このページは、以前書いた「 ドラクエ以前の国内パソコンゲーム 」 の補足です。
ネット上でドラゴンクエストについて調べていたら「それ以前の国産パソコンRPGの影響なんて全く受けていなかった」と考えている人もいることに気がつきました。例えば、ウィザードリーとウルティマだけから作られたかのように言う人たちや、ドラクエの様々な要素が全てはじめてだったかのように言う人たちなどです。しかし、ドラゴンクエストの開発当時、開発者たちの目の前に存在していた国産パソコンRPGがどのようなものだったかを考えると、影響が全くなかったということはありえないだろうと個人的には思っています。
海外RPGとは大きく異なる日本人向けの要素としては、戦闘時の独特な雰囲気の日本語メッセージやカラフルな絵で表現されたマップ画像などがあげられます。また、ネット上で初代ドラクエの特徴だと解説されているものの中には、それ以前に存在していた要素が数多くあります。これらの要素を中心に、当時の国内外のRPGがどのような状況だったのかをまとめてみました。
なお、このページはかなり長文です。全体の概要は下記のリンク先で閲覧できます。
目次
海外のゲームの戦闘メッセージは当然英語ですから、日本語の戦闘メッセージは国産RPG特有のものです。 そこで、日本でRPGが開発されはじめたころのRPGである「ダンジョン」「ぱのらま島」「ブラックオニキス」「夢幻の心臓」の戦闘メッセージをまとめ、その下に、「夢幻の心臓II」(初代ドラクエの開発が始まった時期に発売されたRPG)と「ドラゴンクエスト」のものを加えて整理してみました。
※以下の戦闘メッセージの変遷の表を閲覧する際には下記の点に注意してください。
ドラゴンクエストで使われている戦闘メッセージのうち、ダメージを「受けた」「与えた」という表現は、ダンジョンやブラックオニキスなどの初期の国産RPGですでに使われていました。一方、敵出現時や報酬獲得時については、初期のRPGでは「出た」「いるぞ」「近づいてきた」「見つけた」「残していった」など、様々な表現がなされていました。ドラゴンクエストで使われている「現れた」「手に入れた」のような表現は、初代「夢幻の心臓」を経て「夢幻の心臓II」で見られるようになりました。同じ会社が開発した「リザード」でも同様の表現が使われていたので、これらの表現はクリスタルソフトがよく使っていた表現と言っていいと思います。 さらに、「夢幻の心臓II」のラスボス戦では2戦目に入るときに「まじんが しょうたいを あらわした」というメッセージが表示されますが、ドラゴンクエストでは同様のシーンで「りゅうおうが しょうたいを あらわした!!」と表示されます。このあたりの表現の一致も、ドラクエが夢幻の心臓IIのパクリと言われてしまうひとつの理由になっているのかもしれません。
もちろん、これらはありふれた表現なので、ドラゴンクエストがこれらのゲームからどこまで影響をうけているのかはわかりません。しかし、少なくとも、国産RPGの黎明期のころは敵遭遇時の日本語メッセージなどをいちから全部独自に考え出さなければならなかったのに対し、ドラゴンクエストの開発時期には、たくさんの事例が目の前にあるなかで決めていくことができる時代になっていました。
※なお、その後いろいろと調べてみたところ、詳細まではわかりませんが、「○○があらわれた!!」という表現はMZ-700用のゲーム「徳川家康 1 少年編」(ウスヰパソコンセンター,1983)でも使われていたようです。
ちなみに、クリスタルソフトはドラゴンクエストIIに非常に良く似た「クリムゾン」というゲームを1987年11月に発売していて、このゲームでは、ゲームオーバー時に「あわれな しかばねは こうやにさらされた!」というメッセージが表示されていました。一方、ドラゴンクエストで有名な表現に、死体を調べたときの「ただの しかばねのようだ。」というメッセージがありますが、最初にこれが採用されたのは1988年2月発売の「ドラゴンクエストIII」からのようです(FC版ドラクエIIや初代で「しかばね」という単語が使われていたかどうかは確認していません。もし使われているようでしたらすいません)。少なくとも、クリスタルソフトとドラゴンクエストの開発者の言語センスがとても似ているということは言えそうです。
上でとりあげなかった「経験値」という表現について論じたページが公開されていたので紹介します。
【徹底検証】ドラクエのせいで日本語が変わったってホント? やる夫と学ぶ「経験値」という言葉の変遷
初代「夢幻の心臓」あたりから使われはじめ、国産PCゲームの世界で普及していたRPG的な意味での「経験値」という表現が、「ハイドライド・スペシャル」の説明書や「ドラゴンクエスト」によってファミコンゲームの世界へと伝わり、それらを通じて一般社会へと普及していく様子が紹介されています。ドラクエの開発者が使い慣れていたと思われる「経験ポイント」の表現を使いながらさらに1文字減らすことも可能だったにもかかわらず「経験値」という表現が使われたことも、明文化されてはいませんが例示されています。これもドラクエが当時の国産PCゲームの影響を確実に受けていたことを示す一例だろうと思います。自分が一連の文章を書くきっかけになった記事が載ったサイトで、しかもこのタイトルだったのでとても心配したのですが、内容は自分なんかよりも綿密な調査をしたうえで書かれた非常に興味深く価値のある記事だと思います。(追記:それにしてもなんでこんなタイトルなんだろうと思ってたんですが、著者のtwitterを見たところ最初は違うタイトルだったようです。経緯はわかりませんが、良い記事だけにこのタイトルは個人的にとても残念に思います。あと、ドラクエだけが原因だったかのようにも読めてしまうところは少しだけ気になりました。PCゲームの世界も日本社会の一部なわけですし、そこからのルートが完全にゼロだったとも言えないと思いますので)。
※なお、上の記事がアップされた2日後に同じサイト上に「ゼビウスからポケモンGOまで…」からはじまるタイトルの記事が掲載されていて、そこにもドラクエの話題があがっていました。内容を拡大解釈する人が出ると問題なのでついでにコメントしますが、3つのアイテムを集めたら先へ進めるという手法はドラクエの前にも「ウルティマIV」(1985)が「独立した3つのアイテムを集めて使うと最後の迷宮に入れる」という形ですでに使っています。「夢幻の心臓II」の4つの石集めのうちの3つも順不同に集めて別々の場所で順番に使うと先に進めるという形でした。アイテムではないですが、初代「ハイドライド」(1984)も3匹の妖精を見つけるとラスボスの城のある島へ行けるという構造です。おそらくこの記事はドラクエで*も*使われていたという趣旨なんだろうと思います。
※あと、もちろんわかっているとは思いますが、「一般的な技法の名称」に「具体的なゲームの名前」を使うことの危険性と問題点についても十分によく考えておく必要があると思います。
※それから、ドラクエにはハードウェアの制限の関係で表示できないカタカナがあったようですが、その中に「夢幻の心臓」で使われた「経験値□□アップ」という表現のカタカナ3文字が含まれているのも、なかなか興味深い事実です。
1985年ごろのRPGの画面をネット上で調べていると、海外のRPGとくらべて日本のRPGの方が非常にカラフルなマップの描き方をしている印象をうけます。国産パソコンRPGのマップの描き方はどのような変遷をたどっているのでしょうか?
下図に「ウルティマI」「ダンジョン」「夢幻の心臓」「ハイドライド」「軽井沢誘拐案内」「夢幻の心臓II」「ウルティマIV」「ドラゴンクエスト」のマップを構成する画像(マップチップ)のうち、平原、森、山の3つを示します(ハイドライドは山がないので岩、夢幻の心臓IIは交互にかさなって表示されているのでその様子のみ示しています)。「サイズ」と書かれている部分には、主人公の大きさ(主人公のいる場所の大きさ)を1×1とみなしたときに、画面に表示されるマップ領域がどのくらいの広さになるのかを記述しています。また、パソコンの解像度はファミコンと比べて横方向が2倍になっているので、雰囲気をファミコンにあわせるために、各画像は一度縮小したうえで拡大することで解像度を下げる加工をしています。
1981年に海外で発売された初代「ウルティマ」のマップは、黒い地の上に単色で記号のような図形を描くことで表現されていました。平原は黒地に緑の点をいくつか描いたもの、木は緑の円を交互に配置したもの、山は白い線を重ねたものになっていました。
一方、国産RPGとして1983年12月に発売された「ダンジョン」では木や山の形状が図形というよりは絵に近い画像になっていました。ただし、これらはウルティマと同様に黒い地の上に描いていました。1984年3月に発売された「夢幻の心臓」になると、木や山が完全な絵になり、平原を表す緑色の地の上に描かれる形になります。ただし、表示されるマップの領域はウルティマなどと比べると非常にせまく、5×5のサイズしかありませんでした。このサイズを広げて、ほぼ画面全体にカラフルで絵的な地上の2Dマップを表示したRPGとしては、1984年の年末に発売されたARPGの「カレイジアスペルセウス」や「ハイドライド」がありました。例えばハイドライドのマップの表示領域はおよそ15×11のサイズがありました。また、マップの周辺にはレンガのようなタイルが描かれていて、画面全体がとてもカラフルでした。実際のマップチップは主人公の大きさの4分の1のサイズになっていて、木が重なりあうような細かな表現もなされていました。
※ちなみに、初期にカラフルな地上のマップを使った事例としてはアーケードゲームの「ゼビウス」のインパクトもとても強かったんじゃないかなと個人的には思っています。 あと、初代「夢幻の心臓」の地上マップの表示方法には「ポイボス」(大名マイコン学院,1983.11)の影響も見られるところが面白いですね。
ドラクエの開発者のひとりである堀井雄二さんがかかわって1985年5月に発売された「軽井沢誘拐案内」は、RPGのようなマップの上で移動ができるアドベンチャーゲームでした。このゲームのマップチップを見てみると、地面は緑の点を規則正しくならべただけのものになっていますが、木や山は初代「夢幻の心臓」のような絵的な表現になっていることがわかります。マップの表示領域は10×7のサイズがあり、そこそこの範囲を見わたせるマップになっていました。
ドラクエの開発が始まった1985年の年末に発売された「夢幻の心臓II」になると、マップ表現は木や山の絵が交互に重ねて配置される形にまで進化しました。表示領域も9×9程度のサイズにまで広がりました。さらに、初代「夢幻の心臓」では木の葉や山肌は緑色や黄色のベタ塗りによって描かれていましたが、タイリングによる中間色表現の手法によって、これらを深緑や茶色に見える色で表現していました(上の図ではドラクエの解像度に近づける加工をしているためタイルがつぶれてしまっていますが)。中間色表現というのは8色しか表示できないパソコンで、擬似的にそれ以外の色を表現するための手法で、例えば黄色と赤色の点を交互に配置してだいだい色に見せかけるような手法を意味します。国産パソコンRPGでは、カラフルな絵をならべて地上マップを表現する技術がすでにこの時期に使われていたと言っていいでしょう。
一方、この時期の海外のRPGのマップはどうだったかというと、例えば「ウルティマIV」はマップチップの種類こそ増えたものの、木や山などの形状は初代からほとんど変化していませんでした(同時期に日本で発売された移植版の「ウルティマII」(1985.9)と「ウルティマIII」(1985.12)も同様の表現方法を踏襲していました)。ドラクエがエンディングで参考にしたと言われているクエストロンのマップもネット上で調べてみましたが、AppleII版は同様に黒い地に図形のような画像をならべて描いていました。コモドール64版はかなりカラフルになっていましたが、森は緑色っぽいタイル、山はへの字をいくつか並べたような表現にとどまっていました。自分は海外ゲームについてはくわしくないので、国産RPGのような絵によるマップ表現が日本固有のものとまでは断言できませんが、少なくとも海外ではウルティマIVのような記号的なマップ表現が主流であったとは言えると思います。
これらの経緯を見たうえで、ドラゴンクエストのマップの表現を見てみると、木の形状はハイドライド風、山の形状はダンジョン風になっているのがわかります。山の絵はもう一種類ありますが、その絵は夢幻の心臓の山の絵を縦方向に少しせばめた感じになっているように見えなくもありません。もちろんこれらはありふれた表現でもあるのですが、ウルティマなどの海外のRPGとは明らかに質が異なっています。ドラクエのマップの描き方は国産パソコンRPGの影響を強く受けていたと言えるのではないかなと思います。RPGしか調べていないので、もしかしたら他ジャンルのゲームにも同様のものがあったのかもしれませんが、少なくともこういったマップの描き方の豊富な事例を参考にできる時期にドラクエの開発は始まっています。
※ちなみに、ネット上には、ドラクエの地上マップは夢幻の心臓IIのマップの丸パクリだと書いている人もいますが、それはさすがに間違いでしょう。上で示したように、マップの表現のしかたは夢幻の心臓からはじまる国産RPGの流れを踏襲していますが、森や山の配置などのマップの構造は異なっているように見えます。街と城を隣接させる配置などは海外のRPGでもよく見られるもので夢幻の心臓II固有というわけでもありません。もし自分が気づいていないだけで、同じ部分があるのだとしたら、どのへんがどう同じなのか知りたいところです。もしその説明ができないのなら、あまり安易にパクリだなどとは言わない方がいいと思います。
ドラクエについて、モンスターをアメリカナイズされたものから日本向けにした所が新しかったという人もネット上にはいるようですが、個人的には、海外風を日本風にしたというよりも、高年齢層向けのリアル志向なイラスト風の絵柄を低年齢層向けの漫画的なキャラクター風にしたという方が適していると思います。以下に初代「夢幻の心臓」と「ドラゴンクエスト」から、両方のゲームに共通して登場するモンスターのオオサソリ(おおさそり)との戦闘シーンを引用して示します。
左は初代「夢幻の心臓」の戦闘画面で、ドラクエとくらべてモンスターの一部がアップで大きく表示されていることがわかります。絵柄も陰影が強調されていてとても魅力的です。当時のパソコンは曲線を描くのに時間がかかったことや、ファミコンとくらべてプレイヤーの年齢層が高めだったこともあり、夢幻の心臓では線画を中心としたイラスト風の絵柄で迫力を出していたと言えそうです。一方、ドラクエの方はモンスターの全身を風景の画像の上に丸みをおびた線で描いています。他のモンスターも描き方の傾向は同様で、ドラクエのモンスターにも「しりょうのきし(骸骨の騎士、海外でいうところのスケルトン)」や「ゴーレム」など海外のモンスターをベースにしたものがあり、絵柄が完全に和風だったとは必ずしも言えない面があると思います。
ちなみに、初代ドラクエのモンスターは約40種、色や向きや装備の違うものを1系統として数えると全部で15系統ありますが、そのうちおよそ3分の1にあたる6系統(まほうつかい、おおさそり、しりょうのきし、よろいのきし、ゴーレム、りゅうおう(変身後))については、初代「夢幻の心臓」に類似したモンスター(マジュツシ(フードを被った人物)、オオサソリ、ガイコツ キシ(骸骨の騎士)、ボウレイ キシ(鎧を着た騎士)、ゴーレム、リュウ(赤き竜の方ではなく竜王っぽい竜)」)が存在していました(一部イベントキャラも含んでいますが)。これらを比較しても、一方が海外風でもう一方が日本風だったとは必ずしも言えないと思います。もし、これらの名前から想像して日本人がイラスト風の絵を描いても、おそらく「夢幻の心臓」と同じような感じになるのではないでしょうか。ちなみに、これらのモンスターは「夢幻の心臓」と「ドラゴンクエスト」だけに特有のものではなく、メイジやスケルトンやスコーピオンやドラゴンなどの名前で「ハイドライド」などにも登場していた一般的なモンスターでした(おそらく、スライムが日のあたる野外の平原に経験値かせぎ用の最弱モンスターとしてゲームの序盤に登場するのは「ハイドライド」の影響の方が強いでしょう。他にも光栄の「ダンジョン」を調べてみると、絵柄は全く違いますが「ゴースト」や「キメラ」などドラクエと同じ名前のモンスターが登場しています。「ジャイアントバット」のポーズも興味深いですね)。
ついでに書くと、こういった定番のモンスターを全く使わずにファンタジーの世界観を構築したゲームに「覇邪の封印」(1986.7)があります。ゴーレムやドラゴンすら使っていないのですが、それでもプレイした人なら「アギャーマ」や「テラリン」など、強烈に記憶に残るモンスターが存在するゲームでした。また、ARPGも含めれれば「メルヘンヴェール」(1985.8)なども可愛らしいオリジナルの敵キャラで独自の世界観を構築していました。
当時のPCゲームでは強さについて「詳細な情報を表示しなくても十分だった」というようなことを書いているページもいくつか見つけました。ドラクエの詳細なステータス表示機能が画期的だったと言いたいようなのですが、当時のPCゲームにその機能がないRPGなんて存在したのでしょうか?当然のことですが「ハイドライドII」にも「夢幻の心臓II」にも詳細なステータスを表示する機能はありました。下に実際のステータス画面の例を示します。
左側が「ハイドライドII」の画面で、ドラクエと同じマルチウインドウシステムを用いて表示されていました。英語表記なので少しわかりにくいかもしれませんが、中央に表示されているLEVELがレベル、A.P.が武器などの装備品をふくめた攻撃力、A.Cが盾などの装備品をふくめた防御力です。つねに表示されるもの以外の詳細なパラメータはここで確認ができました。右側は「夢幻の心臓II」の画面で、メニューから「ステータスをみる」を選択すると、画面下部のメッセージ領域に詳細なステータスが1行ずつ表示されるようになっていました(写真では4つしか表示されていませんが、キーを押すとメッセージ領域がスクロールし、強さや器用さなどが次々に表示されていきます)。当時のパソコンRPGでは詳細なステータス表示の機能はごくありふれたものだったと言っていいと思います。(ちなみに「夢幻の心臓II」のステータス表示では、武器などの装備品をふくめた攻撃力は表示されないので、もしかしたらそのことを言いたかったのかもしれませんが、「ハイドライドII」では表示されるので、PCゲームの話としてはそれもあてはまりません)。
その後いろいろ調べたところ、この間違いも「ドラゴンクエストへの道」という漫画が原因のようです。ドラクエのプロデューサーがレベル表示は絶対必要だと話をして、それに対して自分が今レベルいくつかはだいたいわかると回答した開発者に、パソコンは一人で遊ぶかもしれないがファミコンはみんなで遊ぶから必要だと指摘をした、というような趣旨のエピソードが書かれているようなのです。自分は小中学生のころに友達と一緒にパソコンゲームをワイワイと楽しんでいたので、その指摘自体が少しずれているとは思いますが、それは今はおいておきます。このエピソードは当時のPCゲームで普通に存在していたレベル表示について疑問視した開発者をプロデューサーが説き伏せたという話でしょう。この話に登場するドラクエの開発者という、ごく一部のPCゲームプレイヤーが言っただけの話が、いつのまにか当時のPCゲームのプレイヤーにとってステータス表示が不要だったという明らかな間違いに変化した可能性があります。こういう拡大解釈は止めるべきでしょう。
※あと、上で例にあげた2つのRPGではメニューを開かないとレベルの数値は表示されませんが、もちろんレベルが常に画面に表示されているRPGも例えば「ウルティマIII」や「アークスロード」などがすでに存在していました。この漫画で指摘されているレベル表示の話も、すでにあるものの中からの選択の話であって、この点でそれまでのPCゲームにない画期的なことをしたわけではないのです。
※なお、ハイドライドIIのマルチウインドウ表示については下記にまとめてあります。
このページの最後にコメントしたNHKのドラクエ特番に関連して、クラシック風のBGMについても書いておきたいと思います。当時のパソコンゲームでは、クラシック音楽を利用することは、けっこうよくあることでした。例えばアクションゲームの「テグザー」(ゲームアーツ,1985.4)ではエンディングにベートーベンの「月光」が使われていましたし、アドベンチャーゲームの「アビスII帝王の涙」(ハミングバードソフト,1985.7)ではオープニングにドボルザークの「新世界より」第4楽章、エンディングにヘンデルの「ハレルヤ」が使われていました。また、RPGでは「メルヘンヴェール」(システムサコム,1985.8)がオープニングとビジュアルシーンでクラシック風のBGM(おそらくオリジナルだと思われる)を使っていました。ファンファーレに続けてテーマ曲が流れるオープニングは当時とても印象的でした。ちなみにフィールド曲は昔のギター曲だったそうです。海外RPGのウルティマIIIやIVもBGMはクラシック風だったと言っていいと思います。まだネット上には「初代ドラクエはクラシックを使った点が画期的だった」のような嘘を書いている人は見かけていませんが、NHKの特番の内容を勝手に拡大解釈するようなことは、ぜひやめていただきたいと思います。
ドラクエの後に「ドラゴン」をタイトルにつけるのが流行したというような記述も見ましたが、ドラクエ以前にも「ドラゴン」がついたタイトルは毎年のように出ていました(しかも有名なゲームがけっこう多いです)。例えば国内では1982年にRPGという名称は使っていないもののRPG風のゲームがいくつか出ていて、その中には「ドラゴンアンドプリンセス」(光栄)や「ドラゴンレア」(普賢電子)というタイトルのゲームがありました。1983年には世界初のLDゲームとして有名な「ドラゴンズ・レア」(シネマトロニクス)が発売されていて、アーケード版は日本の雑誌でも話題になっていました。1984年には非常に有名な国産RPG「ドラゴンスレイヤー」(日本ファルコム)が発売され、1985年のはじめにはこれも有名なアーケードゲーム「ドラゴンバスター」(ナムコ)が稼動しています。ドラクエがなくても昔からタイトルに「ドラゴン」をつけたい人たちがけっこういたわけです。ちなみに「クエスト」という単語についても1984年8月に「ザ・クエスト」、1985年8月にその続編の「リングクエスト」という海外のアドベンチャーゲームが国産パソコンに移植されています。何でもかんでもドラクエの功績かのように語るのはやめたほうがいいでしょう。
「クエスト」という単語を使ったゲームが存在していたことを示すために、下図の左にザ・クエストのタイトル画面を引用しました。画像からもわかるように、ドラゴンを追い求める物語になっています。右はリングクエストのゲーム画面からの引用で、RPG風の要素が存在していたことが確認できます。当時、このようなゲームが国内向けに移植されて発売されていたのです。
※その後、ざっとですが調べてみたところ、確かにファミコンのゲームには「ドラゴン」という単語をタイトルにふくむゲームがけっこうあるようです。ただし、その中には、上で書いたドラクエ以前に存在したゲームの移植作品や続編作品、カンフーの龍的な意味でドラゴンを使った作品、海外のゲームを移植した作品、ドラゴンボールをゲーム化した作品(タイトルにドラゴンボールと書くので必然的に「ドラゴン」という単語もふくまれる)など、あきらかにドラクエのタイトルの影響を受けていないことが明白なゲームが数多くふくまれていました。もしかしたらドラクエの影響でタイトルにドラゴンをつけたゲームがあったのかもしれませんが、もしそう主張したいなら、主張したい人が具体的なタイトルをあげてその具体的な根拠を明確にするべきでしょう。
※さらに調べてみました。タイトルに「ドラゴン」がつくファミコン用ソフトは自分が調べた限りでは1986年5月から1993年8月までの約7年間に31本発売されていたようです。ここからドラクエシリーズ4本を除くと残りは27本ですが、そのうち、ドラクエ以前のゲームの移植や続編(「ドラゴンバスター」など)は4本、カンフー系アクションゲーム(「ダブルドラゴン」など)は5本、海外発祥のもの(「AD&D」系や「ドラゴンウォーズ」など)は5本、ドラゴンボール関連のものは8本ありました。つまり、27本中22本はドラクエのタイトルの影響とは無関係です。残りの5本のうち「スーパーチャイニーズ2・ドラゴンキッド」をカンフー系、「ドラゴンユニット」をドラゴンバスターの影響下のゲームとみなすと残りはたったの3本しかありません。自分はファミコンゲームはあまりくわしく知らないので多少の誤差はあるかもしれませんが、7年間に3~5本程度のペースだと考えると、ドラクエの前後で状況の変化はほとんどありません。「ドラクエ発売後にタイトルに「ドラゴン」という単語をふくむファミコンゲームが多数発売されていた」というのは事実ですが、それに対して「ドラクエのタイトルの影響があった」と解説するのは完全な間違いと言っていいでしょう。
当時のRPGにキーボードショートカットなどを使うものがあったことをとりあげて、RPGの操作をしやすくしたのがドラクエの画期的な点だったと言っている人もいるようです。しかし、「夢幻の心臓II」はドラクエと同様に簡単な操作で遊ぶことができました。初期のウルティマやウィザードリーなどとは違い「夢幻の心臓II」ではカーソル移動によるメニューシステムが採用されていました。そのため、テンキーに割り当てられた方向キーと決定・キャンセルのキーのみでほとんどの操作が可能でした。例外はゲーム開始時の名前の入力とゲーム中の数値入力のみでしたが、この2つはキーボードで直接入力する方がメニューで選択するよりも操作が簡単になる部分だと言っていいでしょう。決定とキャンセルが5と0のキーにも割り当てられていたため、ゲーム中はテンキーのみ(つまり片手だけ)で遊ぶことができました。
さらに「夢幻の心臓II」ではキャラクターを移動して村人と接触するだけで会話ができました。また、ハシゴに接触すると上下に移動するか問い合わせるメニューが自動的に表示され、それを選択するだけで移動ができました。宝箱も接触すれば自動的に開け方を選ぶメニューが表示されました。初代ドラクエのように話す方向を選択したり、メニューを開いて「かいだん」などのコマンドを自分で呼び出す必要もありませんでした。初代ドラクエでは戦闘メッセージの表示速度などはゲーム開始時にしか設定できませんでしたが、「夢幻の心臓II」では通常移動時にメニューで変更することが可能でした。速度を最速にして敵の戦闘ターンを一瞬で終わらせるように設定することもできました。移動も上下左右へしか移動できないドラクエとは異なり、斜め方向へも移動ができ、その移動速度もかなり高速(SRのV1Hモード使用時)でした。「夢幻の心臓II」の方が初代「ドラクエ」よりもさらに操作しやすい部分すらあったのです。
ゲーム開始時にひらがなをふくむ名前をパッドで入力できるようにした点については、もしかしたらドラクエの画期的な点と言えるのかもしれません(アーケードのハイスコア入力などについてはよく知らないので、もしすでにそういうものがあったとしたらすいません)。
※ちなみに「上海」(スタークラフト,1985.6)も方向キーと決定・キャンセルのキーだけで操作できました。1回決定キーを押すと「↑攻撃、→自分を知る、↓防御」、もう一度押すと「↑セーブ、←サウンドオンオフ」のような表示がなされ、方向キーを押すことで対応する操作ができました。このゲームは、アタリのゲーム機で遊べる海外ゲーム「アリババと40人の盗賊」(1981)のシステムをベースにしているため、このような操作体系になっています。
当時のRPGの操作方法に関係する画像を下に引用しました。
かなり初期にドラクエや夢幻の心臓2と同様のカーソル移動式メニューを採用したRPGとしては、初代「夢幻の心臓」(1984.3)があげられます(「オホーツクに消ゆ」よりも半年以上前、「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」と同時期に発売)。左上にメニュー部分を拡大した画像を引用しました。このゲーム画面を見るとメニューの項目のひとつが赤字になっているのがわかると思いますが、矢印キーでこれを動かしてスペースキーを押すことでコマンドを選択できました(これとキーボードショートカットの2通りの選択方法が提供されていたのです)。ただし、場所の移動は矢印キーではなくテンキーを使う必要がある二重構造になっていました。この二重構造も「夢幻の心臓II」では統一されています。
※同時期に海外では「クエストロン」(1984)でカーソル移動式メニューが採用されていたようです(自分にはどちらの発売が先だったかは確認できませんでした)。
※なお、「ハイドライドII」についても、基本的にはカーソル移動式のメニューシステムが採用されていたのですが、アイテムを捨てるときに「D」キーを押す必要があるなど、ごく一部に残念ながらキーボードショートカットが残ってしまっていました。
それから、通常移動時のメニューについて、ドラクエには8個の項目(話す、呪文、強さ、道具、階段、調べる、扉、取る)がありました。一方、「夢幻の心臓II」の項目は11個ありますが、システム関係の操作(名前の変更や速度の設定など)をのぞくと、たった6項目だけ(道具を使う、呪文を唱える、道具の交換、順番を変える、仲間と別れる、ステータスを見る)でパーティ関係の操作までおこなえました。「夢幻の心臓II」では、右上の画像が示すように、接触対象に応じた動作(人なら会話、敵なら戦闘、ハシゴなら移動の問い合わせ、宝箱なら開ける方法の問い合わせ)が自動的におこなわれる仕組みが採用されていたわけですが、この仕組みによって冗長な項目をなくしたシンプルなメニューシステムも実現できていたのです。
※アドベンチャーゲームのコマンド選択方式に関する状況は下記にまとめてあります。
このページを書くためにネットで情報を集めるまで知らなかったのですが、初代ドラクエには最初に入力する名前に応じてパラメータが変化する仕組みまで導入されているようです。当時ザナドゥに関連して雑誌などでかなり話題になっていた隠しネーム(最初に入力する名前によっては特別なパラメータでゲームが開始される)の要素までアレンジして取り入れていることになるのかもしれません(ザナドゥ以外にもあったかもしれませんが)。
ドラクエ以前の国産RPGで使われている日本語表現について、単に海外ゲームの名称などを日本語表記にしただけ(例えばPotionをポーション、Clubをクラブ、など)だったかのように書いているページも見つけました。しかし、初代「夢幻の心臓」の時点ですでに「キズグスリ」「コンボウ」など、きちんと日本語に翻訳した表現が使われていて、「夢幻の心臓II」では、それがひらがなで表示されていました(「せいどうのよろい」「てつのよろい」などの素材を含む表現も使われている)。 最近公開されたWeb上の記事で、帷子(かたびら)や雷(いかずち)など、難しい言葉でもあえて古語風の表現を使うことがドラクエ特有のものだったかのような誤解をまねきかねない文章も読みました。しかし、もちろんその工夫も初代「夢幻の心臓」の時点ですでにおこなわれています。「夢幻の心臓」のアイテムには「クサリ カタビラ(鎖帷子)」、魔法には「イカズチヨ ワガ テキヲ ホロボセ(雷よ我が敵を滅ぼせ)」などの表現が使われていました。魔法の名称は全て呪文のようになっていて、以下漢字かな混じりで書きますが「炎よ我が剣となれ(剣はケンではなくツルギ)」「精霊よ我が盾となれ」「毒素よ無害なる血となれ」など、どれも本当に魅力的な日本語の表現が使われていました。こういった日本語表現の工夫はドラクエ以前からなされているものであって、ドラクエ発売時にはそれほど特別なものではなく、ドラクエはその方向性を踏襲したと言っていいと思います。
※ちなみに、ネットで調べた範囲でですが、「夢幻の心臓」よりも前に発売された「ダンジョン」(光栄)でもアイテムの名称には「クサリカタビラ(鎖帷子)」などの日本語表現が使われていたようです。ただし、魔法や敵の名称については「ライト」や「ジャイアントスコーピオン」など、英語の名称を日本語表記にしたものだけが使われていたようです。
ドラクエ以前に主人公を勇者と呼んでいないゲームがあったことをとりあげて、ドラクエ以前のRPGでは主人公を「勇者」とは呼んでいなかったという趣旨のことを書いているページも見つけました。しかし、アークスロード(ウィンキーソフト,1985.6)では、背景のストーリーに「永遠の都ダイオロスより来たる勇者達よ」と主人公たちに語りかける王の記述があり、広告などにも掲載されていました(エンディングにも「勇者達よ」の表記があります)。また、夢幻の心臓の初代の広告やIIのゲーム内でも「勇者」という単語は使われていました。当時、主人公たちを「勇者」と呼んでいるRPGは普通に存在していたのです。
下の画像では当時の「勇者」という表現の使用例を示しています。
左の画像では上で示した広告の内容が確認できます。また、右の引用画像では、「夢幻の心臓II」のゲーム内で「勇者よ、魔神を倒すにはシルヴィア姫をサルア城にかえすことが必要なのだ」と兵士が話している様子が確認できます。姫を牢から助け出すと、その周囲にいるモブキャラのメッセージがこれに変更され、ユーザが操作している「勇者」を次の行動へとみちびく仕組みになっていました(周辺にいて仲間になるキャラ以外のモブキャラが全て同じメッセージになるのは少し残念ですが、ストーリーが進むとモブの会話が変化する仕組みがこの時期に使われていました)。
ちなみに、「夢幻の心臓II」にはクラスチェンジ(転職)のシステムがあり、主人公を戦闘系へとクラスチェンジすることで、職業を「勇者」にすることもできました(上述のメッセージは職業に関係なく同じ表示でしたが)。まさに「夢幻界からよみがえった戦士が「勇者」となり、仲間を集めて協力して侵略者の魔神「暗黒の皇子」を倒す」という王道的なストーリーになるわけですね。
※パソコンゲームではハイドライドや夢幻の心臓などのシリーズによって、西洋風の王道的なRPGの世界はすでに描かれていたので、ドラクエが発売された1986年中盤には、魔王が主人公のRPG(ロストパワー)や、既存の有名なモンスターを全く使わずにオリジナルの敵で世界観を構築したRPG(覇邪の封印)、主人公が精神体で肉体をのりうつっていくことで成長していくRPG(レリクス)、なめらかに動く3Dポリゴンで建物内を表現したRPG(ウィバーン)、終盤にモンスターを仲間にするRPG(アスピック)など、さらに工夫をこらしたゲームが登場していました。
下記のサイトに堀井雄二さんのインタビューが掲載されているのをみつけました。この記事ではRPGでストーリーを語ることについて話題にあがっています。
この記事のコラムでは当時のRPGについてもふれられているのですが、その中に「… NPCと会話できるようになったが、ほとんど挨拶ばかりで …(中略)… 『ウルティマIII』からメタな台詞は減ったが、挨拶ばかりなのはあまり変わらず、これは国内で発売されたRPG『無幻の心臓II』(85年)でも同じであった。」と書かれています(「無幻の心臓」は原文ママ。正しくは「夢幻の心臓」)。もし仮にこの文章の意図が「NPCのうち主要なストーリーに関係しないモブのセリフに挨拶のようなものが多かった」というのであれば自分も理解できます。それならわかるのですが、この記事の書き方では、まるで「夢幻の心臓II」のセリフが挨拶ばかりでストーリーを語るためのセリフが全くなかったかのようです。しかし、もちろん、NPC全体で見れば、挨拶以外のセリフもたくさんありました。
RPGのNPCをおおざっぱに分類すると、ストーリーに関係する重要なセリフを話すキーとなるキャラクタと、画面をにぎやかにするために配置されたモブとにわかれると思います。昔のRPGでは移動しないNPCは前者、歩きまわるNPCは後者、という傾向があったように思います。このうち、後者のセリフについては「ウルティマIII」や「夢幻の心臓II」では挨拶のような単純なものが多かったと言っていいと思います(この点ではドラクエの会話の方が多様でストーリーを補完するようなセリフも多いのは確かにすばらしいと思います)。しかし、前者については、これらのゲームでもセリフで物語を描いていましたし、後者にも機能的なヒントや世界観をふくらませるセリフはありました。
「夢幻の心臓II」と「ドラゴンクエスト」のストーリーの描き方の違いはすでに下記のページにまとめてあって人々との会話についてもふれている(ハイドライドや夢幻の心臓IIなどに存在した宝探しの要素についても書いてある)ので、興味があれば読んでみていただければと思います。
ここでは、上のページにも書いた王女を救出するストーリーの流れについて、これに関係するNPCのセリフがどのようなものなのかを具体的に引用して示したいと思います。
主人公は城の女王から「王女がアーケディア城に行ったまま帰ってきません、心配で、心配で」という話を聞き、破壊された城の地下へいくと、幽閉された女性の周囲にいる兵士たちが「私たちは王女の護衛のわずかな生き残りだ」とか「牢獄にシルヴィア王女が閉じ込められている」などと話します。その女性を助けると彼女は「わたしをサルア城につれて帰りなさい」と言い、話を聞くと「わたしの名前はシルヴィアです」と答えます。彼女を仲間に加えると周囲の者たちのセリフが「勇者よ、魔神を倒すにはシルヴィア姫をサルア城にかえすことが必要なのだ」というセリフに変わり、シルヴィアを城へつれて帰って女王に会うと「ああシルヴィア、はやくお父様に会いにゆきなさい」と言われます。王様に会うと「よくぞシルヴィアをアーケディア城から救い出してくれた!十分に礼はするぞ!」と感謝の言葉を述べ、シルヴィアは「私は言霊使いの呪文を覚えるため瞑想の部屋にゆきます」と言ってパーティをはなれます。
上の事例で登場するNPCのセリフを「ただの挨拶のようなもの」と解釈する人はほとんどいないだろうと思います。少なくとも自分にはセリフでストーリーを語っているように見えます。他にも、例えば人間の世界でエルフの世界のうわさを聞き、そのエルフの世界で見つけた村の入口で歩哨(ほしょう)に止められて追い返され、エルフ城で王と話をして同士と認められる物語の流れなどもありますが、この流れに関係するNPCのセリフもただの挨拶だとみなすには無理がありすぎます。
この例からもわかるように、「夢幻の心臓II」でもNPCとの会話によってRPGでストーリーを語っていたのです。「ウルティマIII」にも少し弱い表現ではあるもののセリフでストーリーを語っている部分はありました。これらのゲームは、短いセリフではあるけれども、一部の主要なNPCのセリフでストーリーが語られていて、「ウルティマIV」や「ドラゴンクエスト」はそれがさらに充実した形になっている、というほうが妥当だろうと思います。
※ちなみに、具体的なセリフの比較のためにドラクエからも引用すると、ドラクエでは姫を連れ帰ったときに王様が「おお○○!よくぞ姫を助け出してくれた。心から礼をいうぞ!」と感謝の言葉を述べます(○○は主人公の名前)。短いセリフながら、両者を比較をするとサルア王の方が気前がいいことがわかって面白いですね。このドラクエのセリフを物語の構成要素のひとつだというのなら、当然、夢幻の心臓IIの王のセリフも同様だといって全く問題はないでしょう。
それから「メタ的なセリフ」(例えば「ゲームちょうだい」など)について、「夢幻の心臓II」ではその多くが「シー」という種族の会話メッセージとして設定されています。シーはとても神秘的でいたずら好きな、ちょっと異質な種族として描かれています。プレイした人の中には、この種族が多く住む「シーの村」のデタラメさが強く印象に残っている人もいるのではないかなと思います。つまり、「メタ的なセリフ」を、単なるお遊びとしてだけでなく、「シー」という種族のもつ特異な性質を印象づける(言いかえれば世界観を描く)ために使っているとも言えるのです。一方で、確かドラクエにもポートピアをドラクエと交換して、という感じのメタ的なセリフはあったと思います。「メタ的なセリフ」が必ずしも世界感を壊すわけではないという点は指摘しておきたいと思います。
※ついでに書いておきますが、この記事でインタビュアーは「…(前略)…『ドラゴンクエストII』では冒険の途中で仲間が増えるのが画期的ですね。」と問いかけています。しかし、ドラクエ2よりも前に「夢幻の心臓II」や「覇邪の封印」で同じことはやられていましたし、古くは「ポイボス」なども仲間を増やしていく形のRPGでした。他の方の言葉をかりて問いかけているので、おそらくこれらのゲームも知っていたうえで、話を引き出すきっかけとして話題にあげただけなのだろうと思います。ですから、この問いかけを拡大解釈して、この要素はドラクエ2が最初にやった画期的なものだった、などと間違ったことを言って広めたりしないように注意をしていただければと思います。
※なお、ネット上には夢幻の心臓IIの仲間のシステムを、ストーリーと全く関わりのないただの傭兵システムでしかないかのように言う人もいるようです。しかし、上や他の文章でも示したように、シルヴィアは仲間のひとりとしてストーリーに深く関わっていました。シルヴィアほどではないですが、例えば幽霊船に行くのに船乗りを仲間にする必要があったり、ドワーフを仲間にしているとエルフの村に入れないなど、候補は複数いるもののストーリーと関わる仲間もいました。ネット上の間違いにまどわされないよう注意をしていただければと思います。
※上の記事は、自分なんかよりもくわしく調べて書かれたとても素晴らしい記事だとは思うのですが、あくまでもはじめから堀井雄二さんを中心にすえて書かれたもの(インタビュー記事なので当然ですが)です。ゲームの歴史の一部を紹介した貴重な記事ではあるけれども、上のドラクエ2の話からもわかるように、そのことを前提にして読むべきものなんだろうと思います。そして、自分がここで書いている文章も「ドラクエに関する話題によって過去のPCゲームに対する誤解が広がるのをふせぎたい」と考えて書いているものなので、もちろん、そのことは前提にして読んでいただければと思います。
※他のゲームでは、「地球戦士ライーザ」(エニックス,1985.11)などもストーリー重視のRPGと言えると思います。戦況悪化を伝えるオープニングからはじまり、地球への帰還、少女の救出、つかの間の休息、敵艦の再出現、次々と壊滅する補給基地、超強力な武器の発見、最終決戦、そしてラストの悲しい結末へ、時間の流れの中で物語が次々に展開していきます。システム的には戦闘中心で移動がかなり簡略化されていて、目的地を指定して時空跳躍を繰り返すという、現在のスマホRPGのような手法がとられていました。序盤の難易度が少し高めではありますが、まさに漫画やアニメのようにストーリーを語る手法のひとつとしてRPGが使われた好例だと思います。
※ちなみに、海外では、1984年にキングズクエスト(シエラオンライン)が発売されて以降、三人称視点で物語を描くゲームはRPGよりもAVGの方で発展していったように自分には思えます。海外に物語志向の強いゲームがなかったかのように語る人もいるようですが、語るならシエラオンラインやルーカスアーツなどのAVGについてもよく調べて欲しいものです。
最近書かれたページに、まるで当時のパソコンRPGが、ウィザードリーなどと同様に死んだら復活できないものばかりだったかのように書いているページもみつけました。しかし、以前書いた「それまでのCRPGでは主人公が死んだらどうなったのか?」の所でも書きましたが、当時のパソコンRPGでは、死んだキャラクタがロストするゲームはすでに少数派になっていました。
また、「ハイドライド」(1984)にセーブ機能がなかったかのように書いている人も数名いましたが、PC88ディスク版ではゲーム中にいつでもどこでも簡単なキー操作で一瞬にしてデータのセーブやロードができました。セーブスロットは10個あって指定可能でした。主人公の位置やパラメータだけでなく敵の位置や体力なども完全に保存され、復元できるものになっていました。ラスボス戦でもこの機能が使えたので、極端なことを言えば、アクションゲームがとても下手な人であっても、何回かに1回、ラスボスに1撃でもダメージを与えて安全地帯へもどることができさえすれば、セーブとロードを駆使して安全にこの作業を根気よく繰り返すことで、誰でもラスボスを倒せるようになっていました。
オートセーブの機能について、ドラクエよりもずっと後だなどと書いているページもありましたが、これも「夢幻の心臓II」や「ザナドゥ」などですでに採用されていました。この手法には欠点がなかったわけではないですが、ドラクエの前に存在していたのは明らかな事実です。
それから、ドラクエの城で復活する方式とほぼ同じものは「ウルティマIV」(1985)ですでに採用されていました。プレイヤーが死ぬと、体力や状態異常などが回復した状態で城の王座の前へと移動し、食料と所持金は初期値にもどされますが、アイテムや経験値などは失われずに復活する仕組みになっていました(GOGで無料で配布されているDOS版で実際の詳細な動作を確認しました。APPLE II版はプレイ動画で復活する様子を確認しただけで細かな挙動までは調べてはいませんが、おそらく同様だと考えていいだろうと思います)。
※最近指摘されはじめているように、「経験値&レベルアップの仕組み」と「セーブ&ロードの仕組みまたは復活の仕組み」との組み合わせは、謎さえ解ければクリアできることを保障する仕組みのひとつとも考えられるわけですが、初期にこれら全部を採用した「ウルティマIV」の先見性は素晴らしいですね(謎の部分はかなり高度で面倒な要素も多かったですが、それを除けばクリアできることは保障されているので、その高度な謎解きに集中して遊ぶことができるゲームになっていました)。
上記のことがある程度確認できる資料として、以下に「ハイドライド」と「ウルティマIV」の画面を引用しました。
左は「ハイドライド」のキー操作説明画面、右は「ウルティマIV」の城で復活したときの画面から引用したものです。左の画面からはハイドライドにセーブ・ロードの機能があったことが確認できます。右の画像は少しわかりにくいですが、メッセージを読むと、王様のロードブリティッシュがプレイヤーの霊魂と財産を虚無から引きもどし、今後はもっと気をつけるようにと注意をしている様子が確認できると思います(画像はDOS版のものですがAPPLE II版も同じセリフです)。復活の役割を王様にわりあてているところや、死んでしまったプレイヤーに注意をしているところなど、ドラクエにとてもよく似ています。この復活の仕組みをドラクエが最初に採用したととれる文章を書いている方々には、ぜひ「ウルティマIV」の復活の仕組みについて再確認をしていただければと思います。
下記のサイトに初代ドラクエの作者のひとりの堀井雄二さんへのインタビュー記事があって、その中にも死んだときの動作について述べている場所がありました。
この記事で堀井雄二さんは「『Wizardry』みたいに一度死んだら取り返しのつかない内容にはしないで(笑)」と述べています。ここで注意してほしいのは、彼がこのインタビューでWizardryの方法は採用しなかったという趣旨の話しかしていない点です。自分で考えたとか、ドラクエがはじめて採用したとかは、ひとことも言っていないのです。勝手にそうであるかのように解釈するのは失礼にあたるでしょう。出来上がったゲームを見てわかる事実としては「Wizardryみたいにではなく「Ultima IV」みたいに死んでも取り返しがつく内容になっていた」わけです。でも、これは嘘をついているわけではなく、ただ単にウルティマIVについて触れていないだけです。こういうことはインタビューではよくあることなので、勝手に拡大解釈しないように注意が必要でしょう(誰かが何かを工夫したと回答していたとしても、それより前に同じ工夫をしていた人がいなかったとは限らない)。
ちなみに、このインタビュー記事についての感想としては、インタビュアーの大げさな問いかけに対して、多少ひっぱられつつも、今思ってることを素直に説明されているんだろうなという印象でした。ただ、当時の国産PCゲームについて一切ふれない点がいつもどおりで個人的にすごく残念でした。あと、編集部側が書いている「注」や話を誘導する「問いかけ」の部分などは、かなり大げさに持ち上げて書かれているので割り引いて読むべきだと思います(新作の宣伝のための販促記事的な側面もあって話を持ち上げる必要があるんだろうし、インタビュアーにも当時の知識はあまりなさそうな感じなので、しょうがない面もあるとは思いますが)。
それから、ドラクエではもうひとつの復活方法として「ハイドライド・スペシャル」(東芝EMI, 1986.3)でも採用されていたパスワード方式が使われていて、それを「復活の呪文」と表現する工夫がなされていました。このような世界観にあわせた表現上の工夫は「ザ・スクリーマー」(1985)に多く見られます。このゲームの主人公は登録制の「賞金かせぎ」なのですが、その設定が様々な場面で生かされていました。例えば、ドラクエではシステム的な手続きにすぎない最初の名前入力は、門番が名前を聞いて新人スクリーマーをリストに登録する場面として描かれています。お金の入手とレベルアップは、FRDと呼ばれる「戦いの様子を録画する装置」で記録した情報を「首屋」に見せ、賞金を獲得してハンタークラスを認定してもらう形になっています(しかもこの装置はストーリー上重要な意味も持っています)。フロッピーディスクの入れかえも、入口を開けるために許可証を入れる場面として描かれていました。ただし、途中からの復帰については、ゲームオーバーになったらセーブデータが完全に消去されるという、この時期にはめずらしく厳しいシステムが採用されていました(セーブは街から出ると自動的におこなわれる)。
※「クエストロン」(1984)についても調べてみたところ、こちらは主人公が死ぬと魔法使いが地上で復活させてくれるという形式のようでした。ただ、経験値にペナルティがあったかまでは確認できませんでした(クエストロンにはオートセーブの機能があったようなので、それがロードされている可能性もあります)。いずれにせよ、初代ドラクエの仕組みは海外の方式を採用しただけで、評論家風の人たちが最近言いはじめたようなドラクエによる革命でも発明でもなんでもなかった、というのが結論のようです。
ドラクエで漫画的な要素がはじめてRPGに取り入れられたなどと書いている人もいるようですが、上でも述べた「ザ・スクリーマー」は、それこそパッケージの前半が漫画になっていて、その続きがゲームで遊べるという形で販売されていました。漫画がついたRPGが売られているのに、当時のRPGが漫画を意識していなかったなんてことは、ありえないでしょう。
遊びやすさという点では、「ザ・スクリーマー」は難易度や戦闘システムなどに難がありました。しかし、劇画調のグラフィックやとてもセンスのあるセリフまわしなど、雰囲気づくりに関しては抜群にすばらしいゲームでした。一部を引用すると、例えば名前の登録画面では「OK! ボーイ。おまえの なまえをいいな。そのしゅんかんに スクリーマーの いっちょあがりって わけさ」、塔に入るときには「よう、ボーイ。きょうも おつとめかい? まいど ごくろうなこったが、 まあ しっかりかせいでくるんだな。」など、まるで漫画のコブラなどに出てきそうなセリフが表示されていました。
また、敵は遺伝子操作で作られた不気味な生命体と警備ロボットが中心で、西洋風のありきたりなモンスターとは一線を画すものになっていました。特に遭遇時に表示される劇画風の敵のイラストはとてもすばらしく、現在でも十分に通用すると思えるほど質の高いものでした。
ゲームの日本人向けローカライズの歴史について何か書くなら、「夢幻の心臓II」や「ザ・スクリーマー」などについてもきちんと調べるべきでしょう。ドラクエだけを見て文章を書いても大嘘だらけの間違った歴史を広めることになりかねません。
パソコンゲームでは、AVGまでふくめれば、漫画やアニメの要素はそれこそ「幻魔大戦」(1983.3)などのころから存在していて、エニックスが「ウイングマン」(1984.11)を発売した時期にはすでに原作漫画とほとんど遜色のない画像やセリフが使われていました(ドラクエの「コマンド?」と同じ役割のプロンプトを「ケンぼうどうするの?」というあおいさんのセリフにするほどのこだわり方をしていました)。
「夢幻の心臓II」のスタート地点について、視界が全てふさがれた森の中から始まる様子を示して、まるでとても理不尽だったかのように書いているページもありました。確かにドラクエと比べると少しRPG経験者向けになっているとは思います。しかし、夢幻の心臓IIのスタート地点で路頭に迷ったなどという話は聞いたことがありません。それも当然のことで、あらためて考えてみると、実際にはプレイヤーを街や城へとうまく誘導するよくできたデザインになっているのです。そのことを示すために、スタート地点周辺のマップを再構成したうえで下に引用しました。
スタート地点の森は、プレイ画面では視界がふさがれていて広大に見えるかもしれませんが、主人公の大きさを1とすると基本部分はおよそ5×5程度しかなく、実はとてもせまいことがわかります。また、上図で示したスタート地点周辺には最初は敵が配置されていないため、しばらくはこの周辺を敵に会わずに歩き回ることができます。北側や東側は見晴らしがよいため、数歩進むだけですぐに街や城があることに気づけますし、南側半分は全体が海や川で囲まれているため、仮に森の南側へ出たとしても、結局は北東か北西のどちらかへ進むしかない構造になっています。
夢幻の心臓IIでは、森や山などでさえぎられた部分は視界が制限されるシステムが採用されているため、図の黄色い矢印のルートを通ったときに限り、街などを見つけられずに先へ進めてしまいます。しかし、その先にはガーゴイルやゴブリンなどの強敵が配置されていて、避けなければ戦闘になります(自分がプレイしたPC88版では最初に「ガーゴイル」と出会う配置になっていました)。ガーゴイルは麻痺などの特殊攻撃を持っていて、仲間がいない状態で逃げずに戦闘を続けていると、特殊攻撃にかかった時点で一瞬にしてゲームオーバーになります。夢幻の心臓IIでは死んでもキーをひとつ押すだけで、簡単にセーブ地点からゲームを再開でき、一度もセーブしていなければもちろんスタート地点からの再開になります。つまり、ガーゴイルについてよく知らず、仲間もいない最初の段階で北西へ進むと、すぐにゲームオーバーになってスタート地点へ戻されることになるのです。 多くの人はそこで最初とは別の方向へ進むと思いますが、そうすればすぐに街や城が見つかる仕組みになっているわけです。
街や城では仲間を雇ったり「ガーゴイルに気をつけろ」というセリフを聞いたりできます。これでガーゴイルに注意すべきだとわかりますし、街などを出るとオートセーブされるので、仮に再度ガーゴイルにやられても今度はスタート地点ではなく街などから再開できます。おそらく、最初に街などへたどりつけずに迷う可能性があるのは「ガーゴイルをうまくやり過ごしてさらに先へ進んだ場所で手作業でセーブしてしまった時」くらいしかないでしょう。これは見方を変えれば、スタート地点周辺を海と山と強敵で囲んでその中に主人公を閉じ込めることで、街や城へ誘導する形になっているともいえます(しかも敵がシンボルエンカウントで移動するため、時間が経過するとこの囲みは消えてなくなる)。昔プレイした当時は全く気づきませんでしたが、あらためて考えてみると、マップの構造、シンボルエンカウントでの敵の配置、セーブ・ロードのシステム、の3つを使って、とてもうまく誘導する形になっていることがわかると思います。
この仕組みは、プレイヤーの選択によってプレイ体験が異なる可能性があることも示唆しています。例えば、プレイヤーによっては、すぐに街が見つかることもあれば、海沿いに歩いて街を見つけることもあります。いきなりガーゴイルの洗礼を受けることもありますし、出会う前に街を見つけて情報を得ていたのに逃げずに戦闘を続けてやられるケースもあるわけです。これはいわゆる「ナラティブ」な要素と言えるかもしれません。これがどこまで意図的だったかはわかりませんが、「夢幻の心臓II」のスタート地点もドラクエとは別の意味でですが、とてもよくできていたと言えるでしょう。
ドラクエについて調べていると、最初のレベルアップに必要な経験値を減らすことで序盤のレベルを上がりやすくした点を強調しているページをよく見かけます。確かに当時のPCRPGと比べて序盤のレベルは上がりやすいのですが、「夢幻の心臓II」などと比べて極端に上がりやすかったわけではないと思います。
最初にレベルが1から2へ上がるまでに必要な戦闘回数について、初代ドラクエが「スライム」や「スライムベス」相手に7回なのに対し、「夢幻の心臓II」では「ゾンビ」相手に10回(「ブロッブ」相手に15回、「トリロイド」相手に6回)になっていました。しかも夢幻の心臓IIではゲーム開始時の所持金で余裕をもって買える防具(鎖の鎧以上)を装備していれば、これらの敵からはほとんどダメージをうけませんでした(トリロイドは毒にかかると厳しいですが。ちなみに、ドラクエでは最初に買える防具では普通にダメージをうけていました)。敵との遭遇システムが両者で異なっているため単純な比較はできませんし、ドラクエより平均の戦闘回数が少しだけ多いのも事実ですが、夢幻の心臓IIも序盤はかなりレベルが上がりやすいゲームバランスになっていたのです。
※ドラクエには開発時に最初のレベルアップの必要経験値を20から7へ変更した経緯があるようです。そこから、これが特別なものだという話が広がったのだと思います。20だと「夢幻の心臓II」の平均とくらべても2倍の戦闘回数が必要なわけですから、「夢幻の心臓II」のプレイ経験者であれば、これを多すぎると判断するのも当然だろうと思います。それにしても、ドラクエの開発者ですら最初は20回を想定する時代に、平均とはいえ10回程度の戦闘で最初のレベルアップを実現していた「夢幻の心臓II」は本当にすごかったんだなと思います。
※ちなみに、夢幻の心臓IIのレベルアップのシステムは、経験値が255をこえるとレベルが上がってゼロにもどる(超過ぶんは上乗せ)というもので、敵から得られる経験値の量は各キャラクタのレベルとパーティの人数に応じて決まる(レベルが高く人数が多いほど敵から得られる経験値が減る)形式になっていました。そのため、主人公を強くした後でパーティ内の人数を減らして強敵を倒しまくることで、レベルの低い仲間の序盤のレベルアップを効率的におこなうことができました。レベルが上がってくるとドラクエと同様に経験値かせぎが大変になってきますが、スペースキーを押しっぱなしにすれば自動的に戦闘を繰り返して経験値かせぎができるのは有名な話ですね。
それから、当時のRPGのレベルアップ、能力上昇、魔法習得などのタイミングには様々なタイプがありました。例えば初代「ウィザードリィ」は宿での宿泊時、「ウルティマIII」は戦闘中に個別に敵を倒した瞬間、「ウルティマIV」は王との謁見時にレベルアップする方式でした。能力上昇も例えば「ウルティマIII」では寺院への所持金の投入、「クエストロン」ではミニゲームなどのイベントで行います。魔法習得は「ウルティマ」のIやIIでは店での購入、IIIは最初から覚えていて魔力があれば使用可能、IVはレベルアップと秘薬集めで使えるようになりました。「ハイドライドII」はレベルアップで使えるようになりますが魔力は店での購入、「ファイヤークリスタル」は魔法用の経験値でのレベルアップで習得する形でした。
一方、「夢幻の心臓II」などでは戦闘終了時に短いメロディとともにその場でレベルアップし、能力が上昇して魔術師などが新たな呪文をひとつ覚える方式(魔法の扱い以外は「ブラックオニキス」や「ハイドライド」も同様)が採用されていました。ドラクエでは「夢幻の心臓II」などで使われていたのと同じ方式が採用されているわけですね。
当時のアドベンチャーゲームやロールプレイングゲームのエンディングについて、単にCongratulationsと表示したり一枚絵を表示したりするだけで、ラストに余韻が全くなかったかのように書いているページもありました。しかし、当時、すでに「ザ・スクリーマー」や「地球戦士ライーザ」などでは、紙芝居のように何枚も絵を表示しながらラストの物語を印象的に描くビジュアルシーン風の手法がすでに採用されていました。
また、アーケードゲームの例だけをあげてスタッフロール自体がとてもめずらしかったかのように書いている人もいました。しかし、T&Eソフトなどはかなり初期からゲームにスタッフロールをつけていて、もちろん「ハイドライドII」にもつけていました。
当時のRPGのエンディングやスタッフロールについては、すでに下記のページで「夢幻の心臓II」との比較の形で話題にあげているので、興味があれば読んでみていただければと思います。
最後にスタッフを表示する演出(スタッフロールやエンドクレジット)について、上のページでは「ハイドライドII」や「アメリカントラック」の例を紹介していますが、これらの他にも、例えば「ザ・スクリーマー」では衝撃的なラストの後、無音の中でたんたんとクレジットが表示されるところに何とも言えない余韻がありました。「パラディン」(1985.12)もBGMがBEEP音ですがラストに音楽と同期して終わるエンドクレジットがついていますし、「ブラスティ」(1986.4)もエンディングでFM音源のBGMにのせてスタッフが表示されます。アドベンチャーゲームでは「デゼニワールド」(ハドソンソフト,1985.12)や「ウイングマン2キータクラーの復活」(エニックス,1986.4)でも最後にスタッフロールが流れていました。その証明をするために、例として下図に画面を引用しました。映画のラストのような演出になっていることが確認できます。AVGやRPGでは、この時期にはもうエンディングでスタッフを表示する演出はそれほどめずらしくはなかったと言えると思います。
自分も当時、上の2つのAVGはプレイしています。「デゼニワールド」ではスタッフロール後のひとことに映画のような余韻と達成感がありましたし、「ウイングマン2」では印象的なBGMとともに別れのメッセージが表示されるラストの演出に目をうるませていました(作曲はすぎやまこういちさんが担当している)。当時のAVGやRPGのエンディングに「余韻がなかった」などとは、とても思えません。パソコンゲームでは、ドラクエが発売される少し前の時期には、独自に様々な工夫をこらし、ラストにドラマチックな展開を用意したり、スタッフロールを流したりして、衝撃や余韻を与えるゲームが次々に登場しはじめていたのです。
※ちなみに、「デゼニワールド」は、難易度をおさえてギャグを見せることを中心にすえたアドベンチャーゲームでした。ラインペイント方式やコマンド入力方式など、この時期にしては古いシステムを採用していたことや、比較的簡単にクリアできてしまったこともあり、人気はそれほど高くなかったように思います。ですが、映画をかなり意識した作りで、ギャグを見せるためだけのシーンや映画のパロディネタも多く、多少いきづまる所はあるにせよ、難解な言葉探しもほとんどなく、当時のノリをわかっているプレイヤーにとってはとても遊びやすく楽しめるゲームでした。さらに、パッケージにはテーマソングなどが録音された音楽テープが付属していて、曲の間には短いですがドラマCD的な音声による小芝居も録音されていました。1985年の年末ごろには、すでにこのような方向性のゲームが存在していたのです。
※なお、開発者の名前についてアーケードゲームでは偽名を使うなどして隠すことが多かったという話をよく聞きます。一方、PCゲームでは、タイトル画面に名前やイニシャルやペンネーム(一時的に使われる偽名ではなく本人が決めた別名)を載せることが多くありました。例えば「オールキャストスタートレック」(コムパック, 1982)、「スパイ大作戦」(PONY, 1982)、「南青山アドベンチャー」(アスキー, 1983.4)、「ヴォルガード」(dB-Soft, 1984.7)、「EGGY」(ボースティック, 1985.2)など、他にも多くのゲームで確認できます。「暗黒星雲」(FM-7版,T&E,1983.12)ではオープニングとエンディングの両方でスタッフロールを流していました。PCゲームには開発者の名前を示す文化があったといえると思います。
初代ドラクエについて、RPGの物語的な側面として、シナリオが一本道なところが当時なかった特徴だった、という趣旨の指摘をよく見かけます。その一方で、オープンワールドやナラティブに関する話題では、初代ドラクエに自由度があった点を、まるで固有の特徴であったかのように書いている文章も見かけます。「一本道であること」と「自由度が高いこと」は、どちらかを強めればどちらかが弱くなるような相反する要素です。なぜ矛盾する2つの要素がドラクエの画期的な点としてとりあげられてしまうのでしょうか?
初代ドラクエを確認すると、おおまかなストーリー展開はほぼひとつなのですが、細かな部分では順序が自由だったり並行して進められたりする部分がある形になっています。言いかえれば、一本道と自由度の両方の要素があるゲームになっているのです。つまり、おそらくドラクエが画期的だったと言いたい気持ちが強すぎるために、この2つの特徴のうち、一方の側面を無視してしまっているのだろうと思います。
では、当時の他のRPGはどうだったかというと、ゲーム中で物語を描いているものであれば、程度の差はありますが、どのRPGも基本的にはこの両方の特徴を持っていました。自由度が高いと言われている初代「ウルティマ」ですら、終盤は「宇宙船を入手する」→「宇宙のエースの称号を得る」→「タイムマシンに乗る」→「過去へ戻ってモンデインを倒す」というように、順番がひとつに限定されたストーリー展開になっています。「夢幻の心臓II」では、サイクロプスを倒さないと銀の偶像を入手できず、その偶像がないと姫を救出できず、姫を救出した後でないと、魔神の世界への入口にたどりつけない、というように、ゲームの序盤に順序を強制するストーリー展開がふくまれていました。また、攻略の順序(人間の世界→エルフの世界→魔神の世界)を、出現する敵の強さである程度コントロールすることもしていました。
これらのゲームと比べたら、ドラクエのストーリー展開は1本道の傾向が強いとは思います。ですが、例えばARPGの「メルヘンヴェール」(1985.8)などは、部分的な攻略方法はいろいろあるものの、ストーリー展開に限れば、ドラクエよりもさらに1本道の傾向が強いと言っていいと思います。メルヘンヴェールのフィールドは複数のエリアが連結された構成になっていて、ゲームが進むごとにエリアがひとつずつ解放され、そのタイミングでビジュアルシーンの文章によって物語を描くという構造になっています。面クリア型のアクションゲームなどとは違い、前のエリアに戻ってアイテムを探索したりできるような自由度はありました。しかし、物語の展開は1本道のゲームだったと言えると思います。
また、上にストーリ重視のRPGとして書きましたが、「地球戦士ライーザ」なども、漫画やアニメのようなノリで物語を描いた1本道の傾向の強いRPGと言えるでしょう。
一本道か自由度かという視点については、初代ドラクエに限らずストーリーのあるRPGならたいていは両方の特徴を持っていて、どちらの傾向が強いかがゲームごとに異なっているということなのだろうと思います。
ドラクエ以前のRPGに、ルーラ、トヘロス、リレミトのような移動をサポートする魔法がなかったかのように話している人もいるようです。しかし、若干の違いはありますが、「ウルティマIV」にも様々な移動用の魔法がありました。
「ウルティマIV」には、世界各地にムーンゲートとよばれる門があり、月の満ち欠けに応じて2箇所のあいだをワープで移動できる仕組みがあります。ムーンゲートは街のそばにあるものが多く、タイミングをあわせてこれを利用することである街から別の街へ短時間での長距離移動が可能になっていました。月の満ち欠けにかかわらずこのムーンゲートへ移動する魔法として「転送門(Gate Travel)」の魔法がありました。この魔法を使えば地上のどこにいても行きたい街のそばへと長距離移動できたわけです。これは初代ドラクエのルーラに相当する魔法(移動先を選べる点では初代のルーラよりも便利な魔法)と考えていいと思います。
「ウルティマIV」はシンボルエンカウントだったため、ドラクエのトヘロスのようなランダムエンカウントを回避する魔法はありませんでした。しかし、東西南北のいずれかの方角へ短距離ワープで移動する「まばたき(Blink)」の魔法があり、これを使えば地上で敵に会わずに一定の距離を一瞬で移動することができました。また、地下では上下の階へとワープで移動する「上昇(Yup)、下降(Zdown)」の魔法を使うことができ、これによって敵に会わずに地下の奥深くへ移動することもできました。敵に会わずに移動できる様々なサポート魔法が用意されていたのです。
もちろん、「ウルティマIV」には地下から一発で地上へもどる「脱出(Xit)」の魔法も存在していました。これはドラクエのリレミトと全く一緒の効果の魔法です。また、周辺のマップを表示する「眺望(View)」のような、初代ドラクエにはない便利な魔法などもありました。魔法を使うには秘薬を準備する必要があるので、少し面倒なところはありますが、ドラクエ以前のRPGにも便利なサポート魔法は存在していたのです。
ランダムエンカウントするタイプのRPGで敵との遭遇を回避する仕組みについてネットで探してみたところ、「ザ・スクリーマー」の「サウンドバリア」がこれに相当するようです。ただし、弱い敵だけを出現させなくするトヘロスとは違い、強さに関係なく遭遇率を下げる仕組みになっていました。どちらが便利かについてはいろいろな意見があるとは思いますが、ランダムエンカウントのRPGにも同種の仕組みは存在していたと言っていいでしょう。あと、ドラクエが参考にする時間はなかったとは思いますが、「ブラスティー」にも「PARTICLE」というエンカウント回避用の装備(エネルギーの消費によって発動し一定時間すべての敵との遭遇率を下げる機能)が存在していました。
当時の国産PCゲームの売上がドラクエよりも少ないことをもって、国産RPGを否定的に述べている人もいるようです。参考にできたかどうかとは別の観点になりますが、もし売上について話をするなら、少なくとも下記の3つの環境的な要因があったことは大前提にするべきでしょう(もちろん売上にはゲームの内容も影響しないわけではないですが)。
これらは、ドラクエにはあったけれどもドラクエ開発開始当時の国産PCRPGにはほぼなかった要素で、売上に関連する要素の中では非常に大きな相違点だったと思います。
※ただし、宣伝媒体を持つPCゲームについては、例外として、雑誌そのものが企画・販売に直接関わっていた事例(例えば「オホーツクに消ゆ」)など、いくつかは存在していました。
※PCゲームの市場規模については正確なところはわかりませんが、例えばヒット作の累計をみると、ファミコンのスーパーマリオブラザーズが約681万本なのに対しPCのザナドゥが約40万本といわれています。オーダーだけの非常におおざっぱな概算で、PCゲームの市場はファミコンゲームのおよそ1割程度とみつもれます。PCゲーム関連雑誌のベーマガのピーク時の出版部数が28万部だったとの話(OBSLive 2016/1/30)もありますし、おそらく1桁くらいの差があったのだろうと思います(かなり乱暴な試算ですが)。売上げの話をするなら、内容の良し悪しとは無関係にこの程度の差が出ることは前提にすべきでしょう。
ドラクエは既存の要素を組み合わせていてそのバランスや取捨選択がうまかったと考える人もいます。バランスの良さなどの評価には主観が入ったり対象年齢との関係が影響したりする可能性がありますが、そういう判断をするのも妥当な意見のひとつだと自分も思います。しかし、それを強調したいがためにドラクエ以前のRPGをけなしたり馬鹿にしたりするような、過去に全く敬意をはらわない残念な行為はやめるべきだと思います。
例えば、当時のRPGは子どもが遊ぶには難しすぎて全く遊べなかったかのように言う人がいますが、当時放映されていたテレビ番組「パソコンサンデー」のPCゲームを紹介する映像などを見ると、子どもたちが「ザナドゥ」で楽しく遊んでいる様子や、終了認定証を得意げに見せている様子などがうつっています。他の文章でも書きましたが、ザナドゥはクリアするのは確かに難しかったですが、序盤は当時の子どもたちでも普通に遊べていたのです。
また、このページで示した事例をいろいろと見てもらえばわかると思いますが、「夢幻の心臓」シリーズなどは、初代で海外のRPGの要素を取り入れつつ映像や表現方法などを日本人向けに巧みにアレンジし、IIでは操作体系や速度などを改良してさらに遊びやすくしています。この夢幻の心臓IIの要素の組み合わせ方のかなりの部分をドラクエは踏襲した形になっています。「日本向け」や「遊びやすさ」の点で様々な工夫をこらした国産PCゲームが存在していたからこそ、ドラクエがそこから先を考えることができたとも言えるはずです。そのことをぜひ忘れないでもらえたらと思います。
「もしも夢幻の心臓IIが当時ファミコンで出ていたらドラクエのように売れていたのか?」というような問いかけをしている人も見かけます。このような、いわゆる「歴史のもしも」は空想を楽しむにはとてもよいものだと思います。ですが、「問い」のたてかたによって結論をある程度操作できるうえに、何の根拠もなしに何らかの事実を示したかのような気分にひたれてしまう点には注意すべきでしょう。やり方によっては問題を浮き彫りにする効果はあるとは思いますが、あくまでも仮定の話であって、根拠にもとづいた何らかの新たな事実がわかるような種類の話ではありません。
それでもあえてこの問いにまじめに答えるなら、「当時、夢幻の心臓IIと同じものをファミコンで出すことはできなかった」というのが回答になると思います。当時の技術ではファミコンでのセーブ・ロードの実装は困難だったはずですし、パソコンとファミコンでは画面の縦横比や表示の精細さも異なっています。モンスターの絵を使いまわしなしにドラクエよりも大きく表示するのも容量的に無理でしょうし、ソフトウエアスクロールで視界制限つきの移動システムをPC8801mkIISR並みの速度で実現できたかどうかも疑問です。仮にできたとしてもカセットの値段は採算がとれないくらいにとんでもなく高くなるでしょう。そもそも、そういったファミコンの制約の中で、できる範囲でRPGを形にしたことがドラクエの功績のひとつだったはずです。
そういった現実を無視して「もしもファミコンで出ていたら」と仮定をするというなら、「もしも当時のパソコンやソフトがファミコンと同じ価格帯で売られていて、同じくらい一般家庭に普及してPCゲームが楽しまれていたとしたら、どちらが売れていたか?」と仮定をしても比較としてはほぼ一緒です。この質問なら、自分はおそらく「夢幻の心臓II」の方が売れていたのではないかと回答すると思います。夢幻の心臓IIはドラクエよりも先に出ているので、ドラクエの新鮮味はかなりそがれるでしょうし、復活の呪文よりもセーブ機能の方が便利です。モンスターの絵の使いまわしもなく、ゲーム内の仕掛けやストーリーなどの内容も豊富で、しかもシステムの複雑さも小学校高学年くらいから上なら十分理解できるものになっているわけですから。
もちろん、上の話は「問い」の立て方で結論を操作できる事例のひとつにすぎないです。これが例えば「ファミコンで実現できるレベルにまで劣化させた夢幻の心臓IIが実際の発売日よりも半年後のドラクエと同じ時期に発売されていたらどうか?」と問われれば、それはさすがに売れなかっただろうと答えると思いますし。「歴史のもしも」はあくまでも仮定の話でしかないことを前提にして、空想をおおいに楽しむのにとどめておくのが良いのではないかなと思います
上で見てきたように、様々な参考となるゲームが存在している状態でドラゴンクエストは開発されました。上であげたもの以外にも、ドラクエを構成している要素や特徴には国内外のゲームに存在していたものが多くあります。以下に、思いつくものを(上で記述したものも含めて)まとめてみました。いくつかは以前書いた2つの文章(「ドラクエ以前の国内パソコンゲーム(本文)」「夢幻の心臓IIからドラゴンクエストへ」)でもとりあげているので、興味があれば読んでみてください。
なお、下のまとめはあくまでも「類似の要素や特徴がすでに存在していた」という意味であって、それ以外のことは意味していない点に注意してください。例えばBGMを使った演出の前例について、ドラクエは地下へ降りるほど音程が下がるのに対し、ザナドゥはフードがなくなると音程がゆがむなど、類似の要素があったのは事実ですが具体的な手法までが完全に一致していたわけではありません。また、ドラクエが意図的にまねをしたという意味でもありませんし、下に書いたゲームが最初だったという意味でもありません(無意識に影響されたりたまたま同じ発想をもった可能性もありますし、これ以前の事例があるかどうか十分に調べつくしたわけでもありません)。特に下記を引用する場合などには、これらの点について誤解をあたえないように注意をしていただければと思います。
表現面で類似した要素※下図にステータス表示の例と洞窟等での視界制限の例を引用しました。左の画像からは、初代「夢幻の心臓」で耐久力が減ったときにステータスが赤く表示されることがわかります。右の画像からは、「夢幻の心臓II」で日本語表記されたアイテムの中に「たいまつ」があることがわかります。洞窟や塔に入るとこの図のようにマップの表示範囲がせまくなり、「たいまつ」を使うとそれが広がる仕組みになっていました(なお、この図では物陰の背後はアイテムで表示させています)。この画像からは、句読点をできるだけ排除し、単語を空白で区切ることで文章をすっきりと読みやすくしていることも確認できます。
上にあげたものの中には、もしかしたらドラクエがはじめておこなったとネット上の記事などに書かれているものもあるかもしれません。ですが、実際には、ドラクエが発売される前にも、これらのようなRPGを作るうえで参考になる様々な要素や特徴をもつ国内外のパソコンゲームが存在していました。ドラクエの開発者がすばらしいRPGを作りたいという情熱を持っていたとしたら、当然、ゲーム雑誌などに掲載されている最新のRPGの情報は集めていただろうし、それらの調査も十分にしていただろうと思います。そういったことをしたうえで、今あるものよりもさらに良いゲームを作ってやろうという意気込みで開発にあたっていたんじゃないかなと個人的には思っています。そういった意味でも、国産パソコンRPGに全く影響をうけていないというのは、さすがにありえないだろうと思います。
もちろん、ドラゴンクエストを紹介するときに、自分がプレイした感想として、これらの体験が自分にとってはじめてだったと書くことには全く問題はないと思います。例えば「地下へ降りるとBGMの音程がだんだん下がっていくところにはすごく不安感をあおられたし、自分はこんな体験は初めてだった」というような感想はどんどん書いていいと思います。ですが、そこから発展して「BGMを演出に使う発想はこれまでのRPGにはない新しいものだった」とか「同じBGMを変化させる手法はドラクエで初めて採用された発明だった」とか書いてしまうのは、間違ったことを書いているという意味でよくないと思います。上でも書きましたが「ザナドゥ」では具体的な手法がドラクエとは違っていたものの、BGMを変化させる演出はしていたわけですから。
あるいは、量の問題として説明することは、その状況が間違ってなければ問題ないと思います。例えば「当時はストーリー性のとぼしいRPGが多かったが、ドラクエはその中ではストーリー性のある方のRPGのひとつだった」のような説明はしても問題ないと思います。でも、それを「それまでのRPGにはなかったストーリー性をはじめて導入した」などと強調して書いてしまうのは、事実とは異なるという意味で、やっぱりよくないだろうと思います。
それから、こういうシステムになっていると単に解説するだけなら、それも問題はないでしょう。でも、すでに他にそのシステムを採用していたものがあったにもかかわらず、あたかもドラクエ特有のもののように誤解をさそうのも良くないと思います。例えば「ドラクエではマルチウインドウが採用されている」と紹介するのは問題ないと思いますが「当時はビジネスソフトにしか使われていなかった」などと嘘までついて、それが画期的だったかのように装うのは適切ではないと思います。城で復活する仕組みなどについても、単にそうなっていると説明するだけならいいですが、周辺の文章を使ってあたかもドラクエがはじめてだったかのように装うのは不適切でしょう。
嘘はつかないにしても、すでにあった要素に対して「当時この発想をもてたのはすごかった」のように賞賛するなら、ドラクエ以前にそれをやっていたゲームに対してももちろん同等以上に賞賛すべきでしょう。少なくとも先例を知ったときに同様の感想を持てないのは明らかにおかしいです。
新しいことをしたゲームよりもそれを広めたゲームの方が重要だと言う人もいるようですが、それならちゃんと「広めた」と説明すべきでしょう。「発明だった」とか「画期的だった」とか「それまでにはなかった」とか「革命的だった」とか、最初にやったかのうような誤解を生む言葉や表現を加えなければそれで問題はないと思います。でも、もし加えるようなら、その人は『本当は「新しいことは重要」と思っているのに、重要ではないと嘘をついている』ことになると思います(ちなみに、自分は歴史的にはどちらも同じくらいに重要だと思っています。もちろんその間で発展に寄与したゲームも大切です)。
あと、もちろん、広めたかどうかなどは当時の状況などから総合的に判断する必要があります。しかし、ゲームのシステムがどうだったかについては今からでも客観的に確認できるのに対し、人々への影響の度合いや難易度などの感じ方については客観的な確認が困難で主観が入る余地がある点にも注意が必要だと思います。ゲームの歴史に名を残せたかどうかみたいな話も、客観的な説明が難しい話題のひとつです。自分がよく知らないゲームについて、たいして調べもせずに「歴史に名を残せなかった」などと書いてしまうと、勝手にレッテルをはって自分の無知や詳しい説明ができないことへの言い訳をしているとも受け取られかねないので、注意した方がいいでしょう。
さらにひどいものになると、ドラクエが最初だったとさんざん肯定的に取り上げておいて、それが間違いだと指摘されたとたんに「何が最初だったかは重要じゃない」などと逆のことを言いだして、それだけでは飽き足らずに先例をむごい言葉で叩きはじめる事例まであるようです。さすがにそこまでひどいのはごく一部だとは思いますが、自分にはとてもまともだとは思えませんし、そんなのは論外でしょう。
もちろん、初めて経験して感動した体験を強調したい気持ちはよくわかりますし、知識不足で間違ったことを書いてしまうこともよくあることだと思います。文章を読みやすくするために単純な書き方をしてしまうこともあるでしょう。自分も感動してついついそういう書き方をしてしまうことはありますし、細かい正確さよりも読みやすさを優先して書いてしまうこともあります。間違いを完全になくすことは難しいだろうとも思います。今回書いた自分の文章にも、きちんと調べて書いたつもりではいますが、もしかしたら間違いがあるかもしれません。ですが、せめて間違いを指摘されてその証拠もあるときには、訂正や修正をおこなう度量は持っておきたいですし、文章を書くときにはできるだけ嘘になってしまわないように自戒もこめて注意していきたいものだなぁと思います。
2016年の年末に実家に帰省したときに、1985年~1986年のマイコンBASICマガジンが残っているのを見つけました。この雑誌は「ベーマガ」の愛称で親しまれていたゲームを作りたい人向けの入門的な雑誌で、投稿プログラムのリストやプログラミングの解説などに加え、最新ゲームの広告や記事も掲載されていました。上記に記載した内容のいくつかについて参考になる写真を撮ってきたので、補足資料として以下に追記しました。
下の図はドラクエの開発が始まった時期に発行されたマイコンBASICマガジン1985年11月号に掲載されていた「ハイドライドII」(T&Eソフト)の広告から引用したものです。
上の図の中央にある写真は広告の左下の部分を拡大して引用したものです。プレイヤーキャラクターのイラストがならんでいますが、ハイドライドIIでは、武器を装備したときにキャラクターのパターンが変化するようになっていました。ドラゴンクエストでは、剣や盾を入手すると、手に何も持っていないキャラクターの絵が剣や盾を持ったものに変化しますが、この仕組みは「ハイドライドII」の広告で積極的にアピールされていたものでもありました。
右の写真は広告の中央右側の部分を拡大して引用したものです。この部分では、ゲームのスクリーンショットを掲載することで、マルチウィンドウシステムをアピールしていました。この画面は、メインメニューからCAMPメニューを開いて、さらにそこからゲームスピードを調整するサブウインドウを開いたときのもので、2Dマップ上に、複数のウインドウが重なって表示されているところが見てとれます。ドラクエで採用されたマルチウインドウのシステムは、ドラクエの開発がはじまった時期にT&Eソフトが積極的に広告などでアピールしていたものでもあったのです。
また、下の写真は同じ広告に記載されていたプロローグの部分を拡大して引用したものです。主人公が「まだ心の汚れていない一人の男の子」であったことや、フェアリーランドを神様が「時空をねじまげ人間の世界とつなげた」という設定が採用されていることがわかります。
ドラクエ以前のRPGの主人公が子ども向けになっていなかったかのように言う人や、この時期の日本に異世界召喚もののRPGがなかったかのように言う人もいるようですが、「ハイドライドII」のこの広告にのっているプロローグは、まさにその両方を含んだものになっています。このプロローグは、プレイヤーである子どもたちが自分自身を主人公と重ねやすい設定になっていると言えるでしょう。なお、「心の汚れていない男の子」という設定は、ラスボスを倒す鍵となるもので、ストーリー上の重要な要素にもなっていました。
下の図はマイコンBASICマガジン1986年3月号に掲載された「夢幻の心臓II」(クリスタルソフト)の紹介記事で、右側の写真はその最後の節を拡大して引用したものです。
ベーマガでは1985年12月から「チャレンジ!パソコンロールプレイングゲーム」という連載がスタートしていました。最初のころはそれまでに発売されたザ・スクリーマーやハイドライドIIなどの国産RPGを月に1~3本程度、見開きで順次紹介していて、3月号で紹介されたゲームのひとつが「夢幻の心臓II」でした。
著者は手塚一郎さん。紹介文の最後の節には「夢幻の心臓II」について「ムチャクチャな設定がないので、メモやマッピングをしっかりやっていれば必ず解ける(慣れた人なら3~5日ぐらいかな?)。」と書かれています。当時のパソコンRPGには難しくて当たり前という風潮が確かにあったわけですが、その中でも「夢幻の心臓II」は必ず解けるように作られたゲームとして紹介されていたことがわかります。ドラゴンクエストについて「当時のパソコンRPGは理不尽に難しいものばかりだったのに対し、ドラクエは頑張ればクリアできる所が画期的だった」と言っている人もいるようですが、この記事からわかるように、同じ趣旨のことは当時すでに「夢幻の心臓II」に対して言われていたのです。ただし、この記事はあくまでもベーマガの読者を想定したもので、さすがに小学校低学年までは想定していなかっただろうと思います。この「夢幻の心臓II」で示された方向性をさらに押し進め、広がりはじめていた間口をさらに広げたのがドラクエだったと言えるだろうと思います。
※ちなみに、元編集長の話によるとベーマガでは小学校4~5年生で読めるような文章を意識していたそうです(OBSLive 2016/01/30の動画より)。読者層として小学校高学年あたりから上を想定していたと言えるでしょう。実際、ベーマガの読者投稿コーナーを見ると中学生前後の年齢層からの投稿が多く確認できます。
※当時に「夢幻の心臓II」を紹介していた他の記事の例として、下記のページに「PC-88 GAMEBOOK 別冊ログイン2」(1985.11)の記事が紹介されているのを見つけました。
ログインはパソコンゲームを中心にあつかっていたゲーム雑誌です。この「夢幻の心臓II」の紹介記事の著者は金井哲夫さん。一番最後の段組の中央付近から引用すると「とかくロールプレイングは、マニア的ひとりよがりの傾向に走りがちだが、ユーザーの意見を重視したことで、これだけ高度なシナリオをもちながら、万人向けのものに仕上がっている。」と書かれています。ネット上でよく見る初代ドラクエへの評価に似ていると思うかもしれませんが、これは「夢幻の心臓II」に対する当時の評価のひとつです。この記事も、ドラクエ以前に上述した方向性がすでにパソコンRPGに存在していたことを示す一例と言えると思います。
ドラクエについて、当時のRPGは難解なものが多かったが頑張ればクリアできるゲームだった、あるいは、当時のRPGはマニア向けのもの多かったがそれを万人向けにしたゲームだった、と指摘する人もいますが、それとほぼ同じ趣旨の評価は、当時のPCゲーム関連雑誌で「夢幻の心臓II」に対してなされていたものでもあったのです。
※公平を期すためにここにも書いておきますが、「夢幻の心臓II」にも欠点が全くなかったわけではなく、無理をして先に進んだときなどに、まれにではありますがクリアできない状態でオートセーブされてしまう問題がありました。そのため、クリアするためには、念のために安全な状態で定期的にセーブディスクのバックアップをとっておくことが必要でした。また、城などの通路に狭い場所が多く、うろつく兵士が移動の邪魔になることもけっこうありました。このあたりはまだ改善の余地があっただろうとは思います。
※一方で、「夢幻の心臓II」の食料システムまで否定的に言いだす人もたまに見かけますが、このシステムは回復アイテムがなくても食料さえあれば移動している間に少しずつダメージを回復できるシステムでもあります。消費なしに回復する「ハイドライド」よりは不便ですが、終盤になるまで自動回復の手段がないドラクエよりは便利な一面もあるのです。確かに少しわずらわしいシステムですが、自動回復のための消費という側面に全くふれずに否定的に言うのは公平性に欠けると思います。
※ちなみに、このページではゲームの個人的な感想はできるだけひかえているのですが、自分も「夢幻の心臓II」は中学生のころにプレイしていて、当然めちゃくちゃ面白かったです(もちろん当時としての話ですが)。当時の雑誌記事に書かれているように無茶な設定のないゲームバランスでとても遊びやすかったし、敵を倒したり装備を変えたりしてだんだんパーティが強くなっていくなどのRPGが持つ一般的な魅力ももちろんありました。テンキーだけで遊べる操作体系も快適でしたし、プレイ中に戦闘メッセージのスピードを変更できたり、持ちきれない余分なアイテムを一時的にあずける場所があるなど、いろいろな気配りもなされていました。でもそれだけではなく、大きくリアルなモンスターの絵にはとても迫力と魅力がありましたし、たくさんいる候補の中から誰を仲間にするか考えるのも楽しかったです。洞窟を抜けて新しい世界へたどりついたときのワクワク感、強敵のいる世界や居城をかいま見て感じた恐怖とそこから逃げ帰るときのハラハラ感と人間の世界にもどってきたときの安堵感、最初の難関となる宝箱の前を守る2人の魔物の魅力的な構図と倒せたときの達成感(イースIIでもオマージュされていました)、村人との会話で少しずつ明らかになっていく世界の状況、いろいろな特徴をもった洞窟や塔があるのを知ったときやラスボスの正体を見たときの驚きなど、楽しい要素が満載でした。ゲーム中にヒントが示されていたのに幽霊船の謎に自力では気づけなかったのが心残りです。
※あと、「夢幻の心臓II」について全然売れなかったと書いている人もいるようですが、根拠が不明で、自分には本当かどうかよくわかりませんでした。「PCゲーム売り上げ1位の記録を持つザナドゥよりは少ないはず」とか「一般的にファミコンゲームと比べるとPCゲームの売り上げはかなり少なかった」とは言えると思いますが、当時の基準で売れたかどうか判断するなら、同時期の他のPCゲーム(例えばパラディンとかリグラスとか地球戦士ライーザとか)との比較が必要だと思います。もしただの印象や空想でないのなら、後学のためにもぜひ根拠となるこれらの売り上げ本数の資料を示して欲しいところです。自分は資料が手元になくて断言できないのですが、確か当時に何かの記事で「ザナドゥ」「ハイドライドII」「夢幻の心臓II」が3大RPGとして紹介されていた記憶があるので、その記憶が確かなら、それなりに売れていたのではないかなと思っています。
この文章を書きはじめたとき、2016年の年末にNHKでドラゴンクエストの特番が放送されるという情報が流れていました。ネットを見ているとドラクエの開発開始時期の国産パソコンRPGの状況について間違ったことを書いているページがけっこうあったので、放送前には、NHKがそういった情報に流されて間違いを広げてしまわないかと不安になっていました。1985年に参考にできたRPGには「ウィザードリィIII」(1983)や「ウルティマIV」(1985)だけでなく、「夢幻の心臓II」や「ハイドライドII」など、たくさんの国産RPGもありました。この4つのゲームを並べて比較するだけでも、ドラクエにどのゲームの影響が色濃く現れているかはよくわかると思います。放送前の当初、NHKの担当者の方々には、そういった事実もきちんと確認したうえで番組を作っていただければと思っていました。
その後、NHKのサイトにディレクターの下記の取材記事が掲載され、内容を読んでさらにに不安になりました。
独占取材! ドラクエ最新作の制作現場に、カメラ潜入!(現在はすでに掲載終了になっています)
ドラクエIVについて、第5章で勇者が登場して旅をしていくと以前に登場したキャラクターたちに会うという、ストーリーの流れが紹介されているのですが、最後に「…そんなゲーム、他にないんですよ。」と書いてしまっていました。このストーリーの流れは「クリムゾンII」(クリスタルソフト)が「マルチシナリオ・リンク方式」としてドラクエIVよりも前に実現していたもので、ドラクエ特有のものではありません。「…そんなゲーム、自分は経験したことがなかったんですよ」と書くぶんには何も問題ないと思うのですが、「…そんなゲーム、他にないんですよ。」と書いてしまったらドラクエが最初に実現したという誤解が広がってしまいます。番組本編でも同じように誤解をさそう表現や間違った情報が世間にばらまかれたりしないか、とても心配でしたし、それが杞憂に終わって欲しいと願っていました。
そして、12月29日に「ドラゴンクエスト30th そして新たな伝説へ」というタイトルで番組が放送されたので見たのですが、少しだけ気になるところはあるものの、無難な感じの内容になっていました。ウィザードリーとウルティマの話に関しては、あくまでも開発前に「2つのいいとこ取りをしようという話をしていた」という、きっかけレベルの話だけで止めていてほっとしました。具体的には、中村さんと堀井さんとで「ウィザードリー派とウルティマ派の二人なんで、話をして、じゃあお互い良いところを取って混ぜ合わせようよ」っていう話になって、堀井さんが鳥嶋さんに「ウィザードリーとウルティマの良いとこ取りでやりたい」という話をしていた、という内容にとどまっていました(「その話をした後で実際には何を参考にしてどう開発したか」については番組では全くふれていない)。ウィンドウシステムについても、そういうシステムにしたという内容だけで、ドラクエが最初だったという嘘はついていませんでした。もし、ドラクエで自分たちが独自にウィザードリーとウルティマを組み合わせたシステムを考案して開発したんだという内容になっていたり、2DRPGでウィンドウシステムを使ったのはドラクエが最初だったと嘘をついたりしていたら、強く批判せざるをえないなと思っていたので、そこは安心しました。
願わくば、「夢幻の心臓」「夢幻の心臓II」(ウィザードリーとウルティマの良いとこ取りをして、それを日本向けにアレンジした先駆者として)や、「ハイドライドII」(2DRPGでのウィンドウシステムの先駆者として)、「ザナドゥ」(BGMを演出に使った先駆者として※クラシック風BGMのRPGでの利用はウルティマIIIや国内だとメルヘンヴェール等からありましたが)などの国産パソコンゲームについてもふれて欲しかったなと思いました(まぁ、時間的にも内容的にも難しいだろうなとは思いますが、いつか将来、まんが夜話やアニメ夜話みたいな感じで、ちゃんとPCゲームの知識がある人も加えたうえで、ゲーム夜話みたいなのをやって欲しいかな)。
ドラクエの歴史的な位置づけとして「ウルティマとウィザードリーのいいとこどりをしたうえで、独自にアレンジして日本人向けに遊びやすくしたゲーム」というような趣旨の説明をけっこう見かけます。いろいろ調べてみた自分としては、この説明はあまり適切ではないと思っています。ドラクエには、当時の国内外のパソコンゲームの様々なアイデアや方向性がかなり多く取り込まれているためです(いくつかある独自の要素はファミコンへの実装と小学生中心というプレイヤー層に関わる部分に集中している)。今の自分が説明するなら、こうなると思います。
「ドラクエは、当時の国内外のパソコンRPGが持っていた様々な画期的なアイデアや方向性(ウルティマとウィザードリィを組み合わせるアイデアや、マルチウィンドウを採用するアイデア、死んでも王様に復活させるというアイデア、日本人向けに表現を工夫するという方向性や、難易度や遊びやすさを万人向けにするという方向性など)のうち、おもしろい要素やあそびやすい要素をファミコンで扱える範囲で多数取り込み、実装可能な形にして小学生低学年でも遊べるようにアレンジしたRPG」。
誤解を恐れずにもっと短く言うなら「当時の国内外のPCゲームの良いところをつめ込みまくって小学生向けにしたファミコン用RPG」ということになります。ウィザードリィとウルティマのいいとこどりをするところから日本人向け・万人向けを意識するところまでをふくめて当時のパソコンゲームの文化をファミコンへ持ち込んだゲームのひとつなのだと思います。
こう考えると「ウィザードリィとウルティマを編集した」という指摘だけでなく、「夢幻の心臓シリーズのパクリだ」という指摘や、以前、自分が別の文章に書いた「夢幻の心臓II」と「ハイドライドII」のいいとこどりという指摘もたぶんあまり適切ではなくて、「既存のいろんなPCゲームの要素を取り入れているけれども、その中では夢幻の心臓シリーズやハイドライドシリーズの要素が多く、特に骨格の部分や要素の組み合わせ方や遊びやすさなどの方向性は夢幻の心臓IIに近い形になっている」ということなのだろうと思います。
いろいろと調べて文章を書いてきましたが、自分の今の結論としてはこんなところです。