生活防衛講座その2


1 住宅

銀行からオカネを借りて自分の家を買う、という行為は経済論理上はたいへんバカげた行為であることはよく知られている。
特に日本では無意味に近い。

ニュージーランドの伝統的なホームローンへの感覚は、固定金利9%の15年ローンで、1990年代ならば3寝室の一戸建で二台クルマがはいる車庫がついて庭がある家が15万ドルだったので、ざっと見積もって頭金なしで一ヶ月の支払いが$1500で支払いを終える頃にはだいたい倍の30万ドル弱を支払って家が自分のものになる。
大学を卒業するのは21歳なので大学で知り合った伴侶と結婚して初めの家のホームローンを支払い終えるときには36歳。収入がふたりあわせて10万ドルくらいなので月給というようなものに直せば9000ドル(当時の円/NZドルレートでは50万円)なので、フィジーやタイランドに一ヶ月くらいずつ休暇で遊びに行って子供をふたり育てても余裕をもって暮らせた。

いまは金利は6%に落ちて、その代わり3寝室の同じ家が60万ドルはするので逆にホームローンを組んで家を買う人は少なくなっている。

自分の家は通常資産に数えない。
なぜなら自分が住んでいる家は一円も生まないからで、いつか確かめてみたことがあったが、日本でもこの習慣は同じであるようです。
つまりホームローンを組んで自分の家を買うというのは借金をして「ゼロ資産」を買うことなので、のっけからただの無駄遣いとみなされる。

一方では前回述べたとおり日本では7000万円で買った住みなれた家を売って8000万円で売れるということは稀で、どちらかといえば4000万円くらいになってしまうことのほうが多い。
よくしたもので、いまみるとホームローンの利息も1.2%というような夢のような利息なので、15年かけて払っても600万円ほどしか利息を払わなくてもいい勘定になるが、それでも例えば鎌倉で25万円の家賃を払って住んでいる人は、いつでも川崎の9万円のアパートに引っ越せるが、家を売るというのは、日本のように慢性的に地合がわるい市場では「売りたくなったから今日売ります」というわけにはいかないので、急に売ろうとおもえば、7000万円の家も3000万円になるのがおちである。

自分ではめんどくさいので日本でも鎌倉・東京・軽井沢と家を買ってしまったが、えらそーだが、こういうバカなことをするひとはオカネが余っているからそういうバカなことをするので、だんだんスウェルが高さを増すいまの世界を渡っていくためにはどうすればいいかというこの記事の趣旨とあわないので、われながら(←古用法)シカトする。

結論を先に述べると日本で住宅を購入するのは経済的にはたいへんに愚かな行為で、家賃を払って住んでいたほうがよい。

20年なら20年という、その社会で通常「このくらいの年数でホームローンを完済するのがふつう」とされている年数で住宅の価格が二倍になる社会でなくてはホームローンを組んで家を買うのは努力して資産を失う愚行なのでやめたほうがよい。
自分の家を借金して買うという経済行為を正当化するゆいいつの言い訳はキャピタルグロースで、それが見込めない場合、簡単に言って(日本の市場でいえば)見栄を買うだけのことで「見栄」はどこの国のどんな市場でも最も高くつく商品だからです。

2 職業

現代の世界では打率がいくら高くてもホームランがでなければラットレースから抜け出せない、という。
キャリアをベースボールに喩えているので、生活費に400万円かかる社会で600万円稼いでいることには、あんまり意味がない、400万円しか給料ではもらえなくても、たとえば作曲した曲がベストセラーになるとか、発明したものが何億円かもたらしてくれるとか、文字通り「桁違い」の収入をうみだしてくれる職業でないと他人や他人がつくった会社の社員として働くことには意味がない。

ゲームでいえばチビキャラを倒して経験値をあげながらも目的としているのはボスキャラを倒してステージをクリアすることなので、チビキャラを倒すのにいくら習熟してもボスキャラを倒す技があって、次のステージにジャンプできなければラットレースからは抜け出せない。

そうして、たとえばきみが22歳の人間だとして、仕事を始めた当初の目的は、経済上は、あくまでもラットレースから抜け出して「食べるために稼ぐ」社会の支配層の側が「大学卒業者程度の人間が懸命に働いてやっと食える」ようにデザインした毎日から脱出することが目的です。

自分の職業的人生の価値と経済上の職業の価値が頭のなかでごっちゃになっているひとは、自分の職業の「経済的側面」と「意義的側面」を分けて考えるべきで、それが出来ないで、(昔の日本語でいうと)「自分探し」を職業を通してするようでは、ラットレースの社会の側がデザインした罠から抜け出せなくなってしまう。

欧州やNZやオーストラリアでは、もうどうして良いか判らなくなるとふたつの職業をもって、朝から夕方は店員で夕方からは看護師というようなのは普通で、アジアでも台湾のひとなどは女のひとは昔からふつうにそうやっていた。物理的に、いわば体力的パワーにものを言わせてラットレースから脱け出そうという試みで、ストレスに耐えて永続的に続けられる人は、たとえば夫婦で若いときからこれをやって50歳くらいでラットレースから抜け出すが、そういう例は実はニュージーランドでも普通に存在する。

なんだか力任せで乱暴におもえても、大企業でサービス残業だかなんだか、ええかげんな名前がついている無賃労働で夜まで残るくらいなら、単純なマニュアル労働でもなんでもいいからふたつ仕事をしたほうがいい、という意見は納得ができるもので、たいへんそうだが、やってみる価値がないとはいえない。

仕事をみつけるときのタブーは、「先にいけば高収入だから」という職場で、そんなことは起きても稀だから、まあ、ウソに決まってるな、とおもうほうが良い。
具体的には「当初1000万円だすけどダメだったら下げるからね」という雇い主は信用してもよいが「初めは300万円だけど頑張れば将来はすぐ1000万円だすからね」という雇い主を信じるのは、信じるほうが悪い。
昇進にしても地位にしても同じことで、20世紀はもう終わったので、初めに良い条件が出せない雇い主は、だいたい詐欺師みたいなものだとおもったほうが自分のためであるとおもわれる。

ついでに言うと医師や一定分野の技師のように細分化がすすむ方向がみえているテクノクラートも「土方化」がすすむのはわかりきったことなので、そういう職業につくのもラットレースがやや高級になるだけで、永遠にコーナーからコーナーへ、hand to mouthで、走り続けなければいけないのは判りきっている。

ふつうに工学系の大学を出て、いきなりラットレースを脱した友達の例をひとつあげれば、わし友オーストラリア人Cは卒業して、西オーストラリアの道路がない大辺境に始まって、オイルリグの技師としてキャリアを始めた。
地平線まで自分の土地であるような牧場が買いたかったからで、北海、アフリカ、あとどこだったか忘れたが、毎日ヘリコプターで通勤する(←道がないので他に到達方法がない)生活を十年送って、日本円で3億円くらいためた。
荒くれ男たちに混じって、山賊と銃撃戦を交えたりして、なかなかかなかなな波瀾万丈の技師生活を経て、いまは、念願どおり牧場を買って十年辛抱強く待った奥さんと暮らしています(^^;

ひとによってさまざまだが、

1゜ オカネと正面から向かい合って、自分なりに勝算が見込める「ラットレース脱出計画」を立てる

2゜ 世間的な見栄は顧慮しない

3゜ プライオリティをはっきりさせて余計なことを考えない

というようなことが守られている点で。20代〜30代でラットレースを抜け出すひとは共通しているように見える。

3 いいことはある

ラットレースを抜け出す方法はいろいろで、アスピナル卿のようにブラックジャックで勝ちくるって、こんなに賭博が下手なやつが多いのならば自分が胴元になったらもっと儲かると考えて自分でカシノを開いてレースから抜け出るひともいれば、ある晩、泥酔してお小遣いで ビットコインを買ったのをすっかり忘れていて、ある日、「このパスワードはなんだ?」と疑問におもって開いてみたら、そこにはいつのまにか大値上がりして2億円を越えるビットコインが燦然と輝いていた運のいい酒好きなアメリカ人サラリーマンもいる。
スーパーの買い物の帰りに気まぐれでロトを買ったら6億円の大当たりで、さっさと旦那に仕事をやめさせてスペインに家を買って引っ越してしまった主婦や、酔っ払って富豪のおっちゃんとイッパツやったら子供が出来てしまい、それが元で300億円だかなんだかのオカネをもらうことになった愉快なフランス人のおばちゃんもいる。
ラットレースからの脱出はさまざまでも、そこから初めて「自分の一生」がはじまるのは共通していて、少なくとも若い人間にとっては、ラットレースから脱出することを意識して生活することがすべての始まりで、ラットレースのなかでいくら懸命に走って上位に出て、一位になっても、そんなことにはあんまり意味がないことを先人は教えている。

なんだかオカネについて書くのは、相変わらず、ものすごく退屈で(ねむい)
次回があるかどうか判らないが、次回があれば、年収別のサバイバルプランと、そこでもまだ眠っていなければ、たくさん例を挙げて、ラットレースの、そのまた予選で出走取り消しになったような前半生を送りながら、結局はラットレースを抜け出して、人間としての一生を開始するにいたった、わし友達たちの例を挙げていこうと思います。

でわ

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生活防衛講座その1


2009年には、「アイスランドの次はニュージーランドだ」と皆が述べていた。
ここでいう「皆」というのは文字通り世界中のアナリストで経済が少しでも判るひとなら定見ということになっていて、「次はニュージーランドだ」という。
ニュージーランドが国家として倒産するだろう、という意味で、論拠の最大のものは5yearCDSが206.3bpsから215.2bpsに上がったので5年以内にニュージーランドはデフォルトになるだろう、ということだった。

その頃クレジットクランチ直後のロンドンにいたぼくは、クレジットクランチの直前に手じまいにしたオカネをニュージーランドに投入することにした(←下品)。
いろいろな資金がニュージーランドから大慌てで逃げ出すのが手にとるように見てとれたからでした。

5年たってみると経済や市場の権威のひとたちが述べた事はすべておおはずしで、正反対というか、いまはニュージーランドはバブルのただなかにある。
この奇妙な事情のあとさきは説明する必要を感じないが、単純に凍死家と経済家の考えることはそれだけ違う、という意味で書いている。

ずっとむかし、蒐集している日本語雑誌をカウチに寝転がって眺めていたら読者の経済相談室、というような風変わりな企画があって、「短大に行った学歴の平凡な主婦」と自分を表現している人が、
「たいへん素朴な質問で恐縮ですが、日本は人口が減っているのに、最近は住宅ブームで新規住宅が建設ラッシュで地価も騰がっています。
人口が減れば家はあまるとおもうのですが、なぜですか?」
と書いてある。
評論家の人が、ほとんど苦笑が見えるような感じの筆致で、でも嫌味がない言い方で、経済はそういう単純なものでない旨を懇切丁寧に書いている。

読み捨てを基本とする週刊誌を、まさか何年も経ってから読む意地悪な読者がいると、この大学教授の肩書がある評論家の人は想像もしなかっただろうが、読んでいるほうは、この問答があった一年後、住宅が過剰供給におちいって暴落したのが判っているので、軽い溜め息をつきたい気持ちに駆られます。

余計なことを書くと、日本の住居用建物市場は奇妙な市場なので有名で、まず既存の住宅に「中古住宅」という、ものすごい、嫌がらせのような名前がついているマンガ的な細部から始まって、1990年に建った家は「築25年」であるという。
社会通念として家が年齢を加えるごとに減価してゆくという中古車市場に似た市場常識に支配されていて、
ちゃんと計算してみたことはないが家を買うよりも借りたほうが経済的には遙かに賢明、ということになりそうな不思議な市場をなしている。

他の国ではどうかというと、建物が出来たのが1000年前で、床にクリケットボールを置くと、コロコロコロと勢いよく転がるのを喜色満面で見つめた買い手が、「おおお。歴史の勢いですな、これは。角の根太のあたりが腐っているのもわくわくする。直すのに手間がかかりそうだ」と相好をくずしながら述べて、その場で売買契約を結ぶイギリスのようなヘンタイな国は極端としても、ニュージーランドでも、家を観に来た買い手が、
「コンクリートブロック、というと50年くらい経っている建物だろーか」と訊くと、不動産エージェントが、さあー、多分1960年代だと思うんだけど、ともごもごいう、という好い加減さで、なぜそうなるのかというと、誰も家が建って何年経過しているか、というようなことは気にしていなくて、
建物が健全かどうか、デザインがカッコイイか、クルマは何台駐められるか、あるいは最近はバブルで土地がものすごく高くなったので敷地がどのくらいあるか、というようなことしか考えない。
そうして言うまでもなく、最も価格に影響するのは通りの名前と地域の名前で、クライストチャーチならば地域名よりも通りの名前がすべてだが、オークランドでは住所の宛名にハーンベイ、リミュエラ、パーネル、…というような名前が入るかどうかで決まる。

もう少し余計なことの続きを述べると、英語圏では、どの国にも、ここ50年ほど価格が下がったことがない通りが存在して、たとえば日本の人が知っていそうな通りならばマンハッタンのパークアベニュー沿いのアパートメントはいちども価格がさがったことがなくて。モニさんが両親からプレゼントされたアパートメントはここにあるが、不況でも不動産市場が暴落しても、日本が宣戦布告しても、小惑星がニューヨークに激突しても、価格がさがるということはない。

いっぺん買えてしまえば、価値はあがってゆくだけです。
日本の住宅市場があまりに特殊なので日本に住んでいる人の目にはなかなか見えにくいことだが、たとえばニュージーランド人は、もともとは大学を卒業するとローンを組んで3寝室の家を買って、それから平均10回家を売買して、人生の後半に到て子供が独立すれば、それまで5寝室の床面積が300平方メートル、敷地が1200平方メートル(←1000〜1250平方メートルが、もともとは高級住宅地の標準的な住宅の敷地面積だった)の家に住んでいたのを売り飛ばして、10個程度の、理想的にはブロックごと買ったフラットを持ち、死ぬまで家賃収入で暮らす、というのが物質的に成功する人生のモデルで、イギリスも、ディテールは異なるが、一生の財政プランの骨格は同じです。

いまはバブルのさいちゅうなので、初めの3寝室が、あんまり良い住宅地でなくても、60万ドル、日本円になおせば5500万円もしてしまうというバカバカしさで、どうするかというと、やはり同じバブルの渦中で、しかも絶対収入金額が多いオーストラリアに出稼ぎに行って稼いで貯金する人が多い。

普通の人が目にする日本語の記事は、経済専門家にくわえて、なんだかよく判らないブロガーみたいなひとが、厳粛な顔つきで思いつきを書いていて、自民党が大勝したのでアベノミクスが本格化して景気がよくなるだろう、とか、来年は日本経済は崩壊して全員路頭に迷うだろう、とか、専門家も受け狙いブロガーも禿げ頭の「経済学者」もみながいろいろなことを述べて、賑やかだが、数学モデルを考えてみればすぐに判るというか、前にも書いたが経済も市場もランダムウォークで、もしかすると普通の人の直観とは異なるかもしれないが、予想のようなことが成り立つわけはなくて、簡単に言えば「アベノミクスで景気がよくなる」と述べる人も「日本は轟沈する」と述べる人も、どっちもええかげんなウソツキで、現実はどうなのかといえば、
株価チャート、というものがあるでしょう?
あんなものでもただの迷信で、というと、どっと怒りの声が浴びせかけられるだろうけど、迷信は迷信なので、血液型診断と同じで、まして窓が開いたとか、窓がふさがったとか、はははは、きみダイジョーブか、というくらいヘンなものであると思う。

アベノミクスに踏み出したことがいかに国民ひとりひとりに破滅をもたらしうる、国家経済主義者らしい奇策で、その奇策のむなしさはSNBが出した正統金融政策によって、立ち会いで変わった横綱があっさり小結に押し出されてしまったとでもいうような、みっともない姿で国際市場のまんなかでたたずんでいるが、そういうことは「予想」ということではなくて、経済にはやっていいことと悪いことがある、というただそれだけのことだが、もう何回も繰り返し書いたので、もうここでは述べない。

日本の人にとっての焦眉の急は、自分の生活と、こっちはもっと難しいが、自分の将来の生活を防衛することで、経済家やブロガーのインチキなご託宣はどうでもよいから、足下を固めなければ、欧州も日本も、ただでさえグラビティポイントが高い船体の経済なのに、ぐらぐら揺れて、不気味なことこのうえない。

理由の説明を省いて現実の説明に終始すると、世界じゅうのオカネモチがやっていることは、ラットレースから抜け出すことによって産まれた余剰のオカネを「値下がりしたことがない通り」に住宅を買ってキャピタルゲインに期待するか、本質的には同じ投資の考え方だが集合住宅を買って家賃収入をつくってキャピタルゲインにつなげてゆくことを期待している。
本来は通貨は生活に必要なものや生活を楽しむものに使われるべきで、夫婦のクルマを買い換えたり、よりよい「自分達が住む家」に移ったり、家具調度、子供の自転車、というようなものに消費されるべきだが、ブッシュが政権につくまでほぼ40年にわたって住宅価格が安定していたかつてのアメリカ社会(←キャピタルゲイン目当ての住宅投資が出来ないことを意味する)、分厚くて莫大な中間層をもっていて、しかもその「中間層」に工場労働者から管理部門の部長クラスまでが含まれていたアメリカ社会とは異なって、ほんとうはもうオカネがいらない家庭にしかオカネが流入しないので、行き場を失ったオカネが住宅投資に向かって、住宅がどんどん非現実的な価格になってゆく、という循環に陥っている。

その結果なにが起こるかというと社会が繁栄すればするほど社会の9割を越える層はどんどん貧乏になって、住宅の価格の高騰で最も肝腎な家を奪われてしまうことで、一軒の家に6,7人で住んでやっと家賃を払ういまの都市部ニュージーランド人の生活は、中間層の生活の質がホームレスに無限に近づいているいまの社会を忠実に反映している。
言うまでもないがアベノミクスが「社会の繁栄」と呼んでいるのは、西洋型の「オカネがあまった人間の懐に更におおくのオカネがはいる社会」の繁栄のことで、分配の構造が変わらない以上、繁栄は直截生活の質の低下に結びついてゆく。

逆にアベノミクスが失敗すれば個々の日本人から借用した形になっているオカネは永遠にもどってこないままディーラーの手元におさまってしまうわけで、この場合は、いちど沈降した経済社会全体を元のGDPパーキャピタ25位あたりに戻すことも難しくて、あんまり使わないほうがよい指標であると言えなくもないが、日本語ツイッタで、円の実質実効貨幣価値は、 すでにプラザ合意以前の70円程度にさがっていると教えてくれた人がいて、確かめてみるとそのとおりで、うひゃあ、とおもったが、あんまり経済に興味ないもん、という人のために簡潔に述べると、何のことはない、日本はすでに中進国になっていて、「アベノミクスが、うまくいったら先進国にもどれるかんね」というところまで、名実ともに、通貨の価値もともに、ずるずるとアベノミクスのすべり台を滑り落ちてしまっている。

SNBの決定がマスメディアが伝えるより世界経済に対しておおきな影響を与えていることや、アベノミクスがすでに失敗としかいいようがない様相をみせて日本を一挙にビンボ地獄に送り込もうとしていることは、別に、ここに書いても仕方がない。
次回から、個々の人間、ケースバイケースで、このだんだん無茶苦茶になりつつある世界を生き延びてゆくには、どんな具体的な方法があるか、退屈でも、ひとつひとつ述べてゆこうと思います。

(画像は家の引っ越し。いらなくなった建物をちょうど自動車を買うように建物ヤードで買って、こうやって建物ごと使う場所まで移動させまする)

17/01/2015

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Sienaの禿げ頭


イタリアがもっか如何にビンボであるかは幹線道路を走ってみればすぐにわかる。
イタリアの道路は高速道路が私有であったり、国有やコムーネがもってるのや入り乱れていて判りにくいが、公共道路は徹底的にボロボロで、制限時速110キロの道路に、ぼっこおおーんと穴が開いていたりするので小さい車輪のクルマだと危ないほどです。
しかもそういう穴ぼこをパッチアップするのにトラックでやってきたおっさんがひとりでアスファルトを埋めていたりする。安全要員ゼロ。
トラックを万が一のときの盾にして、おっちゃんがどっこらしょとアスファルトを盛っている。

朝、起きたら天気が良かったのでSienaに行くことにした。
水曜日はマーケットが立つ日だとミシュランに書いてあったのを思いだしたからです。

いま調べてみたら日本語では「装飾写本」というそうだが、英語ではIlluminationという。
https://en.wikipedia.org/wiki/Illuminated_manuscript
確かに欧州語でも金箔や絵を使わない装飾的文字だけのものでも骨董美術店に行くとたとえば「Manoscritto mininato」と言って売っているが、本来は金箔や絵をちりばめたものだけについて使われる言葉で、「装飾写本」では値段にして1ページ€100くらいから売っている文字が装飾的な手書き本が入ってしまう。
だからここでも日本語の「装飾写本」という言葉でなくて、ただ「Illumination」のほうが良さそうです。

SienaのカテドラルにはIlluminationで有名なライブリがあるので、そこに行きたい、ということがある。
それにマーケットがあればどこにでもホイホイとでかけていくのも、このブログを昔から読んでいる人にはおなじみのわしの癖で、多分、中世くらいからの先祖と同じ「マーケット」と聞くと浮かれてしまうケーハクさがいまだに血中に残っているのだと思われる。

いま「明日はシエナに行くべ」と述べたツイッタを見ると村上憲郎が返答に「30年前に女房とふたりで闇雲に町中を走ったら偶然Piazza del Campo
http://it.wikipedia.org/wiki/Piazza_del_Campo
に出た」と恐ろしいことを書いている
https://twitter.com/noriomurakami/status/339533964765167616
が、なぜ恐ろしいかというと、ほんとうのことを小さい声で言うと道路はなにしろカンポ広場やドゥオモに出るように出来ているので闇雲に走ってもかなりの確率でどちらかに出るが、たどりつくまでには人間の雑踏で、5,6人はひき殺さなければならなかったはずで、村上憲郎はカーマゲドン
http://en.wikipedia.org/wiki/Carmageddon
を30年前に実地に行って人生の秘密にしていたものだと思われる(^^;)

わしはいまでもスーパー血気盛んな村上憲郎と異なって温和で成熟したおとななので、そんな乱暴なことはしません。
イタリアの町のまんなかで、マーケットが立つ日に駐車する余地があるわけもないので、町の外縁、およそ1キロくらい離れた空き地の無料駐車場をみつけて、そこにクルマを置いていくことにした。

クルマを降りてみるとマーケットへの道がさっぱり判らないので、近くにクルマを駐めて書類を片手に歩き出しつつあるおっちゃんに「マーケットをやってる場所にはどうやって行くのですか?」
と訊いてみた。
おっちゃんは、イタリアの人にはよくある身長が165センチくらいで、風采の立派な紳士っぽい人である。
背広の仕立てがたいへんよろしい。
靴が途方もなくかっこいい。
「マッキーナ(自動車)で行くの?それとも歩き?」
モニが、多少慌てたのか、クルマだけど歩いて行きます、と応えている。
おっちゃんは、うーむ、という顔になってから、しばらく(およそ3秒くらい)長考してから、
「マッキーナで行くの? それとも歩き?」
とさっきとまったく同じ質問をもう一回しておる(^^
他に質問のありかたを考えてみたが、やっぱり思いつかなかったのでしょう。
「歩きです」と応えると、おお、そうか、と述べてから、
しばらくして、「この道路を向こうがわへ歩いて行くと、ラウンドアバウトがあって、そこを橋の側に渡って、ピッツエリアの前を道路を横断して、そこから50メートルくらい行くと長い階段がある。その階段をあがって、ずううううっと歩いて行くともうひとつラウンドアバウトがあって、そこのクルマだとすると3番目の出口なる道路をわたると、ロムルスとレムスがshe-wolfからお乳を飲んでる銅像が道の両側にあるところに出るからね…あっ…ロムルスとレムス、判る?」
「判ります。ダイジョブ」
「そこをすぎてゆるい坂道をてくてくと歩いてあがって行くと、左に曲がる道があって…(中略)… バスのターミナルが左に見えるところに出るから、その右側の公園をずっと歩いてゆくとマーケットがあると思う。判った?」
「ぜんぜん、判りません。ごみん」
おっちゃんは、しばらくわしをじっと見上げていたが、しょーがないな、頭が悪いのだな、気の毒に、という内心の声が明瞭に聞こえるような、しかし、あくまでチャーミングな顔でニコッと笑うと、
じゃ、ぼくはさ、仕事まで少し時間があるから一緒に歩いていってあげるよ、ついておいで、と驚くべきことを言うなり、さっさと先に立って歩き出してしまった。

モニさんが、すっと追いついて、180センチよりもちょっと高いモニさんと、165センチくらいのおっちゃんは、おっちゃんがモニをクビが痛くなりそうな角度でみあげたり、モニさんがおっちゃんのほうに屈んだりしながら、何事か笑いあいながら歩いてゆく。
やや遅れて、二人の後を歩いているわしには、露骨にうらやましそーな視線をおっちゃんに投げている他の出勤途中の老若の男どもの様子が観察できて面白い。
ときどきモニが後ろを振り返って、わしに知らないイタリア語の単語の意味を聞いたりする。

ところでおっちゃんは周辺部のみを残して見事なつるっぱげであって、後をついて歩くわしにはまぶしいほどであった。
わしはおっちゃんの目にあざやかなハゲ頭をみながら、ハゲもこのくらい、すかっとハゲてると、昨日のパーティのドイツ人の知性ありげな銀髪頭なんかよりかっこいいな、と考えた。
わしがモニなら、目的地に着いたところでハゲにチュッとしてあげるであろう。
髪の毛がないぶんだけ(多分)ハゲ頭は清潔であると思われる。

バスのターミナルが見えるところについて、モニとわしに右手の公園を指さして、「ほら、あれがマーケット」と言うのでお礼を述べようと思ったら、あっというまに踵を返して、すたすたすたと元来た道を戻っていってしまう。
その「間の外し方」というか、相手にお礼を言わせない、ちょーかっこいい、高文明度のおやじだけにしかできないタイミングの外し方を記録しておきたくて、この記事を書いているのです。

お礼もハゲにチュッも出来たものではない素早さでおっちゃんは去って行くと、3メートルほど歩いたところで、ぴたっと歩を止めて、くるっと振り返ると手を挙げて、「楽しい一日を! なんて綺麗なお嬢さんだろう」と言って、また、こちらにはなにを言わせる隙も与えないまま、燦然と空に輝き始めた太陽の光にハゲを輝かせながら、ずんずんずんと坂をくだって行ってしまった。

モニとわしはイタリアおっちゃんのあまりのかっこよさにカンドーしてしまいました。のみならずシエナは一挙に「かっこよくて文明度が高い上品な町」というイメージを獲得してしまった。

マーケット自体は、店の数ばかりが多いあんまし面白くないマーケット(シエナの人ごめん)で、全体に数が多いなんだか巣鴨駅前商店街の軒先が並んでいるような洋服屋台や、花、あとはほんのいくつかあるだけの魚や肉を売っている屋台が出ているだけで、中国のひとたちの巨大な集団がふたつほど航行しており、60歳代くらいの日本人のカップルが数組、お行儀良く歩いている。
あとはお決まりのドイツ人たち。
地元のおばちゃんたちとおじちゃんたち

モニとわしはフェネルのソーセージを買っただけで、Illuminationを観にカセドラルへ向かいました。
シエナの町は、(中世の町にしては)道幅が広くて、明るい町並みで、清潔で綺麗でもあって、30年前に村上憲郎夫妻にひき殺されたひとびとも、あれなら成仏したのではないだろうか、と思わせる、上品な町であった。
モニは一個ずつIlluminationの前に立ってはメモをとって次に移動するので、結局カテドラルに4時間くらいいたのではあるまいか。
そのあとシエナの町をぶらぶら歩いて、いままでの一生で一等うまいカフェ・ラテを飲んだり、すごおおく美味そうなのに食べてみるとマクドナルドのハンバーガーよりも不味いパニーニをかじって捨てたりした。
日本の人にために報告すると、大集団でぶおおおおおんと移動する中国のひとたちや、少人数のグループにわかれてなんだかものすごいでかい声で、まわりの観光客をびびらせまくっている韓国のひとびとに較べるとシエナでみた日本人観光客は、多分団塊世代と思うがカップルで、身なりもよくて、ややひきつったような緊張した表情はよくみるとヘンだけど、他は自然で、モニと日本のひとだね、日本、なつかしいね、と話したりした。

土産物屋の店先で、だんだん露骨になってくる欧州の中国嫌悪病を反映して、Made in China と書いてChinaにおおきくXをつけた陶器の置物

を置いてあったりしていたが、中国の人、韓国の人、日本の人、と順番にみると、まるで洗練されてゆく観光態度の歴史を並べてみせられているようで、わしガキの頃の日本人観光客の行状を思い出しても、もしかするとこういうことも、単に時間の問題なのかなあ、と思ったりした。

新大久保の本来の日本人らしくない粗野でバカっぽい脳が半分憎悪で溶けてなくなってしまったようなひとびとのくだらない騒ぎや、橋下徹大阪市長の名状しがたい卑しい心根と一部の日本のひとが他人にそれと指摘されてすら気が付かない惨めな人間性の欠落を見事に国外に向かって再喧伝してしまったスピーチ、というようなことをちょっとだけ考えたが、天気が良いせいか、すぐに考えは朝方出会った文明人的に親切なハゲおっちゃんに戻って、ああいう人、日本にもいるものな、日本が新大久保騒ぎや大阪市長のような惨めな姿をさらしているのも、そんなに長くない期間だろうと考え直して、クルマまで歩いて戻りました。

帰りには国道沿いのシエナの市境に近いトラットリアに寄って、「ガメは人間が相変わらず保守的だなあー」とモニに笑われながら、ソースがかかっているというふうではない、謂わば「乾いた」、本格的で無茶苦茶うまいスパゲッティ・ア・ラ・カルボナーラを食べた。

モニさんは「ジプシー風」ペンネ。デザートにミルフィユを食べたら、添え物のオレンジにかかった蜂蜜にちっこいちっこい蟻が二匹溺れて入っていたので、文句を言うというのではなしに、瓶のなかを調べたほうがいいとおもうぞ、と支払いのときに述べたら、店主のおっちゃんが愉快そうに笑っていた。
€37のお勘定を€30にまけてくれた。
蟻は、いいんだよ、別に、とゆったら、もちろんさ、ゴキブリとは違うからね、でも釣り銭がないんだよ、というので、ほんとうかどうかは判らなかったが、厚意を受け取ることにしました。

トラットリアの駐車場でモニがううううーんと腕をいっぱいにのばしておおきく伸びをしながら、「人間はいいなあ」と言う。
「最高だな、ガメ」
「うん」と、わしも心から頷いて、また「どっかん」な穴が開いているハイウェイを戻ってきたのでした。

なんちゅうか、良い一日だった。
クルマを降りて部屋にはいった途端、豪雨が降り始めたところをみると、相変わらずの気まぐれで神様が台本を書いた一日だったようでもある。
神様が自分で作るIlluminationは、やっぱし中世の坊さんが目をしょぼしょぼさせながら描いたIlluminationよりも、やはり少し手がこんでいるのかも知れません。

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移動性高気圧

大雨のなかをモニとふたりでクルマからスーパーマーケットのなかに駆け込んでゆくだけでも楽しい。

30歳の人間の生活は複雑で、事業(はっはっは、「事業」だって)どころか家の運営にすら複数の人が立ち働いていて、めんどくさいたらありゃしない。
でも生活を巻き戻して簡潔にしてしまう方法はある。
旅にでるのね。

今日は朝ご飯を食べただけだけど、途中においしそうな店がなかったから、イタリア式乾パンとワインだけでいいび。
普段は家のひとびとが代わりにでかけてくれるスーパーマーケットにモニとふたりででかけて、水とワインや、Tonnoの瓶詰め、パスタ(麺もペストリも!)、プロシュートに白アンチョビ、アラビアータソースを買う。
キッチンがあるところに泊まれば料理もする。
せっかく鍛えた料理の腕前を鈍らせないためには大事なことです。

旅行に出る度に人間の暮らしは簡単なほうがいいなあー、と思う。
生活が単純になるとテレビはおろかインターネットもあんまり見なくなるよーだ。
ラツィオからウンブリアへ抜けるイタリアの曲がりくねった山道を雷雨と競争で駆け抜ける。
雷雲に追いつかれて買い物袋を両腕に抱えたままびしょ濡れになったスーパーの駐車場で「バカップル」そのままに笑い転げている。

さっきまでの豪雨がウソのように晴れて、青空が広がったTODIの田舎道で馬を飼っている牧場に行き当たったので白い馬ばかりが5頭駈けているパドックの柵にもたれて、寄ってきた馬と遊ぶ。

ガメは、どうしてどんな馬にも好かれるのだろう?という。
考えてみれば馬だけではなくて犬も猫も。ロバまで!
「あっ、ロバはね、説明できるぞ。
彼らは日本語で話すのさ。
いいよおおおおー!て言う。
いいいいよおおおおおおー!!
ロバたちや日本人たちにとってはOKって意味なのさ。知らなかったでしょう?」
モニが、ウソばっかりと言いながら笑いころげている。
ほんとうのことなのに。

どんな動物にも好かれるのは、ぼくがほんとうは人間なんかじゃないからさ。
知ってるかい?
思い出せなくなってるだけで、モニも、もともとはぼくの種族なんだぜ、と冗談を言おうと思ったが、なんとなく言いそびれてしまった。
自分が何であったかを思い出されて、この楽しい地上の生活が終わってしまっては困る。
サイヤ人は辛いのだとゆわれている。

午前3時をまわったころ、窓の鎧戸の下を誰かがおおきな声でひとり声を言いながら歩いている。
RIETIの田舎にいるはずなのに日本語です。
はっきり意味が聴き取れないが「どうしてこんなことになったのだ」というようなこを言っているように聞こえる。
半睡半醒の間が睡眠に傾いているあいだは、それは軽井沢の「山の家」で、鎧戸の向こうなのに青い月の光が見えている庭だった。
だんだん目が覚めてくると、RIETIのオリーブ畑に囲まれた(元はワインセラーだった)一軒家を改造した宿屋の寝室にいるのが明瞭になってくるが、それでも同じ声は歴として窓の下に聞こえている。

でも抑揚だけを聞くと日本語に聞こえるその「鳴き声」は日本語としては意味をなしていなくて、なにかの獣の鳴き声のようである。
見当がつかない生き物の声を訝ってベッドに起き直っていたら到頭モニも目をさましてしもうた。

「イノシシかな?」と言うと、モニはさっさと起きていって窓を開けて身体を乗り出して懐中電灯で音がする方を照らしていたかと思ったら鎧戸と窓をしめてベッドのシーツのあいだにもぐりこんでしまった。
なんだった?
と訊いても返事をしてくれません。
シーツを無理矢理ひっぺがして、「ねえ、なんだったの?」と訊くと、
ニカッと笑って「蜘蛛の巣にかかったおおきなハエ」という。
ウソ。
ほんとです。
ウソ。

やむをえず自分でも窓を開けて軒先をみあげてみると、おおきなクモの巣にひっかかったおおきなハエだった。
なんだかモニがシーツをかぶって泣いている様子なので顔を覘いてみると泣いているのではなくて、声を殺して笑っているのだった。
ものすごく苦しそう。

「ガメって…….. イノシシかな? だって! イノシシ!! ガメの世界のイノシシさんにあって声を聴いてみたい…あんな鳴き声のイノシシって、火星かどこかにいるのか?…ああ、もうダメ…くるしい」

旅が教えてくれることのうちには、最良の人生には意味も教訓もないのだ、ということが含まれる。
青い空に輝かしい太陽がのぼるように幸福があらわれて、夜には水煙のように空ににじむ満点の星の光がきみと愛するひとのもとに静けさを届けてくれる。
そのときにこそ、一日という長さではないのはもちろん半日ほどもなく、一時間ですらなく、ただの一瞬間にすぎなくても、きみは「言葉によって翻訳されていない直截な幸福」を手にするのかもしれません。
神の掌に直に触れたひとのように。

ほんとなんだぞ。

24/05/2014

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「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」について

伝説的ヨット乗り、フランス人のBernard Moitessierは世界で初めての単独無寄港世界一周ヨットレースであったSunday Times Golden Globe Raceに参加する。
なにしろGPSどころか近代的なバタンすらない頃で、ヨットで無寄港で世界一周をするなどは無謀な冒険とみなされた時代である1968年のこのレースで、他の参加者がすべて脱落したあとRobin Knox-JohnstonとBernard Moitessierの二艇のketchだけは終盤まで生き残って、すべての難所を乗り越えて、いまや目前の最終目的地の連合王国を目指す。

Bernard Moitessierのヨット「Joshua」が喜望峰をまわって大西洋に姿をあらわしたときのフランス人たちの熱狂はすさまじいもので、イギリス艇とデッドヒートを繰り広げながら大西洋を北上して、もうじき欧州の海にあらわれる「フランスの英雄」のために、フランス海軍は歓迎と伴走のための大艦隊を組織して出航する準備にかかり、政府はレジオンドヌール勲章を約束する大騒ぎになった。
少なくとも10万人の大観衆が到着港には見込まれていた。

妻のフランソワーズはずっとあとになって「でもわたしには何かが起きるとわかっていました。わたしはBernardというひとを誰よりもよく知っていましたから」と述べている。
この、自分の妻によって「詩人、哲学者」と描写された偉大な航海者のBernard Moitessierは、ゴールを目前にして突然ヨットを反転させる。
彼自身の言葉によれば「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」によって、彼は、なんと二周目の世界周航に向かってしまう。
破天荒どころではなくて、いまでいえば火星から帰還して地球軌道にもどってきた単独宇宙旅行の飛行士が勝手にもういちど火星をめざして飛び去ってしまうようなもので、自殺的とも狂気の行動ともみえる行動だった。

Bernard Moitessierの「狂気の反転」のニュースが伝えられるとフランス国民は怒り、悲しみ、失望に沈んで、途方もなく混乱した気持ちにおちいっていった。
Moitessierの娘は三日間泣き続けて、「おかあさん、わたしたちはこれからどうやって生きていけばいいの?」と訊いたが、母親は「あれがお父さんなんだから、このまま生きていくしかないじゃないの」と答えたそうである(^^)

Bernard Moitessierは再び難所だらけの「Roaring Forties」
http://en.wikipedia.org/wiki/Roaring_forties
を通過し、まるで選んだように帆船にとって困難な海ばかりを通ってタヒチに着く。
ようやく、そこで航海を終える。
10ヶ月、70000キロメートルに及ぶ単独航海は、もちろん、新記録と呼ぶのもばかばかしいほどの大記録だったが、Bernard Moitessierは自分が夢中になって読んでいた本を読み終わってしまいたくなかった一心で、自分がいったいどれほど遠くまで来たかを、知らなかったのではないかと思われる。

Bernard Moitessierはレース前のインタビューで「このレースにカネや名声めあてに参加する人間はひどく後悔することになるだろう」と述べた。
ひとびとは、なるほど、と彼の簡明すぎる言葉を理解したつもりで頷いたが、ほんとうは何もわかっていなかった。

Bernard Moitessierは島影もなにもない「圧倒的な莫大の感覚」に満ちた大洋を愛していた。
そこで自分を発見し、自分自身への信頼を見いだし、鏡に映る自分の姿ではない自分というものの素の現実の姿を自分の目でみつめる方法を手に入れたひとだった。

長い航海の最後の一瞬で、彼は「ゴールに着いてしまえば、すべてが消えてただゴールへ到着したという達成だけが自分を説明することになる」ことに気が付いて、それに耐えられなくなっていったのだろう。
彼が、反転する、という破天荒な行動に出たのは、どうやっても「航海している自分」よりも「ゴールを目指して航海し勝利のなかでうすぺらな勝利者になってゆく自分」を下位におくことができなかったからであると思う。
言葉にならないものが、言葉によってかきけされることに耐えられなかった、と言い直してもよい。

子供の頃、Bernard Moitessierの物語を読んで、どれほど興奮したか、うまく説明できない。
世界周航レースの勝利者であるKnox-Johnston卿の物語を読んだときには明るい気持ちの単純な愉快さが感じられただけだったが、Bernard Moitessierの物語を読んだあと、わしは理由がわからない涙がとまらなくて困ったのをおぼえている。
直前で勝利を拒否した航海者の、奇妙な、しかし高貴な魂を感じさせずにはおかない気高さが、ガキわしを感動させたのだと思われる。

わしは人間は目標をたてて精励して努力するときが最も尊いのだというのは嘘だと思う。
Bernard Moitessierは海にいたいだけだった。
たったひとりで陸影のない海をすすむことに自分の存在のすべてを見いだしていた。
先週、船をだしてハウラキガルフの外へ遊びにいく途中、もう夕陽がおちるころ、オレンジ色の海面を横切って、陸地からかなり離れた沖合で、小さなローイングボートで波を切りながらすすんでゆく人を見て、なんて危ないことをするのだろう、と考えたが、考えてみれば人間の一生は、要するにいつ転覆させる波がくるかわからない海面を小さなボートを漕いでゆくようなもので、帰ってから、あれは人間の一生の姿そのものに過ぎないのだ、と考えたりした。

Sunday Times Golden Globe Raceには、実はこのレースによって歴史に名前を残すことになったもうひとりの人物が参加していて、このひとの名前は聞いたことがある人もいると思うが、Donald Crowhurstという。
航海用ビーコンの発明者で、ビーコンを作って売るビジネスがうまくいかなかくなっていたCrowhurstは自分のビジネスを苦境から救う宣伝効果のために当時としては画期的なデザインであったtrimaran
http://en.wikipedia.org/wiki/Trimaran
でレースに参加する。
いまではほとんどのヨットレースでtrimaran が見られるとおり、冒険的だが合理的な考えで、Donald Crowhurstには実際にレースに勝って名声と大金を手にするチャンスがあったとわしは思っている。
trimaranの欠点である横転時の復元性を改良するためにCrowhurstが考えたマストの先のバルーンとアウトリガーのバラストの組み合わせで出来た復元装置ひとつとっても、Crowhurstの独創性がはったりではなかったことが判る。

Crowhurstは、よく知られているとおり、レースの途中で身を隠して、途中の大西洋復路からレースに再び参加して世界一周をしたと装おうとして航海日誌を偽るが、レースの参加者が少なくなるにつれて高まる自分への歓呼の声に絶えられなくなってサルガッソー海で悲劇的な自殺を遂げる。

航海者というものは、本音をのべれば、目的地などはどうでもよくて、「ただもっと遠くに行ってみたい」と思っているだけなのであると思う。
大叔母の家の、わしがいつも泊まる寝室には18世紀風の巧緻な筆使いで丹念に描きこまれた、地球の縁から流れ落ちる滝に転落しつつある4本マストの帆船の絵がかけてある。
その絵の下には、日本語に訳せば「だから、ゆーたやん」という意味の言葉が書いてある。

人間も赤ん坊のときからなんだかとても忙しそうだが、夢中になって走り回って、勉強して、恋をしたり、オカネが儲かったり、誰も見つけたことのない小さな真理を新しく発見して有頂天になったりしながら、奇妙な海図のなかをすすんで、最後には果てしない海原のどこかで航海を終える。
よく考えてみれば目的地に着いて寄港してしまった人は、そこでほんとうには一生は終わってしまったのである。

Donald Crowhurstの過ちは航海を自分の一生に資す道具であると思い込んでしまったことだった。
世界一周という航海を自分の名声と経済的成功への道具だと意識した瞬間から、彼にとっては航海は実行するのが不可能なほどの苦痛に満ちた重い労役に変わっていった。
Knox-Johnston卿がレースの賞金をDonald Crowhurstの未亡人と遺児たちに送ったのは、人間の悲惨の罠にはまってもがけばもがくほど身動きがとれなくなっていった、ひとりの苦闘する人間への、航海をするための道具として人間の一生を眺めるというまるで正反対の角度から一生をみつめて終始した冒険者からの挨拶であったのだと考える。

わしはDonald Crowhurstが電報を打って発表する航海記録を海の上でニュースとして聞いていたKnox-Johnston卿やBernard Moitessierが信じたことはいちどもないのではないかと思う。

「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」が、トリマランのビジネスマンには、かけらも見あたらなかった。
そうして、そういうことどもというものは、怖ろしいことに、いつでも「手のひらにさすようにして」言葉によって説明できないものを共有するひとびとには判ってしまうものであるからです。

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「微かな叫び声」についてのメモ

たいてい秋から冬に向かう寒い夜ふけ、窓をあけたまま机に向かっていると、遠くから微かな叫び声が聞こえてくることがある。
手を止めて、ノートブックの上にペンを置いて、テラスに出て耳をすます。
きみの両親の家は、なだらかな丘の上にたっていて、遠くまで見渡せる田園の一角にあるが、その声がどこから聞こえてくるか定かだったことはない。
なんだか地平線の向こうから聞こえてくるようでもあるので、しばらく闇のなかをみつめたあと、きみは自分の部屋にもどって、ペンを手にとって、また本を広げる。
だいたい午前1時か2時頃、あの声はなんだったろう、と訝しみながら抽象的なもの思いのなかに戻ってゆく夜が、なんどもあった。

船のキャビンのなかで目をさまして、モニさんを起こさないように、そっと舳先にある寝室からでて、甲板への短い階段をあがって、まっくらな海面を眺めながらウイスキー入りのコーヒーを飲んでいると、聞こえるか聞こえないかのような声で、歌のような、すすり泣いているような、あるいは遠くで呼び合っているような声が聞こえてくる。
星のない夜、町からも島からも遠く離れて、広い海のうえで、ただ自分の船の停泊灯だけがわずかに辺りを照らしている。

きみは甲板の上に椅子をだして、声がするほうを眺めている。
もう少し精確にいえば、声がするほうの闇を眺めている。
風が立てる音をまちがいはしないだろう。
だとすれば、あの声はどこから聞こえてくるのだろう?
凪の海のまんなかほど静かな場所はこの世界にはない。
どんな小さな軋音のひとつひとつのなにがどんなふうに音を立てているのか知悉している、船自体がたてる小さな音の他には、ただ静けさだけがある。
自分の体内がたてる音と船のたてる音以外にはなにも聞こえない静寂の遙か遠くから聞こえてくる声に耳をすまして、きみはなんとか聞こえてくる言葉を書き留めようとする。
ラテン語のようにもイタリア語のようにも聞こえるが、ほんとうは人間の言葉なのかどうかもわからない。
ただ、「嘆いている」ということがぼんやりとわかるだけである。
なにごとかを悔いて、悲しんでいるひとの声であるように聞こえる。
しかもそれは歴然と男の声である。

人間は他人に対してほとんど関心をもっていない。
だからきみがなにをやっていても、他人の目を気にするくらいばかげた心配はない。
ときどき友人たちがやってきて、きみの新しい髪型はヘンだ、変わった言葉づかいをするようになったんだね、ということがあるが、それは手近に目に入ったきみを材料に気張らしをしているだけである。
特にきみに関心をもっているわけではない。
今日は雲が低いね、と述べたり、風が少し湿気っているようだ、と述べるのと同じで、特に意味がある行為ですらない。

それなのにきみが「自分がやっていることはそんなにおかしいのだろうか?」「自分は他人からみると異様なことをしているのではないか?」と往々にして思い悩むのは、落ち着いて考えれば、きみの母親がきみが目をさましているあいだじゅう、絶えずきみに関心をもって、きみが楽しそうであれば一緒に喜び、むづかれば周章して、大慌てでだき抱えてあやしてくれたからだろう。

おどろくべし、きみは18歳をすぎてなお、世界を母親の投影として眺めている。

若い人間が社会に第一歩を踏む出すとき、そこから先の一生にとって最も有用な知識は、「世界は基本的に自分に対して関心などもっていないのだ」ということであると思う。
ぼくは女びとと結婚して子供までいるのに、「愛情は絶対でない」と言ったさびしい男を知っている。
ペンザンスという町の、断崖に近いパブで、1パイントのブラウンエールを飲んだあとだったが、しかし明瞭にその男は「あげつらうほどの愛情など男と女には存在しない」とぼくに向かって述べたのだった。
ぼくは鳶色のおおきな目を見開くようにして自分の夫を懸命に見つめる癖のあるその男の奥さんを思い出して、胸のどこかで痛点になにかが触れたような小さな、でも鋭い痛みを感じたような気がして、なにかに向かって傷口がひらいてしまったような気持ちになったものだった。

恋愛論というような観念からはいって、ヒマな人間特有の思考上の堂々巡りをして遊ぶのならばそれでもよいが、現実世界では、この男はまず「世界が自分に対して関心などもっていない」という第一原則を忘れているのだと思う。

なんとかして自分の内側をみつめただけでつくった、というのは自分の心から世間の反映を注意深く取り除いた作品を売ることだけで生きたいと願う芸術家が最もよく知っていることだが、世界はきみの突出してはいるけれどもささやかな人格や才能になどこれっぽっちも興味をもっていない。
いまは職業的な彫刻家になっているが、六年間ニューヨークで苦闘しなければならなかったぼくの友達は、自分が持ち込んだ作品を前に、まだ自分が背を向けないうちに画廊主が自分の名刺をゴミ箱に放り込むのを何度も目撃しなければならなかった。
「きみの作品はすぐれてはいるが、ただそれだけだ」
「もっとおおきな名前と一緒にもどってきてくれたまえ」

自分の魂を目に見える形や耳に聞こえる音楽に変える才能に恵まれた人間にとっては「世界が自分になど関心をもっていない」のは、ほとんど自明のことであると思う。
ただ才能のない大多数の人間だけが、自分に対して世界が、良きにつけ悪しきにつけ関心をもっているのだと妄想する姿は、奇妙だがありふれた光景であると思う。

きみが美しい若い女なら裸になってみせるということはできる。
欲望をむきだしにした哀れな顔の男たちが、くいいるようにきみの裸体を眺めるだろう。
だが、そうやってきみが世界をおどろかせたつもりになっていられるのも、男達が関心をもっているのは彼等自身の欲望であって、きみではないことに気が付くまでのことである。
それに気づいたあと、それを男達の自分自身の欲望に対する関心でなく、自分への関心であると当の男達に誤解させて、自分への関心をつくりあげていくことも出来るが、それはまた別の事柄に属する。

世界が自分に関心をもっているかもしれないと漠然と考える哀れな男や女は、だから愛情ということを理解できないで死ぬだろう。
個人に対して関心をもつという機能をもたないこの人間の世界は、世界、というよりは実は一個の「条件」にしかすぎないが、奇妙な観念にとらわれたきみをじっと見つめているきみの伴侶の心配を露わにした顔に気づきもしないで、きみは窓を開けて、世界からきみの姿が見えるようにする。
誰もきみなどみていないことに気づきもしないで。

T.S.Eliotが生み出したアルフレード・プルーフロックは、

I shall wear the bottoms of my trousers rolled.

Shall I part my hair behind? Do I dare to eat a peach?
I shall wear flannel trousers,and walk upon the beach.
と自虐的な科白を述べたあとで、

I have heard the mermaids singing, each to each.

I do not think that they will sing to me.
と言っている。

歴史上、さまざまなひとがさまざまな形で、「遠くから聞こえる声」について述べてきた。
それは宇宙が自分に対して無関心であるという明瞭な、しかし不可知な事実に気づいた科学者が呆然として自分の研究の余白に書き記した言葉であることもあれば、聖職者が絶望のあまり書き付けた荒々しい文字である場合もある。
いずれの場合も、微かな声を聴くようになりはじめるひとびとは、世界が諸条件にしかすぎない、ということを認めて、世界を認識するためのスタート地点にたったという共通点をもっている。

それを絶望と呼ぶ人もいれば、単なる認識の原点であるとみなすひともいるだろうが、どちらの観点に立つかは、どっちにしろ、ぼくにはあまり関心がない。
聴き取りにくい声を聴いて、自分の心のどこかに書き留めておこうという、極小な志があるだけのことのようにみえる。
多分、それだけが世界というものに意思をもたせるためのゆいいつの有効な方法だと思っているからなのかもしれません。

05/03/2013

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はっぴー

日本語になおすと「幸福の科学」で四谷大塚進学教室のシステムをコピペしてつくった新興宗教みたいだが「Happiness Reseach」は人気のある分野で、ハーバード大学の講座のなかで最も人気があるのも、この「幸福の科学」である。
アメリカで最も人気があるのは件のドーパミン理論で、最もドーパミンが放出されやすい状況を最も幸福になりやすい状況と定義してさまざまなリサーチを行う。
遺伝的因子が5割、オカネモチであったり社会的地位が高かったりの社会的成功の要因が1割で、残りの4割の要素である友人関係や家族、過ごす時間の質、というようなことを考え直してディプレッションを回避したり、幸福感を増大させようという思想に立った科学である。

英語世界では「世界で最も個人が不幸な国」と言えば、ほぼ自動的に日本をさす。
そんなバカな!
いいかげんなことを言うと承知しないぞ!
という声が聞こえてきそうだが、ほんとうなものは仕方がない。
日本が世界で最も不幸な国であるというのはただの常識であると思う。
日本の人の面前でそんなことを言うひとはいるわけがないので、こういう話は日本のひとの耳が届かないところで英語人同士でしかなされないことを考えると、アメリカに20年住んでいるという日本の人でも、日本語のメディアばかり見ていれば、周囲のアメリカ人が「日本ほど個人を不幸にする社会はない」と思っていることにまったく気が付かずに、アニメを通して憧れの国だと思われていると錯覚して、毎日とくとくとしてアニメや日本料理の話をして、周囲に気の毒がられている、という状況も夢ではない。

高名な心理学者Ed Dienerが登場するRoco Belicのドキュメンタリ映画 「Happy」
http://www.imdb.com/title/tt1613092/
もまた英語世界の「常識」を踏襲して日本を「最も個人が不幸な国」として取材している。
誕生日に「大事な仕事の話があるから」というので会社の同僚と「飲み」につきあわされる39歳の会社員は、家族よりも仕事が優先される日本の日常を、屈託のない笑顔で向けられたマイクとカメラに向かって話す。
「明日は妻と会うからダイジョーブですよ」と明るく笑う。

トヨタ自動車の品質管理部門に勤めていた夫を過労死で失った妻は、玄関にあらわれた男性が一緒に過ごした時間が少ないせいで父親だとわからない娘のビデオや、死ぬ直前に上司に助けてほしい、と述べながら書いた申し送り状をインタビュアーに見せる。

観ていて最も悲惨な感じがするのは、あるいは日本の人には感覚的に判りにくいかも知れないが過労死で夫を失った妻達だけでつくった、お互いを励ましあうためのコーラスグループで、「良い夢を見てね ママはパパの笑顔を胸に抱いて生きる ママは負けないよ」という合唱曲を声をあわせて歌う姿は、西洋人にはここに至ってまで発揮される集団主義を思わせて、二重の意味でやりきれない気持ちにさせられる。

日本とは全く相反する価値観をもった社会として、ブータンが挙がっている。
ブータンの情報省大臣であるDasho Kinley Dorjiが画面に登場して、最近ブータンが世界に向かってヴォーカルに主張しているGNH (Gross National Happiness)というブータンの国家的思想について雄弁に力説する。
GNHは、見たとおり、GDPと対立的な、国民がどれだけ幸福であるかが国家の実力だと述べる国家指標のことです。
なんとなく自社の製品の優秀さを力説するトヨタのセールストップを思わせる口調でにやにやさせられてしまう。

あるいはデンマークのCo-Housing Community
http://en.wikipedia.org/wiki/Cohousing
がもたらす大家族的幸福について述べる。
Co-Housingというのは、ひとつのセクション、あるいはひとつの建物に数世帯が住んでお互いに助け合って暮らすという人間を北欧的な孤独から救済するためのシステムで、デンマークではかなり受けいれられている。

学校のイジメ撲滅の伝道師、学校におけるイジメ廃絶への独特な取り組みで有名な Michael Pritchard
http://www.michaelpritchard.com/
が紹介され、日本社会内部からの日本社会への異議としての沖縄社会、ルイジアナのコミュニティ、compassionに満ちていたはずの原初の人間社会への暗示としてナンビアのブッシュマンたちの生活が語られる。

映画には神経科学者のRead Montagueも登場して、人間が幸福感をうるためにお互いを助け合い協力しあうことがいかに大切か、協同的行為がいかに脳髄にとってコカインを注ぎ込むような幸福感を生み出すものであるかを力説する。

映画が映し出していくものはことごとくいまの世界で「幸福」あるいは「幸福感」というものを考えるときのスタンダードともいうべき事象や知識であると思う。

(ところが)

困ったことに、こうした「幸福」への思想に同意できない。
映画のなかで、他の事例と同列のものとして扱われているが、よく考えてみると明らかに異質な例がひとつだけでてくる。
Andy Wimmerというもとは金融エリートであったらしい欧州人で、選良としての人生をうすぺたいものに感じてマザーテレサがコルカタに開いた死にゆくひとびとのための施設でボランティアになった。
映画のなかでは「物質的成功の虚しさに気づいた人」として扱われるが、観ていて気づくのは、映画制作者の意図とは異なって、この人が「絶望をみつめる」ことに残りの一生を費やそうと決めていることである。

幸福なほうが良いに決まっているが、人間は幸福である必要はないと思っている。
あるいは、言い方を変えると、幸福が人生の目的になりうるとは思っていない。
幸福は人間の一生にとっては二義的なものであって、途中で出現する「状態」であるにすぎない。
映画自身が幸福の定義として採用しているようにまさにドーパミンの放出が「幸福」の実体だろう。だからこそ幸福は一生の目的ではありえないのだと思う。

だが映画のなかで幸福に至る方法のひとつとして語られる「絶望を正面からみつめる」ことのほうは、人間の一生の目的になりうる。
Roco BelicがAndy Wimmerの事例をとおして語ろうとしたことは本地垂迹が逆なのではないか。

ずっとむかし、もう6,7年も前に日が暮れた解剖学教室で屍体をみつめながら、もう死んでしまったものたちのやさしさについて考えた。
すでに希望をもたず、希望をもたないことを語る言葉をもたず、希望をもたないことを語る言葉を知覚する方法をも断たれた、単なる物体としての人間は、「魂」というようなものに較べていかに尊厳にみちていたことか!
自分を隠蔽してばかりいる魂に較べて、たんなる物体としての人間の肉体がいかにおおくのことを正直に率直に語りかけてくるものかをしって、世界というものについてもういちど考え直すべきだ、と繰り返し自分に言い聞かせていた。

「幸福」は人間の肉体が魂と折り合いをつけるための一種の緩衝装置にすぎない。
魂は絶えず人間の絶望と向き合って、その衝伯に堪えている。
人間のどんな歴史をひもといてみても、それが人間にとって不幸であったことはない。
それどころか、歴史を通じて、人間は絶望を発見したときにこそ幸福、というよりは幸福の向こう側にあるさらに高いところから指してくる光を発見してきたのだと思う。
それをわれわれが記憶していないのは、その「光」に名前がないことによっている。
その圧倒的な光こそが、個々の人間が一生を賭して探さねばならないものなのであると思います。

28/02/2013

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荒っぽさの効用について

初期の艾未未 (Ai weiwei)の有名なパフォーマンスに漢王朝時代の壷を床に落として割ってみせる、というのがあった。
あるいは、Ai weiweiは、これもたいへん有名だが古美術価値ばりばりの新石器時代の壷に「コカコーラ」の商標を朱で描いてしまう。

http://dailyserving.com/2010/07/ai-weiwei-dropping-the-urn/

Alison KlaymanがつくったAi weiweiについての素晴らしいドキュメンタリ
「Never Sorry」のなかで、Ai weiwei自身がインタビューに答えて「両方とも本物だよ」と述べている。

Ai weiweiは殆どの作家がなんらかの集団に属している中国の芸術家のなかでは極めて異例な「一匹狼」で、いまに至るまでどこにも属していない。
いつもひとりで、自分の二本の足で歩いて、尾行してくる中国の公安警察の開けさせたクルマの窓にクビを突っ込んで「なぜ、おれを尾行する? ふざけるな。イヌ」と悪態をつく。
天安門の前にたって中指をつきたてた(中国政府にとっては)とんでもない写真を世界中に公開する。

http://nyogalleristny.files.wordpress.com/2012/06/aiweiwei_finger.jpg

中華人民共和国60周年の記念で鼻高々の政府の面子をたたきつぶすように、ビデオカメラの前に立って「Fuck you, motherland」と述べる。

夜中に嫌がらせにやってきた警官に銃の台尻でなぐられて重傷を負って入院開頭手術で生と死の境をさまよい、戻ってきてやったことが、この「Fuck you , motherland」だった。

初めてAi weiweiを見た人が不思議に思うのはAi weiweiには「自由への闘士」や「勇敢な政治運動家」というにおいが少しもないところであると思う。
大地の上に自分の2本の足で立っている自然の人が、政府という絡みつく根のように自分の行動や思考を妨げる組織を煩わしがって、怒っている。
ときどき、自分でも制御できない怒りが突然あらわれた龍のように空を割って暴れだす。

Ai weiweiは自分を逮捕しようとする警官に「やれるものならやってみろ、このクソ野郎」という。
ツイッタでは「通りで独裁に向かって投石するくらい愉快なアウトドアスポーツはない」と書く。

ある欧州人は「Ai weiweiのなかのフーリガン」という表現を使った。
Ai weiweiというひとのなかの「湧きだして奔出する怒り」を表現し得て妙であると思う。

中国の知識人たちはAi weiweiの感情にまかせたような政府へのすさまじい個人の怒りの表現をみて、「これまでの自分達のやりかたではダメなのだと悟った」とインタビューで述べている。中国人の芸術家や知識人は伝統的にもっと穏やかな口調で、しかし巧緻な皮肉で政府を揶揄する伝統を持っていたが、そんなやりかたではまったくダメだということをAi weiweiが教えてくれた、という。
「知性のきらめき」などは国家にとっては鳥の糞ほどの影響もない。

Ai weiweiは「戦う芸術家」などではない。
Ai weiweiはどんな場合でもAi weiwei以外のものであろうとしない。
驚くべきことに、全体主義の圧政下の中国社会のなかですら、Ai weiweiは一個の気儘な芸術家としてふるまってきた。
自由人として自分の足で歩き、でかける先々でやりたいことをやった。
相手が自分の自由を邪魔していると感じれば、それが14億人の国民を恐怖政治で戦かせ口を結ばせている政府に対してでもおおっぴらに中指を立てて怒った。
自分という人間は中国の部分などではなくて、一個の全体であって、国家はその厳たる事実をうけいれなくてはならない、ということをあますことなく表明してきた。

絵描きが絵を描くのは、そうしないではいられないからである。
音楽家が音楽を作るのも、そうしないでいると自分のなかの「音楽」が出口を失って魂が爆発しそうになるからだろう。

自由を間断なく必要とする人間が自由を規制しようとするものに対して(自分の予測をすら裏切って)牙を剥いて戦うのも、事情が少し似ている。
自由がなくなれば、自分の肉体は生き延びていても魂は死んでしまうと知っているからであると思う。

日本の伝統的な統治のやりかたは「国民に自由を求める気持ちを起こさせないようにする」ことだった。
外国人から見ると道徳的に無軌道にさえ見える中国人の「なりふりかまわぬ個人の自由への希求」を中国政府が日本式のやりかたでバネを外すようにして従順な無力のなかへ落とし込んでいかなかったのは、日本のひとが考えるよりもずっと意識的になされたことで、冒頓単于の昔から、北虜南倭、他民族に侵略され、あるときは、清王朝のように長期に渡って支配された経験から、「個人の内部の自由を保存する」のは中国文明の知恵であって、それこそが漢民族がいままで生き延びてきた力の源泉だった。
中国人は、自分達の「わがまま」こそが民族の生命だとよく知っている。
あれほど他人をロボットのように扱うのが好きだった毛沢東でさえ、中国人たちが時に死を賭してまで野放図を発揮することを自分達の民族の健康さのバロメーターとして喜んだ。
むかし、中国人の友達に「しかし日本人は個人を部品にするような社会をつくって成功したじゃないか」と述べたら、表情も変えずに「周辺民族というのは、そういうものなんだよ」と言うので驚いたことがあった。
中国人たちの考えでは人間の魂そのものが、「わがまま」でなくなってしまえば、民族は衰退に向かって一直線にすすむしかないものであるらしい。

落ち着いて本を読んでみると、毛沢東とAi weiweiにはフーリガン的な野放図さを爆発させるデーモンのようなものが内在するという点で重要な共通点があるが、当たり前でもあって、その強烈な野放図さと妨げるものが何もない欲望と自由の追究に中国人の原像がある。
中国人にとっては心を枉げてなんだか人間でないもののようになって黙々と規律に従うのは文明をもたない野蛮人であることと同義である。

中国人はだから日本のように教育や社会道徳、文化をとおして人間を従順に改造してゆく方法を選ばずにわがままな人間の集団を行政的に強圧支配する方法を選んだ。
その端的な結果のひとつが「天安門事件」で、年長のひとたちのなかには鄧小平があのとき、「3千万人程度の人間を殺したところで中国という国にとっては痛くも痒くもない」と述べたのをおぼえているひともいるだろう。

天安門は一方で無数の中国人たちを「覚醒」させた。
Ai weiweiが政治的メッセージに関心をもつようになったのもやはり天安門事件がきっかけだった。

日本は天安門事件のように自国民を血の海に沈めるようなことはしない国である。
子供達が学ぶ教科書を政府が綿密に検定し、小さいときから反抗心は入念に取り除いて、学校では「静かにしなさい」「よく考えてから意見を言いなさい」「他人の迷惑を考えなさい」と「まず全体を見て、それから自分の行動を(全体の理解が得られるように)決めなさい」と言われるもののようである。
そうやって社会の部品として学校から社会に出てくる頃には高いクオリティコントロールを経てつくられた「Made in Japan」の高品質な国民としての諸条件を満たしていることが期待される。

もしかすると訓詁的な科挙を意図的に積極的に活用して清朝の漢民族を骨抜きにし、反抗の気力を萎えさせていった故事が頭のどこかにあったのかもしれないが、日本は近代に至って「賢い」ことに国民を溺れさせる、という方法を思いついたように見える。
首相になった宮沢喜一は「あなたは大学はどちら?」というのが初対面の若い人への決まった挨拶で、帰ってくる大学の名前が「東京大学」か「京都大学」でない
場合には、すっ、とそっぽを向いて、それきり何も言わなかったという。
日本のひとは、そういう試験のスコアが疑似階級をつくる社会で、12歳と18歳の二度にわたって深くおおきく傷つき、「賢さ」への屈折した憧れを強めていった。

日本語インターネットの世界には子供じみた顕示欲に駆られた歴史研究者もどきのひとびとが特に多いようだが、ネット上の、いかにも「わし賢いし」のポーズをとる人たちがいちようにみおぼえた研究者口調を借りて、福島第一事故のあとでも「生物屋は、こう言うが」「物理屋には物理屋の考えがあって」というような大学言葉の口吻でいいあっているひとが、「現実の世界ではこのひとはどこの大学で教えているのだろう」と人に尋ねて見てみると、工業高校の出身であったりするのが判って、なんとも言えない気持ちになったりした。

中国人たちのように個人の自由への希求を万力で抑えつけるような社会がうまくいくのか、日本のひとたちのように、個人の魂を改造して、国家が必要とするような形に広義の教育を通じてQCを発達させてゆく方法がうまくいくのか、わしには判らない。
ただ自分がどちらかを選べと言われれば、暴れることに衆目が一致する「理」が明然としているだけ、中国のほうがまだいいかなあー、と思う。
でもそうそう銃の台尻で頭をどつかれたり、広場で暴れていたら戦車に取り囲まれて兵隊に撃たれまくったりするのもかなわないので、やっぱり「国」とかは、さっさとなくなってしまえばいいのになあ、と思う。

Ai weiweiはAlison Klaymanのドキュメンタリのなかで、「自由は奇妙なものだ。
自由がないときにはどうでもいいように思えるが、いったん自由を手にいれてしまうと、どうしても自由なしではいられなくなる」と述べている。

Ai weiweiが飼っている30匹の猫のなかで、ただ一匹だけが正面玄関のドアのノブに飛びついてドアを開ける方法を知っている。
その猫がドアをあけたあとを、他の猫たちがぞろぞろと抜けて歩いてゆく。
「でも、ドアを閉める方法は知らないのさ」というとき、きっと、Ai weiweiは自分のことを考えていたのだと思います。

19/February/2013

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日本の古典_その5鮎川信夫

見知らぬ美しい少年が
わたしの母の手をひいて
明るい海岸のボートへ連れ去っていった

というのは鮎川信夫が1948年に書いた「秋のオード」の初めの三行である。
堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に出てくる「良き調和の翳」とは鮎川信夫のことだが、当時、早稲田大学の学生だった鮎川への友人達の表現は定まっていて「初めからおとな」「出だしから完成されている」というようなものだった。
書くものの情緒が時代に寄り添いすぎていたために言葉を微調整しながら読むのが難しいが天才詩人であった牧野虚太郎ややはり突出してすぐれた詩を書いた森川義信が安心して詩を書けたのは(牧野と森川は戦死してしまうが)この戦後に「荒地」という重要な現代詩の同人に育ってゆくグループの中心に鮎川信夫という批評精神が立っていたからだと思われる。

初期の鮎川信夫の詩を読むと鮎川信夫自身、田村隆一ほど巧みではないかもしれないが(詩の世界では「巧妙である」ということは重要なことである)すぐれた詩人であって、しかも後年の印象とは異なって、もともとは抒情詩人としての資質にすぐれた人だった。

17、8歳の頃の詩だと思うが、「寒帯」という詩には
「あおく、つめたく….

青い魚が跳ねると
沼の静けさが、かへってきた」

という詩句がある。
沈黙のひろがりのなかで一瞬するどく輝きながら跳躍して反転するものを見る、というのは鮎川信夫の基本的な感覚のひとつで、鮎川の目のなかでは世界に生起する事象というものが、すべからくそのようなものとして見えていたに違いない。

田村隆一は詩で重要なこととして「patheticであること」を挙げているが、文章のなかにおいてみると、実はこれは英語の用法としてヘンで、田村隆一が意図したことを意味しないが、(多分、田村隆一が生きている間は、この巨大な詩才をもった詩人に遠慮してまわりの英語人たちは田村の数多い英語の謬りを指摘しなかったのではないだろうか)しかし意味をくみとれば、やや高みに浮いた観念の息苦しい悲壮さ、というようなつもりだったのだろうと思われる。
田村隆一は、その感情をあらわすために高い、よく出来た金管楽器のような透き通る音をもったが、鮎川信夫は、もっと低い、しかし稠密な音色をもっていた。

抒情詩人の抒情を破壊して、鮎川信夫が一種の「破壊された情緒」を身につけて詩の中へ帰ってきたのは鮎川が徴兵されて、スマトラ島の戦線に送られ、傷病兵として帰還したあとのことだった。

詩人とは不思議な種族である。
詩人は、どんなに良い詩を書いても詩を書くことによっては暮らせないことを知っている。
戦後の日本では「プロフェッショナルの詩人」ということになれば、谷川俊太郎と吉増剛造と田村隆一の3人のみが挙げられるが、谷川俊太郎はコピーライターと作詞家、詩人、という遠目には似てみえなくもない三つの職業をうまくひとつの職業のようにみせることによって自分が生活するに足るだけの収入をつくっていった。
田村隆一は「詩人」として雑誌グラビアに自分のヌード写真を売った初めてのひとである(^^)
このひとは「詩人」という職業名の光輝を、どのように世間に売っていけば収入に変わるかよく知っていた。
一種、古代ギリシャの哲学者のような渡世ができたひとだった。
吉増剛造のみが真に、直截に「詩人」として生きようとしたが、そのことにどういう意味があったのか、ここでは述べない。
いずれ吉増剛造の詩について述べるときに、書いてゆくことができると思います。

詩人にとっては詩に没頭すればするだけ、生活はできなくなってゆくわけで、それでも、良い詩を書くために午後の約束も放擲して詩人が机に向かうのは、うまく言葉が言葉をつれてきて、自律的に運動をはじめ、自分の思考というようなものは停止して、魂が中空に浮かんで危ういバランスを保ちながら浮いているような、あの感覚がなくなれば退屈で死んでしまうしかない、と感じるからである。

鮎川信夫は後世の評価である「鋭利な文明批評家」であるよりも、遙かに、本質的に詩人だった。
しかも、日本の近代史のなかでは稀な、絶望しきった魂をもつ詩人だった。
晩年、鮎川信夫のファンたちを悲嘆の底に蹴り落とした「戸塚ヨットスクール称賛事件」は、要するに、鮎川がついぞ人間の世界に希望をみいだしたことがなかった、ということの当然の帰結にしかすぎない。
鮎川信夫の魂のなかにあっては暴力と非暴力どころか、死と生すら境界をはぎとられて、ひとつの結界に同居するふたつの相似のものにしかすぎなかった。
口にはだせなかったものの、当時のひとのなかでは、鮎川の長屋の家へたびたびやってきては何時間も陰気な顔をして黙って正座して座っていて、じっと鮎川が原稿を書くのを眺めていては、また黙って帰っていったという、「遅れてきた兵士」であった、吉本隆明だけがその機微をしっていたでしょう。

「この病院船の磁針がきみらを導いてくれる」と船長は言う、
だが何処へ? ヨオロッパでもアジアでもない
幻影のなかの島嶼……..

という「病院船」の一節は文明批評というより鮎川信夫というデッドパン(deadpan)ジョークの一片だが、この詩が書かれた戦後直ぐの日本人よりも、いまの日本人のほうが広汎に詩句の意味を理解できるはずである。

あるいは、

姉さん!
餓え渇き卑しい顔をして
生きねばならぬこの賭はわたしの負けだ
死にそこないのわたしは
明日の夕陽を背にしてどうしたらよいのだろう

_「姉さんごめんよ」

という詩句はまるで(いつもこのブログ記事にでてくる)我が友ラザロの内心の声のようである(^^;)

それは一九四二年の秋であった
「御機嫌よう!
僕らはもう会うこともないだろう
生きているにしても 倒れているにしても
僕らの行手は暗いのだ」
そして銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら、
ひとりずつ夜の街から消えていった

という出だしの「アメリカ」は、「銃を担ったおたがいの姿を嘲」る、いかにも知的な日本人の男同士の情緒が当時からのものであったことを伝えながら、極めて欧州的な語彙でアメリカを語った詩である。

随所に仲の良い友人である田村隆一への皮肉をちりばめながら鮎川は知性と言語への感受性がアマルガムをなした後年の鮎川信夫の詩の(言葉は悪いが)「冴え」を見せてゆく。

「Mよ いまは一心に風に堪え 抵抗をみつめて
歩いてゆこう 荒涼とした世界の果へ……
だが僕は最初の路地で心弱くもふりかえる
「僕はここにいる 君がいないところから
君がいるところへ行きつくために
ここにいる僕はここにいない」と……」

あるいは

「一九四七年の一情景を描き出そう
僕は毎晩のように酒場のテーブルを挟んで
賢い三人の友に会うのである
手をあげると 人形のように歩き出し
手を下すと 人形のように動かなくなる
彼等が剥製の人間であるかどうか
それを垂直に判断するには
Mよ 僕たちに君の高さが必要なのだろうか?」

「過去にも未来にもさよならして
亡霊たちに別れを告げよう
あるいはまた亡霊たちを飲みほして
この呪わしい夜を祝福しよう
だから僕がとくに眼ざめるとき
きみがとくに眠るとき
死はいっそう強い酒にすぎぬだろう」

「僕はひとり残される
聴かせてくれ 目撃者は誰なのだ!
いまは自我をみつめ微かなわらいを憶いだす
影は一つの世界に 肉体に変わってゆく
小さな灯りを消してはならない
絵画は燃えるような赤でなければならぬ音楽はたえまなく狂気を弾奏しなければならぬ」

「すべての人々の面前で語りたかった
反コロンブスはアメリカを発見せず
非ジェファーソンは独立宣言に署名しない
われわれのアメリカはまだ発見されていないと」

鮎川信夫自身が、この「アメリカ」という詩についての「覚書」のなかで、
「我々が時や場所や思想に関して、本当に自分の血となり肉となるような仕事を目指すならば、自己の精神に加えられた現実的強制に言葉の秩序立った包括的な世界の再組織を志向しなければならぬ」と書いている。

「アメリカ」という詩を書いて鮎川は復員兵としての自分の主観を通して世界をみる視点から脱して復員兵としての自分を外から眺める言語的な仕組みを獲得した。
鮎川信夫の戦後の出発は、要するにその視点から「荒野」を見渡すことによって出発したのだと思う。

「アメリカ覚書」の最後に、鮎川信夫は「私は断片を集積する」と書いた。
それは詩人の思想的宣言のように聞こえる。

1950年、鮎川信夫は有名な「橋上の人」を書く。

「橋上の人よ
どうしてあなたは帰ってきたのか
出発の時よりも貧しくなって、
風に吹かれ、浪にうたれる漂白の旅から、
どうしてあなたは戻ってきたのか。
橋上の人よ
まるで通りがかりの人のように
あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。
新しい追憶の血が、
あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。
橋上の人よ」

「誰も見ていない。
溺死人の行列が手足を藻でしばられて、
ぼんやり眼を水面にむけてとおるのをーー
あなたは見た。
悪臭と汚辱のなかから
無数の小さな泡沫が噴きだしているのを…..
「おまえはからっぽの個だ
おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ
おまえは一プラス一に
マイナス二を加えた存在だ
一プラス一が生とすると
マイナス二は死でなければならぬ
おまえの多孔質の体には
生がいっぱい詰まっている
おまえのからっぽの頭には
死が一ぱい詰まっている」

「蒼ざめた橋上の人よ、
あなたの青銅の額には、濡れた藻の髪が垂れ、
霧ははげしく運河の下から氾濫してくる。
夕陽の残照のように、
あなたの褪せた追憶の頬に、かすかに血のいろが浮ぶ。
日没の街をゆく人影が、
ぼんやり近付いてきて、黙ってすれ違い、
同じ霧の階段に足をかけ
同じ迷宮の白い渦のなかに消えてゆく。」

「孤独な橋上の人よ、
どうしていままで忘れていたのか、
あなた自身が見すてられた天上の星であることを……
此処と彼処、それもちいさな距離にすぎぬことを……
あなたは愛をもたなかった、
あなたは真理をもたなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。」

初めて、この「橋上の人」を読んだとき、日本語の練習の一環として、詩句を暗誦していきながら、この詩が、日本の近代を語り尽くしているように思えて驚いたのを憶えている。
日本には、こんな人がいたのか、と驚いたものだった。
それから暫く鮎川信夫の詩を夢中になって読んで、もちろん西脇順三郎や田村隆一、あるいは岩田宏に較べると暗誦しにくい詩だったが、それでも全集に収録されていた詩はほとんど憶えてしまった。
鮎川信夫という一個の知性に強い敬意を感じたが、そういうことも、日本語練習の途中では(その頃はまだいろいろな「聴き取りにくい声」を聴き取れていなかったので)珍しいことだった。

鮎川信夫は、他のすぐれた詩人と異なって言葉を信用しなかった。
田村隆一や西脇順三郎や岡田隆彦、あるいは吉増剛造のような詩人たちとの、おおきな違いであると思う。
言葉だけではなく、鮎川信夫は戦前の価値も、日本の伝統も、戦後の「民主主義」も、人間の恋愛の感情すら、ほんとうには信用しなかった。
アメリカの物質主義の軽薄を熟知していながら、巨大なアメリカ車で乗りつけて友人たちを呆然とさせた。
彼が信じた友情は死者との友情だけであった。
吉本隆明が大江健三郎に「もっと深く絶望せよ」という公開書簡を送ったとき、鮎川信夫はなにも言わなかったが、きっと、鼻で嗤っていただろうと思う。
鮎川がみていた世界は、絶望を口にする他の文学者たちの見ていた世界よりも遙かに漆黒の闇に満ちた世界であって、その闇は神をすら塗りつぶしてしまうほどのものだったことは、詩を読めば明瞭に了解される。

日本語がたどりついた批評精神のひとつのピークであると思います。

10/February/2013

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Misery

イランではSigheと呼ぶが、他のムスリム世界ではMutahと呼ぶのだと思う。
「期間を限定した結婚」のことで、6ヶ月は長期とみなされるだろうし、短ければ1時間ということもありうる。
信仰のない人間には複数の妻をもてることを利用した体裁の良い売春としか思えないが、ムスリムの世界では律法で定まった厳とした制度であって、Ulamaたちが厳かに成立を述べる。
期間は限定されていても婚姻は婚姻なので、sigheの期間中は女びとは近所に出かけるのであっても夫の許可を求めなければならない。
ムスリム人は、「夫婦間の話し合い」と呼ぶが、夫のほうは妻の許可を求めたりはしない。
日本でも「進歩的なひとびと」はムスリムを好む傾向にあるが、話し合いといっても文化が異なれば内容は異なるのだと思われる。
実際、男たちは、さんざんsigheで支払う金額を値切っておいて、「念のために述べておくが、これは私の性欲のためなどでは到底なくて、アラーの御心に適おうとするためにするのである。
あなたが不特定の男と寝床をともにするような不道徳からあなたを守ろうという善行であることを忘れては困る」という。
するとUlamaがおごそかに頷きながら、「この人は良い人間で立派な行いをしているのだと、私はあなたに言わなければならない。アラーも祝福するであろう」と森厳な面持ちで言う。
夫の年齢は65歳であって、「2ヶ月間」の約束で「妻」になる女びとは17歳である。

地震が来る前のクライストチャーチで、午前1時、ひとりでぼんやりカセドラルスクエアの広場の階段に腰掛けてフラスクからウイスキーを飲んでいたことがある。
50人くらいはいるのではなかろうかと思われる中国系の若い衆から少し離れて、遠巻きにするようにして、何組も、2,3人づつ佇んでいる欧州系の、いかにも顔つきが悪い若い衆がいる。
ふらふらと踊るような足取りで3人組が近寄ってくると、
「ヘンなやつが座ってる」と奇妙な節をつけて言い出す。
「ヘンなやつが座ってる」
「いけすかないフラスクから、すました顔で気取ってウイスキーを飲んでやがる」
「話さないところをみると唖かまぬけかどっちだろう」
ひとりが腕に手を掛けたので、相手の薄汚い刺青のある腕をつかみ返す。
黙ったまま相手をすると、3人とも靴もひろわずに逃げてゆく。
目の前にある警察官たちの詰め所の前には、中年の警官と若い警官が立っていて、にやにやしながら、こっちをみている。

どこかから悲鳴がきこえてくる。
「このクソアマ!」という声がきこえる。
3、4人の若い男たちがげらげら笑う声がする。
警官達は、相変わらず、立っている。
中年の警察官のほうが大欠伸をすると、若い警官をうながして建物のなかへはいっていった。

クライストチャーチの、いつもの、週末の夜の光景である。

ビクトリア通りに出る代わりにマンチェスター通りのほうへ歩いて行くと、
売春婦達がたむろしていたものだった。
目の前を通り過ぎると、なんともいえない目で、じっと顔を見上げられているのを感じる。
手をのばして体に触れる女びとはいるが、声をかけてきはしない。

男が運転するプジョーから降りてきて、煙草をくわえたまま、服のしわをのばして、下着をなおす女のひとがいるが、それとそっくりの情景を、アビニョンから20キロくらい離れたオープンロードの交差点(大陸欧州では、そういう場所に売春婦たちがよく立っている)で見たことがあったが、クルマも同じプジョーの207で、男もでっぷり肥った50がらみの大男、降りてきた女びとは、そっくりの、小柄で華奢な10代にしかみえない女びとなので、同じ売春婦と客が、フランスとニュージーランドに同時に存在するような不思議な気持ちになる。
呆気にとられて、じっとみつめていると、女びとは気が付いて、小首を傾げて、なによ?という様子をする。
わしは首をふって、女びとに向かって手を挙げると、もうすぐ夜が明けそうなハグレーパークのほうへ歩いていった。

いつかラジオのZM
http://www.zmonline.com/player/listenlive/
を聴いていたらEd Sheeranの「The A Team」

が流れてきて、不意をつかれてしまって困ったことがあった。
心の準備がないときに流れてきては困る曲というものが世の中にはあって、「The A Team」も、そのひとつだからです。
バランスシートを眺めていた目に涙が浮かんで、そのうちにボロボロキーボードの上に落ちてきて、難儀、どころではなかった。

世の中には「売春は悪だからなくさなければいけない」という人がいて、「身を持ち崩すのは必ず理由があるのだから本人に責任がある」というひとがいる。
韓国人の慰安婦といったってカネをもらってたんだろう、と嘲るように意見を述べるうらやましくなるほど卑しい心根をもった人間もいれば、売春を根絶するために一生を投げ出す修道女もいる。
一方で現実の問題として自分の身体を売らなければ生活できない人間はいるのだから、せめて強姦の泣き寝入りやギャングの支配を避けるために「非犯罪化」をすすめるべきだと主張して修道女と激論を戦わせて売春の「非犯罪化」を達成したフェミニストたちがいる。
あるいは売春婦の境遇に唇をかみしめる人間を偽善者と呼んで自らの「偽善のない知性」を誇る愚か者もいるだろう。

きみはなんだか部屋の天井の明かりをつけるのが鬱陶しい気持ちがする夜に、テーブルの上にいくつかろうそくを灯して、そのろうそくの揺れる炎のなかをみつめながら、人間の脳のはたらきにもスイッチがついていればいいのに、と考える。
耳のうしろに、ONとOFFのスイッチがちゃんとあって、もうこれ以上なにも考えたくない夜には「パチッ」と音をさせて切って、安らかに眠れるようになっていればいいと思う。

考えてばかりいるのが嫌になって、きみはコンピュータをつける。
「ほんものを探し求めて歩くような田舎くささには耐えられない。この世界のものが全部贋物ならいいのに」と書いてから、きみは、ほんものも贋物もほんとうはどうでもよくなってしまっている自分に気が付いて唖然としてしまう。
遠くから叫び声がきこえてきて、絶望にみちた声の調子は聞き取れるのに、なにを言っているかがうまく聞き取れない。
悲惨が夜を取り巻いて、あちこちでひそひそと囁きあっている気配はわかっているのに、悲惨の姿をみようとして目をこらすと、それは闇に溶けて、また視界の端で微かな形象をつくっている。

政治であり、社会であるというが、ほんとうはそれが「人間そのもの」であることを知っている。
なぜ、そうなのか、尋ねる気もおきないほど、きみはそれを熟知しているのだと思う。

きみはろうそくを吹き消して、考えていたよりもずっと深い暗闇に安堵しながら、光なんてなくたっていいな、と呟いてみるだろうけれど。

(画像はモニとわしが花棚の下のテーブルで夕飯を食べていたら顔をのぞかせたポサム。まだ赤ちゃんだのい)

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