「おもちゃ」のエントリーからの続きであるが、どうしてオタクは(たとえヤマカンであっても)クリエイターを「おもちゃ」にできるのか?とずーっと考えてきたが、「アニメより自分が大事」、「アニメを自分がイキる道具にしか思っていない」というオタク(特に「第三世代」)の特徴を再確認したら、あっさり納得した。そりゃそうだ。

彼らはそもそもアニメ自体を「おもちゃ」にしているのだ。
その作り手に敬意どころか最低限の礼節も示す訳がない。


アニメを尻に敷いてふんぞり返るオタクの蛮行はまだまだ続いているが、潮目に来ていると感じる。
おそらく世界的・歴史的流れを考えるに、「産経新聞」「新潮45、及び若者達に疎まれるオタク第三世代」同様、人を「おもちゃ」にするのに夢中な人々は、やがて時代や世間に避けられ、疎んじられ、キモがられ、ネットからも隅に追いやられていくだろう。

マイノリティは永遠にマイノリティなのだ。マジョリティになれるはずがない。
それでも普通マイノリティは筋と道理を通し、「最低限の市民権」を主張する。それは正しい。
それを「俺らマジョリティになれるかも!」と夢見てイキってしまった、アニメの観すぎの幼稚なお子ちゃま達が、オタクなのだ。
これはアニメだけの話ではない。ネトウヨはもとより、#MeToo運動やフェミニスト界隈などにも多くいると思う。


自分を無駄に大きく見せていた「化けの皮」は、近いうちに剥がれるだろう。誰もがオタクほど狂ってはいないからだ。