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歴史学者を唸らせた素人

■ 東中野修道の史料批判が立派?

自分はこんなに専門家の書籍や歴史資料を読んでいるし、厳密な史料批判のもとでマンガを描いているのだと小林よしのりは自慢する(BLOGOS 10/24)。確かに、歴史は歴史学者だけの専有物ではないし、史料批判で専門家の鼻を明かす素人がいてもおかしくはない。

ただし、小林よしのりにそれができるかと言えば、こんなことを書いていることからしてまあ無理だろう。[1]

 わしが今のところ東中野修道氏の『南京虐殺の徹底検証』を最も支持する理由は、何も個人的心証を元にしているわけではない。あくまでもこの歴史学的な見地における「史料批判」の文脈からなのである。(略)

東中野はこの著書『「南京虐殺」の徹底検証』で、一家九人のうち自分と妹一人を除く七人を惨殺された(自らも銃剣で刺され負傷した)夏淑琴さんを「ニセ被害者」呼ばわりしたあげく、名誉毀損で告訴され敗訴している。(2009年2月5日、最高裁が被告側の上告を棄却し敗訴確定。)

この裁判の東京地裁判決では、東中野の学問研究の姿勢について、次のような厳しい指摘がなされた。[2]

(略)判決では、東中野が書いた結論について、「通常の研究者であれば上記の不合理性や矛盾を認識し、再検討して他の解釈の可能性に思い至るはずであるが、被告東中野はこれらには一切言及しておらず、被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとはいえない」と指摘し『「南京虐殺」の徹底検証』を「学問研究の成果というに値しない」とまで明言している。つまり、南京事件の否定派の中心的論客である東中野は「通常の研究者」が行うような当たり前の検証をおこたっており、彼の著作は「学問研究の成果」とはいえないと断罪されたわけである。

裁判の判決に、わざわざ「学問研究の成果というに値しない」などと書かれる歴史学者というのも珍しいだろう。そんな東中野を高く評価するというのだから、小林の「史料批判」理解の程度も分かろうというものだ。

ちなみに、東中野の方法論のどこがダメかについては、笠原十九司氏が次のように明確に指摘している。[3]

 東中野の方法は、「大虐殺派」が根拠にしている史料に「一点でも不明瞭さ、不合理さ」が発見できれば、「大虐殺派」のつかっているのが四等史料、五等史料にすぎないことが「検証」できるというのが「徹底検証」の論理なのである。そこで「南京大虐殺派」の歴史書に使われた史料や証言を「一つ一つしらみつぶしに調べ」それが「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」としているのである。
 史料の一つ一つには不明瞭、不合理なものがあっても、他の史料と照合しながら史料批判をおこない、それでもこの史料からこのことは証明できる、とするのが歴史学の方法であるが、東中野にはわかっていない。というより、「南京大虐殺派」の研究を正面から批判できないので、膨大な引用史料の一つでも批判できれば全体の信憑性が批判できるという否定のための否定の方法をつかっているのである。

■ 歴史学者を唸らせ反省させた小野賢二氏の業績

ところで、近現代史の専門家たちを唸らせ、反省させた素人は実在する。NNNドキュメント『南京事件 兵士たちの遺言』『南京事件II 歴史修正を検証せよ』でも紹介された「化学労働者」小野賢二氏である。吉田裕一橋大学助教授(当時)が次のように書いている。[4]

 このような現実(注:公的記録の組織的廃棄・隠蔽・表現の歪曲等)があるため、戦争犯罪を立証するためには、その犯罪の直接の実行者であった人々の記録を調査することがきわめて重要なこととなる。南京事件に即していえば、第一線の小・中隊長クラスの下級将校、下士官や兵士の陣中日記や回想録などの諸記録である。ところがこのような記録類は基本的には個人の記録であるため、国会図書館・公文書館・防衛庁戦史部などの公的史料館に保存されている例はほとんどない。その多くは個人の手に残されたままで、いわば「死蔵」されているか、本人や遺族の手で処分されている可能性が高いのである。
 各種の史料館に保存されている公文書などの文献史料だけに基づいて研究をすすめるというスタイルが体質と化してしまった私たち「職業的」訓練をうけた「専門研究者」の場合、このような現実に直面した時点で、まるで金しばりにあったように足がとまってしまう。個々人の、それも誰とも特定できない人々が所持している資料を探し歩くなどという気が遠くなるほどの労力と気力を要する非効率的な作業を想像しただけで足がすくんでしまうからである。
 小野賢二さんは、私たちが跳びこえることもせず跳びこえようともしなかった大きな溝を実に淡々と踏みこえていった。戦友会の名簿をほとんど唯一の手ががりにしながら、二◯◯名近い元兵士の人々を次々に訪ね歩き、その中から第六五連隊による捕虜の虐殺を確実に立証する陣中日記などの重要資料を発掘していったのである。
 小野さんの仕事は、南京事件の実態解明に大きな貢献をしただけでなく、ともすれば文献史料至上主義におちいりがちな私たち研究者のあり方をも鋭く問うものになっているように思う。

小野氏の業績とその意義については、いくら強調しても強調し足りないほどだ。

■ 消えていく記録と記憶

その小野賢二氏が、南京大虐殺関連の陣中日記を探し求める過程で遭遇した、こんなエピソードを書いている。[5]

 こんなことがあった。ある資料で陣中日記の存在は分かっていた。だが住所や存命しているかどうか、所属中隊も分からなかった。諦めていた頃、偶然ある当事者から名前が飛び出した。住居を探し出し、生存していることも分かった。
 そのS氏は快く受けいてくれたが、捕虜虐殺の事実は最初から否定した。行き場をなくした俺は仕方なく陣中日記の件を切り出してみた。自分で書いた陣中日記の存在すら忘れていたようだ。本人は何を言っているのだという顔をした。俺は再度関係者の名前を出してみた。S氏ははっと気がついたらしく奥の部屋に引きこもったままなかなか出てこない。ようやく出てきたS氏が持ち出してきた大きな段ボール箱には戦争中の資料がびっしり詰まっていた。その中に陣中日記が三冊含まれていた。
 ところがである。関連部分を読んでいたS氏は突然、陣中日記をぱたっと閉じてしまい、「俺は絶対だれが何と言おうとこれは見せられない。絶対みせられないんだ」と自分に言い聞かせるように言って、再び段ボール箱にその陣中日記をしまい込んでしまった。その後、何度か交渉を試みたが、拒否され続けている。
 自分の書いた陣中日記で虐殺情景を蘇らえせたS氏の表情に、見てはならないものを見てしまったと俺は思った。

80年の時を経て、体験者のほとんどは既に亡くなっており、彼らの死とともにその記憶も消えている。小野氏のような人々が探し出した記録も、当時書かれたもののほんの一部でしかなく、また書かれたものをすべて合わせても、当時実際に起きたことのほんの一部でしかないことを忘れてはならない。

[1] 小林よしのり 『歴史を歪めるのは誰か 学者・知識人へのわが一撃!』 正論 2000年6月号 P.72
[2] 俵義文 「政治家・メディアと南京事件」 戦争責任研究 2007年冬季号 P.57
[3] 笠原十九司 『南京事件論争史』 平凡社新書 2007年 P.247
[4] 吉田裕 「兵士たちの陣中日記――小野賢二さんの仕事」 週刊金曜日 1993年12月10日号 P.7
[5] 小野賢二 「南京事件の光景――歩兵第六五連隊兵士の『陣中日記』を追って」 週刊金曜日 1993年12月10日号 P.12-13

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