの陳弁につながるが、それは同時に変化を怠るlazinessにも簡単につながる。

遠くからみていると、この頃の日本は、社会ごとうつ病に罹ったようにみえることがある。他国人から、ちょっと「こうしなければいけないんちゃうか」と感想を述べられると過剰な情緒的反応が起こって、話を聞いていると、予想外にも「自分達が非難されている」と感じているのがわかって、意見を述べたほうをびっくりさせたり、「このあとの金融政策をどうするつもりか」と聞かれただけで恐慌的な反応を示したりするのは、個人であれば、初期のうつ病であるとみなせる。

耳をおおって他人の言う事をいっさい聞かずに、自分の信じたいことだけを信じて、現実そのものを自分が信じたいものの姿に変えて投射するようになるまで、もうすぐだという感じがすることすらある。

世界から切り離されていると感じるとき、人間はうつ病に罹りやすいが、日本社会そのものが集団的なうつ病に罹っているとすれば、その責任はまず第一に、長い間マジメに報道するということをしなかったマスメディアにあるというほか、わしには言いようがない。
日本人が日本語のみでものごとを考えて、情報をあつめ、判断してきたのは一に新聞を始めとするマスメディアの伝えることは信用できる、という社会常識が元になってきたので、このマスメディアの責任分担部分が遠くから見ていて不愉快なほどフマジメなのでは、それを材料に考えてきた日本人の判断が現実に対して有効であるはずはなかった。
まして、いまの段階では日本のマスメディアなどは、たいして工夫もされていない「事実にみせかけた自分のおもいつき」を現実らしく意匠を凝らしてたれながしているだけの、いわば支配層が鳴らす壊れた進軍ラッパのようなものにしかすぎないが、それにすっかりだまされて踊り出すようにして行進する幸せな国民は別にして、大多数のまともな日本人のほうは、抑鬱状態に陥るのがあたりまえであると思う。

しかし冒頭で述べたように、(そう言われるとなんとなくバカバカしい気持ちになるだろうが)うつ病というのは、ただの風邪にも似た病気なので、いまのうちに良い習慣をとりもどせば、社会的な抑鬱状態も解決するに違いない。
そして社会的な良い習慣というのは、案外とイギリスから渡ってきた労働者達が南半球の島で実現しようとしたような「物質に偏向した単純な夢」が基礎であるのかもしれない。
その物質的に単純な夢、というのはつきつめれば富の再分配と社会への還元で、
ニュージーランドの経済規模はだいたい日本の三重県程度だと思うが、高速道路ネットワークはただで、相当な田舎にいっても制限時速が100キロのオープンロードだけは確保されている。「日本は土地代が高いから」というような言い訳はもっともらしいだけで本当でないことに気づけないのは、やはりそこでも抑鬱的な無関心が働いているのだと思う。

世界のコミュニティから孤立し、政治を信頼しては裏切られ、マスメディアの無能によって情報的言語的にも切り離されている日本は、実際に、この先、集団的なうつ病の状態にはいってゆく危険があると思う。

まだ風邪の程度であるうちに治してしまったほうが、のちのちの社会再建の仕事を楽なのではないかと考えました。

20/June/2012

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True Colour

現代科学では「人種」はすでに否定された概念である。
大量のサンプルから取ったDNAを解析することでいま地球の地表を覆っている現生人類は、たった6万年前の大乾燥期に、それまで44万年あまりを過ごした東アフリカにあった「科学のイブ」の集落の炉辺から立ち上がって東を目指した一団のひとびとの後裔にすぎないことが判っている。
どうしても「人種」という概念を使いたければ、われわれの人種は単一で、みなアフリカ人なのね。
いまでも稀にはいる人種差別の話が好きなひとびとに言って聞かせると、ふつーの反応は
「そんなバカな」です。
異「人種」間の遺伝子構成がほぼ完全に同じであることを告げると、なんだか、ショックをうけたような、神様に裏切られたような表情になる(^^)
実際には自分の愚かさに裏切られただけだが、それでも直感的に信じこんでいた「事実」に反した真実を告げられるとなんだか世界が横倒しになったような気分になるらしい。
でも色が全然違うじゃないか、とか、鼻の形も違う、とつぶやいて呻いている。
見ていて気の毒な感じがする。

群れをなして社会生活をする生物は個体の識別というか、小さな差異に鋭敏である。
犬に関心がないひとはラブラドールならラブラドールで全部おなじに見え、三毛猫なら三毛猫でクローンのようにしか見えないというが、その逆に恋に狂えば双子の相手でも見分けが付くようになるという。
自分のことを考えてもカタクチイワシが全部どれも個性的に見えて食べる前に一応ぜんぶ名前をつけたくなる、というようなことはないので、差異と意識の関連はわからなくもない感じがする。

むかし「人種」というものを(科学的な意味において)当然の前提だと考えたひとびとは、環境に適応するための形質発現に遺伝子構成の変更など必要がない、ということを知らなかった。
その可能性すら思い及ばなかったことに、かえって、20世紀には大流行りだった「人種差別」というようなバカタレな観念の原因があったのでしょう。

どの「人種」においても遺伝子構成が同じであるという容赦なしに突きつけられた「現実」のほうを前提にむかしから知られている人類学的に知られていた事実を眺めなおしてみると、まるで逆のみえかたをすることになったので、たとえば長いあいだ謎とされていた、フィリピン人のあるグループでは、まったくアフリカ人としか見えない外貌のひとびとが半数を占めている、というような事実は、実は移動してきたアフリカ人がやってきた地方と同じ熱帯の、殆ど変わらない気候のフィリピンのこの島に定着したせいで、形質を変化させる必要が無かっただけのことであることで説明されることになった。

あるいは遺伝子マーカーの追跡によってアジア人であることが判ったごく最近(たしか10年くらい前)まで当然のようにアフリカ人だと見なされていたアボリジニが、真の意味ではアフリカ人であることに変わりはなくても、旧来の「人種」分類に従えばアジア人であることがわかって、いかに短いあいだに環境にあわせて(遺伝子構成の変化なしに)形質が変化するものであるかが判って皆をびっくりさせた。
アボリジニはジャワがマレー半島と地続きだった頃に、そこまで歩いてきて、なんらかの理由でジャワ島から(多分)筏でオーストラリアに到達したひとびとであることが判ったからです。

メキシコ人はいまでも日本人は遠い時代に袂を分かった兄弟だという美しい物語を愛しているが、残念なことに、メキシコ人の祖先は中央アジアからユーラシア大陸の北辺に出て厳寒の氷雪を歩いてベーリング海峡をわたり北米に到達して、具体的な年数を忘れてしまって、そのうえに調べ直す気もしないが、北米のてっぺんから2千年だかそこいらのチョー高速で南米大陸の南端に到達したグループの末裔である。
アジア大陸の遙か南方のルートを通って日本という最終端に到達した日本人は、まったく別のグループに属している。

むかし見た映画にメキシコ人の女の子と恋に落ちて結婚することに決めた息子に「おまえのようなケーハクな奴がいるから、南米では白人は『有色人種の大洋』に呑み込まれてしまったんだ、バカモノ!」と思わず叫んで、自分の一家からバカにされてエンガチョされてしまう気の毒なおとーさんが出てきたことがあったが、生物学の神様がこのおとーさんの叫びを聞いたら、よいこらせ、と祭壇をおりてきて、「それは間違っておる」と諭したことでしょう。
異人種間で結婚したところで数世代のわたって形質発現が優性劣性の法則に従って起きるのは当然だが、別に遺伝子レベルの構成が変わってしまうわけではないので、よく考えてみれば、6万年前近所同士であったもの同士が故郷から1万数千キロを隔てた土地で、また邂逅したというだけのことです。

自分と異なるものを恐れ憎むのは未開人の特徴で、アフリカの田舎に住みにでかける研究者がいきなり石つぶての嵐で迎えられたりするのは、その未開な畏れのせいである。

あるいはヒトラーのナチは、「アーリア人」という「北欧系人種」をでっちあげて、自分達の狭量な文化に説得力をもたせようとしたが、アーリア人を「金髪碧眼」と定義してしまったために「ヒトラー同志は一見黒髪で褐色の眼に見えるが、注意深い者の眼には、ほんとうは金髪で碧眼であることが見て取れる」というような裸の王様もチ○チンをふりまわして踊り出したくなるようなオモロイ主張を行ったりした。
戦後、その「アーリア人」という人種概念の非科学性をあばきだして、さんざん笑いものにした英語系アングロサクソンやユダヤ人の研究者たちも、ほんとうは同じ穴の狢であって、現実が暴露されてみれば、白人が人間だとは思えなくて苦しんだ黒人も、その黒人の下におかれて喘いでいたアジア人も、実は全部アフリカ人で、粗放な言い方をあえてすると、日やけしていないものが日やけしたものを笑っていただけなのが真相なのでした。

ツイッタの友達の生物学者泉さんは、わしが天気の良さにつられて朝から遊びほうけていた頃、「この50年で人種間の交配がすすんだ」と書いていたよーだったが、わしの実感では、この10年でひとびとの意識から「人種」というものは加速度がついておおきく後退した。
いま人種意識が「20世紀的な迷妄」とふつうに感じられるのは、実際には、遺伝子解析の成果が、科学には関心がないひとにとっても見えないところから考えに影響してきたものだと思われる。

ツイッタにも書いたが、日本人であるきみが色の白い人びとに会ったら、
「しばらく見ないあいだに随分白くなっちゃったんだね」とゆっていればいいだけのことであって、きみの隣で、ぼおおーと見あげるような大きな白い身体を揺らせている、どことなくとぼけてマヌケな外見のにーちゃんは、6万年前には、きみと同じ村に住んでいた。
世界中に散らばって、それぞれにえらいめにあい、お互いが親族であると気づかずに激しく抗争すらして、傷つけあい殺しあったが、判ってみれば実は友人であるどころか親族だったわけである。

くだらないことをつけくわえると、インドネシアのトバという火山は74000年前に、この200万年では地球上の噴火のなかで最大だったと判っている大噴火
http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory

を起こしている。
ところが、Michael Petragliaたちのインドの採掘場から、そのとき降下した火山灰で区切られた、この噴火以前と以後の地層から石器にしかみえない石片がいくつも見つかっているので、もっとわかりやすい証拠(いちばんいいのはウンコでんねん)が見あたらないせいでコントラバーシャルになってしまっている(現生人類ではないだろう、という研究者もいる)が、どうも6万年前の大乾燥期以前にもアフリカを出て、ほぼ同様の移動ルートを通ってインド大陸に到達していたグループもあるよーです。
しかし、このグループは、あの大爆発を生き延びたのに、歴史のどこかで消滅してしまったもののよーである。
あるいは、そうやって希望をもとめて「緑のハイウェイ」を移動していった現世人類には途中で力尽きて絶滅してしまったグループが他にもあったかもしれません。

欧州では「人種」というものが言葉に厳正な意味でも存在していた時期があって、中央アジアから西に向かったグループが遭遇したはずのネアンデルタール人がそうであったことになる。
このひとたちは、現世人類の美の基準からするとたいへんな醜さ、というか、容貌魁偉なひとびとであったが、知能は現世人類と変わるところがなかった。
現世人類と同じく、自分達の身体的構造にあわせた武器をつくり、巧妙な刃先も使い方も現世人類と似たようなものでした。
ふたつ、主要な点で彼らは現世人類と異なっていた。
芸術をもたなかったことと、移動をしなかったこと。
言葉を変えていえば、「愚かさ」をもたなかったことで、
洞窟の壁に絵を描くようなムダなことを嫌い、未知の移住していってどうなるかも判らないような土地に考えもなしにどんどん移動する、というような軽率さも持たなかった。
ネアンデルタール人と現世人類が両方つかった洞窟の壁に描かれたバカタレな落書きは、すべて現世人類が残したものです。
ネアンデルタール人は、マジメなひとびとであって、洞窟を清潔に綺麗に保っているのが好きだったもののよーである。

ところが、現世人類と同等の知力をもち、そのうえ桁外れに大きな膂力をもったネアンデルタール人は滅びてしまう。
ほんとうの理由は誰にもわからないが、ネアンデルタール人が滅亡した理由は、気候が変化しても自分達の住み慣れた土地から離れなかったであるからのようにも見えます。
もしかしたら原子力発電所が崩壊したのに長老が「放射能の漏出とゆってもこのくらいなら安全だから」とゆってみなの洞窟に瓦礫をたきぎとして配った結果、実は有害だった放射能が集団全体に行き渡って壊滅したのかもしれないが、そういう証拠はないよーだ。

ここまで、特別な知見ではなく、英語人なら年がら年中あちこちで放送したり記事が載ったりするせいで、そーとーなバカタレでも知っている事をずらずらずらと挙げてきたのは、日本には5年間11回の日本遠征のあいだじゅう、なんだかやたらとジンシュジンシュジンシュ、ジンシュサベツ ジンシュサベツ ジンシュサベツキャベツ、と言いまわるひとたちが想像を絶する数でいたのをおぼえているからで、わしの大好きな映画、クリント・イーストウッドの「Unforgiven」で主人公の相棒、ネッド・ローガンを演じたアフリカンアメリカンの俳優Morgan Freemanは、
「人種差別を終わらせるゆいいつの方法は人種について話すのをやめることさ」と言っている。
人種や人種差別について話したがる人間は、たとえ自分が有色人であっても、自分が人種差別をしたくてうずうずしてる人種差別主義者なんだよ、というのは長い間人種差別と格闘してきたアフリカンアメリカンたちがたどりついた意見でもある。

このブログ記事には、日本に来て「人種差別論議」がダイ盛んなのと、「おまえら白人は人種差別ばっかりしやがって」と見知らぬひとびとに集団で罵られてぶっくらこいちまったわしが、日本のひとの話を聞いて、そーかなあーと思って書いた人種差別についての記事もいくつかあります。
マヌケなことに「人種差別なんて、この世界に、もうねーだろ」とゆったわしが、モニと妹に爆笑される、という記事を書こうとおもってこころみた会話の現実の悲惨な出だしからはじまっておる。

しかし、「the only way to end racism is to stop talking about it,」
そろそろ、わしはこの話題については、なにも述べたくない。
根本的な理由は今回の記事で述べたように、もともと科学ガキであったわしから見ると、
人種という概念が単に非科学的な迷妄で、もう十年もすれば、天動説やなんかと同じガラクタ箱行きになるのが見えているバカタレの玩具だからです。

これまでにアルコールがはいるとずいぶん「人種」の話をしたがるので、そっとパーティの招待者名簿から外された日本人や、友達同士の楽しい気楽な週末に呼ばれなくなった日本人が何人いるだろう。
さいわいなことに20代くらいの日本人には、もうそういう薄気味の悪い人はいなくなったように見えるが、わし自身、ながいあいだ、日本人というと「口では人種差別反対を唱えるが、自分がなんだかすげー人種差別主義者みたい」という印象がなかなかぬぐえなかった。
人種差別の話ばかりしたがるのが奇異だったからです。
しかし、人種差別マニアでない日本のひともたくさんいるので、そっちのほうへ行って話したい。

「白人死ね」「白豚氏ね」のひとびととの付き合いは長いが「人種」というものへのわしの考えは、ここに述べたので、そろそろこれでカンベンしてもらうべ、と考えたのでもあります。

24/January/2012

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日本の古典_その4 RCサクセション(忌野清志郎)

どんな音楽が好きか、どんな音楽を聴いているか?という質問くらい答えに窮する質問は珍しいと思う。
好きだと考えたり、聴いてみて、いいな、と思う音楽は音楽に浸かって暮らしている人間ほど年中変わっているからです。
音楽が好きな人間ほど、聴かれたくない質問のひとつなのだと思われる。

昨日聞いた音楽を思い出してみると
このブログ記事にも何度もでてくる

Grace Potter & The Nocturnals

Sa Ding Ding

Miguel Bose ( y Amaia Montero)

Shakira (y Miguel Bose)

Buika

Easy Star All-Stars

Mari Boine

Sinik

ちゅうような面々の音楽を相変わらず飽きもせずに聴いていて、それにうんざりしてくると、インド人たちのFM局やWBGOを聴いたりしていた。

音楽を聴いて、すっかり衝撃を受けてしまった、というのは、
むかしフィフスアヴェニューのラジオ・シティの近くにあったHMVの地下にDVDを買いに行ったら、たまたま流れていた
Salif Keita 

が最後で、それは考えてみると、もう12年も前のことである。

忌野清志郎を初めて聞いたのは鎌倉の義理叔父の母親の家で、その家にはApple IIがあったりFM7があったり、あるいはPC9801VM2という「テキストVRAM」という面白い工夫がしてあるNECのコンピュータがあったりで、そのうえ、観世栄夫の「井筒」を録画したVHSはあるは、大橋巨泉といまの奥さんだという若いアナウンサーがDJというか、リスナーのダジャレの審査をしているヘンテコな番組から突然
1910 Fruitgum Companyの「Simon Says」
http://www.youtube.com/watch?v=7k1hr2DnzPo
が流れてくるわで、なんだか家全体がとびだす絵本みたいな家なのである。

そーゆー、いっそこのまま博物館にしちゃえば、な家で「これ、聴いてみてよ」とだいぶん先のクリスマスプレゼントをかねて義理叔父からもらったのが、
RCサクセションと忌野清志郎のフルセットで、あとでニュージーランドに送ってくれた、このフルセットとやはり義理叔父が選んでくれた弘田三枝子やなんかの60年代のレコードの詰め合わせが、ニュージーランドの「町の家」にあるゆいいつの日本のレコードだった。

忌野清志郎の原点は、RCサクセションの「楽しい夕に」であるよーな気がする。
義理叔父の証言によると70年代にネットワーク局に出入り禁止になってからも「横浜テレビ」には出ていたそーで、その頃、
「九月になったのに」http://www.youtube.com/watch?v=l-NNo8sN9vA
「もっと落ちついて」http://www.youtube.com/watch?v=n9Euzdkp56w
がはいっている1972年に出たこのアルバムには、もう「忌野清志郎」がいっぱいつまっている。
とくに「もっと落ちついて」は若いというのもばかばかしいほど若かった作詞者の忌野清志郎の一生をかなりの範囲で「規定」してしまっただろう。
清志郎というひとは、途方もなくマジメなひとなので、自分でつくりだした、「ボーイフレンドのバイクに乗って」自分へのラブレターを出しに行く「あの娘(こ)」が清志郎のあまり長くはなかった一生におおきな影響を与えなかったとは考えにくい。

おおむかし「忌野清志郎」というブログ記事
http://gamayauber1001.wordpress.com/2009/07/17/忌野清志郎/

にも書いたが、その次に忌野清志郎が「素」の顔で登場するのは
1976年にまったくやる気のないバンドの、初めから売れないことが運命づけられたアルバムとして発売されてすぐ廃盤になった「シングル・マン」で、これには
「甲州街道はもう秋なのさ」
http://www.youtube.com/watch?v=5eNJGpwgnWI
という、わしの好きな歌がはいっている(^^)

年譜のようなことを述べる気はないが、このあとRCサクセションというバンドはほとんど「消滅」してしまう。
「あんた、グルーピーだったんちゃう?」とゆいたくなるほどRCサクセションが好きだった義理叔父が、RCサクセションの「ライブ」(ヘンな日本語だのい)があると聞けば、「テーブルのあいだを這い回るゴキブリの数のほうが観客よりもずっと多いような」
(義理叔父談)
「ライブハウス」を授業もデートもすっぽかしてとんでゆく、という「どさまわりだけど、けっこうパンク」なバンドとしてRCサクセションが再び登場するのは、もう70年代の終わりだったそーである。

義理叔父が「雨が降る日に並んだのはあとにもさきにもあの日だけ」という久保講堂のコンサートにでかけて、あとでお馴染みになるスタイル、「ゴン太2号」と清志郎がステージの端から端までコント55号の坂上二郎と萩本欽一
http://www.youtube.com/watch?v=BkHSSmBrOKQ
みたいに走り回り、後ろではジャズっぽい管楽器が精確なリズムでバックアップする、というRCサクセションのスタイルを大観衆が歓呼して熱狂する、というボロイRCサクセションしか知らない義理叔父をびっくりさせたコンサートは大成功で、RCサクセションの「のり」は一挙に日本中に広まってゆく。

義理叔父はその頃頭のいかれたトーダイセイだったはずだが、清志郎たちがたくさんの人間たちに「うけた」のが嬉しくて、
「もういいや、これで、なんだか、もうなんでもいいや」、よかったなあー、こんなことってあるんだなあー、と思ったそうです。
そうして、その日が義理叔父がRCサクセションのコンサートに行った最後の日になった。

わし自身は、かーちゃんシスターと義理叔父にプレゼントされたころは、おもしろがってよく聴いていたが、すぐにほとんど聴かなくなってしまったが、
思い出してみると、
「誰かがベッドで眠ってる」や
「ドカドカうるさいR&Rバンド」

が好きだったよーな気がする。

考えてみれば、マンガやアニメを別にすれば、これからあとの未来にも、中国のひとびとや半島人が永遠にとどかないかもしれないとおもえなくもない、日本というマイクロ文明の高みをしめしているのは、
RCサクセションや高田渡のような70年代にヘドの臭いがする小さな穴蔵のような酒場で、明日食べてゆける見通しすらなく、もうやけくそ、というか、どうなったってかまやしねーや、と思いながら演奏していた「日本社会から見捨てられたひとびと」であって、「日本」という国が歴史のなかに栄光を刻んでいるとすれば、経済や学問ではなくて、マリファナとウイスキーで頭がぐじゃぐじゃになりながら、これでもかこれでもかと日本の社会に悪態をつきつづけて、あるいはテレビへの出演が禁止になり、あるいはレコードの流通を止められて、ぼろぼろになって、それでも音楽と、一方ではパフォーマーと同じに、こちらもやはり世の中から弾き出されて「やけ」を起こしていた「ファン」とだけを支えにすることによって死なないですんだ清志郎たちだった。

最近になってよく知られているように、RCサクセションには
Eddie CochranのSummertime Bluesの、あんまり出来がいいとはいいかねる
替え歌がある。

http://www.youtube.com/watch?v=GpF3hoKLiFY
反原発の曲をつくった理由を訊かれて、「うけたかったからだよ。他に理由なんかねえよ」と答えたそうだが(^^)、
「地震ももうすぐ来るってのに、こんな狭い国に37基も原子炉つくってどうすんだ」と歌う、ぶっくらこいちまう炯眼は最初から最後までパンクな不良だった、ろくでもないガキたちだけがまっすぐに見られた未来なのだと思う。

「役立たず」で「社会の余り者」だった忌野清志郎たちの魂は「フォークソング」というような優等生の臭いがする歌の形式にはいりきれずに袋を破ってとびだし、自分達の内的欲求のみによってロックンロールの身振りでものを考えだしてゆく。
失笑するしかない粗雑さの西洋音楽の学芸会的コピーというほかないKPOPしかつくれていない半島人や、そこにすら届かない「ストリップが売り物なのか?」といいたくなる「バンド」にうんざりさせられている香港・台湾人たちが、「自分達の魂の声」が聞こえる音をつくって、それがステレオから流れてくるのを当然のことであるとおもっている日本人たちを眺めて、タメイキをついて羨ましがる由縁であると思います。

08/September/2012

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