「非リア」に対するやや批判的なニュアンスを含んで肯定されていた「リア充」という流行語だが、「非リア」という言葉の利用のされ方が当事者たちによる自己愛的な自虐である場合が多いのに対し、「リア充」は表面的には羨望として、内実はちょっとした嘲笑とともに、あるいは軽い冗談として他者を指す。フェイスブックで「いいね!」の数がものすごい量だとか、土日のスケジュールが3ヶ月先まで埋まっているとか、自分の誕生日に100人規模のパーティーをするとか、LINEの友達数が異様に多いとか。多くの非リアは自分を非リアで非モテだと自虐しながら、リア充の必死さを嘲笑う。確かにちょっと滑稽なのだ。無理して社交的であらんとしている人たちの姿というのは。

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 なぜだろうか。リアルが充実している、ということ自体は何よりも重要なことに思える。虚構が充実していて助かるのは女優や芸術家であって、この世を生きる多くの人間にとってリアルより重要なことなどないのだ。ただし、社会性をもって都会的であって充実して楽しいというのは作り出すものではなく、演出するものでもない。過剰にそれをアピールしている「リア充」はバランス感覚が悪い。

 ヤンキー漫画のヒーローたちがあれだけめちゃくちゃに暴れて殴りまくってもどこか牧歌的なのは、間違いなく子供の頃から暴れて殴り殴られまくっているからだ。どれくらい殴っていいのか、知らぬ間に肌が覚えこんでいる。若さというのはそれだけでとてつもない価値があるが、間違えれば狂気や痛々しさにもなりうる。「若気の至り」の境目を生身の手の感触で探り当てる子供時代は絶対に必要だ。

 強制わいせつや美人局を「若気の至り」なんていって許容する社会は危なすぎる。今回の騒動がすべて事実ならそれは糾弾されるに値する罪だ。しかし、その彼らをなぜ若さと犯罪の区別もつかない大馬鹿野郎に育ててしまったのかは一考の余地がある。

 私が6歳まで育った中央区月島のマンションには付帯施設の公園があり、タイヤや丸太を駆使したアスレチックの吊橋部分から落下した時に切ったおでこの傷は今も注意深く見れば分かる程度に残っている。私がお酒を飲んで初めて吐いたのは高校時代の体育祭の打ち上げで行った安いサワーを樽で出すような高田馬場の飲み屋だった。店主が「絶対に急アルにはなるな。そうしたらもうこの店で飲み会はできなくなるんだから」と飲み会前に演説するような店だった。月島のマンションも高田馬場の雑居ビルも健在だが、アスレチック遊具もその居酒屋もいつの間にかなくなっていた。

 集団レイプを若さなんていう免罪符で許容するような緩みは必要ない。しかし、子どものパックリ割れたおでこや高校生のゲロで汚れたトイレを一切の予断なく切り捨てる緩みのなさは、結果的に若さの許容範囲を理解することもなく美人局をしたり、ひたすらフェイスブックの「いいね!」のために味もわからない店の高い料理を頼む滑稽な若者たちを生み出していることには、もっと自覚的でなければならないと思う。