ローリー・ダン
Laurie Dann (アメリカ)



ローリー・ダン

 私はこれまで様々な殺人者を目にして来たが、彼女ほど手に負えない者はそうはいない。とにかく、他人に迷惑掛けまくり、イタズラ電話も掛けまくり、責められたら知らぬ存ぜぬを決め込んで、すべてを誰かのせいにするのだ。銃器を大量に買い込み、砒素や火炎瓶まで用意していた彼女は、それこそ殺る気満々だった。

 ローリー・ダン(旧姓ワッサーマン)は1957年10月18日、イリノイ州シカゴ近郊の町、グレンコーで生まれた。その少女時代を知る者は「内気だが魅力的」と述べている。高校時代は引く手数多で、多くのボーイフレンドとデートを重ねていた。
 やがてアリゾナ大学に進学した彼女は、医学部の学生と真剣な恋に落ちる。結婚を約束していたようだ。ところが、4年目に破局を迎える。彼女がおかしくなり始めたのはそれからである。

 結局、大学を卒業できなかったローリーは実家に戻り、2年後に保険会社勤務のラッセル・ダンと結婚する。1982年9月のことである。しかし、新婚生活は当初からトラブルの連続だった。新妻は掃除はしないわ、料理は作らないわ、洗濯をすればビチャビチャのままタンスにしまうわで「君、どういう教育受けてんの?」。今になって思えば、すべては彼女の病理が為せる業だったのだが、当時はまだ彼女がクルクルパーだとは誰も気づいていなかった。

 ラッセルが離婚を決意したのは3年後の1985年10月のことだった。それまでは世間体を配慮して我慢に我慢を重ねて来たが、家中ゴミだらけの惨状には堪えられなかった。しかし、離婚調停は遅々として進まなかった。なにしろ相手は基地の外の人である。ローリーはありもしないDVを申し立てて、調停を長引かせていた。その間、ラッセルとその親族は山ほどのイタズラ電話を受信した。ローリーの仕業と思われるが、その証拠はとうとう掴めなかった。

 1986年8月、アリゾナ大学でのローリーのかつての恋人、今は医師の男は彼女に電話でこのように告げられた。
「あなたの子供を妊娠したわ!」
 もう5年以上も会ってないのに!?
 彼がにべもなく電話を切ると、彼女はその勤務先たる病院に「私はあの男に緊急治療室で犯されました」と申し立てた。おそらく縒りを戻したかったのだろうが、まったく迷惑な女である。

 1986年9月、自宅で就寝中のラッセルが何者かにアイスピックで胸を刺されるという事件が発生した。彼は警察に申告した。
「おそらく別居中の妻、ローリーの仕業だと思います」
 しかし、確たる証拠はなく、この件で彼女が逮捕されることはなかった。

 離婚がようやく成立したのは1987年5月のことである。それまでの間、ローリーは「夫にナイフで脅されて犯された」だの「夫に実家を放火された」だのと警察に虚偽を申し立てていたという。まったく鬱陶しい女である。

 離婚後のローリーはベビーシッターのアルバイトで暇を潰していた。だが、やがて苦情が山積する。家具が壊されただの、食べ物が盗まれただの。それらはローリーの父親が弁償することで立件されずに済んでいた。

 1987年11月、ローリーはウィスコンシン大学の聴講生となり、ウィスコンシン州マディソンの女子寮に引っ越した。ところが、というか案の定というべきか、ここでもトラブルが続発した。
 まず、彼女は寮内で「エレベーター・ガール」と呼ばれるようになった。頼まれてもいないのに、エレベーターに占拠して上下を繰り返していたのだ。その後も「寮の共用エリアのソファに腐った生肉を放置した」だの「寮生の郵便箱にゴミを詰めて回った」だの「全裸で廊下を徘徊していた」だのと、どんどんとヤバくなっていった。

 1988年3月には万引きの容疑で逮捕された。どうやら、この頃から漠然ながらも犯行の準備をしていたようである。というのも、彼女が万引きしたのは変装用のウィッグだったからだ。そして、図書館から毒物に関する本を盗み出し、主に砒素について学んでいた。また、拳銃をいくつも違法に購入していた。何かを企んでいたのは明らかだ。
 ちなみに、万引きに関しては、父親が200ドルの保釈金を払うことで釈放されて、その後に彼女が更正プログラムを受けることでチャラになったが、彼女は全く反省していなかった。否。それどころか憎悪の炎をメラメラと燃やして、理解不能の一連の犯行に打って出たのである。


 それは1988年5月19日に始まった。自宅に引き取られていたローリーは、砒素を混入したシリアル・スナックを大量に調理し、それらをベビーシッターの雇い主や精神科医、かつての夫のラッセル・ダン等に郵送した。
「ローリーから愛を込めて」
 受け取った者の中には口にする者もいたが、砒素が微量だったために大事には至らなかった。

 翌日の5月20日午前9時頃、ローリーは車でラッシュ家に向かい、ベビーシッターとして2人の息子を預かった。その後、彼女は隣町のハイランドパークにあるラヴィニア小学校へと向かった。そこにはかつての夫、ラッセル・ダンの姉の息子たちが在籍していたのである(但し、彼女は知らなかったが、既に転校していた)。
 ローリーは子供たちを車に残して学内に侵入すると、廊下で火炎瓶に火を点けた。放火は間もなく生徒により発見され、教師たちの消火活動により事なきを得た。

 その後、ローリーは同乗する2人の子供たちに砒素入りのミルクを与えた。苦かったので、ローリーの目を掠めて窓から捨てたという。それは正しい選択だった。

 やがてラッシュ家に到着し、2人の息子を引き渡したローラは地下室に火を放った。家族はどうにか脱出し、死には至らなかった。

 ローリーの狼藉はこれに留まらない。否、むしろここからが本番である。
 ラッシュ家に火を放った彼女は、その足でハバート・ウッズ小学校に向かった。そこで彼女はニコラス・コーウィン(8)を射殺し、5人の生徒(2人は女子、3人は男子)に重傷を負わせた。

 その後、彼女は近くのアンドリュー家に逃げ込み、強姦犯から逃げているなどと嘘八百を申し立て、20歳の息子を銃で負傷させると、2階の部屋に立て籠った。
 その頃には何十人もの武装警官がローリーを囲んでいた。そして、遂に踏み込んだ時には、ローリーは口中に発砲して自殺していた。
 結局、何だったのだよ、この狼藉は? 当人が死んでしまっているので判らないが、動機は「社会に対する報復」か何かだったのだろうなあ。悪いのはすべて彼女自身なのだけれど。

(2012年12月30日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
http://en.wikipedia.org/wiki/Laurie_Dann
http://www.skcentral.com/articles.php?article_id=230


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