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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


戦わざれば亡国、戦うもまた亡国 永野修身元帥

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戦わないなら国が滅び、
 戦ったとしても国は滅びる。
 けれど戦わずに国が滅びるというのは、
 日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
 もし戦い、護国の精神に徹するなら、
 たとえ戦いに勝てなかったとしても、
 祖国を護るという日本精神が残ります。
 そうすれば私たちの子孫が、
 必ず再起し、あるいは三起する。


20181122 永野修身
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


戦時中の元帥(げんすい)で海軍大将、第二十四代聯合艦隊(れんごうかんたい)長官、第三十八代海軍大臣、第十六代海軍軍令部(ぐんれいぶ)総長という「海軍の三長官全てを経験」した唯一の軍人が永野修身元帥です。

よく「軍人は戦争好き」などという人がいますが、バカが言うことです。
あたりまえのことですが、そのような好戦的な人物には、たとえ軍人とはいえ、人が誰もついていきませんし、そのような人物はそもそも出世できません。

軍人は、戦いが始まれば、真っ先に死ぬ可能性が高い人たちなのです。
その軍人たちには、妻もあれば子もいるのです。
そして目の前で戦友に死なれた悲しみを背負うのです。
諸外国のことは知りませんが、日本では古来、武人や軍人ほど戦いの厳しさを知って戦いの回避を願わない人はいなかったのです。

我が国の歴史の中で、昭和16年(1941年)にはじまる大東亜戦争は、たいへん大きな重みを持った事件です。
その大東亜戦争がいよいよ開戦という方向に向かったとき、終始一貫して戦争に反対したのが、当時海軍の軍令部長だった永野修身元帥です。
彼は太平洋まで出て米国と直接対決するという案に、「あまりにも博打すぎる」と、猛反対をし続けています。

最終的には、山本五十六らが「太平洋に出て行くという作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職する」と永野に詰め寄り、結果とし永野も折れました。
けれど永野元帥は、むしろ南方資源地帯の確保と、本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦でいくべきとの考えでした。


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このことは、戦争が終わってみての結果論で見れば、永野案の正しさが歴然とします。
なぜなら大東亜戦争において、日本はあまりにも太平洋に戦域を広げすぎていたからです。
「南方資源地帯の確保と陸軍の活動の支援に徹していれば、日本はミッドウエーでの大博打もなく、資源の確保も確実に行え、制空権、制海権を失うこともなく、多くの将兵を飢え死にさせることもなかったのではないか。日本が負けたのは海軍があまりにも戦域を太平洋に広げすぎたためだ」というお話は、旧陸軍の関係者の方々からもよく聞かれることです。

しかし当時の日本は、日本が主たる立場となって運営した国際連盟から、太平洋の島々の統治の信託を受けていました。
この時代、国力の弱い国は、大国が主権を代わって保有するというのが、世界の常識です。
ですからもし日本が太平洋の島々を戦争のためにあらかじめ放棄すれば、そこは米軍によって蹂躙されることになり、それまでに日本が施した島民たちへの教育も投資も、すべて水泡に帰すことになります。
その意味で日本は、国際的責任上も、また島々の人々への責任上も、太平洋から撤収するという選択はできないことであったこともまた事実です。
ですから「太平洋の島々に防衛ラインを広げすぎた」という論の是非はわかりません。
ここでは、そういう議論があったという事実だけの指摘にとどめておきたいと思います。

さて永野元帥は、海戦にも太平洋エリアの広域防衛戦にも反対しました。
けれど最終的に真珠湾攻撃並びに太平洋の島々への出撃を許可されています。

開戦間近な昭和16年9月6日のことです。
昭和天皇の前で御前会議が開かれました。
この席で昭和天皇は、
「外交が主か、戦争が主か」
と閣僚たちに尋ねられました。

及川海相が
「重点は外交にある」と答えました。
すると昭和天皇は懐から紙片を取り出され、御自らお読みになられました。

 よもの海 みなはらからと思ふ世に
 など波風の たちさわぐらむ

明治天皇の御製です。
四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟なのに、どうして争いの波風が起こるのだろうか、という歌です。

昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がありませんでした。
沈黙が続きました。
陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。
けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、もはや引き返すことのできない所まできていました。
それでもなお平和を、外交による事態の好転をと、昭和天皇は求められておいでなのです。
陛下の前で、
「それでも戦争せざるをえないです」などと誰が言えましょう。
言おうとしたら涙がとめどなくあふれてしまう。
まともに言葉なんて話せなくなる。

このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかなかったという事態は、私達は重く受け止める必要があります。
それは「日本がそこまで追いつめられていた」ということだからです。

当時の閣僚たちは、いまの内閣とは違います。
鍛え上げられた、先の先まで見通す力を持ったプロたちです。
なかでも軍の出身者は、日清、日露の戦争や、第一次大戦、支那事変等を経由した歴戦の勇士たちでもあります。そしてその歴戦の勇士たちは、同時に可愛い部下や、愛する友たちを目の前で失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。

当時の新聞は無責任に、
「最早日米開戦止む無し!」
「鬼畜米英」
「進め!一億火の玉だ」
などと、特大の見出し文字で国民世論をあおっていました。
しかし、新聞というのは、ただの流行通信です。
あおって売れれば担当者は出世し、企業業績が上がり、株価も上がるのです。
けれども古来、そうして好き勝手な報道をしていたメディアが、報道の「アオリ」によって生じた結果について何らかの責任を取ったという話は、聞いたことがありません。

一方、軍人というものは、戦えば、そこにあるのは自分の死であり、部下の死です。
戦いの結果は、常に自己に責任として降りかかるのです。
戦うなら、勝たなければなりません。
けれど敵は世界最強の米英です。
国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力があります。
そういう相手と戦って勝利を得なければならないのです。
どれだけ多くの犠牲を払うことになるのか。
幾度も検討を重ねながら、その決断をするまでの苦しみ、部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、当時日本の置かれた厳しい現状の狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。

しばしの静寂あと、昭和天皇は海軍軍令部総長の永野修身元帥に発言を求められました。
永野元帥はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて答えました。
そのときの言葉です。

「アメリカの主張に屈服するというのは、
 日本が亡国の憂き目に遭うということです。
 しかし戦うのもまた亡国であるかも知れません。
 戦わないなら国が滅び、
 戦ったとしても国は滅びる。
 けれど戦わずに国が滅びるというのは、
 日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。

 もし戦い、護国の精神に徹するなら、
 たとえ戦いに勝てなかったとしても、
 祖国を護るという日本精神が残ります。
 そうすれば私たちの子孫が、
 必ず再起し、あるいは三起する。
 統帥部としては、もとよりあくまでも
 外交交渉によって平和的解決を望んでいます。
 けれどもし、不幸にして開戦と決し、
 陛下の大命が発せられるようなことになるなら、
 勇躍戦いに赴き
 最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」


(原文)政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。

当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、すなわち戦わず負けることを承諾するということは、日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。
そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。
誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。
それが当時の「世界の常識」だったのです。

そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。
それは開戦に先立ち、
「たとい戦い勝たずとも、
 祖国護持の精神がのこり、
 われらの子孫は
 かならず再起三起するであろう」
と述べたことです。
ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。
いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりのことです。

永野修身元帥は、土佐藩の士族である「上士(じょうし)」の家柄です。
土佐藩の「上士」と「郷士(ごうし)」というと、よく坂本龍馬を描いた小説などでは、上士が郷士を見下げて差別していたかのように描かれているものが多いですが、これは違います。
秩序維持のために、身分による格差をつけていたのが江戸時代ですが、人としての差別はしていません。

むしろ社会的身分の上下は、経済面では、上下が逆転していました。
坂本龍馬が脱藩して、全国を行脚して維新の志士として活躍したことはみなさまご存知の通りです。
郷士たちはたいへんなお金持ちでした。
一方、上士たちは、身分は上位でしたが経済的には皆、苦しい生活をしています。
身分上の上下と、経済力の上下の逆転は、江戸時代までの日本文化の特徴です。

また上士の家に生まれた永野修身元帥が、生涯一番尊敬していた人物が、同郷の郷士の坂本龍馬です。
世界中、身分制は、そのまま人の値打ちのようにさえみなされた時代にあって、日本では、人と人とは、どこまでも対等なのです。

永野修身元帥は、明治十三(1890)年の生まれです。
高知海南中学(現・高知県立高知小津高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入学しました。
兵学校では、入学時、卒業時とも成績は2番です。

二十四歳のときには、日露戦争を戦いました。
開戦のとき乗務していたのが、巡洋艦香港丸です。
その後、旅順要塞攻撃の海軍陸戦重砲隊の中隊長へと転進しています。

ちなみにこの旅順要塞攻略戦について、司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、旅順要塞を二十センチ砲で陥落させた後、要塞から眼下に見える旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊にすかさず砲撃を加え、敵艦隊をあっという間に撃滅してしまったかのように書かれていますが、実は、これは事実とかなり様子が違います。

そもそも旅順要塞から、旅順港が見えないのです。
見えるわけありません。旅順要塞は、山二つ分くらい、港の後方にあるのです。
その旅順要塞は、旅順港に停泊するロシア艦隊を護るために、ロシアが築いた要塞です。
要塞から旅順港が見えるのなら、要塞を攻めようとする敵(この場合日本軍)にも港が見えてしまいます。
それでは何のための要塞かわかりません。
ですから旅順要塞は、旅順港を背後から攻撃しようとする敵を、港が見える位置まで侵入することを防ぐ、そのための位置にあります。
「眼下に港が見える位置」ではないのです。

何年か前、私も大連に行った際、この旅順要塞の跡地に案内してもらいました。
実際、旅順港なんて遠くの山の彼方にあって、とてもじゃないけれど視認できるような場所ではありません。
もうひとつ言うと、いまでもこの旅順要塞跡地には、乃木大将が敵味方の慰霊のために建てた、ちょうどライフルの銃弾のような形の記念碑が立っています。そこまではいいのですが、問題はその脇に、中国共産党が建てた石碑です。
そこには、
「旧日本第三軍司令官である乃木希典は、死亡将士を紀念するため、砲弾の破片から一〇・三メートル高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と恥辱柱となっている」と書かれています。
国家のための戦争で勇敢に闘った兵たちを、敵味方の区別なく慰霊しようと記念碑を建てた乃木大将、それを「犯罪の証拠」と書いて冒涜する中国共産党。
文化の違いというよりも、これは人間性の違いであるように思えます。
しかもこの塔のある二〇三高地を、中共政府は「日本人立ち入り禁止区域」に指定しています。
こんな低度の低い石碑を建てたのです。さもありなんと思います。

そもそも日本軍が、戦死者約5500名、負傷者1万6,930名という莫大な損害を出してまで旅順要塞を攻略したのには、理由があります。
旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を、なんとしても殲滅しなければならなかったのです。
もちろん、旅順要塞の先にある山を越せば、旅順港は眼下に見下ろせます。
そこからなら、百発百中で、港にいるロシア艦隊を沈めることができます。
けれど旅順要塞の先にある山は、雑木林で道すらありません。
旅順港にいるロシア艦隊を陸路から攻撃するためには、要塞陥落後、艦を砲撃できるだけの大型の大砲を、艦隊を見下ろす位置まで、運ばなくてはならないのですが、運ぶための道も時間もないのです。
悠長なことをしていたら、旅順港にいるロシア艦隊は、日本がのんびりと道を造っている間に、とっとと逃げ出してしまう。
そして、旅順港のロシア艦隊と、欧州から遠路はるばるやってくるロシア・バルチック艦隊が合流したら、もはや日本海軍に勝算はありません。なぜならロシアの戦力が倍になるからです。

日本海軍が負けたらどうなるか。日本は制海権を失います。すると大陸にいる日本陸軍は退路を断たれます。補給が失われ、ロシアの大軍の前に全滅の危機を迎えることになります。
日本としては、何が何でも、旅順港にいるロシア艦隊が「動き出す前に」これを撃滅しなければならなかったのです。

世界最強といわれる難攻不落の旅順要塞の守備に安心しきっていたロシアの旅順港の艦隊は、エンジンを切っていました。
まさかの展開で、要塞が陥落すると、ロシア艦隊は、慌てて海上に艦を逃れさせようとします。
けれど当時の戦艦は、蒸気エンジンです。エンジンをかけ、旅順港から出発できるまでには、ほぼ十二時間がかります。
逆にいえば、十二時間以内に日本は、ロシア艦隊への砲撃を実現しなければならないのです。

けれど、砲撃ができる位置に大砲を運ぶには、山の木を伐り、道を造り、大砲を所定の位置まで移動させるのに、どんなに急いでも、最低でも三日かかります。それではロシア艦隊は逃げてしまう。
ロシア艦隊を逃がしたら、なんのために多大な命を犠牲にして旅順要塞戦を戦ったかわからなくなってします。

「サァ、どうしようか」となったとき、ひとりの若い海軍重砲隊の中隊長が提案を出しました。
軍という組織は、あくまでも上位下達の組織です。
下の者の意見などというものは、基本、まったく反映されることなどないものです。
そんなことを許せば、軍の規律が乱れるもとになると考えられているからです。
けれどこのとき、その若い中隊長の案が採用になりました。
こうしたところに日本軍の内部の風通しの良さが伺えます。
そして、その案を出したのが若き日の永野修身でした。

ここは大事なところなので、すこし掘り下げます。
会社勤めをしていても、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいなど、「良い案」を持つ人はたくさんいます。百人の社員がいれば、百通りの方法案があるものです。特に知的レベルが高く、一人一人の組織への忠誠心の高い日本人社会では、そういう傾向がとくに強く、社員の誰もが一言居士です。

けれど、意見があるからといって、その意見が全てが万事受け入れられるものではありません。
その意見がきちんと筋が通っていることもさりながら、意見を出す者自身が、日頃から横からも下からも上からも、つまり周囲全部に信頼されていることが、大切な要素となるのです。
具申した意見が、「良ければ採用となる」といえるほど、世の中甘くないのです。
日頃の信用がものを言うのです。

昨日今日学校を出たばかりの「青二才」の永野の意見が採用になったのは、日頃からそれだけ永野の振る舞いや言動が、周囲をして「なるほど」と納得させるだけのものを持っていた、ということなのです。
昨今では「意見が通らないから」と拗ねたり、それどころか意見を聞いてくれないと上司の悪口を言ったりするのがあたりまえになっている風潮がありますが、そもそも、そのような発想が出てくること自体が、甘ったれでしかないのです。

意見を通すには、その意見の内容が正鵠を得ていることもさりながら、日頃から上司や同僚、部下などからのきちんとした信頼関係を築いておかなければならない。
つまり意見を通したいなら、日頃から意見を通せるだけの働きをしておけということです。
それが日本社会というものです。

若き日の永野は、見事に自身の意見を通しました。
その案とは、無線通信によって弾道を補正するというものでした。
測量兵が前線に出て、二〇三高地から旅順港に向けて発射される砲弾の着弾地点を観測し、無線連絡で着弾点の座標を補正して命中させるというものです。

現代の無線通信技術なら、なんだそんなことか、と思われるかもしれません。
けれど当時の無線通信技術は、まだトンツートントンのモールス信号です。
そのトンツートントンで、リアルタイムに着弾点の補正をするというのです。
大砲の方位と角度を微妙に調整し、火薬の量を調整し、正確に命中させる。
発射した大砲の弾の着弾地点を見て、具体的に方位何度、仰角何度修正、しかもその修正をモールス信号で無線で知らせ、その上で「撃(て)~!」とやるわけです。

このとき、最前線で着弾地点の観測した永野は、瞬時にこの方位、仰角の修正角を暗算し、修正角を無線で指示したのだそうです。
後方で大砲を撃つ砲術班が指示通りに、見えない敵艦をめがけて大砲を発射すると、永野が指示した弾は、ことごとく命中したそうです。
まさに鍛え抜かれた、プロの匠みの技だったのです。

後年、永野修身は、海軍軍令部総長にまで栄達します。
けれど彼は、単に頭がよく、人柄も良くて、体力、気力にも恵まれ、軍事に関する技量にも恵まれていたということではありません。
若い頃から常に才能を磨き、新しい技術に挑戦し、工夫し、改善し、周囲の者と協調し、これを実現にまで漕ぎ着けるだけの徳を持っていたのです。

さてその永野元帥、若い頃からたいへんに義侠心が強かったそうで、一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとされたのだそうです。
侠気がある、ということは、人の悲しみや辛さをわがこととして理解し、同苦し、一緒に泣き、一緒に笑う男気がある、ということです。
そんな永野は、大東亜戦争のさなか、軍令部総長としての実務は次長以下に任せ、自身は戦没者の墓碑銘を日々、書き連ねていたといいます。

大東亜戦争で散華された英霊は二百三十六万柱です。なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、日本の神々となられたからです。「柱」というのは神を数える際の数詞です。
そしてその神々は、今を生きる私たちに、
「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。
 日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、
 君たちは祖国護持の精神を持ち、
 必ず再起三起せよ」
と語りかけてくれているのです。
そのことを永野修身元帥の言葉が見事に象徴しています。

戦後、東京裁判において永野元帥はA級戦犯とされました。
その永野元帥は、開戦に反対でした。それは事実です。
ですから彼が東京裁判において
「自分は当初から反対だった」
と証言すれば、それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。

けれど彼は、裁判を通じ、そうした「自らにとって有利になる弁明」を一切しませんでした。
そればかりか、「真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」と明言しました。
戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。

その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは、
「マーシャル永野こそ、
 真の武人である」
と、惜しみなく絶賛しています。

いま、永野修身元帥は、靖国神社に祀られています。
墓所は、東京都世田谷区の浄真寺と、地元高知の筆山墓地に置かれています。

※このお話は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人 第三巻』をリニューアルしたものです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
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執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

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(著書)

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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

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ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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