広場の時が止まった

 

二話 中高生板のオカチ様

 

 

8月3日の金曜日は、朝から庭の草むしりだ。

母親が趣味としている庭造りに、有無を言わさず参加させられるわけだ。

「どうせひまなんでしょ」

母親の口癖くちぐせだった。

うだるような炎天下、雑草と戦う役目は安藤で定着していた。母親は、育ち盛りのヒマワリたちに水という名の愛をらすのに余念よねんがない。

安藤は隣家りんかから伸びる日陰をうらやましく思いながらも、黙々と雑草をむしり続けた。夏の陽射しが容赦なく安藤に降り注ぎ、首筋をじりじりと焼いた。汗がほおを伝い、視界がぼんやりとかすむ。

セミの鳴き声がやんややんやと聞こえる只中、安藤はあめぞうのことを考えていた。全く稼働かどうしなくなった広場のことが、ずっと気がかりだったのだ。

「働くっていいことだ。用事のある人間は誇らしい」

一仕事終え、冷たいコーラを喉に流し込みながら、安藤は再認識した。

何もすることがなく、誰かのために貢献こうけんすることと無縁むえんだった安藤にとって、今日の収穫は素晴らしいものであった。それに、雑草に対する思いも変わった。

雑草が無目的に地面から頭を突き出し、無駄にその人生を終えると思ったら、大間違いだ。なぜなら雑草は、安藤に貴重な体験をさせてくれた。母親のために草をむしるという、貴重な体験を……。

 

安藤はハッと目を覚ました。

昼を過ぎたあたりから眠ってしまったらしい。きっと、久々の肉体労働が睡魔すいまを呼び寄せたのだろう。窓の向こうは夕暮れだった。

安藤はベッドから起き上がり、寝ぼけ眼で立ち上がった。そして、無意識の内にパソコンの電源を入れている自分に気が付き、ゾッとしたのだった。

広場のスレッドに変化はなかった。まるで、あの瞬間から一秒も時が進んでいないかのように、全てが止まったままなのだ。

「どうしちまったんだよお……」

リロードとため息を交互に繰り返しつつ、安藤は涙声を発した。のん気に鼻クソでもほじりながら書き込みしていたあの頃の自分が、うらやましいとさえ思えてきた。

安藤はすがるような思いでチャットへ向かった。あそこなら、手掛かりの一つや二つ、無造作に転がっているかもしれない。

だが、安藤の考えは肩透かしに終わった。チャットには自分の他に1人だけいたが、話し掛けても何の返答もない。おそらく、安藤の存在に気付いていないのだろう。

あめぞうチャットの雰囲気は、普段から殺伐さつばつとした具合だった。人がいるのは大抵夜だし、いても話に参加しない者が多いのだ。

安藤はいたたまれない思いでチャットを後にした。

 

一旦、安藤はアクセス上位の板から順に見て回ることにした。

YouJ、天才テレビくん、ジャニーズ……。

機能しなくなった広場から追い出された広場の住民が、次なる居住を求めて板という板を流浪るろうしていた。それはまるで、路頭に迷った怒れる猛者もさだった。

所々で広場機能停止に関する批判スレッドが立ち上がり、おばけのQ太郎みたいなAAが「灰になっちまったあ」と連呼している。

取り分け何のアクションも起こそうとしないサポートにも、不満と批判の書き込みが浴びせられていた。あめぞう内で発生したトラブルにおいて、住民たちのストレスのはけ口となるのはサポートに決まっていたのだ。

ずさんな運営責任を問われているサポートは、怒りの矛先が自分に向けられてもいたし方ないといった様子だ。

 漫画Lには、荒らしによる無目的スレッドが岩にこびりつくコケのようになってびっしり繁殖していた。そして、そんな荒らしと勇敢にも戦う漫画L住民の一人に、見覚えのあるハンドルネームを見つけた。腐女子のバタコだ。

バタコの攻撃方法は、顔文字に汚い言葉を吐き出させるというありふれたものだった。しかもその顔文字、かつて誰も作り出したことがないような、まがまがしい形相で見る者を戦慄せんりつさせている。

ここまで手の込んだ顔文字制作の手法は、きっとどこかの漫画から仕入れたものだろう。

「いったい何やってんすか? バタコさん」

荒らしのやんちゃ攻撃と、漫画L住民の怒涛どとうの顔文字攻撃をかいくぐりながら、安藤はレスした。

渦中かちゅう、安藤は当たり前のように冷静だった。だが周囲の者からしてみれば、その存在はむしろかなり浮いていた。騎馬隊が交戦する戦の真っ只中で、ロデオボーイに乗って笑顔ではしゃいでいるようなものだ。

「荒らしを追い出してるんです。見てて分かりませんか?」

バタコの書き込みには、「あたし、こんな場違いな人知らないわ」という他人行儀な雰囲気があふれ出していた。

そもそも、荒らしの主食は被害者の『なげき』だ。

抵抗すればするほど荒らしの活力は増大し、そのやり口も巧妙、悪化する。つまり、荒らしへの反撃は火に油をそそぐようなものなのだ。そのことを知らないのは、ネット初心者かただの愚か者だ。バタコはきっと愚か者の類だろう。

「荒らしの嫌いなものを知ってるか?」

安藤は誰に言うでもなくそう書き込んだ。無論、誰も見る目を持たない。どんなに冷たい態度をとられようとも、安藤はめげなかった。

「つまり、そういうことさ」

安藤は荒らしの放った「カラムーチョ・オタムーチョ」レスの直後にそう書き加え、その板を離れた。

向かった先は中高生板だった。そこは、漫画板で巻き起こる戦争など露知らず、平和を絵に描いたような静けさに満ちていた。

ここにもちらほらと広場に関するスレッドが立ち並んでいた。だが安藤は、それらには目もくれず、違うスレッドタイトルに注目していた。

「その不満、僕に言え!」

安藤は迷わずそのスレッドタイトルをクリックした。そこまで言うなら、石化してしまった広場に対する思いを全力でぶつけてやろうじゃないか……まさにそんな気分だった。

スレッドには5000近くものレスが付いていて、そのどれもが日常生活の不満や悩み、やり切れない思いをつづったものだった。中には懺悔ざんげに近いものまである。

そして、そんな迷える子羊にあがめられ、尊い存在としてそのスレッドに君臨する者こそ、『オカチ』だった。ざっとレスを見たところ、この主は『オカチ様』と呼ばれているらしかった。おそらく、たいそう立派なお返事をくださるのだろう。

スレが立てられたのは昨年の12月。安藤が期末テストに追われてヒーヒー言っていた頃のことだ。

「広場が機能しなくなってしまった件なんだけど、あんた何とかしてくんない?」

 安藤は軽率に言葉を並べた。この発言が、オカチ様を崇拝すうはいする者たちの逆鱗に触れたことは確かなようだった。

直後の書き込みはこうだ。

「“あんた”って、誰のことすか? え?w 誰のことすか?」

それは崇拝者からの書き込みだった。言葉づかいをわきまえなかったことが、どうやら癇に障ったらしい。その次のレスも、そのまた次のレスも、&を非難するような内容だった。

「彼は無知なんだ。とっても。だから許してあげなさい」

今までとは一変した内容のレスが付いた。投稿者はオカチだ。

 安藤にとって、オカチの登場はナイスタイミングだった。そうでなければ今頃、直前に浴びせられた「あっちけ」レスに対して怒り奮闘していたところだろう。「この洗脳者め!」など、色々。

「無知な者は救われない。よく心得ておきたまえ」

オカチは優越ゆうえつそうに続けた。

「広場についてだが、僕も人づてに聞いた。実際に行ってみたが、どうやら『広場が死んだ』という噂は本当らしい。この僕の書き込みさえ無視された」

「かの名高いオカチ様でさえ、手も足も出ないってわけだ」

安藤はバタコを見習って挑発した。案の定、崇拝者の怒りのレスが安藤に向けられた。

「死人に口無し……だ」

オカチの一言は、周囲でわめき散らす者たちを一掃いっそうするかのように力強かった。

「ああなってしまっては、もはや手の出しようがない」

「でも、どこかに手がかりがあるかもしれないじゃないか」

「あったから何なんだ?」

オカチの言葉は急に乱暴だった。それは、しばらく短いレスが続いた後のことだった。

「僕には関係ない。広場がどうなろうと、住民がどれだけ苦しもうと、そんなの知ったことか」

「オカチ様は万能じゃなかったのかよ。崇められた存在にしちゃ、ちょっとお粗末そまつだよな」

安藤は崇拝者に叩かれることを覚悟でそうレスした。だが、崇拝者からのレスはなかった。オカチが広場の件を放棄ほうきしたことが、かなりショックだったようだ。

「僕はこのスレッドの主。そして、来訪者の不満や悩みを聞いて、助言してあげるだけの存在にすぎないのだ。広場が停止した? そんなもの、サポートに任せておけばいいだろう。だって君、考えてもみなさい。僕に何ができる? 管理サーバーにハッキングして、内部を修復しろとでも? 冗談じゃない」

オカチの長文が続いたので、安藤は全部読み終わるまでに10回もまばたきしなければいけなかった。

「ん~……うん。そうだな。オカチ様の言うとおりだ」

安藤は文字を並べた。そして、言われてみれば確かにそうであったと、自らの行動を恥じた。

俺は何を期待していたんだ? たかだかオカチ様に、何ができる? だって、こいつはただのオカチじゃないか。

「悪かったな、オカチ様。無理強いさせちまって」

安藤はびを入れ、直後に書き添えた。

「でも、広場は俺の住処すみかだ。あめぞうを見つけた時からずっとそうだった。だから俺は調査を続ける……何か分かったらチャットに来てくれないか? 俺、大体はそこにいるからさ」

「ええ。気が向いたら行かせてもらいます。まあ、風向きしだいですけどね」

オカチの意味ありげな言葉を最後に、安藤はそのスレを立ち去った。まさか、あんな濃くて無謀なキャラを演じる人物が中高生板にいたなんて、安藤は夢にも思っていなかった。しかも、あれは明らかに板違いだ。

あめぞうりんく?は、前髪をかき上げれば実はおでこが広かったというような、まだまだ未知の部分を秘めたサイトだったんだ……安藤は胸の内で呟いた。

 

窓から見える住宅地の風景が夜の戸張とばりに包まれ、夜空に恒星のごとく輝く満月が顔を覗かせた時、安藤はもう一度チャットを訪れた。時刻は10時32分。チャットに人が集まる、絶好の時間帯だった。

安藤の狙い通り、チャット利用者は他に4人もいた。平日の夜にしては、比較的多い方だ。

「こん!w」

安藤の挨拶はいつも以上に威勢が良かった。

「こんばーw」

「こん」

「あ!」

チャットの挨拶、十人十色……様々な挨拶が安藤を迎えてくれた。特に極めつけなのは、最後の「あ!」で、投稿者はバタコ。

「ああ。さっきぶりだな」

安藤はてきとうに発言した。

「さっきぶりだねー! 元気してた?」

バタコは昨夜と打って変わって、やけに機嫌が良かった。どちらにしても、安藤にとっては都合が悪い。バタコと会話したところで解決の糸口が見つからないことを、うすうす察していたのだ。つまり、彼女との会話は時間の浪費ろうひにつながる。

「元気……さあ。そっちはあの後どうだったの? 荒らしとの戦い」

「勝ったよ、もちろん!」

バタコは揚々と即答した。

「誰かがね、『チャットで論争しよう』って提案して、サイトのURLを貼ったの。そうしたらそれがタチの悪いブラクラで、それからすぐに荒らしは逝った。でも、その代償は大きかったわね。激戦のせいで、荒らされる前より荒れちゃったから」

他のチャット利用者のうち2人(ノッチ、春)は&とバタコのように会話に興じていたが、余ったもう一人は完全にだんまりを決め込み、会話に混じろうとはしなかった。珍しいことではない。あめぞうチャットではよく見られる光景である。

「何か手掛かりつかめた?」

バタコが聞いた。

「全然ダメ。あの時のまま何も変わってないよ。よみがえる兆しさえないな」

「広場のこと?」

春と会話していたノッチが割って入った。ノッチも春も、安藤のことをよく知っていたし、安藤も二人のことを知っていた。ただ、あまり会話はしたことがない。

チャット利用者にも性格というものがあって、誰にでも気さくに声をかける人もいれば、ただじっと画面を見つめて、たまにしか発言しない者もいる。『ナリ』と呼ばれる荒らしに屈して、チャットから逃亡するか弱き乙女もいる。

安藤の場合は、みんなが楽しい時は楽しく、相談している時はつつましく、荒らしがいる時は徹底無視といった感じの、臨機応変りんきおうへんタイプだった。

「そう、広場のこと♪ &は広場を復活させようと探偵気取りってわけw」

バタコが陽気に答えた。

「&って広場の住民だっけ?」

ノッチは聞いたが、安藤が返事をする前にしゃべ始めた。

「俺は天てれ板によくいるんだけどさ、二ヶ月くらい前に、広場住民のコテハンがスレを乱立させて荒らしたことがあったんだよね。それからはみんな、広場住民には警戒するようになった。あいつらの中には俺たちを中傷する奴もいるから」

ノッチは安藤に気を使うことなく広場への不満を喋りまくり、尚も続けた。

「でも昨夜から今日にかけて、『広場が死んだ』とかいう噂が広まった。こんなこと言っちゃ悪いけど、正直ざまあみろって気分になったね。みんな喜んでたし、当然のむくいだって言う奴もいる」

安藤は呆然として返す言葉が見つからなかった。広場のことをこんなにも悪く思ってる人がいたなんて、信じられない話だった。

「あんた言い過ぎ! &は何も悪くないのに!」

荒らしとの激戦で経験値を積んだバタコに、燃え上がるような闘志が戻りつつあった。

「&に言ったわけじゃねえよ。ただ広場へのうっぷんを晴らしてただけだ」

ノッチはたじろぎ気味に言い返した。もともと気の強い男ではない。

「でも、&が広場住民って知ってて言ってたじゃない」

「はい、ストップ!」

&が二人の間に割って入って呼びかけた。自分のことで他人が口論するなんて、見ているだけでも気分が悪くなるものだ。

「俺、別に気にしてないから。誰にだってあるよ。そういう気持ち」

『気にしてない』は、他の誰でもない……自分自身へのうそだったのかもしれない。

 

今回のいざこざのせいで、ノッチとの関係は明らかに気まずくなった。

チャット利用者の間でこういったわだかまりが生じると、居心地が悪くなるのは過去の経験からも証明済みだった。現に、安藤はそういった者を幾人いくにんか見てきているのだ。それをきっかけにチャットに来なくなる者もいる。

バタコの行為が“余計なお世話”だったのは、火を見るより明らかだった。事を荒立てたのは間違いなくバタコで、ノッチの発言はむしろきっかけに過ぎない。だが、バタコは正義を示して安藤をかばった。それに、コテハンを使ってケンカ腰で立ち向かうのは勇気のいることだ。

自らの立場を犠牲にして他人を守る……それは愚か者のすることかもしれない。だが安藤は、そんなバタコの愚かな行為が、ちょっぴり嬉しかった。

0時を過ぎ、日が変わった。

広場が機能しなくなってから丸一日が経った。状況に変化はなく、復活の見込みさえない。

だが安藤の心情には何かしらの変化が起こっていた。バタコを腐女子ではなく、普通の女の子として見られるようになっていた。あくまでも、愚かな女の子として、だが。

気付くとこの数時間、安藤はバタコとの会話に夢中になっていた。それは、日常で誰もがかわすようなごく普通の会話だ。

 年齢は15歳で高校一年生。バタコの名の由来は、地声がアンパンマンに登場するバタコさんにそっくりだから。だが、性格はどちらかというとバイキンマンに近いらしい。つまり、諦めの悪い執念深い性質たちで、気に食わない相手にはどんな卑怯ひきょうな手を使ってでも屈服させる、半端に頭のキレる暴君、なのだ。

「うん、納得だ」

&は認めた。

 0時を10分ほど過ぎた頃、チャット利用者が3人から4人に増えた。元から利用していたのは、&、バタコ、会話に参加しない誰か。この3人だ。

「誰かいるのか?」

不器用な挨拶だった。投稿者はなんと……。

「オカチ!」

&と安藤、両方が叫んでいた。そのせいでディスプレイにつばが飛散ひさんした。

「どうしここに?」

安藤はシャツの裾でつばをふき取りながらもタイプした。だが、れない作業のおかげでミスタイプだ。しかもそれは、安藤の心の動揺をそのまま表現しているような様だった。

「&の知り合い? あたしはお初、よw」

「ああ、まあね。中高生板でちょっと話したんだ。で? 何か手掛かりでも見つかったのか?」

「もしかして、探偵さん。あなた助手でも欲しかったわけ?」

「いや、そうじゃないからwしかもその探偵っていうの、恥ずかしいからやめてくれ」

「そんなことより、あなたの助手が困ってるみたい。さっきから無口よ」

バタコの指摘がなければ、安藤はずっと気付かなかったかもしれない。あの挨拶を見る限りでは、オカチはおそらくチャット初心者だろう。しかも、『その不満、僕に言え!』スレッドから一歩も外に踏み出したことがない、といった様相をかもし出している。

オカチは、チャットという大空に羽ばたいたばかりの、雛鳥ひなどりそのものだ。

「ここに来た理由は他でもありません」

オカチは冷静に切り出した。まるで、&とバタコの会話など眼中にさえ入らなかった、といった口ぶりだ。

「何なのよ、もったいぶっちゃって!」

オカチが次の書き込みをするための空白の時間を使って、バタコがもどかしそうに発言した。

その直後、オカチからの投稿があった。安藤は目を疑った。

「0時を過ぎてから、中高生板に書き込みができなくなってね。これはもしかして、と思った次第です」

安藤は返事の代わりに別窓を開き、中高生板に駆け込んだ。

オカチの言うとおりだった。リロードしても画面に変化は見られず、書き込みは全てはじかれた。0時を過ぎてからの投稿レスは皆無。

あの時と全く同じ衝撃がキーボードを通して安藤の指先に流れ込み、全身を満たしていった。言い知れぬ不安、目に見えぬ恐怖、希望をくじく虚無感きょむかん……その全てが闇となって安藤の心をおおった。

中高生板が死んだ。

 

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