脚本家・市川森一総論『ウルトラマンA』光の国のディアスポラ
「さまよえる魂が好きだ。大地に根を生やしたような確固たる人生観よりも、現実と夢、愛と欲望の狭間を彷徨し、詮無きことに悩みつづけた挙げ句の果てに、望んだ人生とはほど遠い末路に佇む人。運命を呪い、現実のすべての価値観を憎怒している人。そんな人々の方に関心が向いてしまう(市川森一氏執筆『月刊ドラマ』1992年十月号)」
比喩や例えではなく、今回の評論の軸にする、『ウルトラマンA』(1972年)最終回『明日のエースは君だ!』が、脚本家・市川森一氏にとって「最後のウルトラ」作品になり、「最後の子ども向け」作品になった。
それが最終的に確定したのが、2011年12月10日であった(長崎ハウステンボスのみの『コムタチン・コムタチン』(2007年)を除く)。
ウルトラはこの時期、TBSの橋本洋二氏主導の下、明確に「親が安心して子どもに見せられる、教育的番組」を目指しはじめ、そこで参加することになる、上原正三、田口成光、石堂淑朗、長坂秀佳といった文芸陣や。山際永三、真船禎、吉野安雄、深沢清澄といった演出陣も、そこへの同調と理解を示した。
ただ一人、市川森一氏を除いては。
市川氏は『帰ってきたウルトラマン』(1971年)参戦を経て、『ウルトラマンA』のメインライターを任されるに辺り、それまでに様々な台所事情や出資者要請等に応えつつ、なんとかウルトラを、その始祖・金城哲夫氏が掲げた「光の国の英雄達の神話譚」へと戻そうと足掻き続けた。
しかし、そこでの策は、ことごとく橋本氏に先回りをされ、抑止され、掌の上で転がされた。
『帰ってきたウルトラマン』で市川氏が、金城式ファンタジーへの水先案内人として呼び込んだウルトラセブンは、その後小学館と橋本氏の指揮下「常に末っ子を見守る、優しいお兄ちゃん」にされてしまった。
誰もが「市川氏らしい」と頷いた『ウルトラマンA』の「北斗と夕子の男女合体変身」も「人間の心を試す悪魔・ヤプール」も、勝手気ままな局編成要求と内部人事によって、どの新要素も、市川氏以外の作家の手によってなし崩し的に消し去られ、代わりに「僕はウルトラの星が見える、ウルトラ兄弟の一員なんだ!」と叫ぶ立ち位置の、「視聴対象の子どもを投影した男児」が、レギュラーに配置されることになった。
そういった迷走や路線変更は、決して良い印象をもたらすとは限らない。
むしろ、昭和の子ども向けドラマ・テレビ漫画の世界で「路線変更をして成功した例」は、実はほとんど、見られないのである。
それはある意味「あの時代」を体感した身であれば当然のことと感じる。
「あの時代」テレビのスイッチを入れれば、ゴールデンタイムは常にどこの局でも、何かしらの子ども向けドラマ・テレビ漫画が放映されていたのだ。
子どもであろうと大人であろうと、そこでの時間は常に有限であるのだから、子どもとて何かしらの物差しと価値判断基準を持ち出して、そこで出くわした番組に対し「この先観続ける毎週の楽しみ」になれるか否かの、取捨選択をしなければならない。
そこでの判断は初見における即決が基本であり、全てであると言ってもよい。
(今でも子ども番組に限っては用いられている編成概念だが)昭和のあの当時、新番組は4月と10月にこぞって入れ替わるように出来ていて、放映スパンは基本的に、半年間の2クールか、一年間の4クールだった(打ち切りを除く)。そこで速やかに、一週間の何曜日の何時を、どの番組にするかで「その後半年間の、テレビの前でのスケジュール」を決めることは、あの時代に児童生活を送るに当たっては、とても重要な問題であったのだ。
その重要課題において、スタート時に「あぁこれは観る価値はないな」と子どもに判断されてしまえば、その番組はその後そうそう巻き返しを起こすことは難しい。
子どもは大人などよりもずっとドライだし「子ども騙し」には騙されないのだ。
そんな中で「子ども向けコンテンツの王様」だったはずの「ウルトラ」は、そのシリーズ決定打となるべき『ウルトラマンA』の初動発信で、やってはならない迷走を起こし、生んではならない閉塞を生んで、その結果、自家中毒のように路線変更を繰り返す羽目になってしまったのだ。
だからであろう。
この時期、子ども達の興味は急速にウルトラから離れ、「怪獣ブーム」を「変身ブーム」へ変えた東映の『仮面ライダー』(1971年)や、『人造人間キカイダー』(1972年)へと男児の興味は移り、そのままスライドするように『マジンガーZ』(1972年)『ゲッターロボ』(1974年)といった、スーパーロボットテレビ漫画へと、シフトしていってしまうのである。
子どもは現金な存在ゆえに、そこでの動向が大人社会からは先読みが出来ず、子ども達が急激に催した需要に対して対応しきれず「商品が社会現象ブームになったのに、ブームピーク時に供給が需要に追いつかず、追いついた頃には既にブームが去っていて、結果、過剰在庫を抱えて倒産してしまった玩具会社」は数え切れないほど、児童文化史の一覧には並んでいるのだ。
同じように、子どもを対象としたテレビコンテンツが、子ども達がイナゴのように群がり、そこで要求する需要要素の全てを満たせなければ、子ども達はすぐに見限って去っていってしまうのだ。
子ども達は移り気で、自分達の隠れたニーズを突く商品を的確に見抜き、「楽しさの焦点」が他へ移動するや否や、群体は一斉にそちらへ移動して跡形も残さない。
あらゆる意味で「子ども番組の中で、ウルトラが子ども達の一番話題であった時代」は、『帰ってきたウルトラマン』が放送中にひっそりと始まった『仮面ライダー』が爆発的人気を得るまでの期間が、昭和においては最後だったのかもしれない。
しかし、そんな中においても「番組が路線変更したせいで、テコ入れ効果が上手く機能し、人気を獲得し、汚名を返上した番組」も僅かながら存在し、その一つが言わずもがなの『仮面ライダー』であるのは明確なのだが、そこでもし「『仮面ライダー』ほどの化け方でなくてもいいので」と「路線変更成功」のどれか例を挙げろと言われれば、ここで挙げるべきはやはり『シルバー仮面』(1971年)なのだろう。
『シルバー仮面』は、かつてウルトラが放映されていた「タケダアワー(TBS・日曜夜7時)」に、かつてウルトラの制作に携わりつつも、円谷プロを解雇されたスタッフ達で立ち上げた「日本現代企画」という(いわば「本籍地・円谷プロ」とでもいうべき)会社が、『隠密剣士』(1962年)以降、タケダアワーとは縁深かった宣弘社とともに送り出した、変身ヒーロー番組の決定版ドラマだったのである。
局側のプロデューサーには、ウルトラと並行する形で橋本氏が就任したが、そこでその作品に集った面子の豪華さは、さすが本籍地・円谷プロと言わんばかりで、第1話・2話は、脚本・佐々木守氏、監督・実相寺昭雄氏の黄金コンビで幕を開け、その後の殆どの文芸を、市川森一氏、上原正三氏、石堂淑朗氏が書き上げ、演出は、山際永三氏、田村正蔵氏、佐藤静夫氏、外山徹氏等が務めるという、ある意味鉄壁のオールスターで人事が固められた。
しかし、そんなハイクオリティな人事作品であっても、この時期、ATGを足場にして前衛芸術映画製作に傾倒していた実相寺監督の演出により、そのスタート時の仕上がりが「照明が暗すぎる」「内容が地味過ぎる」「爽快さがない」「何が写っているか解らない」と、散々な酷評をされる出来になってしまった。
しかも『シルバー仮面』には、振り払おうとして払えない悪夢が蘇えり襲い掛かった。
いざ、TBS黄金のタケダアワーで放送を開始してみたところ、そこでの裏番組が、なんと正規円谷プロ作品の『ミラーマン』(1971年)だったのである。
『ミラーマン』は、かつて円谷プロ在籍時代に金城哲夫氏が暖めていた草案を、満田かずほ氏がフジテレビへ企画を持ち込み、成立させた作品である。
そこでは、文芸を(かつて初期ウルトラで関わった、第二期ウルトラの橋本人脈以外の)若槻文三氏、山浦弘靖氏、藤川桂介氏等で回しながら、演出陣は東宝と大映の特撮映画監督大御所の、本多猪四郎氏と黒田義之氏と招きながらも、脇は満田かずほ氏、鈴木俊継氏、東條昭平氏といった「円谷二軍監督」で固めるなどして、人事を成立させていた。
この「元・現・円谷対決」は、業界内部でも注目を浴びたが(ちなみにフジテレビ側で『ミラーマン』のプロデュースを担当した淡豊昭氏は元TBS出身で、TBS時代は橋本洋二氏の部下でもあった)その判決を下すのは
やはりエンドユーザーとでも言うべき、テレビの前の「ドライな子ども達」であった。
その因縁の対決は、初動では『ミラーマン』の圧勝であった。
『ミラーマン』も『シルバー仮面』も、それぞれの角度からの「脱・ウルトラ」を目指し、しかし特撮作品である以上どうしても、見栄えが派手な側、予算が潤沢な側が有利であり、『ミラーマン』は、決して派手なビジュアルを下世話に売り込む作風でもなかったが、光学合成の豪華さや、怪獣デザインのシャープさ、特撮の堅牢さで日本現代企画を上回り、数字は残酷に、しかし現実を投射して、この対決は決着がついたかのように思えた。
しかし、その先で奇妙な現象が起き始めたのだ。
『シルバー仮面』は『シルバー仮面』で、初動の汚名を返上すべくテコ入れし、『ミラーマン』は『ミラーマン』で、初期のリードを保持しようと微調整し続けた結果、どちらもいつの間にか「設定もフォーマットも、ありきたりなウルトラマン風」へと、シフトしていってしまったのである。
しかも、双方が同じ方向へシフトしていった結果、逆転とまでいかないまでも、初期10話までが平均視聴率6%だった『シルバー仮面』は、ヒーローが巨大化して、タイトルも『シルバー仮面 ジャイアント』と変更した結果、その後は着々と視聴率を上げていき、第16話『爆破!シルバーライナー(脚本・上原正三 監督・外山徹)』では10.7%と、『ミラーマン』との対決開始以降最高の視聴率を記録している。
これが何を意味するのか、それは受け取る人単位で違ってくるのだろうが、少なくとも、本項の主目的である「ウルトラ評論」に絡めて語るのであれば、その『シルバー仮面』という企画・番組は、ウルトラに自由さを感じられなくなった、一部のウルトラ関係者や文芸・演出陣にとって、カッコウの裏舞台に成り得た作品なのだ。
それゆえに、珠玉の文芸陣・演出陣によって紡がれたドラマ作品が、本家の『ミラーマン』以上に(いや、ともすると同時期のウルトラ以上に)子ども達に「円谷黄金期作品の正当な系譜独特の面白さ」を感じさせたからではないだろうか?
無論そこには「ウルトラでは指揮者のタクトに従ってもらわねばならない代わりに、脚本家や演出家がそこで募らせた不満をガス抜きさせようというバランス論で、『シルバー仮面』という裏舞台を、あえて別枠に設置」した橋本プロデューサーの捌きの巧みさも当然あるのだろう。
この時期以降のウルトラは、子どもの娯楽の王座を取り戻すため「幸せで明るい家族の夕飯時に、安心して子どもに見せられる作品」でなくてはならず「子どもの教育に熱心な親であるならば、むしろ率先して我が子に見せたくなるような作品」でなければいけない枷や責務を、自ら背負わざるを得なくなっていってしまったのである。
その広告代理店的発想のコンセプトワーク自体は、決して間違ってはいない。
「子どもが観たがる、むしろ子どもにだけその魅力が理解できる」東映作品とは、明確に立ち位置と格式の違いを、子ども相手ではなく親にアピールできるからだ。
そういう意味では、橋本氏は本当に「有能なプロデューサー」であった。
そのプロデュース能力によって、ウルトラは100%「安全に」コントロールされた。
そう、橋本氏からしてみれば『シルバー仮面』は、ウルトラをスムーズに円滑に、制御して統括するための「兵隊の慰安所」のような入れ物だったのだ。
それを裏付けるかのように、それまで『帰ってきたウルトラマン』で、熾烈で過酷な文芸対決を(しかも橋本氏の手引きで)繰り広げていた、上原正三、市川森一両氏は、共に1971年の年末にウルトラから姿を消して、そのタイミングとほぼ同時に、『シルバー仮面』に文芸参加するのである。
筆者は以前、『帰ってきたウルトラマン』の、このタイミングでの両者の消失を「橋本プロデューサーの大岡裁きによる、喧嘩両成敗・両者リングアウト」と書いたことがあるが、そこで「表舞台で熱くなりすぎた双方の剣豪」を引っ込めさせて、窮屈な思いをさせることなく、好きなだけ、好きなことをやらせるための「裏舞台」が『シルバー仮面』なのであったのだと、言えるのではないだろうか?
実際、少なくとも市川氏は後年
「『シルバー仮面』で書きたかったことを書き尽くした。子ども向けドラマでやりたいことは、全てやり終えた達成感に浸れた」
と語っており、むしろ「表舞台だからこそ充分に腕を発揮しなければいけないはずの『ウルトラ』」では、燃え尽き症候群に陥っていたのだとしても、不思議はなかった(冒頭でも触れたように、市川氏とてしっかりプロではあるので、任せられた職責に対しては、初期は真摯に向き合い、尽力していた)。
いや、シニカルな見方をしてしまえば、市川氏には橋本プロデューサーのその思惑が、見透けていたからこそ、市川氏は『シルバー仮面』に入れ込んで、まるでわざとのように『ウルトラマンA』メインライターの責務を、中期以降放棄したのではないか。
「清く正しく、明るく優等生なウルトラ」を作る土壌のためのカウンターウェイトとして、橋本氏によって設置された(のかもしれない)『シルバー仮面』で市川氏は、ヒーローに依存する人間の愚かさや醜さ、家族だけを優先するエゴ、テレビの持つ恐怖を、黄金タッグの山際永三監督と共に『はてしなき旅』で描き、信じる力を試される若者が、癒されることのない永遠の孤独の果てで笑みを浮かべる名作『明日のひとみは…』等を書き上げて、おそらく「何かの手応え」を掴んだのだろう。
市川氏による「子ども向けヒーロードラマ」作品は『シルバー仮面』で最終執筆作となる『東京を砂漠にしろ!』からしばらくして、『ウルトラマンA』で、事実上の子ども番組・円谷ウルトラへの決別宣言になる『銀河に散った5つの星』を書き上げた後は、最後半の2本のみの執筆に留まった。
「優等生のウルトラファミリー達が、子ども達に『正しいこと』を教えるドラマ」に対し、市川氏が何を思っていたのか何を感じていたのかは、これまでにも何度も解析してきたが、市川氏が「ウルトラで気付き」「シルバーでたどり着いた」核の正体が、ほんの少しだが伺えるコメントがある。
「僕の世界では、家族に代表される血族のエゴイズムこそが、孤高でなければならないヒーローと最も敵対する存在でした。普通はヒーローが家族とか家庭を救って、めでたしめでたしっていうのが定石なんだけど、僕みたいに家族が嫌いな作家は、ちゃっかりヒーローを利用して、あとポイするっていう家族像を描きたがる(市川氏・談『怪獣使いと少年』切通理作著)」
そして。
「日本人が家族という場合ね、それは国家主義に繋がるような、強烈なエゴ集団です。日本人というのは自分達だけが幸せならば他はどんなに食いちらかしてもいいという、世界観を持った不思議な単一民族なんです(市川氏・談)」
その上で市川氏は「僕にはもう、子ども向けのヒーロードラマは書けなくなった」と、そこで子ども向けドラマの現場から、立ち去る理由をロジカルに解説している。
「許すしかないんですよ。僕は、愛と平和のために戦うというのは矛盾していると思う。本当に愛と平和を守りたいのなら、許し続けるしかないんです。だから僕は『許せない』という言葉が書けなくなった。何を言ってるんだお前は、と。お前は何様なのだ、人を許さなかったり出来るのは神だけなのだ。お前はただの人だろう、その人間が、同じ人間を許さないなどと、神にでもなったつもりなのかと。だから僕は、その言葉を書けなくなったので、子ども向けのヒーロー番組を書けなくなったのです(市川氏・談)」
「許せない」というその言葉は(市川氏が意図していたという意味ではなく)いみじくも、市川氏の脚本家デビュー当時からの盟友であり、宿命のライバルでもあった上原正三氏が、子ども番組の脚本家という仕事に生涯を捧げるに当たって「正義」でも「平和」でもなく、唯一の拠り所にした「従うべき人の業」であった。
しかし、その同じ核をもって、市川氏は子ども向け番組の世界から姿を消すことを決めた。
本話はそんな市川氏の、本当に最後の「子ども向けヒーロードラマ」作品である。
『ウルトラマンA』最終回『明日のエースは君だ!』は、その印象的で絶望も受け入れたエンディングの情感と、ウルトラマンエース最後の名台詞ゆえ『ウルトラマンA』放映から40年以上を経過した現在でも、ファンからは名作として語り草にされているが、はたして、筆者から観た時には、簡単にこの話を鵜呑みにすることも出来ない思いも強い。
それはまず一つ目に、この時期以降の市川作品の作風に、ドラマの表層上を流れているストーリーとは別個に、もう一つの「メタ的物語」がひっそりと忍ばされて、ドラマ進行の裏側で流れているタイプの作劇が目立つからである。
それは例えば、『ウルトラマンA』における『銀河に散った5つの星』や、「実はこっそりと『私が愛せなかったウルトラマンA』だった側面を持つ『私が愛したウルトラセブン』(1993年)」であったり、やはりこっそりと「他人の自伝に、自身の心象風景を紛れ込ませる」をやった『黄色い涙』(2007年 リメイク版)であったりもする。
簡単に言えば、ドラマの内側で、本筋に寄り添うように「もう一つのドラマ」が、ひっそりと展開して、それが本筋と絡み合うことでドラマ全体の奥行きを増しているのだ。
そういった市川氏ならではの、独特の作風を踏まえた上で本話を俯瞰してみると、どうしても「わざとらしく、子ども達に向かって教育的指導を行ってから、永遠に立ち去っていくウルトラマンエース」の姿に対しては、そのテーマを表現どおりに受け取ることは、少し迂闊ではないかと穿ってしまうのである。
「その名台詞を、感動して受け取り、まんまと教育された子ども達」に対して、市川氏は、永遠の絶望とワンセットで「最後の言葉」を贈っておきながら、次の瞬間に、子ども番組の世界から永遠に立ち去ってしまったばかりではなく、「ウルトラマンから優しさを教わった子どもなんて、ろくな大人にならないでしょう」と、後年になってから、言い切ってしまっているのだから。
このコメントをして、またもや脊髄反射で怒ってしまうのも、理解が足りなすぎるだろう。
子どもに優しさや正しいこと、生きるために必要なことを教えるのは、それはあくまで、周囲の大人や教育機関や、社会全体の役割であって、「それ」をテレビに、しかも娯楽のファンタジーであるはずのウルトラマンに、任せてしまうような大人環境と、そんな大人や環境で育まれる子どもは、ろくな大人にならないのだと、そういう方向性で市川氏の言葉を解釈すれば、全ては矛盾がなくなるのである。
市川氏は、テレビが傲慢にアジテーションしたり、上から目線で視聴者へ啓蒙することに、誰よりも嫌悪し、危機感を抱き続けていたのだ。
それは市川氏が2010年にJ-WAVEで放送されたラジオ番組『Jam the WORLD』の特集コーナー『終戦65年 シリーズ・明日への伝言 メディアと戦争』に招かれた時にも、盛んに語っていた主張でもある。
テレビの世界に入り、そこでテレビの送り手になりながらも、テレビそのものを憎悪する。
そんなアンビバレンツな自身の想いのルーツを市川氏は、キリスト新聞社が発行している季刊誌『Ministry』の2010年冬号に掲載されたインタビューでこう語った。
「『テレビは悪の権化だ』というある種の嫌悪感は、今でも持っているんです。諫早教会に真面目に通っていた高校生の頃、日曜日の礼拝が終わると、友達同士で紙芝居や人形劇を持って、『被差別部落』の子ども達に見せに行ってたんです。ストーリーはたいがい僕が作っていたわけですが。当時、5、6人の仲間達と、将来はこの生活をそのまま続けていこうと約束したりして。お互い大学に行ったりするけれど、教員免許を取って田舎に戻り、つぶれかけているミッションスクールの教員にでもなって、と。牧師になりたいって奴もいましたけど。そういう、いわば『約束の地』があった。そんな仲間達で日曜学校に通っていたんですが、だんだん子ども達が集まらなくなった。よほど物語がつまらなくなったか、何かほかに問題があるのかと考えながら帰る道すがら、ふと振り返ったら、その集落でキラキラ輝いている物があった。よく見ると、それはテレビのアンテナだったんです。テレビはそれまで街頭の電器屋さんにあって、相撲でも何でもそこでみんなが見る。よほどのお金持ちでもなければテレビは買えないという時代でした。それがやがて、農家にも殆ど普及して、子ども達がみんな釘づけになり
紙芝居なんか誰も見に来なくなった。その路上に呆然と立ち尽くして、そういう現実に気がついた時があったんです。その時に、僕らの平和な現実を壊していく何かが、ひたひたと押し寄せてきていることを直感したんです。それで、日曜学校も閉鎖して、同時に5人の絆も何となくバラバラになる。僕はまさに、その悪魔の巣の中に入る道を翌年には歩んでいく。それこそ、魂を売ったユダですよ(笑)(市川氏・談)」
この談話を読めば『帰ってきたウルトラマン』『怪獣チャンネル』で登場して暴れいた、電波怪獣ビーコンの出自が分かろうというものであろうし、それこそ『シルバー仮面』『はてしなき旅』のピューマ星人が、なぜテレビのブラウン管から現れて、最後のシルバー仮面との決戦が、テレビスタジオの光景のままの中で行われたのか、容易に推察が出来るだろう。
その上で、そのインタビューの延長上で市川氏はこうも語った。
「完全に僕の聖家族の風景はテレビによって失われて、魑魅魍魎の世界に入っていく。仕事の切れ目が縁の切れ目みたいなことの繰返しに慣らされて、表面だけヒューマンなものを商品として作り、身過ぎ世過ぎしていく暮らしになっていくわけです。時々、しょうがないかという絶望感のようなものが根底にあって、そういう中でウルトラシリーズを書いたので、自分の隠された本音のようなものが出てきたというのはありますね(市川氏・談)」
その「隠された本音」こそが、本話で「ウルトラ卒業作品」としての(テーマ性ではなく)ルックスと構造に現れているのではないだろうか?
ウルトラマンエースが感じ、そのエースから子ども達へ託された「果てしない絶望」は、実は、市川氏自身が「ウルトラ」「子ども向け」「テレビ」その物に対して、うすうす感づきながら、ようやく手応えを掴んだ絶望、そのものだったのではないか。
この時期「ウルトラを去った作家」は何も、市川氏だけではない。
橋本氏の理念に共鳴していた上原氏もまた、『ウルトラマンA』の『復讐鬼ヤプール』を最後に、事実上、ウルトラを一時卒業したことには変わりがない。
金城・佐々木・上原・市川の、一騎当千文芸陣の全てを失ったウルトラは「あえて」『シルバー仮面』で功績を挙げた日本現代企画を(4・5話の)下請けに据えて、「円谷プロ10周年記念作品」として銘打って、『ウルトラマンタロウ』(1973年)を制作。
前作からさらにエスカレートした、ファミリー主義、教育ドラマ主義に走るその作風は、それでも「ウルトラ兄弟がタロウを助けに来るよ」という「来る来る詐欺」で、子ども達の興味をなんとか引っ張り、イベント編で必死に子ども達の注目を集めたが、そこにはかつての輝かしき栄光の面影は何処にもなく、それでもなんとか、制作体制だけでも盛り上げようとした橋本プロデューサーサイドは、「円谷10周年記念作品なのだから、今までに円谷にお世話になって、独り立ちした恩がある者は、ご奉公参加をしろ」と勅命。
プロ職人に徹した佐々木守氏と、ブレーキロス状態で怨念を噴出させた上原氏はともかく、そこで同時期にお声がかかった、実相寺昭雄氏と市川森一氏の二人は違った反応を見せた。
実相寺監督と市川氏は、一応橋本氏サイドからのオファーに乗ってみせ、「プロット提出」という形で「恩返しご奉公」のアリバイは果たしたものの、実相寺監督のシノプシスは「鎌倉の大仏が突然動き出して、宇宙怪獣を海へ放り投げる」市川森一氏のシノプシスは「蘇えったヤプールが、夕子を惨殺する」という、両者共に「健全で教育的な、親が喜ぶ子ども番組」では、決して出来ないだろうという内容で提出された、いわば確信犯的なシノプシスであり、どちらもどう考えても「オファーを断るための口実」で、両者共見事逃亡成功と相成った。
しかし、こうしてシニカルな解析をおこなってきた『ウルトラマンA』最終回『明日のエースは君だ!』でも、そこにはやはり、多層構造の構成要素として、その後の作家人生・脚本家人生において「核」となるべき「市川氏の本音」の雛形を、そこに見出すことは、決して不可能ではない。
「人を幸福な気持ちにさせることの出来る人が、幸福なんだと思いますね(市川氏・談)」
そして。
「人間は本来それぞれがエゴイストで、自分のことしか考えていないはずです。ただ、そういうエゴイスティックな人間が、ほんの一瞬、人の幸せを考える瞬間がある。それを奇跡と言うんですが、これはおそらく猫にも犬にもない。それは人間だけだろうと思うと、その瞬間をドラマで描く。ほんの少し自分を犠牲にして相手の為に何かをしてやるとか、言葉を投げかけるというような、どんな人でもそんな瞬間がある。それこそが、僕には奇跡のように思えるんです(市川氏・談)」
市川氏は、自分が子どもに向けて「何か」を書いて、それが(市川氏の言う)奇跡を生むという「夢」を、きっと抱いていたのだろう。
それは決して教育等ではなく、社会で「来るべき子ども達」を迎え入れる大人であれば、誰もが抱く願い、誰もが求める「手応え」、そして「それ」は市川氏が最も敬愛していた金城哲夫氏が、ウルトラを送り出しながら、願い祈っていた「奇跡」だったのではないか。
『明日のエースは君だ!』冒頭で、ウルトラ兄弟の仮面をつけた子ども達が、地球に迷い込んできた宇宙人の子どもをいじめていたシーンについて、市川氏は語る。
「つまり、正義という仮面をかぶればどんな悪辣なこともできる。それが人間界の正義だと。ウルトラマンが子どもたちに、そういうふうに受け止められているという、僕の最後の警告でもあったわけですが……(市川氏・談)」
とコメントしたその続きで、市川氏はこうも述べている。
「今は『数さえ多ければそれが正義』というとんでもない世の中になっていますけど、これは一方で非常に恐ろしいと思います(市川氏・談)」
その警告は、果たして今のこの21世紀・平成の世の中で、「数さえ多ければそれが正義」という概念を旗印に、逆にはっきりとした結果を生んだ。
ネットでは、他のシリーズと同様かそれ以上に「自称・ウルトラマンAファン」は数多く存在していて、その方達は皆一様に、判で押したように、この最終回のエースの
「優しさを失わないでくれ。弱い者をいたわり、互いに助け合い、どこの国の人達とも、友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。たとえその気持ちが、何百回裏切られようとも……。それが私の最後の願いだ……」
という「名台詞」を愛し、何かにつけて唱えている。
それどころか、円谷プロ正規の平成ウルトラシリーズである『ウルトラマンメビウス』(2006年)では、ウルトラ兄弟の先輩としてエースも登場し、『エースの願い』では、北斗役と夕子役の俳優同士を34年ぶりに競演させた挙句(文末部分だけあえて改修した)この「エースの遺言」が、全く違う意味性と、全く違ったシチュエーションで、言葉だけが独り歩きをしているかのように使用され、そこで初めてその台詞に接した、平成の若いウルトラファンの間においても、瞬く間に名台詞として認知されたのだった。
そういう意味では「市川氏の警告」も「エースの遺言」も、無駄ではなかったと受け止めることは可能である。
しかし、その一方で(この名台詞を、しばしば口にする「自称・Aファン」と同一人とは思わないが)同じくネットでは、他国を差別する人、他国人を排斥する人、自分が帰属しない立ち位置の人達に中傷や罵倒を浴びせることを格好良いと自惚れてる人、思想的なレッテル貼りをして、数の力で敵対勢力を圧殺しようとする人等が多く見られ、そればかりか、ダイレクトにエースの名台詞を引用しておきながら、その最後に「ただし○○○(筆者註・特定の国籍人の蔑称)は除く」と書き足したり、つまり、現状の日本社会を俯瞰すると、そこで市川氏が危惧した状況が、まざまざと巻き起こり、そしてそこで器用に立ち回る「ウルトラの子」等は、「『ウルトラマンA』の最終回は流石名作だ」と「けれど『それ』と『これ』とは別」と、ダブルスタンダードを、エゴとニヒリズム(と自惚れているだけ)で使い分け「とにかく自分が『多数派=正義』でいるための、自己暗示と選民思想の共有」に、精を出しているのが「40年経過した現実」でもあるのだ。
それこそが、市川氏が予見した「ウルトラマンに優しさを教わった子どもが成り果てた、ろくでもない大人」の実像を、物語っているのではないだろうか。
「弱者の仮面を被った、卑劣な悪魔」にとことん「試され」て、最終的に、絶望の言葉を投げかけて去るしかなかった、この『ウルトラマンA』最終回に対して、市川氏はこうも述べている。
「被害者の顔をした悪にはたいてい裏切られるが、それも赦せというのは、人間の倫理観を超えた非常に宗教的な、まさに『キリストの愛』です。最後にキリストの言葉が出てくるあたりは、やっぱり自分はクリスチャンだったんだなと、思わざるを得ないですね(市川氏・談)」
やはり(子ども向けドラマに限らず)市川森一作品を常に取り巻いていたのは、「主人公が『信じたい何か』によって試され続け、裏切られる構図」であった。
この時期までのウルトラシリーズに関して、市川氏はこう総括していた。
「僕の中でウルトラマンというのは『試されるヒーロー』なんですよ。絶えず戦うか戦わないかの決断を迫られなければいけない。セブン(引用者註・ウルトラセブン)なんか不条理な戦いをしょっちゅうやっています。あれは非常にキリストの姿と似ている。キリストも最終的には神に試されるような形で、神の子として十字架にかかる。しかも、直前のゲツセマネの園の祈りでは、キリスト自身が悩んでいる。僕の中でヒーロー像を描くということになると、究極はキリストにならざるを得ない。ウルトラマンを十字架にかけたのも、試されるヒーローを描き続けてきた結果なのかなと思います(市川氏・談)」
そしてまた市川氏は、ウルトラ以降の一般ドラマでも同じような主人公を描き続けた。
「(引用者註・市川氏が書いたドラマでは)誰かに向かって謝っているか、裏切った者への謝罪という点では一貫しているんですよ。なんでドラマを書いているのかと問われたら、非常に簡潔に『懺悔しているんだ』といえてしまうような世界です。劇中で誰かが誰かをだます。あるいは裏切っている。そして主人公はたいがい試されて、その試しに屈して終わるというドラマが多いですね(市川氏・談)」
では、なぜ市川ドラマ主人公達は、そうまでして「試され」続けなければならないのだろうか。
彼等がそれほどまでして、いかなる原罪を犯してしまったというのであろうか。
それは市川氏の中から生まれてくる「人が試されることで初めて生まれてくる奇跡」への、願いと祈りが常に込められていたからではないだろうか?
「僕が『ヒューマニズム』を嫌いというのはね、なんでもかんでも表面的にヘコヘコしてれば『いい人』だっていうことに対してなんです。たとえば困ってる人を見れば助けるのは当たり前なんだよ。だけど、本当に困ってるってことを、自分の身にも置き換えてみるってことを、なにもしないで、ただ千円札握りしめて寄付すればいいっていう考えが、いまのヒューマニズムの大勢を占めてるでしょう。もちろんこれは、僕自身にも鋭く問われることなんですけど(市川氏・談)」
市川氏が定義した「奇跡」。
それは私達日常を生きるものからすれば「なんだ、奇跡とか言っておいて、その程度の当たり前のことか」と失笑する人が出てくるだろうレベルのものだ。
だが、その「当たり前」は、法制化もされていないし強制力もない「優しさ」である以上、それを本質的に持ち合わせて私利の為に使う方便を持たない人間という生き物にとっては、まさに「弱肉強食の世界のはずのジャングルで、生きるために捉えた鹿の子を、虎が哀れんで逃がしてやった」レベルの「本来起き得ない出来事」なのだ。
人は、それほどまでにエゴイスティックで、残酷な生き物なのだという現実認識を、前提にして社会と向き合わないと、ただ生き延びることさえ難しい世界なのだ。
「奇跡」は、教えてやらせる物ではなく、計算で作り出す物でもない。
だから市川氏は、その「奇跡」が人と人の間から生まれることに願いを託して「信じて信じぬいた主人公が、試されたまま裏切られて終わる」ドラマを、生涯描き続けたのであろう。
市川氏のドラマには、そうしてなぜかハッピーエンドでは終わらない作品が多いことに、市川氏本人はこう答えて述べている。
「僕が思う『いいドラマ』って、人の美徳を引き出す、あるいは気づかせるドラマだと思うんです。その人の美徳に自ら気づいてもらうためのきっかけ。それを引き出そうと思うと、表面的なハッピーエンドにはならない。人の美徳というのはもっと奥の深いところにあるので、それを引きずり出すには、ハッピーエンドという一つの形式が邪魔になると思うんです。だから、本当はからかっているわけでも、絶望させたいわけでもない(市川氏・談)」
それは「ドラマという手段を使った奉仕」なのだろうか?
テレビという、市川氏にとって「聖家族を奪った」もっとも唾棄すべき道具を通して、ドラマの向こう側にいる、不特定多数へ手向けられた奉仕の心なのだろうか?
「見知らぬ他者への奉仕」人は本当に「それ」だけで生きていけるのだろうか。
人が生きていくために必要なのは「現実の厳しさを知ること」であるが、それ以上に「現実と等しく必須で、寄り添っていかなければならない物」の大切さを、誰よりも説いてきた市川氏の功績は、これまでにも語りつくしてきた感はあるのだが、「それ」が誰に向けて放たれていたのかを、市川氏自身の言葉から聞くことが出来る。
「僕には幻の視聴者がいるんですよ。捨ててしまった昔の女が、どこかで僕のドラマを観ているのかもしれないというね。それは神父が懺悔室で何か言ったり、聞いたりするのと、同じようなものなんです(市川氏・談)」
「その人」はきっと、市川ドラマに必ず登場する「自分の中にだけ居る、憧れのあの女性」と等しい存在なのだろう。
「その人」は確かに、現実に存在するのかもしれないが、そこで「その人」を見つめ想う男性の中では、願望と美化が入り混じり、やがて「その男性の中にしか存在しない『その人』」を生み出す。
『傷だらけの天使』(1974年)の亨にとっての「ゴキブリ死ぬ死ぬ」のCMガール
『夢で別れて』(1990年)の一郎にとってのお天気お姉さん
『私が愛したウルトラセブン』(1993年)全てのスタッフにとってのアンヌ
『ゴールデンボーイズ-1960笑売人ブルース』(1993年)の市川森一にとっての松島トモ子
『黄色い涙』(2007年 リメイク版)の圭にとっての美香子
それは、子どもをターゲットにしたウルトラにおいても同じで
『この一発で地獄へ行け!』の三郎にとってのアキ
『3億年超獣出現!』の久里虫太郎にとっての美川のり子
『超獣10万匹!奇襲計画』の今野隊員にとっての鮫島純子
そこに登場する彼等は皆、実像の女性を前にしながらもその残酷な核を見ようとせず、ただただ「奇跡」が起きてくれることを、待ち望み立ち竦んでいた。
その先に待っているのは(もちろん、男性側がそもそも、現実の女性像と向き合おうとしないのだから当然)「裏切り」「決別」であり、そこでは、主人公は必ず置き去りにされてドラマの幕は閉じる。
それは本話では、ウルトラマンエースという存在と、ウルトラマンを「強くて優しくて、家族みんなで仲が良い、正義のヒーロー」だという思い込みでしか見れない子ども達との間で発生し、ウルトラマンエースは、子ども達を置き去りにして、永遠に姿を消して旅立った。
「奇跡」は一瞬そこで起きた。しかしその奇跡すら、悪魔の誘惑とシナリオで、意図的に起こさせられた(それまで橋本ウルトラ体制が確信犯的に喚起してきた)「広告代理店的メカニズム」による擬似奇跡でしかなく、その正体が暴かれた時、もう全ては手遅れになっていたのだ。
そう、その「手遅れ」を誘発するために「偽物の奇跡」が誘導演出されたのだ。
これは橋本体制ウルトラに対する、市川氏の最後の、そして切実な「抵抗の遺言」であり、しかもそれが、橋本体制ウルトラが率先して提唱してきた、「ウルトラマンが教育者のように、子ども達に教えを説く」形をとるという、アイロニカルなルックスで発現した、絶望に支配された悲劇だったのである。
「僕たちのドラマ作りのイデーは『来るべき自らの悲劇を予言する』ことでした(市川氏・談)」
ウルトラマンエースは、自らの、そしてそこで生きる全ての子ども達の悲劇を、予言して去っていったのだろう。「そういう去り方」を、市川氏が選ばざるを得ない程に、あの時代においての「ウルトラを作る大人と、受け取る子どもの関係性」は、市川氏にとって絶望的だったのだろう。
このコメントは、テレビ界で伝説的な名コンビになった、山際永三監督と共に創り上げた『コメットさん』(1967年)の『いつか通った雪の街』に関して寄せられた言葉なのであるが、その『いつか通った雪の街』に関して、市川氏はこんなことも述べている。
「魔法や夢は決して人を幸せにはしない。我々の社会で決められている価値観、秩序、道徳というものをどこかで否定することです。『いつか通った雪の街』は画一的な生き方を否定し、危険なところで旅立ってみようという宣言でした(市川氏・談)」
ここで惑ってはいけないのは、市川氏がここで言及した「魔法や夢では幸せになれない」は、あくまで現実の社会・世界が敷き詰めている、秩序や道徳に対して、無限の可能性を持っている夢や魔法はそこでの力を制限されるため、その枠の中にしか存在できない現実社会の人間を、幸せにすることが出来ないという、そういうロジックで、このコメントは成り立っているだろうからだ。
だからこそ、その既成の価値観や秩序、道徳論からはみ出してダイブしてみせようとした『いつか通った雪の道』は「危険なところ」から旅立たねばならなかったのである。
『光の国から愛をこめて』で、シミルボンで、今まで何度も触れてきたように、市川森一氏は誰よりも「ウルトラを創った男・金城哲夫」を生涯尊敬し続け、その金城氏が打ち立てた「夢と想像によるファンタジーの創造」の力を信じ続けた。
市川氏のその、ジャンルを問わない幻想譚的な、夢と現実が交錯するファンタジーの作風は、『ウルトラセブン』(1967年)時期までの、金城氏への傾倒と、信望が生み出した作家性でもあったのだろうことは、容易に推察できるし、御本人自らが各所でそれを認めているし、その心情は、直接的な形として『私が愛したウルトラセブン』に顕著に現れていた。「特撮は、日常では絶対に見られない画を生み出す魔法なんだ」とは、よく言われたが、そこで「特撮を使ったファンタジー」という魔法で、市川氏が思い浮かべた映像は、果たしてどんなものであったのだろうか。
「少年時代というのはどこか美化される面がある。何か日常の半分ぐらい夢の殻に守られながら、傷つきやすい肉体と、その半分は夢に委ねているから乗り越えていけるひ弱な精神。そういうところにブースカ(『快獣ブースカ(1966年)』)が存在した(市川氏・談)」
そして。
「いつも書いていて、まず映像が浮かんでくるんです。僕にとっての映像、つまり主人公の過去ですけど、それは、その人間に死ぬまでついてまわる彼だけの“原風景”だと想います。人は子どもの頃に、生涯かけて追い求めていくものの啓示をうけるんです(市川氏・談)」
「その原風景」は、現実の記憶なのか、夢の産物なのかは、ここではもはや問題ではない。
『胡蝶の夢』や押井守監督のアニメーション作品ではないが、人にとって、過去は記憶の中にしかなく、未来は想像の中にしかない。
「その『原風景』」に求められるのは現実の過去なのか夢想の産物なのかの判別ではなく、「それ」がどのような形で、その原風景を見た人の人生に作用するのかという探求と、その「原風景」こそが人を、この世界で生かすことが出来る、唯一のエネルギーなのだという、哀しい認識からの再スタートではないだろうか?
大切なのは「人が夢の世界に逃げ込んでも、そこは人が生きていける世界ではない。しかしそれと等しく、人の心は現実社会の秩序と道徳だけでは生きてはいけず、自分にしかない『夢』を抱きしめ、自分にしかない『原風景』と共に歩まなければ、人が『現実』を生きることは出来ない」という多層構造概念を、個人の人生の力学としても、社会構成の基礎構築としても認識することであり、「夢と現実と、どちらが必須なのか、有効なのか、正しいのか」という二元論ではない。
それは、人という、哀しく脆く、儚く彷徨える魂を持つ「入れ物」が、それでも懸命に生きようとする時に、目をそらせない真理でもあるのだ。
「『欲望という名の電車(1947年 原題:A Streetcar Named Desire)』の台詞に『現実は嫌い、魔法が好き』という言葉があるんですが、あの世界は自分の創作姿勢の基本にあります。現実が多分嫌いなんです(市川氏・談)」
市川氏は「現実が嫌いだ」とはっきり述べた。
それはおそらく「人はそれでも、現実でしか生きられない」認識とワンセットゆえであり、「作劇」「創造」は、その「魔法の世界」を唯一具象化し、「いっときの間だけ逃げ込める場所」を、差し出してあげられる行為なのだ。
その源流はもちろん、市川氏個人の原風景に基づいておられるのだろうが、「どんな夢も、映像という形に出来る世界」へと市川氏を誘った金城氏への敬愛もまた、市川氏をして、強くその思いへと狩り立てたのではないだろうか?
市川森一氏は、この『明日のエースは君だ!』を書いたと同時に子ども番組を卒業。
以降は『傷だらけの天使』『黄色い涙』(1974年)等をはじめとして、日本を代表する脚本家への道を歩んでいくことになるのだが、国民的脚本家へと上り詰めた時期の1984年の作品に、NHK大河ドラマの『山河燃ゆ』がある。
この作品は、山崎豊子の小説『二つの祖国』を原作に、太平洋戦争という国家規模の惨事に人生を翻弄された、一人の日系アメリカ人を主人公にして描いたドラマである。
松本幸四郎演ずる天羽賢治は、日系人であるため戦争という狂気へ向かう中、アメリカへ強制送還されて、そこで日系人収容所に収容される。
そこから始まった悲劇は、常に賢治が背負う「二つの祖国」によって奏でられ、日本という国家も、アメリカという国家も、ただただ賢治を追い詰めていく。
賢治はその中で、必死に調停者たろうと振舞おうとするが、激戦渦巻くフィリピン戦線へと「人殺しの道具としての兵隊」ではなく、「異人同士をコミュニケートさせる使役者」たる通訳として乗り込んだ賢治は、そこで日本兵として現れた弟の忠(西田敏行)と敵味方で相対することになる。
その姿は、まさに市川氏が愛した金城哲夫氏とダブって見える。
学生の頃「僕は日本と沖縄の架け橋になるんだ」と、当時まだ外国だった沖縄から、留学生として海を越えてやってきて、「二つ目の祖国・日本」で懸命にペンを走らせて、『ウルトラQ』(1966年)をはじめとするウルトラシリーズで、社会現象を巻き起こし「ウルトラを創った男」と呼ばれ、天才の称号を欲しいままにした金城哲夫氏。
そしてその一方、そんな栄光のどれよりも欲しかった「友達」を得られずに、やがて王座から降ろされ「憧れた日ノ本の国」の全てに裏切られて、失意のままに故郷へ帰った金城哲夫氏。
国籍にも民族にも縛られない、真なるコスモポリタンであろうとして、その夢を果たせないまま帰郷した彼を待っていたのは、真の故郷の琉球の人々からの「沖縄を見限って、日本へ魂を売った裏切り者」というレッテルと批判だった。
金城氏は元々、戦時中からの皇民化教育の影響で琉球弁(ウチナーグチ)を上手く話せなかったこともあり、ことさら沖縄の民からは売国奴に見えたのだろう。
金城氏は本土で勝ち得た名声を礎に、1972年の沖縄返還を記念した沖縄海洋博(1975年)では、前夜祭と閉会式の演出を担当する栄誉を得たのだが、これすらも、本土資本の観光業者が先乗りして収益を吸い上げる、バキュームシステムの悪影響が取沙汰されることになり、金城氏はそれに加担したのだという解釈を生んで、ますます非難の目が集中した。
「二つの祖国」に裏切られ、見捨てられた金城氏は、やがて心を荒ませ、酒に溺れるようになり、生放送中のラジオ番組で暴言を吐くなど、次第に社会からパージされていく道を歩んだ結果、1976年2月、泥酔した状態で帰宅した際に転落を起こして急逝した。
ここまでのエピソードを聞いて誰もが思うように、市川氏もまた、金城氏の死を事実上の「自殺」として捉えている。
「あの時点で沖縄へ帰るということは、脚本家としての死を意味しますからね。彼はなぜ自殺したのか、ということになる(市川氏・談)」
『山河燃ゆ』の主人公・賢治もまた、戦争という時間の中で二つの祖国に裏切られた先で(山崎原作には存在しない)「原爆が生んだ少女の亡霊」にさいなまれた挙句に、拳銃で自殺して、その生涯の幕を閉じるのである。
その最期、死を決意した賢治は独り言でこう呟く。
「神もまた、私に国籍を問うのでしょうか……?」
国家とは、家族主義に安心する人の生理を逆手に取った父性的集団の集約構図だ。
戦時中までの日本では、天皇が神と呼ばれ、国民は全て「現人神の申し子」とされ、聖なる父の下に、一致団結して集う一つの血脈として「日本という単一民族国家」が徹底的にプロデュースされた。
その「血の力」は、市川氏自身の人生に立ちはだかると同時に、金城氏の人生もまた、振り回し引き裂いた根源だったのだ。
「非常に嫌なんだよね。血は水よりも濃いなんて考え方は。血なんてのはね……人は何国人にだってなれるんだよね(市川氏・談)」
人は何国人にもなれる。それはきっと市川氏が、誰よりも生前の金城氏に向かって、贈りたかった言葉であるに違いない。
金城氏が円谷プロに在籍して、指揮を執っていた60年代は、まだまだ市川氏は新人作家の域を出ず、プロダクション内部の事情や局事情、作劇法等の諸問題で、口を挟める立場には居れなかったに違いない。
そんな新人作家・市川森一が見つめる前で「その悲劇」は、シナリオを進めていってしまったのだ。
ただただ「たった一人の友達が欲しかった、一人のコスモポリタン」を取り囲んだ、裏切り、騙しあい、切捨て、そして別れの構図。
その中で、黙っていることしか許されなかった市川氏は、せめて「金城氏が産み落とした、本当のウルトラ」を「本当のファンタジー」を、たった一人で受け継ぎ、背負い生きていくことを、この時期に決めたのではないだろうか。
市川氏は、自身が日本テレビ文芸の頂点に立つことで「金城イズムこそが、テレビが目指すべき道だった」ことを、証明してみせたかったのではなかろうか。
そのためには、それを証明するためには、既に「ウルトラ」という現場は、逆に「自分が存在してはならない場所」に(少なくとも市川氏の視点からは)なっていたのだろう。
『帰ってきたウルトラマン』参戦から『シルバー仮面』参加を挟み、『ウルトラマンA』を終了させるまでの一年半は、市川氏にとって「それ」を確認するための、最後の時間だったのかもしれない。
市川氏が故郷を離れ、東京へ旅立とうとした頃の思いを、市川氏自身はこう述べている。
「僕は東京の大学に入るため田舎を出る時に、諫早の駅で林田秀彦先生(諫早教会牧師・当時)が見送ってくれたんです。その時に握手しながら『君はこれからディアスポラ(Diaspora)になるんだよ』と言われて旅立ちました。『ディアスポラ』って何だろうと考えて、後で辞書を引いたら『散らされていく者』という意味でした。そういう牧師の言葉の呪縛というのは、結構ずっと引きずるんです。 それはやっぱり、作家になってからも『自分はディアスポラの務めを果たしているか』と自問自答するんだよね。だから使途としての役割を果たしていける番組に、知らず知らずのうちに寄り添っていったという面はあるかもしれません(市川氏・談)」
その言葉どおり、市川氏は自らをディアスポラであり続けることに追い求めた。
円谷プロも、所詮は一族企業であり、血脈主義であり、約束の地ではなかった。
市川氏は、そこで出会えた金城哲夫という一人の男と、ほんの少しの交錯を経て、互いに違う道へと「散らされて」いった。
一度違えた道は、果てしなく遠い座標へと道のりを歩き離れていく。
金城氏は故郷の沖縄へ帰り、郷土の土に還り、光の国へと帰っていった。
市川森一氏は、二度と円谷の門を叩くことなく邁進し続け、その功績と実力は、広く日本文芸史においても認められて、1989年に『異人たちとの夏』で日本アカデミー大賞・脚本賞を受賞。
その後は日本放送作家協会理事長として活躍しながら、2003年には紫綬褒章を、2011年には旭日小綬章を受章した。
その年にはNHKで『蝶々さん~最後の武士の娘~』を執筆していたが、旭日小綬章受賞発表と同時のタイミングで肺癌で倒れ、その後12月10日に息を引き取った。
金城哲夫氏の逝去から、四半世紀が経過してからの出来事であった。
ディアスポラ=「散らされていく者(Diaspora)」。
長崎で生まれた小さな魂と、沖縄で産み落とされた儚い魂は、東京・世田谷の一角にある、小さなプロダクションで出会った。
二人の人生において、そこで共に過ごした時間はほんの僅かであったのかもしれないが、そこでの逢瀬は互いの人生を、日本のテレビドラマの歴史を大きく変えることになった。
人生を時計に置き換えるなら、秒針がほんの僅かな時間動いただけの蜜月を終えて、二人はそれぞれ「散らされて」いった。
しかし、どんなに遠く離れても、天空と大地にまで離れても、結んだ絆と、受け継がれた志は、決して失われることは無かった。
市川氏は、ウルトラマンや怪獣というガシェットを手放した先でも、ずっとずっと、その生涯を「金城氏が描きたかった夢の続き」に捧げていたのだろう。
生前、おそらく最後に行われたのであろう、市川森一氏のインタビューが残っている。
阪急コミニュケーションズ(旧TBSブリタニカ)が発行している『Pen』という雑誌の2011年の9月1日号に掲載されたインタビューで市川氏は「(おそらく金城氏が指揮していた頃の)ウルトラの時代」を振り返ってこう語っていた。
「この時期が、すごく楽しかったですね。その後も、シナリオライター生活を何十年も続けていくわけですが、『ドラマを描く』というのがこんなに楽しいんだという時代は、円谷プロでやった仕事以上のものはないです。みんなドラマの話以外はしなかったですね。他のことといったって恋人がいるわけでもないし、仕事の話以上に楽しい話はなかったわけですから(市川氏・談)」
金城哲夫氏と市川森一氏、二人のディアスポラは「散らされて」いった先で、今ようやく「約束の地」で再び出会い、互いの人生を労いあっているに違いない。
その「約束の地」を、私達は「光の国」と呼んだ。
金城氏が築き上げ、市川氏が守りぬいた「光の国」は、今もまだ、この世界を照らし続け、見守り続けているのである。
「ふりかえれば虹。思い浮かぶ顔はみんな笑顔。なんて素敵な人間たちと出会ってきたのだろう。どの顔も、みんな私の人生の宝だ。(2011年12月5日 美保子夫人に送信した『去りゆく記』冒頭部分より)」
市川森一
幻想の力を信じ続けた、光の国のディアスポラ。
2011年12/10 肺癌により逝去。
享年70歳。