さよなら、民主主義

国民の戦意を調査した「特高月報」の1944年10月の記事に、
「戦争はいやだ。日本は必ず負ける。日本は勝手な国いやな国、日本全員米英の政治下領土になれ」という東京本所区の公衆便所に落書きが記録されていると半藤一利がしるしている。

あるいは多くの東京人が、戦争に負けた日の夜、灯りの覆いをとって、窓の目隠しも取り払って、ひさしぶりに明るい夜をすごした日の気持を、たとえば「ざまあみやがれ、これで戦争は終わりだってんだ」と述べている。

ちょうど反戦の主張をもった文学者たちや、地下の共産主義者たちですら、真珠湾奇襲を聞いて「なんともいえないスカッとした気持になった」と述べているのと対をなして、戦争に負けた夏の日の夜、戦争に負けたくやしさよりも、「これでもう抑圧された生活を送らなくもいいんだ」と、頭の上からおもしがとれた気分になった人が殆どであったように見える。

同じ「特高月報」に「戦争に負けたら敵が上陸して来て日本人を皆殺しにすると宣伝して居るが、それは戦争を続ける為に軍部や財閥が国民を騙して言うことで、自分は米英が其の様な残虐なことをするとは信ぜられん」と工場の壁に書かれていたと報告があるので、いま常識とされている、「男はみな性器を切り取られ女はみな強姦されると国民は皆信じていた」
という「証言」がどの程度ほんとうだったか。

実際にやってきたものは、なんだかきょとんとしてしまうようなことで、アメリカ軍が「強制」したのは去勢でも兵隊の妾になることでもなくて「民主主義」というものだった。
実際、「強制」という言葉どおりだったことは、例えば「忠臣蔵」を含む歌舞伎の演目は大半が「非民主的」という理由で上演禁止になったことでも判る。

当時の、「民主主義は天皇陛下よりも偉いのか?」
「民主主義で女も人間のうちに数へられるやうになりますか?」
というような問答を見ると、アメリカ軍が日本人に強制した「民主主義」というものが、どういう驚きと輝きで迎えられたのかわかるような気がする。
それは当時の日本人一般にとっては、なんだかよくわからないがありがたい菩薩観音のようなものだったのではなかろうか。

西欧人が日本にやってくると、日本では民主主義が奇妙なほど理想化されていることに驚く。
簡単に言うと「民主主義はフラストレーションの固まりだ」という基本的なイメージがないように見える。
ものすごくストレスのたまるシステムで、すっきりしない制度だという基本的なイメージがないように見えることがある。

TPPのときだったか「よく話しあって全員が納得するまで議論することが民主主義というものだ」という人がたくさんいて、びっくりしたことがある。
なぜなら制度としての民主主義は「全員が納得する」ことなどあるわけはないから生まれたシステムで、不可能なことを実現できると仮定すれば民主主義そのものの破壊を結果するのは当たり前のことだからです。

暴力を意識しない民主主義は機能しない。
国家という絶対暴力があって、そこに市民の側からの暴力が生まれて拮抗しだしたところに「民主主義」の萌芽が生まれた。
フランス革命は全体としては世にも惨めな失敗に終わってしまったが、しかし、1789年7月14日にバスティーユを襲撃した主婦達が長い鋤の柄の先に門衛たちの生首を刺して行進した姿は、一定の状況下では国家の暴力が絶対たりえないことを殆ど象徴的に「国民」たちに教えた。

パンの値段が暴騰したことを直截の理由とするこの革命によって人間が学んだ最大の政治的知識は市民の側にも国家と匹敵しうる暴力が宿りうることで、この発見は18世紀のヨーロッパを震撼させたが、一方では「民主主義」という不思議な手続きを発達させる基礎になっていった。

民主主義の成立を考えればすぐに得心できるが、もともと民主主義は「わがまま」な市民の「自分はこうしたい。他人のことなんか知らん」という強い欲求から、つまり、個人個人の強烈な欲求の圧力から生まれてくる。

ふたつの対極にある暴力が出会う場所が「公論」なので、民主主義国家においては議論が問題を解決しないとみると政府は暴力的に市民を取り締まろうとし始める。
アメリカのニューヨークで起きたことは良い例で大企業の秘書や航空会社のパイロットでも給料日が近付く頃になると、ひどいときには公園のゴミ箱を漁らなければならないほどの「中間層」の生活の苦しさを反映して起きたデモは自分達が議会に送り込んだ政治家たちに問題を解決する能力がないことを見越して起きた。
一方で、国家の側も、警察を送り込んで過剰にならないはずの暴力を構えて対峙した。

1996年9月10日、ポーリン・ハンソンの「Maiden speech」をきっかけに起こった「反アジア人運動」はオーストラリア全体に広がる国民的な運動になって、1980年代初頭の反日本人運動のような日本人だけを対象にしたものではなくて、全アジア人を排斥しようとする巨大な「One Nation」運動になっていった。
クイーンズランド州から始まったこの運動は他州にも飛び火して、シドニーのあるニューサウスウエールズ州に事務所を構える頃になると、オフィスビルや住宅地のアパートの窓やテラスから「アジア人でていけ」の垂れ幕が次次に掲げられる空前の国民運動になっていったのをおぼえている。

ポーリン・ハンソンは、そこから一歩すすんで、オーストラリアでは最も開明的だとみなされていたビクトリア州のメルボルンに事務所を開いた。

議会に解決能力がなく、放置すれば反アジア諸法案が通過しそうだと見て取ったオーストラリア人たちがとった行動は、反アジア主義者たちの予想を遙かに越えたもので、彼等は反・反アジア主義キャンペーンなどを通り越して、事務所を物理的に襲撃した。
生命の危険を感じた反アジア人運動の中心ポーリン・ハンソンは、有名になった12分間の「Death Video」を録画します。

「Fellow Australians, if you are seeing me now, it means I have been murdered. Do not let my passing distract you for even a moment」
「For the sake of our children and our children’s children, you must fight on. Do not let my passing distract you for one moment. We must go forward together as Australians. Our country is at stake」
と述べたポーリン・ハンソンは、この襲撃を見て勇気をえたマスメディアや議員たちの攻撃にあって、最終的には地球の反対側の連合王国に「亡命する」と述べて逃げてゆく。

オーストラリア人たちの民主主義へのイメジは、要するにチョー有名な「ユーレカの叛乱」
http://melhyak.web.fc2.com/kougai/ballarat/12/eureka/Eureka.html
(日本語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eureka_Rebellion
(英語)

に収束する。

ちょうどアメリカ人たちが対英戦争を思い起こすように、フランス人たちがバスティーユの襲撃を思い起こすように、オーストラリア人たちは自分達の「自由への光輝ある一瞬」を思い浮かべるときにはユーレカの叛乱を思い起こす。

ちょっと考えてみればわかるとおり、民主主義は自由社会でなくても当然施行することができる。
政治的な手続きの体系なので自由人がひとりも存在しなくても瑕疵のない民主社会は成立しうる。
それどころか独裁政治のように政府が国民に民主制を押しつけることすらできます。

日本の民主主義の特徴は、知られているとおり、個人の「わがまま」の爆発に対して社会が最低限なりたってゆくための手続きとして出来たのではなく、有史上最悪の好戦民族とみなされた日本民族の牙をぬく目的で日本の伝統価値観を破壊するためにアメリカ軍が強制したものだった。

簡単に言えば「日本の無力化」の一環としての民主主義だった。
1950年、田中絹代の「アメション女優事件」でわかるとおり、深層では日本人はアメリカの目論見に抵抗したが、表面は、少なくとも政治においてはアメリカが押しつけていった「民主制」という手続きを受けいれた。

ぼくは日本にいたときの経験から、日本の社会は根本的に個人の自由を嫌う社会だと思っている。
個人が全体の意趣に反したことを仄めかしたり述べたりするのは「わがまま」で自由とは異なると言われ、自分達を批判する異質な個人は、なんであれ容赦なくこきおろして、それでも相手が滅びないとみると集団的サディズムが、その個人を攻撃対象にして、ちょうど蝗害のように自然に発生する。
ある気の毒な人が、そもそも集団的サディズムの引き鉄になった主張とはまるで異なることを暴かれて、まず人格的に信頼できない、というラベルを貼られ、個人の信用の足下を掘り崩した上に、たくさんの人間が協力しあって住所と実名を割り出し、あまつさえ玄関の前の木に隠しカメラまで取りつける騒ぎを目撃したぼくと友人達は、一計を案じて、ぼくを標的にしようと計画したことがあったが、計画はそのまま図にあたって、あることないこと書き散らす人、自転車で隣町まで、からかいの種の本を調べに行く人まであらわれて、ぼくと友人達をたいそう喜ばせたものだった。
しかも5年経ったいまでも、このときのひとたちは手を変え品を変えて、ぼく個人を攻撃して自分達の集団的サディズムをまっとうしようとする「根性」も持っているので、「態度の悪い人間」を許さない社会の情念が、もともと、どのくらい根の深いものか簡単に見て取れます。

そういう極く天然自然に形成されたとしかおもえない「反・個人自由主義」の社会では、本来は民主主義など、そもそも必要がないものであったはずで、ものすごくマジメな国民性からは考えられない低い選挙投票率もそうだが、ぼくの観察では日本の人は「民主主義」が本来日本社会においては不要なものであると生活人の洞察の深さで熟知しているもののよーでした。

安倍政権は、そういう事情をすっかり見抜いていた。
「いらないんだから、やめちゃえば」とばかりに、見知らぬ通行人から帽子を取り上げる酔っ払いの気楽さで日本人の頭から民主主義を取り上げて、どぶの向こうへ放り投げてしまった。
日本の人は、多分、いまのいまでも、なぜ「昨日と変わらず、現にいまも存在する憲法を無視してよい」ことになったのか、訳がわからず、狐につままれたような気持でいるのではないかと想像する。
なにが起こったのか、まだちゃんと説明できないでいるのではないだろうか。

その証拠に「自由な市民」と称する言論人や「ネット言論人」が「安倍政権のやりかたは民主的手続きと矛盾していないと思う」という、一見もっともらしい、その実は悲惨としか呼びようがないマヌケな意見を述べているのをいくつも見かけることになった。

安倍政権が民主主義的手続きを国民から取り上げることを決めたのは、この先、万が一国民が調子をこいて「わがまま」になったときに面倒だと考えたからであるし、民主主義的手続きを取り上げるにあたって、たいして手続きそのものに気を配っているように見えないのは、もともと民主主義なんてものは伝統日本人からすればお飾りみたいなものさ、と考えているからでしょう。
「本音」は、「だって、きみたち、もともと民主主義が必要なほど自由を渇望したことなんてないじゃん」ということだと思われる。
「われわれはお互いをおもいやる家族なんだから」

もともとからの民主主義社会が通常もっている「わがまま」の不在に加えて、一応、アメリカ人の手で形式として整備してあった民主制そのものもなくなりそうだが、特に日本の人が切迫した危機感を抱いているようには見えなくて、「もっと話しあわなくては」という声が、のおんびり日本語インターネットの世界に木霊している。
むべなるかな、という言葉は、こういうときには使える表現なのかもしれなくて、日本語辞典を引っ張り出して調べてみるかなー、と思っているところです。
なんだか、SFホラーストーリーみたいだけど。

18/07/2014

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No Worries

頑張らない、我慢しない、やりたくないことはやらない、と書くと日本語なら「座右の銘」みたいになってしまうが、こうやって意識にのぼるのは多分日本語で話をしているからで、そんなのはずっとあたりまえのことだと思っていた。
父親も母親もやりたくないことはやらないひとびとであるし、妹も同じ。
本人にいたってはやりたいこともやらないでずるずる午寝してしまう怠けものなので、頑張る、とか我慢するとかは、やろうと思っても、そもそも能力的に無理、ということがあったと思う。

それでも30歳くらいまで支払いが予定されていた両親からの金銭的援助は20歳のときにはいらなくなったので、ご辞退いたします、になったし、スーパーマーケットからカーヤードまで、何かを購買するときに値札をみる必要がなくなった(と言ってもケチなのでやはり値段を見て安いところで買うが)ので、人間などは努力しても努力しなくても、たいして行く末に変わりはないのではないだろうか。

かーちゃんのとーちゃんは、よく、「人間にとってもっとも大事なことは、青空を見て青いと認識できることではなくて、青空を感じられることである」というようなことを述べた。
いま考えても説教師じみてヘンなじーさんだが、多分、クリケットの試合が終わるとダッシュで戻ってきて、そのまま夕飯を食べるのもめんどくさそうに本ばかり読んで、それどころか放置しておくとデスクの明かりを灯してなんだか一心不乱に計算したりしている孫を「このまま放っておくとアホになる」と憐れんだからでしょう。

数学が好きな子供はほっておいても数学のことばかり考えているし、クリケットが好きな子供はクリケットばかりやっている。
どんな怠けものの子供でも本が好きな子供は、おとなの数倍というような量の本を読むし、音楽が好きな子供は、手に入るだけの数の楽器をあっというまにひきこなして、曲までつくるようになる。
「言語が好きだ」というヘンタイな趣味を持つ妹などは、きみは人間シャープ自動翻訳機か、というくらいいろいろな言葉を話して、しかもたとえばドイツ人と話していると「ああ、あなたはミュンヘンのご出身ですね?アクセントでわかります」と言われるほど手が込んでいる。

妹と兄(←わしのことです)に共通した欠点は、夢中になりやすいことで、青空を感覚せよ、と述べた祖父は同時に、1時間かけてやるべきことを40分でやってしまうのは愚か者のやることだ、ともよく述べたが、きっとゲーム好きの孫達が、要領ばかりよくて、他人が3時間でやることを1時間で片付けてしまったりするのを見て、若いのにアホだな、とげんなりしていたのでしょう。

人間の大脳は、もともと周囲から感覚器を通じて不断に流入する情報を処理するために発達した。
風が木の枝を揺らすいつもの枝音とは違った不協和な音、風のなかに微かに混ざる生物の匂い、闇にむかって耳をすますと、ほとんど、沈黙にほんのわずかなしわが寄ったとでも言うような微小な息づかい、そういうすべての情報を統合して次の瞬間の行動を決めるために神経系が集中して塊をなしていった。
あるいはアンテロープの群れを遠望して、あの二頭は群れから遅れ気味についていっている。
臭いで悟られないように風下から攻撃するのは当然として右からまわりこめば左の草原に逃げられてしまうが、左の中心の群れにいったん向かうふりをしておおきく回り込めば、きっとあの二頭は群れとは反対の方向に逃げて孤立するだろう、と思いをめぐらせる。

情報処理能力が発達の極に達して、ついに自分自身を情報処理対象とするに至ったのが人間の大脳なので、鏡を見て、ふり返る仕草をしてみて、現実よりもややハンサムに見えている自分の顔が、しかし、もう少し鼻が短ければよかった、と思ったりするのは、大脳の情報処理能力が生活に必要な能力よりも過剰になってしまった証拠で生物としては慶賀の至りなのだとは思う。

しかし大脳という情報処理システムの淵源を考えれば、与えられた情報からアウトプットとして出てくる判断は、意志が介在するものではなく、自動的なものであることは推論しやすい事柄に属しているはずで、あいだをとばして必要なことだけを述べると、絵を描くのが大好きな子供を弁護士にしようとする親の企みのバカバカしさは、そこにある。

自分でない何かになろうとすることほど人間にとって危険なことはない。
医学は間口が広い学問で、数学にしか興味がない人間でも文学にしか関心がもてない人間でも、絵を描く以外に時間の過ごし方が考えられない人間にとってさえ「医学」の名のもとにやれることが残っているが、そうであってもどうしても絵を描いてすごすほうが人間の身体を見ているよりもずっと好きで、生化学の本を読んでいると退屈で発狂しそうになる人間にとっては、高収入な医師であるほうがビンボな画家であるよりも遙かに危険で破滅の可能性が高い一生を送ることになる。

親の企み、と言ったが、遡れば、優秀な人間は医師や科学者や法曹家にしよう、というのは「社会の企み」である。
親は、そういう事柄に関しては、ときに、社会の側の子供に対するインターフェースとして存在しているだけにすぎない。
高度な段階の社会はテクノクラートを大量に消費する。
個々の家庭から優秀な能力をスポイトで吸いだしてITならITの分野のシャーレに容れて培養しようとする。
人間の大脳はもともと「気象」をイメージすれば最も類似している、変わりやすく破天荒でも一定の傾向をもつシステムだが、それを社会の側からの要請によって「有益」なものに変えようとするのが学校教育制度の、秘匿された、品の悪い目的で、「がまん」や「努力」が美徳として教え込まれるのは、そういう事情によっている。
成績がよいのに頭がわるい人間はトーダイでもよければハーバードでも構わない、その社会で有名な大学に行ってみれば群れをなして存在するが、そのうちの何割かは、鋳型に自分を押し込む途中で壊れてしまった人格なり知性なのであると思う。

そういうことにまったく気が付かないまま、学校のような、しょもない期間を終えて、食べたくない夕食はそのままテーブルに残し、行きたくないと思えば学校をさぼって庭の芝生に寝転がって猫とスパーリングをして遊びほうけ、それにも飽きると、目を細めて、深い、広大な青空を見ながら、世界はなんて綺麗な場所なんだろう、と放心したもの思いにひたりながらお午寝をしてしまう、という生活を許して、家のなかに「社会からの要請」が一歩も入らないように守ってくれた親の努力をありがたいと思うことがある。
家はときに社会のわがままから子供を守る為に存在する。
親は子供のわがままを社会のわがままに優先させられるただひとつの存在なのである。

この頃30歳をすぎて、小さい人が家のなかを走り回り、ときどき転んで思い詰めた顔で世界と廊下を呪い、猫にからかわれて地団駄を踏んでいたりするのを観察する毎日になると、それまでベールの下に顔を隠していた世界が、少しづつ姿を見せてくる。
主要なこともあれば些細なこともある。
あ、そーゆーことだったのか、と思う。

努力しても努力しなくてもアウトカムは同じようなものだ、とか、
頑張るとろくなことはない、とか、
我慢などにいたっては、健康にわるいだけで良いことはまったくない、というような知見は最近のものに属する。

いままで、30年余、さぼり続けてきてよかったなあー、と心から思う。
社会のほうでは不満かも知れないけど。
社会くん、すまんが我慢してくれたまえ、わるいね、としか思わなくなった。

それでも収入も幸福も単調に増加してゆくところをみると、社会くんのほうでも、悟るところがあったのではあるまいか。
アホに見えて、案外、思ったよりも理解力があるようです。

(Touch wood)

24/6/2014

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ネオ自民党

オークランドでは、同じレストランにでかけても、味もサービスもまったく異なるものになっていることがよくある。
「ビジネスブローカレジ」(←英語の会話では聞かれない表現だが日本語のカタカナにすると他にいいようがないのが面白い)が発達しているからで、たとえば自分で10年前にラーメン屋を始めて、そこそこうまくいっているが、もうラーメンをつくって暮らすのは飽きたので、ラーメンは食べるほうだけにして、今度は画家になりたい、というような場合、ビジネスブローカーに頼んで、レシピ、仕入れ先、というようなものまで含めてすべて込みでラーメン屋をやってみたい人に「ビジネスごと」売ることが出来る。
日本でもたしか1990年代に営業権の売買をしてもいいことになったので法律的には他国なみにビジネスの売り買いが可能なはずで信用金庫やなんかでビジネスブローカーを部門として持っているところはあるが、ニュージーランドのように店頭にビジネス売買の写真がいっぱい貼ってあって「デイリー、現況売り上げ年8万ドル、7万ドルで売ります」と書いてある、というふうにはならなかったようです。

自民党は、もともとは政治学者にとっては大変興味深い政党で、どのくらい興味深い政党だったかというと、たとえば宇都宮徳馬というような自民党代議士のことを考えると直ぐに判る。
戦前、河上肇に師事したマルクス主義者として出発した宇都宮徳馬は京都大学時代には2階の教室から警察官たちに椅子や机を投げつけて抵抗するというような武勇伝を残したあとに治安維持法で逮捕投獄されると転向するが転向後は今度はばりばりの国家主義者になってしまう人が多かった日本の他の転向共産主義者とは鮮明に異なって、現実主義者の宇都宮徳馬は「表向きだけ転向して」内なる共産主義を育て上げ、年齢を重ねれば重ねるほどチョー過激な共産主義者になっていきます。

満州事変が起きると、当分、日本は戦争ばっかりやるに決まってる、と考えた宇都宮徳馬は軍事産業に株式投資してボロ儲けする。
今度は、その資金を使ってミノファーゲンという肝臓の薬をつくる会社を設立して、株式投資であげた利益に数倍する利益をあげる。
ミノファーゲンがバカ当たりしたあと、「しめしめ、これで革命資金が出来たわい」と思ったでしょう。
戦争が終わった1952年になると、日本共産党や社会党の観念的で反革命的な体質を知り抜いていた戦前からの筋金入りの共産主義者宇都宮徳馬は、現実主義を政治の場でも発揮して自民党から東京2区に出馬して当選する。

この人についてのwebページ記事を見ると「最左派のために党内から孤立していった」と書いてあるが、なにしろ自分がチョー過激な共産主義者であることを知り抜いているこの人は別段に「孤立した」という実感はなかったでしょう。
初めから党内に同志をみいだす、というような考えはなかったように見える。
衆院議員としてキャリアを積んでいったのは、まったく別の理由に拠っていて、日本の外にあって、日本では自民党を相手にする以外には実効的な政治活動は出来ないことを知悉していた外国の共産主義者たち、すなわち中国共産党の中国との国交の正常化、というようなことを表面からは見えない世界ですすめるためだった。
実際、この人が自民党のベテラン議員としてつくった人間関係を通じて、たくさんの中国通の人材がNHKをはじめとした日本のメディアや大会社、コネ採用しか考えていないような機関や会社に入っていく。
一方では、むかしは華僑と呼ぶことが多かった在日の中国人ビジネスマンたちとも「腹を割って」話し合い、手分けして活動して、田中角栄の日中国交正常化に結びつけてゆく。
具体的なことはブログ記事に書いていいようなことではないので書かないが、昔からアジア外交に通じている人達にとっては常識にあたることのようで、インタビューしてみると、何の記録もない、起こらなかったことになっているはずのことを、案外とニコニコ顔で話してくれたりして、「歴史は必ずふたつ存在する」と述べた歴史学者の言葉をかみしめたりした。

1955年に保守合同で出来上がった自民党には宇都宮徳馬とともに岸信介もいた。
いまの日本国首相安倍晋三のおじいさんです。
東條英機たち大日本帝国陸軍将校団と結んで日本の行政を牛耳っていた国家社会主義官僚群のチャンピオンで、実際、戦争中の1941年にはいまの経産省大臣にあたる商工大臣として軍国日本の経済を企画して、1943年に日本が持つすべてのリソースと産業の力を戦争に注ぎ込む「総力戦」であることが明らかになると、東條英機が兼任した軍需省大臣に次ぐナンバー2として辣腕をふるう。

右翼、左翼というのは日本では途方もなく不適切な実情にあわない言葉で、常に日本の政治を見誤らせる原因になってきた言葉だが、どうしてもそういう言葉を使いたければ左翼も左翼、左翼の左のはしっこの、もっとずっと左にいて、全共闘の理論家もあきれかえるような、チョー左翼の宇都宮徳馬に対して、こっちはまたまた右翼よりもずっと右にいて、あとでリー・クアンユーが採用して、それを見習った香港も成功したので、自分達も取り入れることにした中国共産党がいまこの瞬間にとっている経済のつくりかたの手法は、よく考えてみると、皮肉にも岸信介たちが考えた国家社会主義経済手法だが、その産みの親の右翼よりも右にいる岸信介も同じ船にのっているという奇妙な政党が自民党だった。

自民党が左の端っこから右の端っこまでの政治信条の人間がいる奇妙な政党になった理由は、政治の表側からは見えなくて、たとえば後藤田正晴の伝記をよく読めば、ようやくうっすらと見えてくる日本の政治の姿、特に、選挙はオカネがかかりすぎる、ということにいきつく。
政治の世界では田舎の小村から大都市まで、おいてけ堀の手のひらのように国民がいっせいに手のひらを突き出して「くれくれ君」をしているという図式があって、日本にいたときに選挙の頃に田舎をクルマで旅行すると、相手が外国人である気楽さで、
「あらあー、あんた、ガイジンなのに、そんなことまで知ってるのー? ソ連のスパイなんじゃない? あっ、もうソ連ないのか」はっはっは、と怖い冗談をとばしながら、
「あのHさんて人はね、もうダメなのよ。ご祝儀も昔は万札が二枚はいってたけど、今度は五千円だから。勢いがない。年をとるとさびしいもんよねー、てみんな
言ってるの」と言うおばちゃんおじちゃんたちがたくさんいたし、義理叔父に至っては某県某町の町道を運転していたら向かいから軽トラックを運転してきた別荘出入りの顔見知りの大工のじーちゃんが何を勘違いしたのか、「あんた、こっちから来たんだったら、選挙、Kさんだろ? あのひと、もうダメだよ。ダメ、ダメ。このあいだの選挙のときは出すひるめしも鯛のおかしら付きで、毎回、ご祝儀袋もたんまり出たけど、今度はしみったれて、一文もださねえ。KさんなんかやめてM先生のほうに鞍替えしないと損だよ!」と言われたと述べてげんなりしていた。

自民党は巨大な「マネーバッグ」で、いろいろな思想の持ち主や、思想がない政治家や、たいしてカネをまかなくても票が期待できる安上がりに員数をあわせるためのタレント、宇都宮徳馬や藤山愛一郎のように自前の財産はあるが、マネーバッグとしての自民党の巨大な規模とオカネだけの結びつきであるがための「政治信条や思想はどうでもいい」政党内の空気のせいで自民党に党籍を持っていた人もあわせて、「オカネでまとまっている集団」として存在していた。

存在のありようは「この世はカネさ」で下品だが、当時の世間で悪く言われたほど悪いことばかりではなくて、なにしろカネさえ集まってくれればなんでもいいや、というありようだったので、アメリカが突然日本を公然としかも明瞭に裏切って頭越しに中国と国交を結んでしまったりしたときには、党内に中国共産党の要人と秘密裏に通じている議員や台湾派、アメリカ通、通常ならばありえないバラエティを自前でもっていることが、たいへんな幸運として機能した。
あるいは政策的にも自民党内部にさまざまな派閥があって、憲法第9条ひとつとっても、明日にも徴兵制をやっちまおうと思っている中曽根康弘のような代議士もいれば、そんなことばかり言っているからきみはダメなのさ、と考えている田中角栄や大平正芳のような代議士もいた。
しかも、代議士の数を読みあいながら、まったくの敵同士が手をつないで連合したりもして、自民党の党内だけで「政治」が存在するような奇妙な図式になっていた。

悪い方は、日本の政治からは本来の意味での「野党」というものがなくなってしまったことで、自民党が「オカネだけのまとまり」のなかで十分すぎるくらいの政治的バラエティを持ってしまったために野党のほうは「現実および現実主義に反対する党」というようなおかしな立場になってしまった。
土井たか子などは、いまでも北朝鮮について述べたお伽噺のような認識のせいで笑い話になっているが、その遠因は、要するに現実を扱いうるような思考を持った人間は「野党」ではありえない、という当時の日本の特殊な政治事情にある。

自民党の落日の始まりは、田中角栄がオカネ集めに有能すぎたことで、毎日お昼になると鬱勃とした性欲が堆積して気が狂いそうになるので赤坂の芸者に「布団のなかにはいって待っててくれ」と頼んで、せかせかと出かけては短い昼休みにイッパツやってからでないと午後がおくれなかったという、この異常な精力家は、ふつうのビジネスでは失敗ばかりだったが、政治というからくりからオカネをひっぱりだしてくることにかけては天才的な腕前をもっていた。

後藤田正晴は、警察向きな、極めて明確な判断をもたらす知性をもった官僚人で、好戦的な政治家たちが憲法第9条を改正することが出来なかったのは半ばは、この切れ味の鋭い論理の感覚を持っていた官僚政治家が護憲の鬼のような姿で憲法の門前に仁王立ちしていたからだが、この人の明瞭な日本語が田中角栄のロッキード汚職や自分がはじめての選挙でオカネをばらまきすぎて金権候補と名指しされたことになると途端に訳の判らないモグモグ語になってしまうのは、ほんとうは「だって、あんた、日本の政治家であるかぎり、みんながやってることなんだから仕方がないじゃないか。日本では日本共産党員か創価学会員でないかぎり、オカネの泥沼のなかで何億かをつかみだして、それを選挙民に向かってばらまく以外には政治家になる方法が他にはないのは、政治家なら誰でも知っている。つまりは、国民の卑しさが悪いのさ」という「ほんとうの気持」が言えなかったからである。

人心にしろなににしろ、万事、本質をつかむのが早かった田中角栄は、「政治はカネだ」という明瞭な「自民党の理屈」を呑み込んで、誰よりも効率的に処理して権力を積み重ねていったが、ロッキード事件で有罪になってからは、高層ビルの屋上の端っこに追い詰められて、なおも胸を押されて爪先だちしている人の必死さでオカネを集め議員を増やしていった。
その結果困ったのは自民党内の多様性のバランスが壊れて、ほんとうに政党みたいなものになってしまったことで、その瞬間から自民党は政党としての本質の最奥からふきだしてきた腐敗ガスによって自らが窒息してゆく。

多分、あいつらじゃダメだが、もう、ここまで来てしまえば仕方がない、現実処理能力のなさには目をつぶって二大政党制を自分たちの力で生み出すためにイチかバチかやってみるほかにはない、と悲壮な決心を固めた日本人たちが民主党に投票して、大勝した民主党が浮かれて愚かな夢に溺れていたころ、自民党は、「たかが民間銀行風情」の某市中銀行に政党としての借金の返済を恫喝的に迫られるほど落ちぶれていた。
マネーバッグから借金バッグに変わった自民党からは、ひとりふたりと「オカネにだけ用事があった」ひとびとが離れて、あとに残ったのは岸信介の孫を中心にした赤穂浪士じみた議員たちだけだった。
この頃の自民党議員たちは、頭数で借金を割るといくらになるのだか忘れてしまったが、たしか何億だかの借金を論理的には負っていたはずです。

そうやって看板は「自民党」だがまったく内容は異なる、むかしの国家社会主義の夢に極めて近い夢をみる人間の集団として自民党は政権に帰ってきた。
安倍首相の第一期目の失敗は、自分が本来やりたいことである、「強い日本」「海外で肩で風を切って歩ける日本」「若者が国を愛し、日本を愛し、そのためには死もいとわない美しい日本」の実現に夢中になりすぎて、経済はどうでもよくなってしまい、選挙での姿を思い起こせば安倍晋三も気がついたはずの、見渡す限りの「美しい日本」から突き出された「くれくれ君の手のひら」の持ち主たちを失望させてしまったことだった。
まずアベノミクスで、くれくれ君たちにオカネをつくってあげねばどうにもならない、というのがネオ自民党の領袖たる首相の決意で、それが出来上がってしまえば、あとは軍備も海外派兵も憲法の改正ですら夢ではないことを安倍首相は学習して戻って来ている。
しかも自民党はもう自民党でなくなってしまっているので、自分に逆らうものなどいないのを、この人は熟知している。

自民党は1955年以来、あまりにながいあいだ日本の政治そのものの名前だったので、いまでも大半の日本人が、富士山が噴火しないのと同じように自民党が日本を戦争の悲惨に突き落とすことはない、と信じている。
名前が同じ「自民党」であることには、たいした力があるもので、日本人は、自分が「自民党」であると思って眺めている政党が、むかしの「自民党」とは似ても似つかない、「ネオ自民党」とでも呼ぶべき政党になってしまっていることに気が付いていないのではないだろうか、と思うことがある。
そういえば鈴木宗男という人は自分が罪人になって公職に立候補できないので同姓同名の人を立候補させるという面白い手を思いついたが、経済ではビジネスブローカレジはうまくいかなくても政治の世界では上手なものだ、と、オークランドのCBDのレストランで、とんでもない高い値段になって、そのうえ突然まずくなったパンプキンスープを食べながら、日本人の知恵に感心してしまう。
日本で下品なひとびとが起こすことには、なぜかいつも哲学的な味わいがあるのは、どういうことだろうと考える。

(それにしても、こんなウォッティ缶スープよりも不味いパンプキンスープに15ドルなんというベラボーな値段をつける奴って、どういうコンジョをしているのだろう)
(うー。ステーキの値段も二倍になっておる)
(ぐわあああああああ)

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ある物理学者の友達への手紙3

(この記事は、
http://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/04/ある物理学者の友達への手紙2/
ある物理学者の友達への手紙1
の続きです。)

データがない事象をおそれよ、と述べるのは科学者にとってはたいへん勇気が必要な行動であるのは誰にでもわかる。
ちょっとくらい放射能あびたってダイジョブですよ、そんなもの、と思っているほうは、「きみは非科学的な根拠によって被災地のひとびとの恐怖を煽っている」と軽く皮肉な笑いを浮かべて「きみは、それでも科学者か」と言っていればいいだけのことで、なにしろ科学的に考えようにもデータそのものがないのだから、データの解析を出発点とする科学にとっては手も足も出ないのは高校生にでもわかる理屈であると思う。

だから、きみが、「福島県の浜通ではたいへんなことが起きているようだ。メルトダウンが起きるほどの事故で、いまくらいの安全対策で無事にすむわけがない」と言のを見て、ぼくはひどく驚いた。
日本人にもこんなひとがいるのか、と思って、それから、なんて偉い奴なんだろう、と考えた。
科学者は科学者であるよりもまず先に人間でなければならない、というアホでもわかる理屈の、ぼくは、信奉者だからです。
そうして、科学者が科学ぽい情緒に固執することによってときに悪魔でも顔をしかめるような存在になるのは、人が考えるよりもずっと簡単なことなのでもある。

その頃、日本ではどんなことが起きていたかというと、政府が、ここで従来の放射能の安全基準を適用すると国の財政は破綻するしかない、という、主に金銭的な理由から事故原子炉30キロ以遠の福島県住民は退避しなくてもよい、と官房長官が公式に述べて、アメリカ政府やフランス政府のような、自国の住民が東北に住んでいて、いったんは、こういう場合の通常のやりかたに従って「日本政府が提供する情報をよく聞いて、それに従って行動するように」というメールを出すことになっていた国ぐにを慌てさせていた。
結局、当該政府が信用できない開発途上国の大使館なみに自国独自の避難方針を個々にemailで連絡するという異例の対応になってゆく。

外国にいるぼくたちを最もびっくりさせたのは、当初から「日本政府は広義の財政的な理由によって住民を退避させない可能性が高い」と言われていた政府の「当面はダイジョブ」アナウンスメントではなくて、日本の科学者たちが、放射能をおそれる必要はない、と口々に言い始め、あまつさえ、「でも、わたしには幼い子供がいます。ほんとうに、ここにいていいのですか?放射能がやはり怖いのですが」と訊ねる母親たちを、「非科学的だ」と罵りはじめたことだった。
それは世にも奇妙な光景だった。
さて、こういう「科学者」たちは、どんなひとたちなのだろう、と、それまで名前を聞いたことがない「科学者」たちだったので、インターネットを使って調べてみると、ほとんど何の情報もない。
仕方がないので、日本にいる年長の大学人に問い合わせると、もう大学という業界では「えらく」なっているひとたちなので、割と簡単に専門分野や背景、それぞれの分野での本人の評判というようなことまで、あっさり教えてくれた。
原子力の専門でも医学の専門でもない人が多かった。
山下俊一という人だけが名を知られた、この分野の医学者で、チェルノブルにも派遣されたこの人は、カトリック教会の敬虔な信者で、「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています」
と述べている。

日本の科学者は科学者としてのプライドに従って行動するよりも「科学者という肩書き」を使ってする政治的な行動のほうが好きらしかった。
ツイッタのアカウントから「誰それは非科学的なデマをとばしている」
「この人の言う事は、科学者として聞いていられない」
と述べたり、ぼくは日本のテレビを観ないのでわからないが、テレビにまで出て、「科学的な考え」を述べた人もいるそうだったが、そういうことは無論人間の社会行動のカテゴリとしては「政治行動」で、科学とは何の関係もない。

2010年はスティーブン・ホーキングが「神は不要になった」と述べて、永遠の科学弾圧者であるカトリック教会を中心とした宗教人の激しい攻撃や嫌がらせにあった年だったが、傍観者には終始科学者としての立場から一歩も出ないで神が不要である根拠を述べて、政治的行動にあたる部分を避けようとして、おおむね成功していたのに対して、宗教側はムスリム人は宗教家として攻撃していたと言えなくもなかったが、キリスト教勢は、神とはあんまり関係のない哲学のようなことばかり述べていて、しかも行動は常に政治的なものだった。

日本の科学者は、政府の要人に呼ばれて舞い上がってしまったのだと思うが、ほとんど政治家として行動することになった。
コピーライターのひとのインタビューにこたえて「いよいよ危なくなったときに住民に動くなという腹がすわったことが言えるか、と要路の政治家たちに述べた」と自分がいかに救国の使命感に燃えたか、という調子で答えている物理学者の姿をみて、普段の地味なモグラのような研究から陽の光の中に出て、スポットライトを浴びて、得意になって、正視に耐えられない調子っぱずれの見栄をきるひとの無惨な姿を見るおもいだった。
このひとも、別に、放射能禍に関連するような専門を勉強したことがあるわけではないそうでした。

科学者が政治的スポットライト、というか、簡単に言えば社会との手応えのある関わりを求めて「自分は科学者である」という肩書きで政治的行動に走ることは歴史上たくさん例がある。

今回の日本の科学者たちのように、ちょうど昔日本で流行った押し売り手口に、家庭を「消防署のほうから来ました」と言って訪問して、なんとなく消防署員ぽい服を着て、応対に出た主婦を、「そんなに火事について無知でいいわけがないでしょう。もっと勉強してください」と恫喝したりして、説教を述べて、消火器を売りつけるという自己満足とボロイ儲けの一石二鳥の商売があったそうだが、「科学の方から来ました」で東大教授や阪大教授の肩書きの、まだ「学者」が偉いアジア的後進国性を残した日本人の純朴なアカデミア信仰を利用して、さんざん相手を説教して、なんだかよく判らない溜飲をさげたり、研究者としての迂遠な社会との関わりから、一挙に何十万というフォロワーを従えるスポットライトに出た興奮に酔って「春雨じゃ濡れていこう」と述べたりして、子供じみた浮かれ方だが、そういう「科学のほうから来ました」のインチキな科学者と社会の関わり方では、科学者が政治的行動をとることの真の恐ろしさが判らないので、正真正銘科学者が科学者として関わって、しかもなおたくさんのひとびとを地獄に突き落とし、科学の名のもとに大量殺人まで起こした例を一緒におもいだそう。

ワイマール共和国時代のドイツは医学水準において、問題にもならないくらい世界のなかで傑出していた。
当時のドイツ医学は「pinnacle of the world」というような表現がぴったりで、ライプチヒ大学やミュンヘン大学、ベルリン大学で医学を学ぶことはアメリカ人の医師志望の青年にとっては最上の「箔付け」だった。
アメリカ人にとっては、いまで言えば、ちょうどハーバード大学かジョンズ・ホプキンス大学に行くようなものだったでしょう。

ドイツ医学のおおきな特徴のひとつは「人種」に対する意識が大きかったことで、19世紀に終わりに生まれたEugenics(優生学)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugenics
はドイツでおおきな発展をみることになる。
このドイツ式医学思想はアメリカのエリート医師たちの頭に叩き込まれることによって、アメリカにも渡って、アメリカ人たちは真剣に「sterilization」(断種)によって自分達の人口構成を「より良い」ものにしようと考え始める。
英語の本にはsterilization運動をドイツ人が始めてアメリカ人に影響したように書いてあることが多いが、事実は逆で、アメリカの運動にヒトラーが感動して、逆輸入することになったもののようである。
アメリカでも一挙に7500の断種手術を行ったヴァージニア州をはじめいくつかの州(たしか27州)では、断種法が施行されるが、ドイツでは一挙に国家の法になる。
ドイツではやがて、これが反ユダヤ主義と結びついてユダヤ人虐殺につながってゆく。

優生学に出会った当時シカゴ大学で動物学の准教授をつとめていたCharles Davenportは、「科学的であること」をおおきな美徳のひとつに数えていた20世紀初頭のアメリカで、「似非科学」や「非科学的」なひとびとを攻撃して、人為的な人口改善に努めない人間は、科学にめざめて、科学的にものごとを考えなければならない、と述べて喝采を博すようになっていた。
ドイツ式の優生学をアメリカで広めたのはこの人です。
彼は当時の「科学万能」の時代風潮に乗じて、「劣った遺伝子を持った人間は生きる権利がない」という「科学的な合理性」に訴えた運動を広めてゆき、やがてそれはダーウィニズムを社会に適用できるという奇妙な妄想に駆られた社会学者たちが唱えだした「社会進化論」と結びついて、いまにいたるまでアメリカ人の考え方におおきな影響を与えている。

Harry Laughlin
http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_H._Laughlin
に至って、ついにアメリカ人たちは有名なCold SpringのERO (Eugenics Record Office)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugenics_Record_Office
を設立してしまって、ドイツ人たちの優生人種論と寸分変わらないものになってゆく。
余計なことを書くと、Harry Laughlinは自身が劣等遺伝子に指定して強制的な断種の対象としたEpilepsy(てんかん)であることを発見して、愕然とする。
終生、子供を持たなかったようです。

ここからあとの優生学と、その通俗化であるAlferd Rosenbergたちの優等人種論については、日本の人もよく知っている。
ここでも余計なことを言うと、tumblrで、よく「ヒトラーは日本人だけは優等人種であるとおもっていた」とか「ヒトラーは日本人だけは好きだった」という記事がまわってくるが、「鏡よ、鏡」

http://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/鏡よ、鏡/

で書いた日本の人がいつも願っている「世界の人に好かれたい」というナイーブな思念がうみだした幻にすぎないことは、
Mein Kampf (我が闘争)の中核とも言えるChapter 11の、日本語訳からは省かれた部分を読んでみればすぐに判る。
それはこんなふうに述べている。
「It is not true, as some people think, that Japan adds European technology to its culture; no, European science and technology are trimmed with Japanese characteristics. The foundation of actual life is no longer the special Japanese culture, although it determines the colour of life-because outwardly, in consequence of its inner difference, it is more conspicuous to the European-but the gigantic scientific-technical achievements of Europe and America; that is, of Aryan peoples. Only on the basis of these achievements can the Orient follow general human progress. They furnish the basis of the struggle for daily bread, create weapons and implements for it, and only the outward form is gradually adapted to Japanese character.」
あるいは、
「If today all further Aryan influence on Japan should stop, assuming that Europe and America should perish, Japan’s present rise in science and technology might continue for a short time; but even in a few years the well would dry up, the Japanese special character would gain, but the present culture would freeze and sink back into the slumber from which it was awakened seven decades ago by the wave of Aryan culture.」

このAryanというのは、当時のドイツ人が科学的だと信じこんでいた人種論に基づく優等民族のことで、北欧人、連合王国人、ドイツ人、というような国民を含んでいた。
この「科学的なひとびと」が引き起こした大量殺人、悲嘆に暮れる母親たちの群れ、というようなことは人類の記憶のなかでも最悪のものになっていった。
科学がはじめた虐殺を止めたのは、科学でもなんでもない、普通の人間、多くは教育がない、ひとりひとりの人間の良心の直観によったことを付け加えておくことは、まるで無意味とは言えないと思う。

….やれやれ、随分ながくなってしまった。
ほんとうは、ここから科学者の社会との関わりについて書いてゆかねばならないが、もうめんどくさい。

きみが家族のいる東京と職場がある大阪を往復しながら、夜中にラーメンライスと餃子!を食べたりしているのをツイッタで眺めながら、身体を壊さないといいけどなあー、なにごとかなしとげたい気持には賛成だけど、あんまり頑張っちゃだめだぞ、と念じながら応援してます。
(そーだ、そーだ)
このあいだ、ふと思ったのだけれども、きみは見かけやくちぶりと違って傷付きやすいおっちゃんであるようなので、念のために述べておくと、ぼくがときどき触れる日本語フォーラムにきみの姿がないのは、ただただきみのあのチョー下品な二次元趣味とイビーツな女性観のせいで、他には理由がありません。
いつだったかツイッタ上で喧嘩したときのきみの言い訳も、詭弁だということでフォーラム人にはたいへん評判が悪かったし、ぼくも「もてないおれたち」なんちって、なにゆってんだぶわっかたれめが、といまでも思うが、人間はつねに考えることがヘンで、友達としては、かけがえのない友達と思っている。

余計なことだが、もしかして、と思って考えていたらストレスになってきたので、言葉にして申し上げておくことにします。

世の中には、この人がいて良かった、と思う人が稀にいて、「オダキン」は、そのままの人であると思う。

今回は、随分ヘンな手紙になってしまったけど、それでは、また。

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Cogito ergo sum

クオークの発見は人間の一生の意味を変えてしまった。
「発見」といっても、ぼく、クオークを見たことないんだけど、というきみの声が聞こえそうだが、あたりまえと言えばあたりまえで、人間は自分の頭脳のなかでクオークを「発見」したので、科学者がナノサイズのそのまた何兆分の一のロケットをつくって物質のなかを探検して、「翼よ、あれがハドロンだ!」なんちゃったわけではない。
クオークには物理的な姿はない。
姿がみえないのに「発見」はヘンだろう、というひともいるのかもしれないが、その姿がないものの発見こそがクオークが人間の認識にもたらした衝撃の本質で、クオークはそれが極小な物理現象を説明する限りにおいて実在している。
仮にクオークが不要な極小物理現象の説明が可能であれば、クオークは「存在が疑われる」のではなくて存在しないことになる。

と、ここまで書いてきて、もう気が付いた人がいると思うが、クオークの実在の仕方は気味がわるいほど神の「実在」の仕方に似ている。
だいたい、そのへんのところで、科学への理解力がある大司教たちは、嫌な予感にとらわれたものであると思われる (^^; 

人間の視覚はふつうのひとがイメージするよりも遙かにぼろくて、腕を、まっすぐ、いっぱいに伸ばして親指を立てたときに親指で隠れている範囲だけが事物の認識に必要な解像度を持っている。
視野のほかの部分は「なんかあるんだな」という程度の極度にぼんやりした映像です。
その上に言うまでもなく、人間の目と視神経の構造はイカやタコよりもだいぶん劣った劣悪な構造になっているので、ほとんど手順を間違えたとしかおもえない発生の都合によって視神経がいったん眼球内部に突起してしまっているので、それを眼球外の視神経と連絡するために、ぶざまな、「盲点」と呼ぶ暗黒点がふたつある。

欧州で上司のすさまじいオーデコロンのにおいに悩まされながら天文研究生活を送っている「もじんどん」とツイッタで冗談を述べていたら、もじんどんが途中で、このひとの地ベタに足が貼り付いてしまっているようなマジメさを発揮して、「でも、光学望遠鏡の天体写真といっても複数の写真の合成だからCGと言えなくもないけど」と述べていて、そのときはパンケーキを食べる直前だったのでメープルシロップをかける手をとめて述べるのはめんどくさいので、そのままツイッタ上の会話から離れてしまったが、そのときに、「言ってみてもいいけどねー」と思ったのは、人間の目も、要するにCGで、大脳が人間が日常みていると思っている映像をつくっているのは、たかだか親指のおおきさの視野から大脳が合成したグラフィックで、肉眼もCGにしかすぎない、ということだった。

ルネ・デカルトが「Cogito ergo sum」(I think,therefore I am)
と述べたように人間は肉体というハードウエアとmindというソフトウエアに分かれている。
mindというソフトウエアのプロセッサーが肉体の部品である大脳で、この大脳というプロセッサは自由意志がノーテンキに信じられていたむかしとは異なって、現実には、人間の肉体がその部分であるchaoticな物理現象そのもので、いつも嵐が吹き荒んでいる内部宇宙というか、絶え間なく何万というダイスが転がされているとでもいうような、コンピュータゲームなら8ビット時代から有名な「ライフ」をイメージしても悪くはないが、人間が「意志」という言葉で自分で意識するよりもずっと物理法則に支配された、初期条件によってほぼ一意的に導き出される、予定的なものです。
初期諸条件が多すぎるので、かつては、解きほぐすわけにもいかず、めんどくさいので、自由意志みたいなものがあるとされていたもののよーである。
ハードウエアである大脳がmindという機能の総称をもつ情報処理系にしたがって結果としてはきだしたものが人間のこの世界への認識、つまり現実だが、視覚のようなごく基礎的な情報がすでにCG処理で出来ていることでわかるとおり、「現実」はmindよりも下位の真実性をもつものにしかすぎない。
たこ焼きの香ばしいにおいや、出来たてのたこ焼きの上でヘニョヘニョダンスを踊っている花かつをが、いかに頼もしげな「現実」に見えても、BBCが最近惑溺している、CGを駆使した最新の恐竜サファリプログラムというようなものを観れば一目瞭然で、もういちどしつこく繰り返すと現実はmindよりも下位の真実性しか持っていない。

「生きがいとはなにか?」「どうすれば意義深い人生が生きられるのか?」というようなワニブックスのハウ・トゥーブック的な深刻さをもった人生の意味を考えるときに、意識されなければならないのは、人間が宇宙の物理法則の支配下にある100%物理的な存在で、カオス的な精神や意識というようなものも含めて、宇宙の物理現象内に限定される存在であることがまず第一だろう。

人間の大脳内を3.5V程度の電圧を閾値にして駆けめぐる信号は、たとえば群れから少し離れたアンテロプをどうやって捕食するか、というような莫大な情報の処理を必要とする雌ライオンの大脳とほぼ同じ思考傾向をもつが、そうやって形成された人間の思考と意識は、同じ結論に到達する強い傾向をもっていて、だんだんに理を詰めて考えていくと、人間の「自由意志」などは実際には与えられた初期条件にしたがって起こる物理的諸法則にしたがった結果で、「人間性」というようなものは、強固な意志であるよりは初期条件に依存していることに思いいたる。

人間の一生はアミノ酸の生成と消滅、雲の生成と消滅、銀河の生成と消滅、と本質的に変わらない生成と消滅の事象にしかすぎないが、ハードウエアとして(枚挙の筋道がおおく、通常の事象よりも桁違いに偶然性が高いために混沌とした)有機的ハードウエアを選んだために情報処理、つまり意識の対象として自己も選択してしまった、ということに人間というハードウエアとソフトウエアのセットの特徴がある。

人間が「なぜ?なぜ?なぜ?」と知性それ自体が狂気であるかのような巨大で無意味な好奇心を持ち、あらゆることを問い続ける存在であるのは、そもそも、まるで天気そのものが頭のなかで発生しているような、気まぐれで、混沌としていて、ちょっとしたきっかけで、あっというまにおおきく変化する「自然物としての集中神経系」を耳と耳のあいだにもっているからである。
混沌を制御する最も有効な方法として人間の大脳とmindのセットは「疑問」を採用した。
人間が解答が存在するはずのないことにまで疑問をもつのは、要するに疑問をもつことそのものがchaoticな内部宇宙である人間の意識が拡散してしまわないためのバインダの役割をはたすからである。
厄介なのは、ここで制御方法として人間というシステムが採用した「疑問」は自動的に自意識に対しても向けられてしまうことで、自分自身を処理対象とした情報処理は、その論理的不可能性に従って、つきつめる速度がはやすぎると自殺に至ることまである。

人間の認識の方法が発達していくに従って、現実はあってもなくてもどちらでもよいことになっているのは、ほとんど自明であると思う。
自分の存在を疑いのない実在であることを前提にしている「生きがい」というような自分の存在への認識の仕方も、古い時代の言語の金魚鉢のなかから人間が世界を眺めていた時代の、屈曲でひどく歪んだ自己存在への認識として笑い話のタネになってゆくだろうと思われる。
人間が宇宙が生み出した最高の美しさを持った系であることと、それを「自分」として意識する輝かしい病を獲得したことは別の問題に属する。

ほんとうは人間の一生の意味、というようなものが、1ページ目から書き直されなければいけない時に来ているのだと思います。

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Sfmato レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密

レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」ということになっているが、あの飛行機械のスケッチ
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Leonardo_da_Vinci_helicopter.jpg/220px-Leonardo_da_Vinci_helicopter.jpg
を見て、ヴィンチ村のレオナルドにエンジニアとしての素質があったと思う人はいないだろう。

実際、さまざまな形のダ・ヴィンチの「飛行機械」のスケッチをみると、オモチャの飛行機のそれで、材料の強度の点でも、あるいは仮に十分な強度をもたせると重量の点で、強度と重量を解決しても今度は機関出力(と言っても人力だが)の点で、みるからに空を飛べないレオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機で空を飛んでみようとする人間はいなかった。

タンク(戦車)
http://en.wikipedia.org/wiki/Armoured_fighting_vehicle#mediaviewer/File:DaVinciTankAtAmboise.jpeg

のほうは、もう少しマシだが、ここには秘密があるというか、レオナルド・ダ・ヴィンチのこうしたアイデアは有名なノートブックに彼が描いたスケッチの数々が発見したドイツ人の手から離れて世界じゅうに広まっていったものであって、レオナルドは当時の習慣に従って、見聞し議論してものをノートブックに描きこんでいったものであることがいまでは判っている。

Konrad Kyeserは13世紀を生きた頭のいかれたマッドサイエンティスト、もう少し具体的に言うと物理学者で軍事技術者だったが、タンクのアイデアは、この頭のいかれたおっちゃんの独創的なひらめきが氾濫する頭のなかで作られた「War wagon」
http://en.wikipedia.org/wiki/Konrad_Kyeser#mediaviewer/File:Konrad_Kyeser,_Bellifortis,_Clm_30150,_Tafel_01,_Blatt_01v_(Ausschnitt).jpg
が淵源で、この考えにさまざまな人が改良をくわえて、レオナルドの戦車もそのひとつである。
Konrad Kyeserは攻城兵器
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Konrad_Kyeser,_Bellifortis,_Clm_30150,_Tafel_13,_Blatt_74v.jpg

http://www.pinterest.com/pin/563512972097100497/
ロケット
http://manuscriptminiatures.com/3975/11005/

よく訳がわかんない凧

http://en.wikipedia.org/wiki/Konrad_Kyeser#mediaviewer/File:Konrad_Kyeser,_Bellifortis,_Clm_30150,_Tafel_21,_Blatt_91v.jpg

に始まって、貞操帯まで

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莫大な数の発明アイデアを絵入り図解本の「Bellifortis」というチョー有名な軍事マニュアルに描き残したが、レオナルド・ダ・ヴィンチは、Francesco di Giorgioを通じて、この本にアクセスがあって、大好きだったことが判っている。

「なんだ模倣だったのか」というのは、現代人の考えることで、知識のあるもの同士がアイデアを共有して、「ここはこうしたらどうか?」「そこは、ほら、こういうふうに変えるとうまくいくんじゃない?」というスタジオ主義とでも言うべき集団作業の時代を生きていたレオナルドが、鼻歌をうたいながら、「Bellifortis」にでてくる機械にデザインを変更を加えては、かっこよくして、悦にいっているところが見えるようである。

レオナルド・ダ・ヴィンチのトレードマークになっているVitruvian Man

http://en.wikipedia.org/wiki/Vitruvian_Man#mediaviewer/File:Da_Vinci_Vitruve_Luc_Viatour.jpg

からして、もともとはSienaの偉大な天才技術者で芸術家のMariano di Jacopo il  Taccolaのアイデアで、
https://plus.google.com/+ZephyrLópezCervilla/posts/8Tv1CeouZ9Y

レオナルドのオリジナル・アイデアではないが、こうやってみても、レオナルドのほうがぜんぜんかっこよくて、レオナルド・ダ・ヴィンチの才能がデザイナー&画家としての洗練と表現にこそあったのがよくわかります。
えー、ほんとですかー、という疑い深い人のためにつけくわえると、レオナルドがFrancesco di Giorgio
http://en.wikipedia.org/wiki/Francesco_di_Giorgio
が描いたものを通じてタコラの描いたアイデア群を読んでいたことは文字の記録になって残っている。
レオナルドが考えたとされる機械や道具にはタコラのものが多くて、
たとえばレオナルドの奇想天外な発明として有名なスキューバダイビングエクイップメントもタコラが考えたものです。

いろいろレオナルド・ダ・ヴィンチの技術的アイデアとされているものがレオナルドの独創というわけではないことを並べたついでに、チョーチョー余計なことも書いておくと、レオナルドのヘリコプター型と飛行機型の2種類のうち、前者は当時ルネサンスイタリアで面白がられて流行した中国人の考え出した「空飛ぶオモチャ」、簡単に言えばいまの竹とんぼがもとになってさまざまなルネサンス人が考えた、多分、実際にはオモチャをつくろうと考えてスケッチした、回転翼付き機械が元になっているが、飛行機型にも原型になったプロトタイプがあって、Eilmer of Malmesbury

http://en.wikipedia.org/wiki/Eilmer_of_Malmesbury

というイギリスではものすごく有名な「空飛ぶ修道士」が自分で実際に飛んでみたグライダーがもとになっている。
と書きながら、日本語のwikipediaを見たら、「こんなのウソに決まっている」と言わんばかりのペダンティックな記事が載っていて驚いたが、この記事を書いた人は知っていて書いているのか、日本語wikipediaで「あてにならない嘘つき」のように書かれている
William of Malmesburyは、これもイギリス人なら誰でも知っている、すごおおおおく信用がある歴史家で、しかもEilmerと同じ地域の出身なので、なんでこんなヘンな記事が載っているのか判らないが、まあ、いいや、ともかくレオナルド・ダ・ヴィンチの尾翼があるタイプの飛行機械は、Eilmerのアイデアを書き写したものです。

日本語世界では、あんまりそういうことになっていない(サイトや本やyoutubeで観てみたが、レオナルド・ダ・ヴィンチがいかに超人だったか、というコンテンツしか出てこなかった)ようなので、英語世界ならばイタリア人が作ったのやフランス人がつくったのやイギリス人がつくったのやらでTVドキュメンタリでも年がら年中やっているこういう事実を、長々と書いてくたびれたが、なぜ、こんなことを書いているかというと、

ルネサンスの歴史に詳しいひとなら、よく消息を知っているとおり、こうやって、いったんは「ルネサンスのカルト」に祭り上げられてしまった「レオナルド・ダ・ヴィンチ」なる人は、個人ではなくて、それだけは真に天才的だった画業以外の部分は、欧州人がそれによってさまざまな発見をしてきた「集団作業」の、議論してはお互いの複数の知性の掛け算で独創的な発見や発明をなしとげたヨーロッパ式の科学技術ないし文明の進め方の団塊であることを示したかったからでした。
英語でもpolymathという言葉はあるが、これはもともとは現代語が意味するような個人が「万能の天才」として完結的にさまざまな分野で天才的業績をもっている人のことではなくて、 数学や物理の課題ですらスタジオで議論しながら思考をすすめてゆくことが多かった欧州人たちにとって、「議論に参加してすすめてゆくために必要な知識や思考力をもった人間」のことだった。

例によって例のごとく、いいかげんな感想を述べると、日本人が「天才」という言葉でイメージする研究者とかは、薄暗い書斎のなかで、ひとりでじっとうつむいて考え込んでいる、かっこよくて孤独な知性の持ち主であるように見うけられたが、それは多分、そういう田舎っぽい孤高な白皙イメージが好きなドイツ人が日本に持ち込んだイメージで、人間の創造力がいっぺんに爆発したルネサンス期のイタリア人などは、スタジオや誰かのライブリでわいわいがやがや、ああでもないこうでもない、いや絶対こうやったほうがうまくいくって、と言い合いながら研究をすすめて、あのけったくそ悪くも抑圧的なカトリック教会の権威主義をぶち壊して人間の合理的理性が羽ばたくためには個人の孤立した理性では到底無理だった。

日本人は集団作業がうまいというが、日本にいたときの観察では、それは嘘であると思う。
日本の人が述べる「集団作業」は、みなで、いわば軍隊式にいっせいに同じことをやることを指していて、北朝鮮のマスゲームというと明日から口を利いてもらえなくなりそうだが、「一糸乱れぬ」ことを集団でやるのが得意なだけで、そういうことは「集団作業」とは言わないだろう。

あたりまえだと思うが、「集団作業」をするためには、まず集団をなす個々の人間が、それぞれ考え方も持ち味も技量の種類も性格も面白いなと思うことも価値観すらも、全然異なる自分ひとりの魂の2本の足で立っている個人でなければならないはずで、恐縮だが(←最近観た日本映画で面白かった「ツレがうつになりまして」に出てくるクレーマー顧客の口癖)、日本ではまず集団と呼びうるものを構成できるだけの個人が存在してないようにみえることさえあった。

では日本には「集団作業」をうまく行えた例がまったくないかというと、そんなことはない。
判りやすそうな例をあげると、日本には「連歌」という伝統があって、連歌は集団作業の典型です。
実際、連歌が衰えてゆく調子は日本において「個人」の芽がすへってゆくのと平仄があっている。

近代日本は連歌よりもラジオ体操を好んでここまで来てしまったが、若い世代はラジオ体操をマジメにやれと言われても笑いころげてしまってちゃんとやれないかも知れないが、連歌の現代版、たとえばバラードにひとりひとりが1番2番と歌詞をつけてゆく、というようなことは、あっさりとやってのけそうな気もする。

ひとりの人間が万能の天才を発揮する、というのは、どことなく田舎秀才の臭いがする夢である。
どちらかと言えば、集団で、みなでうまく個性をつなぎあわせながら、たとえば街路をデザインする、というほうに人間の理性や創造性の可能性を感じる。

表題の「Sfumato」は、レオナルド・ダ・ヴィンチたちが編み出した陰翳の技法だが、モナリザが謎めいた微笑を浮かべてみえるのは、この技法のせいである。
その後、sfumatoは、技術的なことに興味をもたない、sfumatoを生み出さないタイプの画家たちによって、絵画全体を豊かにする技法のひとつとして確固としたものになってゆく。
時間を媒介にした「集団作業」は数学や科学の世界だけではなくて、人間の進歩と呼ばれるものの実体になっている。

「知」が孤独な作業だというイメジが意外なほど現実を反映していないことを考えると怒鳴り声や嘲笑が響き渡るだけに見える日本語の洞窟にも、連歌の伝統を思い出して、
「集団作業」と、それを行いうる、自分一個で完結した人格を持って、日本語によって凭れ合って考える習慣を持たない、「個人」が必要なときなのかもしれません。

06/6/2014

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「日本のいちばん長い日」を観た

もう誰だか忘れてしまったが終戦からしばらくした日の夜更けに偶然お堀端で米内光政にでくわした人が書いた文章を読んだことがある。
この聴き取りにくいほど東北訛りのつよい、最初から最後までアメリカとイギリスを敵にする戦争をやって勝てるわけがないと主張して、開戦の前も終戦のときも、内閣に席をしめていた海軍大将は、かすりで、暗闇のなかで、たったひとり、お堀端の草地に吹上御所のほうを向いて正座して、号泣していたのだそうでした。
あまりの異様な光景に米内光政を見知っていたこのひとが声をかけられないでいると、そのうちに、元海軍大将は、「陛下、申し訳ありませんでした、陛下、米内をおゆるし下さい」と言いながら、その場でくずれおちるように地に伏してしまった。

このブログ記事でずっと見てきたとおり、戦後の日本マスメディアの太平洋戦争観は美化されすぎていて、とてもではないが、まともに相手に出来るものではない。
ツイッタでも「特攻などは、ただの犬死にで、そこには美しさなどかけらもない」と書くと、長くフランスに住んでいる日本人の女のひとが「国を思って身を捧げた特攻隊員の気持ちを『ただの犬死に』だなんて許せない」と言ってくる。
だが当時の「特攻隊員」が戦後になって残した証言は、たくさん残っていて、名のあるひとならば城山三郎のような作家から西村晃のような俳優がいる。
あるいは、なぜか同じ人であるのに日本のマスメディアのインタビューに対しているときよりは遙かに率直明瞭に証言を述べているBBCやPBSに出てくる無数の元「戦士」たちは、異口同音に、「志願制」のからくり、特攻強制のために故郷に残された家族を人質にとってしまう日本社会の残酷さ、ある場合には、このひとは本人が中国戦線以来の歴戦のパイロットで、軍隊のなかで一目も二目もおかれる立場で、上官といえども、星の数よりメンコの数、無暗に居丈高になれる相手ではなかったからだろうが、日本社会の文化慣習からおおきく外れた行動をとったひともいて、
「自分は通常の急降下爆撃のほうがおおきな戦果をあげる自信がある。
出撃して艦船を沈められなかったら、そのときは殺してくれ」と上官に直訴しても退けられ、ではせめて敵がみつからなかったら帰投することを認めてくれ、と述べると、
それも許されない、死ぬ事が最も肝要なので、そうまで言うなら爆弾はボルト止めすることにする、と告げられた飛行隊長もいた。
爆弾をボルト止めする、というのは着陸しようとすれば爆弾が爆発して間違いなく死ぬということを意味しています。

むかし、ロンドンのカシノで会ったアメリカじーちゃんに、じーちゃんが目撃した彗星艦爆パイロットの話
https://leftlane.xyz/2017/11/11/judy/

を聞いたときには、いまひとつピンと来なかった自爆の理由が、いくつかのドキュメンタリを観て判った。
たとえ生還しても銃殺かボルト止めした爆弾を抱えた再度の特攻出撃命令が待っているだけで、それほどの屈辱的な死を選ぶより、自分が戦場として数年間を戦った海で死んだほうがよい、と考えたのでしょう。
「帰ってくるな」と言われた屈辱を、あの人は思いきり海に自分の生命を叩きつけることで表現したのであるに違いない。

ありとあらゆる人間性の弱点に不思議に通じていたナチはヨーロッパでは擡頭期から、ここという内政・外交の切所にさしかかると「美しい女を抱かせる」のを常套手段としたが、日本の、しかも一般世界から隔離されて生活してきた日本の軍人武官のようなナイーブさではひとたまりもなくて、当初はドイツをバカにしきっていた海軍軍人たちも、「親独派」に変わっていった。
イギリスには、ドイツにおけるのと同じもてなしを期待した日本の軍人が、「わたしのご婦人のほうはどなたに世話していただけるのでしょうか?」と訊いて、にべもなく、世話をする担当将校に
「われわれの国では、ご婦人と同衾するためには、その前に『恋愛』が必要なので、ご面倒でも、そこから始めていただかなければなりません」と言われたという話が残っている。
日本側には、これと同じ話が親日本的なドイツ人と較べてイギリス人の度しがたい人種差別の証拠として伝わっていたそうです。

最も決定的だったのは、最大の陸軍国、軍事的巨人とみなされていたフランスが、あっけなくドイツの機甲師団群に敗北して、インドシナが空白になったことで、当時の標語でいえば「バスに乗り遅れるな」、ドイツがアメリカやイギリスの主力をひきつけているこの隙に、軍事的な空白化している太平洋の西洋植民地をみな機敏に盗み取ってしまおう、という火事場泥棒の焦慮に駆られて、日本は太平洋戦争に突入してゆく。
なにしろオランダ人やフランス人が太平洋に放り出していったものを他人にとられないうちに掠め取りた一心だったので、うまいこと掠めたあとには、これといってやることも思いつかずに、オーストラリアを占領すればどうか、いや、いまこそ北のロシアを攻め取ればどうか、と述べているうちに、まだ工業余力が発生するまえの弱体なアメリカ合衆国の、劣勢な太平洋艦隊にミッドウエイで大敗北を喫するという失態を演じて、茫然自失のまま、アメリカが自分達の戦時工業生産の伸長にかかる時間を計算した結果しかけたガタルカナルという罠に見事にひっかかって、まるでアメリカの本格的な軍事生産を待って足踏みするかのような無意味な消耗戦に巻き込まれてゆく。
ロシアとの二正面から次第にナチを圧倒しはじめた連合軍は、1944年になると強大な正面の敵を打ち負かす見込みがついて、ようやく余力を太平洋にまわせるようになって、インド・マレーでも、それまで戦っていたひと時代前の装備の植民地軍から正規軍を相手にすることになった日本軍はひとたまりもなく本土へ向かって押し返されてゆく。

日本ではいまだに太平洋戦争は軍部や戦争を遂行した軍閥の観点から眺められていて、「白人の人種差別に対するアジア人のための戦いだった」
「白人の反アジア人連合に追い詰められた結果の自衛戦争だった」
ということになっているようだが、前者については、ぼくは面白い経験をしていて、学生たちの討論会で、「日本の戦争は白人からのアジア人解放という面があったと思う」と述べた日本からの(なかなか勇気がある)留学生に、歩み寄って、おもいきり平手打ちをくらわせた中国人女子学生のことをおぼえている。
ぼく自身は、どうとも思っていなくて、むかしのことでもあって、
日本のひとはドイツ人と違って考え方を変えていないのだな、と思うだけで、
平手打ちをしようと思うような強い関心がないようです。

「日本のいちばん長い日」という映画を昨日はじめて観たが、自分の頭のなかに入っている「日本終戦の日」の知識と同じで齟齬がないのは、実は、その知識そのものが、この映画のもとになったノンフィクションが暴いた事実に基づいているからに過ぎないからでしょう。

阿南惟幾が切腹自殺を遂げるところで、あれ?ここで阿南陸相は「米内を切れ!」と言ったはずだがなあーと思ったり、あ、近衛連隊が御文庫を襲撃したときにあの鎧戸を閉めたのは入江相政だったのか、とびっくりしたり、その程度の細部に異同があるだけで、なんだかずっと前にいちど観たことがあるような気がする映画だった。

そういうことがあるからか、映画で印象に残ったのは、まったくくだらないことで、
登場する人物たちが、やたら絶叫し、「声を励まし」、すごみ、慟哭し、感情を叩きつけて、まるで感情に酩酊した人のように振る舞うことだった。
映画の演出としてそうなっているのかと考えて、ぶらぶらとライブリに歩いて行って、戦争期のことについて誌した本を読んでみると、どうやら現実に当時の日本人は大声をだして叫び、怒鳴ることが多かったようで、へえ、と考えた。

英語人のなかではアメリカ人とオーストラリア人は「怒鳴る」人が多いので有名であると思う。
アメリカの人もオーストラリアの人も、喧嘩になると、大声をあげてわめきたてる人が多いのは、たとえば深夜に場末のバーに行くと、実証的に目撃できます。
ウエールズ人には「大声をあげる」という悪評がついてまわっていると思うが、それでも全体としては連合王国人は大声をあげるということを忌む。
たとえばイングランド人とニュージーランド人には観察していると喧嘩に面白い特徴があって、罵りあいをするまえに、まず先に手が出てなぐる。
相手を罵るのは、相手をイッパツなぐってから、たとえば襟首をつかまえて、低い声で「もういちど言ってみろ。この次は歯が折れるだけではすまないぞ」と述べるというふうに展開する。
むかしオーストラリアのボンダイビーチの深夜のバーで、自分のまわりにいた一団のひとびとが喧嘩をはじめて、おお、すげーと考えて眺めていたが、なんだか大声で「てめえ、ぶち殺すぞ」「殴られてえのか」と罵りはじめたので、なはは、子供の喧嘩みたい、かわいい、と思って笑ってしまったことがあった。
一緒にいた友達が、「夫婦喧嘩みたいなことをやってないで、さっさと殴りにいかんかいw」と言って冷やかしていたが、オーストラリア人は変わっておるな、と考えた。

ぼくは柄がわるい通りが好きなので、ろくでもないバーによくでかけたが、ダラスでもアトランタでも同じようなことがあって、だいたいその頃に「アメリカ人やオーストラリア人は喚くのが好きである」という偏見ができたもののよーです。

しかし「日本のいちばん長い日」に出てくる青年将校たちは、それどころではなくて、会話という会話がすべて絶叫でできている。
天皇と重臣が自分達の希望する本土決戦を肯んじないとみるや、ひとりの将校などは幼児のように声を放って泣き崩れる。

「日本のいちばん長い日」には、旧日本帝国陸軍の特徴である上官を恫喝する軍紀の弛緩、軍隊としての規律のなさ、命令不服従の悪習、がすべてみてとれる。
南京での虐殺・集団強姦、シンガポールでの中国系商人の虐殺、インドネシアでの女のオランダ人たちに対する誘拐と集団強姦、香港での病院襲撃とイギリス人看護婦たちの集団強姦、というようなことは日本では「そんなことはなかった」あるいは「戦争なのだからあたりまえで仕方がない」ということになっていて、そういうものの見方をする人間と議論をする余地はあるわけはないので議論をするつもりはないが、しかし「北京の55日」での日本軍の粛正な軍紀を考えれば、歴史家たちが誌している「二二六事件後の日本軍の頽廃」という意見にも耳を傾けないわけにはいかないだろう。

映画にも出てくるように7月26日にポツダム宣言を受信した日本の政府の反応は「まあ、まずなにもせずに待とう」だった。
何もしないが、何も発表しないのは「政府が動揺しているようにとられて、まずい」から、「あたらずさわらず」新聞各社に「調子をさげて」取り扱うように指導し、公式声明はださずに、政府はこの宣言を「無視するらしい」と報道しても差し支えはない、と新聞各社にほのめかす。
政府の指示をていした新聞は、ポツダム宣言をかるく、軽侮して取扱い、「笑止」という言葉で伝える。
明確な反対ではないのか、という前線からの軍隊の問い合わせに動揺した陸軍本部は、政府を動かして記者会見を開く、そこで「ポツダム宣言を重要視しない」と繰り返す鈴木貫太郎首相から、やがて「答える必要を認めない」という言葉をひきだした新聞記者は「帝国、ポツダム宣言を『黙殺』」と書き立てる。

黙殺は英語では「ignore」なので英語圏の新聞は、
「Japan Ignores Surrender Bid」というヘッドラインで書き立て、日本政府のポツダム宣言拒絶の意志にショックをうけた連合軍は、(当時の戦争指導部の信念によれば)残された戦争早期終結のゆいいつの手段である原子爆弾を広島と長崎に投下する。

8月8日にロシアが満州侵攻を開始したあと、(驚くべき鈍感さだが)日本がゆいいつ信頼できる国と信じていたロシアの宣戦布告に驚いて、日本は茫然自失、どうすればよいかわからなくなってしまう。
ノモンハンで思い切り顔をなぐりつけて、ロシアを破滅の淵にまで運んだヒトラーと同盟していたことを忘れてしまう都合の良さが日本政府のいまにいたる伝統的な持ち味と言えなくもない。

毎日会議がひらかれ、毎日意見が割れて、こういうところが面白いところだが「ここまで来てしまっては相手の意見をのむしかない」という海軍と文民大臣たちと「相手の意見は正しくない」と激烈に主張して一歩もひかない陸軍とのあいだで、論議がつづいてゆく。
正しいか正しくないかということと、そうすべきかいなかという異なる平面のことが、ちゃんと同じ議論にのぼせられるところが日本語というものの醍醐味だが、
正しくなくても、現実の問題処理にはこれしかないんじゃない?という理屈は通らないのは日本語議論の特徴で、ここで本土決戦を叫ぶ軍人たちは、いまの年金制度を維持していると国が倒産する、という人々に対して、年金がなくなるのは正しくない、と激昂するひとびとと軌を一にしているとも言える。

今度は「subject to」の解釈をめぐって紛糾して、いつまでたってもポツダム宣言を受諾するかどうか決められないでいるうちに、戦争をやめたくない近衛師団の青年将校たちは天皇を奪取して、終戦を阻もうとする。
有名な成り行きによって「聖断」が下ったあと、ここもまた楽しませる、というか、もっと早く放送されるはずだった玉音放送が15日にまでずれこむのは、ここは字句がまちがってる、ここに脱字があるといって原稿の清書に時間がかかるからである。
チョー日本ぽい。

青年将校たちのお互いに対して喚き散らす言葉には、「おまえの純粋さは買う」
「日本という美しい国をおもえ」というような情緒だけで中身がなにもない無責任な人間が愛好しそうな語彙に満ちていて、静かに語る文明を身につけた重臣たちは何も決断できないとう構図は、実は共和制初期のローマにあったのとまるで同じ構図で、叫喚と優柔が常に文明を破壊してきた人間の歴史を思いおこさせる。

映画の結末は無論史実と同じで、官僚組織としての軍隊の性格を強くもつ東部軍が近衛歩兵連隊を粛正し、放送は行われ、日本は戦争の敗北を認める。

和平をすすめる軍隊上司を「腰抜け」「生き恥さらし」「卑怯者」と呼び、師団長と和平派の将校を殺害し、一億総玉砕の国民全員戦死を主張して、このクーデター「宮城事件」を企てた
首謀者井田正孝は、戦後、広告代理店電通に入社して常務取締役になり、2004年2月6日に死ぬ。
もうひとりの首謀者竹下正彦が死んだのは1989年4月23日で、
自衛隊第4師団長、陸上自衛隊幹部学校長を歴任した。
常々「自衛隊などに入るな」と陸軍士官学校の同期生に言っていたのに、本人はさっさと自衛隊に入って出世してしまったので、皆が驚いたそうです。

04/06/2014

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灰色の影のはなし

榎本がバッティングセンターに来ていた、という話があってね、
と、そのひとは話し始めたのだった。
外国人で、しかもベースボールのルールも知らない人間が多い国から来たワカモノに話しているのだから、そもそも「榎本喜八」なる人がどんな人なのか説明してから話し出すのが普通だとおもうが、そういうことにいっさい頓着しないのが、この人の面白いところです。

夜中に仕事が終わって、今日は大残業だったけど、いっちょうビールでも飲んでから家に帰るか、という気分になって、どうせならおいしいビールが飲みたいので歌舞伎町でバッティングセンターに行ってからジョッキでブハァーをしに、飲みに行こうと考えた。

あのバッティングセンターはさ、と、あたかも共通の秘密基地の話をしているようにわしの顔を見るが、もちろん、わしはそんなバッティングセンターがあるのは知りません。

24時間営業じゃない?
だから、いついっても開いてるし、新宿の通(つう)が集う場所なんだよね。

すっかりはりきって120kmの速球をがんがん打ちまくって、はウソで、110kmなのに空振りばっかりだったんだけどさ、

隣にね、ヘンなじーさんがいて、これがすごくすごくヘンなのね。
こう、なんていうかなあー、すうううっと、かるうううく、ゆううっくりバットを振っているだけなのに、ボールがバットにあたると、なんだかものすごいスピードで飛んでいくんだよ。
「弾丸ライナー!」なんて言葉があるんだけどね。
その弾丸ライナーなんだ。
フトシちゃんがんばってぇー、なんちゃって。

ここからが、怖いんだよ、ガメ。

その、ものすごいスピードで飛んで行く軟球…あっ、軟球って、わかるかい?
日本人が発明した固いゴムまりなんだけど、..おお、きみはほんとに、なんでも不気味なくらい知っているやつだな、
ともかく、そのボールが、
全部ネットにしつらえてある的(まと)にあたるんだよ。
あれ、そうだなー、直径20センチくらいかな。
小さなターゲット、そう、あの安売り屋のターゲットと同じデザインの、クラシックな、多重丸のターゲット、
あれのまんまんなかに全部あたる。
あのバッティングセンターは、的にあたると1ゲームただになるシステムでさ、ファンファーレが鳴るんだけど、
その隣のケージの怪人が打ち出したらファンファーレが鳴りっぱなしで、
他のひと、打つのも忘れて、なんだあれは、で、ボーゼンとしちゃってさ。
すごかった。

おれはなんだか、ほら、あの元華族のばーちゃんの口まねをすると
「ぶっくらこいちまって」ジッと観てたら…

思い出したんだよ、顔を。
榎本だっ!
ミサイルトリオの榎本喜八だ!って。

榎本喜八ってのはね、ガメ。
すげえ打者でさ。
おれは7歳か8歳だったんじゃないかなー。
大毎オリオンズ、
いまの千葉ロッテマリーンズっていうチームなんだけど、
本拠地が東京球場って、スラムのまんなかにあって、売春婦たちがたむろしている通りを抜けていく、きったない球場でさ、
両翼は90mってんだけど、ぜんぜんインチキで、多分、70メートルぐらいだった。
父親につれられていくと、ナイターなんかこわくてこわくて、必死に父親の手をにぎりしめて、寝っ転がったまま、なぜか往来のまんなかでズボンはいたまま小便を垂れ流してるおっさんとかをこわごわ横目に見ながら試合を観にいったものだった。

榎本が出てくると、球場が道場みたいになって、畏まった雰囲気になっちゃうんだよ。
おとなになってから、ニューヨーク支社でヤンキースの試合とか観に行くと、
みんなのんびり駄弁ってたりして、ぜんぜん緊張感ないじゃん?
ホットドッグ食って、隣の家の犬の話とかしてやがって、こら、この野郎、アメ公、おまえらの国技なんだから、もっと気合いいれて観やがれ!
って言いたくなるんだけど、ぐっとこらえてさ、向こうのほうがガタイがでかいもんだから、いろいろ遠慮してたいへんだったよ、
おまえらのお仲間の国ってのは、どこも疲れるよな。

ところが日本人はマジメだから、違うのさ。
みんなスポーツ新聞で、榎本の求道者ぶりは知っているからね。
打ってくれ、頼むから打ってくれ、試合なんかどうでもいいから、神様、榎本にだけは打たせてやってください、って、心のなかで必死にお願いしたもんさ。

榎本は不思議なバッターでね。
毎年毎年、精進の甲斐あって、ボールがどんどん、どんどんってヘンだけれども、ますますどんどん真芯に当たるようになって、
ところがどんどん打率はさがっていくの。
なぜかって?
野球ってのは、面白いスポーツで、理想的な真芯にあたると、ボールは定位置に飛んでゆくものであるらしい。
いや、ほんとにそうみたいよ。
ほら、広岡とかいう、大企業コンプレックスみたいな、クソけったくその悪い銀縁メガネがいたじゃない、…えっ、あれ、知らないの?
最近の人じゃない。
あ、もう最近じゃないのか。
年取ると「昨日のこと」が20年前だからな。

あの管理おじさんも言ってたよ、おなじこと。
あいつの場合は口だけだろうけど。
え?
だって、たいした打者じゃねーもん。

もう本物の弾丸より速いみたいな打球がね、カアーンという乾いた音を立てて直線のライナーで飛ぶと、まるで守備の選手のグローブを狙いすましたように吸い込まれていくんだよ。

榎本が一塁まで、いつもの全力疾走で駈けて、引き返して、歩調を遅くしながら、うなだれてベンチに帰ってくると、みんなもシュンとしちゃって、しいーんとなって、胸のなかになんだかしこりが出来て、苦しいような気持ちになったものだった。

隣のケージのおやじ、
その榎本喜八だったんだ。

100球くらい打ってたかなあー。
打ち終わると、ていねいにバットケースにバットをしまって、深々とピッチングマシンに一礼すると、肩にかけて、係のにーちゃんが、にーちゃんは誰だか判っていたんだね、尊敬がこもった挨拶をするのに手を挙げて答えると、両腕を小さく折りたたんで、ぴったり脇につけて、ランニングしながら帰っていった。

おれはさ、なんでだか、ちょっとも判らないんだけど、急に、ずっと忘れてた父親のことを思い出して、とーさんごめん、大学まで一生懸命働いて出してくれたのに、おれはバカだからヘルメットかぶって暴れてばかりいて、世界同時革命や永久革命ばっかりで、さんざん心配させて、おれ、あのあととうさんがよく話してくれた会社にはいって、とうさんがよくビール飲みながら、こんなふうな家がいい、っていう家庭をつくったんだよ。
あー、かっこわるい、こういう感情。
ド演歌だよな。
団塊のこわさを見たか!なんちゃって

とうさん、死んじゃったから知らないけどさ、
とうさんが死んだ夜、冬のバリケードを出て、おれ、必死で急いだんだけど、間に合わなくて、人間の死体、色が褪せて、灰色で、
子供のときにおぼえてたより、ずっと小さいチン○ンで、他人が聞いたら大笑いするだろうけど、そのときに考えたことは、とうさんは、こんなちっこいチ○チンで、せいいっぱい父親の役で番を張って頑張ってたんだなーと思ったよ。

ガメ、おまえ笑わないな、なんていいやつなんだろう。
みんな、この話すると、バカみたいにゲラゲラ笑うんだけど。

それだけなんだよ。
それから、いままで、いつもいつも、一生懸命やってるのにうまくいかなくて、例えばさ、ほら、おれの奥さんは、とてもいいやつなんだけど、おれが紅茶を飲むときに音を立ててしまうことや、食べ物を食べて自動的に舌鼓を打ったりすることが、どうしても、生理的に許せないらしい。
それで、あなたはいい人だけど、ほんとうに、わたしイナカモノと結婚してしまったわ、とテープレコーダーのようにつぶやくんだ。
おれは、そうすると、すごおおおく、辛(つら)くてさ、辛いんだけど、まさか、そんなときに辛いなんて当の愛する奥様に言うわけにいかないから、どうにか言えばいいのは判ってるんだけど、ぷいと立って、外に出ちまうんだよ。

そういうときに、いっつも、ファーストベースから、灰色の影のようになって、とぼとぼともどってくる榎本を思い出してきた。
そうすると、おれは、とうさんの子なんだ、
まだまだ頑張れるんだ、っていう気になれた。

ガメ、おれは、もう60歳すぎたよ。
おやじが死んだ年齢をすぎてしまった。

人間は、さびしいなあ。

その人は、そう脈絡のないことを述べて、お座敷の障子を開けて、川面をみやるのだけど、
横顔をみると、やっぱり目には涙がいっぱいで、
歯をくいしばって、唇をひきしめていて、
きみやぼくがよく知っている
「人間」の顔をしていた。

それでなにが、って、
ただ、それだけの話なんだけど

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どうでもいい日乗

IMG_1808

 

韓国式フライドチキンというものをいちど食べてみたいと念願していた。

ドキュメンタリがあるくらいで、韓国では、会社をクビになる人の多さを背景に、人口あたりのフライドチキン店の数が世界でいちばん多いのだという。

ニュージーランドはもともと韓国系移民のプレゼンスがおおきい国で、韓国社会でのフライドチキン店ブームを反映して、オークランドにもいくつか「韓国式フライドチキン」の店が出来ている。

オークランドに住んでいる人のために述べると、例えば、ニューマーケットの駅前のバス停の前に一軒新しい店が出来ています。

チャンスが来た。

オペラを観にやってきたAotea Centreのフードモールに韓国式フライドチキン店があったからです。

おいしそーかなーとテーブルに座ってマンゴーラシを飲みながらチラ見する、わし。モニが、「ガメ、勇気をだして一個買ってくればいいではないか」と激励しておる。

ところが!

厨房でフライドチキンをトレイから一個落っことしたおばちゃんが床から拾いあげたフライドチキンをトレイに戻した!

がびーん。

がびーんがびーんがびーん。

おばちゃん、わし、注文できひんやん。

床からもどしちゃ、ダメじゃん。

内田百閒のエッセイに東京駅精養軒の「ボイ」が、注文したリンゴを床に落っことして、そのまま皿にもどして百鬼園先生のテーブルに持ってきたのを見て激怒するところがある。

日本文学のベスト50に入る名場面です。

先生は「せめて、いったん厨房にもどって皿にもどすくらいのレストランとしての誠意を見せろ」と文中、激怒している。

それがウエイタの職業的誠意というものではないのか。

なにくわぬ顔でトレイに戻したフライドチキンを陳列する韓国おばちゃんの顔をみながら、わしは、百閒先生のことを思い出していた。

なんという懐かしい感じがする人だろう。

最近ツイッタを介して少しずつ顔見知りになってきた「いまなかだいすけ」が、「辞表だして御堂筋を歩いたとき、嬉しさがこみあげてきた」と書いている。

https://twitter.com/cienowa_otto/status/726251061363625985

ツイッタでは、もっと控えめに反応したが、あれはunderstatementで、現実のわしは、このツイートを読んで涙が止まらなかった。

どんな社会にもいる「自分がボロボロになるまで踏み止まって頑張り続けるひと」の真情が伝わってきたからです。

どこでもドアを開けて、いまなかだいすけがいる大阪に行って、手をとって、

「がんばったね、がんばったね」と言いたかった。

もとより、わしは「頑張ってはいけない」と言い続けていて、社会をよくするためには絶対に頑張ったりするべきでないし、頑張ってしまっては例の「自分という親友」を裏切ることにしかならないが、それと「頑張ってしまう人」への抑えがたいシンパシーとは別である。

自分でも、うまく説明できないが、わしは「頑張ってしまう」人がいつも好きである。

なぜか?

それが説明できれば、こんなふうに日本語を書いていない気がする。理由がわからないが、理由がわからなくてもいいことにしてあることのひとつ。

自分の、最もやわらかいところにある、なにか。

 

 

日本の社会の個人への残酷さを許してはいけない、とおもう。

日本人は偏差値が高い大学を出た人間が当然のように「目下」の人間をみくだすような幼稚な社会習慣をこれ以上もちこしてはならない。

それは人間性に対する冒涜だからですよ。

わしのところにもツイッタを通して@buveryという飛びきりのマヌケおやじトロルがやってきたことがあるが、なぜ日本の社会が、あんなオトナになりそこなったくだらないトロルを許容しているのか理解できない。

きみとぼくは同じ地面の上に立っていて、対等に話ができて、お互いの失敗を紹介して笑いあったり、苦しかったことを述べあって一緒に泣くのでなければならない。

人間が社会をなしている意味があるとすれば、それは個人が生きやすくすることで、それ以外には意味があるはずがない。

個人を幸福にしない社会なんて社会じゃないんだよ。

20世紀の為政者は「社会の繁栄を優先しろ」と言いたがったが、それは20世紀的な迷妄にしか過ぎなかった。

そんなことは社会が繁栄を享受するためにも不必要なことだった。

日本の社会が20世紀を出て21世紀の社会に移動するのは、いつのことだろう?

30/04/2016

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生活防衛講座その3

1 時間給

朝7時に起きて夜9時に仕事から家に帰り着く人が一日あたり2万円もらっているとすると、このひとの時給は20000÷14で1428円である。
会社の側の理屈では労働時間が7時間なのだから、あとは通勤時間他で時給は2850円ではないか、というだろうが、それは企業の側の理屈なので知ったこっちゃない。
働くほうから見れば、あくまで1428円です。

初心のうちは、自分の労働の価値を社会の側がどのくらい評価しているか知るために時間給を基準にしてオカネという社会の究極の批評尺度をあてはめてみるのは良いことだと思われる。

凍死家などは時間給が1000万円を越える、というひとは普通にいます。
もっとも凍死家は時間給がマイナス1000万円を越える人も普通なので、時間給という尺度は「オカネが天井から降ってくる」場合にのみ有効であることがわかる。

而して、ひとは時間給のみによって生きるものには非ず。

医学の基礎を勉強しただけで、こんなグチャグチャな不気味な学問やれるかい、と考えて、むかないものはむかないので職業として医学に進むのはやめてしまったが、一方、数学のほうは稲妻のようなカッコイイ才能がなくて、これも飽きて、やむをえないので賭博師になろうと思ったが、全然関係のない工学系の発明でラットレースから出ることになった。
おにーちゃん、まさか家業をついで楽しようというんじゃないでしょーね、という妹の白眼視がそこで終熄したが、それとこの記事とは関係がない。

数学が自分の頭に向いている人間は朝起きた瞬間から数学のことを考えはじめて、自転車で学寮に向かうときも数学を考えていて、学内では、うっかり芝生を横切って、件のクソジジイに、「きみはこの庭の芝を横切る権利はないだろーが」と怒られたりして、時間給は計算してみると200円だったりすると思うが、
これはそういう病気なので、観点を変えれば大学は阿片窟のようなもので、目をうつろにして数式を虚空に描く学問依存症患者達がはびこっていて、それでも大学の外に放し飼いになると社会が危地の陥るというような理由で、多額の企業または国家のオカネを濫費して収容しているだけなので、そもそも給料をもらえるほうが間違っている、という考えもある。

ぼく自身は時間給時代は、ひどく短くて、芸能プロダクションが店の近くにあるせいで、やたら綺麗なねーちゃんが日がな一日うろうろしているのに眼がくらんで、カフェのウエイターをやって二週間でクビになった。

だから時間給についてエラソーに云々するわけにはいかないが、冒頭の数え方で1500円をくだるような時間給で働くのは文字通りの「時間給のムダ」で奨められない。
どうしてもマクドナルドでバイトをするしかないのなら、物価が途方もなく高いとは言っても、いまや時間給一時間3000円の域に達すると噂されるノルウェーでマクドバイトをやったほうがいいと思われる。
たしか去年からノルウェーもワーキングホリデービザに参加しているので30歳以下なら誰でも働ける。

えー、でもノルウェーのマクドもやっぱりただのマクドだから、という人がいそうだが、そういうのを「机上の悲観論」という。
想像力をもってみよ。
たしかに同じようにマクドで、床に落っことしたパテを素早く拾って焼いたりするバイトだが、きみが女ないしゲイであると仮定すると、横をみれば同僚のにーちゃんは、北欧的にジェンダー平等の観念が発達していて固そうな尻がつんと上を向いていて、ちょっとやさしくすれば週末は…(←これだから二週間でクビになる)

えー、おほん。
つまり、時間給を数えて働くのは時間給で測ることに意味がない収入にたどりつくためで、自分の収入が時間給という概念になじまなくなったときには、たいていの人間はラットレースからぬけだしている。
時間給という尺度の生産的な利用法は、そーゆーものであるよーです。

2 年収400万以下

約束の年収別サバイバルプランだが、年収400万円以下は、なにも考えずに外国へ移動するのがよいと思われる。
たった4万ドルできみを使えると思っているところが、もうきみのその会社なり業界なりでのきみへの評価 「安くこきつかえるじゃんw」が端的にあらわれている。

社長はきみに期待している。
同僚もきみを頼りにしている。
しこうして年収は400万円にとどかない。

そういう暮らしを10年もつづけるとどうなるかというと、心のなかに窠(す)がはいって、やがてその黒みはきみの魂に及んでしまい、
妙にうらみがましい性格になったり、「世の中は汚い」
「社長は口ばっかりで、おためごかしの嫌な奴だ」
「こんな会社に将来なんてない」
というような語彙と表現が頭のなかでぐるぐるしだす。
しかも、そんなこんなで、上目遣いに世の中を見ているうちに40歳になってしまったりする。

それではもう遅すぎる、ということはないが、20代のときの5倍くらいの跳躍力を要するので、やや「世の中バカなのよ」(←回文)というブラックホールにのまれつつある天体のようなものである。

ビンボである、というのは常に一面ではよいことで、全財産売り払ってしまえばポケットにはいって、航空券とワーキングホリデービザスタンプが押してあるだけのパスポートをもって、エコノミークラスのシートに身を沈めれば、それだけで新しい人生がはじまってしまう。
人間の一生で、これほどの贅沢な瞬間はないとも言えて、世界中の、どんな富豪ジジイもうらやましがるだろう。
オカネを稼ぐ目的のひとつはオカネで買えない豪奢にひたることだが、
その初めのひとつは冒険の書の第1ページを開くことであると思う。

3 年収400万〜600万

貯金をする通貨を選ぶ、ということは大事なことで、アイスランドで金融危機が「庶民」に直截影響を与えたのは、たとえばホームローンを組むときにコンピュータのスクリーンを見せて、
「円で組みますか?アメリカドルで組みますか?それともポンド?」というふうにやっていたからで、円のところをみると、年利がドヒャッ1.5%とかなので、円でホームローンを組んだ人が多かった。
為替リスクの説明は法律で義務づけられているので、きちんと説明されてはいたはずだが、ふつーの「庶民」たるもの、そんな難しいことを説明されてもわからないので、まあ、ダイジョブだろ、と思って円にしてみたら全然ダイジョブでなかった。

よく市場がちょっと波立つと「世界の投資家が安全通貨と目される円に向かってなだれこみ…」という解説があって、日本の人は、おおおお、やっぱりわしらって信用あるのね、つおい、と思うようだが、それは誤解で、
ここで「安全通貨」というのは一週間の範囲でおおきく動かない通貨で、ここで述べられる「投資家」はオカネを借り集めて毎月利益をあげるのが義務のヘッジファンドみたいな「投資をビジネスとしている」機関なので、「次の動きが見えるまでリスクを避ける待避港」みたいなものだと思ってよい。

言葉を変えれば「枯れた市場」で突拍子も無いことが一夜で起きたりしない安心感があるかわり面白いことは何もない。

つまり利益も生じない。

残念ながら、加工貿易に依存する産業体質の古さもあるが、なにしろ
「人口が減っている」
「人口が老化している」という、市場凋落の二大絶対要素を抱え込んでいるのに、肝腎のこのふたつの要因への解決策は放ったらかしで、アベノミクスで復活だ!とか、産業世界を知らないもの特有なご託を並べて、
なるべく楽に気分だけで経済を復活させようと思う人がうじゃうじゃいる日本のような市場がまともな将来をもっているわけがないことくらい、相当アマチュアな凍死家でも知っている。

日本の市場はいまや沼沢の上に建設された楼閣のようなもので、いかに壮麗な建物をたてても、地盤が、問題がくすぶりつづけた揚げ句腐敗して、メタン沼沢の泥濘と化してしまっているので、傾いて倒れるか、アッシャーの家のごとく、振り返ってみると、ずぶずぶと沈んでいるか、どちらかの可能性しかない。
一喜一憂が、やがて一喜二憂、一喜三憂に変わって、自分が強いつもりで負けがこみだしたひとの常で、やがては負けても勝ったと言い募り、負け続けて破滅が迫っても「もうひと勝負」と言い出して、どんどん事態は悪くなってゆくだけであろうと思う。

国内にいながら決定的な破滅をやり過ごす方法は個人にとってはおおきく分けてふたつあって、ひとつは金(きん)を買うことで、もうひとつは通貨を買うことです。

金を買うのは、当面現金化しなくてもよい見通しがある場合で、金は意外なくらい主に脆弱な財政基盤の国家の売買によって下落したりもするが、長期的には右肩あがりで、違う言い方をすると「暴落したときに売らないで済む」のなら、常に良いリスクヘッジ商品です。

凍死家にとっては常識でも、あんまり普通の人が知らないことを述べておくと、通常の銀行/投資企業は金の買い取りを拒否することが出来る。
ところが、ほんとうはあんまりブログのようなところで書いていいことではないが、どの国にも買い取りを拒否できない会社が指定されていて、日本では田中貴金属という会社がこれにあたる。
日本の蓄財家が田中貴金属の100gインゴットばかり買うのは、要するにそういう理由で、その先はモゴモゴ言ったほうがよいが、金を買うなら、考えた方がよいことであるよーだ。

もうひとつの通貨のほうはレバレッジをかけるとFXそのものになってしまうが、防衛的に利用することも出来て、その場合は、自信がなければ基軸通貨にするのがよい。
中国人たちがUSドルばかり買いあさるのは、USドルが基軸通貨とみなせるからで、円がUSドルと同じ思想に立った通貨政策をとることのアホらしさはここにもあるが、いまは個人の防衛策を考えているので、そんなことを言っても仕方がない。

ユーロの挑戦を退けて、世界基軸通貨のディフェンディングチャンピオンとなったUSドルは、マイナーカレンシーのオーストラリアドルやニュージーランドドルとは本質的に異なる資産なので、収入のいくらかを分けてUSドルで積み立てておくのは悪い考えではないとおもわれる。

年収400万〜600万というところにいる所帯は、伝統的な蓄財法が最も有効な収入レベルで、他にもたくさん方法があるが、そっちのほうは商売のファイナンシャルアドバイザーに任せるとして、この記事のほうは締めくくりにヘンなことを書いておく。

「スーツを着て歩く人間はジーンズをはいて歩く人間よりもムダなカネを使う」というのは、いまでもほんとうで、公園の芝生や階段に腰掛けて、豚まんにかじりついてお昼ご飯にできるジーンズの人はスーツでランチタイムの居酒屋に向かうサラリーマンよりも、やはり生活コストが安い。

えー、でも、おれ背広で階段に座るよ、という人もいるが、ライフスタイルの本質的な違いは、そういうものではなくて、電車で通うところを自転車を好み、会社帰りの一杯もサドルにまたがって酒屋の店先でチビ缶を飲み干す人では随分余計なオカネの使い方が違うようです。

それはつまり、もともと「大卒の人間が企業に入って働いた場合、小さい家を借金して買ってやっと暮らせる」ようにデザインされた現代社会の、そのデザインにどの程度乗るか、ということで、近代のデザインから遠ざかれば、それだけラットレースの仕組みから遠くなってゆく。

4  ちかれたび

オカネの話を書くのがこんなに退屈なものだとは思わなかった。
ひとりづつ、友達や、ラットレースから上手に抜け出した日本の著名人(例:大橋巨泉)を書いていこうと思ったが、オカネについて書くことはツエツエバエに刺されるのと同じ、ということが判ったので、やめちにした。

ひと頃、日本で、特に若い人のあいだに流行ったように見える「支出を最低に抑えて低収入で生活を楽しむ」試みは、実は、英語世界では伝統的な考えで、何百年にもわたってさまざまな試みがされてきたが、本質的にはラットレースを周回おくれで歩いてまわるだけのことで、あんまり良い考えではないようだ。
論理的に述べても、20代から40代くらいまでは一見有効でも、親のカネや子供の扶養をあてにすることになって人間性の面で問題が出てきたり、ちょうど強制保険もなしにクルマを運転しているようなもので、人間が生きていくのには付きものの「事故」が起きれば、計画全体の余裕のなさが災いして、一瞬で取り返しがつかないことになる。

世の中の99%のことはオカネでカタがつくが残りの1%こそが人間にとって大事な一生の部分なのだ、ということを思い出して、せめてもオカネに邪魔をされないで一生を送りたいと考えるのがよいらしい。

がんばらないぞー、と気合いをいれながら、まあ、気楽にオカネを貯めましょうぞ。

19/01/2015

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